○
八木(一)
委員 総務長官は遠慮なさいまして時間の節約上あまり申されませんでしたけれども、これは私の考えておりましたことと、
総務長官並びに
政府関係者の考えておられることが一致した
状態において、同じ
気持ちで強力に推進していかなければならない問題だと思いますので、私の見解を要約して、ただいま御
質問申し上げましたことについて申し上げてみたいと思います。
同和問題についてはいろいろの学説がございますが、そこで一番集中して定説になっているものが述べているように、この問題は
徳川時代に始まった
身分的差別という問題、身分的な
階級制度という問題から
発足をしていることは明らかであります。
徳川時代においては、おもな
生産担当者でございます
農業をやる
人々、そういう
人たちから、そのときの
支配者でございます
武士階級が経済的に
収奪をいたしまして、その財政的な、物質的な根拠の
もとに
武士政権を永続化したいというところから始まったところであります。百姓は食わしむべからず、飢えしむべからずということばで象徴されているように、
生産階級である
農民を極度のぎりぎりまでしぼり取るということが、
徳川時代の
政治の一番の
重点でありました。それを実行するときに、一生懸命つくった米をほとんど
収奪をするということになれば、それに対する
農民の反抗が起こる。それを抑えていかないと
徳川幕府が続いていかない、
武士階級の
権力が続いていかないということで、それを押えるために
故意に
身分制をつくって、
武士階級を第一に置き、
農民階層を国の宝だとして第二番目に置き、そして大工、左官その他建築に
関係しておる
人々を三番目に置き、それから
商売をしておる人を四番目に置く。さらに
故意に
穢多、
非人という
身分制をつくって、
農民が
権力者の次に高いものだというような名誉を与えた。国の宝であるからという名誉を与えて、そのかわりに経済的にしぼり取るということから始まった
制度であります。そしてまたそういうふうに
国民階層を身分的に分けることによって、
権力者である
武士が非常に横暴をすることについて一致して立ち上がることを防ぐために、
国民をかく
身分階層に分けたわけであります。そのようなことから
発足をして、人為的に
徳川幕府の
政権を維持するためにつくったその
身分制から始まっているわけであります。最初はそういうことについておかしなことだとされておりましても、百年、百五十年たつとそれが生まれつきのそういうものであるように
国民が誤認をいたしまして、そして
国民の中に抜きがたい
差別観念を植えつけることになったわけであります。その後、
明治の
時代になって、
明治四年に
太政官布告を出して
国民は平等であるという
状態をつくりました。つくりましたけれども、その
やり方がはなはだ不徹底でございました。大名と
貴族、
公家階級には爵位を与えました。
武士階級は
士族という名前で残しました。それ以外の
国民は
平民ということになりましたけれども、そのときに
太政官布告で
穢多、
非人も
平民と同様に扱うという、いわゆる
解放令ができたわけでございます。観念的に平等にしたように見えまするけれども、そのような
公侯伯子男、
士族という
階層があれば、それが尊い
階層である、また前から残した
位階勲等がそのまま続けば、その
人たちは尊敬さるべき
人たちであるというような誤った
思想が濃厚に残りました。人の上に人があるという
思想が残ったわけであります。それは裏返して言えば、人の下に人があるということになります。
貴族があれば賤族ありという問題が残ったことになるわけであります。したがって、
明治改革は非常に不徹底で、前のいわれない
身分的差別概念を
国民全体に濃厚に残したまま、
明治の
時代も
大正の
時代も
昭和の
時代も進んできたわけであります。
その次に経済的な点については、
明治の
政府は
徳川時代よりもはるかに悪い
やり方をとりました。工に当たる
人たちは
仕事がふえて
発展する。商に当たる
人たちは
資本主義の
興隆期を迎えて大いに
発展をいたしました。農に当たる
人々も、
武士の米を取り上げるそういうワクがはずれましたから、地主、
小作おのおのその中に楽な人と苦しい人がありましたけれども、しかし
武士から
収奪される
部分がなくなっただけは楽になりました。そして
武士のほうはどうかといえば、これは
士族哀話というような小説その他に載っておりまするけれども、実際上は手厚い
措置を施されました。いわゆる
官軍側は
高級公務員に非常にたくさん登用されました。いわゆる
幕府側は
下級公務員にたくさん登用されました。したがって、安定したそのような
職業につく人が大
部分でありました。それとともに、
武士階級が俸禄がなくなったことに対して、その当時で合計二億一千万円の
秩祿公債を発行いたしております。その金はいまの
貨幣価値で、
卸売り物価で
換算をして二千七百億円、
小売り物価では五千億円くらいの
換算になります。しかも、そのお金を
もとにして年三分で計算すれば、実に百七十兆くらい、年八分のあのときの公債の利息で
換算をすれば、これはとてつもない天文学的な数字に達するような金額になります。数の少ない
武士階級には
秩祿公債ということで経済的な
発展の
もとを与えました。
農民となるためにも
開墾適地を優先的に与えた。それを補助をして大農になるような道を開きました。しかしながら
部落の
人たちにはそれと逆に、
徳川時代にはそのような
身分的差別をしておりました反面には、経済的なある程度の
特権がございました。その
特権を
明治政府は全部取り上げました。たとえば、
斃獣処理権等の
特権を取り上げたわけであります。そして
職業が自由になりましたから、おもに
皮革関係の
仕事をしておった
同和地区の人の特別な
仕事に
一般の大
資本がどんどん食い込んでくることになりました。
労働者あるいは
勤労者として立とうとすれば
差別が濃厚でございまするから、
官公吏はもちろん、普通の会社でもこれを雇用いたしません。
労働者として立つ道がございません。
農民として立とうとすれば、
明治初年の
農地改革は
農村に住んでいる
同和地区の住民に一寸の
土地も分け与えなかったわけであります。また、
小作権も与えなかった。その後非常な努力をして、わずかな
条件の悪い
小作権は何十年の間に少し確保しておりまするけれども、初頭においては
小作農にもなれない、
手伝いの
農業労働者、不安定なそういう
状況しかできませんでした。
商売をしようとしても、町の中で
土地を売ってくれない、貸してくれない。家を売ってくれない、家を貸してくれないから、そのようなところで
商工業を営むことができない。
労働者としても
中小商工業者としても
農漁民としても立つことのできない
状態に置いて、しかも前になかった徴税の
義務、徴兵の
義務を課しました。貧乏でありますから、いろいろな
土地の
税金やあるいは
所得税のようなものはかからないかもしれませんけれども、いままで
自分で醸造してどぶろくをつくっておったのが、
税金のかかる酒を飲まなければならないということになるわけであります。そういう点で納税をする
義務を負った。そして働き盛りのときに兵隊に引っぱられる
義務を負った。
明治政府は
徳川時代よりも経済的にははるかに圧迫をする方法をとりました。
その結果、その
身分差別から出た貧乏が加速度的に増大をしてまいりました。
明治から
大正にかけての
資本主義興隆期は、このような
半永久失業群があることが、低
賃金で
収奪をしながら
資本主義を伸ばすのに好都合でございまするから、
明治、
大正においてはその
対処は行なわれませんでした。
その後、そのような
状況で
差別と
貧困が極度に達したときに富山県から
米騒動が起こりました。これは
一般の
漁民の家庭の婦人から始まった
運動でございまするけれども、一番米価の値上がりについて苦しい立場にある
関西、
関西の中の特に
部落の同胞にそれが急速に波及をしてあの
米騒動に
発展をいたしたわけであります。そのような
状態をとって
政府はびっくりして、いままで怠けておったことについていろいろの
対策を立て始めようといたしました。そして、それを契機として全国的に、いかに
政府が何もやってくれないかということと、
国民が
差別をすることと、極端の
貧困にあえいでいることが
もとで、いわゆる
水平社運動が起こり、
糾弾闘争が
発展をいたしました。その後、そのような
糾弾闘争は表向きの
差別を
国民がすることを抑制することにおいて役に立ちましたけれども、裏ではその
差別概念はひとつも消えないという
状態で、裏の
差別は続きました。
貧困はあくまでも続きました。
それに対してその後、そのような
差別の
言辞を弄するものの
もとをただしました。たとえば、
部落の
同和地区が衛生的な
環境が悪い、そこの
子供が学校にあまり出てこない、トラホームが多い、そういうことが
差別の
言辞を弄した
もとになっているということを発見する。そのようなままに放置をしている自治体はどうしている。
市町村や
府県にそういうことを直す
行政の
責任があるというような
要求が起こりました。そのように
市町村、
府県に対してそういう
要求が起こり、いろいろな
運動が起こりました。
政府のほうが
対処しました
やり方も、この大
東亜戦争の前段になってそれを中止いたしました。そして戦後を迎えたわけであります。
戦後を迎えて、
民主主義の
時代になりまして当然解決されなければならないのに依然として解決されておりません、戦後の
農地解放は、
小作権を持っている者に
自作農創設という
やり方で、
農地の
解放をいたしました。
農村についている
部落の
人たちは、この
明治から
大正について数十年の間に一生懸命
農業手伝い人として働いた。まじめに働くからということで恩恵的に一
反歩二
反歩、山の陰で一番
条件の悪いところ、川のそばで作物が流れるところ、そういうところをやっと分けてもらって、二反か三反の
小作権を何十年の間に確保しておりましたから、幾分の
小作権を持っておりましたけれども、
一般の
農村の
人たちのように多くの
小作権を持っておりませんでした。したがって、戦後の
農地解放は非常によい
やり方でございましたけれども、少なくとも
農村地帯の
同和地区の
人々にはごくわずかしか均てんしておらないわけであります。しかも、戦後においては、
政府のほうが始めかけておりましたことを、
進駐軍の
行政下にあって、この
歴史的な
背景を知らない
進駐軍が、ただ形式的平等をとなえ、
国民の一部に対して特別な
措置をすることはおもしろくないというような、
現状を、
歴史を
一つも知らない
進駐軍のため、前にとられようとしていたものがストップになりました。ところが、独立後
日本の
ほんとうの
政治がよみがえってまいりました。そこで、その
歴史的な
背景に基づいて、非常な
貧困、たとえば、
生活保護については、
全国各地の平均の三倍近くある失対
労働者の中で、
関西以西においては、たとえば私の居住している奈良県においては、八割までが
部落の人である。そのように、
生活保護の率、あるいは失対
労働者として働いている人の数、あるいはまた、兵庫県等にある、いわゆる
臨時工、
社外工の問題、その
人たちがほとんど
部落の出身の人であるというような
現状から見、その当時、
長欠児童、未
就学児童の大
部分が、
関西以西においては
部落の
子供たちであるという
状況がありました。そういう
状況を
もとにいろいろの
要請あるいは
運動が始まったわけであります。
国会においても、その
要請を受けていろいろな
討議が行なわれました。
内閣や各省においてもぼつぼつとこの問題に対して
対処が始められました。そこでいろいろな
討議が行なわれ、まず、その当時行なわれた問題は、
環境改善にちょっと手がつけられております。
同和教育にちょっと手がつけられております。しかし、それでは全体の問題を解決することはできない。観念的に
差別がなくなったもののように見えても、いまの
民主主義の
時代でも、
子供は純真になっていても、
子供がある程度に達すると、大人が、あそこの
子供とはあまりつき合わないようにというようなことを言って、依然として観念的な
差別も残っている。そういう貧乏と
貧困の実態があり、それがだんだん拡大してくるという
状態にございました。でございまするから、
環境改善は、
同和教育だけでは問題が足りない。
明治以後の、
労働者として、
農民として、
漁民として、
中小企業者として成り立たせなかった問題、それを根本的に解決することが大きな柱でなければならないということになったわけであります。
同和地区の人が、
労働者として、
臨時工、
社外工というような
状態ではなしに、
ほんとうに
自分の能力に従って働ける場所へどんどん行けるようにする。小さな
農業でも、小さな
工業でも、漁業でも、成り立つようにさしていかなければならない。
貧困からできた
環境の中で住宅は猛烈に悪い。これを直していかなければならないし、
環境も直していかなければならない。そういうような問題になったわけであります。
そこで、
昭和三十二年に
衆議院の
社会労働委員会でこの問題が取り上げられました。
岸内閣総理大臣と
質問者との
討議において、総括的に
内閣と
国会との
約束、
国会を通じての
国民との
約束として、問題の整理と
約束が行なわれたわけであります。その問題は、そういう
歴史的背景を全部
討議して、その
背景の中で、
部落の
人たちのいまの
貧困と貧乏と
差別は一切その
人たちの
責任ではない、
徳川時代以来のすべての
政府の
責任である、この問題の解決は全
国民の
責任であり、具体的にはあらゆる
内閣の、すべての
政府の
責任である、いかなる
政党が
内閣を編成しようとも、何
ぴとが総理大臣になろうとも、これに対しては全面的に急速に
対処しなければならない、そのことが
一つ確認されました。そこの中で、
部落の
人たちの一切の
責任ではないということは、いま
貧困であり、いま貧乏であり、
差別が消えないということは、何十年もスタートをおくらせた
政府の
行政の
責任であるということが確認をされたわけであります。したがって、すべての面において、それを取り返す強力な
措置をすることが
政府の
責任であり、
国民の
責任であるということが明確にそこで
約束をされました。その問題を進めるにあたって、
政党の
利己心など一切出してはならない、あらゆる
政党が協力してそれを進めていかなければならない。具体的には、いまわかっている有効な
制度を、
予算を惜しまずにどんどんやっていくとともに、総合的な
審議会をつくって、そこで結論をつくったことは一瞬の
遅滞も許さず、即時、全面的に、急速に実行していく。それについての
予算などは一文も惜しんではならない。そういうことについては、
国会を通じて
岸内閣総理大臣と
国民との
約束になったわけであります。その問題を
もとにして
同和対策審議会ができ、その
審議会に対して諮問をされたのは
池田内閣であります。その
答申を受けられたのは
佐藤内閣であります。そういう経過がございまするから、
同和対策審議会の
答申について、それをびた一文でも値切ったり、その要項を削除したり、そこに書いてあるものを
遅滞をさせたりということは、このような、
憲法のあらゆる条章に
関係のある
もとにおいて、
国会と
政府の
約束したことの違反になるわけであります。ところが、その同
対審の
答申が出ましたそれについて、
佐藤内閣総理大臣は、
衆議院の本
会議なり
予算委員会なりで、これを完全に急速に尊重することをしばしば積極的にお
約束になりました。そのうちの中心的な
課題でございます
同和対策特別措置法についても、
昭和四十一年において、その
国会で成立させたい、四十二年においても成立させたい、そのような十二分の
内容を持ったものをその
国会で成立をさせたいという御
答弁があったわけであります。しかしながら、残念ながら、四十一年はILOの問題と
祝日法の問題が
一つのブレーキになって、その
実現を見ませんでした。四十二年は、
健康保険特例法がさらには
一つの要因になって、その
実現を見ませんでした。三年たった今日、何が何でも
同和対策特別措置法について十二分な
内容を持ったものを急速に提出していただいて、これを成立させなければならない
状態であります。
ところで、この前の
予算委員会においては、
総理大臣と
田中総務長官に
質問をいたしました。
総理大臣はその意思を明確に示してくださいましたし、できるだけ
同和対策協議会の
答申を得てやりたいということを言われました。
田中総務長官は、
総理大臣より幾ぶん濃厚に
同和対策協議会の
答申に
重点を置いて、同じような
答弁をされました。元来、
同和対策協議会というものは、
社会保障制度審議会や
社会保険審議会のように
政府を縛る
協議会ではございません。その
答申を得なければ
政府はものができないという
法律規定はないわけであります。しかも、四十一年の
総理大臣と
安井総務長官のときには、この
同和対策特別措置法を出すことについて、
総理府の中の
同和対策協議会に聞いてからという話は一切なかったわけであります。
塚原総務長官の
時代においては、
同和対策協議会にはからなければ出ないということもありませんでした。
田中さんの
時代になってから、ぜひ
同和対策協議会の
答申を得てやりたいということを強調されたわけであります。その点について、以前からの
内閣と相当にはなはだしく抵触があるわけでございますけれども、しかし、
同和対策協議会というものが、五カ年計画の
実地調査その他については一生懸命やっておられる実績もございまするから、
法律の
審議がおくれていても、それを
政府が急速に促進さして、そして問に合うならば、
同和対策協議会の
意見を尊重して出すことはいいけれども、それが間に合わない場合には、
同和対策協議会の
答申がなくても十二分のものを
政府が出すということについて
総理大臣のお
約束をいただいたわけであります。
同和対策協議会は、三月三十日にその
答えを出しました。したがって、
総理大臣のお
約束によれば、これに
関係なしにもっと前に出てこなければならない。
総務長官の強い熱望によっても、三月三十日にこの
答えが出た以上、四月の二日ぐらいに
同和対策特別措置法の
内閣案が出てこなければならない
状態でございます。おくれていた事情はわかりまするけれども、
同和対策特別措置法案の
政府案について、近日中に必ず十二分のものを出すという御
答弁があろうと思いまするが、その点について、
田中総務長官の前向きの積極的な、明確な御
答弁をいただきたいと思います。