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帆足委員 私は、問題の背景にある哲学的、及び国民の心理的、また青年の頭脳に傷を与えておるその背景について、若干触れたくて申し上げるのですが、アルゼンチン大使をしておりました前特命全権大使が著書をあらわしまして、それが外務
委員会で問題になりました。この書物に率直にこういうことが書いてあります。
日本国民はきわめて近代的な国民である。しかし同時にアジア的である。アジア的伝統として自然に仏教を信仰しておる人が多いけれ
ども、といってお経の
意味を知っているわけでもなし、およそお坊さんというものはお葬儀屋さんの一種のように大体考えておって、古代奈良朝時代のような深遠な思想として、これを哲学として理解していないかのごとくである。しかし法事や仏事のときには、足の痛くなるのもがまんしてきちんとしてすわって、そしてお坊さんにお渡しするお布施の料金もちゃんと計算に入っておる。しかし、といって仏教哲学やそのお経の
意味というものについては全然無関心であるし、アブラゼミが鳴いておるくらいにしか考えていない。仏教を信じながら、同時に神仏混淆で神さまも信じておる。ついでに八幡さまも信じ、
おいなりさんも信じておくほうが無難であるから信じておる。そして彼個人はどうであるかといえば、おおむね無神論者である。この点まことに不可解である。多くの貧しい大衆は荘厳な宗教から疎外されてしまっておるので、その道を新興宗教に求めておるようだ。その中で公明党という宗教が、庶民の心を求めて庶民の心をつかみつつあることは確実であって、これがどういう方向に向かうかということは、哲学者でもない
自分のあえて批評はできないところであるけれ
ども、事実としてそういうような状況に置かれておると。
私は、これは理解し得る
ことばであると思いました。このようなこんとんたる状況の中におきまして、新
憲法の置かれております位置や、
教育基本法や
学校教育法等の位置が、ちょうど仏教と同じ取り
扱いを受けておるのであるまいか。
文部大臣は、
教育基本法や児童憲章や、はなはだしきに至っては外務
大臣が、国連憲章も尊敬しておる、こう言われるのですけれ
ども、それはネコをかぶって言われておるのではあるまいか。少なくとも、保守的な方は別として、反動的な人
たちが日本
憲法が好きなはずもなく、それから国連憲章や人権憲章、ユネスコ憲章等が、彼らの口に味わい趣味に合うはずもなかろうと私は思うのでございます。趣味に合わないなら合わないとはっきり言えばよいものを、合っているかのごとく言って実はこれを全然無視しておること、まさに、今日仏さまを信ずるかのごとくうやうやしく頭を下げながら、お布施の金額をただ勘定しておるにとどまる。そして、腹の底では偏狭な利己主義者、無神論者である。こういう姿にわが親愛なる保守党の諸先輩はさも似たるところがありはしないか、そういう感想を持っている次第でございます。感想として私が持っているだけでなくて、青年
たちがそういうような感じを受けておるのでなかろうか。これが過渡期の日本の苦しみでありまして、一天万乗の大君を慕い奉り、国体護持をもって命にかえてよいほどとうといことと錯覚し、
学校が焼けても、御真影は持って逃げても、子供が一人や二人焼け死んでも、かわいそうだけれ
どもそれはやむを得ない。こういう
教育をしていたこの国が、また、それを擁護する哲学を弁護していた日本の
文部省が、一朝一夕にしてそれほど大きくジェファーソンやリンカーンの哲学に変わり得るものでもないことは、私は人として無理もないことであると思うのでございます。
したがいまして、互いにもし人が生きる道におきまして、特に
教育の道におきまして、人間に
おいて今日最高のものは何であるかと聞かれるならば、人は五十万年前に火を発見しまして、その火の光に導かれて、長い間暗黒と無知と偏狭と貧乏と病気の中を歩いて今日にきました。しかし、いまや人間は、物質の最微粒子を分析する力まで持ち、地球を震駭させるほどのエネルギーをも持ち、月世界に到達するエネルギーも持ちました。ここで最大公約数として明らかになったことは、人間の所産の最大のものは大脳であり、理性であり、そして愛情である。これだけは、まず党派を越え、宗派を越えて間違いのない共通の人類の財産であると思うのでございます。それをよすがにして、国際連合が不十分ながらも動き、われわれは平和を求めるに至りました。
三十年前に、平和を求めることが
教育の本源などと言ったならば、
たちまちにしてやめさせられてしまったでしょう。紀元節の日に
教育勅語の前に頭を下げて御真影を拝むことを、内村鑑三氏は、彼はプロテスタントなるがゆえに、勇敢に拒否いたしました。それだけで一局の校長さんをやめざるを得ませんでした。こんなことは日常茶飯のことでありまして、当時はだれも怪しまず、変わった先駆者がただ犠牲になったという程度のことしか考えませんでした。安倍能成、一高の校長さんは、カント哲学を奉じておりまして、なんじの意志の格率が他人の意志の格率と互いに矛盾しないように行動せよという哲学を奉じておりました。しかし、人民の意志の格率と天皇の意志の格率との間には、当時万里の長城の隔たりがありました。それを祝う天長節や紀元節の日に、やっぱり生徒
たちに最敬礼をさせまして、カント哲学者が最敬礼をして、それを矛盾に感じないでワニの涙を流すほど、この国の民族の頭脳というものはフィーブル・マインドであったわけであります。
その点、そういう
教育のもとに育てられた私
どももまた薄志弱行でありまして、この国の社会運動におきましても、転向ということが非常に大きな問題になっておりますことは、皆さん御承知のとおりであります。日本では吉利支丹バテレンの激しい信仰の歴史がありますけれ
ども、近代社会主義の歴史は、若難の道であると同時に、また転向の歴史でもありました。これは、日本の新興階級の歴史の中にもこういう脆弱点があるということを申し上げたのでありまして、いわんや、今日の日本の文部行政の中にどんなに多くの傷あとがあるかということは、もういまさらちょうちょうするまでもないことでございます。こういう矛盾の中から学生の心の動揺も生まれておるのでございますから、私は、反省すべきものは学生諸君であるのみでなくて、われわれおとなの側であるということを一そう深く痛感いたしております。
端的にただいま申し上げましたことと連関いたしまして、この
文部省設置法の問題にいたしましても、「
文部省の長は、
文部大臣とする。」
法律ではっきりこう書いてあります。国民の長を
文部大臣とするとは書いてない。その
文部大臣の職権はすなわち
文部省の長官でございます。「
文部省は、その
権限の行使に当って、
法律に別段の定がある場合を除いては、行政上及び
運営上の監督を行わないものとする。」こう書いてあります。特別な定めのある場合を除いては
大学に対して
文部省は行政上及び
運営上の監督を行なわないものとする、これほど明確に
文部省設置法に書いてありますのに、まだ
大学法案も通ってないときに、
大学を監督とする
責任または
権限があるかのごとき錯覚に陥って、その錯覚をわれわれに強制しようとしておる。あるいは、
大学の管理
機関の議に基づいて
大学の教授、
学長を任命する、こう書いてあるけれ
ども、先ほどの
法制局長官からの牽強付会の弁でわれわれが聞いたとおりでございます。
この国では、万事お上のやることは何でもできるという弊風がありまして、したがいまして、その一例を申し上げますと、いま
法制局長官がおられないことは残念ですけれ
ども、部長がおられるようですからよく聞いて
おいてください。旅券法の問題がその一例です。旅券法という
法律は国民の海外に行く権利を保障したものでございます。かつて私
どもは、江戸から九州に参ったり、下関にフグを食べに参ったりすることは、自由でありませんでした。お伊勢参りだけが許されまして、お伊勢参りにかこつけてようやく夫婦一緒に旅行ができたものでございます。しかるに、明治の代が明けましてから、一応旧来の陋習を破り、自由の
精神がこの国に取り上げられました。国内におきましては旅券なくして旅行ができるようになりました。旅券は、かつて刑法の罪を犯して一定以上の刑に処せられた者、あるいは直接かつ著しく国益を阻害するおそれある人物、その者だけを例外として無差別に与えられねばならぬということが旅券法に書いてあります。もしだれか、その人が直接著しく国益に害を与える人物というときは、法務省と外務省は協議して、その協議の結果これを当人に通告し、当人はこれに対して疎弁ずることができるし訴えることができるという
手続も、それに備わっておるのでございます。しかるに、かつては国
会議員に対してすら旅券をくれないことがちょいちょいありました。
それはこういうことでございます。
政府は、持っていない
権限を持っていると錯覚し、国
会議員の大多数も、持っておる
自分の
権限を持っていないものと錯覚して、この錯覚の上に約二十年間旅券法が
運営されていた時代がございました。私はこの錯覚を見破りまして、最初に鉄のカーテンを越えましてモスクワに参り、スターリンに会いましたただ一人の人間ですが、そして捕虜の送還を協議し、中国と帰途六千万ポンドの協定を結んでまいりました。それは当時非常に珍しいことのようにされておりました。しかし、今日では、もうだれでも北京にもまたモスクワにも行ける時代になりまして、経済団体連合会のお歴々ですら、モスクワにも東欧諸国にも参っておるのでございます。一昨日、ワシントンもまた中国に対して旅券を支給するようになってまいりました。このようなことになってまいりまして、このたびの券旅法の改正のときにもこれが問題になりまして、
政府はややもすれば
自分にない
権限をあるかのごとく錯覚するくせがある。現在、
文部省の許可なくしては
学校の先生は海外に出れないという錯覚を持っておりますし、
文部省もまた、
自分の許可なくしては海外に行くことができない、すなわち海外に行くことをとどめ得る権利があるかのごとく錯覚している向きもあります。それで先日は、青年
たちが中国に参りますのに、百数十名でありましたか、去年も参りましたが、ことしは
文部省がこれを阻害いたしました。それでまた、
大学の教授が北京に参りますのに対しても、ただいまちょっとごたごたが起こっておるようでございます。こういうような
権限は、原則として
文部省にはないのでありまして、旅券法のどこにあるか、後ほどお尋ねしたいと思います。
話が横道にそれまして、本論をはずれて恐縮でございますが、こういうことがあるということを指摘いたしまして、本論に入りたいと思うのでございます。こういう
前提条件を理解いたしませんと、今日の
学校法の問題は、われわれのそれを心配しておる理由が理解できないと思うからでございます。
まず私は、この
法案の中から、時間の
関係もありますから重要な点だけを摘出いたしまして、重点的に質問いたしますことをお許し願いまして、会期末も迫っておりますから、質問のしかたも、これからは急スピードで質問するように注意いたしますから、
委員長におかれても、突如として
質疑終結などという、人食い人種でもしないような野蛮なことは、お口になさらないようにお願いしたいと思います。
まず、
文部省の助言の問題でありますが、この問題
一つを例にとりましても、助言、指導、勧告、いろいろの
段階がありますが、この勧告はかえってガソリンに火を点ずるようなものであって、このまま入れることはちょっとむずかしい。
学長がそのように思い、
文部大臣はそのように思わない
——人は
意見の違う動物でありまして、人生は満場一致協会ではありませんから、そういうことは起こります。そういう場合に、
文部省設置法やその他によりまして、従来の習慣
——大学のことは
大学が処理する、警官の導入もその他のことも、一応
学長の了解を得てやってもらいたいということが習慣になっております。
大学に対する
文部大臣の勧告に対して、
学長が、そのとおりではちょっとまずい、善意をもって参考にはいたすけれ
ども、しかし、そのとおりにはいかないぞというふうに
意見の食い違いが起こりましたときに、あえて
文部大臣はこれを強制なさるお気持ちでしょうか、また強制する権利があると錯覚しておられるのでしょうか、まずそれを伺いたいと思います。