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阪上委員 今度出された、いま第三次試案が出ておる
国土総合開発計画、私もざっと目を通してみたのであります。あるいは企画庁を呼んで聞いてみたのであります。なるほど新しい発想が若干出ておりますが、やっぱりその
中心をなしておるのは、自民党の新
産業政策以外の何ものでもない、こういう実は印象を受けております。いま、そういう点について企画庁長官に聞け、こう言われておりますが、これはあとで伺いましょう。
そこで
総理、こういった
過密、
過疎現象が起こった、その結果何が起こっているか、もう少し深く考えてみる必要が私はあると思います。ただ単に
人口が減ったために、いろいろと
地方交通というものが、軌道というようなものが撤去されるとか、あるいはいろいろな問題が起こっておりますけれ
ども、根本的に何が起こっているか。先ほど
総理がおっしゃったように、それは
人間疎外現象が起こっているのだ、そのとおりだと私は思うのです。
農村は
農村なりに
農村に住む
人間の疎外が出てきておる、
都市は
都市に住む
人間なりにその疎外が出てきている、こういうことは言えると思います。私は、この
人間疎外現象というものは非常におそろしいものだ、こういうふうに思うわけであります。
私は、これはこういうことじゃないかと思うんですよ。たとえば、大
都市に住んでいる人の
生活環境が非常に悪くなり、
交通災害、あるいは
住宅不足、あるいは公害、そのほか教育施設の問題等も出てまいります。あるいは保育所の問題、幼稚園の問題、これは不足の問題であります。足らない問題であります。いろいろと起こってまいります。そうして、そういった自分の
生活環境、これを改めてもらいたいというので、それぞれ
地方自治体なりあるいは国へいろいろと要求をする、
政策を要求してくる。ところが、それが一向に聞き届けられない。これではしかたがない、自分のことは自分でやる以外に手がないじゃないか、こういうふうなところへ
考え方を持っていく。非常に孤独なんですよ。アパートに住んでおる人々をとってみましても、隣近所とほとんど顔見知りがないというような、そういう環境の中で、いま言ったようないろいろな自分たちの
生活を脅かす貧困の問題が出てくる。幾らこれを政治に訴えてみたとしてもやってくれない。やってくれないから疎外感というものがここに出てくる。
農村についてもその逆の
現象で、同じことが私は言えると思うのであります。この
人間疎外感というものは非常におそろしいものであります。こうなってまいりますると、いわゆる行き過ぎにマイホーム主義に入ってしまう。何を言ってもいうことを聞いてくれないんだ、いわゆる
社会連帯性というものがここから消えてしまう。極端な個人主義に入ってしまう。これはもうたいへんなことであります。そして市民精神、こういったものがもう全くなくなってしまうわけであります。
東京近辺に例をとってみましても、たとえば、東京の周辺にドーナツ型に
人口と
産業が過度集中する。
川崎あたりでもって、あるいは埼玉県の川口あたり、こういったところに住んでいる人々の
考え方というものは、全く川口市民でありあるいは
川崎市民であるというようなものの
考え方ではなくなってしまった。そして気になるのは、東京へ通勤する
交通料金の値上がりであるとか、東京都内におけるところのバスの値上がりであるとか、そういったものにむしろ身近なものを感じ、そして市民精神というものがなくなって、おれは市民であるというような感覚がなくなってしまっておる。非常におそろしい
現象が私は出てきておると思うのであります。少し大げさに言いますると、
地域社会、コミュニティー、これが未形成である、形成されない、こういうことになってきておるのでありまして、そこへ持ってきて政党というものが政党らしい政党の動きをしていない、こういうことに私はなってきているのじゃないかと思います。
私は、いまの政治を見ますると、どうもこの間うちから政治不信、政治不信といわれておりますけれ
ども、政治不信なんというようなつかまえ方では、これはもう実態をつかんでいない。政党政治に対する不信でしょう。これは自民党ばかり責めませんよ。われわれだって考えなくちゃならぬ、こういうふうに思っておりますよ。政党政治に対する不信というものはどこからくるかというと、先ほど言いましたように、もう
地域社会というものは崩壊してしまって、市民精神というものはなくなってしまった。なくならした
原因は
政策不在でありますよ。官僚というものは一向に市民との間に対話がない。自分たちで考えたところの、頭のいい官僚が考えたところのものを対話なしに持ってきて、どんどんどんどんと市民に押しつけてくる。こういう官僚独善政治、これを押えていくのが政党政治じゃないんですか。
今日、フランスで起こった内乱あるいはアメリカに起こったところの黒人騒動、その
原因を政治的に追及していくならば、やはりそこに政党政治の不信というものが出てきておる。私は
日本の学生問題、これについて、やはりあの行動に対してはわれわれは決してこれを肯定するものじゃありませんし、よくないと考えておるけれ
ども、しかし、彼らのそういった行動の中に、官僚独善に対するところの非常な不満があるのじゃないか。しかも、官僚の卵といわれておる東大の学生が官僚征伐のために立ち上がっておる。ここらのところを考えてやらなければいけないと私は思うのであります。
そこで、
過密、
過疎対策、ことばをかえていうならば
都市対策、
農村問題に対処するところの
対策、これが欠除しておった。欠除さしたところの
原因は、やはり
高度経済成長、
産業政策、そういったものにのみ夢中になって、本来手段であるべきものを目的化して、そうして
社会開発を忘れておったところにこういう問題が出てきたのだ、その結果が
人間疎外を起こしているのだ。そして、起こしたその
人間疎外というものはきわめておそろしいものであって、いま申し上げましたような言い方をするならば、これを引き延ばして
地方自治に及ぼしていくならば、おそらくわが国の民主政治の根幹をゆさぶるところの問題になってきておる、こういうふうに考えるわけであります。
そういった場合に必要なのは、政党が姿勢を正すことである。私は、官僚が一生懸命に勉強をして、狭い
範囲のものを一生懸命に追求していく、この姿はとうといものであります。それがなければ
社会は進歩しないでしょう。しかし、それを調整していかなければいかぬ。それは政党の役目でしょう。労働が細分化されていく、けっこうであります。そうしなければ伸びないでしょう。しかし、企業を経営している人々はやはりそこに調整を加えていく、うまくあんばいしていく、そういう役割りを果たしているのでありますが、その役割りを政治の部門で果たすのは、やはり私は政党政治だと思う。
明治百年というようなことをよくいわれますけれ
ども、政治的にこれをながめていくなら、この百年の歴史というものは、初めは薩長土肥あたりの藩閥政治であり、太政官政治に入り、それから憲法発布以後におきましても、内閣ができましたけれ
ども、やはり御
承知のように枢密院があり、元老がこれを支配しておった。ようやく大正七年の原敬内閣、それから
昭和七年の犬養内閣に終わっておるのでありますけれ
ども、この間わずかに政党政治というものはちょっぴり芽を出しておった。そうして、それが終わったならば軍閥政治に入り、数々の戦争を引き起こし、ようやく終わったと思ったならば、ここで新しい民主政治であるところの政党政治がぐんぐん伸びるであろうとこう考えておったところが、この政党政治というものが非常に弱く、そうして依然として官僚独善政治というものをここにまた引き起こしてきている。言いなりほうだいじゃありませんか。この間あたりの下田大使の発言なんかも、官僚独善の思い上がりもはなはだしいじゃありませんか。
それからまた、いま問題となっております
都市問題についても、自民党ではだれか
——田中角榮さんがキャップになって、そうしてこの問題と取り組んでやってきた。そうしてこの場合、自民党も相当まとまった新しい
方向の
都市問題に取り組む姿が出てきておるのです、あの
政策の中に。われわれ
社会党だってこれを打ち出しております。公明、民社、それから共産、それぞれ皆出してきておる。これは政党の
政策です。この政党の
政策が内閣の中におろされてきたときに、各行政官庁は
一体どんな態度をとったんですか。政党の
政策は全く無視されて、そうしてことごとに反発を加えて、一向に政党の
政策というものを尊重しようとしないじゃありませんか。こういう官僚独善の政治、これを押えつけていき
——押えつけるということばは必ずしも正しくないかもしれません。これを調整していく、これが政党政治じゃないのですか。それを、戦後は特にはなはだしく官僚独善に走って、これに追随して政党が動いている。自民党ばかりじゃないと私は思う。大いに反省しなければならぬ点でありまして、そういったものが相まって、今日わが国の中に
人間疎外現象というものが、
農村に、
都市に起こっておる。非常におそろしいことだと思うのであります。
私たちはこれを何とかしなければならぬ。ただ、何とかしなければならぬというようなことを言っておってはいけないのでありまして、何とかしなければならぬ場所はどこかということなんであります。私は、それはやはり
過密、
過疎対策であり、
都市、
農村対策というものにいま言ったような観点に立って考えていく。ただ単に、
交通の悪化がある、あるいは
住宅の不足がある、水不足が出てくる、あるいは公害が至るところに発生して、これはもう耐えられないような
状態になっておる、そういう
現象だけが私は今日の
都市問題であり、
農村問題であるとは思いません。
都市問題なんというものは、いろいろな形でこれから次から次へと出てくるでありましょう。いまあらわれている
現象は、いま言ったようなところのものであります。だからしたがって、この
都市問題というものをただ単に
——都市といえば
農村も含まれたものの
考え方であります。アメリカあたりでは
人口二千ぐらいのところまで
都市と呼んでおります。この問題に真剣に取り組むことが、わが国の民主政治の根底をつちかうことになるのであって、いまそれが崩壊の危機に瀕しているという事実について、
総理はどこまでその認識をしておられるか、一ぺん決意のほどを伺いたい、これは。