○渡辺
勘吉君 私は、過般の国会が終わりましてからただいままで、もっぱら岩手県下のビート栽培地帯を文字どおりくまなく回って歩きました。あるいは農家の縁側で、役場の町長室で、そして農協の営農
指導員に、あるいはまた県の農業改良普及員に、どの村でも、そして夜は必ずといってもいいほどビート問題に焦点をしぼった座談会を持ちまして、ビート生産農家のなまの声を率直に聞く
機会を持ってただいままでまいったわけです。
その中の一、二の例を拾って申し上げますと、九戸郡に大野村という村がありますが、この村に柏木畑という部落がありまして、岩手県でもかなりビートの栽培面積の大きい農家があると聞きましたので、その農家まで行ってまいりました。これは奥寺誠人という青年でありまして、おととしも去年も、そしてことしも、政府の施策を信じてビートを一ヘクタール栽培をしている農家を私は実際に学んだわけであります。この奥寺君は、いよいよ政府が無責任にもビートに見切りをつけたということで、来年からどうするんだという
意見を聞きましたら、再び大正時代の畑作経営に戻って、ヒエと麦と大豆の二年三毛作に返るほかがないといって、非常に政府に対する不信を嘆いておりました。この農家はもとより、これらはビートパルプと結びつけた、短角を六頭持っておる有畜農家の一つの例であります。また、今月の二十三日に岩手県の葛巻町という町の町長に会いましたが、この町長は、どうも最近政府や県の間で話が進められておるあの
考え方ははなはだけしからぬ、何としても、圃場で見舞い金を出すならば、北海道の実勢価格に従来の
地域加算を入れた七千三百八十円をトン当たり
補償すべきであるし、その上に、従来の正常な圃場が再開されてあればもらうであろういろいろな奨励金、その中にはビートバルブの還元に伴う奨励金等も含めて上積みをして、これは
補償をかちとってもらうように国会で働いてくれ、ついては、二十八日に岩手県下の町村長
会議があるので、この
会議で私の
意見を堂々と動議として出して採決をするつもりである、というのが葛巻町長のことばであります。
私は、ここまる二カ月の間、岩手県下のビートを中心にして行脚をして得た結論というものは、生産農民の政府に対する憎しみに燃えている憤りであります。国民一般の政治不信の高まりであります。倉石
農林大臣、政治には、これはいささかも国民を欺くことは許されません。私は、これから大臣に対して政治責任を追及せざるを得ないことをきわめて遺憾に思います。
大体このビートのそもそもの
北東北における
経過を回顧いたしますと、大臣もすでに御承知のように、
農林省がビートについてにしきの御旗を掲げたのは、昭和三十四年二月の
甘味資源自給力総合対策をきめた省議の内容であります。そのときの
農林大臣は三浦一雄、そして事務当局の実質的な旗振り役が当時の
食糧庁長官の渡部伍良、振興
局長の増田盛等がこのにしきの御旗を掲げる主体的な役割りを果たしておった。そのときに技術陣容はきわめてこれに異論を持っていたことは、大臣は御承知のとおりでありましょう。
北東北に適する品種を定着せしめないで、
行政が思い上がったこういう措置をすることは、将来に大きな問題を残すであろうという技術陣容の問題点、これも時の勢いというものは、吹けば飛ぶようなこういう良心など、センチメンタリズムとしてもみつぶす例はかなりあるわけです。ビートがその典型だったわけです。
このときの総合対策の内容というものは、昭和四十三年を目途に国内の必要とする
甘味資源の五〇%を自給をするということであって、それから、これを省議から立法措置に訴えて、
甘味資源特別措置法案を国会に政府が出したのは、忘れもしない昭和三十八年の三月であります。私はこの法案を審議して、非常に抵抗を感じましたのは、政府の法案の中に盛っている最低生産者価格の告示する内容と、当時すでに取崩されておる実勢価格との開き、これがやがて今日のような大きな問題を胚胎するであろうとは私も想像しませんでしたが、少なくとも実勢価格を下回るような最低生産者価格を告示するという法律の明文の中には、問題が起こったときには政府は責任からのがれるという落とし穴があったことを、私はいまにしてこれは指摘せざるを得ないわけであります。そのときに国会では、これを審議未了に二回し、継続審議にし、ついに矢折れ刀尽きて参議院の本院で成立しましたのは、忘れもしない昭和三十九年の三月三十一日であります。時の赤城
農林大臣に私は午後十一時過ぎにお尋ねをいたしました。この自給度を高めるということについて、政府はいかなる成算があるのか。それに対して赤城
農林大臣は、昭和四十三年には青森には五千ヘクタール、岩手には四千ヘクタール、秋田には二百ヘクタール、これだけを栽培を増強させるのだと。そのためにあらゆる奨励施策を講ずるということを私は信じて、この法律に賛成をして、この三十一日にこの本
会議で成立した
経過があるわけであります。しかるに、
事態はむしろ岩手の四千ヘクタール。青森の五千ヘクタールは軽く消し飛んで、すでにもう無に帰そうとしている。私は、政治の責任というものは、これほど具体的で顕著なものはかつてなかったと思うのであります。いろいろこれには原因があるでありましょう。
それは、たとえばこの法案の審議中に起こった昭和三十八年八月末の砂糖の自由化の強行でありましょう。これは申すまでもなく、自民党内部の派閥の一つの具に供された理由もあったわけです。いずれにいたしましても、砂糖を生産する国で、世界広しといえ
ども、完全に自由化をやっているような勇気のある国は、世界広しといえ
どもモナコ一国を除いては他にありません。したがって、この完全自由化の大きな影響と、それから農民がビートに積極的に取り組みかねている第二の理由というものは、申し上げるまでもなく、これは実勢取引価格があまりに生産費を下回っているということです。また、
行政の不一致ということもこれはあげなければならない。
いまの園芸局では、その
立場からビートの生産増強の旗を振ります。しかしながら、一方では水田についてのいろいろなやはり
行政指導をやる。青森の例が具体的でしょう。ビートをつくるよりは畑を水田化したほうがよりこれは所得がはっきりと向上するのでありますから、何度ビート、ビートと申しましても、農家は実利に重点を置きますから、農業水利さえ
解決すれば、これは従来の畑作から水田に転換することは当然である。
行政の一貫性というものが
一体どこにあるのか。ほんとうにビートを四十三年の展望に立って国内の
甘味資源の五〇%の自給力を高めるという高度の政策意欲を盛るなら、それにふさわしいような背景をなぜ政府は樹立をして、その政策の上に着々としてビートの増産を進めなかったか。まさにこれは
行政のセクショナリズムのやはり犠牲の産物であるとも言わなければならない。
冒頭に申しましたように、試験研究のまだ十分できていない北海道に導入された、月寒でやった北海道の品種をそのまま入れますから、青森あるいは岩手では葉腐れに弱い、反当収量が低い。こういう一つの技術的なものを克服するのに
一体何年かかると思いますか。それらをやらないで、単純にこれを押しつけたところに今日の悲劇を生む理由がまたあったと思うのであります。私は、それらをあげれば切りがありません。限られた時間に大臣に具体的にお尋ねをするわけであります。
ここに持ってきましたが、「地上」という雑誌があります。これは家の光協会が毎月百三十六万部を農協を通じて配給をしている協会の雑誌でありますが、この八月号に出ているが、農林官僚が責任をもって坊主になれと書いてある。私の
意見ではないですよ。大臣、読んだですか。
食糧庁長官、読んだですか。それだけの責任をもって私のこれからの
質問に答えてもらいたい。三月三十日にこの
農林水産委員会であなた方は私の
質問に答えた、その
答弁と寸分違わない、私の尋ねたその基本精神を尊重して、これからの私の
質問に答えてもらいたい。政治家はうそはいささかもあっては許されない。こういうことを私はまず冒頭に注意をしておく。
それで、具体的にお尋ねいたしますが、地方の新聞には、今月の二十七日に
農林大臣は、青森県の
知事と岩手県の副
知事のようですが、昭和四十二年産の
北東北てん菜の処理について、明確な大臣の意思表示がされたようであります。それは
一体どういう内容のものですか、正式にこの
機会に
お答えを願いたい。