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畑委員 最高裁のその
処置あるいは
見解、そういった点には全面的に私も賛成いたします。非常に問題になったこの問題もこうした
処置で結論がついたわけであります。およそ
裁判所は正義と公平とを実現するということが目的であることはもちろんでありますが、このこと自体が肝要であるけれども、さらにもっと肝要なことは、
裁判所は正義と公平とを実現するところである、こういうふうに国民が全部思うということが必要だ。そういうふうに
裁判が行なわれることは必要だが、さらに国民がそう考えるように
裁判所の
あり方を持っていくことが必要だ。こういうことはかつて三渕元
最高裁長官がときどき述べられたことでございますけれども、これは非常に重要だと思うのです。この場合におきましても、実際においては
裁判の
独立は守られたわけであります。ただ
平賀書簡ということがあったということによって、そうしたおそれがあった。しかし、それが実際なしに済んだというようなことで、
平賀書簡の問題は公になったことがむしろやはり今後のためにもよかったのではないかと思うのです。この問題は一応それでケリがつきました。
ところが、きのうの朝日
新聞を見ますと、ほかの
新聞にもあったかどうかわかりませんけれども、この
平賀書簡の問題についての
鹿児島地裁所長の
飯守重任判事——この飯守判事のことにつきましては、もうすでにいろいろな問題を起こした、いわゆる飯守発言をときどき出す判事でございます。いままでにも、例の嶋中社長ですか、あの問題についての右翼の問題について、むしろ左翼の暴力組織があるからこうした右翼の襲撃があるのである、こういうような発言などしたりして、かつて
最高裁から
注意処分を受けた人でもあります。またほかにも
事件があったと記憶しておりますが、この飯守判事の
平賀書簡問題についての批判が国民協会という
新聞にも報道されておりました。
自民党の重要な資金団体でございます国民協会の機関紙に「
平賀書簡事件の背景」という題目で、いろいろ批判の文章を
発表しておる。「
平賀書簡事件」それから「
平賀書簡を問題にした背後
関係」次に「
裁判官独立の伝統」それから「
裁判官の間に戦後できた断絶」その次に「青年
法律家協会(青法協)」それから「
裁判所から青法協勢力を一掃せよ」こういったような各項目の見出しでの批判の文章が
発表されておりまして、これが
新聞に載っております。
これは、
平賀書簡も問題であるけれども、それ以上に私はさらに問題だと思う。この文章を見ますと、
平賀書簡問題に対する
最高裁の
処置が間違っておるというような
趣旨で貫かれております。それがまず第一だと思うのです。それから、その中にさらに問題があると思う。一体その
平賀書簡のような問題がいままでかつてされてないということはとうてい考えられない、こういうことがしばしばあったはずだ、あるのが当然である、こういったような文章もその中にあるわけであります。
そうなりますと、せっかく
最高裁としてもこういったことはあり得ないはずである、あってはならぬはずであるということで
平賀書簡に最後の結論をつけたのでありますが、ところがこの飯守判事は、こういったことは単に
平賀書簡問題にとどまらない、こういったことは何度もいままであったはずである、しかもそれは当然である、いわゆる「善意の
助言」ということ等でごまかしておるようでございますけれども、平賀さんの場合には、片方が求めたわけであれば別でありますが、求めない場合に
所長という資格で文書を出したりなどをいたしますれば、単なる
助言とは考えられない。そこに問題があると思う。ところが、それはいままでかつて何度もあったことであるというような
意味のことが書いてあります。
この二つの問題については、
最高裁判所の
裁判官会議をやられて批判をしておられるようであります。そのほかにも問題はあるけれども、これはいろいろこまかく調査をした後に結論を出す、こういうような態度のように
新聞紙上で承っておりますが、そのとおりであるかどうか。
それから、時間があまりありませんので、はしょる
関係であとの問題を申し上げます。
この飯守さんの出した国民協会の機関紙の「国民協会」という
新聞、これは自民党の有力な資金団体でありますから、有力な要するに政治団体です。その政治団体へ
裁判所の
所長がたまたま問題になっておる、政治問題であるところをねらったところの
平賀書簡の問題について、
最高裁の態度を批判するような論文を載せておる。このことが一つ大きな問題ではなかろうかと思うのです。そして非常に政治的な色彩の強い文章でございます。しかも政治的な色彩の強い国民協会の機関紙へ載せた論文であるということが非常に重要だと思う。
それから、さらに青法協の問題を大きく取り上げ——これが大きなねらいだと思う。結局、
平賀書簡を問題にしたのはこれは青法協グループである、青法協に加入しておる
裁判官あるいは弁護士、さらにそれを取り巻くマスコミ、こういったものによってでっち上げられたのが
平賀書簡事件である、こういうような
見解を述べております。そして、このいまの
裁判所の
あり方というようなことについて態度を明らかにしておるわけです。いわゆる体制、反体制、こういった二つの明確な線を分けて、そうして
裁判官はよろしく体制の側でなければならぬ、
憲法の番人である——これはもうわれわれも大いに異論がないわけでありますが、ところがそれが修正資本主義だとか何だとか、あるいは階級闘争云々とか、こういったようなことを非常に刺激的に書いておられる。そうして、むしろそれをはっきりされる。そのままずばりはけっこうかもしらぬけれども、現職の
所長がこういった階級的な
立場で——むしろ
自分自身が私は階級的だと思う。そういった
立場で青法協を非難して、そうして
福島裁判所長らが青法協の有力なメンバーだ、中にはその何百人かのリーダーである事実かどうか知りませんけれども、こういったような書きっぷりをしている。むしろ平賀さん——実はゆうべの
テレビを見ておりましたら、飯守さんが
テレビに出ておりました。そして、この
平賀書簡については、平賀さんはほめられこそすれ非難されるべきものではない、こういったようなことまでも極言しておられる。そうすると、それは
最高裁判所の態度と全然反する。それに弓を引く態度であると私は思う。しかも青年
法律家協会についてそうしたことを言われております。そして青法協に加盟しておる者をよろしく
最高裁は
裁判所等から離脱をさせるべきだ、青法協からそれを離脱させるべきだ、結局はこういったような結論でありまして、むしろすりかえておるというような感じが非常に強いのであります。これはいろいろあとを引く問題だと思うのです。
さらにまた、自民党の機関紙で「自由新報」というのがございます。この「自由新報」の四月三十日付にも飯守地裁
所長の原稿が載っておりますす。「青法協その根底に流れるもの」「反体制につきる、法の下の平等いまや風前の灯」こういったような見出しで飯守さんの
考え方が述べられておりますが、その日のやはり「自由新報」のトップの記事は、「常識は真実をとらえる、
法律の番人の視点とは」「国民はもっと
裁判に目を向けよう」「まかり通る偏見と誇張、過剰警備、目的のはき違え」これは無罪になった博多駅
事件のことをいっています。これは自民党の
新聞です。ちょうどそれと隣合ってそういった飯守さんの記事が出ておる。
これは明らかに自由民主党の機関紙でありますす。そういう機関紙に
裁判所長が
見解を述べるということは、これまた非常な行き過ぎではないかか、このこと自体が非常に批判をさるべき問題じゃないか、かように「国民協会」への投稿と一緒に私は大いに問題になるところであろうと思う。この点について
最高裁はどういうふうにお考えになっておられるか、承りたいと思うのです。
裁判官は、あくまで先ほど言うとおり、
良心に従って
独立して
裁判を行なう、しかもあくまで
憲法並びに
法律に従って
裁判を行なうのであって、そのほかのいかなる勢力にもわずらわされてはならぬということになっておるわけです。したがって、体制、反体制という式に分けること自体が、私はいまの
憲法の
考え方ではなかろうかと思う。そういう点で飯守判事こそきわめて階級的で、きわめてはっきりし過ぎた
立場である、かように思う。この点について
最高裁の
見解をひとつ承りたい。