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参考人(
砂子俊雄君)
会社の赤字原因についての私たちの考え方ですけれども、実は四十二年の四月から、これまでのしきたりを変えて新体制ということで出発をするのだと、こういう話が解散の直前にあって、そういう体制で出発をしたわけですけれども、実際に私たちが新体制とは一体どういうことなんだと聞いても、私たちが納得するような
会社の
回答はありませんでした。少なくとも私自身は納得できなかったわけです。それで地裁の中での岩本証言ですが、当時まで
工場長をしておった人です。この人が地裁の中で証言をしているところによると、もちろん新体制の
——この人は原案者のわけですけれども、
一つは、新体制は労務対策だということを明言しております。それから私たちは当時、
昭和四十二年の春闘ですか、いつでも
労働条件を解決するということになると、個々の
工場ごとでは解決ができませんので、
川岸工業と直接話し合ったり何かして解決をしてきたというのが実態でございます。先ほど
社長の言っていることを聞きますと、私は
団体交渉をやったことがない、そういうことを言っておりますけれども、まあこれはいかようにでも言えると思います。しかし労働
組合法や何かからのっとって私たちが考えるならば、労使が対等の
立場で二人以上そろった場合には、これは
団体交渉ということで言っても差しつかえない、私はこういうふうに考えているわけです。先ほども問題になりました
昭和三十九年の年末一時金の問題ですけれども、あの
文書にもありましたとおり、
社長からああいう正式な
共闘議長あてに
文書回答がまいりまして、
川岸工業の
九州支店において約一カ月近くかかって解決をしたわけです。もちろん
団体交渉も数回行ないました。これには
社長みずから
出席してくれました。それから
組合側は
川岸仙台、
川岸千葉、
川岸小倉、
川岸牧山、ここの大体代表者が参加をして行なわれたわけです。それで十一月中大体四、五回にわたって
団体交渉を
九州で行なったわけですけれども、解決を見ませんでした。それで、
社長の都合で東京において
団体交渉をやろうということになりまして、十二月の初めに
川岸工業の東京本店応接室において、大体十二月の四、五日ごろじゃなかったかというふうに私は記憶しておりますけれども、
川岸の
工藤社長と私たち各
工場の代表が話し合って、年末一時金の解決をいたしました。
それからもう一点申し添えておきたいのは、実は三十八年、私たち
組合を結成したのが三十八年の八月九日でございますけれども、それで一番最初に私たちが
会社側とぶつかったのは
昭和三十八年の年末一時金闘争でございます。これにはいろいろ難航しましたけれども、最終的には十二月の二日、
川岸本社のほうから
工藤社長、それから先ほど
社長のほうからも
回答がありました
福島専務、これは
社長の
娘婿だそうでございます。それから
矢作常務、この三名が
仙台に乗り込んできまして、解決をはかったわけですけれども、その当時の宮城県評
議長は本日いろいろと質問をしてくださいました
戸田先生でございます。いろいろ
団体交渉が難航した中で
戸田議長にももちろん入っていただきました。県評三役全員に入っていただきました、ですから、このことのいきさつの経過については、
戸田先生が私たちと同じようによく御承知だろうというふうに考えております。それでこのとき
会社側から金額と同時に出された
条件がございます。それは、これまでの経営しておった
今野との
関係で、
今野が
仙台工場から別なところへ移っていくという段階になりまして、その当時工務課長をしていた高橋利一郎というのがございました。
あとで
仙台工場の
役員になりましたけれども、それで
社長の話は今後高橋利一郎を
工場長としてみんながここの
工場に残って働いてくれるならば、全員を
川岸工業の社員にすると、こういう話を
社長みずからされたわけです。それで私たちは、そういう
条件をのんで、金額的に不満でしたけれども、一応三十八年の年末一時金を終結しました。それでそういう経過の中で、これも先ほどいろいろ出されてきていると思いますけれども、
戸田先生のほうから御指摘ありましたが、
川岸工業本店
総務部から
仙台営業所長あてに発送されました「永年勤続者表彰品送付について」、この
内容ですが、
「標記の件に関し下記の通り本日書留小包にて送付いたしました故表彰方宜敷く願います。なお
仙台工場従業員については、起算日を
川岸工業(株)が
仙台工場の全株を引き継いだ年から起算されますので本年度は表彰該当者がありません、念のためお知らせいたしておきます。
記
1、勤続十周年記念品 アルバム 一冊
受表彰者 高山尚三
2、勤続十五周年記念品 時計 一個
受表彰者 永渕日義
以上。」
これが
昭和四十二年の三月十八日に、いま冒頭に読み上げたところから
仙台営業所に対して発送された
文書でございます。したがって私が申し上げたいのは、この
文書と
昭和三十八年の十二月二日に
川岸工業の
工藤社長が
仙台に乗り込んできて、一時金の解決にあたって出した
条件と全く私は一致するものだというふうに考えておるわけでございます。それから私たちが当時四十二年の春闘は三日半のストライキをやって三千七百五十円で妥結をしました。もちろん地域においては低いほうでした。そういうことがあった後、管理職は約十名の賃上げを行ないました。大体全員で十名だったと記憶しております。それでその人たちの賃上げにつきましては、驚くなかれ平均二万一千円以上の賃上げを行ないました。これについても当時の
坂本常務からこういうことで管理職の賃上げをするんだということで、当時私は執
行委員長だったものですから、裏か表かわかりませんけれども、以上のような
内容についての
文書が
坂本常務から手渡されました。私たちは、私たちの賃上げを三千七百五十円に押えておきながら管理職だけがお手盛りでもって二万一千円以上の賃上げをするということについては納得できない。そういうことで直ちにこの
文書のガリ版刷りの増し刷りをやりまして、全
組合員に配付をして討議をさせました。そういう経過もあります。
それから、もう一点は、
会社が解散理由としてあげてきたのは、累積赤字でやれないんだということが
一つ。それから四月、五月の収支決算で赤字なんだ、それでやれないんだ、こういうことを言ってきていますけれども、これもこの四月、五月の収支の
状況については実際には岩本
工場長が証言しておりますけれども、黒字なんだと、こういうことを言っています。それから金額から見れば絶対にやっていけない数字ではない、こういうふうに証書をしております。
それから、これも先ほど話が出されておりますけれども、
昭和四十一年の暮れから、
社長発言にも先ほどありましたように、
仙台工場にはだれを送り込んでも
工場長としてつとまらないという話がありました。そういう中で私の実弟を送ったんだという話が先ほどありましたけれども、
昭和四十一年の暮には当時
九州支店の支店長、
川岸工業の
専務取締役、こういう
立場にあった
工藤憲男、
社長の実弟ですけれども、この人が突然
仙台にあらわれました。それで私たちは何しに来たのかわからない、あるいはどこの人かわからないという中で、具体的に
仙台工場に対して執務命令を発するようになりました。
あとでわかったことですけれども、この人は
昭和四十二年の二月から
仙台工作の
代表取締役ということで届けられているようです。したがって四十一年の暮れから四十二年の二月までは
仙台工作にとっては何ら
関係のない人であったわけです。そういう人が
従業員を食堂に
——堂に集めて訓示をしたり、あるいは
川岸の営業方針というやつを押しつけてみたり、そういうことをやっておったわけです。で彼の営業方針の中には、
一つは
工場をからにしても下請の育成を行なう、それがそのとおり実行されました。
工場には
仕事は入れられませんでした。それでどんどん下請にばかり
仕事が回された。木工は草むしりやあるいは土方のような
仕事をさせられながら、
会社に出てきている。下請工、社外工は本工にかわって
工場の実際の建築構造の
仕事に取り組んでおった、そういう実態もあります。それから
仕事のひまなときに
工場の大改修を行なう、こういうことも営業方針の二つ目として出されております。
ここでお聞きをいただきたいのは、
川岸工業が当時まで一億六千万ぐらいの累積赤字を出している、それから四月、五月に収支が赤字でやれない、そういうことを言っている
仙台工場がはたしてこの二つの営業方針を実行に移すことが可能なのかどうなのか、この点も十分ひとつお考えをいただきたいと思うわけです。
したがって、これらの点をすべて総括的に私たちは判断をいたしまして、やはり
組合追い出し
——これは
社長が
昭和四十二年の十二月二十二日、これは地労委立ち会いで私たちが行なった
団体交渉、
社長から言わせれば
話し合いですが、この中で明言をしておりますけれども、おれは全金はきらいだ、おれは労働
組合はきらいだということを言っております。したがって、こういうやはり
川岸工業の一連の労働
組合に対する考え方そのものから
仙台工場の閉鎖、いわゆる擬装閉鎖が行なわれてきたというふうに私は考えております。
それから、解散後
組合員はどうやって生活をしておるか、こういうことでございますけれども、先ほど私も若干触れさせていただきましたけれども、
一つは同業者のところに、同じ鉄骨の業者のところにお願いして、大半の
労働者を仮就職という形でいま使っていただいております。賃上げにつきましても、あるいは一時金の支給につきましても、今日まで私たちが
川岸と
交渉しては獲得したことのないような金額を、もちろん時代も流れておるからあたりまえだと思いますけれども
——しかし、たかが一年やそこらで倍以上あるいは三倍ぐらいになった人もおります。そういう
賃金と一時金の中で現在いま仮就職を続けております。それからある一部の者は全国をまたにかけてワカメの行商販売、あるいはこけしの行商販売、衣類、食料品、そういうものを全国の組織を通じていま行なっております。もちろん北は東北から南は北
九州のほうまで行っております。そういう形で行商を続けておりますけれども、なかなか思うような実績はあがりませんけれども、しかし利益本位じゃなくて、私たちはこの闘争を勝ち抜くためにその日その日の生活さえ支えればいいんだと、こういう観点でみないろいろ一生懸命にやっております。
それから県と市からの援助の問題でございますけれども、先ほどこの点について
戸田先生からも具体的に数字が並べられました。で、私たちは、この
工場誘致条例ということで、地元産業の育成あるいは宮城県民の利益を守るという
立場に立って
工場誘致をした
工場が、こういうかっこうで一方的に
工場を締め出して引きあげていって、はたして県としてどういうふうに一体考えるのかということで、再三にわたって私たちは県知事と
話し合いをしました。で、県知事は、こういう非公式の場で君たちと話し合っても君たちのためにはならないだろう、したがって、間もなく議会が開かれる、そういうところの中で公式
発言ということで私は
発言をしたい、そういう約束も再三されて、いろいろ議会の中で答弁をしております。解散については全くおかしい、これはあくまでも
川岸工業自体の問題だ、したがって、県としてもいろいろ
工場誘致の
関係で
責任があるので、県のあらゆる機構をあげて
労働者のめんどうをみていく、こういう公式答弁もされたわけであります。で、私たちは、こういう県知事の答弁に基づきまして、各担当部課長と
交渉を重ねまして、先ほど
戸田先生のほうから明確に示された百万あるいは百二十万、そういったような全額の生活資金の援助を得てきております。それから
仙台市長についても同じことでございます。それから塩釜市においても私たち、先ほどワカメの行商販売をやっていると言いましたけれども、何せ私たちは、いろいろ先どほから申し上げているような
状況の中で今日を迎えておりますので、仕入れ資金にも困るわけであります。したがって、
仙台市あるいは塩釜市に働きかけを行ないまして、何というのですか、生業資金ですか、それの借り入れも
申し入れまして、それらについても御協力をいただきましてワカメの資金、こけしの仕入れ資金に充てて今日まできております。それからその他の市長村の問題についても、私自身小さな町へ、そこの地域に当該
組合員がいる場合は出かけていって、町長なんかに直接実情を訴えて協力要請を行ないました。で、私たちの実態をよく
理解をしてくれまして、あるいは知事答弁あるいは市会における市長答弁等によりまして、どこの市町村においても、町長は好意的な
立場で私たちの要望を受け入れてくれました。具体的には、年末一時金の生活資金として一人二万円あるいは三万円というような形で、今日までは援助を得ているわけでございます。
それから一番最後の、
組合の代表としてのあなたに伺いますがと、こういうことで、いま
組合員や家族は何を望んでおるかと、こういうことの御質問だったように考えますけれども、これらについては、私たちとしても今日まで数多くの家族会あるいは
組合員との折衝を持ちまして、いろいろ考えてきたところでございます。本日も三名の家族が東京のワカメ売り等をかねまして来ておりますので、そこの傍聴席にも入っておりますけれども、こういう方にもいろいろ話を聞いてみますと、何としても
工場再開はしてもらわなくちゃならない、そうでなければ、今日まで私たちが戦ってきて、こういう
工場誘致条例というものの中で、私たちが生活をしてきて、こんなかっこうでもって一々
労働者を足げにされて引きあげられたら、
労働者の首は幾らあっても足りない、それから生活はもちろん成り立たない。したがって、どんな
条件といっても
——これはやっぱり再開をしてもらうためには、私たち食っていかなくちゃならない、あるいは働いていかなくちゃならない問題があるわけですから、今日までのような
労働基準法も守られないとか、
賃金も払われないとかいうようなことでは、非常に問題があると思いますけれども、とにかく家族や
組合員はぜひともひとつ再開をさせなければならない、こういう声がいま一番強いわけです。それから
賃金につきましても、あるいは
退職金につきましてもいろいろ今後も問題はあるだろうし、再開というときになれば、新たなやっぱり観点からの、これらの問題についての
話し合いなり何なりが必要であるとは思いますけれども、当面とにかく、いままでいろいろ苦労してきた生活の
状態のことを申し上げましたけれども、どうしても働いた
賃金を払ってもらわなくちゃならない、こういうふうな考えでおります。でまあ、私たちは、この
賃金が払われていないということについて、非常に私は何というのですか、ふんまんやる方ないわけです。なぜならば、これは今日までも
和田基準
局長と私、数回にわたって会って話をしておりますけれども、いま日本は法治国ということばがよくいわれるわけです。けれども、しかし
労働基準法は一体、どうなのか。いま私たちと同じように
工場が閉鎖され、
工場からおっぽり出されて、
賃金はもとより、
退職金も払ってもらえないという現象がますます強くなろうとしており、現在も多いわけです。こういうことの中で
労働者の最低
条件を保護するという
労働基準法さえも守られない、このことについては全く私は納得できない。再三
和田さんにもこの点を指摘をして、とにかく
責任を回避することなく、どうかひとつ
労働者保護の最低の
法律だけは守ってほしいということを強く申し上げてきておりますけれども、今後ともひとつ絶大なる御協力をお願いしたいというふうに考えているわけです。
で、私は過去、二、三年前に
労働者の安全指導員という肩書きを拝命いたしました。そういう
立場でいろいろ私も
労働者の安全対策のために微力ではありますけれども努力をしたつもりです。しかし、これらとて予算が何もされていない。これも
和田さんにたびたび申し上げております。予算のないところでの活動はおのずから制限をされる、そういう中で、今日激増している
労働者の安全問題について、安全の撲滅をはかろうということでは、私はナンセンスだろうと思う。もちろん私は、予算化のされてない中で、一日五百円ということでした、日当が。一割引かれて残り額がもらえるわけですけれども、その中では交通費はおろか食事代も出てこない。したがって自分の車で、むしろ逆に基準局のお役人さん方や何かを自分の自家用車に乗せて、遠方まで安全問題の指導に行ったわけです。これが、実態であります。
で、私の申し上げたいことは、銭がほしくて申し上げているのじゃない。私は銭がほしければ、もう少しましな
仕事があるのだろうというふうに考えますけれども、いまやはり
労働者に振りかかる問題は数多い。あるいは労働災害にしてもますます激増の一途をたどっている、こういう時期にあたって、私たちは、何とか微力ではあるけれども、こういうものの改善にあたっていきたい、こういう心境から引き受けているわけですけれども、いま申し上げたように銭金の問題もさることながら、一々私たちの行動については制限がされる。どこかで死亡事故が起きた、あるいはどこかで大きな事故が起きた。こういうことであっても
——見るにしても、自分たちはそういう肩書きをもって直接職場に入っていって指導することができない、実態調査をすることができないというのが、今日も行なわれている労働省の労災安全対策なのです。こういう実態の中で、いろいろあるだろうと思いますけれども、ぜひひとつ労働省としても、監督署としても、いままで申し上げた点を確実に履行されるようなことで、御指導なり取り組みなりをしていただきたいと思うわけです。先般、聞くところによると、いま申し上げた
内容の中で、やはり監督官かなんかが今年度は二十五名ふやされるという予定であったけれども、機動隊五千名のほうに予算が削減をされて、ことしは一人も増員されておりませんという話も聞いております。