○岡
三郎君 女子の
先生がふえていると同時に、事務職員においても現場というものが女子にかわっている。これはそういう強い
傾向というのが、いまの産業の中における労働力の確保という問題もあるわけですが、これは私が言わなくてもはっきりしているが、各学芸
大学において優秀な者は大体女子なんです。ずっと上から女子が並んでいて、途中にぽんと男子が入っている。一体こういうふうなことについて、
文部省自体が——それは女子の優秀な
先生が入ってくることについて、私は何も抵抗を感ずるものは
一つもない。ただ、根本的にいって、
教育の職場というものに対して、産業の発展というものとかね合わせて、日本民族の前途というものをどういうふうに把握しているか、大きな問題が私はこの中にあると思います。しかるに、
教育という仕事は男子の一生の仕事ではないのじゃないか、いまや。そういうふうな根本的な
考え方というものが、やはり
一つの底流としてあって、知能のすぐれた者は教職にはばかばかしくて行けない。でもしか
先生以外にはないのだということがずいぶんいわれます、実際いって。
私はそういうことから、欧米並みに女子が
学校を全部占めてくるということになれば、いままでの感覚とは違って、やはり女子の
先生というものに対して、産前産後の休暇の問題とか、いわゆるいま言われておる出産に対しての補助教員の問題、これはアウトサイダー的な
一つの
考え方ではなくて、
教育の本流としてこういうことを抜本的に
考えていくということも必要ではないかということを思っております。
それで、結局、都市と農村を比べるというと、これは私の判断ですから間違ったら直してもらいたいと思うのですが、農村のほうへ行くというと、比較的産業の発展していない、発達していない
地方へ行くと、比較的男子の
先生が多い。ところが、人口が集中してくるところの都会、大都会になるというと、男子の
先生がだんだん減少していっているのじゃないか。こういうふうな面について、私自体としては、
学校というものは少なくとも現状の半々というものを
一つのリミットにして、優秀な男子の
教師と優秀な女子の
教師による、いわゆる家庭と同じように
学校自体というものが女子の生徒が半分、男子の生徒がほぼ半分ということになれば、それぞれの特性を生かしたいわゆる
学校の
教師の養成というものが
一つの基準としてやはり
考えられていかなければならぬのじゃないかと思う。そういうふうな問題を
考えていったときに、いまの社会情勢に流されているというこの現象の中から、男の
先生にかわって女子の
先生が増大するということになってくると、
教育のいまもう都会地における主導力というものは、女子の
先生によってだんだんかわってきている。こういうふうなことを
考えたときに、一体朝から晩まで
教育に従事するという中で、いま千葉
先生から言われたように、雑務がますます増大してくる。そうなるというと、やはりどうしても事務職員というものを各
学校が確保して、しかもそれが男子の事務職員から女子の事務職員にやはりこれもかわってくるということになると、これに対してやはり抜本的に
学校の中におけるところのそういうふうな事務的な問題についても
考えなければならぬし、特に
学校の中における事務職員の立場というものは閉鎖的な中に置かれている。ですから、お産になったときに、これにかわるべき人があるのだということに魅力を感じて、やはりそういう職場というものの中において事務的な能力のある者を確保できるということにも、私はこれが通じてくるのじゃないかというふうにも
考えるわけであります。
学校全体の運営そのものについて思いをはせたときに、やはりいまの現状というものを踏まえてこういうふうな制度というものをやはり
一つ一ついまから手を打っていく、そうして職場にこういう人々を確保していくというふうな
措置というものを願いたいのですが、こういう点について欧米等においてはどうなっているのでしょう。そういうものについての運営とか、あるいは女子の教職員とか、あるいは事務職員とか、そういう
学校を
一つの単位として
教育の場として
考えていった場合に、こういう
措置をとってほしいという声が非常に現場から強いのですが、欧米等ではこれはどうなっていますか。