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八木(一)
分科員 不適切というあいまいな表現ではなしに、明らかに
——それでは内容についても申し上げてみたいと思いますが、
局長がさっき言われましたように、時間の
関係上、省略をいたしますけれ
ども、
局長も文書を御存じだ、私も文書を全部読んでおります。その同和
地区であるということがはっきりわかるように書かれております。しかも、そこは、たとえば評判がよくないというようなことで、同和
地区全体に対して編集者あるいはまたこれを使うことを府県の教育
委員会からこれを見のがして、
先生方に渡したという人
たちが、そういう評判がよくないということを書いた文書や何かで、そういうことについて把握をしていない、評判がよくないということをそのまま把握をしないで、こういうものを配付をしたことは、そういう差別的な
考え方で問題を処理したということになろうと思う。
それが
一つと、それから内容の処置の問題があります。内容の処置の問題について、たとえば、これはここでは「授業を妨害し、乱暴する
生徒」というふうになっておりますように、普通に毎日やったわけではなくて、何らかの授業のときに運動がしたい。それで、
先生から運動したいならお前だけ出て行けと言われたから、それに対して反対をして、ほかの
生徒も一緒に運動をしようじゃないか、と言って出て行ったというような問題。それから、二年間に一、二回手を上げたという問題がある。いわゆる世の中の非行といわれるような集団で、ほかの何も知らない人をごちゃごちゃと脅迫したり、あるいは婦女子にいろいろこわい目を与えたり、そういうものとは全然内容が違う。
学校内で運動がしたいとか、それから
先生のやり方に不十分なことがあったことについて、不満を表明したというような内容であります。
それからもう
一つ、一番
最後は、他の上級生が威勢を張ってガラスを割ったというようなことに対して、憤慨をして、あのように上級生がたくさん組んで下級生に圧迫を加えるなら、そいつとひとつけんかをしようかというようなことを相談をしようといったようなことで、若い時期にあっては往々にして起こることだ。非常に往々にして起こることであります。事象はそう激しいものではございません。ところが、これに対し
学校も適切な処置をとらないで、それで新聞に載ったということを理由に警察に連絡をして、
自分で教育をしなければならない子供
たちをすぐ少年鑑別所に送った。その後において非常に長期間
出席停止を命じたというような事実があります。これは一般的に、そういう
生徒たちに対して教育が対応しなければならないのを、その責任を振り捨てて警察に、あるいは少年鑑別所に司法的な処置でやればいいというような、安易なやり方になった。しかも、一番
最後の、たとえば三年生と二年生が対立をした場合において、片一方の、ガラスを破った、もとをつくったほうの
生徒には
出席停止がなくて、そうでないほうの
生徒には長い間の
出席停止があったというような点があります。そうして
出席停止を食ったほうにはこの少年がいるわけであります。少年は前にそういうことがあったからということで、そういうことが行なわれたのかもしれませんけれ
ども、これ自体が部落の少年に対する教育を放棄して、司法的処置でほったらかしておけばいいんだというような間違った教育
方針につながるものであります。しかもそのような、運動がしたいとか、
先生に反抗したいということのもとは何かということが十二分に
考えられておりません。この
生徒はここで記述で明らかなように、小
学校においては中ぐらいの成績であった。いろいろ性格的な評定においても、みなやや忠実な
生徒である。ところが、中
学校の後段から成績も低下をし、反抗的な姿勢が多くなったということの根源を十二分に
文部省なり、あるいは
関係者が把握をしておられない。この同和
地区の子弟がそういうふうには、そういうことが起こりやすい要因があるのは、非常に部落差別があって、生活の環境も非常に十分ではないという貧困家庭のそういう
状態から生まれているわけであります。小
学校のときにある程度できた、すなおな子供が、中
学校になって成績が下がり、すなおでなくなったということの中には、高学年になったら、かなり複雑な学問を勉強しなければなりません。そのときに帰ってきて勉強する部屋がない、あるいはまた参考書を買ってもらえない、あるいはまた学用品をそろえるのに不十分である。わからないところを聞こうにも、それを教えてくれる父兄がいないというようなことから成績が低下をするわけです。成績が低下をしたら、そのような感じやすい少年期、青年期にあたっては、やはりそれについていろいろの心理的な影響が出てくることは当然であります。そのときに
学校の教育者としては、そういう参考書がなくても成績が下がらない、父兄の教える人がいなくても成績が下がらない、そのような教育をしていかなければならないわけです。それが一般的に放置をされておる。うちで教育ママがいて教え込めば成績がよくなるが、そうではない家庭では成績がよくないというような事象が一般的にあります。そういうことで成績が下がってくると、子供のときには、成績が上だったのが、
自分の成績が下がれば勉強がいやになってくる。勉強がいやになってくると、今度はそれを親切に熱心に指導をして勉強に向かわせるようにしなければならないのに、そういう印象のもとに、この勉強はいやだからソフトボールをさせてほしいというようなことを子供だから言います。そのときに、そんなことを言うならお前さんだけ出ていけ、ほかのじゃまをするなというような態度で接していれば、その子供の教育を放棄したことになるわけです。そういうような事象全体が、この部落の根本的な問題を理解していないで、そしてまたそこに置かれた少年の
気持ちを理解しないので、画一的にただ勉強をしない子はほかの子のじゃまだ、そうしてそれが高じて、たまたま教室で大きな声を出したら、そういう妨害をする子は出ていけというような
考え方であってはならないわけであります。しかも、その処分について教育でこれを解決しようとしないで、すぐ警察署に連絡をしたり、すぐ少年鑑別所に入れる、そういうようなことをやっております。
一番
最後の記述の中に、
出席停止中に、春季の修学旅行に特に
配慮をして参加をさせた。そうしたら、その機会から非常にその少年がすなおになり、よくなったと書いてある。修学旅行に一回参加させただけでよくなる子供であれば、その前にもっと熱心に、もっと熱意を込めた、愛情のある教育が行なわれていたならば、そういう現象じゃなしに、もっと早く勉強を一生懸命にする気になったでしょう。そういうところに、全体にこの部落の問題を理解しないために、部落の子弟、同和
地区の子弟が、勉強はしたいけれ
ども、しいい環境にない。その間にほかの人
たちがどんどん進んで、そこで取り残される。そうなると、ほかの
生徒からもばかにされる。
先生も、愛情のある
先生と、そうでない
先生がありますが、
先生もやはりそこで、勉強のできる、言うことをすぐ何でも聞くほうの子を大事にして、そういう子は、困った子だ、めんどうくさい子だという気になりがちだ。そういうところに非常に問題があるわけであります。そういうところの反省がなくて、結果的にいろいろなことは言っておりますけれ
ども、きびしい態度をとったことがよかったという文言があります。また、そういう少年鑑別所に連絡をしたことについては問題があるが、と言うけれ
ども、それがいけなかったというような否定もしていないわけであります。そういうような中に、この
生徒が部落出身の
生徒であるということが明らかになる記述のほかに、その処置についての批判、また、その前に、そういう問題を理解しないやり方、そういうことについての反省が
一つも入っていない。そういう把握が
一つも入っていない。したがって、こういうやり方で、たとえば、そのときには鑑別所に移せばいい、そういうときにこういう処置をしておいたほうがよかったのだということを、一〇〇%よかったとは書いてないけれ
ども、こういう事例でこういう処置をしたということを七〇%くらい肯定した文章を出して指導したならば、そういう差別を拡大する、差別教育をする、教育の機会均等をさせない、ということにつながるわけであります。そういう
意味で、この文章が差別文章であるということをはっきりと初中
局長をはじめ、
関係者の方々は確認をされて、その立場で今後の問題の処置をせられなければならないと思います。それについて、差別ということは、
自分で差別をしなくても、問題を理解しない、そして、教育という行政のことで当然しなければならないことを、理解が足りないためにできなかったことも含んで差別であります。そういう点で、差別文章であるということをここではっきりと率直に確認をしていただきたいと思います。