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鈴木力君 私は
大臣に関連して伺いたいのは、いまの
大臣の御答弁にもそういう表現があると思うのですけれども、
教育行政に何か官僚万能というような態度がありはしないかというふうに見えてしょうがない。そのことが、
教育と行政とどっちが上になるかというと、行政のかっこうをつけるために
教育を犠牲にしているというようなことがありはしないか。この点を
文部省が、反省というとことばが悪けりゃ
検討でもいいけれども、
検討をしてみる意図がないかということを伺いたい。
で、福岡県の場合でも、現象的には、校長さんが赴任をするときに、
教員たちが入れないといって何かトラブルを起こした。その現象面は、
大臣は、実力をもって阻止するのはけしからぬ、その
気持ちはわかると思いますが、しかし、大
部分の教師が反対な校長を何人も何人も押しつけるという
教育行政を、それを是認して進めていったら、一体
教育というものが成り立つかどうかということを、その点の
検討をしたのかどうかということです。私はむしろ、実力行使というのがいい悪いはこれは別でありますけれども、はっきりとしたそういう態度をとって、はっきりしたそういう態度の上に解決をしたほうが
教育は進むと思う。全体の教師があの校長ではとてもだめだと思う評価をされている校長を、
教育行政の権力で無理やりに押しつけて、何年間かその
教育を非常に暗いものに、沈滞したものにしてしまうという場合の
教育の効果、十分に、そういう現象面からでも、なるほど間違った校長を多くやったからという反省のもとに、もう一度人事というものを考え直してみる、教師が何を考えているかということを推察をしてみる、そういうような形で
教育をすべらしていくということのほうが効果があがるのか、そういう点の
検討を私はやっぱり
文部省はすべきではないかと、こう思うんです。
関連ですから、あまり長いこと申し上げませんが、繰り返して
質問はしませんけれども、私が見聞している限りにおいても、たとえば
教育事務所の所長などという人も、それは確かに
教育委員会筋で権力は持っておる。ところが、その人の現場におったときの
教育実績なんというものは、仲間から全くひんしゅくされておるような
教育実績を持っている人がいまやそういうところに行っている人がいる。そういう人が
教育について、しかも、これはどこと言うとぐあいが悪いから
場所は言いませんが、ある
教育事務所長は、管理行政と
指導行政の行政のたてまえさえ混同して、かってなことをやっておる。こういう例がいまたくさん出ておる。それでも、行政的につじつまを合わせれば
教育は進んでいると誤解したいようなことがどこにも出ておる。そのことが教師から自発的な主体的な
教育に積極性を取り去ってしまって、魂の抜けたような、ふぬけたような
学校、職場というものがいま出かかっておる。
教育が、行政があって
教育がないという批判を受けておるのはそういうところから来ている。そういう根源を
文部省も——これは私は、
文部省は行政系統であるから、権威を保つためにということばかり言わないで、そういう行政の乱れというものはどこにあるかということと
教育とを結びつけて
検討してみるべきだと私は思う。
責任論からいいますと、
新聞を見ますと、群馬県の
教育長さんが、何か職員があやまちをおかしたという
責任をとってやめられるということを
新聞で見ました。私個人は、
新聞を見て、
教育長さんがやめられるほど
責任が
教育長さんに行くものかどうかという疑問さえ持ちましたけれども、しかし、ああいう態度の
教育長さんのときには福岡県のようなトラブルは起きないのではないかという
感じがいたします。
文部省が直接
教育長を送り込んで、何が何でも押し通すぞという態度が、先生たちから見れば
文部省に見えるからいろいろな誤解が生じておると、こういう点をひとつ反省なり
検討なりを加えてみるべき必要があると思います。先生たちが反対するのはけしからぬというけれども、地方によってはPTAの一部の人たちが騒ぎ回せば、
教員を回したりしている例さえある。これなんかまさに行政の筋を誤ったことなんです。こんなこともやられておる。現場の教師が納得しない校長を押しつけて
教育が成り立つというような、帳面ずらを合わせるような
教育行政は、これはやっぱり私は反省すべきだと、こう思います。時間がないので一言だけ申しますけれども、そういう意味の
教育行政が、ほんとうにいまの
教育基本法なりそれぞれの趣旨に従って回転をさせるなら万全だと言えるのかどうか、
検討してみる意図があるのかないのか、
大臣に伺っておきたい。