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坂本参考人 藤原宮趾の
重要性につきましては、ただいま
権本さんからも
お話がございましたし、また、後に
竹内さんからも
お話があると思いますが、ただ一言私の
立場から申し上げておきますと、ただいま
お話のありました
木簡というものが千二百点ほど出てまいりまして、それに文字でいろいろなことが書いてあります。その書いてありますことは、われわれいままで
歴史のほうの
材料で知っておりました
日本書紀や続
日本紀と、合うところもあるし合わないところもあるというわけで、
歴史上非常に重要な
資料が出てまいりました。今後ともに、
調査の次第によって、もっとたくさん新しい
資料が出てまいるかと思います。その点だけでも学問上非常に有益な
史跡であるということが言えると
考えておる次第であります。しかし、
藤原宮のことはまた後に
竹内さんからも
お話があるかと思いますので、私はもっとごく大ざっぱな、
史跡の
指定と
保存といいますか、そういうことについて私の
考えを申し上げたいと思います。
実は私は、戦後、
文化財保護法ができましてから、
専門審議委員として
史跡のほうに関係しておりまして、ずっと今日に至っておるわけでございます。また、最近は
古都保存のほうの
歴史的風土審議会の
委員もお命じいただいたわけでございます。
この
史跡の
指定は、明治の末ごろ、私
どもの
先生でございました
黒板勝美博士が外遊されまして、外国で
歴史的記念物を非常によく
保存してあるということを見てこられまして、
日本でもぜひそういうことを始めねばならないということで、
大正年間から
史跡の
指定ということが行なわれたわけでございます。その
黒板博士の御
意見は、主として、
史跡は
原状のままに
保存すべきものである、手を加えてはならない、これは
国民の思想のよりどころであるし、また
歴史の生きた証拠でもあるから大いに尊重しなければならぬけれ
ども、手を加えるべきものではない、
原状のまま
保存しておいたほうがいい、そういう
考えが根本にありました。その当時、
史跡名勝天然記念物法というものができまして、
史跡のほかに
名勝、
天然記念物ともに
指定して
保存をするという方策が講ぜられましたが、それはみな
原状のままに
保存していくというのが原則であったようでございます。
その後いろいろございまして、戦後になりまして、法隆寺の罹災を契機といたしまして新しく
文化財保護法ができましてから、
史跡もほかの国宝とか
重要美術と一緒に、
文化財として
指定保存されるようになったわけでございます。法の
制度の上でもそのような変革がありましたが、戦後はだいぶ
史跡に対する
考え方が変わってまいったのでございます。といいますのは、いろいろありますが、
一つは、
戦前は、
史跡に
指定されるということはその
所有者あるいは
郷土の
誇りでございました。
郷土の
誇りとして、むしろ
史跡に
指定されることを歓迎する傾きがありました。戦後は、むしろ
史跡に
指定されることは、せっかく持っておる
所有権を幾らか拘束される、
現状を変更してはならないとか、何か簡単な家を建て増しするにも一々許可を得なければならないといううるさい
規制面ばかりありまして、それによりまして得るところが何もない。
所有者の側ではそういうことを非常に気にいたしまして、むしろ
史跡に
指定されることは迷惑であるというような
考え方が起こってきたことは、いなめないと思うのであります。
一つには、
歴史に対する
考え方も変わりましたが、主として
史跡に対するそういう
考え方が変わってまいりました。いま
一つ、これは私
どもの
立場でございますが、
史跡というものは、やはり廃墟となって、いわゆるルインのように昔の
礎石があるとか、山野がそのままにあるとか、そういうところを見て
歴史上の昔のことをいろいろと追憶して、そこにおのずから
歴史的情感がわき起こる、そういう感情を私
どもは非常に大切にしていたわけでございますけれ
ども、いまの
人たちは、そういう
廃城ばかり見ても一向何の感興もわかない。何かもっと
施設が目を引くようなものがないと、
史跡といっても何のことか一向わからないという
状態でございます。そこでよく言えば
史跡を活用するといいますか、そういうことで、
史跡に昔の天守閣を建てるとか、いろいろな
施設を設けるということが非常に行なわれてきたのでございます。これは前にはそういうことはなかった、戦後の傾向でございまして、そういうように戦後
史跡に対する
考え方がだいぶ変わってまいりました。
特に最近著しいのが
経済開発といいますか、その速度が非常に早いのでございまして、
国土開発、
道路造成のために
史跡がどんどんこわされていくという
現状が最近急に起こってまいったわけでございます。昔でしたら、そのまま
保存しておけというのでありますから、手をつけずにおけば自然と
保存されていたわけでありますが、今日のように片っ端から新しいものをつくっていくという
時代になりますと、もうそのままにしておいたのでは、とうてい昔の
史跡を維持できないわけであります。これに対しては何らか防衛の
措置を講じなければ、
史跡が永久に失われてしまうという段階になっているわけでございます。
そこで、その最も著しい例は、先年国会でいろいろ御配慮いただきまして実現されました
平城宮趾買い上げの問題でありますけれ
ども、
平城宮趾はついに全
宮域国で買い上げしていただきまして、
調査をいたしております。これは例の、
藤原宮から出ました
木簡がここでは一万点以上出まして、
歴史上にも非常に重要な
材料を出しておりますし、
宮殿の
あともたくさんわかってまいりまして、当時何回も何回も建てかえたことがわかってまいったわけであります。そして今後は、いずれこれをどのように活用して、
国民に重要な
奈良の都の
あとであるということを知らせるどういう
措置を講ずるか、いろいろとお
考えもそれぞれおありだろうと思いますけれ
ども、とにかくそのようにして活用するという
方向にまいっていると思うのでございます。もちろん
史跡はたくさんありますから、すべての
史跡に対してそういうことはできないと思うのでありますが、重要なもの、特に国の
歴史にとってその大筋に関係するような重要な
史跡については、今後はただほうっておいて
保存することは不可能であります。何らか手を打って
保存して、そしてそれを活用する
方向にしなければならぬと私
どもは
考えておるのでございます。
藤原宮も、ちょうど
奈良の都の前にありました三代十六年間の
皇居でございます。しかし、これが
奈良の都よりもむしろ広大な
規模を持っていたということが明らかにされておるのであります。
奈良の都は、
条坊の数が南北九条ありますが、
藤原宮は十二条あったわけであります。都城だけでもそのように
規模が大きかったのでありますが、
宮殿も、いまの十二
朝堂の
規模も大きいようでありまして、
朝堂院は
奈良の宮よりも大きいようであります。その古い
時代に、七世紀の末に建造に着手したわけでありますけれ
ども、そのような大
規模な
宮殿をつくられたということは、われわれ先祖の違大なエネルギーを今日まざまざとしのぶことができるように思いまして、まことに深い感慨を催す次第であります。これが今回
内裏、すなわち天皇の平生の
皇居であったところが
バイパスによってそこなわれるということでございますので、これは何とかして
道路計画を変更していただいて、そしてこの地区を十分に
調査し、
史跡の境域を確定して
史跡として
指定することができるようにしたいと念願しております。結局これは、国でお買い上げをしていただくという以外にこの場合の
方法はないだろうと
考えておる次第でございまして、そういうことにつきましていろいろ御配慮をいただければ、まことにありがたいと思います。