○
松本(忠)
分科員 相当に
調査の期間が長いわけでございますが、これはそのまま放置しておくということは断じて許せないと思います。一刻も早く問題の解決に当たっていただきたいと思います。付近の住民の方々は、
法律に対して不信を抱いております。言うならば、泣く子と地頭には勝てないとか、長いものにはまかれろとか、そういうふうな、法治国家にはあるまじきことがみんなの口からささやかれたりするようでは、まことに残念だと思う。法の番人であるところの
法務大臣、あるいは
人権の尊重について最も苦心をされる
人権擁護
局長が、こういう問題に対して積極的に取り組んでいただきたいと私は思うわけです。
この
事件、若干時間がかかるかもしれませんが、非常にあくどいやり方なので、一応聞いておいていただきたいと思うわけです。
東京都板橋区の仲宿町五十二番の二十八号というところにございます国有の道路、これは非常に古く、大正二年七月の二十五日に民間から陸軍に献納されたものでございまして、この道路は旧中仙道から陸軍憲兵隊分駐所へ通ずる道路でございました。軍におきましては、道路に面した両側の家屋には木戸をつくらせて、出入りを許可しておりました。さらに
昭和十五年、旧中仙道に通ずる憲兵隊の門柱のとびらを撤去して、住民の交通の便をはかっていてくれたものであります。ところが、千崎関吾という方が、
昭和十九年に憲兵隊の隊長として着任してこられました。
昭和二十年敗戦と同時に、この道路に面した居住者は、引き続き前記道路の使用が可能なように、署名、請願をいたして、居住について何の
心配も起こらなかったわけでございます。
この間の事情については、大蔵省の関東財務局の山本靖
局長から、先ほど申し上げました小笠原くら氏にあてました
昭和四十三年五月十一日の関東財務局指2第49号「旧板橋憲兵分隊及び官舎付属の専用通路について」という文書にこれが明白に載っておりますので、読んでみたいと思うわけであります。これにはいまの表題で
「
昭和四十三年四月十六日付貴殿からの
通告にかかる板橋区仲宿五十二番の二十八所在旧板橋憲兵分隊及び官舎付属の専用通路について、下記のとおり回答します。
なお、今後当該専用通路について照会事項等があれば、直接当局王子出張所あてご照会願いたく、申し添えます。
記
1 当該道路敷は、戦前旧陸軍が板橋憲兵分隊及び官舎設置の際専用通路として買収したものである。
2 戦後前記憲兵隊及び官舎並びに専用通路については、旧陸軍省から大蔵省に引き継がれ大蔵省所管の普通財産に編入された。
3
昭和二十年十二月以降当局において前記施設のうち官舎及び専用通路の部分について千崎関吾氏に有償貸付し、その後官舎施設については
昭和二十八年十一月同氏に売払
処分したが、官舎施設が袋地の
関係から当該専用通路については、現在なお引き続き同氏に有償貸付中のものである。
4 当該専用通路については、戦前旧陸軍において隣接民有地との境界に板塀を設置し使用していたもので、この板塀は戦災により大半焼失し、残り部分についてもその後、老朽等により逐次滅失し、現在では全く存在していないが、隣接民有地との境界は旧陸軍が埋設した境界石等により現状のとおり明らかである。」
以下五項目、六項目ございますが、
関係がないので省きますが、こういう文書で、とにかく千崎に貸し付けられていることはわかるわけであります。いまも申し上げたとおり、これが国有地である。そして千崎関吾氏に、
昭和三十七年の二月六日、今度はその国有地がどういうわけか地目変更をされているわけです。この点がどうもわれわれもちょっと納得がいかないのでありますけれども、道路であったものが宅地に変更されている。これについては関東財務局の王子出張所の担当者が、公務員として全体の福祉をはかるべき
立場にありながら、千崎氏と相はかって道路を宅地に変更したのではないか、こういうふうに
関係者が言っているわけでありますけれども、これについての真偽はまだわからないわけであります。
そこで、特に問題といたしたいのは、この小笠原くら氏についてでございますが、小笠原くら氏の夫久平氏が同地に移転してきましたのが
昭和三十六年の四月であります。この土地を小笠原氏が買いました。これは銀行に抵当に入っていたものを買ったらしい。そのときに当時の所有者が、小笠原宅の前のところの専用道路は、ただいま読み上げましたように軍用の道路なんですけれども、それを公道だと偽った。それで小笠原久平氏はそれを購入したわけでありますけれども、専用道路のために、千崎関吾氏が、同年四月十八日に、小笠原久平氏宅の玄関口に無断で鉄条網を張って、家屋への出入りができないようにしてしまった。このため、小笠原久平氏は、関東財務局の王子出張所に申し出をいたしまして、出張所の手によりまして鉄条網は撤去せられた、こういう事実が一点あるわけであります。また、そのころ千崎関吾氏は、その専用道路の西側に面する市川十郎宅の非常口にあるいは出入口に、材木を並べて出入りが不可能な状態にして、専用道路には小型トラック等を並べて通行を不便ならしめている。これはいろいろとった写真がございますので、また後ほど見ていただきたいと思うわけでございますが、出入りを不便ならしめている。
昭和三十八年十二月の十三日の朝、またもや千崎関吾氏は、小笠原久平氏宅の下水口を無断でふさいで、汚水が道路に流出するようにし、収拾のつかない状態にした。次々と
人権を無視する暴挙に出たわけであります。
その具体的な事実がまだまだ続きますが、中でも
昭和三十九年十二月二十二日、玄関に鉄条網を張って、さらに四十年一月の七日には、鉄条網を竹さくにかえております。これはどういうわけで鉄条網を竹さくにかえたのかについてはわかりませんけれども、とにかく小笠原のほうが王子の財務局等に申し出て、財務局等から話があったとみえて竹さくにかえた、このような状態でありましたが、竹さくがあるために出入りができない。とうとう小笠原久平氏の商売が思うようにできなくなりまして、この
事件の解決を気にしながら、ついに小笠原氏はなくなったわけです。
ところが、ここに最もはなはだしい
人権じゅうりんの問題があると思うのは、このなくなった小笠原氏の葬儀が、四十二年一月三日行なわれたわけでありますけれども、この葬儀の当日、何としてもその竹さくをとってもらいたいと、再三千崎関吾氏に交渉いたしたのですが、ついにその竹さくを撤去しない。やむを得ず、御主人の遺骸を玄関から出すことができず、御近所に頼みまして、裏側の路地から路地へと棺を運んで、そうして出棺をしたという、悲しみの上にさらに悲しみを重ねたわけでございます。これこそまさに最大の
人権じゅうりんだと私は思うのでございます。
昭和四十三年九月の一日に主人になくなられまして、女世帯になった小笠原くら氏方の玄関を、今度はブロックのへいでふさぐという暴挙をいたしたのであります。これはその当時の、とっておきました写真でありますけれども、まことに不都合きわまる状態でございます。こうして、このときにも小笠原から厳重な抗議をしたにもかかわらず、暴力を使ってこのブロックのへいをつくる。しかし、このときに、小笠原の建築線内にブロックのへいを建ててしまうということをしたわけでございますが、これは抗議をいたしました結果、専用道路の境界の中に入れて、ブロックのへいを建てた。こうして小笠原方の便所のくみ取り口をブロックのへいでふさいでしまいましたので、ついにくみ取りをすることができない。道路の側からはくみ取りができなくなってしまった。座敷の中をホースを通してくみ取りをしなければならないというふうな状態に追いやってしまったわけでございます。
この間、前述の大関、藤田、市川と、ほうぼうの方々の下水道管、上水道工事あるいはガス工事、こういうものについても、この専用道路を通してほしいということでお願いに上がっても、絶対これを通さない。常に
妨害されまして、これらの方々は非常に不便な生活をしているわけでございます。
関東財務局も、
昭和三十七年三月三十一日に、千崎関吾氏への専用道路貸し付け期限を終了するその時点には今後の貸し付けは更新しない、こういうふうな回答をしております。関東財務局から、三十七年三月三十一日で専用道路の貸し付けの期限が切れるから、それ以後は貸さない、こういうふうに回答も来ているのでありますけれども、依然として貸し付けが続いているようであります。
次に、
昭和三十九年三月十七日付で、関東財務局の王子出張所の所長さん内本広男さんから発送されてきた書類について申し述べてみると、こういうことがわかるわけであります。
要点を申し上げますと、「当所は終戦前より同番地に居住しかつ住居に往来する道路として使用していた千崎関吾氏に対して使用の事実に基づいて使用料を徴収し、じ後双方において正常の国有財産有償貸付
契約を締結している。その期間は
昭和四十年三月三十一日迄であるが本地の使用辞退については折衝中である。」先ほども申し上げましたように、三十七年において三月三十一日以後もう貸さないと言いながらも、また次に貸している。その期間は今度は四十年三月三十一日までだ、しかし使用の辞退については折衝中である、こういうふうな回答が来ているわけです。こういう点をもって見ましても、その役所のやっていることが非常にふに落ちないわけであります。
このような関東財務局からの公式回答がなされてからも、すでに満三年になろうとしているわけでありますけれども、いまもって解決されていないということは、先ほど
局長からお話があったとおりで、おわかりであります。
そこで、また、この市川、小笠原、藤田、大関等の当事者は、
人権擁護の
立場から再三、中央区の勝閧橋のたもとの東京都の
人権擁護委員に申し出ておるわけでありますけれども、依然として
調査中、
調査中ということで解決がつかないということはいまお話があったとおり。さらに、この四十二年の十一月には、
人権擁護委員の坪井さんという方が来られて、この間の事情を録音して、テープもとってございます。
こういう事実もあるわけでございますが、何といたしましても、千崎関吾氏のやり方については、われわれも人間としてまことに残念な行動をとられている点を感じるわけであります。
いろいろと申し上げましたけれども、私は千崎関吾氏側の話は聞いておりません。あるいは私の話の中に間違いがあるかもわかりません。大体被害者ともいえる大関栄助、藤田春吉、市川十郎、小笠原くら、こういう方々から一方的に私も聞いた話でございますし、あるいはこの点は不公平といわれるかもしれません。しかしながら、あまりにも
人権を無視し、非道の行ないをするところの千崎関吾氏をこのまま見のがすということは私の良心が許しませんので、あえてこの問題を申し上げまして、一日も早く問題の解決をしていただきたい、こういうふうに思うわけでございます。
この点について、
法務大臣としても、こういう事実がある以上は、このまま日を重ねて二年も三年もおっぽっておいて、付近の住民が法に対して不信を抱くということはまことに残念なことであろうと思う。何とか
法務大臣も一そうの
努力をされて、この問題の解決方について特段の指示をしていただくように切望するものでございます。
あとまたお話を伺いたいと思います。そちらの話も聞いておきたいと思います。