○山本(弥)
委員 一応の
答弁だと承りますけれ
ども、事は、いま
長官が言われた、そういうふうに責任が継続するのだ、一年で
防衛庁長官はかわっていいものだというようなものではなかろうと私は思います。
建設大臣が
道路をつけ、
道路五カ年
計画によりまして多少
道路の路線が変わりましても、これはたいして問題はございません。あるいは河川の改修が政治的にゆがめられても、たいしたことはございません。しかし、基本的にある期間わが国の防衛をどう考えていくか、現に長いほどいいという問題でもないわけであります。マクナマラ
長官は、すでにケネディ、ジョンソン二代に国防
長官をつとめて、みずから多くの民間あるいは幕僚の意見を徴しまして、過去から将来にわたる防衛についての膨大な
報告書を議会に提出するという姿勢をとっておるわけであります。いま
お話しの、国会が最高のコントロール機関であるということでございますが、私も初めて国会に出てまいりまして、最初の
総理大臣の施政演説から引き続きましての
予算委員会あるいはその他の機会におきましての、
防衛庁長官あるいは総理の国防に関する御
答弁というものは、これは何回も
指摘しておりますけれ
ども、第三次防の
整備計画を
説明しておられるわけでありまして、その背景になるもの、あるいはどうしてこれが必要であるかという、それらの情勢
判断につきましては、きわめてありきたりのことばで
答弁しておられる。コントロールのしようがない。
予算を認めるか認めないかということについて、認めてくれればいいじゃないかというような態度でありまして、おそらく、防衛に対して国会をほんとうに最高のコントロール機関とするという認識がない。これは
防衛庁長官が一年ぐらいで交代をしておると、いわば確信を持っての過去から将来につながる見通しその他について、いかに
反対がございましても、十分練った案を、その背景等も含めて
説明し得るという確信がないわけであります。重要な問題が、これは多少野党の
反対にあうかもわからぬ、それらに対しまして形式的に国会を通過させればいいということに、その全力を尽くしておるというふうに私
どもは考えられるわけであります。したがって、大臣相当御年配ですけれ
ども、総理に進言せられまして、自分の生きている限りは
防衛庁長官をつとめさせてくれ、それだけの気概をもっておやりになっていただきたいと思っております。
次にお
伺いしたいと思いますことは、私も明治生まれでございますので、
昭和の初めから終戦までのきわめて軍国主義的、暗い時代を青年としてあるいは壮年として過ごしてまいったわけであります。私
どもは、終戦と同時に、いわば私
どもの立場からの責任も負わされたわけであります。この時代におきまして、私
どもはこういう時代の回顧に立ちましての新しい
憲法であり、また今後のわが国の防衛を考えていかなければならぬと私自身も決意しておるわけであります。この時代においてすら、大臣も御
承知のとおり、永田軍務局長が相沢中佐に刺殺される。あるいは私
どもの出身県の政治家、そしてかつ軍人でございました齋藤實さんも、軍人によって殺される。あるいは、これまたわれわれの政党政治を確立することに努力をし、しかも軍閥打倒に全力を尽くされた原敬も、やはり同じ運命にあった。あるいは渡辺教育総監が、やはり兵隊によって殺されておる。明治
憲法におきましては、統帥権によりましてはっきり軍隊というものが国軍あるいはわが国の軍隊という意識を持っておった時代におきましてすら、軍人が上司を殺すということも起こっております。政治家も殺される。このことが、終戦につながる事件につながっているわけであります。国会におきまして、いまは
防衛庁の皆さん方はそうではございませんが、佐藤中佐でございましたか、大喝してその
発言を封じたというような、こういう時代もあったわけです。それから代議士の中には、寺内陸相と決死的な覚悟で
発言してわたり合う、こういう時代を経ておるわけですね。私は、その時代が復活するとは思いません。しかし、わが国の防衛というのは、自主防衛ではないわけですね。
アメリカとの共同防衛でございますね。南ベトナムの総理のゴ・ジン・ジェムでございましたか、
総理大臣がやはりまた暗殺されたのですから、そういう過去の歴史に立って今後の防衛を考えていかなければいかぬ、私はこういうふうに考えるわけでございますが、大臣もそういう時代を過ごしてこられたと思うのであります。これらにつきまして、どういうふうにお考えになっておりますか。