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1967-05-09 第55回国会 参議院 文教委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十二年五月九日(火曜日)    午前十時四十九分開会     —————————————    委員異動  四月十九日     辞任         補欠選任      多田 省吾君     柏原 ヤス君  四月二十日     辞任         補欠選任      鶴園 哲夫君     山崎  昇君     —————————————   出席者は左のとおり。    委員長          大谷藤之助君    理 事                 楠  正俊君                 中野 文門君                 鈴木  力君    委 員                 北畠 教真君                 近藤 鶴代君                 玉置 和郎君                 内藤誉三郎君                 二木 謙吾君                 小野  明君                 小林  武君                 林   塩君    国務大臣        文 部 大 臣  剱木 亨弘君    政府委員        文部政務次官   谷川 和穂君        文部大臣官房長  岩間英太郎君        文部省初等中等        教育局長     齋藤  正君        文部省文化局長  蒲生 芳郎君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君    説明員        国立西洋美術館        館長       富永 惣一君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○教育文化及び学術に関する調査  (国立西洋美術館絵画購入に関する件)  (昭和四十二年度文部省の施策及び予算に関す  る件)     —————————————
  2. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  委員異動について報告いたします。  去る四月十九日、多田省吾君が委員辞任され、その補欠として柏原ヤス君が選任されました。また、四月二十日、鶴園哲夫君が委員辞任され、その補欠として山崎昇君が選任されました。     —————————————
  3. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 教育文化及び学術に関する調査中、国立西洋美術館絵画購入に関する件を議題といたします。  蒲生文化局長より発言を求められておりますのでこれを許します。蒲生文化局長
  4. 蒲生芳郎

    政府委員蒲生芳郎君) 国立西洋美術館作品購入の件につきまして調査報告を求められておりましたが、本日、富永館長から報告を申し上げたいと思いますので、お許しいただきたいと思います。
  5. 大谷藤之助

  6. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 昨年来、国立西洋美術館購入いたしました昨品につきまして、いろいろ御、心配をいただき、また御質疑をいただいております。これにつきまして御説明、御返事を申し上げたいと存じております。  もっと早めに御説明申し上げるべきであったが、だんだんとおそくなりまして本日に相なったことを申しわけないと存じておりますが、この御説明に先立ちまして、常々、当美術館購入しておる場合の方法につきまして簡単に申し上げておきますが、当美術館におきまして、美術作品購入いたす場合には、どうしているかと申し上げますと、館長はじめ専門職員が、当該美術作品につきましては、もちろんその鑑定書作品の総目録作家または作品に関する研究書展覧会にいままで出されたその出品歴等美術作品の優劣、真贋の判定のための各種の資料につきまして十分調査いたしました上、さらに専門家に委嘱しておりますところの購入選考委員会に諮問いたしまして、購入可否、つまり購入してよろしいかどうかという可否を決定している次第でございます。なお、昭和四十一年度からは、購入価格の適正を期するために、購入選考委員のほかに価格評価委員を委嘱して、購入予定作品価格評価を依頼いたしまして、そしてその評価額基準購入するということにしておるのでございます。こういうふうな方法を原則といたしておるのでございます。で、もちろん三十九年度の購入につきましても、まず第一に、この作品自体につきまして慎重なる調査を行なってきておるわけでございます。すなわち、この問題になっておりますドラン作ロンドンの橋」及びデュフィ作アンジュ湾」の二つ風景画につきまして申し上げますならば、この両作品につきまして、その専門職員全部が慎重に調査をいたし、その主題構図手法色彩感覚を検討してまいったのでありますが、もっと詳しく申し上げるならば、ドランの「ロンドンの橋」につきましては、ドランロンドンにおもむいて——一九〇五年から一九〇八年にわたりまして、いわゆるフォーブ時代と申します非常に色彩のあざやかな一時期がございます。これはドランのみに限りませんけれども、そういう一時期に、ロンドンの橋をいろいろかいておるのでございまして、この問題の「ロンドンの橋」もその一つであると十分に認められるものであります。と申しますのは、まずそれに用いられておりますところの材料と申しますか、そういう方面からも研究しておるのでございまして、たとえば、ドラン常々自分でかくキャンバスをつくるのでございます。手づくりでございます。自分ではさみで切り、そうしてくぎを打つというのがドランの常常のやり方でございまして、この作品も、よく分解してみますと、そのとおり手づくりをしております。それから、これがどれくらいの年度をたっているかといういわゆる老化現象、いろいろの老化現象を研究いたしましたところ、五、六十年の老化現象をしていることも認めておりまして、年代的にも符合すること間違いないのであります。さらには、それらの色彩でございますが、色彩をいかにして用いるかという点につきましても、ドラン常々薄クレパシオンと申しまして、薄ぬりをいたしまして、そうして入念にかくのでございます。この手法も全くその常法を使っておるわけでございます。それらの点を見ても、そこに疑わしいものなく、また、これが新しくつくられたということはあり得ないということを信ずるものでございます。その他フォーブ時代色彩の置き方、つまり原色を対置的におきまして、そうして非常に効果を強くするという手法も、これはなかなかむずかしいたくみな手法でございますが、これまた今日ドランの正しい作品と称せられる他の作品と比較研究いたしまして、共通するものでございまして、他の余人をもってして、簡単にこういうものができるものではないということを認めておるわけでございます。そういうふうな点を諸般考慮いたし、総合的に判断いたしまして、これはドラン真作であると考えて、購入委員会の審議をお願いしたわけでございますし、購入委員会におきましても、全員一致をもって購入がふさわしいという結論を出していただいたわけでございます。そういうふうなわけでございますし、また、デュフィの「アンジュ湾」の風景にいたしましても、デュフィ南仏海岸主題にいたしました数多い一これは非常に多い数になりますが、水彩、グヮッシュの作品一つにこれを加えて見ることはきわめて自然でありまして、いろいろの構図のとり方その他についての見方等はありましょうけれども、これが同じくデュフィ作品手法であるということは十分に認めることができるのでございます。しかしながら、ただ、そういうわれわれだけの判断だけではなく、さらにこれを裏づけるためには、やはり第三者鑑定を必要といたすのでありまして、第三者鑑定も絶対とは言えないにしても、これはやはり重要な裏づけとしてわれわれは考えておりますので、この際はすなわち「ロンドンの橋」につきましては、フランス在住公認鑑定人パシッティ鑑定書がついておりまして、パシッティ鑑定書一つの大きな裏づけと考えておるのでございます。また、デュフィの「アンジュ湾」につきましては、アンドレ・ショレールと申しまして、今日死にましたけれども、十九世紀の終わりから二十世紀にかけての、これも有名な鑑定人でございますが、これも間違いないという鑑定書を持っておるのであります。これらを総合いたして、この作品真作であるということを信ぜざるを得ないのでございますが、一体この鑑定人があっても、あるいは鑑定書があっても、その鑑定書が実は怪しいのではないかということもよく言われるところでございますが、こういう点も考えまして、一体このドランに付せられているところの鑑定書について、直接フランスパシッティ、その人に問い合わせをいたしたのでございます。これはあなたが確かに鑑定し、間違いないと認めたものであるかということを写真にとり、その旨を問い合わせました。さっそく返事が来まして、まさしくこれは私が書いたものであり、これは真作であるということを信じておるという返事をもらったのであります。さらに、もう一つデュフィのほうの鑑定書、これはすでに死んでおりますが、その子供も同じく画廊を開いておりますので、この子息のショレール、これは日本にも来たことがあります。これに手紙を出して、この鑑定書真偽を確かめたのであります。これからもやがて、これは少し返事がおくれましたけれども返事が参りまして、これは父の書いたものに間違いないということで、父がまさしくこれを鑑定したという返事が参ったのであります。それらによりまして、これらの鑑定書も本人が書いたものだと判定せざるを得ないのであります。  この際、一体、公認鑑定士なるもの、フランスにおける鑑定人なるものはどういうものであるかをちょっと申し上げておきたいと思うのでございます。フランスにおける鑑定人は、裁判所によって任命される法定鑑定人パリ地区競売人連合会によって公認されます公開売り立て場の立ち会い鑑定人となる公認鑑定人、それから、税関によって委嘱される鑑定人がございます。同一人がこれらの数種の鑑定人になることもあり得るのでございます。フランスにおきましては、鑑定人意見は非常に重要視され、権威を持っておりまして、ことにパリ地区競売人連合会によって公認されました公認鑑定人は、自分鑑定意見に対して三十年間の責任を負うことになっております。もし、公認鑑定人に非行または重大な過失があるときは、登録から直ちに削除されることになっておりまして、その責任は非常に重くみられておるわけでございます。さて、このパシッティ及びショレール信頼度について申し上げますが、また駐仏日本大使館を通しても調査してもらったのでありますが、パシッティ氏は現在公認鑑定人登録されているうちの中でも最も著名な人の一人であって、法定鑑定人に委嘱されておる人であるということであります。ショレール——これはもちろん父のほうであります。もうなくなったのでありますが、故人でありますので、現在、登録簿には登録されておりませんが、生前はフランスにおいて最も信頼された公認鑑定人であったということを報告してまいっています。両人信頼度につきまして、今度はフランス国立近代美術館に照会いたしましたところ、パシッティ氏も、ショレール氏も、パリではよく知られた鑑定人であります。私は、両人とも、疑わしい作品鑑定書をつけて、自分名声を危うくするようなことをする人であるとは思いません。」と回答してまいりました。フランスには、国の管理下にある公認競売場が各地にありまして、絵画骨とう品家具等競売を実施いたしております。その競売立ち会い人は、裁判所所属公吏公正証書をつくる権能をもって政令で任命されております公吏であります。その立ち会い人連合会は、半官的規約をもっている公的機関であります。その一つであるセーヌ地区競売人連合会事務局長ギョーマン氏に手紙を出して同じく照会いたしましたところ、「競売人連合会公認する鑑定家は、その職業的能力に関して、誰からも異論のない、完全に有能と認められた人に限ります。また、連合会は、鑑定家公認するにあたって、完全な道徳的潔白性必要条件とします。ショレール氏は、かつて、フランス公開競売公認された、きわめて偉大な鑑定家であります。彼の息子パシッティ氏は、現在パリ競売人連合会公認鑑定家であり、フランス市場においても、国際市場においても、完全な名声を保っている人であります。」との回答がまいりました。  それから、なお、国内で西洋作品価格専門に研究しておる研究家があるのでございます。この特殊な研究家にも尋ねましたところ、ショレール氏は第二次世界大戦後、パリにはんらんしたにせ絵発見の功績で、「贋絵発見の神様」と称せられたほどのすぐれた鑑定家で、十九世紀作家コローから印象派までが専門であるが、セザンヌゴッホ、デュフィについてもすぐれた鑑識眼を持っておりましたという返事であります。つまり、ショレール鑑識裏づけているわけであります。こういうふうなわけでございまして、パシッティ及びショレール鑑定書信憑性につきまして、先ほど申しましたように、パシッティ氏の鑑定書について、鑑定書作品写真同氏に送りまして確認を求めたところ、間違いなく自分鑑定書であるという回答があった。ショレール鑑定書につきましても、同様にその鑑定書及び作品写真息子ショレール氏に送付して確認を求めましたところ、兄のパシッティにも見せた結果、間違いなく、父のショレール氏の鑑定書である旨回答してくれたという手続を経て、私どももこれは違いなき鑑定書である。鑑定書信頼度を高度に認めた次第であります。  それからまた、ドラン未亡人鑑定書がきているのであります。ドラン未亡人鑑定書も、未亡人のことだから書いたのじゃないかという疑いも、場合によっては起こり得るのでございますが、フランスでは、非常に鑑定書を書くということは重大なことに考えておりますので、そう簡単に書くわけはないのでございますが、この点も、まず第一に、フランス国立近代美術館に照会いたしましたところ、「ドラン未亡人は、もちろん、夫の作品真偽鑑定する能力を持っている人です。」との回答がまいりました。それからまた、ドラン未亡人鑑定書信憑性については、直接、同未亡人手紙を出しまして、この鑑定書を書いたかどうかを問い合わせたのでございます。確認を求めたのでございますけれども、その返事といたしましては、間違いなく内分が書いた鑑定書であるという旨の回答を得たのでございます。  それからまた、鑑定書書き方でありますが、これは法的に一定した書き方がきまっているわけではございませんが、駐仏日本大使館調査を依頼しましたところ、鑑定書の書式につきましては、別段、法的な規定はなく、各鑑定人判断または当事者の依頼によりまして、最も適当な方法記載することになっているということでありますが、鑑定書題名記載のないものは鑑定書の裏に、これは真作であるとか書くのでございますが、題名が書いてないものは鑑定書として不備ではないかという御質問もあったかと思うのでございますが、この点につきまして、パシッティに照会いたしましたところ、「鑑定は、題名についてではなく、作品それ自体について行なうのであって、鑑定書は、作品白黒写真の裏に、“この複製された作品は……”」ということばで始まり、「その寸法、材質、署名の有無(署名のある場合には、その位置)を記載することになっております。」との回答があり、この方法が一番広く使われているのであります。鑑定書には、題名記載のないのが普通であって題名記載のない鑑定書が不備な鑑定書であるということは言えないのであります。  それからまた、この前、御質疑があったかと思うのでございますが、ドラン作の「ロンドンの橋」が、ジョルジュ・イレールの「ドラン」という本に掲載されていないのではないか、ですから疑わしいのではないかという御指摘もあったかと思いますが、この木は、ドラン作品の総目録でもありませんし、ドランの著名な作品で掲載されていないものも数多くあるのであります。この書物に載っていないとの理由をもってこの作品を疑うことはできないのであります。たとえば、フランス国立近代美術館には、ドラン作品が十数点所蔵されておりますが、その本に、さてこの中で、フランス国立近代美術館所蔵ドラン作品として掲載されているのは、わずかに一点であります。図版十四であります。ただの一点でございます。なお、この書物について、フランス国立近代美術館に照会いたしましたところ、「イレールの著書は、作品の総目録ではありません。ドラン疑いのない真作で、同書に複製されていない作品は多数あります。また、図版十四の作品は、当館の所蔵品ではありません。」、にもかかわらず、近代美術館所蔵となっております。こういうふうな回答をしてまいりまして、この書が必ずしも権威あるものであるといっていないのでありまして、ひとつのこれは参考の図書であるといってよろしいと思うのであります。なお、ドラン及びデュフィの総目録、カタログ・レーゾンネと申します全部の作品を網羅するところの総目録は、現在のところまだ出版されていないのでございます。  さらに、これらの二つ作品が一体どういう来歴を持っているかという点も調べなければならない点なのでございます。これはなかなか調べるのは困難なのでございますが、ドラン作ロンドンの橋」につきましては、一九六四年にニューヨークにおけるドラン回顧展が、大きな展覧会が開かれまして、その展覧会に出品されております。この展覧会は、ドラン未亡人によって組織された、当時非常に有名な展覧会でありまして、フランス国立ルーブル美術館からも出品されており、一九六四年十一月版のアメリカのアートニュースという美術関係の雑誌にも、きわめてこの展覧会がすぐれた展覧会であるとの評が掲載されてありまして、この展覧会目録にこの問題のドラン氏の「ロンドンの橋」が掲載されております。つまり、明らかにこの展覧会に出品されたということが、そのことでわかるのであります。また、デュフィの「アンジュ湾」につきましては、これはポン・ロワイヤル・ホテルの画廊での展覧会のときに出品されたということが、この出品作品の裏にしるされておるのでありますし、また、このときの展覧会目録には、出品されても、数点の作品番外作品として出品されておった、そのうちの一つであったために、そのときの目録には名前は掲載されていないのであります。  それから、さらに、この来歴について申し上げたいと思うのでありますが、いま申しましたように、その作品がどこの所蔵のものであるかという経歴でございます。ドラン作ロンドンの橋」のほうは、フランスの十九世紀末期の最も有名な収集家であり、画商であったアンボワーズ・ボラールという人の所蔵にかかるものでありまして、それから後にカイゼール、これは出版業者でありますが、そのコレクションの中に入りまして、それをさらにまたルグロ氏が購入して同氏のものになったわけであります。それから、デュフィの「アンジュ湾」のほうは、もとアリ・カーン氏のコレクションに所属しておったものであるということがわかっておるわけであります。  そういうふうなわけでございますので、できることなら、さらに何らか科学的な方法においてこれを裏づけするようなことが今後考えられなければならないのでございますが、現在の段階におきましては、十七、八世紀以前の古い作品につきましては、科学的な実験をおりおりいたしておりますが、まだ五十年とか六十年程度のものについての科学的な方法というものは確立しておりませんが、先ほど申しましたように、まずカンバスというものを検討するというふうなことで画布を分析するわけでございます。大体、画家は、通じて同じカンバスを使うわけでございますが、先ほど申しましたように、ドランの場合には手づくりをするというような特殊な秘法を持っておるのでございますが、それをカンバスは同じような形、同じような性質でもって示しておるわけでございまして、これは同じものだと言わざるを得ないわけでございます。それから、いま申しましたカンバス下地づくり、それから、いま申しましたようにカンバス老化現象——老化現象というのは、顕微鏡、レントゲンその他の方法において、やや科学的な手段を用いましてこれを分析することがある程度可能でございます。これによりましても、先ほど申しましたように五、六十年の老化現象を示しているということを証明することができるわけでございます。  次に、購入価格について申し上げたいと思います。と申しますのは、この購入価格が高価に過ぎるのではないかというような御指摘があったからでございますが、当美術館におきまして美術作品購入いたします場合には、その真偽のみならず、西洋美術作品の欧米における公開の売り立て価格というものを一応調べるのであります。ロンドンのサザビーの売り立て、これは年々、アニュアルとして年報を出しますので、大体その年にどの価格をもって売買されたということが——これはしかし、業者間の価格でありますから、一般価格よりもちろん低いのであります。これなどを基準といたし、また、その他なるべく資料を集めて調べるのでございますが、しかし、そういう資料が十分集まる場合と、なかなか集まりにくいという場合も、作家によってはあるのでございます。で、作品購入する場合の価格決定のためにも、参考資料をできる限り尋ねまして、さらに購入選考委員会に諮問して購入価格の適正を期した次第であります。で、ドランの作「ロンドンの橋」を幾らで買ったかと申しますと、二千二百三十二万円で購入したのでございます。これは高過ぎるのではないかという御指摘もあったのでございますが、次の理由によりまして私どもは不当ではないと信ずるのであります。  まず、ドランでございますが、ドランは御承知のように、第二次大戦の敗戦後——フランスが負けましてドイツ軍が占領いたしました期間中、ドランドイツ軍に協力したわけです。ドイツ軍文化事業を助けたのです。そのために、戦争が済んでから国賊とばかりに非常に排斥されまして、一時はその存在すら忘れられかけたのでございます。ところが、次第に年月がたちまして、ドランも、そういうことをしたけれども、しかし、画家としてなかなかやはりりっぱな画家だったというので、次第々々に名誉を回復してきたのでございます。そうしているうちに、価格も、安かったものが、ほとんど捨て値であったものが、どんどん上がってまいったのでございまして、これは年を追うて上がってきて、その点は別人のような上がり方をしたのであります。その点はいまのようなことでございますが、ことに近年に至りましてフォービズムと申します一九〇五年から八年にかけての色彩あざやかな、印象派色彩を絶頂に持っていったような色彩本位のものになりますと、これは世界市場が全部目がけて買いますので、驚くべき高価に驀進しつつあります。今日も、なお年とともに上がっておるようなわけでございます。われわれももちろんなるべく安く買うということを目標といたしますので、慎重にこれらを研究するのでございます。この作品はちょうど、いま申しましたフォーブ期の、一番世界からさがされているその時期のものであったために高価であったのでありますが、これを他の売り立てと比較いたしますと、やはり「ロンドンの橋」と同じようなフォーブ期の連作の一つであります「テームズ河」という絵は、大体同じくらい、少し大き目の絵でありますが、これが一九六五年のロンドンにおける売り立てのごときは三千二百万円で落札されたわけでございます。しかし、フォーブ時代と縁故のないものは存外安く、その二、三年前までは売られていたのでございますが、大体、六一年を越すと急カーブを切って上昇してきておるのであります。今日もなお上がっておるのが実情でございます。ドランと並んで、たとえばこれは一つの参考ですが、フォーブ期作家として有名なブラマンクのこの時代のものも、同様にくつわを並べて上がってきておるのでございますが、「ル・アーブルのドック」という少し大きな絵でございますけれども、一九六三年にはロンドンにおける売立てで約二千三百万円で落札されておるのでございます。この絵はいわゆる総額と申しますか、時価がこの作品だけが特に高いということはないのでございます。この点御安心願いたいと思うのでございます。なお、しかし、それでも広く比較したいと思いまして、これまたフランス近代美術館に問い合わせをしましたところが、フォーブ時代ドラン作品及びデュフィ作品の値段は、現在ではきわめて高いということについては私も同意見であります。それからセーヌ地区競売人連合会事務局長ギョーマン氏に対しても問い合わせましたところ、「ドランの油彩作品に、貴下の払われた価格は、正常のものと思います。」、パリのルイ・カレーの、最も一流の画廊一つでありますが、ルイ・カレーの画廊にも問い合わせましたところ、「あなたの言われた両作品価格は、適正なものであると思います。」、それから先ほど申しました日本における西洋美術作品をおもに研究されておる研究家にも意見を問い合わせましとたころ、フォーブ期作品価格は一九六一年以降高騰しております。国立西洋美術館購入したドラン及びデュフィ作品価格は不当ではありませんという回答をいろいろ他の作品との比較において御回答いただいたわけでございます。こういうふうなわけでございまして、私どももできる限りの手を尽くしてあれやこれや考えたあげく、決して不当な価格でもなく、偽作でもないという結論をかたく持っておる次第でございます。  ただ、これを購入いたしましたその画商は、つまりルグロという人物でございまして、今日ではアメリカの国籍を持っておる画商でございまして、この人物についてはくわしい経歴は実はよくわかっておらなかったのでございますが、これにつきましても、一応ルグロとはどういう人であろうかということをフランスに一、二問い合わせたのでございます。それらが両方とも同じように、過去約十年間画商をしておるけれども、いまだかつて別に悪評を聞いたこともなければ、悪いことをしたということもないという返事でございました。パシッテイ氏にも聞きましたところ、最近十年間、画商を営んでおり、彼に関して何ら悪いうわさは聞いていないし、また、自分としても悪い人だとは思っておりませんという回答が来まして、特に悪い者だというふうには考えなかったわけでございます。ただ、ルグロに関係いたしまして、ごく最近に至りまして、新聞の報道でございますが、新聞を通じて見ますときに、ルグロ並びにルグロの秘書にあたる者が不正な商売をし、あるいは偽作を手がけたということについて、いま司直の手によって調べられているという報道を得たのでございまして、この点につきましては、やはりこれがまだ調査続行中でございまして、今日まだ何ら真相を把握するわけにはいかないのでございますが、はたしてルグロ氏がどういうことをした、あるいはその秘書がどういうことをしたということは、今後の調査によって考えなければならないと思うのでございます。そういうことによりまして、この作品真偽というものが、そういうことと結んで、あるいは質疑ということに相なるかと思うのでございますが、先ほどから申しますように、作品自体はいろいろの点を考えまして、むしろ偽作ということを証明するほうがなかなかむつかしい。真作というふうに見る見方のほうにいろいろ根拠が多いのでございまして、私どもはこれに対しては疑っておらないのでございます。こういう画商がもちろん真作のものを持っておるし、あるいは偽作をも持っておったのかもしれませんけれども、そういうような不幸な事件が起こったことは事実でございます。そういうことを考えまして、御指摘のように、われわれが購入いたします場合には、今後きわめて慎重に——いままでも十分慎重に取り扱ったのでございますが、こういうようなこともあるわけでございますので、そういう購入先等ということにつきましては、あくまで慎重に、細心の注意を払いまして、厳重に対処しなければならないというふうな考えで覚悟しておる次第でございます。それから、そういうふうなことで、現在のところ、また、いまの事件がどうなるかということについては、私どもも非常に関心を持っておりますので、公式な機関を通じて、その後どうなったかという実態を把握するように今後も努力するつもりであります。  以上、長々と申し上げましたが、御質疑の要点につきまして、一応御説明申し上げたかと思っております。そういうわけで、両作品とも真作であり、また購入価格についても不当ではないと存ずる次第でございます。しかし、何と申しましても、今後、国の予算に基づいて購入いたしますということでございますので、作品購入につきましては、いまも申し上げましたけれども、特に慎重を期したいと存ずる次第でありまして、小林委員の御質疑、あるいは御指摘の趣旨を十分体しまして、今後一そうきびしく購入をいたしたいと、そういうふうに考えておるわけでございます。これをもって私の説明といたします。
  7. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 本件に対し質疑のある方は順次御発言願います。  なお、政府側より劔木文部大臣、蒲生文化局長、鹿海文化課長、富永国立西洋美術館館長、滝本国立西洋美術館次長、宇野国立西洋美術館事業課長が出席いたしております。
  8. 小林武

    ○小林武君 私はこれは答弁は要りませんが、文部大臣にひとつ要望したいことがあるんです。先ほどもちょっと予算委員室で申し上げましたが、文部省に対して、私はこれだけの長いことをおっしゃるわけですから、特にまた富永館長は御専門の立場から非常に該博な御意見をお述べになられましたが、これでは委員だれもがおそらく困ると思う。したがって、政府のほうに対して、文部省に対して、私は当日はやはりメモ程度でもいいから各委員に配って、理解を十分深めたらどうかという申し入れをした。あなたにもその点はそのことをやるべきだと前からぼくは言っております。きょうこれを一つ、これもうちの鈴木理事から請求があって一つだけ出した。私はこれを見ながらやったら富永先生の話は全く内容を把握するのに便利だ、そういう労苦をとらないでやったが、文部大臣、私は納得いきませんよ。いま富永館長のおっしゃったように、これはやはり重大なことです。これはいまお互いが責め合うとか何とかいう問題ではなくて、重要な問題を国会の中で審議するという立場からいって、私はそういう態度を改めてもらわなくちゃいかぬと思う。何かわれわれ考えると、そういうことを、しっぽでもつかまれたら損だというような、けちな根性があるんではないかということを疑いたくなるんですよ。それはもう富永館長の御意思では毛頭ないことはわかっておるけれども文部省がそういうことをやるというと、お互いにうまくないことができると思うんです。  それともう一つ、これは富永館長に冒頭にお尋ねしておきたいのは、おくれたことは申しわけございませんというようなお話がございましたが、私この質問をやったのは四十一年の二月十七日なんです。そうして、そのときには、私は何といっても専門でも何でもないんであるから、お互いに日本の美術の発展ということを願って言っていることだから、このことは国会の中でやっぱりはっきりけじめをつけたほうがよろしいということになったら、これは早急にやるべきことなんですよ。これだけのことを述べられたが、私は一つも納得していない。これから納得しないことを申し上げますけれども——しないけれども、いままで何度かやれば解決がついた。いままで延ばしたというのは、これは館長としての御意思によるのかどうかということですね。私は再々これについてはひとつやってもらいたいということを理事にも話したことがある、やっぱり早くやってもらいたいということを話した。これはどちらです。どちらの意思なんです。館長がそういうことをする必要がないとおっしゃったのか。なお、もう一つ申し上げておきますが、なかなかおもしろいことが書いてある記事もあるのですよ。週刊新潮だと思いますが、富水館長いよいよ立つというように、これもずいぶん古いあれですが、実はこれを見て私もぐっときたのですけれども、「真贋論争にエース富永の登板」、「屈辱的敗戦から一カ月」、これは挑発的に若干書いていますけれども、その中で、「小林議員はたしかによく調べている。だが、いくつかの”落し穴”があることも事実。私は彼の疑問点にすべて答えられるように、調査を重ねた。」、一カ月というと三月ですね。それから富永館長は、さらに、「フェルナン・ルグロの人物や作品展覧会歴についても、ちゃんと申開きができる」、こういうふうに断言されたと、この中では出ている、こういう意気込みでいらっしゃるわけですから、これはやっぱり早くやらぬというと感情的になりますし、そこらあたり私は富永先生の御意思ではなくて、どこかから、やるなやるなというあれがあったんじゃないかと思いますからお尋ねするのですが、あなたはそういうことをするのがいいと思って、あなたの御意思でやったのか、それを先に聞いておきたい。
  9. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 私といたしましても、御質疑をいただいておりますからして、できるだけ早い時期に御返答申し上げたい、こう常々思っておりまして、昨年もそういう時期がくるのではないかと私は考えておったのでございますが、こちらから御答弁申し上げたいという意思も表明したときもあったと思いますが、だんだんと延びてしまったのでございまして、私としてはもちろんいつでも御返事したい、こういうふうに思っております。
  10. 小林武

    ○小林武君 富永先生の御意思はわかりましたから、あとは言いません。言いませんけれども、それは文部省よくお考え願いたいと思う、そういうことを今後。  そこで、富永先生、これは私信でございますからお見せするわけにはいきません、いきませんけれどもパリからの手紙です。この中の関係のことだけ読み上げてみますというと、時に、まことに突然ですが、昨夕及び今朝のフランス全紙は、第一ページに大きな活字を使った見出しで、国際絵画の贋作事件として大騒ぎが始まっています。マルケの未亡人のところヘマルケの偽作を持って鑑定書を頼みに行った骨とう屋がある。マルケ未亡人はその偽作であることを見破ると、本人に返さず、警察に訴えてしまったのが事の起こりである。絵の場所は、パリの高級住宅地に豪壮なかまえを持っているXという男である。この国際的に絶えず動いている四十くらいの男Xについては、名前もまだ伏せている。贋作をたくさん買ったのはアメリカのテキサスの大富豪である、コレクターである。日本の国立美術館とあるので、ぼくもびっくりしてしまったのです。デュフィドラン、ブラマンク、マルケ等の偽作についてしきりに書かれていますが、アメリカのテキサスならいざ知らず、われわれが、日本の国立美術館には専門の大家がたくさんおられるのだし、ばかを言えと、私は言っているのですが、日本の国立美術館ドランの贋作を買い上げると、これだけパリ及びフランスの全紙にはっきり書き立てられては、国として、美術館として黙っていていいでしょうか、いまや日本世界の美術国として権威を持ってきている、この国立美術館にけちをつけられるようなことはたいへん困ったものだと書いております。これほどの美術贋作事件を大々的に全新聞社が扱ったのは、長い私のパリ生活の間でも初めてのことでありますと、こうも書いている、あるいは巧妙なにせ鑑定書のつくり方等、各紙は詳しく書いて、その道の人にはなかなか興味のあるものだと、こう書いてある。このことはあとで館長が話されたルグロの問題を中心とすることなのです。館長はどうですか、その新聞をお読みになりましたか、コピーですけれども、私は持参しております。これ全部読んだら日が暮れますが、パリジュール、ル・パリジャン、フランス・ソワール、フィガロ、これだけの新聞のあれは日本文に訳したのを持っております。この事件についてあなたは新聞をごらんになった、たとえばいま私が申し上げたような新聞をごらんになっておりますか。おって、またルグロに対してあなたはいまでもこの中に書かれている信頼をお持ちなのか、それから国立美術館のさまざまないままで申されたことですね、私はあなたのこの絵に対する、とにかく専門家としての見方は間違いがないということにつきまして、私はこれは何も言うことはありません。それはあなた自体に信念を私が変えろとか、そんな大それたことをやれる立場ではない、ただ私は、そういうあなたの信念を裏づけるさまざまな条件について、あなたのいままで述べられたことについては納得はしておらぬのです。まず第一に、私はルグロの問題を取り上げていくべきだと思っておりますから、それでいま申し上げたのですが、中身について特にいま時間の関係上申し上げませんけれども、あなたお読みになっているかどうかということを確かめておきたい。
  11. 富永惣一

    説明員富永惣一君) いま御指摘のありましたフランスの新聞に出された記事は読んでおります。いま申し上げましたように、フランス・ソワールが一番早いと思いますが、フランス・ソワール、その後続いてフィガロ、あるいはル・モンド、これは読んでおりませんが、リュマニテ、コンバ、読んでおります。比較してみますと、一番初めに出ましたフランス・ソワールの記事が土台になって、記者会見等で多少違っておりますけれども、大体同じようなものでございまして、その後出るたびにフランスから送ってきてもらいまして、どういう情報があるかということをなるべく詳しく知りたいと思って調べている最中でございまして、これをだんだん新聞記事を追って読んでおりますと、確かにルグロなる者の問題を中心にしてあるのでございますが、これが新聞の文章からいいましても、まだルグロがそういうことをしたのかどうかということを決定するような段階ではなくて、調査中というようなことで、はたしてこれがどういうことになるのか疑問符がついている書き方でございまして、またそれに付随しております秘書がおりまして、秘書がいろいろ偽作を取り扱ったということも出ておりますし、それをいま調べている、税関でも調べておるという段階で、これはしかし今後調査が進むにつれてもう少しはっきりしてきますが、いままでの段階は、推定の上に出している記事でございます。私、全部読んでおりませんけれども、大半には目を通しておりまして、事の成り行きがどういうふうになっているかの大半は承知しているかと思っておりますが、そういうことをもとといたしまして、それだからルグロのものを買ったから、これは悪いのではないかというふうなふうに直ちに結論することは私はできないのでございまして、確かにそういう事例が現在起こっておることは事実なんですが、これに対してはルグロが、あるいはどういうふうな正体か、どういうふうなことであるかということをもうしばらく成り行きを静観してみたいと思っております。そういうことと、それから作品真偽ということ、これはもちろん関係が非常にあることであると同時に、だからといって直ちにルグロが手がけたものはすべていけないんだということには相ならないので、むしろ、ルグロが取り扱ったものでも、その作品自体の研究によって真偽はきめるべきだという考え方をとっておるわけでございます。一応そういうことでございます。
  12. 小林武

    ○小林武君 やっぱり富永先生は専門家としての見識をお持ちであるということが、逆にぼくは非常にあぶない落し穴におちいるそのことになると思うのですよ。これ、公平に言って、専門家専門家が、これは贋作である贋作でないという論争をわれわれが見れば、これは利害関係も何もない、国のことも関係しないことであれば、これはたいへん興味あることですわ。両方がうんちくを傾けて真贋をやろうということであれば、これは興味がありますけれども、これが学問上の論争であれば、かれこれ第三者が言うべきあれでもないし、ましてやここで取り上げるべき問題じゃないしかし、これは国の費用をもって、しかも国立西洋美術館というところに陳列しておくということになれば、これはそうはいかぬです。だから、あなたがルグロから買おうが、だれから買おうが、作品さえよければいいということをおっしゃるのは、これは専門家の御意見としては何か理解できるようであるけれども西洋美術館長としてはこれは私は納得のいかないことだと思うのですよ。あなたは鑑定書のことについてもいろいろ述べられた。私は大体あなたと同じようなことを述べた、鑑定書の問題についても購入先の問題についても。そういう条件を十分あれして、とにかく間違いのないというやり方をやらないというと、国の予算を使ってやることですから、これは信念だけではいかぬし、私の知識をもってそれを判定するというようなことはやっぱり危険だと私は思います。だから、そういうことはやはりおっしゃらないほうが私はいいんでないかと思うのです。  そこで、私は、何といってもフランス在住の一人の人から、しかもそのうちの専門家の方から、驚くべきことが起こったと、そして買わされたのは、フランスではとにかく日本美術館だということになっている。そしてルグロという人物については、とにかくフィガロを見てもあるいはどの新聞を見ても、これはやっぱりりっぱな人間だとは書いてないですよ。助手のことをあなたは強調されますけれども、助手も悪いことをやったかもしれないけれども、その助手との関係について一体どういう男であるかということになるとまことにこれはどうもあやしげなことになる。しかも、パシッティのことを話した。パシッティとこの人とは同じ経営をやっている顧問です。共和製糖の社長と顧問とどういう関係があるかということになったら、話にならぬじゃないですか。同じ穴のムジナということになる。われわれが、げすな人間が言うとこれはそういうことになる。そういう人間が鑑定したということになる。どういうことになるか。あなたは鑑定書の中に題名のないのはあたりまえだとおっしゃるけれども、これは私は納得いかぬ。私もそのことについては調べた。しかし、少なくともいま絵を買うということの中には、鑑定書題名がないなんということはおかしいということがここに書いてあります。だから、あなたが非常にその絵に対する自信をお持ちになっておることについて私はある程度理解できるのですよ。非常に先生が一つの見識を持ってこの絵は間違いないという信念をお持ちになることについては、その意味では私はむしろ敬意を表します。敬意を表しますけれども、敬意だけではいかぬのですよ。だから、あなたは、このルグロの問題を一体どう受け取っておるのか。私は嘉門さんに聞いたときに、ルグロという人間は悪い人間とは言わなかった。あなたも言わなかった。しかし、その当時からルグロというのは一筋なわではいかぬ人間だということは、われわれはとにかくつかんでおる。広壮なる邸宅に、一億何千フランとか何とかいうアパートに住んでいるものすごくえらい男だそうだけれども、しかし、どうですか、フィガロの文章を読んでみても、なかなかフランス語はむずかしいということは、きのうよく読む人の話でよくわかりましたけれども、表現がむずかしいとか何とかいったところで、これはもうたいへんなことですよ、この中に書かれていることは。ルグロに対する信頼なんということは一つもない。パリの某商売人がみずから絵かきに一流画家の贋作を描かせ、外国に売り出している、その人は巨匠の遺族から真作証明を手に入れる。これは常套手段——手口なんです。必ず巨匠の遺族から真作証明を手に入れる。詐欺師の名はあがっていましたが、これまでどうしてもつかめなかったその詐欺師某をマルケ夫人が訴えた。しかし、ここでは名前は出してないが、その最後のところではその男はルグロだということになっているのですよ。そうなったら、私はあなたが単にいままで言ったようなことでもって、贋作ではございませんというようなことでは、国民の前に納得させることはできないじゃないですか。これはたった一つ残されたものは、あなたの、とにかく私の目ですと、こういうことになるだけではありませんか。私はそういうことでは美術館長としての責任は取り足りないと思うのです。どうですか、その点。
  13. 富永惣一

    説明員富永惣一君) このルグロの、先ほど申しましたが、ルグロが実際にどういうふうな手口でどういうことをしたかということにつきまして、ただいま取り調べ中でございまして、確かにこれにつきましては十分今後取り調べをこちらとしてもいたしたいと思っておりまするけれども、ただいまの段階では即断してどうこういうことが言えないものだろうと思っております。しかし、いままでも御指摘がありましたように、購入に際しましては、きわめてこういう重大なことに関係するから慎重の上にも慎重にして買い取り先を厳重に吟味しなければいけないということで慎重に考えております。まあルグロのことにつきましては、いましばらく調査を見た上で考えたいと思っております。
  14. 小林武

    ○小林武君 それからあなたは、先ほどの中に、ドラン未亡人は、この絵がほんとうであるかどうかということの鑑定能力がある、こういうことをおっしゃった。私はアメリカの側の調査の結果をここで読み上げます。高齢で、事実上めくらである——八十ですわね。事実上めくらである。ドラン未亡人が真正であるという鑑定づきでやったということについては疑義がある。目の見えない者が一体真正なるものということを一体あなたは……。ぼくはそういうふうに手紙をもらっているのだが、あなたはそれをどういうふうに、ドラン夫人はそれだけの鑑定能力があるということをお認めになったか教えてもらいたい。
  15. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 先ほどドラン夫人、未亡人能力があるということを申し上げましたのは、パリ国立近代美術館に照会いたしましたその返事でございまして、そのとおり申し上げたわけでございまして、その手紙の中で、ドラン夫人は最も夫の作品真偽鑑定する能力を持っている人ですという回答をいただいたということを申し上げたのでございます。パリ近代美術館を信頼してドラン夫人のその能力をただしたわけでございます。その返事でございます。
  16. 小林武

    ○小林武君 もう一つドラン夫人は、この種の事件を何度か犯して非常に信用がないということについてお調べになりましたか。私は調べている。
  17. 富永惣一

    説明員富永惣一君) その点につきましては、これまでにどういうことを犯したかということについては存じておりません。ただ、今度の事件につきまして、ドラン夫人がやはり過去において間違いを犯したことがあるというようなことを言ったという記事がある新聞に一つ出ておりまして、それだけで存じておるわけでございます。
  18. 小林武

    ○小林武君 ドラン夫人が過去においてどういうことをやったかということについては、これはもう、あったことだけは事実です。しかし、そのことをもって何でも律するということにはいかぬということも、これはわかります。わかりますけれども、とにかく八十で目の見えない人が、これが夫の作品でございますというようなことをこれがやれるということは、どんな常識はずれの人でも、私はなるほどと納得しないだろうと思うのです、これはね。  それから、私の持っているパシッティからのあれでは、ルグロについてはときどき怪しげなものを持ち歩くのであれだということを書いてある。パシッティは、ルグロに対して、たいへんあなたの調査だというと信用のおける人間だということを書いてあるけれども、私の持っているあれではそうではない。これは前回も申し述べている。だから、この種のことというのは、まことにどうも裏の裏のあることだ。だから、私は富永館長にも同情しているのです。そういう怪しげなものを東京の帝国ホテルで買わなければならなかったという、そういう仕組みにもぼくは非常に同情しているのです。もっとほんとうは名のある場所に行って、堂々とやはり信用のあるところへ行って、しかも、それに加えるにあなたたちのような専門の方が行けば、これは間違いないやつを買ってこれるのに、それに一体、予算がないとか、やれどうだとかということで、あわてて買わなければだめだというようないまの予算制度の中で問題点があることは同情します。同情しますけれども、あなたのおっしゃることは、この一、二点を突っついてみても、とにかく一方的じゃございませんか。私にそれを信頼せいといったって信頼できませんわね。ただ、私がいいかげんに聞いているのでないことだけは、ここに前のやつをそのまま持ってきていますから、ごらんいただければよくわかる。材料は私のほうではそろっている。あなたのほうはその材料をお持ちにならぬ。この文章だけが材料のようだけれども、私は材料を持っている。どうですか、富永先生。私はその点で、あまりあなたがだいじょうぶだというようなことを断言なさるものだから、私はきついことを言うのですが、腹の中では非常にあなたのお立場というやつを理解しているつもりです。理解しているけれども、こういうことで国会という場所とか、国の予算でものをすることのときには通用しないということを申し上げているのです。この絵のいいとか悪いとかということであれするならば、それは専門家同士の間ならばどんな話が出ても私はあなたの味方になってもいいし、何でもいいんですよ。しかし、納得のいかぬ限りはこれはだめだというのです。だから、私は何かあなたの談話の中にも書いてあるのでありますが、これはあなたが言ったことかどうかよくわからないけれども、なかなかよく調べてある、調べたといったって、ほんとうによく調べてあるのですよ。パシッティであろうが、だれであろうが、何を言ったかということは、ちゃんと私のほうでは持ってきておるのです。  蒲生さん、あなたにあれするが、こういう手紙来ておりませんか。  その前に、ちょっと先生にお尋ねしておきたいのですが、コミテ・プロフェスィオネル・デ・ギャルリー・ダールというのはご存じでしょうね。
  19. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記をやめて。   〔速記中止〕
  20. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記つけて。
  21. 小林武

    ○小林武君 そこでどうなんですか。ルグロのこういう事件が起こった、それは突如起こされたのでなくて、ルグロは再三いままでも、とにかく警察にひっかかっているのですね、この新聞によると。しかし、彼はいつでも法網を巧みにくぐってきた、そう書いてある。あなたはお読みになったからよくわかっている。今度もしかし、これはなかなか要領のいいやつで、うまく息の根をとめられるかどうかはわからぬというくらいのわざ師だ。とにかくそういう人間であるということは、あなた全然、いまのあれだというと、これはもうただひたすらに信用するところばっかりやっているのですね。これあたりは一体どんな調べ方をなさったのか、私は承りたい。
  22. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 全部何もかもルグロを信用しているわけでありませんが、ですからどういう人物であるかにつきましては、先ほどちょっと御報告申し上げましたように、実はフランスの一、二の者に問い合わしたのでございます。その結果、過去十年間に、別に悪評を聞いたわけのものでもないし、あるいはそれが画商をしておりましたポン・ロワイヤルのホテルの主人などにも問い合わせて、その辺のところの悪評があるかないかということを聞いたのでありますが、それらの返事では疑いはなかったということで、一応ルグロというのは、特に悪いとは考えなかったという次第でございます。ただ、今度の事件は、もちろん今後どういうことになるか十分その点は考えて取り調べ、私どものほうといたしましても適正に取り調べていかなければならない。もちろん一切がっさい信用しているわけじゃありませんけれども、先ほど申しましたように、ルグロの取り扱ったものが、一から十まで作品として悪いのではなくて、悪いものももちろんあったかもしれないけれども、いいものもあった。それらがそういうふうなケースがあったのではないかというふうに考えておるのでございます。もちろん疑うものは疑うというつもりでおるわけでございます。
  23. 小林武

    ○小林武君 そうすると、あれですか、鑑定書の件でも、パシッティというのは、これは画題がなくてもあなたは何でもないと、こうおっしゃる。それからパシッティがこれはだいじょうぶだと、こういったというが、この詐欺漢の、ある新聞にはギャングと書いてありますがね、このギャングの顧問であるパシッティのそれを、あなたはそれほど信頼なさっているところに問題がありますね、鑑定書についても。それからあの絵については問題だというやつは、これは私のほうに嘉門さん来たときに、私は何度も言っているわけです、事実を示して。中には公開のできないものがありました。皆さんのお手元に差し上げて見せるわけにはいかぬものもありましたけれども、とにかくたくさん私のほうでは材料は出したわけです。それについて一体あなたは、あなたのおっしゃることは私はやはり納得いかぬのですよ、正直言って。一体その鑑定書というものは一つの要素であるということを嘉門さん言われた、私もそう思います。もう国立博物館の鑑定書のついておるにせものにぶつかって、小林秀雄さん困ったということが、何か真贋の、展覧会のほうにあって、私も苦笑したわけですけれども、これはやはりそういう間違い、日本だってあるわけですから、たくさんあり過ぎるくらいあるでしょう。だから、私はその鑑定書を何でもいいとは言わないけれども鑑定書を一要素として考えた場合、これは厳重にやらなければならないのでしょう。だから、いまのことを言うと、パシッティについてはあまり信頼していない、この件については。第一パシッティのあれには画題がないでしょう。それからもう一つは、パシッティの関係、パシッティは陰にいっては、あの男はときどき変なものを持って歩く、その絵についてもはっきりしたあれができないということを当初は言っておった。おしまいになったら、だんだんおかしくなって、あなたのほうにあれするときには、絶対間違いございませんと、こう言っている。ショレールですか、死んだというのは。ショレールは死んでおる。死人に口なしということになったら、これはもう——しかも、この文章の中に、新聞の中に何て書いてあるかというと、巧みに印鑑、その種のものを偽造しておると書いてある。そうすると、筆跡だって何だって、一体ほんとうのものなのかどうか、印鑑というものは偽造して、何も偽造しておる。先生は先ほど画材、画の材料のことをおっしゃった。それはしかし、私は贋作をやるほどの者が、材料を一体どうやったらごまかすかということぐらい考えないようなぼくはあれだったら、それはたいへんなことだと思う。ぼくは模写だってぼくは間違えますから。博物館あたり行ってみますと、これはだれだれさんの書いた模写ですといったら、本物が落書きが書いてあると、そのまま模写がしてあるものがありますからね。われわれはその程度の頭なんですから、あなたがおっしゃっている場合には、いろいろ贋作のあれを聞いてみるというと、それはなみなみならぬものだということ、そうでなければ、何ぼ、テキサスがどんなところか知りませんけれども、テキサスの富豪がばく大なそれを買い込んで集めているというようなことが、これはちょっとぼくはあり得ないのだから、それはごまかしだけのことをやっていると思うのですよ。事実そういうことがあったのじゃないですか。ニューヨークかどこかの美術館で、にせものをつかませられて、館長がつかまされたということを公表しておることを聞いておる。私は専門家といえどもそれぐらいのミスがあってもけっこうだと思う、神様でもあるまいし。だから、私はそういうことについて、ほんとうに双方が納得のいくような材料を出し合って、私はできるなら、あなたの文章について、きょうはパシッティ手紙なら手紙を全部持ってきてもらいたい。私は持ってきております。それの用意がないということは問題ですよ。それと、それからあなたのほうのあれは、展覧会のカタログというのはどういうカタログか、それはどういうカタログですか、お宅のほうにもカタログがある、これは嘉門さんに見せたら、この中にそれはなかった。
  24. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 先ほども指摘の中でパシッティ鑑定書には表題がない、ないからこれはいかぬという御指摘でございますが、これは先ほどもちょっと触れましたけれども、これはパシッティに限らず、私が見ておりますところのフランス鑑定人鑑定の様式を見まして、画題がついていないほうが多いのであります。画題がついているものに怪しいものが多いのでありまして、ないのが私はむしろ正式だと思います。その点はたくさん調べてお示し願いたいのであります。これは常識になっている。これはフランスにおいでになればよくわかります。むしろないほうが普通であります。むろんそれは大使館でも言っておりますように、必ずしも法的に一定していないから、多少は例外ももちろんございますけれども、一応写真をとりまして、黒白の。色だと色が変わりますから、そうして黒白であって、裏に、この裏にあるこの裏の作品がという書き出しです。ほとんど十中の八、九までそれでありまして、それだから私は、パシッティのあれは怪しいということにはならぬ、こういうふうに考えております。  それから、ただいまの一九六四年のニューヨークのカタログ、その当時のカタログがありまして、ここにただいまの作品が出ております。そのときの展覧会は非常に権威づけられたもので、その当時のニューヨークの新聞もそれを証明しておるのでありますから、それをいまになってこの展覧会がどうということは言えない。これは専門家の間でもこの展覧会を認めております。この点は御了承願いたいと思います。これは作品が出ておりまして、中でも選ばれて出しておるのですから、普通の常識から考えて間違いないと思います。
  25. 小林武

    ○小林武君 いま先生のおっしゃるのは、専門家の間ではそうかもしれぬけれども、私が見た何かアメリカのFBIですか、専門の何か絵についての、絵というのはいまではもう一つの、何と言いますか、株券と同じようなものになっちゃったと見る人もありますけれども一つの財産みたいなもので、その中に、見るというと画題のないのがけっこうだというふうなことも書いてある。やっぱり画題というのはしっかり調べるべきだ。鑑定書とか、いろいろな条件がありますが、これらのものを買うという立場からいったら当然のことです。だから、画題がないのがあたりまえだというような先生のようなおっしゃり方をする人もあるし、専門家の中には、私の言うように画題があるのが当然だと言う人もある。それは専門家の論争でやるのはけっこうである。けっこうであるけれども、私は少なくとも、そういうものをあれするならば、国民が納得する、われわれが納得するならば、画題がなければ何が何だかわからぬでしょう、そうでしょう。それをあなたが、あの絵に対する一つのあれがあるから、あなたの場合はそれでいいかもしれぬけれども、そのほかのものはわかりませんよ。だから、物を買うという場合に、FBIでもって、とにかくそういう贋作の怪しげなものを取り締まっておるものを書いてある中には、確かにそういうようにあったのです。これは、ただし一年ほど前ですからだいぶ忘れましたが、これはたしか大きな膨大なものの中にそういうふうに書いてある。だから、そういうふうにあれするのは困りますね。ぼくはなかなか納得させられないのです。  それから、たとえばいまのフィガロの中にある写真があまり鮮明でないのです。この中ににせものと本物の四つの写真があるのです。これはごらんになったですか。
  26. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 見ております。
  27. 小林武

    ○小林武君 この中に、それのいろいろな手法から見て、確かにそれはそうだというようなことをあなたはお考えになりますか。
  28. 富永惣一

    説明員富永惣一君) ここにありますが、四枚の写真はきわめてばく然とした写真でございます。これでもってそれがいいとか悪いとか、この写真が非常に不完全なものでございますが、この中の三点は正しく一点がにせもの、そうしてこのように、同じテーマをかいたものがまたこのほかにございます。それらを、できるものなら全部を一つにして比較して、そうして研究ができれば、ただ、ああじゃなかろうか、こうじゃなかろうかと推測の上に立っておるのが今日の議論の出発点になっております。ほんとうならば、徹底的にやるならば、正しいもの、それから偽作等を集めまして、そうして科学的に、芸術学的にこれを徹底的に調べることによってのみ、初めてこれがどっちが真実かということを言えるのであって、その他でもっていかなる人が言っても、これはどちらが正しいかということはよりたくさん作品を見、研究した人の意見のほうがより私は効果があると、そういうふうに考えております。  それから先ほど仰せのありましたところの画題がなくちゃ困るじゃないかとおっしゃいましたのは、画題がないのじゃないので、画題はついておりますけれども、その鑑定書の上には画題をつけないという意味でありまして、むろんどの作品にも画題はついております。しかし、なぜ画題をつけぬかといいますと、後においてその呼ぶ名が変わったり、いろいろにその作品の画題が変わったりすることがありますから、そこで、混乱を防ぐためにわざと画題をつけないほうがいいというのが今日の常識であって、画題がないのじゃないので、画題はちゃんとある。ただ、ある程度鑑定のときに書かないというのが今日の常識であります。それだけは申し上げていいと思います。
  29. 小林武

    ○小林武君 私はそういうことじゃない。画題があるとかないとかいうことではなくて、鑑定書に画題があるべきであるという主張をとっておるほうを言っておるのです。私はそのほうが正しいと思うのです。鑑定書に画題はあるべきだ。そういう見解の人もあるわけですから、ほんとうによく調べるという人はね。だから、私はあなたの話を聞いておるというと、とにかくあなたの目しか信頼するものはないのです。ルグロの人物を見ても、それから鑑定書のあれを見ても納得させるものというものはないのです。ひとえにあなたを信頼する以外ない。そうすると、ルグロという人物はどうかというと、何か贋作のギャングであるといってパリの全新聞を騒がせた男である。もちろんそれは調べてみてこれが有罪になるかどうかということは、これはあとにならないとわかりませんということ、これは私は法律上のあれとして見ればそれはいいと思うのです。それから社会生活の上においても、そういう見方もやはり正しいと思う。しかしながら、世間はそうは通らぬですよ。簡単には通らぬでしょう。それは政治上の中に起こった問題だってそういうことはありましょう。関係があるとかないとか、それが罪になるとかならぬとかいうことは別にして、あの問題に関連したためにということで政治家がたいへんな傷を負っていることは最近だってあったでしょう。だから、私はあなたの説明でわれわれを納得させるということは、いままでのあれではやはり不可能ですな。そしてパリの画商のあれから来ている手紙では、文部大臣と両方に出した手紙というものの中には、とにかく絵を、われわれのあれで、その連合会の中で鑑定し直したらどうかという、そういうことだと思うのです、いま要点を言えば。それくらい一体日本のこの絵に対しては贋作であるという見解が、とにかく国際的な目で見られております。それはパリの画商の組合に入っている連中ですから、私はそんなにいいかげんなやつばかり入っているわけではない。ルグロなんか入ってないんですよ、画商の連合会の中に。二月の十七日にはまだ入ってなかった。いま入っているかもしれないが。いわば組合にも入ってないようなしろものだといっていいわけです。一つの工事を請け負わせるのでも、土建屋なんかでも、ある資格がなければ請け負わさせないんですから、そういうものからいったら、私はとにかくあなたのいままでの説明というのは納得がなかなかいかぬのですが、そういう点は一体どうしたらいいんですかね。私を信ぜよということだけですか。美術館を信ぜよということだけですか。
  30. 富永惣一

    説明員富永惣一君) もちろんそういう重要な点につきましては、あらゆる機会に、また、後も最上の努力をいたしまして、われわれの考えてきていることが、あくまで正しいかどうかということの検討は続けるつもりでございますし、また、それについてはどういう方法を講じたら一番適切、適正であり、一番効果があがるかということも当然考えておる次第でございまして、何もかも自分だけを信ぜよということを言っておるわけではもちろんないのでありまして、科学的な方法によっても、今後いよいよまたわれわれの勉強の上におきましても、当然これはなすべきものでございます。いままでの段階においての結論を申し上げるわけでございますが、将来におきましても、あらゆる研究方法を用いまして、これらの作品の性格、内容、価値というものにつきましては研究を続けていくつもりでございまして、ただいままでの研究の結果を申しますれば、先ほど申し上げたようなことで、御納得いかない点もあるかと思いますけれども、われわれといたしましては、作品の素性から申し上げれば、筋の通っておるものだという結論においては変わってないのでございまして、それに付帯するいろいろの状態、あるいは関連するところのものにつきまして、いろいろ物議が起こっておるということであります。今後は御説明申し上げましたように、最善の方法を講じて、さらに将来においてもこの問題について検討してまいりたいと思います。
  31. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記をとめて。   〔速記中止〕
  32. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記起こして。
  33. 小林武

    ○小林武君 大臣が来たから、ひとつまとめて言いますと、鑑定人の精度については、これは前回のときに、鑑定人そのものについては、大体鑑定人というものの重要性をぼくはやっぱり同じ立場で主張いたします。そこで、パシッティの問題ですけれどもパシッティというのは、先ほども言いましたが、われわれのところにきている中では、証拠もありますが、パシッテイはルグロに対して信用を全幅的にしていない、悪いものを持ってくる男だ、こういう表現をしておる。しかも、いまはパシッティはこのフランスをとにかくわかしているところのギャング、詐欺漢と大きな表題をつけられている男の経営する画廊の顧問である。こういうことになると、一体パシッティを非常に信頼していられるところの館長の御意見には私は納得がいかない。ショレールについては死んだということでありますから、いろいろここでショレールがどうだということを言ってみてもしようがないと思うんですが。それからドラン未亡人鑑定信憑性ということを言われたが、これも私が言いましたように、八十歳のほとんど盲目である。それが館長のおっしゃるように、ドラン未亡人はもちろん夫の作品真偽鑑定する能力を持っている人でありますというようなことを言うことはおかしい。それからなお、テクシー——マルケ未亡人をおどかしたテクシー、これはどの新聞でも、未亡人のところに行って、そして未亡人にそれを書かしてやるという。マルケ未亡人のようなはねつけるような能力のある人であればこれはまた別です。ドラン未亡人というのはすでにもう目が見えないのだ。そういうあれが——これはアメリカのあれに照会した手紙がここにありますから、これは私は、あなたと違って文書で書いたのじゃない、現物を持ってきて言うわけですから。それから鑑定書の書式については、私は、題名がない、制作年代が明らかでないというようなことはこれはどうしたって納得できない。そのことがあたりまえだなんと言うのは私は理解できない。それから、作品がたくさんあって記録の中にないのがあたりまえだという御議論でありますが、ドランの場合には寡作家であるというようなこともあるし、だれだったか忘れましたが、コローだったかだれかの作品で、幾らもない作品ですわね。何百枚かの作品がいま一万枚ぐらい彼の絵だというやつが世界にはあるそうです。それも何か新聞の中に書いてあります。そういう種類のもので、本人が書いたのは五百か何ぼしかないものが一万も作品があるというような世の中なんです。そして、それをりっぱなコレクターが持っているということになるわけですから、これはもう、あれでしょう、私たちが、一体そういうようなことでもって、新しいものが出てきたら、一体、来歴がはっきりしなくてもそれは新発見だからというようなことをそう簡単に言われる筋合いではない。西洋美術館にだってあるのじゃないですか。藤山かだれかの寄付した絵だって、あれだってあまりはっきりしないのでしょう。御本人はあれは本物だと思ってお買いになったのだと私は思う。あなたのほうでもお取り扱いにお困りになっているということを聞いた。そういうことを一々、とにかくあなたのあれを、来歴の点でも何でも聞いてみましても私は納得いきません。  それから、購入価格についてもあなたいろいろおっしゃいますけれども、それはこういう種類のものは、せり上げればある種のものは上がるでしょう。これについては大体前から私は資料をもってお見せして、嘉門さんのときには申し上げたんだが、大体相場というものがあるんじゃないですか。だから私は絶対に高いのはけしからぬということを言うんでない。安く買えるものなら安く買ったらいいじゃないか、そういう考え方なんですよ。ドラン作品を二千何百万円で買ったということは、これはちょっと高過ぎると思うのです。あなたのほうの買ったもので少し高いと思うものもほかにありますけれども、これはやめます、いま。そういうことを考えますと大問題だし、それから最後のルグロの問題につきまして言うと、全くこれはもうとにかく話にならない。パシッティが顧問をやっているということでルグロという人間の箔をつけようとしたのか知らぬけれども、私なら逆だ。パシッティがルグロと組んでいるということによって、逆にこの絵そのものが怪しいということになる。いまとにかくフランスでもってあれほどの騒ぎを起こしているルグロですから、彼がたとえ監獄に行かなくても、日本美術館がこのにせものを買いましたとここに書いてある。そう言わんばかりにね。アメリカあたりの金持ちのコレクターがねらわれる、あるにせのドランなどは東京の美術館などに売られさえした、こう書いてある。そこまでとにかく言われている絵なんです。売ったやつはだれかというと、そういう人間だからそういうように書かれた。だから、先ほど言ったある高名な、フランスに何十年もいる人が情けないということを言うわけです。もっと日本というのは美術的にレベルが高いと思っていたが、こんなことを言われてくやしいということをありありと書かれている。ごもっともだと思う。そういうことを私は、館長のここにお書きになったホテル・ポン・ロワイヤルでもそうです。ホテル・ポン・ロワイヤルとポン・ロワイヤルの区別を、嘉門さんは、私がしろうとだと思ってごまかしたのかどうか知らぬけれども、使い分けをしない。だから、ぼくはおこった。そのホテル・ポンロワイヤルの画廊といえども、私はこういうルグロがやっているということによって信用していないんですよ。だから、こういう点をとにかくずっとやっていった場合、私は、館長さんのその絵に対するいろいろな眼識については敬意を表しているものの、これは国の費用で買った、日本の国民がこれをドランのものだ、デュフィのものだといって見るについてはなかなか納得いきません。  そこで、私は文部大臣にお伺いしたいんですが、一体、これがもしも事件が発展していって贋作だということになるとどういう責任をとりますか。西洋美術館責任はどうか。あなたはそれに対してどういう措置をとろうというのか。これははっきりしておかぬというと私はいけないと思うのです。これが本物であれば、われわれはまずまずよかったと、ここの委員会全体が胸をなでおろして日本のために喜ぶことにして、だめだったら厳然たる態度をとるべきだと私は思う、どうですか。
  34. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) この国立西洋美術館購入いたしましたドラン作の「ロンドンの橋」とデュフィの「アンジュ湾」ですか、この問題につきまして小林委員からいろいろ例証をあげられまして、これに対しまする購入その他について間違いがあるんじゃないかというような意味合いの御質疑が繰り返されて、私、ずっと伺っておったわけでございますが、しかし、西洋美術館といたしまして、この購入に際しまして、購入選考委員も正式に十分鑑定いたしますし、価格につきましても、価格委員会の議を経て十分注意をいたしまして購入して、しかも館長責任を持ってこれが本物であるという御断言をしておるのでございまして、現段階におきましては、もちろん私はこの西洋美術館長を信用いたしまして、これが本物であるということを確信いたしております。まあこれがいよいよ贋作であった場合に責任をどうするかという問題でございますが、贋作であったときの仮定におきまして、これがあとどうするかということを、現段階において言明すべきものでないと思います。これはこの西洋美術館が確信を持って本物であるということを証言しておる限りにおきまして、贋作であるというような場合はどうするかということは、これは私がいまから言明すべき問題でないと思います。ただ、美術品の鑑定はきわめて困難なものでございますし、今後、西洋美術館におきまして、こういったような美術品の購入その他につきましては、非常に真偽鑑定がむずかしいのでございますから、なお今後はその鑑定につきましては一そう注意を払いまして、その十分真偽を確かめた上に慎重な態度で購入をいたしますし、価格決定についても、十分なお一そう注意をして当たっていただきたいということを考えておるのでございますが、現段階におきましては、繰り返して申しますが、西洋美術館長の証言をはっきりと私は信頼をいたしておるのでございます。
  35. 小林武

    ○小林武君 いまの段階ではといういまのお話は、四十一年の二月の十七日に承われば、ごもっともと私はそう言いましょう。しかし、あれから約一年以上もたっているのですね。そうして、事態は先ほど来申し上げているように、フランスではもう大問題になっている。大問題になっているといういまになってみるというと、私は信頼信頼なんて言ってばかりもいられないのではないかと思っておるのです。しかし、文部大臣をこれ以上追及するという気持ちはございません。そんなことは言わなくても、文部大臣は責任を感ずる立場ですから、それは追及しませんけれども。ここで私は、文部大臣と館長さんに、ひとつこの問題のやはり解決について、最大の努力をすべきだと思うのです。それで文部大臣に実は手紙が来ていないということが何なんですが、この中には文部大臣と私に同じ手紙をコミテ・プロフェスィオネル・デ・ギャルリー・ダールという画商の先生から聞いたら組合の何なんですが、そこからこういう手紙が来ているというのですが、文部省では見ていないと言う。「貴殿はフランスの新聞により、ドラン、ブラマンク及びマルケの偽作画の一件を知られた。また、貴殿はそれにつきフォトコピー同封の四月六日付フランス・ソワール紙の記事も読まれた。」、あなたのほうにも同文の手紙が行ったと、ここに書いてある。「日本国のコレクションに属するドランの絵が参照された。御参考までに、この係争の対象となった絵の三月十九日の売り出しのカタログのカバーのフォトコピーも差し上げます。当方、CPGAは、貴殿のドランについては、ことによってはその他の絵についても、当方の意見を得ることが貴殿にとっても有益であろうと考えます。CPGAの会長ポール・マルタンは美術界の優秀な人物で、パリフランスの最も大きく、最も信用のある主要な画廊を結集している。CPGAの権能は国際的に認められ、その意見は、係争の場合、だれもが受け入れるところである。CPGAによって出される鑑定書世界中で信用を得ている。各作品は互いに顔を知らない高資格の三人の鑑定家によってなされ、決定的な鑑定書はCPGAの会長によってサインされる。」、こう書いてある、どうですか。鑑定なさったらいかがですかという手紙を文部大臣のところにも出している。これは議会で議論されたということで、私のほうにも来ている。文部省のほうは来ていないというのだが、どうなったかよくわかりませんけれども、これがその本文です。でありますから、私がこのことを直ちにうのみにしろということを言うわけじゃない。ただ、こうなったら、あらゆる手だてを講じて、そうしてやはりはっきりさせるべきだ、あれはにせだ、にせでないということをいつまでも言ったり言われたり、こういう席上でやる筋合いのものではない。やはり誠意を持ってお互いがこれに対して手続をとって、安心させるものはさせる、だめなものはだめだと言っているんですよ。そうして解決すべきだと思う。それをしてもらえるかどうか。それともう一つ館長さんからお話があった選考委員とか何とかについては万全を期していると、こうおっしゃる。そのとおり、この機構が悪いなんていうことは申しません。申しませんけれども、やはり人的な構成にしろ、あるいはこういう種類のものにしろ、やはりいつまでもいまのものが最上だとお考えになることはどうか、ぼくはもっと、文部大臣の悪口を言うわけじゃありませんけれども文部省の何だか審議会なんというものは、意見の一致するものばかりで、文部省と腹の合う者ばかり集めて、異議を差しはさむ者は入れないことになっている。こういう審議会をやっているからだめだと思う。それは悪口ですから。そういう種類のもので、むしろ野党的なものも入れ、かんかんがくがくの議論をやって、そしてだれもがもうこれで納得したというようなやり方をやれないことはないと思うのです、こういう種類のものは。だから、そういう組織にやはりするべきである、人間的な構成については。何もこれは美術館だけの中にとどまるべきものでもないんじゃないかと私は考えるんです。そういう仕組みも考える余地があるのではないか、そういうことであるのと、もう一つ、文部大臣のこれは問題ですけれども、絵を購入するというようなことは、やはり今度の場合のように、帝国ホテルで買ったんですね、これはそうでしょう。
  36. 富永惣一

    説明員富永惣一君) いや、美術館で買っております。帝国ホテルから美術館へ持ってきまして。
  37. 小林武

    ○小林武君 帝国ホテルへ泊っていて……。そういう買い方というのはやはりうまくないというふうにぼくはくろうと筋から聞いている。やはりどこでもこれは権威のある場所において、やるのにはやはり美術館館長をはじめ、どんどん旅費を出してやって、そして買えるような買い方をやらせるのが正しいんじゃないか、大体行商みたいな男です、ルグロは。みんないなか回りだと言っていますよ。いなかへ行ってちょろまかしております。テキサスあたりへ行ったりどこへ行ったり。そういうことを日本美術館館長さんが自分の目だけ頼りにしてやらなければならないような、株と同じようなことをさせるということは、ぼくはやはりやらせるほうが酷だと思うのです。なぜ堂々とみんなが行って、権威のあるところから買えないのか、その売り出しの期間というのは、のべつ年度内にあるということがきまっておるわけでもない、年度の予算の動かし方というようなものも、大蔵省と折衝して、この種のものについてはある程度幅のある措置をとらせぬとできないことだと思うのです。そういう点の配慮も必要である、買うほうが。ひとつ厳重にそのことにあたって、先ほど言ったようなことを守っていただかなければ、館長さんが幾らそう思っても、なかなか相手もあることでありますし、特に贋作とか何とかいうものが世の中にはんらんしておるのでありますから、できないと思うのでありますが、そういう点についてお二人のこれからの処置のしかたをひとつお尋ねしたいわけです。
  38. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 先ほど申しましたように、この二つの絵が西洋美術館において購入いたしましたことに対しまして、小林委員からもいろいろ御注意がございました。もちろんいままでも西洋美術館におかれまして責任を持って真偽のほどについては実は考究してまいったことと存じますが、なお御忠告のとおり、ひとつこの真偽を確かめるためになお一そうの努力を払っていただくように私からも申し上げるつもりでございます。  ただ、先ほどの手紙でございますが、これは全然私は受け取っておりません。文部省にまいりました手紙でございましたら、それの機関を通じて私のところへくるはずでございますが、まいっておりませんし、私人として、私の自宅のほうにもそういう手紙をもらったことはないのでございます。  それから、今後購入するにつきましていろいろ御注意がございました。この点はいままでより一そう注意いたしまして、ひとつ購入するように私のほうからも西洋美術館長に申し入れをいたしまして、今後そういうような問題の起こらないように十分注意してまいるようにいたしたいと思います。
  39. 小林武

    ○小林武君 それから大臣、予算のお役所式のあれでいかないところについては、ぼくは大蔵省と交渉するべきだと思うのですよ。
  40. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 購入の経費の問題でございますが、これは……。
  41. 小林武

    ○小林武君 購入の経費の額の問題ばかりじゃないんです。購入のしかたについて……。
  42. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 購入に要します経費の問題、これも十分考慮いたします。
  43. 富永惣一

    説明員富永惣一君) 先ほど購入委員会についての御意見を承りまして、私どもといたしましても、委員会は年々委員を改めておりまして、同一委員がずっとやはり同じことを繰り返しているわけじゃございません。購入すべき作品について一番縁故の深いというか、一番知識のおありであり、また御経験のある方を特に委嘱いたしまして、そのつどそのつど委員を御委嘱しているわけでございますが、今年はこういう作品を買う、それについてはこの方、今年は彫刻を買う、それなら彫刻家に入っていただく、あるいはそういうものを研究なさった方に入っていただくというふうにしてそのつどそのつど変わっております。しかも、またその委員会においていろいろ議論が出ます、議論が出ました場合でも、どなたかお一人の反対があった場合にはやめております、従来。全部第二回の委員会を開きまして、物を改めてやっているというのが実情でございますので、今後もそういうふうにいたしたいと思っておりますので、その点御了承願いたいと思います。  それからこの予算のことにつきましても、非常に御理解ある御発言をいただきまして、これは館長といたしましても今後ますますよき物を収集いたしまして、りっぱな美術館に充実していくためにも、購入につきましては、従来も非常にお骨折りをいただいておりますけれども、やはりいま申しましたような、外国へ行っても買えるというような形にだんだんとしていただくというようなことはまことに望ましいことで、皆さんに私からもお願いする次第でございます。  それから、最後に、さてあのような手紙がきたらどうするかというようなお話でございますが、そういう手紙意見もさることでございます。しかし、そういうものがきたから、あわててどうしろというような考え方は毛頭持っておらないのでございまして、しかし、そういう問題になりました点はあるのでございますからして、私どもとしては、いろいろな筋を通じてこれまでも真作であることの証明をしてきたわけでございますが、今後も続きましてこの作品二つにつきまして厳重な研究と、また専門家の総力をあげてその点を十分追究いたしまして、そうしてこれが真作であったということを世界的に認めてもらう時期が必ずあるということを信じておりまして、そのような努力をしてまいる考えでございます。
  44. 小林武

    ○小林武君 最後に一言。まあ自信をお持ちになって、いままでもりっぱにやってきたというようなことをおっしゃるのは、これは御随意でございますけれども、やはりいろいろな疑惑を持たれたということは、率直に言って反省していただかなければならぬと私は思います。それともう一つは、これはやはりルグロの問題がさらに発展していって、これはもう、もっともパリーの中央の何か警察署か何か、そのほうの人間の手に渡ったらしいですが、結果がはっきりして、これが発展していくようであれば、そうすればこの問題はやはりかなりかかり合いを持ってくるでしょう。日本美術館という名前が出ているんですから、その場合には、それはもうはっきりさせなければならぬということになります。これは法網をくぐることが上手な男ですから、たびたびくぐるかもしれない、くぐったからといって、この作品について、それでよかったということにはならぬ。いまお話のように、十分ひとつ御研究いただいて、そうして将来、美術館、美術界の発展というものを、まだまだ日本の場合させなければならぬ現状でございますから、ひとつその面についての御努力をいただきたい、私はそのように思います。文部省のほかに美術館のやはり事の責任というものをはっきりさせなければいかぬということだけはお願いしておきたい。  これで終わります。     —————————————
  45. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 続いて、昭和四十二年度の文部省の施策及び予算に関する件を議題といたします。  質疑のある方は順次御発言を願います。
  46. 鈴木力

    ○鈴木力君 文部大臣にお伺いいたしますが、この前の小林委員の質問に対しまして、日教組と交渉の問題ですけれども、お答えをなされているその中に、一貫して大臣が言われていることの中に、いま、経過はこの前、小林委員等から申し上げましたから私は省略をいたしますが、日教組が憲法と教育基本法の土俵の外にあるから会えない、大体こういう趣旨の発言がずっと貫かれていると思うんですけれども、その日教組という団体が憲法と教育基本法の土俵の外にあるという意味を具体的に御説明いただきたいと思います。まずそこを伺いましてから、あらためて御質問申し上げたいと思います。
  47. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) それは憲法と教育基本法のたぶん共通の土俵として話し合いをしたらどうかといったような御質問ではなかったかと思います。それで、それは私どもが申し上げますのは、日教組がほんとうに憲法のことについて、前に私は日教組は憲法違反だと申したということについては、その点は取り消したわけでございますが、教育基本法の土俵の外と申しますのは、やはり日教組のほうに私どもが要望しております中で、教育の中立性ということを要望しておるわけでございますが、これははっきりと教育基本法の中に書かれた条文でございます。ですから、この教育基本法の条文に従いまして日教組が守ってくれれば、それは教育基本法の共通の土俵の中で話し合いできるということでございますが、まず第一に話し合いをいたしますについては、教育基本法に従いまして教育の中立性を守っていただきたいというわれわれの要望をお聞きいただきたい、お聞きいただいたら、これはいつでもお話し合いはできるのではないかという意味で私は申したのでございます。
  48. 鈴木力

    ○鈴木力君 日教組が教育の中立に反対しているという、そういう根拠から教育の中立を侵している、こういうことなんですか。
  49. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 教育基本法の中ではっきりと、教育が特定の政党を支持しまたは——ちょっと条文を持っていませんが、いけないということが書いてあるわけです。それで日教組の倫理綱領の中で、倫理綱領に従ってこれを子供たちにそういう教育をするのが倫理綱領だ、こういうことが示されておるわけでございますので、そういうことでなしに、教育というものは日教組自体が持っておるところの倫理綱領でなしに、全国民の全体に対しまして中立な立場で教育をする態度であってほしい、そういうことをわれわれは教育の中立性を要望して日教組に申しておるわけでございます。
  50. 鈴木力

    ○鈴木力君 この教育基本法のおそらく第八条だと思いますがね、いま文部大臣が引用されておるのは。八条に教育の中立ということで、「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治活動をしてはならない。」、こうあるわけですね。そうすると、文部省は大体この学校とそれから日教組というものはこれはもう切り離して、法律的に切り離すのが当然でございましょう。日教組が学校教育を全部支配しておるというような、そういう考え方をお持ちになっているとすれば、なおさら教育問題については日教組と交渉しなければならぬ。文部省というものは行政を通じて学校というものに直接つながっておる、これは当然制度上そうなっているわけですから。したがって、ある一つの組合が何かものを考えたということを、これ自体が学校が教育の中立を侵したというふうに、この法律をそう読むことは私はおかしいと思うんですけれども、その辺の読み方をもう少しわかりよく説明してほしいと思います。
  51. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) これはまあ八条の場合は、学校において特定の政党を支持し、またはこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない、これは学校が行なうということはおっしゃるとおりでございます。しかし、たとえば私どもが申しておりますのは、この第六条に、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、」ということが書いてありまして、国民全体のために教育をするというあれを持っておるわけでございまして、自分一つの綱領によって、その主義によってこれを教育するということは政治的な中立的でないと考えますし、また、第十条に、「教育は、不当な支配に服することなく、全国民に対し直接に責任を負って行なわれるべきものである。」、こう書いてある。何が不当な支配であるかということは、これは要するに法律によって定められました教育の方針によってやるべきものであって、日教組という一つの団体の、この支配によってやるということは明らかにこの「不当な支配」に属するものと私は解釈いたしておるのでございます。
  52. 鈴木力

    ○鈴木力君 この「不当な支配」はあとでまた伺いますが、ちょっと感違いしているのじゃないかと思うのですよ、文部大臣。「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」、これはこのとおりですね。そこで、文部大臣に伺いたいのは日教組が倫理綱領があるから、今日の学校、法律に定められている学校が教育の中立を侵したという実例があるのかないのか。それからまた、「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、」これこれのことがある。このことが日教組に倫理綱領があるから、したがって、いまの教員が政治的中立を侵した教育をやっていると解釈するのか、そのことをまず伺いたい。
  53. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 教育基本法におきます「不当な支配」と申しますのは、正式にきめられました法律に従って教育をするという場合でございます。でございますから、今日、日教組はこの法律によりまして定められました地方公務員法または教育公務員特例法等によりまする政治活動の禁止ということをされているわけでございますが、その正当にきめられました法律に違反いたしまして、政治活動をしたり、また特定の政党を支持するという活動をいたしておりますことは、これは明らかにやはり教育基本法に基づきます精神に反対していると思っております。
  54. 鈴木力

    ○鈴木力君 私が聞いているのは、日教組の倫理綱領があるから、法律に定められている学校が教育の中立を侵したという実例があるか、そういうことを聞いているわけです。それからもう一つは、日教組の倫理綱領があるから、法律に定められている学校の教師が第六条に違反しているような、そういう傾向が、傾向がというよりも、これは全部を指さなければいけませんから、一、二の例があったということは日教組の支配ではないわけです。そういう実例があるかということを聞いておる。
  55. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) まあ倫理綱領は、これは日教組の倫理綱領でございますから、まあお説のとおり、学校が行なうことにはならないと思います。
  56. 鈴木力

    ○鈴木力君 学校が行なうということにならない。そうすると、日教組の倫理綱領は、教育基本法の第六条と第八条にはじゃまにならないということになりますね。そう確認してよろしゅうございますか。これは齋藤さんに聞いているんじゃない。大臣です。齋藤さんは要求していないんだから、出席を私は。いや、これは重要な問題ですから、大臣の方針ですから、前の大臣と今度の大臣が食い違っているのを、そこを聞くのが目的ですから、齋藤さんでつながっている人に聞いたってわからない。
  57. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 大臣が申されておりますのは、倫理綱領につきまして、そのたとえば第一に、「搾取と貧乏と失業のない社会の実現」、その搾取ということばも、人間による人間の搾取という観点の特定の考え方で、一般的にただ搾取ということではないというておりますが、これを教え込むことだというふうに規定いたしますことは、これはこのとおりに行なわれますならば、教育基本法の第八条との関連が起こってくる、こういうことを御説明しているわけでございます。
  58. 鈴木力

    ○鈴木力君 私はその解釈じゃなしに、そういうふうに倫理綱領があるために、一体、法律に定めている学校がそうなっているかいないかということを聞いておる。
  59. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 長い間の期間に、第八条に違反するような教育というものが学校で行なわれた事例というものはあるわけでございます。いわゆる偏向教育の問題としてあるわけでございます。事例があるわけでございます。しかし、いまおっしゃるのは、その倫理綱領との因果関係を事実についてどうかという御質問でございますが、それは私どもにはわからないのです。ただ、倫理綱領のような立場で、こういう立場で育成するということを進めて、そのとおりに行なわれるという事態がありとせば、それは八条との関連が起こると、こういう意味をまあ大臣は申し上げているわけでございます。
  60. 鈴木力

    ○鈴木力君 大臣に伺いたいんですがね、さっきから何べんも言っておるんですけれども、その事例があるということは、これは特例があるということなんでしてね、そうでしょう。これは日教組の倫理綱領があろうとなかろうと、憲法によっても国民の思想、信条の自由が保障されておる。そうすると、国民の思想、信条の自由が保障されている限りは、しかもそういう思想によって教師をどうこうと言うわけにはいかない。このことははっきり認められるでしょう。そういたしますと、そういう個人の思想がどっち向いておっても、教育基本法に示されてある学校の教師としては、まあこれは定められている法律の範囲内で自分の自由な教育ができる。これはもちろん法律の範囲内でであります。と同時に、また自分の思想がどうあっても、この特定の政党を支持するような、そういう政治教育をしてはならないと、このことだと思うんです。このことは、私はいまの倫理綱領の、初中局長がどこか一条を読み上げましたけれども、私はきょう倫理綱領を持ってまいりませんので、全部は申し上げませんが、そういうことによって教育がおかされているという判断は、少し早過ぎるんじゃないか。早過ぎるというか、当たらないんじゃないか、こう考えているんですけれども、その点についての文部大臣の見解を聞きたいと、こういうことなんです。
  61. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) この「学校は」という意味でございますが、学校自体がそういう学校の教育方針として特定の政党を、第八条に違反するような学校の教育方針として掲げてこれをやってはいけないというような意味ではなくして、この学校の中におきまして、こういったような、八条において行なわれますような行為が現に行なわれておる、学校の教師によって行なわれておりますし、それが学校において何ら是正されていないという場合におきましては、やはりこの八条違反が起こり得ると考えます。それで、それはどういう意味かと申しますと、倫理綱領によりますと、いま初中局長が言いましたような、この課題を掲げ、各人の個性に応じて、「青少年は、各人の個性に応じて、この課題の解決のための有能な働き手となるように、育成されなければならない。」と書いてございます。これは、この倫理綱領が、私どもはこの日教組の倫理綱領によって育成されるという事実は明らかにその教育は偏向教育であるとわれわれは考えますので、その偏向教育を行なっておる先生方がおります場合において、学校において行なわれておる場合におきましては、明らかにやはり第八条の違反になると、こう解釈していいと考えます。
  62. 鈴木力

    ○鈴木力君 少しこう、いろいろ問題がたくさんありますから、いまの不当な支配と倫理綱領のほうはもう少しあとで、私はまあ倫理綱領の中身の議論はこのあとにしたいと思いますけれども、どうもその一方は、一体、組合というものは一つの政府に対して、これは公務員の組合でありますから、政府の方針の中にあって、個々の組合員の個人の政治信条までそのワクの中に縛る、そういう思想でなければ組合活動はしていけないということはないはずだと思うのですね。その辺についてはどうなんですか、考え方は。
  63. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 組合員が政治的信条を持つというのはこれは自由でございます。ただ、自分の政治的信条を子供たちに教育して、その信条で教育するということは、これはその学校の中立性をおかすものだと考えます。
  64. 鈴木力

    ○鈴木力君 日教組の言っておるのは、組合員としての教師としての信条がこうあるべきだということを言っておるのですからね。思想、信条の自由に保障されておる教師の思想はこうなければならないということを言っておるわけですね。あとにその思想の中身についてはまた議論いたしますけれども、これはあと回しにいたします、形式的なものの言い方をいまいたしますから。そういたします場合に、一方は、日教組自体が運動方針で憲法を守るということを一番大きな柱にしておる。それから教育基本法を守れということを、これを大きな柱にしておるわけです。教育基本法というのは全部の条項を含んでおるのであります。その全部の条項を含んでおる教育基本法を守れということを運動方針としてやっておる。個人の思想、信条の自由が保障されておる中で、こうあるべきだということを掲げておる。そうして実際は憲法と教育基本法を一番大事にして、「学校は」というところの教師は、法律にきめられておる学校の教師は教師のあるべき姿をいま歩いておるわけです。だから、一、二の例はあるにしてもそれは特例だ。そのことは、一つの団体があるから日本教育の方向が右に行くとか左に行くとかということにはならないわけです。そうじゃなしに、日教組が憲法や教育基本法を大事にしておるから、そういう倫理綱領の理想像を描きつつも、いまの学校という教育は、大方の学校はこの政治的中立をおかしていない。また、ほとんど大部分の教師は政治的中立をおかした教育をやっていない。第六条の違反というのもほとんど全部はやっていない。これが今日の現実なわけですね。であるから、倫理綱領と運動方針と、ある一つの団体を性格づけますために、何かの一つの文書を持ってきて、これがすべてだというものの考え方が、これがひとつ文部省としてはあやまちをおかしているのじゃないか。ここを私は申し上げたい。
  65. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 組合活動として組合員が一定のいろいろな思想をお持ちになるということは自由だと思いますが、その思想に基づいて教育をするということが倫理綱領になって教師の任務の中にきめられているのですね。これは教育はあくまで教育基本法に基づき、かつ正当にきめられました法規に基づいて教育さるべきものであって、組合の一つの倫理綱領というか、思想綱領を子供たちに教えていく、これはあくまで不当な私は支配ということを及ぼすものであると思うのです。正当な法規によって教育はさるべきものであって、日教組の倫理綱領というものを子供たちを通して育成していくということは、教育の場において教師がそういう教育をやることは、あくまでこれは法律に違反しておると私は考えます。
  66. 鈴木力

    ○鈴木力君 そこで大臣、何べんも同じことを聞くけれども、大臣に同じことを私に聞かせないように答弁をしていただきたいのです。私が聞いているのは、倫理綱領というのは思想綱領だ、組合員が憲法で保障されておる思想の自由、あるいは学問の自由もありますがね、政治的な立場の自由も保障されている中で、こうあるべきだということを掲げておるわけです。ところが、日教組という団体は運動方針の中にはもう一つ憲法を守るということが非常に大事な柱に掲げられておる。教育基本法を守らなければいけない、このことも非常に大事な柱として掲げられておる。だから、思想、信条の自由を保障されている中でその倫理綱領が定められておって、この倫理綱領、是非はあるのですよ、何べんも言いますがね、大臣が言う意味に私は悪くは思っていないのですけれども、これは別だ、この是非は別として、形式的に言うと、そういう思想、信条の自由、憲法のワク内で思想、信条の自由を保障しながら、それは掲げておるけれども、実際の教育の場においては教育基本法に従ってやっている。これが日教組の組合の姿勢でもあり、日教組の組合員である教員の姿勢でもある。だから、先ほど齋藤局長が答えたように、ほとんど全部の学校はこの教育基本法の六条違反の教育もやっていなければ、十条違反の教育もやっていない、そういうことを私は申し上げるわけです。大臣が言うように、倫理綱領があるから全部の組合員の教員がやっていることをストレートにそうであるといったら、おそらく大臣の言う偏向教育は全国ほとんど全部の学校が偏向教育をしていなければならないはずなんです。ところがそうじゃないのは、いま言ったそういう憲法、教育基本法にのっとって日教組という団体が生きているからそういう教育がいま行なわれているはずだ。そこのところを認めるか認めないかということなんです。
  67. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 鈴木委員の申されますように、私どもは日教組の倫理綱領が単に信条だけを規定しているものではないと考えます。明らかに教育につきまして対象となります青少年の教育において「各人の個性に応じて、この課題の解決のための有能な働き手となるように、育成されなければならない。」というので、行為の規制をいたしておるのでございます。私は実際の実例を存じておるのでございますが、たとえば日教組の教研大会なんかありまして、いろいろ課題を研究されますし、また、文部省が指導要領なんかに出しました場合において、日教組自体の講習会をおやりになっておることを知っておりますが、日教組の倫理綱領に基づくところの考え方で指導要領をいかにすればその綱領に基づいてこの実施ができるかというような研究を講習会をやって皆さんにやらせようとしておるわけです。ですから、これは明らかにこの倫理綱領に基づいて青少年の教育に対してこれを日教組の考え方をいかにして教育するかということを実施しておるのが現状だと思っておるのです。ですから、そういうことが行なわれればこれは明らかに教育基本法のやはり違反になると私は考えております。
  68. 鈴木力

    ○鈴木力君 大臣に私は聞いていることを答えてもらいたいのだけれども、倫理綱領一つで日教組が動いているという見方をしておる、大臣は。現実の日教組の動きというものをあなたは倫理綱領一本でそのとおりに日教組が動いている、そういう認定でものを立てているのかどうか。だから、もしそうだったら、日教組の運動方針の柱に憲法と教育基本法を大事にしろという柱が出ております。おかしいじゃないですか、もし憲法の土俵の外だという見方をするならですよ。そうじゃないんだ。そうして具体的にさっきから私何べんも聞いておる。もし倫理綱領というものがあって、行動綱領だから教師がこれによって行動している。そういう判断をするならば、いまの法律に定められてある学校が、ほとんど大部分が日教組の組合員ですからね、そういう教育をしているのかしていないのか。どう判断をしているのかということをさっきからしつこく聞いているけれども、そこの返事がないわけですけれども、そこの判断はどうなんですか。
  69. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 倫理綱領だけでやっているんじゃないということもそれはありましょう。だけれども、倫理綱領でやらないというならば、私どもが要望するように、もうやめていただいたらいいと思うのです。これはやはり倫理綱領を廃止しないところをみれば、やはりこれによって、日教組は教育の場においてこの精神によって教育を実施しようという御意思があるからこれを廃止できないのじゃないか。もしこれによらないのだというならば倫理綱領をひとつわれわれの希望どおりに廃止をしていただいたらいいじゃないかと思うのです。
  70. 鈴木力

    ○鈴木力君 もう一つ別の角度から聞きます。いまの大臣の論法で言いますが、憲法と教育基本法に保障されている行き方で、かりに私が現場におって、社会党の党員で教師である。これは私がというと例が悪いから、よその人を言ったほうがいいが、Aという教師が社会党の党員であって教師になっておる。Bという教師は自民党の党員であって教師をやっておる。このことは認めますか、認めませんか。これは一つずつ聞きます、こうなりますと。
  71. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) それは当然でございます。認めます。
  72. 鈴木力

    ○鈴木力君 そのときに、自民党員である教師、社会党員である教師は、やはり政治信条としては自民党が正しいと思うわけですね。社会党の教師は社会党が正しいと思っておる。こうあるべきだという思想を持っておるわけです。しかし、いま教育基本法で政治的中立をおかしてはいけないからということで、ほんとうに教育をする場合にはその社会党の政策なり自民党の政策なりは教育の場においては生かさない、その時期においては。そうでしょう。それなら教育基本法に違反したとは言えないでしょう。その違反したとは言えないときに、おまえは社会党に入っておって社会党の政策で教えようと思うが、教えていないなら社会党を脱退したらいいじゃないか。そういう言い方が成り立つのですか、成り立ちませんのですか。
  73. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 自民党員でありましょうとも社会党員でありましょうとも、自民党員であれば自民党の政党的立場において教育をするとか、社会党員であっても社会党的立場において教育するということは、これは許されませんですから、あくまでそこに教育の中立性があると思います。
  74. 鈴木力

    ○鈴木力君 だから、そのときに教育の中立性をおかさずに教育をしておる場合に、おまえは教育の中立をおかさないで教育をしておるから自民党を脱退したほうがいいじゃないか、おまえの社会党思想を使わないのだから社会党を脱退すべきだ、こういう言い方が成り立つのか成り立たないのか、このことを聞いている。
  75. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) そういうことは何もお尋ねになる問題じゃないのじゃございませんでしょうか。自民党員であって、忠実なその党員でありましても、中正な教育をしておるのを自民党を脱退しろなんという人はいないと思います。
  76. 鈴木力

    ○鈴木力君 そこで、さっきの日教組に戻りますがね。日教組という団体は教師の集団ですからね、教師の集団がこうあるべきだという考え方は、これは倫理綱領だけじゃありませんけれども、全部読んでもらわなければほんとうの理解はできないのですがね。かりに倫理綱領が一つある。ありますわね。この倫理綱領でこうあるべきだということを書かれておるけれども、しかし、実際には憲法と教育基本法があるからその法のワク内で教育をやっておる。それを日教組は指令をもってぶちこわそうとしたり、あるいはその職場に行って、おまえの教育が間違いだから切りかえろと言ったり、そういうようなことは何ら一つもやっていないわけです。だから教師が、ほとんどの教師が憲法違反もやっていないし、教育基本法の六条にも八条にも違背をしていない。したがって、日本教育が政治的な中立が保たれた教育が行なわれておる。これが今日の現実なんですよ。そのときに文部大臣は、使わないから倫理綱領はやめたらいいじゃないか。組合という一つの自主的な団体が、憲法で思想、信条の自由が保障されておる団体が、こうあるべきだということを掲げておるが現実には使えないから使わないだけの話。それを現実に使えないからおまえそれを捨てろというのは、さっき言った、かりに社会党なら社会党の党員である教師に対して社会党を抜けろというのと同じだ。現実に教育基本法と憲法を守って教育の政治的な中立をおかさない教育をやっているならば、思想はどっちを向いておってもそれは自主的な団体である限り文部省が干渉をすべき筋合いじゃないのじゃないか、こういうことを言っているのです。
  77. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 政党に属しておりましても完全な中立的な教育をしております場合においてはこれは問題ないと思いますね。ただ、この倫理綱領におきまして、その日教組の倫理綱領に基づくような青少年の育成をやるのがこの教師のまあ至上命令ですか、ということで、ただいまその現場においてそういう教育をやっておるということは、これはやはり教育の中立をおかしておると私どもは考えております。ですから、あくまで教師として倫理綱領は倫理綱領であるのだ、しかし、倫理綱領によって教育をしているのじゃないのだ、こうおっしゃるならば、しかし、現実にそうであるならば、私ども倫理綱領は倫理綱領として据え置いてもけっこうですが、倫理綱領の中に、すでにそれ自体がそういう精神によって教育をやること自体がこれは倫理綱領ではっきりとしたこの至上命令として書かれておるのでございますから、これが、それはなくてただ修身書のようなものが日教組にありまして、それでそれはその日教組の組合員の思想の一つの目標であり理想である、こう書かれておるだけであって、これは教育に何らのそういうわれわれの理想を子供たちに教え込もうとするのじゃないのだというならば、これはわかりますよ。だが、はっきりと倫理綱領の中に自分からの考え方を書いて、きめて、これを教え込むのが倫理綱領の中にはっきりと教師の使命観として書かれておるわけです。これは私はその点において教育の中立性をおかしておると、こう考えておるのであります。
  78. 鈴木力

    ○鈴木力君 もう何べんも聞いているのですが、もう一ぺんはっきり聞きますがね、文部大臣、いまの日本教育は政治的中立をおかしていると思うのか、おかしていないと思うのか、法律に定められてある日本の学校の大部分がおかしているのかおかしていないのか、どっちの判断をとっていますか。
  79. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 日教組の方でも、倫理綱領がありまして現段階において倫理綱領にまあほんとうにそのとおりに従ってやっておられると、全部が全部とは思いません。だが、忠実に日教組の倫理綱領によって教育の場において、現場において働かれておるならば、そのときは私はこの教育の中立性をおかしている、こう考えていいと思います。
  80. 鈴木力

    ○鈴木力君 大臣に私は聞きたいことを聞くのですから、いまの法律の中に定められてある学校の大部分は政治的中立性をおかしていると判断をしておるか、おかしていないと判断をしているかどっちかということを言ってもらえばいい。ああならこうだ、こうならああだというのは理屈ですから、私はいまの事実判断を求めている。
  81. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) それは私どもはいま全部についてこの中立性をおかしていないとか、全部がおかしておるということは言えないと思います。実際上のそこの場において、教育が行なわれておる実情においておかしておる場合もあり得るし、おかしていない場合もあり得ると思います。
  82. 鈴木力

    ○鈴木力君 おかしている場合もあり得るし、おかしていない場合もあり得るということは、これは聞かなくてもわかっている。文部省として、一つ責任のある行政府として、日本の法律できめられてある学校の大部分が政治的な中立をおかしているのかおかしていないのか、どっちの方向にあると判断をしているのかということを聞いているのです。おかしていると判断をしたならば、それはそれなりに手を打たなければならない。おかしていないという判断立てば、その上に立っていろいろな行政がなされなければならぬわけですよ。その大事な教育基本法をおかしているかおかしていないか、大部分が。若干どちらを向いているというのはどんな場合もありますから、このことは私はここでは問題にしません。大体の日本教育の方向としてどっちを向いているのか、どう判断をしているのか、このことを聞いている。
  83. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 私どもはやはり教育の現場において偏向教育の実例というものをずいぶんかつて問題にしたことがございます。日本教育において、現場において教育基本法違反のことをしていないようにできるだけなっていくことを希望いたしております。
  84. 鈴木力

    ○鈴木力君 現実の認識がどうかと聞いているのです。どっちを希望するかとか、そんなことを聞いているのじゃない。
  85. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 一体、八条に違反するような教育が行なわれるおそれが全くないかといいますと……。
  86. 鈴木力

    ○鈴木力君 いやいや、そんなよけいなことを言わなくてもいい。どっち向いているかということを言えばいい。
  87. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) たとえば教研集会で進路指導をどう進めるかというその論述の中に、ある発表者は一〇・一闘争を組織し、これを戦い抜いたことが労働者としての自覚を全組合員の中に高め、いまこそ階級的観点に立って子供の教育をしなければならないという意識を強めたというような発表があるわけでございますが、そういうものを見ますと、少なくとも八条に違反する教育を行なわんとする意思を持って努力されている方があるということは明らかだろうと思います。
  88. 鈴木力

    ○鈴木力君 私が聞いているのは、まじめに聞いてもらいたいですね、答弁をはぐらかさないで。これは何時まででもこのことを繰り返しますから。若干どっちを向いているものがあるかないかそんなことを私は聞いていない。日本の法律に定められてある大部分の学校が政治的中立をおかした教育をやっていると判断をするか、大部分の学校が政治的中立をおかしていないと判断をするかどっちだ。簡単なことなんですよ、右か左か。これを答えてもらいたい。これを答えないうちはいつまでも繰り返しますから。特例があるとか、ああならこうというようなことは言ってもらいたくないですわね。
  89. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 私どもは直接に学校の教育の内容についてタッチはいたしておりません。これは地方の教育委員会が責任を持ってやっておることでございますから、現実の教育内容について教育委員会においてこれは行なわれておるのであって、文部省はこれを直接把握はいたしておりません。ただ、現在の実情の中におきまして、私は日教組がこの倫理綱領によってやっておられる限りにおいて、これに忠実にやっておられれば、やはり法律違反の教育が行なわれておることは、可能性は十分あると考えております。
  90. 鈴木力

    ○鈴木力君 何べんも言うが、よけいなことを大臣が言うから話が長くなる。文部省として、日本教育がどっちを向いているか全然知りませんと、そういうことなんですか。各府県の教育委員会にまかしてあるから、政治的中立をおかしているのか、おかしていないのかわかりません、関心もありませんと、こういうことですか。
  91. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) これは御存じのように、いまの義務教育は完全に教育委員会において、これは制度によりまして……。
  92. 鈴木力

    ○鈴木力君 いや、制度上のことはわかっておる。
  93. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) ですから、文部省は直接にそれを把握する方法がないんです。ただ、文部省としては、日教組の倫理綱領にこういうことが書いてある、ですから、これは教育の中立性をおかすおそれが多分にあるから、こういうことはしないでくださいということは申し上げます。だから、そういうことは、現場において偏向教育が行なわれてはいけないということは文部省としては申しますけれども、この実際の実態を把握するのは教育委員会でございまして、私のほうでは、実際に実地に学校の中に入って、現実にその実態の証拠をもってこうやるというわけにはこれはいきません。
  94. 鈴木力

    ○鈴木力君 そうすると、こういうことは確認しておいてよろしゅうございますね。文部省としては、各学校がどういう教育をやっているかということについては教育委員会にまかしてある、文部省は一切これには干渉もしないし、それがどっちを向こうとかってだ、そういう意味にとってよろしゅうございますか。
  95. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) どっちに行こうともかってだとか、知らないとかいう問題じゃないですね。いまの教育制度としては、教育の地方分権で、教育委員会が責任を持って行なう。しかし、教育委員会は、もちろんこれは国の機関でございますから、われわれが解釈すると同じ法律に基づいて、教育が正当に行なわれることをやっておるべきなんです。
  96. 鈴木力

    ○鈴木力君 そこで、倫理綱領を廃止すべきだと文部省が言っている。その見解は、さっき私の言うことを全然大臣は取り上げないけれども、私はある一つの民主団体というのは、どういう綱領を持とうとも、どういう方針を持とうとも、それはかってだと思う。かってだというのはことばが悪ければ、憲法に保障されている自由のワク内である。ただし、それを教育の場で行動に移す場合に、移すべきだといったことが、移したという解釈は成り立たないわけでしょう。そうでしょう。それを移すべきだといったら——可能性があるということは、それはまあ出てみなければわからない。言っている本人は、一つの理想を掲げながらも、教育基本法と憲法を守ろうと言っているわけです。そして現場では、実際には憲法違反なり、あるいは教育基本法違反なりというのは、大部分の傾向としては、そういう違反をおかしている教育というのは法律的にはないわけです。そうしたら、日教組が言っておるように、憲法と教育基本法を守って教育をやっておるということが立証されているじゃないですか。それをどこからかかってな解釈をして、倫理綱領の一部に何か一つがあるから、これによって日本教育全部が支配されておるというような解釈は、少し行き過ぎではないか。教育委員会から法律に基づいて定められておる学校が、政治的中立をおかしてならないから、文部省に対して、倫理綱領を廃止さしてくれと、そういう要求があったかなかったか、そのことを聞いてみたいわけです。
  97. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) これは組合におきまする一つの法則だと思いますが、いわゆる組合内部の倫理綱領という規約をきめられるのは、これは自由であります。ただ、規約の中で、その業務の実態、たとえば、ある特定の会社の組合がその組合規約の中で、この会社の運営方針とか、そういうものを組合自体内部の規約でこれをきめて、その組合がその精神によって会社の運営をやっていくということは、これは私は誤りだと思う。したがって、もしこの日教組の倫理綱領が組合内部の一つの規約であるならば、教育について、組合が自分の考え方で教育を行なっていくというような規約を設けることは、全くこれは、一面に言えば、組合管理の教育教育管理の思想に基づいておると私は思います。ですから、この倫理綱領の中に、明らかに倫理綱領の精神に基づいて子供たちを教育するんだと、この教育をするということは組合規約を逸脱しておる。ですから、単なる組合内部の規約であるならばとにかくとして、倫理綱領に明らかに教育一つの方針をきめております。しかし、それは日教組によって、その精神によって教育は行なわれるべきものでなく、教育はあくまで国民全体に対しまして、正当な視野に基づいて、いわゆる正当な法規に基づいて教育されるべきものであって、日教組の組合規約によって教育が縦断されるということは、これは日本として許されるべき問題じゃございません。ですから、こういう思想に基づいて、倫理綱領に基づいて子供たちの教育をしようという、これは明らかに、組合の内部規約と申しますか、そういうものを逸脱しておる行為でございますから、私どもは、こういうものを含んだ倫理綱領はひとつやめてほしいと、こう申し上げておるわけでございます。
  98. 鈴木力

    ○鈴木力君 まだその中身については申し上げませんが、どうも形式的に、私は大臣の言うことは承服できない。何べんも私がさっきから聞いておるように、倫理綱領というものがある。これはつくってからもう十何年ですよね。いつつくったか、私もよく調べていない。それでもって、その倫理綱領によって日教組の組合員である教師が教育をしたかどうかと聞くと、わからないと答えるんでしょう。私のほうは、そういう教育をしないという方針を運動方針に持っているんだと、日教組は。だから、大部分の法律に定められておる学校は、政治的中立をおかした教育は現にやっていないんだと。そうしたら、日教組という一つの団体を見る場合に、思想、信条の自由で保障されておる中に、こうあるべきだというものはある。あるべきだというものはある中で、教育基本法と、その他、憲法があるから、その憲法と教育基本法を第一にしながら教育をしよう、こういっておることが、今日の日教組の組合員である教師のやっている姿だ。だからこそ、よそからも何にも言ってこないわけです。そこのところを目隠しをしておいて、現実には教育基本法のおかされていない教育が行なわれておる、それなのに、そこのところから切り離して、何か組合に保障されておる思想の自由までも束縛するような、あるいは内部干渉めいたことを文部大臣がいつまでもやっておるということがおかしい。こらあるべきだということは、また、ほんとうはこうならなければいけないんだということは、個人によってみんな違います、その思想によって。だから、私がさっき言ったように、社会党員である教師であっても、政治的中立をおかしてはいけないんだと、こういうことがある。ただし、もちろん議論はありますよ。たとえば、憲法に違反しておるかどうかという問題は、これは解釈によっていろいろ違うわけです。かりに政府側が、憲法に違反していない、そう解釈しても、学説上からいうと、これは憲法に違反しているという解釈もあるわけです。だから、こっちの解釈が正しいんじゃないかという議論をすることだって、これは自由なんでしょう。教師がそういう議論をすることも、それはいけないというわけじゃないんでしょう。ただし、そういう議論をする中でも、今日のこの法律があるから、それをおかさないという教育をやっている。その議論をしてはいけない。今日の日本の法律、これはつくったものですから、大体、あるべき姿というものは法律と違うこともありますよ。いまの法律が間違っているんじゃないか、そうすると、この法律は直さなければならぬじゃないか、そういう議論もあり得ましょう。そういうようなことも、ほんとうはこうあるべきだということを考えておることも、それは事実だ。しかし、やっておることは、そんなに違反したことをやっていない。そこのところをわきまえている。だから、教育基本法は大事にしろと言っている。そのときに、おまえのほうはこういうことをやるべきだという思想を掲げておる。教研集会でだれかが言った、一人二人がしゃべったことを持ってきて、全体の者が言ったようなことで押えつけようというのは、組合をただ押えつけようとする道具と言いますかね。だから文部省の組合対策はどろくさいとか、あか抜けしないということを世間からも批判されているのはそういうところにあるというのです。そこのところをもう一歩突き抜けたらどうかということを私は言っている。事実は事実として、いまのような法律違反という事例があるのは、日教組があるから、ないからということじゃないのですからね。たまにはそういうこともあるかもしれませんけれども、それは昔、紀元節がまだ祝日法案が通らないうちに学校で儀式をやった校長さんだってあったでしょう。言えばそういうことに対しては批判はあるわけです。しかし、そういうことだって行き過ぎですよね。法律ではまだ祝日とはきまっていないうちに二月十一日を紀元節だと言って、そうして日の丸を掲げて学校で儀式をやった、そういう校長さんだって前にあった。こういうことこそ政治的中立をおかしているのでしょう。法律が出たあとは別です。出る前にはそういうことがある。これは日教組の影響じゃないのですよ。大臣、はっきりしてもらいたい。紀元節の式を国の法律で祝日がきまらないうちに生徒を集めて式典をやったのは日教組の影響じゃない。だから、個人の思想というものは、どっちを向いてもいろいろなものがあるのですから、それらのところには何らものを言っておらない。そうして倫理綱領というのがある。あるけれども実害がない。実害がないのは日教組という団体が教育基本法をわきまえているから実害が起こっていない。そういうところは全然認めていないで、そうして、いたずらに倫理綱領というものを、いやがらせみたいな、感情みたいな言い方を繰り返している。これではどうもほんとうの教育行政になっていないのじゃないか、こういう気持ちから申し上げているわけです。
  99. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) ただいま非常な、まあ私のわからないことを開きましたのですが、倫理綱領はここにあるけれども、憲法や教育基本法に従って日教組はやっておって、この倫理綱領に掲げてあるようなことは行なっていないのだ、こういうことでございますならば、私はもう事実上これは倫理綱領というものは実は空文にすぎないのだ。空文であるならば、この際あっさり、もう倫理綱領は日教組は採用しておりませんと、こういうふうにおっしゃっていただけば私はいいのじゃないかと思う。教育基本法は守るのだと言いながら、倫理綱領を守っていくと言えば、必ずこれは教育基本法に反するのでございますから、あくまで教育基本法をお守りになって教育をするのだという御精神があるならば、この際これは倫理綱領をはっきり、あっさり、もう守ってもらわないのでしたら、これは廃止していいのじゃございませんか。
  100. 鈴木力

    ○鈴木力君 どうも何べんも同じことを言わせるのですが、大臣、長くなるのは私の責任じゃないことをはっきり申し上げておきますよ。  このことはさっき話をしたでしょう、何べんも。大体、思想、信条の自由というのは保障されているのだから、こうあるべきだというスローガンなり、こうあるべきだという綱領なりを持っていることを、使わないからやめろということはよけいな話だ。それは使おうが使うまいが、持っているほうの自由なわけです。だから、私が言ったように、たとえば社会党である教師が、社会党の教え方がこうあるのだけれども、いまの教育基本法にこうあるから、こちらの教育をやっているのだ、これは許されるべきでしょう。そのときに、おまえが社会党の政策を教育の場に生かさないなら——生かしたいと思っていることは間違っていない。生かさないなら社会党を脱党したらいいじゃないかというようなことはよけいなことだ。それと同じことです。同じことで、その倫理綱領が、現実に大臣が言うような被害というものはないのだ。被害というものはないのじゃなしに、日教組という組合の善意によってささえられている、そこのところを認めなさい。こういうことを言っている。使わなかったらやめなさいということは、これは民主的な団体に対するいわゆる官僚の不当な支配、不当な干渉です。これはそんなことは言う必要はない。そういうことでしょう。だから、かりに日教組と文部省が交渉を開始するならば、憲法と教育基本法のワク内で話し合いをする、土俵の中で話し合いをする、そういうことを言っているわけです。私どもは、これは前の文部大臣との間にも文書を交換されている。この速記録を読むと大臣の認識の外です。憲法、教育基本法の土俵の外にこの倫理綱領があるというだけの話、倫理綱領というのはそういう性格で、現実に教育はおかされていない。しかも、現実に教育基本法をささえているのは日教組の組合員ですから、数の上からは。そういうことです。それは日教組が命令に従わないでやっているということ、皆さんのそういう判断はよけいなことです。そうじゃなくて日教組の組合員が、大部分の法律に示されている、定められている学校がそういうことをやっているのですから、何もそのことを種にとってどうこう言う必要はないじゃないかということです、逆に。その土俵の中で話し合いをしながら、いまのような話を、たとえば倫理綱領で一体あなたたちは教育基本法との関係で現場はどういうことになっておるか、直接聞いてみたらどうですか、そのときに捨てられるのか捨てられないかという話は、組合と文部省の話し合いの中で、そういうことはすなおに言いたいことを言ってみたらどうですか。
  101. 剱木亨弘

    ○国務大臣(剱木亨弘君) 私どもは倫理綱領の廃止、政治的中立の確保、実力行使の廃止という三項目を提出してもらって要望しているわけでございますが、特にその他の問題につきまして、たとえば実力行使の廃止でございますとかというような問題につきましても、現在の段階においてはこれは日教組においておやめになる意思はないようでございます。倫理綱領につきまして、鈴木委員はこれは日教組の善意によって教育基本法に従ってあくまでやるので、教育基本法に反するような倫理綱領の内容については実施はしていないというふうにいまおっしゃいましたが、もしそういう実施していないならば、私は、われわれの申し出は当然のことであって、日教組のほうで御注意をいただくべき筋合いではないか、実施をしないものをただ口頭禅のように掲げてあるだけならば、これは思い切ってひとつ直ちに倫理綱領をやめていただくことは当然のことであって、私どもは当然なことを実は要望している。これは三項目でございまして、これは不当な御要望を私どもが申し上げているとは思っていないのです。ですから話し合いといっても、その話し合ってこれを廃止するとか、そういったような御意思があるのなら別ですけれども、何らそういうことについて意思がないのに、私どもはこの重要な三つを当然のこととして御要望を申し上げておるのでございますから、これはいまも鈴木さんからいろいろのお尋ねがございまして、倫理綱領はこれは善意によって行なっていないのだということは、言いかえますれば、倫理綱領の通りやれば教育基本法の違反になるということをお認めになっていると思うのでありまして、こういう意味におきましては、どうしてもやはり、私はわれわれの要望を日教組の方がひとつ一日も早くお聞き入れを願う、そういうふうになりましたならば、私どもはいつでも喜んで日教組の方々といつでもお会いする、こういう気持ちでいるわけでございます。ですから倫理綱領におきましても、これを私どもは、絶対に廃止することができないなら、その間違いの点だけはやはり再考していただくという日が一日も早くくることを希望している次第でございます。
  102. 鈴木力

    ○鈴木力君 よけいなことを言ってもらってはぐあいが悪い。私は何も倫理綱領が組合の中立をおかしていると言ったわけじゃない。文部大臣が憲法と教育基本法のワクの外にあるのが倫理綱領だというから、かりにそうだとしても、現実に教育が行なわれて、そういうワク外の教育は行なわれていないじゃないか、事実として。それは日教組という団体が自主的にやっているのです。ただし、私が知っている範囲では、教育基本法と憲法に違反した教育は大部分の学校はやっていない。日教組の組合員がいる学校、法律の定める学校で、ほとんどの学校は政治的な中立をおかしたといいますか、その中立をおかさない教育をやっておる。この現実は日教組という団体が憲法と教育基本法を大事にしているという方針を大きく掲げているからだ。それは文部省も指導理念で、その指導の行き過ぎもありますし、その問題はまた別なんです。一つの行政の指導の問題もあるかもしれないが、組合側のそういう運動方針を読んで見ればわかる。憲法と教育基本法というものを非常に大事にしておる。これに従って教育をしなければならないことを一面から言っているでしょう。だから、一つのワク内で、憲法のワク内で保障されておる思想、信条の自由、あるいはこうなければならないという一つの理想像というものがある、理想像はだれがどんなものを持ってもかまわぬというのが憲法の精神なんでしょう。現実に教育はどう行なわれているかということが教育基本法なんです。そうすると、それとこれと無理に結びつけて、高い理想像を捨てなさいという大臣こそ、憲法違反の疑いがどうも出てくるような気がしますけれども、これは違反だとは言いませんが、憲法には保障されておる思想、信条の自由なり、あるいはそちらの一つの考え方なりというものは、これはあったって、その他の教育基本法なり、それをおかす教育をやっていなければ、それでいいんじゃないか。またそれは、しかし、私はここで、もう大臣そろそろ時間ですから、あとはこの次の機会に続きますけれども、そうはいっても文部省には文部省の考え方があるんだから、そこで考え方が間違いだと言わなくてもよろしいわけです。要望しておる——それなら要望しておってもよろしい。要望しておって、向こうがどう答えるかということは、会ってお互いに話をする中で要望し、話し合っても答えが出てこなければいけないわけで、強い要望である、それは要望として生かされておる。この前の中村文部大臣と日教組との会見の文書の中にも要望は生かされておる。日教組側は組合に対する不当な干渉だと思うけれども、じかに言いたいことを言いっこする機会だから、そういうことになっているのですから、要望は続けてもかまわないわけでしょう。これは文部大臣が会うということのじゃまにはならないわけなんです。会った中で、なおさらそういう問題をいろいろと詰めていって要望を続けていけばいいじゃないか、そういうことを申し上げておるわけです。まあその答えは、それでわかりましたとは言わないでしょうから、御答弁はこの次でよろしい。私も時間がございませんから、この問題の続きは——いま倫理綱領だけやりましたけれども、たくさんの問題がずいぶんありますから、それらの問題を含めてこの次の委員会でまた継続させてもらいます。
  103. 中野文門

    ○中野文門君 ただいまの引き続きこの次の委員会というお話でございますが、午前中の理事会での大体の話し合いもございますので、さらに本委員会閉会後、あらためてまたその点は、明後日のことは御相談をしてもらいたいと思いますが、委員長いかがでしょうか。
  104. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記をとめて。   〔速記中止〕
  105. 大谷藤之助

    委員長大谷藤之助君) 速記を起こして。  他に御発言なければ、本件に対する本日の質疑はこの程度にいたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後一時五十五分散会      —————・—————