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長谷川(正)
委員 これは水かけ論になるかもしれませんが、正当防衛というのがあるんですね。これは私が申し上げるまでもないと思うのですが、身に危険を感じたときに相手を傷つけたり、場合によっては殺すというようなことが起こり得ても、その場の全体の
状況判断から、不当な危険な
状態にさらされたような場合には、これは有罪としないということがあります。お笑いになる方もありますけれ
ども、一〇・二一のことを
考えますと、この
公務員制度ができまして十何年にわたって、特に
労働基本権の幾つかが
制限された代償として人事院ができまして、そしてその勧告もまことに必ずしも公正だとは私
どもは
考えていない低いものだと思いますが、それでもそれを認めるとしましても、いままで一度もそれを完全に実施しなかった。それが十何年重なって、一人にすれば十万円も十五万円も不当に盗まれたことと同じだ、こういうようなことがだんだんわかってきた場合に、しかも相変わらず、ただ
法律だ、
法律だでやられたんでは私はかなわない。それが一〇・二一のような
行動になったと思います。このことは、私はそのこと
自身はちっとも歓迎もいたしませんし、たいへんめでたいことだとは思いません。思いませんが、そういう
事態にしてしまったということについて、為政者が一番
責任を感じないで、どうして問題の本質的な解決があり得ましょうか。聖徳太子の
ことばに、上下相争うときはおおむねあしきこと上にありとありますが、私は近ごろの
公務員の
労働運動に対する紛争を見るたびに、この聖徳太子の
ことばを思い出し、非常に痛切に感ずるのです。それは
日教組にも全然欠陥がないとは決して申しません。ときには行き過ぎもあるでしょうし、たとえば
交渉のしかたにも、私
どももあまり感心しないような事実もあります。けれ
ども、それはそれといたしまして、大きな筋から見ますならば、これはやはり
政府側のほうで、そういう
事態が起こらないように
未然に十分の処置をとるという
方向での
努力の欠除こそ、私はまず第一に反省さるべきなんであって、それは
責任を感じていると思いますけれ
ども、それはただ口先だけであって、それで実際は起こった結果に対してだけ、いまの
法律だけをたてにして責める。こういう行き万は本質的な解決にならない。あふれてくる洪水を、ただ土のうを幾つか積んで防ごうとしておるにすぎないんで、もっと本質的に川の流れが正しく流れるようにしない限りは、そういうびほう的なことは本質的な解決にはならない。むしろ悪い
方向に内向していくとさえ心配されるのであります。
教育界の中に、私は、不明朗なうっせきされた不満をいつも持ちながらこれも明らかに表現できない、こういうようなじめじめとして空気が
教育界を支配するということほど、民族の将来にとっておそるべきことはないと
考えるのであります。もっと
学校の先生
たちが、伸び伸びと言いたいことを言い、そうして
教育上の問題につきましても思い切った研究をどんどんやっていける、そういうような体制をつくらなければいけないし、生活についてもできるだけ最小限度の、心配をさせないような
方向に持っていかなければならないと思うのですけれ
ども、そういう点に多々欠くるところがありながら、一方に責めるばかりで、しかもその
代表とも会わないというようなことでは、私は
日本の
文教行政として、まことにこれではお粗末と言わざるを得ないのではないか。
剱木文部大臣の御
答弁から、私は、
大臣個人の御心情なり
誠意というものについては決してこれを疑わないものでありますけれ
ども、いま私が申し上げたような
立場から
——もちろんいまの
法律に照らして、これは取り締まらなければならないという場面もそれは起こるでしょう。しかし、おのずからその問題の所在のとらえ方によってその処し方というものは違いますし、また、その
誠意が、
お互いに
教師と
文部省との間の血の通った
関係と申しますか、そういったものが生まれてくるような処置のしかたというものはあるはずだ。そういうふうに
文部大臣は
文部行政を持っていくべきだ、こういうふうに
考えるのでありますけれ
ども、この問題につきましてはこれ以上は平行線になりそうでありますから、あえて
答弁を求めないことにして、次の問題に移りたいと思います。
それは、ただいまは
日教組大会に関連しまして、いわゆる
実力行使問題について
お話がありましたから、この問題については
憲法との
関係等についてももっと掘り下げた議論をしたいところでありますが、あとの
質問者も控えておりますから、本日のところはこれで一応打ち切りまして、
日教組の倫理綱領に関しまして、これまた前回の
議事録を見ますと、
大臣は非常に思い切った発言をされておるのであります。その点につきましてしばらくお尋ねをしたいと思います。
一つは、
日教組の倫理綱領について、「唯物史観に立ったマルクス的な
考え方であるということだけは否定できない。」ときめつけていますね。十九日の本
委員会における
斉藤委員の
質問に対する
大臣の御
答弁の中で、そうおっしゃっています。また、その前には、「現
日本の社会とは違った
一つの社会的変革を
意味することをその倫理綱領の中にうたってあることは事実でございます。」こういう断定をされておるのであります。それからさらに、その前に、「
日教組の
教師としまして、その対象となる生徒、児童に対しまして、その目的を達成するように
教育をいたすことが
教師の倫理綱領の中に書いてある。」こういうふうなことも言っております。これらはそういうふうにきめつけていいものか。これは非常に重要な問題で、これは倫理綱領の逐条にわたって討論しませんと明らかにならないと思いますが、いやしくも一国の
文部大臣が、
日教組というれっきとした
団体の倫理綱領に対して、こういうきめつけを公式の
委員会の席でなさった以上は、その
責任はまことに大きいと思うのであります。そういう
意味におきまして、これはどうしても
ほんとうに明らかにしていただかなければならないと
考えます。しかし、その内容論に入る前に、第一に、
日教組という
一つの
団体の綱領というようなものを、これは大衆的な討議の上にできたものだと
考えるのでありますが、それについて
文部大臣がとやかく言うということが許されるのかどうか。意見を述べることは当然自由でありましょうけれ
ども、それを
理由に会う会わないの
一つの基準にする、これはいけないことだとか、こうきめつけること自体が許されるのかどうか。もう一歩割りますと、それでは個人がどういう思想を持ち、信条を持とうとも、それについて、おまえはこういう思想を持っているから、したがって
教師にしておけない、
教師としての資格がない、こう言うようなこと、この
考え方を進めますとそこへ行き着くと思うのでありますが、そういうことは
憲法の精神と全く背馳した、非常に危険な独断が
文部行政の中にあらわれてくるきざしのように思えてなりません。この
教師の思想、信条の自由ということ、そして
日教組の倫理綱領というもの、これ
自身が完全なものではないでしょう。あるいは
時代の進歩に伴ってさらにその修正なり、あるいはさらに豊富な内容の加除なり、そういうことが行なわれることは今後もあり得ると思いますが、それをとにかく
文部大臣の側からこういうふうな言い方で、しかも公式の席できめつけるということは、私は非常に問題があると思いますが、これにつきまして
大臣の御所見をもう一回ただしたいと思います。