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青柳参考人 ただいま御紹介いただきました
青柳でございます。
この
法律案そのものにつきましては、ただ
補償の
金額を増額するということでございまして、
物価指数という点から見ましても、
昭和二十五年の制定当時に比べますと大体現在三倍に近いと思いますので、その点
自由刑あるいは
未決拘禁の三倍という数字は、一応妥当な数値であろうかと思うわけでございます。また
死刑の
執行の点につきましては、三倍を上回っておりますけれども、これは
最初が安過ぎたようでございますから、この
程度ももちろん当然だろうと思います。これらは
国家財政の
見地その他一般の
社会福祉等とのつり合いなどを考えて国会でおきめいただくことでございまして、この
程度の案が私としては適当ではなかろうかと考えておるわけでございます。この
金額の点については、特にこれ以上の問題は私はないように思うのでございますが、これに関連いたしまして、ここに
参考人として来ておられます
大野弁護士も一員となりまして、
日弁連でいろいろ研究なさいました非
拘禁者についての
補償という問題がございますが、それについて少し述べさせていただきたいと思います。
非
拘禁者、これは御承知のとおり、現在の
刑事補償法は
拘禁を受けた者、及びほとんど例はないようでございますが、
死刑の
執行を受けた者についての
補償でございます。
拘禁を受けなかったけれども
無罪の
判決を受けたという者につきましては、
刑事補償としてはこれまで問題にしておりません。もし
起訴に当たった
検察官あるいは
裁判をした
裁判官に
過失あるいは
故意というようなものがあるとするならば、それは
国家賠償の問題ということになっておるわけでございます。これに対しまして
日弁連の案のほうは、そういう
故意過失を問題にしないで、
刑事補償法と同じような趣旨でもって受けた
損害を
賠償をするという案を
提出になっております。これは
刑事補償というものの
性質をどう考えていくかということとやはりある
程度の関連があるわけでございまして、これを無
過失賠償である、
一つの
法律義務だと考える
立場と、もう
一つは公平という
見地から考えていく
立場とあると思うのでございます。もちろん、公平と申しましても、これは戦前ありましたような国のお情けというような意味ではなくて、やはり権利的なものでございますから、その
性質は、現在はほとんど違わないとは思いますけれども、そこに、そのどちらをとるか、どちらのニュアンスを強く認めるかということによりまして、
解釈の差異はないようですけれども、
立法をする場合の
考え方が多少違うんじゃなかろうかというふうに私は考えております。
これはどういうことかと申しますと、公平ということでありますならば、たとえばこれからまた
あとでも触れたいと思いますけれども、気違いだとか心神喪失だということで
無罪になったような者、これは現在
刑事補償法で
補償を受けられるわけでございます。たしか神戸のほうで、そういうことで
補償の
請求をして一審が認めたということで、だいぶ世論がごたごたしたことがございました。結局あれは本人が取り下げてしまいまして問題はなかったようでございますが、そういうようなものについて、もし
法律義務説の
立場ならば、やはり
賠償すべきであろう。
公平説の
立場からいえば、これはそこまでやらなくていいんではないかということが出てきますので、そういう
立法の問題といたしまして考えられると思うのでございます。私は、現在の
刑事補償というのは、無
過失賠償という色彩はもちろんあるけれども、やはり公平という
観点からの
考え方も無視できないじゃなかろうかというふうに考えております。元来、無
過失賠償というのは、いまさら申し上げるまでもない
民法での
過失責任についての例外でございまして、これにつきまして
民法で認めておりますのは、その
事業を経営することによりまして社会的に非常な大きな
利益を与えるということのほかに、どうも私、
民法はよく知りませんので大きなことは申し上げられないのでありますけれども、その
事業者にも
利益を与えるようなものについての無
過失賠償ということがあるようでございます。
国家が何か間違ったことをやった、客観的には間違ったことをやったが、その
公務員には
故意も
過失もないというような場合におきまして、いまの
民法の無
過失賠償ということから申しますと、片方の
国家に
利益を与えるとは限らないという点で多少違いがあるだろうと私は思っております。
それからまた、
犯罪の種類が非常に多いということも考えていかなければなりません。公平ということならば、何も
無罪だから全部ということにならないわけでございますので、そういう点も考えられると思うのでございます。たとえば
無罪の中にも、現在
下級審の
裁判例集など見てときどき見当たるわけでございますけれども、電柱に
ビラ張りをしたというような
軽犯罪法違反の
無罪とか、あるいは
道路交通法に
違反をする
無謀運転についての
証明が不十分だという
無罪というような、いろいろなものがあるわけでございます。そういうようなものにつきましても、
補償を与える必要はあるいはないんじゃなかろうかというふうに考えます。
また
審理を受けたということ、
拘束を受けますと、確かにその間に働きもできませんので、得べかりし
利益その他大きなものがあると思いますけれども、
拘束を受けておりませんというと、その計量がはたして可能かどうだろうか、
公務員に
故意または
過失があるならば、そこで
国家賠償の問題にすればいいんじゃなかろうかというふうに考えるわけでございます。
それからまた、
無罪になったからと申しまして、必ずしも
社会的非難に値しないとは限らない。先ほどお話ししましたような
責任無能力による
無罪というものもございます。それからまた、このごろよく
刑法で問題になっておりますような可罰的な
違法性がないという、つまり処罰に値することの
違法性はないけれども、やはり社会的な
非難には値するのだというような
無罪も、あることはあるわけでございます。そのほか、
期待可能性がないということもありますし、それからまたもう
一つ根本的には、現在の
刑事訴訟法というものは、昔の
刑事訴訟法のように職権で証拠を集めて
判断をするというたてまえではございません。
検察官の主張した訴因について
証明があるかないかということでございまして、ある
学説によりますと、現在は罪とならずというような
犯罪はなく在った、すべて
証明不十分だということを申す
学説もあるくらいであります。私は必ずしもそれに同調はいたしませんけれども、昔の
帝人事件でいわれておりますような砂上の楼閣だというようなことで罪とならずという
判断は、確かに減少をしておる。おそらく多くのものは
証明不十分であろうかと思うのでございます。そういう場合におきまして、そのすべてに対して特に同情すべきものかどうかは、かなり個々的に違うものがあるんじゃなかろうかと思います。
このようなことでありますので、私としては
日弁連のお出しになったものに非常に敬意を表するわけでございますけれども、そこまでやることがいいかどうかは、
国家全体の
見地から、ほかの
社会福祉の問題などとも考え合わされておきめいただかなければならないんじゃなかろうかと思います。
ただ、そこの
日弁連の問題の中に
一つ入っておりますような、
刑事訴訟法を
改正して、
検察官上訴の場合の
費用の
補償を一審の
無罪にまで広げたらどうかということにつきましては、私は理論的には賛成でございます。ただ、そういたしますと、
刑事訴訟法は現在いろいろ矛盾があるわけでございまして、現在
法制審議会の
刑事法特別部会で検討いたしております
刑法の
改正の
あとは、必然的にこの
刑事訴訟法の手直しをしなければなりません。そのときにあわせて検討していけばまだいいんではなかろうかというような気もいたします。しかし、これはどちらでも私は特にどうということではないわけでございます。
もう
一つ、
日弁連のほうに直接入っているのではないようでございますけれども、現在
被疑者の
刑事補償というものが
大臣訓令できまっております。その
大臣訓令できまっておるものを
法律に移すかどうかということが、問題になるだろうと思うのでございます。私は、
結論的にはいま
法律に移すべきではないという
見解でございます。その点につきまして、多少私の
考え方をお話しいたしたいと思うのでございます。
現在の
大臣訓令によります
被疑者補償規程というものは、これは確かに公平という
見地に立って
規定をされておると私は思うのでございます。と申しますのは、先ほどお話ししたような「罪を犯さなかったと認めるに足りる
十分左事由」ということになっておりまして、
嫌疑不十分というものは抜いております。それからまた、
責任無能力だということで
起訴をしなかったというようなものについても、やはり除外を設けておるわけでございます。したがいまして、ここにはかなり公平的な
見地が入っておりますが、もし
法律に
規定をしてこれが無
過失賠償だということになりますと、もう少し広げて、現在の
国家賠償、
刑事補償にありますような
嫌疑が不十分だというようなものにつきましても、あるいは
責任無能力というものにつきましても、
賠償をしなければならないということになってくるんじゃなかろうかと思っております。
そこで、もしこれを
法律に移して
法律義務だということになりますと、
捜査の
段階を現在のようなままにしておいていいのかどうかということが、かなり問題でございます。これは現在非常に
議論があるところでございますが、現在の
捜査の
段階は、いわゆる糺問的な
捜査観といわれておる見方によっておりますので、当事者的な
捜査構造はとっておりません。もしこういう
法律義務ということにするならば、当事者的な
捜査構造が必要になるんじゃなかろうか。
ドイツのように、
判断者を判事にするとか、アメリカのようなプリ・トライアル・ジャッジが
判断をするとか、あるいは
刑事補償法にありますような
検察官が第三者の
立場で
判断をするというようなことになっていきませんといけないわけでございますが、現在の
捜査は
検察官と
司法警察職員との協力ということになっておりまして、いまのような第三者的な
判断をするということにはなっておりません。そうすると、第三者的に
判断が要るんだということになりますと、また今度は、たとえば
起訴猶予という
判断を受けた。しかし、自分は
嫌疑不十分なんだというようなことをどこかで訴えるところをつくっておかなければならない。おそらくそれは
裁判所に
請求するということになると思うのでございますが、そういうことになりますと、現在たしか全
事件の三割以上が
起訴猶予になっておるようなことで、それを一々
裁判所にそのようなことで
請求されましては、現在すでに
破産状態にある
裁判所の
負担過重になるんじゃなかろうかというような気がいたします。
被疑者の
補償につきましては、
立法例は非常に少ないわけでございまして、
ドイツにはあるようでございます。ただこの場合において、
ドイツは
起訴法定主義で、
嫌疑があれば必ず
起訴するというしかけになっておるのでございまして、
起訴便宜主義ではないということを考えておかなければならないと思います。フランスのように
起訴便宜主義の場合においては、
被疑者の
補償の
規定がないということでございます。
ちょうど十五分という時間が参りましたので、この
程度で一応私の
意見は終わりたいと思います。