○
三宅委員 さすがにずっと回ってこられた
国際人としての
三木外務大臣、私、全く同感であります。私も
中南米へ行きまして、
ほんとうに
日本人がよくやっておると感じましたことは、たとえば
サンパウロやリオデジャネイロ、あの辺の大きな
都市が発展いたしまして、そこの
野菜の
供給だとか、花の
供給だとか、
くだものの
供給というものは、全く
日本人の
移住者の力によってやっておるのでありまして、あれは現住民だけでありましたならば、もしくは
ヨーロッパ糸だけでありましたら、あれだけの急激な
都市の膨張に備える
野菜、
くだもの、その他の
供給はできなかったと思う。新しい首都を開きましたあそこの
地帯は非常に悪い
地帯で、ほとんど食物ができないというところへ
日本の
移住者が入りましてやっておるということだって、非常に大きな
寄与をしておると思うのです。
それから、
アマゾンの
地区に行ってみますれば、
ゴムがだめになりました
あと、コショウの栽培でもって
アマゾンを復活させたという大きな功績はやはり
日本人であります。
それだけでなしに、
ボリビアに入っていきますと、
日本の三倍の面積で三百万しか人口がおらぬけれども、高いところに住みたいという習性のある
民族であって、
農業がおくれておりますから、
食糧自給ができない。わずかの
日本人が入って、
ボリビアの
砂糖と米の
自給態勢をつくったというようなことも非常な大きなことであります。
それから、
革命のキューバに入ってみますと、三崎の漁師が行きましてマグロをとることを教えまして、いまでも行っていると思いますけれども、ともかくそれによりまして、
革命騒ぎで豚や牛を殺してしまって、肉がないときの
たん白給源をやっているという事実を見ましても、私は非常に大きく
評価しなければならないと思うのであります。
大臣の言われるとおり、二世が
政界に進出したり、医者になったり、弁護士になったりということで、非常な
役割りを二世、三世がしておることも事実でありまして、私は、この
評価については、
日本としてはひとつ非常に大きく
評価しなければいかぬと思うのです。
しかるに、
大臣に聞きたいことは、
日本の
戦前の
移住政策というものは明らかに
棄民政策だったと思うのであります。たとえば
ブラジルの
開発が六十年だといい、
ペルーの
開発が七十年だというが、
高橋是清氏が
奴隷に売られたという話のとおり、あれは
砂糖の
奴隷で入っていきましたが、大部分死んじゃって、食うに困った。あの山を越えて
アマゾンに入って、第一次
世界大戦のときに
ゴムの暴騰によって
大成金になって、戦後
ゴムが暴落いたしますと、食えないので、金を持って山越しに
ボリビアに入って、四百人一くらいの
日本人があそこで
向こうの人と結婚して落ちついてしまった。
私はあの
ボリビアに入ってびっくりしたのは、
ボリビアの札に
吉田という
サインがしてある。
ボリビアの
国立銀行の札は、御
承知のとおり
発券局長が
サインをすることになっていますから、
サインをしておる。
吉田茂氏じゃなかろうと思ったら、
ペルーから
アマゾンに入って、
アマゾンからあそこへ入って帰化した人の二世か三世だろうと思うのでありますが、それが
国立銀行の
発券局長になって
サインをしておるという
状態でありますが、残念なことには、もう
日本語をみんな忘れてしまっておる。
向こうの
民族に埋没してしまって、あの間に
戦争をはさんでおりますから、無理もありませんけれども、埋没してしまっております。あれらの
諸君が
日本語を
ほんとうに覚えておって、
日本との
交流がずっと続いておったといたしますならば、私は、あそこまで伸びてまいりました
ボリビアにおきまして、
日本との
交流とか
日本との貿易の
開発とかいうことにどのくらい役に立っておるかわからぬと思うのであります。
そういう
意味におきまして、
戦前の
日本の
政策というものは、
ただ移民船のくさい三等で送り込んでいって、そして
苦労をさせ
ただけでございまして、
日本の
政府が彼らに対してやっておることというものはほとんどありません。御
承知のとおり、
大陸へ
日本が進出するようになったら、
一旗組というやつが
大陸へだっと行きまして、軍の権威のもとに悪いことをして、中国人などから搾取をした組が
——全部そうとは言いませんよ。りっぱな人もたくさんおりますけれども、そういう組まで便乗して外地における補償を
請求しておりますときに、
戦争でもって牢屋に入れられたりいろいろいたしまして、その
土地を奪われたりひどい目にあって、しかもなお
向こうのためにあれだけ働いておる者に対しまして、
日本の国民及び
政府というものは、その
戦前の
中南米移住者に対しまして、アメリカでも同じでありますけれども、ひとつもう少し遇する道を考えなければいかぬと思います。
質問する時間が短いからして、私の
意見ばかり述べて失礼でありますけれども、たとえば
三木さんは行ったから知っておるでしょうけれども、明治は
ブラジルに残っておると大宅君が言っておるとおりであります。それこそ、いまでも十一月三日を天長節だと思っておる者がおりまして、
日本のほうを向いて遥拝しておる。そして
日本が恋しくて恋しくてかなわないから、何百里という道を
サンパウロに出てきまして、
向こうの
日本人のやっておるまずいそばを食って
日本の味をかみしめて、また何百里の道を帰っていくという
諸君がたくさんあります。母国のことがなつかしくてなつかしくてかなわない。しかも隔離した
社会におられたから、
勝ち組と
負け組ができて、殺し合いをするという悲劇の中に年をとりました
諸君が、
移住をしてから四十年、五十年という
状態になっておって、一ぺんも郷里に墓参りに来ておられないという
状態であります。私は、今日、
三井大阪商船の船などが行っておりますけれども、帰りはほとんどがらあきであります。もし政治に
ほんとうに親切がありますならば、どうせ
補助航路で出しておりますし、それは
後進国開発援助費の一部と見てもよろしいのでありますから、
向こうの国籍を持っておるのでありますから、それらの
諸君に対して、ひとつ
順繰りに
希望者を船でもって往復の船賃だけは
ただにして帰して、そうしてまた
向こうに戻すというくらいのことはやらなければいけない。それは決して国としてもむだにはならない。どうしてむだにならないかといいますと、来ますれば、
縁故でもって連れていくのです。私は
大臣が来られます前に
外務省や
移住事業団に聞いておりましたのは、
土地の
選定を誤って、国が金を使っておるからといって、
選定を誤ったことがわかっておるのに、そこに
無理やりに
移住者を入れまして
——無理やりとは言いませんけれども、それで
日本の
開拓地で
失敗したと同じ事例で
失敗して、現に
訴訟が起きておる。そういうことまでやっておる
状態のときに、私は、一番いい
移民政策、
移住政策はどういうことかといえば、
現地で
苦労をして
事情を知った
諸君が国に帰りましたときに、
縁故で連れていく。そして
土地などをわれわれのほうで買っておかずに、あの
諸君の
縁故で行って
向こうで働いて、ことばを覚えて
事情がわかったときに、国が資金の
援助をして一番いいと思う
土地を買う。彼らの
責任においてやつて、国に文句をつけさせないで、しかも彼らで
自主独立の精神でやれるという、そういう
縁故移民というものが、
ほんとうに一番大事だと思うのであります。それがふえるだけだって私は大きなプラスになると思いますから、その具体的な例として
一つ申し上げることは、
戦前にほとんど
棄民政策としてやって、しかも
日本のわれわれの誤り、あなたもわれわれも
戦前の代議士だ、
戦争を防ぐことができないで迷惑をかけた一人なんだからして、その罪滅ぼしの
意味におきましても、何とかしてひとつ
大阪商船の船などを
ただでもって往復させることの予算を
後進国開発援助費で組んだっていいんだから、それを組みまして、
順繰りに帰りたい人は帰す、それはまた
縁故でもって
移住者がどんどんふえていくという、この
政策をひとつとるべきではないかと思います。ひとつ
外務大臣としてでなしに、
国務大臣として、閣議においてそういう
姿勢をつくってもらうと、
移住事業団の仕事だって何だって非常にやりよくなるのでありまして、国の
姿勢というものが、はやりもののように
東南アジアはかり行って
——東南アジアよろしいよ。よろしいけれども、何千何万何百万の人を殺した
賠償に、両方でわいろを取って汚職が起きるなんという
姿勢でやりましたら、しまいに、アメリカが金を
援助してボイコットを食ったと同じように、
日本がまたアジアの孤児になる危険性があるのでありまして、
東南アジアも
姿勢を正して後進国
援助をすることも必要だけれども、
中南米に対してそういう施策をひとつ
本気にやろうじゃありませんか。私どもがわざわざこういうところに来て、いい年をして
委員会をお願いしているのはそれなんだ。それをひとつやろうじゃありませんか。御
意見を
伺います。