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千葉千代世君 この問題はやっていると与えられた時間がなくなってしまうので、私やめたいと思うのですが、ちょっとやめられないです。これは。というのは、ある年齢がきたらお引きを願うなんて、あなた何を言うのです。そうでしょう。しかもその中にですね、これはたとえば東京の場合ですと、校長の場合は六十歳、あるいは場合によっては延びることもありますけれ
ども、
一般の
教員の場合には年齢で制限なしと、しかし、七十五にもなって
一般の
先生はいないですよ。これはお引きを願うと言わなくても、自分の体力を考えて、
能力を一応考えてやっているわけです。そこらはやっぱりこれは常識というものをお互い仲間の問題として、いろいろな点を総合判断していくわけでね。これは百になって、いろと言ったっていられやしません、正直な話言って。
子供はぴんぴんはねていますからね。そこらのやっぱりめどというものがあるわけなんです。
一定の年齢になってお引きを願うという
内容の中に、あるいはもう
一つの
理由の中に、ある程度収入その他によって勘案すると、こう申しましたね。そのことばにはしなくも出ているのですよ。ある地方からの訴えの中にこういうことがあるのです。御夫婦で俸給十一万以上の共働き、その共働きは、だんなさんが銀行で奥さんは
学校の場合はいいんです。二人が
教育者としている場合には十一万円以上の人はやめてほしいと、こういう方針が出されたわけです。そうすると、その十一万円取っていらっしゃる御夫婦は、やはり結婚してからそれぞれ生活設計があって、いろいろ必要なことがあるからいるわけでしょう。
お金が要るためにだけ働いているのじゃないですよ。
教育に熱意を持って生命を打ち込んで、そうしてやはり
教育のために一生をささげようという、これがもとになっているわけなんですよ。そうしていくというと、借金が幾らか、知らないでしょう。借金のある人は、私はこれだけ借金があるなんて言っていく人は一人もありませんよ。私だっていま選挙の借金があったって、あるなんてだれも思っちゃいませんよ。違うでしょうと言う。みんなわからない。いなかから借りにくるのですよ。それ式なんですよ。だから、外から見て、
教育委員会のたとえば指導主事、係の人が、自分が一人で働いていて月給七万、八万円だとすると、あそこの校長さんと奥さんは片っぽが七万円、二人で十四万円だと、だから細君はやめても食べていかれるんだろうと、このものさしなんですよ。これを当てはめられるから、上手にやるというと、御主人のほうはやはりそこは弱い立場で管理職ですから、幾らかもらっているでしょう。そうすると、やはりそこでもってまあまあという因果を含められていくという
実情なんですよ。そこをやはりくみ分けるのが行政者なんですよ。逆なんですよ。そうしていったって別に指導主事といいますか、職員課長といいますか、管理者という首切る人の名前は私何の職だか知りませんが、人の月給をどろぼうして
先生二人がもらっているわけじゃない。出るべきところがらちゃんと堂々と取っている。労働なら労働の報酬として対等にもらっておる。
学校につとめている
先生は一人の
教育労働者として、対等の価値観として堂々ともらっているので、だれに遠慮が要りますか。一々
学校に行っていて、あそこは夫婦だからおれより月給が高いからといってにらまれたらたまったもんじゃないでしょう。幾ら借金して、どのくらいいなかに
お金送っていると思うのですか。うちには
お金を毎月三万円送って、そうして十年寝ているしゅうとに
お金を送っていますと、そうして手足の不自由な義兄をかかえていますとか、涙の出るようなことを書いてあるのですね。そういうことを全然考えないで、机の上で、あれは月給が二人で十四万円だ、十一万円以上はけしからぬと、そういう人の首を切る人がほしいと思うくらいですよ。たいへん恐縮ですけれ
ども。機械的なそういう申し合わせとか内規とかでなくて、やはり真のお互いの平等権とか対等権とかいうものがあるならば、男女の特質を生かし合った
教育の場があって、はじめて
子供たちがほんとうに持っている力をフルに生かし合うということを学び取っていくんでしょう。人は人間として権利はこれこれあるんですといって教えたってだめなんです。そういう体験を持った人の中でいい
教育がされていかなければだめだと思うのです。
そういうわけで、たいへんお説教じみましたけれ
ども、どうも首切り浅右衛門みたいに、見てください、全部首切りじゃありませんか。これは特定のところじゃなくて、どっちかといえば
文部省のたいへんひいきにしている新聞でしょう。校長さんはみんな読んでいます。こういう新聞に書いてあるのです。だから今度校長会のほうからは、六十歳以上まではやめさせないとかなんとかいって、いろいろな
要求がきているわけですね。こういうふうになっておりますから、これはやめますけれ
ども、そういうふうに男女の差というもの、なんで差をつけるかということ、これは差をつけてはならないということで、そういう中で今度は女教師をたくさんふやしていきたいという
観点で、この
女子教育職員の
育児休暇法案というものは、私はたいへんいい
法案だと思っているわけなんです。そこでいまの問題で、
保育所とあわせて、やはりほんとうに
婦人教師が安心して職場で働くために、
婦人教師を過重な労働から解放するということと同時に考えていくという中で、たいへん熱心に研究していらっしゃる
先生方があって、この
教育研究のレポートをずっと拝見した中に、これらのことばで尽きると思うのです。
婦人教師がふえたふえたというけれ
ども、量的にふえたということで、女の
先生がふえてよかったななんて、量がふえることはけっこうだが、私はやはり質的な転換をして、うんと質的にいいものを、量質ともにふやしていきたいという願いなんです。今の質が悪いというのではありませんが、もっとよくしていきたい。この間テレビを見ておったら、甲府の
教育長さんが朝のNHKのテレビで、一〇二ですか、そこで
教育長さんが、甲府の
学校で女の
先生ばかりの
学校をやったことについて批判があって、自分の所信を述べていたのです。たいへんいい御
意見であったので、私すぐ甲府へ電報を打ったのですが、電報の中に、男女の
能力にいささかも差はない、もし
能力に差があるとしたならば、それは
能力を十分に伸ばす体制がいままでなかったからだ、だからあなたの
意見に
賛成だから絶対ひくなと電報打ったのです。そばにいた人が、何でもすぐ感激して、
教育長なんかに電報打ったってって言うのですが、
教育長だって何だって、いいことなら打たなければならないといって笑ったのですけれ
ども、
一つのそういう意図が、女の
先生が足りないからだといってふやしたという意図であっても、ふやしたならば質をよくしていくことが、今度あとから続く者の
任務なんだから、ですからそういう意味で考えてみますと、これは千葉県の女の
先生の木村俊子さんという方が、「女教師の過重労働からの解放と定員闘争」ということで、これでちょっと一くぎりつきますから、これでくぎって次に進めますけれ
ども、「女教師
時代きたるといっても、それは現在のところ、単に量の上の問題でしかない。真に女教師が義務
教育の主体となって活動するためには、現状のような
教育の
条件の枠の中での研修は女教師に
負担をのみ背負わせて問題を解決するものではない。むしろ女教師たちを過重な労働から解放することが先決であると思う。」、こう言って、ずっと一週四十四時間の勤務時間から始まって、具体的な例を全部調べて、女教師の労働、それから疲労度、それからいろいろな欠勤数とか、たくさん調べあげていって、やはり量的転換をはかりながら、男女の特質を生かし合ったいい
教育分野を築いていくのだという使命は、みんなでやっていくのだということが述べられているわけですが、私はそういう意味で、やはり男女の差をつけていくという、旧来の観念を払拭しながら進んでいくという
一つの
条件の
整備が、この休暇
法案だということを把握しておりまので、そういう
観点からもう少し時間をいただいて進めていきたいのですけれ
ども、この中に選択制というのがございますね、
鈴木委員に伺います。選択制ということばではありませんが、そういうことが盛られておりますけれ
ども、どちらを選んでもいい、とってもとらなくても、産休が終わったら出て行ってもよろしいし、あるいは続いて
育児休暇をとってもいいということが書いてありますね。もう
一つ、休職でなくて休暇にしたらというのはどういうことでしょう。二つをちょっと。というのは、これには
育児休職というのが全電通の書類に書いてありますね。
育児休職をとって——これは
法律ではございませんから、そうすると了解事項ですか、団体協約になっているのですか、その辺ちょっとどういう
観点からでしょうか、お答えいただきたいのです。