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参考人(村山雅美君) 村山でございます。
南極観測に多大の御関心を示され、その一端といたしまして、きょうこの席にお招きされましたことを感謝いたします。
御承知のように、
南極観測も再開以来四年になりまして、その基盤は非常に固く、地道に進んでおります。
南極観測の再開にあたりまして、次の三つの点をその大きな項目といたしました。
その第一は、日本の持ちます昭和基地をして、恒久的観測基地たらしめるということ。と申しますことは、再開以前の、いわゆる「宗谷」時代でございますが、そのころの昭和基地におきます
南極観測は、いわば恒久的というものではなくて、臨時的に何年、二年、三年と、その間六回を数えたわけでございます。しかしながら「宗谷」の輸送力の問題等が
原因となりまして中断されたわけでございますが、再開にあたりましては、昭和基地をして恒久的観測基地たらしめる、これが第一の考え方でございました。これにつきましては、第七次で再開したわけでございますが、第七次、第八次、また第九次、現在おりますのは第十次でございますが、その四年次の観測隊によりまして、昭和基地の機能は諸外国に比して決して遜色のない地位を占めております。
それから観測再開の第二の項目といたしまして、昭和基地の立地的条件から見まして、その内陸が非常に奥が深いわけでございます。昭和基地は南極点を中心といたしまして比較的遠い距離にある。すなわち、南極点から見ますと北のほうに偏しております。しかも、その間は、東南極大陸と申しまして、南極大陸を二つに分けて、西南極大陸、東南極大陸と申しておりますが、その東南極大陸の非常に大きな内陸を昭和基地の背後に控えている地点でございます。と申しますことは、非常に大きな内陸を控えております
関係上、各国ともその
調査は進んでおりません。日本が閉鎖をしている間に、わずかに、ソ連あるいはアメリカが東南極大陸の
調査に、そのまなこを向けつつあったわけでございますが、いまだに、その
調査、未
開発の地点が、ほかの地域に比べて比べものにならない大きなものがございます。そういうような広い範囲、具体的に申しますと、日本は、東経の線で見ましても、東経三十度から東経四十五度までの間に、極点を中心としました扇状地帯を観測の受け持ち範囲としております。この広さは、おおよそ日本の二倍以上の面積になるわけでございますが、この間が、ほとんど内陸の
調査が進められていないわけでございます。
そういうような地域を控えておる昭和基地の現状から見まして、ぜひとも、日本の観測基地として、極地の観測と、一方、昭和基地の内陸の
調査が必要であるということが考えられます。そのために、第七次以来、内陸
調査について、過去の観測隊以上に積極的にその方針を進めてまいったわけでありますが、その
一つの基盤といたしまして、まず、昭和基地から南極点まで、大きく、いわゆる巨視的に、マクロに
調査を進める。さらに、その線上において面の
調査、あるいはもっとミクロの
調査、いわゆる精査の
段階に入るべきものと考えまして、まず、マクロの
調査の基本線としまして、昭和基地と南極点を結ぶ
調査旅行、すなわち、これを極点旅行と通称しておりますが、これを試みようと考えたわけであります。これが、第七次以来、雪上車その他の
開発が進みまして、第九次においてこれを行なうことを、文部省にありますところの南極統合
推進本部の
許可を得てやったのが経過でございます。
第三に、昭和基地をして観測基地たらしめると同時に、昭和基地のある
場所が、御承知と思いますが、オーロラの一番激しい
場所、いわゆるオーロラ帯の直下にございます。そういうような立地条件を
利用いたしまして、昭和基地からロケット観測を行なう。すなわち、第十次、今年行っている隊が第一期の工事を進めます。この工事に続きまして、来年の夏には第二期の工事をいたします。これによりまして、明年は、夏の間でございますが、二発のロケットを上げまして、オーロラ帯の直下にあるという昭和基地の立地条件を
利用いたしまして、地球物理学的観測を進めたいと考えております。第十二次隊でございますが、この豚は、越冬中に十二発のロケットを上げまして、いわゆるオーロラの輝いているそのどまん中にロケットを上げて、さらに、先ほど申しましたような地球物理学的観測を進めていく。
この三つ、先ほど申しました昭和基地を恒久的にするということ、それから内陸
調査に大きな力を注ぎ、その
一つの大きなあらわれとして極点旅行を
実施する。三番目に、昭和基地をロケット基地としての活躍を今後行なっていこう、この三つを再開の旗じるしとしたわけでございますが、前の二つは極点旅行をもって一応
実施できた。第三のロケット観測につきましては、その見通しを確実にした。こういうのが現在の昭和基地あるいは南極における日本の立場の現状でございます。
ただいま御指名のありました第九次の観測といたしましては、それ以外に、次のような特徴を持たしておりました。第一には、南極というかなり寒いところでございますが、寒い南極の中の
海洋観測を行なう、あるいは生物観測を行なう。その
一つの方法として、第九次隊に、夏の間でございますが、二人のダイバーを養成して、南極の海にダイバーをもぐらして、
海洋の
調査、生物の
調査を進めたのが第九次隊の
一つのアクセントでございます。第二番目に、昭和基地を恒久的観測の基地としての充実をはかる。これは第八次以来継続的に行なったわけでありますが、昭和基地をして観測基地としての機能を十分に発揮させるように
整備されたということ、これが二つ目でございます。三つ目には、極点旅行を
実施する。この三つを掲げまして、一年余にわたって二十九名の者が越冬し、かつ、この中には、初めての試みといたしまして、新聞協会から派遣された朝日新聞の記者が同行して、その生活を共にし、観測状況、生活状況、これについての取材を許したわけでございます。おかげさまで、以上の三つ、ないし新聞報道の点を含めて四つの点につきましては、ほぼ当初の計画どおりいきまして、三月の二十六日全員無事に帰ってきた次第でございます。
特に、越冬中一番大きな
仕事として考えておりました極点旅行につきまして、お手元の資料に従いまして、概略御
説明させていただきます。
この旅行は参加人員が十二名ということで
実施したわけでございますが、残念ながら、基地を出て百五十キロ余りの地点で、越冬隊員の遠藤八十一隊員が、雪氷に使いますドリル、これはちょうど町で電信柱を埋めるときにやるドリルでございますが、それに引きずられて腕を折りまして、基地に送還いたしました。したがって、その残り十一名をもって極点旅行を
実施したわけでございます。
この極点旅行の
実施にあたりまして、問題は、まず三つの点にございました。
その
一つは、いままで
南極観測におきまして、ソ連、アメリカ、イギリス各国とも、内陸旅行は非常に積極的にやっていたわけでありますが、われわれのような場合、飛行機を持っていない日本の場合、一夏でこれだけの距離を行なうには相当な危険が、あるいは無理があったわけであります。すなわち、一夏約六千キロの道を往復しなければならないために、夏のまだ来ない九月の末に昭和基地を出発いたしました。この早い時期ということは、まだ大陸に太陽が上がりきらない寒い時期でございまして、同時に、風が強い。いわゆる地ふぶきに悩まされる時期でございまして、そういうようなことがある程度
原因になり、この遠藤隊員のけがもあったわけでございますが、また、昭和基地から奥に入るに従いまして高度が高まるということ。
すなわち、時期の早いということが第一とすると、この第二の問題として、この旅行の高度が問題になる。東南極大陸は、南極大陸としても非常に高い地域でございまして、およそ四千メートルの高地がある。この高地を寒さの中で越えなければならないというのが二番目の難点でございます。
さらに、先ほども申し上げましたように、昭和基地から南極点までは約三千キロの距離がある。これを往復六千キロを走るためには非常に長い時間を要する。距離六千キロに要する時間は五カ月、そういうようなことで、時間的にあるいは距離的に困難を予想のもとに出発した事情でございます。
しかしながら、結論から申しますと、われわれ非常に好運に恵まれておりました。と申しますことは、その極点と昭和基地を結ぶちょうど中間の地点、ここにアメリカのプラトーという基地がございます。この基地の標高が三千六百二十四メートルでございますが、この基地が、幸いにも一年の間その活動を延期しておりました。すなわち、ことしの一月三十一日まで、人間、資材、あるいは基地としての運営を続けておりました。これがありましたために、その基地をして、補給基地あるいは休養をとる
場所ということに
利用できました。これは、第八次隊がこのプラトー基地までの道をつけてあります。そういうようなことを最大限に
利用いたしまして、われわれの極点までの道は、当初非常に困難はございましたが、極点に近づくに従って、その困難は少なくなってきた。そういう思わぬ好条件に恵まれたわけでございます。
お手元の資料の二ページ目に旅行日程が出ておりますが、極点までは、プラトーにおきます補給あるいは米軍との
国際協力による援助、こういったことが非常にうまくできまして、極点には、去る十二月の十九日、予定どおり到着したわけでございます。帰路は、夏の間に一番悪いところを――すなわち、ちょうど富士山と同じ高さの
場所がございます。一番うしろに地図が入ってございますが、プラトー基地の少し右上のところに、仮称富士峠という名前がついてございますが、これがちょうど富士山の高さに近い三千七百五十メートルという地点がございます。この地点を冬の来ない間に帰りは越えてしまおうと行程を急ぎまして、一月の末にこの峠を越えまして、二月の十五日に昭和基地までたどり着いたようなわけでございます。
その前に、まず、この観測旅行をするにあたりまして、第三の項目でございます、観測項目をあげております。これは
わが国独特のものもございますが、おおむね各国が同じような方法でやっておりますものをやろう、そうして最後にこのデータをつき合わせまして南極全体の観測結果を総合する、そういう趣旨にのっとったものでございます。位置測定、高度測定は、すべての観測の
基準になるものでございまして、その他の、地形、雪氷の
調査、あるいは地磁気の測定、あるいは空中電波の観測、VLFと書いてありますが、非常に短い波長の電波観測でございます。そのほか、医学観測、こういったこともおおむね予定どおり
実施できました。
その
実施できました
一つの理由といたしましては、われわれの用意いたしました車が非常によく動いてくれたということでございます。この車をつくるにあたりまして、もともと南極点を
調査する、いわゆる極点旅行に向く車ということで、昭和四十年以来進めてきたわけでございますが、次の四つの点をそのねらいとした車でございます。
すなわち、四つのステピュレーションを満たした車でございます。その
一つは、マイナス六十度、夏といいながらマイナス六十度の低温に遭遇しても動かせる、マイナス六十度でも動かなければならないというような性能を持っておる車――これは、われわれ旅行中、マイナス六十度の気温を経験いたしまして、その性能は十分満足することができました。
二番目に、昭和基地から極点までの間に四千メートルの高地があるであろうという推定のもとに、四千メートルの高度でも動ける車、すなわち、スーパーチャージャー、過給機、こういったものをつけまして、エンジンをつけて寒さに耐え得る車である。これも、富士峠、三千七百五十メートル余りの峠を越えまして、一応その点につきましても性能が確認されたわけでございます。
三番目に、先ほども申しましたとおり、距離といたしましては六千キロ以上はあるので、少なくとも六千キロに耐えるだけの耐久性能が、なければならない、この点でございます。
以上申しました、寒さの問題、高さの問題、あるいは耐久性の問題、これは、日本ににおいては、いわゆる実地にテストできないものばかりでございます。これを、内地の諸
機関あるいは諸会社の援助を得ながら、いわゆる実験的には実地の実験はできませんが、データといたしましては確信を持ってこの車をつくり上げたわけであります。
前後いたしますが、四番目の性能といたしまして、この間約五カ月の期間を要します。それに加えまして、先ほど申しました観測項目を観測するための諸観測機械あるいは内地との連絡等に使います通信機、そういった観測機械あるいは通信機械等の搭載に耐え、人間としての生活にも耐え得る、いわゆる人間工学的な見地からの要求を十分にいれなければならない。そういった点もわれわれ、結論から申しますと、十分この性能を果たし、要求性能をあげました。四つの点をりっぱに果たした。すなわち、日本の工業力あるいは産業力というものを、日本でテストできないものを現地で十分にその成果をあげ得たということを非常に喜んでいるわけであります。
以上が大体観測旅行のあらましでございますが、この間、二、三の点を申しますと、寒さにおきましては、一応気温のほうではマイナス五十九・二度、これは十一月八日に経験いたしております。また、高度におきましても、先ほど申しましたように、三千七百メートル余りのところを越えているということ。また、各国とも必要であるところの氷の厚み等の
調査につきましては、各国同様、地震法による音波の測定による氷厚の測定、また、重力の測定によりまして、いわゆる地盤との相違を考えながら氷厚を測定するという方法、三番目には、アイスレーダーを使いましての電波による測定、この三つの方法を総合いたしまして、南極大陸をおおっております大きな大陸氷の成因を明らかにしようとしているのであります。
われわれ無事に極点旅行を終えて帰ったわけでありますが、実は、これから極点旅行の問題をかかえ込んでいるわけであります。と申しますのは、幸いにして得られました膨大な資料、これの解析あるいは発表、これが残された大きな
仕事でございます。おそらく一年余りの年月を要することだと思いますが、これを終わらせなければ極点旅行は終わったという気持ちはまだ毛頭ないわけでありまして、これからがわれわれの
仕事だというふうに考えております。
それにしても、この機会を
利用させていただきたいと思いますが、そういった観測成果を取りまとめる
機関が実はないわけであります。いま、われわれは、そういった観測
機関を一応科学博物館の極地
調査部というところにまとめておりますが、人間は、よそから来た者を置いて、観測が終われば、また元の職場に戻ってしまう。いわゆる民間の会社の者は言うに及ばず、人間的に資料的に、中央にまとめることがむずかしい。したがって、十分な解析、十分な
利用ということに非常に欠けるところがある。これを
実施するために、ぜひとも、中央におきます
実施機関、つまり、極地
研究所という名前で各国で呼ばれておりますが、こういった
機関を早急につくっていただきまして、より効果的な結果を生むことをぜひお願いしたいと思います。
たいへん簡単でございますが、あとは御質問ございましたら、お答え申し上げます。