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岡三郎君
もとへ戻りますが、考え方として
賞与金ということではなくて、ある程度働いた者に対して
賃金を払ってやる、まあそういう中から
——監獄へ入ったらば
めしはついて回るということではなく、働く者に対する
賃金は
賃金としてある程度払ってやって、そうして
食費とかなんとか、そういう
経費というものを、そこから差っ引いていく。つまり
自分の働きということによって
監獄の中においても生きていくんだ。働いても働かなくても、
めしだけは食わしてくれるんだ、そうではなくして、中へ入っていても、とにかく
自分で
作業をする、仕事をする。それが外へ売れていく。それによって、
自分として
食費をその中から差し引いて払っていくというふうな習慣づけをすること自体、私はいいのではないかという気がするわけです。とにかく
監獄に入っている者全部が悪いことをしたといっても、中には
真人間に立ち返る
人間も相当いると思う。これが期待されないといかぬと思うのです。悪いことは一生これは悪いんだということではなくて、ある程度やっぱり
人間の立ち直りということをやはり考えていかなきゃならぬと思うわけですが、そういった場合に
作業というものを正当にやはりある程度評価して、そうしてそれに伴ういろいろな
支出についても責任を持たせるというふうな角度の取り扱いといいますか、そういうものがやはり積み重ねられていって、
社会に出ていく場合においても、
自分が使ったものについては払っていくという
一つの習慣づけというものを、やっぱりやる必要があるんではないかという気がするわけです。すべてが悪いとは言い切れないと私は思う。あやまって罪を犯す者もあるわけですしね。そういうふうな点について、とにかく
法務大臣が先ほど言ったように、最高が一時間六円で、二類の最低のほうは八十銭ということでは、これは結局働くことはもう適当に、また出てからも適当にというふうなことで、どうも非というものに対して更生していくという、そういう点の要素が
明治以来六十年の
監獄法の中にはないんですね。民主憲法が制定されて以来、新しい時代の脚光を浴びている中で、何も甘やかせと言っているわけではない。しかしそれ相当に働くということに対して認めていく。報奨ということではなくして、それに対する
一つの対価としてある程度
賃金を払ってやるというふうな方向をもって指導していくということが必要ではないかと特に感ずるわけですよ。この点については、先ほど
法務大臣が、まああまり浮き世離れしているということで増額を要求したが、どうも増額のあとを見ると、先ほど言ったように、五円五十銭が六円になり、九十銭が一円になったということでは、これは増額の増の宇が泣くわけですね。だから、これはやはり全面的に
改正して、やっぱりこういうふうな点についてはある程度
人間を更生していくために、たとえば、まあ刑期を終えて、二年なり三年なりたって出て行く者は、やっぱり何万円かの金を持って出て、それを
一つの足がかりにして何とか生業につくというふうなことにならぬというと——
現状においてはやはり
監獄を出た者を、
社会がこれをあたたかく迎えるということは、なかなかむずかしい問題がある。すぐ金に詰まってしまう。こういうことはまた犯罪を犯すということにも私は直結するのではないかと思う。少なくとも出所して一カ月ないし二カ月ですね、やっぱり生業に向いていく場合に、ある程度その立ち直り
資金というか、そういうふうな問題について
法務省自体としてもきびしく取り締まるということではなくして、立ち直り
資金というふうなものについても十分配慮して、そうして働く意欲というものをやはり
刑務所内においても持たせるという方向でなければならぬと思う。これは涙金ですからね。だからあくまでもやはり立ち直りをさせるということに根本趣旨を置いて、仕事のほうもやはりいい腕をつけて
社会に出してやるというふうなことを考えるべきだと私は考えます。こういう点で、最後に
法務大臣、この点については答弁だけではなくして、明年の夏ごろには
一つのめどがつくということでございますから、ひとつこういう点も十分勘案して、更生さしてやる。腕をある程度つけて、出てからすぐに金に窮するのでなくして——また悪いところにいく者があるかもしらぬけれども、その中である数の
人間は立ち直っていくというチャンスをつくるというために——このチャンスの金も
自分で汗をかいてつくっていくというふうな中において、そういう金が出てくる。恩恵的にもらうのじゃなくて、
自分で働いた金なんだということで
社会に再出発するというふうな方向づけというものを私は示してほしいと考えるわけです。この点について
法務大臣の答えを聞いて終わります。