○
河野謙三君 本
院議員・元副
議長松本治一郎君が
逝去されました。ここに
諸君を代表いたしまして
追悼の辞を述べなければなりませんことは、私の深く悲しみとずるところでございます。
顧みれば、
松本君は、新
憲法下、
参議院の発足と同時に、初代の副
議長に
当選せられ、民主的な
参議院制度推進のため、大いに力を尽くされました。その
職務遂行にあたりましては、常に厳正にして公平、今日見られるような
議院のルールと紀律の確立は、実に当時の
松本副
議長の御尽力に負うところが多いのでございます。はからずも、私は、ただいま副
議長の職にありますが、いまは亡き
松本君の
面影をしのび、その大いなる
功績を思いつつ、感慨ひとしお深いものがあります。
松本君は、
昭和二十四年二見、
連合国総
司令部の
覚え書き該当のゆえをもって、不本意ながら一
たん公職を退かれましたが、その後、輿望をになって再び
参議院議員に
当選され、以来、前にも増しましてお元気な姿で、
民主政治発展のために
活躍を続けてこられました。特に、本院の正常な
運営につきましては、絶えず意を用いておられました。たとえば、第二十四回
国会における
議事の混乱に際しましては、いまは故人となられました
松野議長に協力されるなど、いかに
参議院を愛されたか、いかに
議会制民主政治に情熱を持っておられたかの、よき、あかしではなかろうかと思います。その
松本君の姿をわれわれは再び本院の議場に見ることはできません。まことに残念なことであり、悲しんで余りあるものがございます。
松本君は、
明治二十年六月
福岡市に生まれ、
少年時代から
人間の
差別と
社会の不合理に反対し、やがて全国の
部落差別撤廃を目ざす
水平社の創立に参画され、後、その
委員長となり、戦後は
部落解放同盟をつくり、その
中央委員長として、戦前戦後を通じて
部落解放運動の
中心的役割りを果たし、
解放の父として敬愛されてきたのであります。
一方、政界においては、
昭和十一年、
衆議院議員に
当選、当時の数少ない
無産政党議員の一人でありました。以来、
衆議院議員に
当選すること三回、さらに戦後は、本
院議員に
当選四回に及び、その間、
社会主義への道をただ一筋に歩まれた信念の人でございました。最近は、
日本社会党顧問として、同党のため力を尽くされるとともに、本院における長老として
重きをなし、去る六月には、
国会議員の職にあること二十五年に及ぶ永年
在職議員として、特に
院議をもって表彰を受けられましたことは、私
どもの
記憶にいまなお新たなところであります。
また、
同君は、
世界の各種の
平和会議に出席、アジアを
中心に
世界各国を歴訪して
平和運動に貢献され、特に
日ソ国交回復や
日中貿易発展のために
先進的活動をなされたことも、忘れることはできません。
「天は、人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という
ことばがございますが、
松本君こそは、一生を通じ、身をもって
人間解放の歴史を書き続けた人であり、その生涯はさながら
求道者のごとくであったというべきでありましょう。そうしてまた、その人となりは、あたかも
大海のように広く深い心を持った方であったと私は思うのであります。
人間の尊厳をおかすものがあれば、闘志は岩をもかむ怒濤のごとく峻厳でありましたが、平素は、なぎ渡った
大海のように静かで、おおらかで、やさしく、また寛容でありました。
最近、私は、本院の
社会党の若い秘書の
諸君から聞きましたのでありますが、「
松本まんじゅう」という
ことばがあるそうでございます。
議事がおくれて夜おそくなりますと、きまって
松本さんから、
まんじゅうの差し入れがあって、それを「
松本まんじゅう」と名づけたということでありますが、そういうところにも、
松本君の、やさしい、いたわりの心づかいと人柄の一端がしのばれる思いがするのであります。
松本君の思い出は、私のみならず、
同僚諸君の胸の中にも、
公私ともにいろいろあることと存じますが、われわれは、もはや
同君の温容に接することも、声を聞くこともできません。しかし、私は、
松本君がいまもこの
議席に、にこやかに着席され、この演壇を見つめている、そういう気がしてなりません。
議会民主主義の
発展にとって重大な試練のときに際し、
同君のごとき尊敬すべき
民主政治家を失いましたことは、
ひとり本院のためばかりでなく、
国家国民のためにまことに不幸でございます。
私
どもは、
同君の遺志を体し、
議会民主主義発展のために、一そうの努力をいたさなければならないと存じます。
ここに、
同君の御
逝去に対し、つつしんで
哀悼の辞をささげますとともに、衷心より御
冥福を祈る次第でございます。(
拍手)
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