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平川参考人 ただいまの御質問でございますが、私
どもは、この
移住の
事業、特に
農業者の
移住の問題につきましては、当時は現在とはだいぶ
事情も違いましたけれ
ども、ともかくも、
日本の農家に対する、現在行なわれておりますような構造
改善といったような考え方、当時では次三男
対策とかというような考え方もございましたけれ
ども、いずれにいたしましても、農家の経営規模拡大の
一つの考え方といたしまして、
農業者の
移住の問題は農民みずからの問題である。そこで、この
移住の
仕事というようなことは、
政府がもちろん大きく
援助をし、大きな政策として行なわなければならぬものであるけれ
ども、何よりも根本は、農民自体、
移住者自体がみずからよく考え、みずから努力をし、みずから準備をして、その成功をはかるということでなければ、第三者の保護だけに依存しておる考え方では成功しにくいであろう。そういう
意味において、個々の農民、個々の
移住者の努力ということはもちろんでありますけれ
ども、その
移住者に一番身近な
団体、そういう
意味においては、
農業協同組合というようなものがみずからの組合員のためにいろいろな援護、準備等をいたすということが非常に重要なことではないか。
農業協同組合は従来、いろいろ
生産物を売るとか、あるいは購入物資を共同して買うとか、あるいは信用の
事業とか、いろいろやっておりますけれ
ども、
自分の組合員の何%かが、何人かが思い切って
海外に出るんだ、それによって残る組合員の農地の面積も広められる、
移住した農家もりっぱに成功をする。こういうことを農民の
団体である
農業協同組合がみずから力を出して努力をする。もちろん、こういう
事業でございますから、営利的に動かすわけにもまいりませんので、ある程度の
政府の
援助ということもお願いしなければなりませんけれ
ども、ともかくもみずからが自主的に力を出す、こういうことが組織として必要ではないだろうかということで、
昭和三十一年に
全国拓植農協連を設立いたしました。各地方の協力を得まして、現在まで――現在まだ
全国的にできておりません。各府県の拓植連というものが二十五ございますが、
移住にあまり
関係のないような県はまだできておりません。
仕事の内容といたしましては、まず、
移住そのものについての理解を、農民の間に、そういう先ほど申し上げましたような農家自体の問題として、農村自体の問題として、この問題を研究し知識を得るという
意味においての啓発宣伝の
仕事もやってまいりました。そのためには、
農業協同組合の幹部といったような、地方における人々を
現地に派遣するというような
仕事もやってまいりました。また最近では、農村の青年で
指導的な能力のあるような非常にまじめな、ことにこの問題に深く関心を持っておるような者を
現地に派遣して、
実習をさせるということもやっております。
そういたしまして、一番大切なことは、
現地に参りましてからの援護でございます。まず
入植地の選定等につきましてもアドバイスをいたさなければなりませんし、そこに入りました場合のいろいろな
農業経営の問題等については、特に
農業団体としていろいろなアドバイスをする。われわれはこういう民間の小さい
団体でございますから、
政府機関の
事業団のように手広く手を広げるわけにはまいりませんので、私
どもとしては
一つでも二つでも、よい実例をつくっていきたい。いやしくもせっかく
移住した人が、向こうで失敗をして逃げ出さなければならぬといったようなことのないように、
土地の選定から営農の計画から、それに即応する準備に至るものを十分に整えて、小規模であっても、少しずつでも一歩一歩築き上げてまいりたいという考え方でございまして、具体的には、
サンパウロの
近郊のグァタパラという
土地を、
事業団と協力をいたしまして、
事業団の協力を得てこれを購入し、これに
移住地の建設をいたし、ここに現在約百四十戸の入植者が入っております。これはいろいろの経緯がございまして、
昭和三十六年に入植を始めました。現在まですでに数年を経ておりますが、やはり何と申しましても開拓でございますから、なかなか簡単には成功というわけにはまいりませんけれ
ども、現在ごく少数の、数戸の脱落者を除きましては、大
部分のものが、まだ非常に豊かになったというわけにはまいりませんけれ
ども、少なくともこの
土地で前途相当りっぱな
農業経営を打ち立て得るという自信を持って、現在努力をしておるというような状態でございます。これにつきましては、やはり
農業経営に非常に重点を置かなければなりませんので、かなりのかんがい、排水の設備もいたしまして、御承知のように、向こうでは大体において非常に粗放な経営でございまして、
土地を改良するとかポンプで水をあげるとかいうようなことはほとんど従来やられておらなかったのでございますけれ
ども、このグァタパラの工事はかなり
ブラジル政府あるいは
現地に大きな反響を与えたと考えております。そういうようなことで、りっぱな将来性のある
移住地を選定し、そこに入植を
あっせんし、さらに入りました
あとにおいても、いろいろな
意味においての援護をする。
農業上のいろいろな
指導員のような者も置きまして、いろいろなアドバイスを加えるということ以外に、
資金的にも内地の農協から
援助をするというようなこともやっております。
また最近、グァタパラの
移住地におきましては、全拓連が直営の農場を設けまして――
移住者というのは、御承知のようになかなか口で
指導しただけでは、必ずしもそのとおりついてはこない、やはり現実にやって見せないとなかなか納得をしない、農民一般にそうでございますが、そこで小さい規模でございますけれ
ども、直営農場を設けまして、そこでひとつ模範的と思われる
農業経営を実現をして見せる。これによって、水田につきましてもあるいは畑作等につきましても、畜産方面につきましても、
移住者がかなりこの農場のやり方に注目いたしまして、逐次
自分も自信をつけ、将来それをまねしていけば確かにこれは成功するだろうという、
一つの確信の根拠になるようなものを実現してまいる、こういうことを試みておるわけでございます。
それから、もう
一つ大きなアイテムといたしましては、青年の
移住の問題がございます。これは
昭和三十年に、当時
ブラジルのコチアの産業組合というのがございますが、これは日系人を
中心とした一万人からの組合員のある大きな組合でございますが、その専務から、
日本の農協と
ブラジルの農協とが提携をして、そうして
日本の青年を向こうの農協で
受け入れて、三年ないし四年の間、雇用労働という形式で、実際の
現地の
農業を
実習して、そこで腕がしっかりしてきた時分に、独立させることについて
現地の農協で援護する、こういう方式で
日本の青年を入れようじゃないかという御提案がありまして、当時は
労働力も現在のようでございませんでしたので、いわゆるコチア青年という名前で毎年送られてまいりました。これは農協の
事業といたしまして、内地の農協と
現地の農協の提携
事業――これはもちろん国家中業である
事業団の
援助を得ておるわけでありますが、そういう形においてやってまいりましたのが、現在まで二千五百名
現地に参っております。この青年たちは、もちろん数の中でございますから、中には非常に失敗をした者もございますけれ
ども、中には非常な成功をいたしまして、
日本においてはとうてい考えられないような、たとえば十年前に渡りました者でも、三十そこそこでございますが、これがかなりの成功をおさめて、年収一億以上にもなるというような者がかなりの数おるというようなことでございます。例外といいますか、悪いほうもございますけれ
ども、いいほうもある。そこに青年としては
一つの大きな夢を持ち得るというところが、
日本の
農業とは違ったところを持っておるわけでございますただわれわれといたしましては、その失敗率のほうをできるだけ少なくして、成功率のほうをできるだけ高めるということが、私
どもの任務であるわけでございます。その
意味において、当初から人選、あるいは
訓練、また
現地に参りましてからのいろいろな世話、
あっせん、また三年、四年の
雇用農の
生活で腕ができてまいりますと、今度は独立をいたすわけでございますが、その独立に際しての
資金的な援護、あるいはさらに、お嫁さんの世話までもやっておるような
状況でございます。これはなかなかむずかしい問題でございますけれ
ども、それでもすでに五百人からのお嫁さんが向こうに渡っておるような
状況でございます。
そういうようなことがおもなる
事業でございます。