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参考人(
平子忠君)
福島県
地方労働委員会の
会長代理の
平子でございます。
それでは、今次
福島交通労働争議の
経過の重点的な点につきまして、概略御
説明をいたしたいと思います。
非常に長きにわたって連続しておるものですから、初めがはっきりしないんですけれども、本年になりましてからのおもなる動きを申し上げますと、四十一年の二月に
病気を
理由といたしまして現在の
織田大蔵社長が一応退陣したというようなことから始まるわけですが、それにかわりまして
次男の
織田鉄蔵社長が
社長に就任したわけでございます。それで、一応その時点では
労使関係はまとまっておったわけでございますが、
織田大蔵社長が
病気が回復されまして四十二年の六月一日に
会社にまた出社されたということで、そのときは身分は
社長ではございませんでしたけれども、事案上
経営陣に復帰されたというようなことになりまして、いろいろそれから問題がまた始まってきたということでございます。
それで、
昭和四十二年の八月から実際また今度正式に
社長に
織田大蔵社長が復帰されたわけですが、その間
次男の
鉄蔵氏を退陣せしめた
理由は、こういうことではとても
会社はやっていけない、だからお前らではだめなんだ、それでおれがなるということでまた
社長に復帰された。したがって、
社長に復帰された
理由は、あくまでも
経営の
合理化、
会社の建て直しということの強い気持ちの上からなられたというふうに考えられるわけでございまして、
社長になられますと、早々
会社の
再建計画というものを次々と発表されてきたということでございます。
それで、いろいろ
会社の
緊縮方針、あるいは
人員の
整理方針、それから対
組合との問題というものを強く
計画として打ち出しまして、一方、
会社の
首脳部につきましても、
技術部長、
自動車部長、
社長室長、あるいは
管理課長、
総務部長、あるいはまた
勤労部長なんかも入っておりますが、こういう
首脳部を解職いたしまして、これらは、いずれも、こういうふうな
会社の事情になったのはこの
会社首脳の責任問題であるという
理由で解職したということでございます。
それで、一方、
組合側に対しましては、従来
組合の
事務所として使っておりましたその
事務所をもう貸さないから立ちのけという問題を強く打ち出してきた。それから
あと、第一次
解雇通知というものを二十四名ほど一回目に
解雇通知を出したということで、いよいよ形勢が険悪になってきたわけですが、そういうふうなときにおきまして、九月十五日でございますが、
私鉄の
力徳副
委員長が来福されまして、それで
織田社長と
団交されまして、
労働協約の改定の問題、従来の
解雇者全員を復職せしめる、あるいは、今後の問題としては、
懲罰委員会をつくりましてそれによって査定をして決定するというような問題、そういうような問題を取りきめをしまして、一応その当時の問題は解決をみたわけでございます。
まあそのときの
話し合いによりまして
懲罰委員会をつくったわけでございますが、その第一回の
懲罰委員会におきまして一応の
結論は出たわけでございますが、その後、
社長は、こんなもんじゃだめだと。それで、
会社側委員を解任いたしまして、第二回目からは
社長が直接
出席するというようなことに相なりまして、第一回の
結論には従わないと、こういうような強硬な態度に出たわけでございます。それで、十月二日に第二回の
懲罰委員会を開催いたしたのでございますが、この場合は
社長直接
出席しまして、このときの
人員の構成は、
会社側は
社長を含めて三名、それから第一
組合側が三名、それから新
労組——第二
組合といわゆる言っておるのですけれども、新
労組が一名と、こういう七名の
委員会を開催いたしたわけでございますが、この場合に、
社長が出ておりますので、
社長の一方的な
強行採決を
会社側は強く主張したわけでございますが、これに対しましては、
組合は
採決の結果には従わないという、ちょっと変なんですが、そういう
前提でもって、
社長もそれじゃそれでやろうということで
採決を行なった。新
労組のほうの一名というものは
会社側につきましたから、結局、第一
組合側は三、
会社側は新
労組も含めて四ということで、数の上では確かに過半数になったわけでございますが、その
前提は
強行採決してもそれには従わないという
組合側の
前提があるわけでございまして、
社長もそれは了解しておったというようなちょっと変な条件でそういうようなものが強行されたということでございます。それで、ここに、
社長は、正式な
懲罰委員会できめたんだと、それを
組合がのまないというのは変だということを主張しており、
組合側では、あれは
社長が一方的に強行したのであって、あの
委員会を開く場合には、そんなに強行しても結果には従わないということを
前提としてやったんだという争いが残っておるというようなことでございます。
それで、この場合には、合計二十四名の問題を
懲罰委員会にかけたわけですが、
解雇が十二名、
保留その他四名、それから
撤回が四名、
あと、第二
組合のほうが、
解雇二名、
保留二名と、こういうようなことで三十四名がさばかれたということなんですが、これについては、
組合側は、
社長が一方的にきめたんだから無効であるというような主張をしておるということでございます。
それから
あとは、もう
懲罰委員会というのはそれだけで開かれませんで、その後は一方的な
会社の処置によって運ばれたという
経過でございます。
それで、第二次
解雇通告は、これは十月の七日から十四日にかけて行なわれたわけですが、
解雇者は
通告を受けた者が十六名でございます。このときに、
組合本部の
役員全員十一名がこの十六名の中に含まれて
解雇通告を受けたというようなことでございます。
組合本部役員というものの
解雇理由としましては、
会社側の
理由としては、
経営上やむを得ないという
理由でございます。それから
あとの
組合員五名は、
飲酒運転事故というような
理由でございます。
それからさらに十月二十三日から二十六日にかけては、第三次
解雇通告がございまして、十一名が
解雇予告を受けたということでございます。
それで、十月二十四日に、
組合は、
スト予告通知をなした。この
スト予告通知の
内容は、
労働協約違反、
解雇問題その他一連の
不当労働行為という
理由でもって
スト予告通知を出したということでございます。
それから十月三十一日には、
組合は、
福島地裁に、
解雇された三十五名の
地位保全、それから
賃金支払いについて
仮処分申請を行なっております。これに対しまして、
会社側は、十一月四日付でロックアウトの
予告通知をなしております。
それから十一月六日に至りまして、
組合側から
不当労働行為の
救済申し立てがなされたわけでございます。この
不当労働行為救済申し立ての
内容は、
組合員二十七名に対する
解雇辞令取り消し、
組合との
団交、
組合費のチェックオフ、それからポ
ストノーティスというこの四
項目になっておるわけでございます。
これに対しまして、
地労委は、十二月十日に第一回の
審問をいたしました。それから十六日に第二回の
審問をいたしまして、事態が急激に処置しなくちゃならぬ問題がございましたので、これを一括しまして処理いたしておりますと時間が間に合わないという問題がございましたので、
不当労働行為救済申し立ての
内容四
項目は先ほど申し上げましたようになっておりますが、このうちから
団交開始分だけを分離いたしまして、それで十六日に
団交だけを分離いたしまして審査いたしまして、同日決審いたしまして、十二月十九日に
団交開始の
救済命令を
双方に交付いたしたわけでございます。
それで、一応、まず
話し合いの場をつくるということについて一つの望みを託しておったわけでございますが、この
救済命令は
会社側から受け入れられなかったというわけでございます。すなわち、翌日二十日の朝に
組合側から
救済命令に基づく
団交申し入れをいたしましたが、これは封も切られずに返戻されたというようなことで、受け入れられなかったわけでございます。
それで、
地労委といたしましては、何とかして
話し合いの場をつくるということについていろいろ考慮いたしておったのでございますが、それとあわせまして、
救済命令を出す際に、このままじゃなかなかいきなり
団交の場は持てないのじゃないかということを考えまして、いままでの
織田大蔵社長の言い分といたしましては、
解雇した
組合幹部とは会わない、けれどもそれを除く
組合となら会う、それから
私鉄とは会う、こういうことを言明されておりましたので、
地労委会長が立会いたしまして
織田大蔵社長とそれから
私鉄の
力徳副
委員長との三
者会談でもって
団交の前座をひとつつくろうという考えを持っておったわけでございます。それで、そういうことにつきまして二十日の午前中に
会長が
社長に会見を申し込みましたところ、会うということで、
会長が
福島交通に参りまして、
社長室で
会長が会って、
私鉄と会ってどうするかということについて話し合う意思はないかということを申し上げたわけでございます。
いままでの
双方の争点を考えてみますと、
会社側は、あくまでも心がまえは
会社の
再建合理化ということを強く通しておりまして、
合理化に反対する
組合幹部とは絶対会わないんだと、反対しない者とは会うんだ、こういうことを言っておるわけでございますが、一方、
組合側は、いままで
合理化反対ということばについては
一言も出ていないのであります。いわゆる一方的な
解雇撤回という
問題等を中心とした
団交とか、それ以外の
不当労働行為というものを
理由として
ストをやるんだ、こういうふうに言っておりまして、その間におきましては、
合理化反対ということは全然どこの表現にもあらわれていないわけでございます。
地労委の
会長といたしましては、その問題を考えまして、
社長には、
組合は
合理化反対というのは、どこも言っていないじゃないか、ただ、一方的な
解雇、あるいはとにかく会わないといったような
不当労働行為、これについて
組合は不満を持っているんだ、だから
合理化にひょっとしたらば大賛成するかもわからぬぞ、それだから会ってみないかというような理屈で言ったわけでございますが、まあいまとなっては何ともしようがない、会ってみてもしようがないのだということで、ついに受け入れられなかったというのがきのうまでの
経過でございます。
なお、
地労委といたしましては、この前の
昭和四十年度の
争議の場合は、当初から会わないということで、
地労委に対する門戸は当初からかたく閉ざされておったということで、実はその点は困ったわけだったのでありますが、このたびの場合は、向こうから
地労委にも一度ほど来ておりますし、それからまた、きのう
会長が行ってそういうふうに受け入れられなかったという問題でありましたけれども、今後もひとつちょいちょいと会うからよろしくと言っておりましたが、その際に、いや
地労委さんには会いますから、こういうふうに言っておりまして、一応
地労委の門は閉ざされていないということは、前回の問題とは非常に違っている問題であるというふうに考えられるわけでございます。
非常に大ざっぱなことでございましたが、一応従来のおもなる
経過について御
説明申し上げた次節でございます。