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参考人(
清水馨八郎君) 清水でございます。本日は、国会のこういう席上で私見を述べる機会を得ましたことをたいへん光栄に思って参りました。とは申しましても、急に呼び出されましたので、十分条文をまだ勉強してないのでありますが、改正のねらいというようなものについては、大体理解しているものでありますが、それから派生する非常にこまかい問題、それから技術的な問題については、一切触れないことにいたしまして、この改正案の背景となった理論的な根拠というか、地主とは何であるか、私権とは何であるかとか、土地の補償とはどういうことなのかといったような、現在の土地問題の核心に触れたような問題点について、私の私見を述べさしていただきたいと思うのであります。
話が変わりますけれども、一昨日の
集中豪雨は明らかに私はあれは土地問題である。東京付近における
宅地災害について、私はすぐ飛んでいって調へて
——一昨年の川崎の灰津波は、確実に地価の暴騰に対する地主の欲ばり、そういうものが殺人を犯した。今回の遠因を考えますと、地価が暴騰する、そしてそのあばれた地価に対して
宅地を
開発しなければならない。その逃げ惑って山に上がり
傾斜地に上がる、そして国土を変容しておるわけであります。平野がまだないわけではないにもかかわらず、山へ山へ上がって国土の自然を変化さしている。それに対して
河川の
改修をやろうとしても、やはり地主の私権があって自由にできない。その狂った力が狂った
開発を誘発し、そしてその自然のバランスをくずし、ここに狂った事態を起こすのである、こういうふうに考えまして、私はこういうものの遠因には土地問題が横たわっている。つまり土地問題が、すでに殺人的様相を呈しているというような問題意識をもって土地問題を考えておるわけであります。結論的に申しますと、この改正案には賛成であります。非常に私はなまぬるい、非常に地主に遠慮している、まだまだ弱いと思うんですけれども。私の理念からすれば、もっと早くこういう問題が国会において決定されていなければならないやつを、おそきに失したとは言いながらも、完ぺきを期すということはできませんので、一歩前進して土地問題解決への
一つの橋頭塗であると考えるのであります。
第二点は、従来の旧法と比較しますとどこが違うのかと申しますと、前のほうは地主の利益というものを中心的に考えている。だから近隣の、近傍地の取引価格に
相当な価格でこれを補償するとか、
相当な価格で補償するというようなことが書いてあるわけですね。これではごね得は当然起こるわけであります。
ところが、今度の改正は起業者側に立っているということであります。公共の利益を中心に考えておる。この意味でつまり地主サイドであるか起業者サイドで収用法ができているかという点では、一歩前進だと思います。
それで、いま問題になるのは七十一条から三条にかかる裁決時から事業認定時に変わったということであります。この時間的なズレをここでとめたということなんであります。つまり時間的要素というものが「時は金なり」であって、地主には非常に有利になり、この時間的観念をここにつけ加えてとめたということなんであります。
ところが、この条文を見ますと、やはりまだ「
相当な価格」というような字句を使っておりますし、その後の物価の変動による修正を加えるといったような、何か骨抜きのようなものがついておるわけですね。これではごね得が入る余地がまだ十分あるように思われます。改正したように見えても、やはりまだ羊頭狗肉のような
ところがあるのではないかと思って、非常に私は
国民の立場から見ればこれはまだ不十分だ、まだまだ地主に遠慮をしている。いかにして地主の権利を守ろうかということが顔を出しておるわけですが、その精神を否定しない限りは、土地問題は絶対に解決しないというのが私の考えであります。で、ごね得を否定する、つまり社会的な不公平があってはならないから、正直者がばかをするような社会はいけないということで、ごね得を取り除くのだというわけで、今度の改正ができたと思いますけれども、ごね得を解消するだけではいけないのであります。むしろごね損となるような制度に積極的にすべきだと思うのであります。つまり、公共のために自分ががんばっているというようなことによって、他人の幸福を奪っている、個人の欲ばりというようなもので他人の幸福を奪っていいものだろうか。その社会的責任を、むしろごね得なんというものでなくて、ごね損になるのだ、そうでなければならないと思うのであります。庶民が税金を納めるようなとき、それを滞納すれば必ず追徴金を取られる。マイナスになる。そのように反社会的な行動をとった人は、ごね損になるというような積極的なものであってほしかったわけであります。
その次に、今度この改正案の成立によって犠牲者があるかどうか、
被害者があるかどうか。私はゼロだと考えます。だれもいないのだ。もしその犠牲者とは何かというならば、もうけそこなうということが犠牲者ならば、そういう人はいます。もうけそこなうわけです、期待的な大きな価格に対してもうけそこなうということが
被害者と言うならば、
被害者と言ってもいいわけですが、この
法律の一番最初に損失補償の規定と書いてあります。なぜそれが損失になるのであるか。犠牲とは何であるか。少しも犠牲になっていないわけであります。つまりこれは周辺地価がどんどん上がる、先に売った者が損をするじゃないかというような、つまりもうけそこないは相対的な
被害であって、絶対的な
被害者ではないわけであります。したがって、いままで土地を収用されたがゆえに致命的にどん底に追い落とされたような運命を招くかどうかであります。こういうことを聞かないのであります。なぜそれでは損失ではないかと申しますと、私は地価というものが、いま世界
最大に日本は高いのだということが第一点であります。その次は、その地価というものを生み出したものが何かと申せば、それは自分の努力ではないわけであります。したがって、損失ということは考えられないわけであります。外国を回ってきた人、あるいは外国の学者が日本の土地を見て二度びっくりするわけです。それは地価が世界一高い、こんな国はない。それならば地価に対する
政府が
相当手を打っているはずだと思ったが、全く無策であります。つまり二度びっくりするわけです。最南に高くて、世界一高くて、地価に対して何らの手を打ってない。地価だけが先に進むから、日本は地価先進国である。それだけは言えるのです。国家は
国民と土地によって成り立っている。その国家の意思が、主権が国土に及んでいない国は珍しいと思うのであります。
国民の代表たる、主権たる国家が、国土に何の力も持てないような国はきわめて珍しいのであります。日本では土地の上に地主という王様、そして領主がある、主権者がある。それは地主になっておるわけですね。国家は手を出せない。日本ほど政治が土地地主に侮辱されている国家はないと思うのであります。変な言い方をすれば、国家がなめられている姿はないと思うのであります。国家は、国土というものは日本の土地であっても国家の土地ではない。戦前は国家が土地を上から押えていた。戦後は国家が力が弱くなったから、地主が前面に出てきまして、国家よりも高い神聖で犯すべからざる地位を占めてしまった。そして政治とは、土地を治める者が天下を制する時代であることは明らかであります。水でもない、道でもない、土地を治める者、国土を治める者が天下を制する。政治とは土地をいかに治めるかということでありますけれども、いまの日本の政治には、土地を全然治めてないという意味で、国政はあってなきがごときだと思うのであります。国が社会のためになる土地を収用しようとしても、その
一つですら満足に収用できないような国では、これは国家がないと同じであります。だから、この収用法の目的は、その精神に沿って巻き返した国土への主体性の確立であります。それは権力でないかと言われますが、それは戦前のような時代には、権力かもしれませんけれども、民主主義の現代、
国民の選んだ国家というものは、
政府というものは自分たちのあれですから権力ではない。こういう意味で、
国民の主体であるこの国が土地に手を出せるという
一つのワン・ステップであると思って私は賛成であります。
次に、
国民の財産を強権で取り上げるのはもってのほかだという
意見がありますけれども、一体
国民とは何であるか。
国民とは大多数の人を
国民と言うべきであります。
ところが、地主というものを調べてみますと、
国民の五%であります。そして土地のないほうの
国民がいまや九五%であります。東京なんかの場合四%であります。政治とは、
最大多数の
最大幸福のために働くことなのでありますから、土地問題は、土地を持たない
国民のために土地制度は考えられるべきだと思うのであります。従来の土地制度は、とにかく、なぜ地主をそんなに保護しなきゃならないのか。一生懸命で地主の保護というだけを考えるかという逆に私は問いたいのでありますけれども、なぜそれほど地主を保護しなきゃならないのか。それは、明治時代には保護しなきゃならなかった理由があるわけです。それで富国強兵でやって、それで日本が強くなったわけでありますから、いまじゃ地主を保護するということが国家のためにそれほどなるかということなのであります。時代が変わっているわけであります。そして、いままでの土地行政というものは、土地を持っている人の利益をいかに保護するかに、国がいろいろな行政、法務省みんな協力している。土地を持たない人の利益をだれも保護していない。このままでいきますと、土地を持っている有利な
国民はいよいよ有利になり、土地を持たない
国民はいよいよ不利になってしまうんじゃないかと思うのであります。現在地価は十年前からいたしますと、十年前に私の計算では、
国民の、国としての所有地を除くと二十兆円ぐらいあった。それが十年後の現在二百兆円になっております。つまり百八十兆円はどこから生まれたか、物価とは比較にならないほどの上昇をしております。それは地主の財産を不当に増加させたわけであります。これがインフレやいろいろなものを、外国に輸出することができないものがただふわっと上がって、それによって百八十兆円生まれて、それがだれかに入っている。したがって、地主はどえらい財産の膨脹を来たしておるわけであります。それを国家が今度は収用する場合に、
国民の税金をもって収用する。そしてこれらの
開発をすれば、
開発の利益がそちらに収奪されるというふうにして、二重、三重の利益にあずかれるわけであります。収用ということが地主の権利を奪うのなら、それが国の権力の乱用であるかどうか、そういう
意見がありますけれども、なぜ地主を守らなきゃならないのか。その反対側でいわゆる
国民というものが、大多数の
国民が苦しめられている。一握りの地主の財産を守るために、何十万、何百万の全
国民が家がないということになるわけであります。
そこで、土地所有とは一体何かということを考えてみますと、宿命的に二つの
国民に分けられてしまっているわけでございます。地主階層と非地主階層、同じ
国民でありながら、土地を持った人と持たざる人は、きわめて偶然の結果なのであります。努力した結果土地を持つようになったわけではないわけであります。「用意どん」で出発して、一方はなまけてそういう階層に落ちたならばともかくとして、全然なまけたのではない。そういう体制がそうさせたのである。むしろ現在はなまけているほうが土地を持って、使わないで、なまけて何にもつくらない、荒らしづくりでもやっているほうが大金持ちになるという逆の
現象が生まれてきたわけであります。つまり、土地というものは、基本的に不平等で出発しているという、ここに問題があると思うのです。私はそれを、土地所有の不平等起源説と言っておりますけれども、基本的に不平等で出発しちゃったんだ。だから国家はこれを公平に配分する役割りがあるのじゃないか。だんだんとそれを
国民大多数が幸福になるようにそれを持っていく、それが民主主義じゃないかと思うのであります。いますぐ取れというのじゃなくて、本質的にそういう出発をしちゃったという
ところに問題があるわけであります。
そこで本
法律の施行によって、この問題は土地を取り上げるとかというようなことが出てくるわけでありますから、土地問題とは何であるかということを、どうしてもみんなが考えなくちゃならなくなってきたわけであります。地主とは何であるか。私権とは何であるか。これが私権を束縛することになるのだろうかといったような、この
法律というものが出るということによって、この土地問題の基本的理念を考える
一つの問題点が与えられた
国民も国家も、官民一体となって土地とは何であるかということをどうしても考えなければ、こういう
法律は出ないわけですね。あとで附帯決議があるように、そういうことを次々にやらなければならないとすれば、ここに土地理念、土地哲学というものが全面的に出てこなければいけない。
そこで、私が考える
ところの土地理念というのは、次のような四つのことを提示すればすぐわかると思います。土地とは何かというその次は、土地は何のためにそこに存在したのかということなのであります。次は土地の私権とは何か。第四番目には地価とは何かであります。こういうことを突き詰めていけば、子供にでもわかると思うのであります。
つまり、土地とは何かといったならば、それは国土の一部である。不動産である前にそれは国土なのであります。個人の財産である前に国家の財産である。
ところが、日本ではもう初めから土地といわないで不動産というのですね。不動産というものが最初にあるはずはないのです。国土があって土地がある。その一部が不動産になる。したがって、不動産研究をやるその前に土地研究をやるべきである。また不動産鑑定評価制度があるが、これも土地鑑定評価と考えるべきだ。ランドプライスを評価するのでなく、ランドバリューを評価すべきであって、初めから土地は不動の財産であるという見方をとっているから混乱するわけです。外国ではそういう不動産ということばはないわけであります。不動産ということばが当てはまるならば、それは国家だけだと思うのです、国家は永遠ですから。それは国家にとっては不動の財産であるけれども、個人は次々に死んでいくから、不動の財産であったら、これはもう成り立たないわけであります。
次に、土地は何のためにそこに存在するか。それは私は利用するために存在するのだと思うのであります。利用によって初めて国富が増大する。土地というものは財産のために存在するのではないわけであります。財産を確保したり、個人の富の保持のために、それが所有されるためにそこに存在したのじゃないという前提で、あとでいう土地利用論というものが出るわけであります。
次に、土地の私権とは何か。土地の上の価値というものは、すべてそれを所有している人のものであるかどうか。現在は千円の土地が一万円にたちまちなります。それを全部個人分として国家が守ろうとする。
ところが、それはほとんどが社会分なのであります。個人分は一、社会分は九、ほとんど不労所得であります。それを一生懸命で守らなければならないということはあり得ないわけであります。憲法でもって私権を守ると書いてありますけれども、憲法の中に土地が私権であるとはどこにも書いてないわけであります。国土、
国民、国家で成り立っている、日本の国家でありながら、ランドという字も、国土という字も
一つも出てこないで、憲法二十九条にこつ然として、私有財産は守るんだと書いてある。どうして土地が私有財産なのかということには、全然結びついていないわけであります。
それから、地価とは何かと申せば、いま言ったような、ほとんどが不労所得で成り立っているので、ほとんどが虚栄の、幻想の価格なのであります。ランドバリューではないのです。ランドバリューというのは、その土地の真なる価値だと思うのですね。それを利用して国家が発展する価値である。それに対して欲ばりだとか、投機だとか、さまざまなものが入ったランドバリューを地価といっている。それで近傍地が実際に売られている。だからそれに従った公正な値段というようなことがあってはならないと思うのであります。地価形成のメカニズムを見ますと、もう経済合理性は全然働いておりません。需給均衡の法則ではないという意味で、私は商品ではないと思っているわけであります。もし商品ならば、需要が全くなければ下がるはずですけれども、現在需要がゼロなのにかかわらず、地価はどんどん上がっております。たとえば駅前のような
ところは、需要が全然ないわけであります。羽島駅でも何でも、全然需要がないにもかかわらず地価は上がっている。供給が加われば地価は下がるかといったら、埋め立てをどんどんやっている千葉県のこっちのほうは、供給を幾らやっても上がる一方なのであります。つまり商品ではない。商品でないものがなぜ売られているか。これは売買されているのじゃなくて、譲渡だけで、譲るか譲らないかというだけの話であります。供給すれば地価が下がるという見解から、
政府は一世帯一住宅、大量供給すれば下がるのだと考えておるのですけれども、一世帯一住宅のために何億坪の土地が必要なんです。その土地を一体どうやって……供給する前にまず需要が起こるわけですね。だれか持っておる人から譲ってもらわなければならないというので、供給するということは、つまり需要を起こすということですから、結局、供給するということはあり得ないわけでございます。一体、供給し終わってしまえば、それじゃ下がるかといえば、これは貯金通帳ですから、貯金通帳は下がりっこないのです。売るために元来日本の土地というものは、みんなに持たせたものではないのですから下がらない。したがって、こういうことばがあります。いま売るばかはもらいが少ない。つまり、いま売っては損だという観点なんであります。どんどん上がる。こんなばかげて上がることはないわけであります。したがって、いま売るばかはない、もらいが少ない。土地所有者のこじき根性がある限りは、得というのは当然あるわけです。そういうものは日本の土地態勢というものが、時代が変化しておるにもかかわらず、態勢が全然くずれていないのです。ばかであろうと何であろうと、土地を持っているならば……土地に
国民が執着するのは当然であります。
こういうわけで、結論的には、やはり私権を制限する、その私権とは何かというと、決して私権ではないわけであります。千円のものが一万円になった。その九千円の分、それを取り上げるとしたときに、それは私権であるはずはないわけであります。結局は、地主というものをどう考えるか、土地所有者というものを今後どう考えるか、その核心をつかない限りは、土地問題は絶対に解決しないと思うのであります。それで基本的には、この地主というものをつかなければいけないにもかかわらず、地主を全然つかないで、そのまわりでワーワー言っているのが、現在までの制度だと思うのであります。それでたとえば
開発者、起業者、鉄道、公団が高い土地を買って
——買うことは庶民にしわ寄せられます。そうして近郊に
住宅公団がつくり、あるいは都営住宅をつくり、そんなものがきたら学校を建てなければいけない、ごみ処理をしなければならない、たいへんだ、
団地はごめんだ。この辺でけんかしておるのは、みんな
被害者なんです。学校を建てるために高い土地をまた買わされてしまう。そこで自治体は
政府に向かって、起債をふやせ、補償金をふやせ、
政府は何をまごまごしているのだということになる。
政府は
政府でもって、上からは今度
宅地造成規制法だとか市街地造成法だとか
規制している。だれもこれに手をつけないわけです。みんなまわりをうろうろしているのです。国は何をしているかといったら、法務省は五%の地主をいかに守るか、つまり全
国民は大部分は非地主である、地主以外はどろぼうであるという考え方からいって守っておるわけです。だから、そこに入り込めばそれはどろぼうにされてしまう。どんな反社会的な行為をしても、とにかく厚く守られている。税務署は、ほかのものがそのまま評価するのに、実際よりずっと低く評価される。なぜ地主はそんなにかわいがらなければならないのかという問題なのであります。いまや数万円の近郊ひばりが丘の土地が、市が何かやるときには固定資産税の評価は千円ぐらいです。そうしてそれを今度買収にいくと八万円だ、こういう矛盾がある。税務署がこれを保護している。したがってこの問題は地主の問題であって、自治体なんかが財政を圧迫するというような問題も、組織体が非常に貧乏するのです。
ところがだれが得をするかといえば、地元は全然困らない。地価総額はたいへんな上がり方で、地主と市長なり市会議員なりがみんな得をしている。あるいはまた組織体になると、学校がきて困るのだ、
団地がきて困るのだと言いながら、個人はもうかっているわけです。個人がお金持ちになって組織が貧乏になるという、だから全部
被害者なんです。
被害者であるから、加害者をつかなければだめだと思う。そこで私たちは、地主とは何であるか、いまのような明治時代のままでいいのかどうか。現在の日本の
国民の八〇%は
昭和生まれになっている。明治は五%、大正が一五%。大体明治的な制度やいろいろなものがあってずっと支配されている。そこに何か割り切れないものがあるのであります。
そこで、私は土地所有には三つの義務を課さなければいけない。義務がなくてただ土地を所有されているから問題が起こるのだと思う。その三つの義務は、納税の義務と収用の義務、利用の義務だと思うのであります。納税をする義務
——土地を持つには納税の義務、それから収用権に応ずる義務と利用の義務であります。こういう義務という観念が全然なくて、ただ土地とは財産として所有すべきものであると、したがって土地は利用されたがっている。
ところが所有がそれを拒んでいる。利用と所有との戦いが、現在の土地問題であると思うのであります。この狭い国土で土地を持つということは、非常なたいへんな責任を持たなければならぬことだと思うのであります。一般商品を持つのと違って、
テレビや電気洗たく機を持つのと違って、それがほかの人に迷惑をかけるという、反社会的なことになってしまうと、殺人を犯す機会もあるというわけでありますから、商品とは違うわけでありますから、特別な責任体制をとる。その利用の義務が完備しておりさえずれば、これはたとえば市街地
開発地域だときめられて、それを農地のままにしておけば、それは非
計画的な未利用であるから、その責任を何かで果たさなければいけない。それで未利用税をかける意味が出てくるわけであります。空閑地のままころがしておく。不在地主にしておく。ほったらかしておいてもいいのだ、法務省が守ってくれるのだというような者には、これは空閑地税をどんどんかけるべきであります。五十坪ぐらいの
宅地はいいけれども、一千坪や二千坪の
宅地を持つ者には、ぜいたく税を取るべきである。全部の
国民が五十坪くらいの土地を持って、それで初めて健康的な生活ができるという中で、私は憲法の中に平均
宅地権というものがあってもいいと思うのであります。これは国土の一〜二%で足ります。
国民二千万世帯がみなこの
宅地を持ってもです。現実はほとんどの
国民が土地に足をつけてないわけであります。だから、それを千坪持ちたがれば、累進的にその責任を果たして持てばいいわけです。規模的な累進税。それから長く遊ばしておけば遊ばしておくほど金を取られる、税金が高くなるといったような利用の義務ということが一本筋が入れば、利用してないで長い時間遊ばしているという土地は、時間的、空間的な累進課税というものによってどんどん流通を始めます。いま売るばかというような考え方は出てこないわけであります。
ところが、この法令によって収用されると、収用されなかった人は今度は利益を得てしまう。こういう不平等に対しては、
開発利益の調整という意味で土地増価税とかといったようなものを取るとか、次から次へとそういう手を打たなければならないわけでありますけれども、これに対して土地についていろいろ国家が手を出されるのは憲法違反だというならば、米価をなぜ規定しておくのか。米価というとつくの昔もっと自由化していいと思うものを、こちらのほうは不自由化しておいて、土地のほうだけを、もっと先に不自由化しなければならないものを自由化しているわけであります。米価審議会以上にこの地価審議会が必要である。現在でとめられるべきだといったら、つまり現在でストップをかける。ストップをかけますとだれが損をするのか、得をするか。損をする者はだれもいない。もうけそこなう人はありますけれども、損をする人はいない。そういう手が打てないということは、それは
国民にとっては理解に苦しむわけであります。
私は十年以内に土地問題は解決すると見ております。どういう点で解決するか。それは土地の強権発動か土地の革命だと思うのであります。この点、
政府は何らかの手を打たなければ
——いま戦後のベビーブームで大ぜいの青年が大学の門をくぐっておりますが、彼らは住宅難だといって、いろいろなそういう階層の青年が学校にくるのに、二時間も三時間もかけなければ都心に通えない。土地は幾らでもあいている。その不平等というものをまのあたりに見たときに、彼らは何をするかわからないと思うのであります。つまり十年もこのままにしておいて無限に地価が上がっていったならば、必ず革命が起こるのじゃないか。革命が起こらないまでも、何党が天下をとっても
政府が
被害者になる。
予算さえふやせば住宅問題は解決するのじゃなくして、土地をふやさなければ住宅問題は解決するわけではないのですから、結局何党が天下をとっても、土地に対しては強権発動以外にないのであります。それを蛮勇というのかどうか、私は当然のことだと思うのであります。
以上によって、私はこの法案には賛成でありますが、非常にまだ弱いと思うのであります。しかし、いま言ったような土地の問題を真剣に考えざるを得ない。そういう意味で、これはまだ未熟な法案でありますけれども、その突破口になるのじゃないか。そういう意味で附帯決議がたくさんついているようなことは、どうしてもやらなければならない、やらざるを得ないような
ところに追い込められていくという意味で、私は賛成であります。
以上、失礼いたしました。