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1967-07-20 第55回国会 衆議院 文教委員会文化財保護に関する小委員会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    本小委員会昭和四十二年七月五日(水曜日)委 員会において、設置することに決した。 七月五日  本小委員委員会において、次の通り選任され  た。       久保田藤麿君    河野 洋平君       竹下  登君    中村庸一郎君      三ツ林弥太郎君    八木 徹雄君       小林 信一君    斉藤 正男君       長谷川正三君    鈴木  一君       山田 太郎君 七月五日  中村庸一郎君が委員会において、小委員長に選  任された。 ————————————————————— 昭和四十二年七月二十日(木曜日)    午後三時十二分開議  出席小委員    小委員長 中村庸一郎君       久保田藤麿君    河野 洋平君      三ツ林弥太郎君    八木 徹雄君       小林 信一君    斉藤 正男君       長谷川正三君    鈴木  一君       山田 太郎君  出席政府委員         文化財保護委員         会事務局長   村山 松雄君  委員外出席者         文教委員長   床次 徳二君         文化財保護委員         会委員長    稲田 清助君         参  考  人         (天理大学附属         参考館嘱託)  権本亀治郎君         参  考  人         (国学院大学教         授)      坂本 太郎君         参  考  人         (東京大学教         授)      竹内 理三君         専  門  員 田中  彰君         —————     〔別紙に掲載〕     ————————————— 本日の会議に付した案件  文化財保護に関する件      ————◇—————
  2. 中村庸一郎

    中村委員長 これより文教委員会文化財保護に関する小委員会を開会いたします。  文化財保護に関する件について調査を進めます。  本日は、文化財保護に関する件について、参考人として天理大学附属参考館嘱託橋本亀治郎君、国学院大学教授坂本太郎君、東京大学教授竹内理三君、以上三名の方々が出席されております。  この際、参考人各位にごあいさつ申し上げます。  参考人方々には御多用中のところ御出席いただきまして、まことにありがとうございます。  本日、埋蔵文化財保護の現況、ことに奈良藤原宮趾発掘の経緯並びに古都保存開発に伴う問題等につきまして、それぞれの立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。  なお、議事の整理上、初めに御意見をそれぞれ十五分程度に取りまとめてお述べいただき、次に小委員からの質問に対しお答えをお願いいたしたいと存じます。  それでは梅本参考人にお願いいたします。
  3. 権本亀治郎

    権本参考人 梅本でございます。どの程度お話し申し上げていいのか、発掘経過と申しましても、私、昨年まで平城におりましたが、ただいま全く関係ございません、直接参加しておりません。よくわからないのですが、大体、せんだって朝日講堂で、ただいま藤原宮趾発掘常任委員として参加しておられます岸さんが参られまして、一応話をされましたその図を拝借してまいりました。それで大体承っている範囲で御説明申し上げたいと存じますが、いかがでしょうか。——それでは簡単に申し上げます。   〔藤原宮跡の略図により説明〕  藤原宮跡の域は、大体もう御承知と存じますので略させていただきます。  百六十五号のバイパスはこの道路を通過することになっております。そのために、発掘は一応バイパス道路敷で一カ所、二カ所、三カ所、これは簡単なトレンチを入れたわけであります。そうしますと、これも詳細のほうはあるいはもう資料で御承知かと存じますが、大体遺構が出てまいります。それで大体、藤原宮跡昭和九年以降に発掘されました結果によりますと、ここが大極殿です。ここに回廊が回っております。前のほうが儀式あるいは政治をおとりになりました朝堂院、一、二、三、四……八とそれから前のほうに二つずつの十二あります。あるいはこれは十二堂とも申します。その前のほうに朝集殿というのがあります。これで大体儀式もしくは政治をなさる場所が一応ここまでで区切られます。このあとは、いままでの記録とかあるいは発掘の結果、平城宮とか難波宮とか、それの結果内裏があるという予想はついていた。それでバイパスの通りますところはあたかも内裏の位置に当たりますので、それで調査しましたところが、結局予想どおり遺構が出てまいりましたので、一応内裏と推定することができたわけです。特にここのバッテンいたしておりますところ、これはみぞのところでございますが、木簡が出てまいりました。ちょうど木の札にいろいろしるしてありますが、その中には、地方からみつぎに送ってまいりました、そういうつけ札なんかがございます。ところが、内裏北限がはっきりいたしませんので、それでさらに北のほうに進めてトレンチしてもらったところが、やはりここにも遺構が出てまいりました。しかもみぞがあります。それからも木簡が出てまいりました。これも藤原宮城であることがはっきりしてまいりました。ただし、まだ内裏北限かどうかはつかめておりません。承っておりますのには、この八月末から大体発掘を始めます。それはこのさらに北のほうに延長するようであります。大体六百坪内外です。そうして、それで宮城北限を探ろうとしているようであります。現在のところ、昨年十二月から藤原宮跡発掘調査委員会ができまして、特にそのうちで始終関係されます四人の方が常任委員になられまして、指導の任に当たっておられます。これは何ぶんにも行政措置としての発掘調査でありますから、主として県庁が当たっております。もっとも、初めの費用は建設のほうで出した百万円ですね、あとは国の補助と県のほうから支出しまして百万円、それが一応これで終わったわけであります。今年度新たに、たしか八百万と聞いておりますが、それで延長して北限をきわめようというわけであります。  なお、ただいま申し上げました発掘調査員は、県庁から二人くらいしか出ません。それで平城のほうの調査員から二人、それから木簡を処理しますのに一人ないし二人がお手伝いに参っております。それにしましても、平均一日に五人内外の人数でやっているわけであります。  おおよそのことはそういう結果であります。なお、あとで御質問がございましたらお答えいたします。
  4. 中村庸一郎

    中村委員長 どうもありがとうございました。  次に、坂本参考人にお願い申し上げます。
  5. 坂本太郎

    坂本参考人 藤原宮趾重要性につきましては、ただいま権本さんからもお話がございましたし、また、後に竹内さんからもお話があると思いますが、ただ一言私の立場から申し上げておきますと、ただいまお話のありました木簡というものが千二百点ほど出てまいりまして、それに文字でいろいろなことが書いてあります。その書いてありますことは、われわれいままで歴史のほうの材料で知っておりました日本書紀や続日本紀と、合うところもあるし合わないところもあるというわけで、歴史上非常に重要な資料が出てまいりました。今後ともに、調査の次第によって、もっとたくさん新しい資料が出てまいるかと思います。その点だけでも学問上非常に有益な史跡であるということが言えると考えておる次第であります。しかし、藤原宮のことはまた後に竹内さんからもお話があるかと思いますので、私はもっとごく大ざっぱな、史跡指定保存といいますか、そういうことについて私の考えを申し上げたいと思います。  実は私は、戦後、文化財保護法ができましてから、専門審議委員として史跡のほうに関係しておりまして、ずっと今日に至っておるわけでございます。また、最近は古都保存のほうの歴史的風土審議会委員もお命じいただいたわけでございます。  この史跡指定は、明治の末ごろ、私ども先生でございました黒板勝美博士が外遊されまして、外国で歴史的記念物を非常によく保存してあるということを見てこられまして、日本でもぜひそういうことを始めねばならないということで、大正年間から史跡指定ということが行なわれたわけでございます。その黒板博士の御意見は、主として、史跡原状のままに保存すべきものである、手を加えてはならない、これは国民の思想のよりどころであるし、また歴史の生きた証拠でもあるから大いに尊重しなければならぬけれども、手を加えるべきものではない、原状のまま保存しておいたほうがいい、そういう考えが根本にありました。その当時、史跡名勝天然記念物法というものができまして、史跡のほかに名勝天然記念物とも指定して保存をするという方策が講ぜられましたが、それはみな原状のままに保存していくというのが原則であったようでございます。  その後いろいろございまして、戦後になりまして、法隆寺の罹災を契機といたしまして新しく文化財保護法ができましてから、史跡もほかの国宝とか重要美術と一緒に、文化財として指定保存されるようになったわけでございます。法の制度の上でもそのような変革がありましたが、戦後はだいぶ史跡に対する考え方が変わってまいったのでございます。といいますのは、いろいろありますが、一つは、戦前は、史跡指定されるということはその所有者あるいは郷土誇りでございました。郷土誇りとして、むしろ史跡指定されることを歓迎する傾きがありました。戦後は、むしろ史跡指定されることは、せっかく持っておる所有権を幾らか拘束される、現状を変更してはならないとか、何か簡単な家を建て増しするにも一々許可を得なければならないといううるさい規制面ばかりありまして、それによりまして得るところが何もない。所有者の側ではそういうことを非常に気にいたしまして、むしろ史跡指定されることは迷惑であるというような考え方が起こってきたことは、いなめないと思うのであります。一つには、歴史に対する考え方も変わりましたが、主として史跡に対するそういう考え方が変わってまいりました。いま一つ、これは私ども立場でございますが、史跡というものは、やはり廃墟となって、いわゆるルインのように昔の礎石があるとか、山野がそのままにあるとか、そういうところを見て歴史上の昔のことをいろいろと追憶して、そこにおのずから歴史的情感がわき起こる、そういう感情を私どもは非常に大切にしていたわけでございますけれども、いまの人たちは、そういう廃城ばかり見ても一向何の感興もわかない。何かもっと施設が目を引くようなものがないと、史跡といっても何のことか一向わからないという状態でございます。そこでよく言えば史跡を活用するといいますか、そういうことで、史跡に昔の天守閣を建てるとか、いろいろな施設を設けるということが非常に行なわれてきたのでございます。これは前にはそういうことはなかった、戦後の傾向でございまして、そういうように戦後史跡に対する考え方がだいぶ変わってまいりました。  特に最近著しいのが経済開発といいますか、その速度が非常に早いのでございまして、国土開発道路造成のために史跡がどんどんこわされていくという現状が最近急に起こってまいったわけでございます。昔でしたら、そのまま保存しておけというのでありますから、手をつけずにおけば自然と保存されていたわけでありますが、今日のように片っ端から新しいものをつくっていくという時代になりますと、もうそのままにしておいたのでは、とうてい昔の史跡を維持できないわけであります。これに対しては何らか防衛の措置を講じなければ、史跡が永久に失われてしまうという段階になっているわけでございます。  そこで、その最も著しい例は、先年国会でいろいろ御配慮いただきまして実現されました平城宮趾買い上げの問題でありますけれども平城宮趾はついに全宮域国で買い上げしていただきまして、調査をいたしております。これは例の、藤原宮から出ました木簡がここでは一万点以上出まして、歴史上にも非常に重要な材料を出しておりますし、宮殿あともたくさんわかってまいりまして、当時何回も何回も建てかえたことがわかってまいったわけであります。そして今後は、いずれこれをどのように活用して、国民に重要な奈良の都のあとであるということを知らせるどういう措置を講ずるか、いろいろとお考えもそれぞれおありだろうと思いますけれども、とにかくそのようにして活用するという方向にまいっていると思うのでございます。もちろん史跡はたくさんありますから、すべての史跡に対してそういうことはできないと思うのでありますが、重要なもの、特に国の歴史にとってその大筋に関係するような重要な史跡については、今後はただほうっておいて保存することは不可能であります。何らか手を打って保存して、そしてそれを活用する方向にしなければならぬと私ども考えておるのでございます。  藤原宮も、ちょうど奈良の都の前にありました三代十六年間の皇居でございます。しかし、これが奈良の都よりもむしろ広大な規模を持っていたということが明らかにされておるのであります。奈良の都は、条坊の数が南北九条ありますが、藤原宮は十二条あったわけであります。都城だけでもそのように規模が大きかったのでありますが、宮殿も、いまの十二朝堂規模も大きいようでありまして、朝堂院奈良の宮よりも大きいようであります。その古い時代に、七世紀の末に建造に着手したわけでありますけれども、そのような大規模宮殿をつくられたということは、われわれ先祖の違大なエネルギーを今日まざまざとしのぶことができるように思いまして、まことに深い感慨を催す次第であります。これが今回内裏、すなわち天皇の平生の皇居であったところがバイパスによってそこなわれるということでございますので、これは何とかして道路計画を変更していただいて、そしてこの地区を十分に調査し、史跡の境域を確定して史跡として指定することができるようにしたいと念願しております。結局これは、国でお買い上げをしていただくという以外にこの場合の方法はないだろうと考えておる次第でございまして、そういうことにつきましていろいろ御配慮をいただければ、まことにありがたいと思います。
  6. 中村庸一郎

    中村委員長 どうもありがとうございました。  次に、竹内参考人にお願いいたします。
  7. 竹内理三

    竹内参考人 大体藤原京のことにつきましては、両先生からただいまお話しになりましたことでもありますし、皆さんもいろいろ議論を重ねられておると思いますが、実は私、終戦直後でございますが、九州大学に赴任した際でございます。当時は、御承知の蒙古襲来に備えるために、当時の武士が築きましたところの土塁あとがなおあちこちに残っておったのでございます。ところが、私が満十年九州大学に在職しまして東京大学に帰りました、その当時におきましてさらに振り返ってみますと、十年間にその土塁あとはほとんど破壊されて痕跡をとどめがたい状態になっておったのです。当時は、今日のようにまで国土開発の声もそれほどやかましくなかったにもかかわらず、われわれ歴史家にとっては非常に重大な、しかも国民の将来にも非常に重要な、目に触れ手に触れて祖先のことをしのぶ旧跡が、その痕跡をなくしてしまったというような状態でございます。今日、われわれの祖先をたたえる遺跡はそれほど少なくないのでありますけれども祖先がつくった当時の遺跡をそのまま今日しのぶことができるという地域はかなり少ない。その一つが今日問題となっております藤原京遺跡でありまして、自然の景観といい、それから建物こそなくなりましたけれども遺跡発掘してみますれば宮殿あとが歴々とあらわれてくるような状態にありますのは、今日におきましては平城宮趾藤原京趾、それから九州太宰府、これもかなり旧態を存しておるのでございます。今日にしてこういう土地史跡保存する方法を講じなければ、すでに現在進行しつつある国土開発のために隠滅することは火を見るよりも明らかでございますので、難波宮趾のような運命にならないようにぜひ早急な手を打っていただくことを、われわれ歴史研究者として強くお願いする次第でございます。  そこで、そのためにはどうしたらいいかという、これはしろうとの発案でございますが、御参考になるかお笑いぐさになるかは別としまして、私の考えましたことを申し述べますれば、一つは、坂本先生がただいま申されましたように、その地域を国で買い上げていただくということです。これは万全の策であるわけでございますが、何ぶん遺跡となりますと非常に広範でございまして、国の予算も非常にばく大に要るというようなこともございますので、私が個人的に考えましたことは、古都保存公園と申しますか、自然公園として国立公園県立公園というようなものが指定されて風致保存のための措置が講ぜられておりますように、古都風致保存すると同時に、そのいろいろな遺跡保存する古都公園というようなものをつくって、そうして今日の国立自然公園観光地として人々が訪れているように、史跡観光資源として活用する。そうして、先ほど申しましたようなその土地の地主さんとか財産を持っておる方には、これも実ははなはだ思いつきの考えでありますが、たとえば固定資産税を少し減税するとかなんとかいう現実的な利益のほうも考慮して、古都観光地としてこれを開発する。何も道路をつくったりあるいは工場を誘致するのが国土開発のすべてではないと思います。自然開発あるいはそういう史跡開発というようなことの方法も、何か新たに考えられる必要があるのではないかというようなわけでございます。  藤原京趾は特に今日まだ田園地帯でございまして、そういう手を打つのは、やろうと思えばできない地帯でもありません。私がおりましたときの九州太宰府地帯も、今日は福岡の郊外のベットタウンとしましてだんだん開発されてきまして、遺跡の崩壊が差し迫っております。実は数日前、九州のほうから、太宰府崇福寺という禅宗の古いお寺の遺跡がございますが、そこに土地造成が行なわれるからそれの反対運動に賛成してくれという手紙を受け取りましたようなわけで、一日も早く何とかそういう方法を講じていただくことをわれわれ非常に熱望する次第でございます。これはわれわれの子孫のためにも、決してむだになることではないと思うのでございます。  簡単でございますが、以上申し上げました。
  8. 中村庸一郎

    中村委員長 どうもありがとうございました。以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  9. 中村庸一郎

    中村委員長 これより質疑に入ります。  質疑の申し出がありますので、これを許します。小林信一君。
  10. 小林信一

    小林委員 お三人の先生には、お忙しいところをおいでいただきまして、貴重な御意見を私どもにお述べになっていただいたことを厚くお礼を申し上げます。ことに、いま私どものところには、藤原宮の問題で至るところから陳情がされております。しかし、勉強しておらない私どもには、その重要性とあるいはいままでのこれに対する保存経過とかいうふうなものについて不明な点がたくさんございますので、特に文教委員といたしましては委員長のお計らいで、このことにつきましては特に研究心もお持ちになって研究を重ねておられる中村先生を小委員長として小委員会が設けられ、そしていま貴重な御意見をいただいたわけでありましてありがたいわけですが、さらに私ども、なお先生方にお尋ねを申し上げて一そうその重要性を認識して、いまわき起こっております世論にこたえるように努力したいと考えるわけであります。時間がございませんので、まことにぶしつけであり、あるいは見当違い質問をするかもしれませんが、御了承を願いたいと思います。  最初に坂本先生にお願いをいたしますが、先ほどのお話の中にも、先生のさらに先生でございます黒板先生お話がございました。この藤原宮につきましても、すでに昭和九年に発掘に手をつけられておるという話を聞いております。以来十八年間継続されたそうでございますが、それが中止をされて残念ながら今日に至って、いまこういう問題に再会してまた一つ世論となってきたというふうにお伺いするのですが、私どもがこれから文化財保護委員会方たちに十分認識していただくためにも、簡単にお話し願えればけっこうだと思うのです。戦前戦後にかけての発掘仕事の中で何かお話し願えるようなことがございましたら、お伺いしたいと思うのです。
  11. 坂本太郎

    坂本参考人 ただいま御質問がございましたので、お答えいたします。  黒板勝美博士は、昭和九年に日本古文化研究所というものを独力お建てになりまして、そしていろいろな事業をお始めになりましたが、その第一の仕事として藤原宮趾発掘ということを始めたわけであります。それまでは、藤原宮趾というのはここであろうという大体の学説はありましたが、しかし、それに対して反対の説もありまして、必ずしも確定はしていなかったわけであります。それを古文化研究所で一応確かめようというわけで、ただいまも鴨公小学校というのがありますが、その隣に大宮土壇といいまして、水田の中で土地が盛り上がって高くなっておりまして、そこに松の木などがはえておりまして神社などがございますが、古来耕さずにとうとんでいたところです。それが大宮土壇といって、大宮という名前でもあるし、それから万葉集によりますと、藤原宮は畝傍、耳成、香久山の三山のちょうど中間のかなめのところにあるということもありますので、その土地はちょうどそこにあるだろう、文献の上からいってまずそこに間違いなかろうということで発掘を始めたわけであります。  それで大宮土壇から、まず大極殿あとと思われる礎石があります。下にたくさん石を突き固めた柱を受ける根固めの栗石がありまして、それが発掘されました。それで建物規模がわかりまして、この図の上の赤いワクの中のまん中のところにあるのが大極殿であります。それと、東西の東堂と西堂、この両方の建物があるのが確認されたわけでございます。  それが昭和九年から始まりまして、ずっと続けていたしたのでありますが、黒板博士昭和十一年に病気になられまして、それ以後全く活動はできなくなりました。主として発掘調査をせられましたのは、足立君といいまして私どもと同年輩の工学士文学士の人でありましたが、この人もずっと続けてやりましたけれども、やはり病身でありまして戦争中なくなられました。また、その下でやっていた人もございました。結局戦争までは毎年毎年発掘を続けました。それで、先ほど申し上げました十二の朝堂東西朝堂回廊、この一画が確認できたわけでございます。ここのところに、ともかくあれだけの朝堂があるということが。それで戦争にもなりますし、もうそういう仕事ができなくなりまして、一応朝堂院は確認されたということで、これは打ち切りになったわけでございます。当時たくさんの発掘品どもございましたが、それは鴨公小学校に一応貯蔵して、そして皆さんにお見せするということになったわけであります。土地は全部埋め戻しました。水田でございますから、農閑期だけしか発掘できませんからすべて埋め戻しまして、もとどおりになっていまは地下にだけある、報告書に残っているだけで、実際は表に出ておりません。表に出ておりますのは大宮土壇ということだけ、この一画だけはもとから土壇でありまして、耕作地ではありませんから、そのまま残っている次第であります。そういう次第でありまして、戦争になりましたために、こういうことが一時中止になってきたわけでございます。  戦後、先ほど申しました文化財保護法ができまして、史跡特別史跡という二つ制度ができましたときに、藤原宮はさっそく、いまの朝堂院のあの赤の点線の地域だけは特別史跡として指定したわけでございます。現在特別史跡になっておるのでございます。ただ、それ以外のところはまだ発掘がしてございませんし、どの程度まで大宮の範囲が広まるかということは、当時まだわからなかった。そのままになってきたのであります。そして戦後の焦点は、むしろ難波宮平城宮、この両方に移った傾きがありまして、藤原宮はしばらく忘れられていたという形でございます。  その昔は、この朝堂院より、むしろ内裏というのが天皇の常の御殿でございますが、それは当然なければならぬ。常の御殿というものは、朝堂に並んで西側のほうにあるのだろう。平安京のあとがそうでありますから、そうであろうと一応考えていたわけでありますけれども、戦後いまの難波宮平城宮発掘の結果、内裏というものが朝堂院に並んでうしろの側にある、北側にあるということがほぼわかったのであります。ですから、その点でいきますれば、藤原宮は、内裏は北のほうにあるであろうという推定はみんなしていたわけでございます。いずれにしても、そこを発掘調査する余裕がありません。そのままになってきたわけであります。それが最近になりまして国道を通すというお話になりまして、私はその初めはよく存じ上げませんが、初めの計画は、何かもっとこっちにかかるような様子であったのを、北のほうに少し回るようにということでございます。ともかくそれにしても、内裏あとであろうと推定されるところだから重要なところであろうから、一応調査しなければ何ともできないということで、道路敷だけは国で買ったのであります。その敷地だけを現在は調査しているというかっこうでありまして、完全な調査ではありません。斜めになった土地地域だけ、黄色いところだけやったのであります。北のほうだけ別にあとで調べますが、そういうふうに道路敷の下をするという非常に不完全な調査をしたわけでございます。それでも、先ほど申しましたように非常に重大な史料が出てまいりまして、内裏あとであるということはもう間違いない。建物あとがたくさん出ております。  私ども史跡に関係しますので、なぜそんな重要なところを史跡指定しなかったのかと、よくしかられるのでありますけれども、実はそこのところが、調査もしてありませんし、そうであろうと想像はしておりましても、それならここからここまでが史跡であるといって指定をする根拠はまだないわけでございますから、今日までなった次第でございます。まことにこれは申しわけないように思いますが、一面言いますと、道をつけてくださいましたおかげで発掘調査ができたとも言えるのでございます。
  12. 小林信一

    小林委員 学者が自分の学者としての使命からこういう問題に取り組まれて、先生が先ほど述べられたように、日本歴史というものを保存するという仕事にたいへんな貢献をされたことを私どもは感謝するわけです。一体、そういう大きな仕事をいましょうとすれば、なかなか金がかかって、文化財でも、出したくてもなかなか金が出せないというようなことから、開発は進まずに文化財保護に追われるような現状だと思うのです。そういうような今日の事情から考えて、一体当時はどういうふうな資金調達で黒板先生調査をなさったか、参考にこの機会にお聞かせ願いたいと思います。
  13. 坂本太郎

    坂本参考人 その資金は、私が聞いておる限りでは、黒板博士は非常にそういうことはおじょうずでございまして、岩崎さんから一万円をちょうだいして古文化研究所の基金にせられたのでございます。それでまず事業をお始めになったと聞いております。だんだん進めていきましていろいろ出てまいりましたから、当時の財団法人啓明会とか服部報公会とか、そういう財団からの援助もあったようでございますが、そのほかのものはないように聞いております。ともかく、まだその時分は非常に物価も安うございますから、お金はそんなにかからなかったのじゃないか。今日とはかなり違うと思いますが、それにしても偉い先生でありましたから、そういうたいへんなお仕事をうまくおやりになったものと思います。
  14. 小林信一

    小林委員 物価は高くても労賃は安いが、当時といえども土地をひっくり返すためには相当の地代は払わなければならぬと思うのです。そのときの一般の人の思想というものは違っておったのかもしれませんが、この事情から考えれば、金を出したのは財閥が出したようです。最近は、その財閥のほうが、どんどん文化財をぶちこわしても自分たちの利潤を高めるための開発のほうに努力をするというふうな傾向があって、まことに遺憾のきわみだと言わなければならないわけです。先ほど、いま発掘されております木簡のことについて先生からお話があったのですが、先日もここにおいでになる文化財保護委員会委員長さん、事務局長さんから木簡の価値とか意義とかいうものをお聞きしたのですが、私どもも相当勉強しておるように先生はお考えになって簡単に御説明願ったと思うので、この際、木簡の価値というものをもう少しお話し願って、平城宮趾のほうから出る木簡もあるけれども、なお、この藤原宮趾のほうから出る木簡もまた大事であるというような点を私どもに認識さしていただきたいと思うのです。ことに先生のいわゆる郡評論争というのが昔からあったように伺っておるのですが、そういう問題も何かここでけりがつくのですかどうか、お話し願いたいと思うのです。
  15. 坂本太郎

    坂本参考人 木簡の価値ということは、いろいろ申し上げれば切りがございませんが、ともかくその時代に墨で書いたものというもので残っているのは幾らもないのでございまして、お経の奥書、若干の写経がございます。もっと古くは聖徳太子の法華義疏、これが太子自筆のものというふうになっております。若干はそういう書いたものが残っておりますけれどもあとはもう……。それから正倉院には大宝年間の戸籍がございます。そういうものがあります。しかしながら、大宝以前となりますと非常に少ないのでございます。この木簡がいままで出たところだけを拝見しますと、持統天皇九年から文武天皇、天明天皇和銅三年、和銅二年ころまでの年紀を持ったものが出ているわけであります。ちょうど藤原の時代とぴったり合うわけです。その中で、やはり地方の国々から、大賞と称して年貢の海産物であるとかいろいろなものを差し上げる、それにつけ札としてつけてくる、そのつけ札が残っているのが多いのであります。それには何の国、何の評、何の里と書いてあります。そこでそれを見ますと、その当時、日本にどういう国の名があり、どういう評があり、どういう里があったということがよくわかるわけです。その何の国、何の評、何の里というのを——評というのは普通は郡というのを使っておりまして、日本書紀などはみんな郡の字、国、郡、里と書いたのが、大化改新のときにも、地方は郡、里に分けたとはっきり書いてあります。そのほかいろいろなところに出てまいりますのは、全部何の国、何の郡、何の里と書いてあるのであります。ただ、その当時の金石文には、郡に当たるところが評と書いてあります。御承知のように、たいていのところは評、里となっておりますので、国、評、里、当時はそういう段階であったのであって、日本書紀はあとから郡だけ改めたものであろうというのが一つの学説でありまして、それに対して私どもは、日本書紀は全文を全部改めたというのはおかしい、たまたま金石文に評の字が残っているものはあっても、やはり大勢は郡の字であろうということを言っていたのであります。今度出てまいりました藤原宮木簡を見ますと、三十何点、全部が国、評、里という段階で書いてあるのであります。してみると、これはどうしても大宝以前には、普通には国、評、里というような書き方をしていたのであろうというのはだれも認めるわけでございます。ただ、これについては、私としてはまだ研究すべきことがずいぶんある。それならどうして日本書紀は郡の字だけそんなに変えたのであろうか、評の字を郡の字に変えたのであろうかということがまず研究しなければならぬことであろうと思っておりまして、まだ問題が解決されたとは思っておりませんけれども、とにかく評という字を当時は非常によく使ったらしい。評というのはもともと朝鮮で使ったのでございまして、郡というのは中国のものです。しかし、国とか里は日本書紀もみな同じ、評だけが違うということになるわけでございます。それが郡評論争ということになります。  そのほかにも、たとえば「三千代給煮」というつけ札があるのです。三千代というのは非常にはっきり書いてあるのですが、橘三千代というのは藤原光明子のおかあさんであります。歴史上重要な人であります。橘夫人念持仏というのが当時ございますし、橘夫人というのは歴史上重要な人であります。その人の名前を、橘が書いてありませんからまだ確定したとは私ども考えませんが、しかし、名前を書くのもおかしいのであります。ともかく「三千代給煮」というつけ札がある。これがかりに橘三千代だということになりますと、当然重大な史料になるものであると思います。こういうことは全く思いもかけぬことであります。  そのほか、いまの国、評、里というほかに、国の名前、郡の名前、里の名前、それぞれ字が違いますけれども、いまのものにそれぞれ当てはまる。たとえば上毛野国車評、車というのはいまの群馬でございます。日本の地名は、奈良時代の和銅年間に二字に変えよという命令が出ております。無理して一字のものを二字にしているわけです。車というのは、後に群馬という二字にしたわけです。木の国もそうですね。紀に伊をつけて二字にしているわけです。二字にしろというお触れが出たために、たいへん混乱したわけです。車評というのがありまして、ちょっとおもしろかった。そういういまの地名にそれぞれ当てはまるものが、変わった文字で出ておる。だから、これは将来また出てさましたらどういうことになるのか、非常に興味のあることであります。主として現在は地名でございます。  そのほか品物の名前がございまして、いろいろな薬の名前とか、本を見ても当てはまらない、まだ解書ができないものがございます。ちょっと調べたらいろいろわかると思いますが、品物の名前もわかる。そういうのが一端でございます。
  16. 小林信一

    小林委員 そこで、昭和九年から十八年の間にわたって発掘作業をなされた、そのとき発掘されたものと、今日問題になっておるものと比べてみて、黒板先生がやられた戦前発掘状況といま問題になっておる地域発掘の問題と、私ども、きょうの現在から考えると、いままではそうでもなかったが、いままで不明だった内裏が、われわれがその当時の史実を学ぶにはもっと重要さがあるような気がするのですが、それはしろうと考えですかどうですか、お伺いしたいと思うのです。
  17. 坂本太郎

    坂本参考人 お説のとおり、朝堂院はやはり正式な儀式をするところでありますから、そんなにいまのような木簡が出たということは聞いておりません。そのほかのかわらでありますとかそういうものは出ておるのでございますけれども木簡は全然出ていなかったのであります。こちらの内裏のほうは、直接生活にかかわりのある部分でありますから、いまのように婦人の名前が出ておりまして、私はやはり、歴史上非常に価値のあるものは内裏のほうにあるというふうに考えるわけでございます。はるかに価値はこちらのほうが大きいわけでございます。
  18. 小林信一

    小林委員 私ばかりお聞きすると時間がなくなってしまいますので、こういう機会はめったにないものですから先生方にたくさんお聞きしたいと思うのですが、ほかの方も券待ちになっておられますので、なおそのことについても、いずれまた勉強さしていただきたいと思うのです。  この発掘をされる場合には、日本書紀とか続日本紀を大体土台として発掘されていくわけですが、しかし、いまの内裏等を発掘していくと、あるいはこういうような日本の古い歴史もまた修正をされるような、そういう重要性も出てきやしないかというふうにも考えるわけでありますが、いま先生から、前に発掘したところよりも今度のほうがもっと重要性があるということをお聞きして、終わらしていただきます。  さらに次には、先ほど先生が、手を加えるな、こういうふうなお話があったのですが、最近のいろんな論調を見ましても、史跡というものに手を加えないほうがいい。それよりも、ことに藤原宮等は、周囲の景観というふうなものから生まれておるいわゆる日本人の心のふるさとである。畝傍だとか香久山だとかいう大和の三山が取り巻いて、もしあそこに工場ができたりあるいは近代的ないろんなものがつくられなければ、ほんとうに昔の景観が残って、先ほど先生方お三人が希望されましたように、ここを国有地として別にこれに何ら手を加えなくとも、依然として竹内先生のおっしゃったように田畑にしておいて、特に国有であるから何らかの特別な措置の中できょうの現状のままで置いたほうがいいというふうなお話があったのですが、私どももそういうふうに考えておりますが、いわゆる万葉集にあります藤原宮の御井の歌というのですか、ああいうような状況を残すというふうなことに、今後史跡保存ということは努力をしていかなければならぬと思います。こんなことも、私どもはしろうとの考えでありますが、何かそういうような要望が世論の中にあるような気がいたしますので、その点。それから藤原宮趾というものは、いわゆる政治の体制が律令体制に入った形で行なわれた遺跡であるという問題で、だいぶ学者の方々がこれを強調されておるのですが、この問題。そして白鳳美術ですね、白鳳美術の時代ということで論調されておられるのですが、その三つの点で坂本先生に、なお簡単でけっこうでございますから、御説を承りたいと思います。
  19. 中村庸一郎

    中村委員長 ちょっと速記をとめてください。   〔速記中止
  20. 中村庸一郎

    中村委員長 速記再開。
  21. 坂本太郎

    坂本参考人 私ども、原則としては、やはり現状のまま保存ができればこれにこしたことはないと思います。特に藤原宮は、周囲の景観と一致しているところが非常に大事でありますから、なるべくならば現在の状況をそのままに保存できることが望ましい、それが一番であると思っております。  それから、大宝律令というものは藤原宮で発布されたのでありまして、ちょうどこの大宝律令は、大化改新を明治維新とすれば、大日本帝国憲法の発布みたいなものでありまして、これは非常に重大な事件のあったところであるという意味で、藤原宮も非常に重大な意味を持っておると思います。同時に、薬師寺で代表されるいろいろな白鳳の美術は全くこれと同じ時代で、薬師寺は天武天皇の時代から始まりまして持統天皇、文武、その初めに初めてでき上がったのでありますが、ちょうどこの時代と一致しておりまして、その白鳳の精神とまさに藤原宮というものは一緒になって非常に若々しい活力に満ちた時代であったと思います。
  22. 小林信一

    小林委員 委員長にお伺いしますが、こういう先生のお説を受ける機会はめったにないわけで、金では買えない非常にとうといものでありまして、できるだけひとつ時間をいただくようお願いしたいと思うのです。国会のほうもなるべくぎりぎりに使えるように理事の諸君に御心配願って、なるべく質問の時間を長くさせていただきたいと思うのです。私は切り詰めますから。
  23. 中村庸一郎

    中村委員長 同感です。
  24. 小林信一

    小林委員 最後に、これはお三方にお願いしたいと思うのですが、産経新聞の七月十一日の記事ですが、「山の辺の道、飛鳥など古都保存法の保存地区指定は、十七日開かれる歴史的風土審議八八専門審議会で決めたうえ、答申されるが、十月、同委員の寺尾勇奈良教育大教授は「七日の専門委で、建設省は藤原宮跡については“精神的景観”の価値がないため対象からはずすという見解を示した」と語った。」そのあと記事が続いておるのですが、これは事実であるか。これに対して先生方の御意見があったら、お伺いしたいと思うのです。
  25. 坂本太郎

    坂本参考人 私はそれを全然知りませんです。専門委というのはまた別に委員がございまして、あるいはそこでそういうお話があったかもしれませんが、私は、そのことについては、そういう除外するということは全然知りませんです。
  26. 権本亀治郎

    権本参考人 ただいまの御質問、私ちょうど昨日奈良県庁に参りまして、そして現在古都保存法に関する仕事をしておりますのが計画課でございます。そこへ参りまして、まだこれは指定になっていないのでありますけれども、一応地図を拝見した。そうしますと、これも御承知でございますから、これが中心になりまして三つの山がこういうふうにあります。その三つの山を一応マークしてあります。これは奈良県庁のほうで建設省へお出しになった地図、それから藤原宮跡、いろいろ議論がおありになったのだそうでありますが、文化財保護法によって買収云々ということをそのときにその係の方がおっしゃっていましたが、それで一応はずすということになった、こういうお話であります。そこで私が少しふしぎなんで、その三つの山に囲まれた中央が歴史的に意義のあるところであるなら、それを除かれた理由はどうかと聞いたんですが、どうもはっきりしないのです。まだこれは建設省のほうの審議会におかけになっているのかどうかよく存じませんけれども、一応奈良県からお出しになった地図の中にはそういうふうになっております。私たちから考えますと、それではせっかくの中央の歴史的意義を持つところが、そのまま無意味になってしまう感じがします。これは古都保存法の歴史的風土をたてまえとされた精神に反するのではないかと思う。それは一応終わりますが、それは橿原市のほうの地図の中にあります。  もう一つは、飛鳥地方の地図を拝見しますと、これも一応赤線で区画してあります。これも決定したかどうかよく存じません。ところが、拝見しますと、その区画の外にいま有名な飛鳥地方のお寺のあとが点々として残っております。つまり除外されているわけです。それで藤原宮跡お話が先ほど来出まして、たいへん重要であることはもちろんなんですけれども、ところが藤原京のほうは、奈良平城宮を中心にしまして七大寺があって、そして京を形成しておりますように、ここもやはり飛鳥時代からの飛鳥寺をはじめ多くの寺々のあとがありますし、また現存しておる寺も、岡寺、川原寺あるいは橘寺のようなものがありまして、これも藤原京もしくは飛鳥時代の景観を保っておるわけです。そういうようなのを含めて、飛鳥地方と申しましても、藤原京と申しましても重大な意義を持つと思う。そこで、これは私がそういうふうに申し上げていいのかどうかわからないのですが、古都保存法の指定のしかたが一体どうなのかを、逆に私が建設省のほうにお尋ねしたいと思っていたのです。私がきのう拝見してまいりました結果だけを申し上げました。
  27. 小林信一

    小林委員 なおこれを深めていくと問題が混乱いたしますから、おそらく先先方、こういう意見には反対だろうと思いますし、いまのようなお話を聞けば、精神的な景観の価値がないどころじゃない、これが中心にならなければならないものだ、どういう見解でこういうものが出てきたか、これは私どもの責任としてこれから努力していくつもりでございます。  そこで、ほかのお二人の先生一つずつ私お伺いしてやめますが、竹内先生に伺います。先ほど先生は、九州のほうにおいでになって太宰府の問題を話題にされたのですが、この文教委員会でも太宰府の問題が出まして、太宰府指定地にされなければならない状態にありながらなかなか指定がなされない、そういう裏をいろいろ探ってみると、先生がおっしゃるようにベッドタウン造成というふうなことで、いろいろな土地会社とか利権がからんでそれを遅滞させておるような情勢がある。したがって、文化財保護委員会としてはこういう点について努力をしてほしいというような意見が出たわけなんですが、文化財意見では、地元の人たちが、先ほどおっしゃられたように指定にされるというと土地が自由にできないとか、簡単に自分の好きなものを建てることができないというふうな、そういうところから非常に拒んでおる情勢はあるけれども、逐次理解をしてだんだん協力してくれているというふうなことを言われておりますが、いまの相福寺近辺の——これはたしか文教委員会もこの相福寺に参りまして、当時あの中に木造の大事なものが詰め込まれておったときがあったのですよ。それで、しかも隣家にお百姓の家があって、そこで出火でもしたら、それこそ大事なものが一網打尽になってしまうというような心配で非常に力を入れたことがあるのです。それが効を奏してりっぱな整備がなされたわけですが、いま環境というものがきわめて危険な状態にある、こういうことが論議をされたのですが、私は、奈良にも研究所がある、京都にもありますね、しかし、日本の古代文化というふうなものは、九州にもたくさんあると考えていいと思うのですよ。したがって、向こうで、九州あたりに国立の研究所を置くというふうなことが必要ではないかと思うのですが、先生、その点の御見解はいかがですか。
  28. 竹内理三

    竹内参考人 ただいまたいへんうれしい御意見を承りました。九州は、御承知のように、日本歴史にとってはいわば歴史の門戸であって、古代史におきましてもただいまお話しのように非常に重要な遺跡が現存しておりますし、ずっとそれ以来、古代史に続いて近世になればいわゆる長崎、日本の窓口だった長崎があります。ぜひ九州地区にこういう国立の古文化研究所をつくっていただければ、日本歴史をもっとよくはっきりさせることになるのではないかと思いますので、ぜひそれは実現をお願いいたしたい。お願いします。
  29. 小林信一

    小林委員 最後に、平城京の発掘に非常に御苦労願った、大成果をあげて国有地にしていただいた先生に私は心から敬意を表するわけなんですが、先生、いまこの道路をつくるということは、もしこれが必要であればこの道路を迂回してよろしいということは、先ごろこの委員会で建設省のほうから言明されたのですよ。しかし問題は、土地人たちがどういうふうな気持ちでおるかということが非常に大事だと思うのですが、一面、そういう大事な土地であるならば提供をしようという意欲もあるし、また、せっかくこれは橿原市というふうな行政機関が説得をして土地を接収したのに、これをまた放棄して、新たに自分たちが新しい土地を買い上げなければならぬということは実にえらいことだというふうな苦情もあるというように聞いているのですが、それをあわせまして、現地の意向とか事情とかというものを、この内裏を中心としてお聞かせ願いたいと思うのです。
  30. 権本亀治郎

    権本参考人 いまのは平城宮のほうも含めてでございますか、藤原宮のほうですか。
  31. 小林信一

    小林委員 藤原宮のほうを一応お願いしたいと思います。
  32. 権本亀治郎

    権本参考人 これも先ほど申し上げましたように、私、現地に一度か二度参観に行ったきりで、土地人たちとは触れておりませんが、しばしば平城調査部の人たちが手伝いに行っておりまして、その話を聞いております。  まず、発掘調査に参加しております作業員は、やはり継続した作業を希望しているようでございます。それはちょうど平城宮の問題の生じましたときに、こちらのほうでお取り上げ願って有名になって、そうして発掘が本式に再開されましたときに、ちょうど平城宮の地元の人たち土地を売った方ですね、それを含めまして地元の方たちを優先してその作業員に加えるということで、現在のところこれは生活をささえるほどの現金収入にはなってないかもしれませんが、少なくとも現金収入としては固定しております。そしてもう三十四年から始めました本式の調査以来継続しておるのが数十人おります。現在平均、これは平城の場合でございますが、現在平均六、七十人毎日作業しております。その中に二十人ばかり女の方々が作業しております。これは発掘のほうにも参加しておりますが、土器、かわら類を洗って、しかも専門家がやるようにそれを紙に写して拓本をとります。それもできるようになっております。それから、あそこで全部地区番号を打っておりますが、その地区番号も記録できるようになっております。それを流れ作業でやっておりますので、おびただしいかわら、土器類がほとんど片づいております。これは結局、女の方々をそういうふうな作業に参加させた結果でございます。そういうふうなのがもし藤原宮跡のほうでも、事が落着いたしまして発掘調査が本式になって、そういうふうな方法をおとり願うようになれば、これは地元の人たちにたいへんプラスになっていく。  それからもう一つ、その以前の買収に関する話、これはたいへん私の承っている範囲では複雑のようであります。けれども、あそこも幾つかの地区に分かれております。地区ごとで意見も違うようではありますけれども、最も主要な高殿と申しますか、そこでは一応国の補償があれば大事な遺跡のことだからという話も出ております。これは一々当たったわけではありませんから、複雑なのをどういうふうに受けとめていいか、はっきり申し上げられませんが、高殿のほうの地区の人たちはそういう見解も一持っておるようでございます。その程度しか私は存じません。
  33. 小林信一

    小林委員 最後にお伺いしたいのですが、さっき北限をさがしたい、北限をきわめたいというふうな先生方お話があったのですが、そのとおりだと思うのです。と同時に、私は、平城京が従来の形でなくて、もっと東に延びておったものだとすれば、それを国有にするとかしないとかいうことは別問題として、東の境がどこだ、東限を探る、これも必要だと思うのですが、先日文化財の事務局長にまず国有地にする意思はないかというふうなことを尋ねましたら、いまのところはその意思はないというふうなお話で、何か東の境を探るのは困難であるようなふうに言われておったのですが、その点権本先生に一言だけお伺いして、お終らせていただきます。
  34. 権本亀治郎

    権本参考人 いまおっしゃいました、東のほうをきわめることが困難だということは決してありません。ただ、東のほうをどこまで延ばすかで、それからどういう発掘方法をとるかで、かなり広うございますから、問題はあります。問題はありますけれども——もう少し前から話しますと、バイパスが通ります東地区の予定のところは、その道路筋だけは全面調査するようになっております。これだけでも約七千坪あるはずですから、一年間たっぷりの仕事がございます。それにいまお話しの東のほうを突き詰めるための発掘をしますと、これはさらに坪数が広がるわけでございますから、現有のあそこの勢力ではたしてこなせるかどうかはわかりませんが、その七千坪も必ずしも一年で終わるわけではないようでありまして、一年半の予定になっておると思います。いまのところ、私は平城宮跡には全く関係ありませんで、これは私が第三者として、いま承った範囲で申し上げます。東のほうをきわめるのは非常に重要なことで、これも、この前のお話のときもいたしましたし、御存じのことだと思いますけれども、光明皇后の法華寺を——皇后のおとうさんのお屋敷、それが後に法華寺になったわけでございますが、それが一時皇后職になさったと思われる節もあり、後に孝謙天皇がやはりそこにいらして、しかもたいへん興味がありますのは、平城宮から出ました木簡の中に、そのときの御膳のほう、食べものを扱っておられたその女の方の名前をしるした木簡が出てまいりました。しかも、それは続日本紀に載っている孝謙天皇のおつきだったようですね。その方のところへ油とかあるいは調味料とか、それからアズキの類を請うという、そこの命婦の方から請求されたわけですが、そういうような木簡が出てきまして、続日本紀の記事を裏づけた。これはたいへん興味がある。先ほどの藤原宮跡の橘三千代と同じような一そのときに孝謙天皇がそこにいらしたということがそれで裏づけられたわけであります。  そういうところから考えますと、東のほうに通ります一坊大路に、ある時期にそれが改変されまして、そこに平城宮が東へ延びたというのは、結局法華寺のそういう皇后職もしくは孝謙天皇のときの御座所の関係から延びたかと思われる節もあります。結局、平城宮の東の限りといままで考えられております東の限りと法華寺とは、連続するのではなかろうかとも思われます。そうしますと非常に重大なことで、従来関野先生がお考えになりましたお考えを改めなければならない。これは結局発掘の結果わかったわけです。関野先生のが誤りというのじゃなくして、関野先生一つもお掘りになっておりませんから。発掘の後わかったわけです。これはぜひお確かめ願いたい。
  35. 小林信一

    小林委員 ありがとうございました。
  36. 中村庸一郎

    中村委員長 次に、長谷川正三君。
  37. 長谷川正三

    ○長谷川(正)小委員 最初委員長にお尋ねしますが、きょう時間は何時まで……。
  38. 中村庸一郎

    中村委員長 時間はもう経過しておりましてね、まことに貴重なお話ですが、歴史の話は尽きるところを知らずでありまして、なるべく簡潔にお願いいたします。
  39. 長谷川正三

    ○長谷川(正)小委員 それでは、もう時間が来ておるようですから、内容についての御質問は避けまして、この機会に、私もたいへん不勉強でございますので、お教えいただきたい点を二、三だけ質問して終わりたいと思います。  一つは、古都における歴史的風土保存に関する特別措置法によりまして、橿原市のただいま問題になっている部分は指定されているのかどうか、その点をどなたからでもけっこうでございますが、お教えをいただきたい。
  40. 坂本太郎

    坂本参考人 古都における歴史的風土保存は、昨年度には京都と奈良と斑鳩地方を一応決定いたしまして、本年度は橿原、いまの飛鳥、山辺道、あの辺を審議中でございます。この間、委員が実地視察に参りまして、近いうちに審議会を開いて答申をすると聞いておりますけれども、何か会長が病気の関係からだと思いますが、その後私は何ら会合の通知を受けておりません。まだ現在懸案中であろうと思います。
  41. 長谷川正三

    ○長谷川(正)小委員 そうしますと、ここは古都保存法上はまだ何ら保護指定の範囲に入っていないと解釈してよろしいんですか。
  42. 坂本太郎

    坂本参考人 案は、一応の建設省の案は出ておりますが、審議会としてはそれを決定した段階にはなっておりません。案では、先ほど申したように、畝傍、耳成、香久山の三山、藤原宮跡ももちろん案では入っておるわけです。御質問で、産経新聞では抜けておるというお話ですが、私はそうは承知しておりませんで、案では三山全部、それから藤原宮跡も入っております。
  43. 長谷川正三

    ○長谷川(正)委員 案としてはこの地域指定に含まれる方向に進んでおるけれども、現在審議中というお話でございますので、そのように了解いたします。ただ、私どもも詳しいことを知りませんが、学者の方々の御意見を聞きますと、古都保存法の立案に当たった——これはたしか議員立法でできたと思いますが、古都保存に対しての熱意は十分くめるのでありますが、法律自体は、制定後の運用を見ますとこれほどの天下のざる法はなくて、むしろなかったほうがよかったのじゃないか。これから、これに指定されてないところは、何をやってもいいという逆な現象になってきて、しかも文化財保護委員会がこれを扱うのでなくして、総理府のほうに付され、建設省関係の発言力が強まっているために、建設のほうの都合が主となって非常に左右される。ただいまのお話でも、案としてはなっているけれども、どうも審議の途中で怪しくなっているやに報道がされているわけでありまして、そういう点につきまして私は非常に心配をしているわけですけれども参考人皆さんには、遠慮なさる筋はどこにもないと思いますので、この古都保存法、俗称そう言っておりますが、これに対してのお考えを率直にお三方から伺いたいと思います。
  44. 坂本太郎

    坂本参考人 そういう法律の効果については、あまりよく私存じておりませんので、ただ、立案の際には一応御相談を受けて、いろいろ意見を申しておりますが、もしそういうことであれば非常に残念だと思います。せっかく議員の方々の発意で議員立法として出ましたものですから、ぜひこれは有効な法律であらせたい、私どもそうしたいと思っております。
  45. 権本亀治郎

    権本参考人 先ほど橿原のことを少し申し上げましたが、同じく県庁へ参りまして——平城地区のあそこは、古都保存法で特別保存地区になっております。ところが、地図を拝見しますと、心配なのは、さらにそれからどれだけ広がって一般保存地区になっているかということだったものですから——これはもう決定したわけであります。平城宮跡は、現在文化財保護法特別史跡指定されましたその限界から十五メートル幅外へ出ております。その範囲で指定されておる。それはちょうどバイパスの通りますぎりぎりのところです。それから一般保存地区が実は心配だったものですから、先ほど申し上げましたように法華寺との関係もありますので。ところが、実は法華寺が入っておりました。それで一応は一般保存地区に設定されておりますので安心したのでありますが、ただ十五メートル、現在の文化財保護法による特別史跡の限界から十五メートルの幅と申しますと、南のほうでわかりましたのは、現在指定されております南限の外へ約五、六十尺、外堀が出てまいりました。これは関野先生の設定されました藤原宮跡の区画からやはりはずれるわけですね。これも結局発掘の結果わかったのであります。それから東のほうは、北のほうが少し怪しい。南のほう、東のほうの南端でございますね、そのほうを見ますと、やはりそれに近い程度の外堀がございます。そうしますと、十五メートルでは足らないということになります。本来の平城宮跡を外堀にとりますと、十五メートルでは足らない。その辺、古都保存法による指定の原案がたぶん奈良県から出ているのだろうと思うのですが、そういう点も、平城のほうの調査部とお打ち合わせなされればもう少しわかったろうと思うのです。そういう遺憾な点もあるようであります。
  46. 竹内理三

    竹内参考人 昨日も神奈川県で聞いた話ですけれども、鎌倉の周辺に、昔鎌倉武士が鎌倉に通った道があるわけてありますが、そのうちの一つに、名越切り通しというのがあるわけであります。それが数ある切り通しのうちで特別史跡指定になっておるのだそうでありますけれども、昨日、鎌倉の方のお話によりますと、指定された区域だけが残されて、その周辺がすっかり宅地に造成されたので、その史跡の意義がなくなってしまったということを承りましたので、古都保存法があるために指定地以外はかえって何をしてもいいじゃないかということになりはせぬかという御心配は、まさにそのとおりでありまして、私からお願いしたいことは、きちんとした区域がわからなければそれは指定できぬというようなお話をこの藤原京の場合も承るのでございますけれども、そういうかた苦しいことでなくて、なるべく拡大解釈して指定できるように運営をしていただきたい、こう思うのでございます。
  47. 長谷川正三

    ○長谷川(正)小委員 率直な御意見を聞かしていただいて、たいへんありがとうございました。  この点は、あとで本小委員会において十分関係各官庁等も招きまして審議をし、改めるべきところがあれば改めなければならないものではないかと思います。古都保存法の名において盛んに古都破壊が進んでいるというのが、端的ないまの現状だと私は極言しても言い過ぎではないと思う。鎌倉などは、行くたびにこわされておる。ひどいものです。あの事実を見ましても、先生方も同じ御感想をお持ちだということがこの公の席で明らかにしていただいたということは、非常に意義があると思います。簡単な御発言ではありましたが、いまのようなおことばを根拠にして、私どもは、文化財保護に対して、せっかく本小委員会が生まれた機会に、十分ひとつその使命を果たしていきたいという決意を新たにした次第でございます。  なお、委員長にお伺いいたしますが、全国的に私はいまたくさんの文化財保護の問題を持っておりますが、それでも私がここで知り得て資料を持っておるのは、九牛の一毛にすぎないと思います。こういう問題を本小委員会でぜひひとつ本格的に、総括的に扱って、いままことに重要な時期でありますから、文化財保護の国策をひとつゆるぎないものに確立しなければならない、こう思うわけですが、これらの扱いについて今後どういうふうにしていったらいいのか、きょうは参考人皆さんから、藤原宮を中心にした審議に時間的にもとどまるのでありますけれども、そういう点について、これは理事会でやるものなのか私もよくわからないのですが、閉会中もこういう会を持っていけるのか、その辺のところを、これは小委員長にお聞きする筋であるかどうかもわからないのですが、もしお考えがありましたら……。
  48. 中村庸一郎

    中村委員長 小委員会で相談をいたしましてきめてまいりたいと思います。さよう御了承願いたいと思います。
  49. 長谷川正三

    ○長谷川(正)小委員 それでは、本日のところはこれでとどめておきます。
  50. 中村庸一郎

    中村委員長 参考人方々には、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。  本日は、これをもって散会いたします。    午後四時三十八分散会