○
木原実君 私は、
日本社会党を代表し、ただいま上程されました
藤田義光内閣委員長の
解任決議案を積極的に支持する
立場から、賛成の
討論を行なわんとするものであります。(
拍手)
私が
藤田委員長の
解任決議案に賛成する第一の
理由は、
藤田君が
委員長としてまれに見る
政治的変節をあえてし、
暴力的な
審議の
打ち切りを行ない、引き続く
委員会混乱の
主導者となり果てたからであります。
藤田君はかねてから、
委員長としてあくまで
誠意と公正を旨として
委員会の
運営に当たると
誓言をしてまいったのであります。しかるに、去る四月八日の
内閣委員会の
運営は、この
誓言をみずから破棄し、
委員会を
混乱させる
元凶となったのであります。
諸君がすでに御
承知のとおり、当日の
内閣委員会は、いわゆる
総定員法案について熱心な
審議が続けられておりました。
審議が進むにつれて、
総定員法案は、
政府が強調するように
国民の利益のためにする
行政改革というよりも、
行政府の独善と
独走に新しい道を与え、あまつさえ
国会の
審議権に挑戦し、
行政に対する
国会の監視の目を遠ざけようとする危険きわまる要素を持っていることが明らかになったのであります。すなわち、
昭和二十四年の
行政機関職員定員法においても、また
昭和三十六年の
各省設置法による
各省定員を
決定する場合においても、
定員が
行政の
規模を定めるものである限り、
公務員の
定員は
法律をもってきめることが正しいと主張し続けてまいりました
政府が、突如として
公務員の
定員を
法律からはずし、
行政府の
一片の
政令によって
各省庁の
定員を定めるほか、
公務員の
配置その他の
運用はすべて
政令にゆだねるという
提案を行なったのは、
運用の
便宜に籍口した
便宜主義であり、
行政組織の
理論をもはずれて
官僚独走への道を開き、
国家行政組織法そのものさえも
骨抜きにするものであるという指摘が行なわれたのであります。(
拍手)
ことに、わが
社会党の
長老淡谷悠藏君が、
山中吾郎、
川崎寛治あるいは
浜田光人、
大出俊君らに続いて
質問に立ち、いうところの
政令なるものが、
行政府の
便宜によっていかに乱用、悪用をされ、しばしば根拠となる
法律のたてまえさえ
骨抜きにするものであるかを、
農地法にかかわる
具体例をあげて
質疑を展開するや、
農林大臣をはじめ
関係大臣はしばしば
答弁に
窮し、いたずらに空疎なたわごとを口走る状態と相なったのであります。問題がいやしくも立法府と
行政府の権限にかかわる
国家制度上の根幹的な問題であるだけに、満場の
委員、
傍聴者はかたずをのんで
質疑応答の成り行きを見守ったのであります。ところが、こともあろうに、かかる重要問題の
審議がまさに山場に差しかかろうとした瞬間、
委員長の重責にある
藤田義光君は、みずから
ハンカチを振って
与党委員に対し
質疑打ち切りの合い図をなし、
委員会はたちまちにして
混乱の場と化したのであります。このような事態をつぶさに目撃して、私は一人の
政治家として、深い失望と怒りを新たにしたのであります。
藤田君が
委員長として公言してまいりました
誠意と公正は、この瞬間どこへ失せてしまったのか。
私は、
委員長藤田義光君に、一〇〇%とはいわないまでも、多少の
信頼を置いてまいりました。人材乏しき
自由民主党に
おきましては、まあまあの
政治家であろうとも考えてまいったのであります。しかしながら、私のこの善意の
信頼は、一瞬にして裏切られたのであります。私たちはだまされたのであります。だまされたのが悪いのか、だましたほうが悪いのか、その
理非曲直はおのずから明らかであります。(
拍手)ことに、これまでも、
委員会の不当な
審議打ち切りや、いわゆる
強行採決などという、
議会制民主主義をその
運営において危うくするような現象は、不幸にしてしばしばございましたけれども、こともあろうに、
委員会の
運営上の
責任者である
委員長が、
委員長席にありながら、みずから
ハンカチを振って、
審議打ち切り、
強行採決の先頭に立つなどという事例は、憲政史上まれに見る珍事といわなければなりません。このことは、
藤田君が多数の
暴力によって
委員会を
混乱せしめようとする
自由民主党の
陰謀にみずから加担していたことを示し、あまつさえ、その
先導の役を引き受けていたことを示すものでありまして、
委員会混乱の
責任はもとより、われわれの
審議権に対して不当な
制肘と攻撃を加えた罪は、
国民と
民主主義の名によって弾劾されるに値すべきものであると確信するものであります。(
拍手)
誠意と公正を旨とすると公言してはばからなかった
藤田義光君は、かくして、みずから多数党の
走狗と化し、
暴力的陰謀の
先導者となり、
議会制民主主義破壊の
元凶と成り下がったのであります。この
変節、この恥を忘れた
破廉恥行為は、オッチョコチョイというには、
国民をおそれざること
独裁者のごとく罪が深く、
与党内指導部の圧力に屈したというには、あまりにもその
職責の重さを顧みない
行為といわなければなりません。
私は、断言してはばからないのでありますけれども、この日、この時を一期として、
政治家藤田義光君の
政治的生命は、
のら犬の死せるがごとく死んでしまったと判断せざるを得ないのであります。(
拍手)われわれは、みずから
のら犬のごとく野たれ死にをした
政治家に、かりそめにも
内閣委員長という重要にして権威ある
いすをあけておくわけにはまいりません。その
いすはまた、多数党の
走狗がすわる場所でもありません。それはまた、
暴力的陰謀団の
先導者、
議会制民主主義破壊者のすわるべき
いすでもないのであります。それは、
国民によって選ばれた最も人間らしい人間、
議会制民主主義の権威を高め、多数党の
暴力や
陰謀を排除し、
少数野党の権利と
意見を尊重し、何よりも
国民のために議員の
審議権を最大限に尊重することのできる、公正にして
誠意ある
政治家のすわるべき席であると確信するものであります。
私が
藤田君の
委員長解任に賛成する第二の
理由は、以上のような
破廉恥行為によって、
官僚独走一への道を開くことに進んで手をかしたという点であります。議会
政治家として、これはまさに最も恥ずべき自殺
行為であります。
藤田義光君は、肥後熊本の出身であります。若くして中央大学に学び、業を終えるや、在野の新聞記者として働いたあと、政界に入りました。このりっぱな閲歴に加えて、肥後はもっこすの国柄、せめて
一片のもっこす精神はあろうかと考えていたのでありますけれども、その期待もまた大きく裏切られたことを明らかにしなければなりません。肥後のもっこすというのは、聞くところによりますと、それはただ、がんこというだけのことではありません。理不尽な権威にはあくまで屈することなく、およそ不当と不正、不
誠意と不公正に対しては、あくまでおのれを持して屈しない精神であるといわれているのであります。このため、多くの尊敬すべき熊本県人は、もっこす精神を県民の誇りとし、いまにその背骨の大きいことをよしとしておるのであります。たとえば、わが松前重義君を見よ。坂本泰良君を見よ。いずれもよき熊本精神の体得者であるがゆえに、広く尊敬されているではありませんか。(
拍手)それはお子らく、火をふく活火山阿蘇の豪壮な風土が生み出した貴重な精神でもありましょう。
藤田君は、火の国、阿蘇山中に生まれ、そこを選挙区として
国会に出ていながら、その
行為、識見たるや、まことに、よき熊本県人の風上にも置けぬ、あわれむべき小人ぶりを露呈いたしたのであります。
先にも触れましたように、君が
委員長として
審議が進行しておりました
総定員法案の最大の問題点は、官僚独善への道を開くか、議会の権限を
制度の上でどう確立していくかの争いでありました。このせとぎわに立って、
藤田君は、みずから先に述べたような
行為に走ることによって、
官僚独走への道を開くことに進んで手を貸したのであります。およそ、資本主義が高度化すればするほど執行部の権限が増大し、それに比例して議会が形骸化されるというのは、一般的な傾向であるといわれておるのであります。その行き着く先が、議会の機能を封鎖する執行部権限の万能化、すなわちファシズムであることは、われわれが近い過去に身をもって体験してまいったところであります。それだけに、われわれが何よりも自戒しなければならないのは、執行権力の増大に対する監視であり、法と
制度によるその制限であり、議会政治の
充実であります。しかるに、いまや、議会内においても、
総理大臣佐藤榮作君をはじめとして、官僚勢力はしんしんとして議会内に浸透し、官僚勢力は、いまや政治の中枢を侵している現状であります。
総定員法案でいう
行政改革は、帰するところ、
行政府の勢力を、国権の最高機関の制約から少しでも切り離したところで確立することにほかなりません。
他方、この
総定員法案が成立せんか、給与に関する
人事院勧告すら、毎年これを無視して
完全実施を怠っている
政府が、
公務員に対する不当な
配置転換や退職の強要によって、つまり、
公務員労働者の犠牲による合理化が行なわれ、ために
公務員諸君の不安
動揺を誘発することもまた当然であります。しかも、三年間五%の人員
削減が、
行政機構の改革に触れず、
機構をそのままにして人を削るということである限り、
定員のアンバランスによる
労働強化がすでに各職場にあらわれており、これに拍車をかけることもまた必至であります。
国民が求めてやまない
行政上のサービスが、このようなやり方によって充足をされるという保障は何もないのであります。このような
制度上、
運用上の疑義が
政府の
説明によって何ら解明されないばかりか、かえって
総定員法の含んでいる問題の重大性が次々と明らかにされてまいりましたので、われわれは、
藤田委員長に対して、しばしば慎重な
審議の必要なことを訴え、
審議を続けてきたのでございます。
藤田君の最大の罪過は、かかる事情を
委員長として十分に知る
立場にありながら、あえて問題の進展をおそれて議員の言論を封じ、
官僚独走への道に議会の権限を売り渡したのであります。熊本のもっこすは多数にくみして官僚の
走狗となれという精神であったのか。下級
公務員の犠牲の上に高級官僚勢力の地盤を強固にするのをよしとする精神は、肥後のいかなる風土が生み出したものであったのか。
藤田義光君において、残念ながら、よき熊本精神はしかばねと化したのであります。
藤田君において、肥後のもっこすは、まるで背骨のないクラゲと化したのであります。
次に、私は、
藤田委員長解任決議案に賛成する第三の
理由を申し上げます。
藤田君が、
委員長としてはもとより、
政治家としても、およそものごとの判断において完全な不能者であることが明らかになったからであります。およそ状況の判断ということは、
政治家にとっては最も重要な機能であります。まして院を代表する
議長、
委員会を主宰する
委員長に求められるものは、その判断力であり、適切公正な判断であります。ところが、四月八日の
内閣委員会の事態において、
藤田君は完全に判断力の欠除した不能者であることを暴露いたしました。同僚
委員の
質問が進行するにつれ、
総定員法案が単なる
行政改革案ではなく、議会と
行政府との
制度上の根本にかかわる問題を含んでいることが明らかになり、そのため
論議の成り行きは、一
法案の成否の争いを越えて、突き詰めた
論議が期待される状況になったのであります。このような事態は、
総定員法案を
野党が首切り
法案として
反対して引き延ばしをはかっているから、何が何でも通すのだと、きわめて党略的、単細胞的に考えていた
委員も含めて、これはたいへんだ、もっと
論議をすべきだという空気が高まっていたのであります。つまり、多少とも正常な議会
政治家ならだれもが感ずる議会の危機感の意識が、少なくとも多数の空気となっていたのであります。
藤田君にして、もし正常な判断力の持ち主であったならば、このような異状な状況の変化、
審議の過程で提起された問題の重要性を当然察知するはずであり、それが判断できれば、たとえ事前の謀議があったにしても、さらに
審議を進行させる良心も生まれてくるであったでありましょう。しかるに、判断力不能症の
藤田君においては、そのような判断も、判断に基づく
審議の継続も行なわれないまま、武男と浪子の別れではあるまいし、よごれたハンケチを振る愚行を演じてみせたのであります。およそ政治的判断力は、その政治的識見によって生まれるものであります。もしそうだとすれば、判断力不能症の
藤田君は、同時に識見において痴呆症であることを示したことになります。(「
議長、時間だ」と呼び、その他
発言する者あり)まことにあわれむべき、そして
国民と議会にとりましては、まことに不幸きわまりない
委員長であったといわなければなりません。
私どもは、かくして、すでに
内閣委員長は存在をせず、
解任決議案は、せめて彼が成仏のためのありがたい引導でありまして、私もまた、
藤田君成仏のために賛成をいたすものでございます。
私は、最後に、
藤田君と
与党の
諸君に一言つけ加えて
おきたいと思います。
もし
藤田君に
一片の良心が生き残っておるならば……。