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帆足委員 ただいまの御
答弁は、それはそれとして、私は、岡の
安全保障ということは、その国の安全を守る
立場と同時に、
安全保障という
ことばの概念の内容を正確にすることが必要である、こう思っておりますから、そのことにつきましては、あとで
意見も述べ、
政府当局の
意見も確かめたいのですが、きょう
質問するにあたりまして、久方ぶりに
孫子の
兵法を読んでみました。
クラウゼウィッツの
戦略論等は、
皆さんも若いころお読みになったと思いますが、それらと比べまして、私は、
孫子の
兵法は、やはり
兵術を考える者にとってのバイブルというほどの英知の集積されたものであることを一そう深く痛感いたしました。
孫子の最初の井き出しに、「
孫子曰く、兵は国の大事なり、」まことにそのとおりです。「丘は国の大事、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず。」「兵は国の大事なり、」私は、この
一言から説き起こしたことは、きわめて重要なことであると思います。同時に、それに引き続きまして、たとえば兵を遠くのほうにつかわすことを戒めまして、わかりやすく申しますために口語体に翻訳して申しますと、戦うにあたって最も重要なのは兵糧である。私はこのことを後に
防衛庁に
日本の
立地条件から御注意を促したいために申すのでございますが、去る大
東亜戦争のときは、
バックグランドが
朝鮮、満州、
台湾でありまして、
最後の日まで砂糖も参り、米も参り、大豆、アズキも多少は輸入できまして、かゆをすすりながらも生きていくことができました。いまこれらの
地域との
関係は全く昔と違っております。したがいまして、
戦略論的に言いますならば、原爆、ロケットのほかに、
食糧と
原料の問題のことを
皆さんがお
忘れになったならば、一切は水泡に帰するのでございまして、
一つの例をもって申し上げますと、
敗戦後時間のあまりたたないころ、
アメリカの
ロイヤル陸軍長官は、余は六千キロ離れた四つの島の、一億に達する
人口の、しかも大量に米を食べる胃拡張の
国民に一日百万ドルの
食糧を戦時中補給すると約束する勇気はない、こういうことを述べております。もちろん、この
ことばは、当時
マッカーサー元帥が、
日本よ、中立を守れ、アジアのスイッツルたれと言った
ことばの裏づけをする
意味で
ロイヤル長官は
日本の
原料と
食糧問題に触れたのでございます。
三矢作戦その他にあらわれました
防衛庁ボーイたちの落書きは別といたしまして、国の
安全保障を考える私
どもにとっては、
軍事技術のほかに、
食糧と
原料のことを
忘れてはならない。それに対して
孫子はこう述べております。通訳して言いますと、
戦いが続き、
距離が遠ければ、
国家が軍隊のために貧しくなるということは避けられぬことである。遠征して遠くに
食糧を運べば、
民衆は貧しくなる。近くでの
戦争ならば、物価は高くなるであろう。いずれにいたしましても、
民衆の
たくわえはいよいよ少なくなるであろう。
たくわえがなくなれば、村から供給する軍役にも苦しむことになり、戦場では戦力が尽きて力が弱り、人心を失い、国内の家庭では、その日の
食糧にもこと欠くことになり、
民衆の経費は十のうち七割まで減らされることになる。
国家の財政も疲弊し、それでは、戦車もこわれ、馬も疲れ果ててしまうであろう。これは遠征を戒めた
ことばでありまして、同時に、兵に当たっては、民心を失うことがあってはならぬ。特に
食糧と
原料の問題について
忘れてはならぬという
ことばでございます。
さらに、
長期戦の問題に触れまして、ゆえに兵は勝つことをとうとぶ。久しきをとうとばず。ゆえに兵を知るの将は、民の命をつかさどることを
忘れるな。これが
国家安危の
中心点である。そして
最後に重要な
ことばの
一つを抜粋さしていただきますと、「故に曰く、彼を知り己を知れば百戦して危からず。」まことに名言でございます。「彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆し。」まさに三十年前を思い、そして今日を思うならば、私は、
皆さまともどもに胸に銘記すべき
ことばであると思うのでございます。
かりにこれを大
東亜戦争の例に引いてみましても、
戦争の始まったとき、私はいまでも思い出しますが、
日本の鉄は、
アメリカのくず鉄の輸入を含めて、ようやく最高のピークが七百万トン、
自給力は三百万トン。その十二月の開戦の日に、
アメリカの鉄は六千八百万トンでありました。六千八百万トンと三百万トンの鉄の
戦い、
妥協点は香港が
精一ぱいであるということは、グラフに出るのでありまして、私は当時
経団連の
専務理事をしておりましたので、
総動員を覚悟いたしまして、直ちに
椎名商工次官のところへかけつけまして――当時
軍需省でありましたが、
経済総動員はもう出ましたか、私は駅頭できょう
戦争が勃発したと知って、もう万事休すですけれ
ども、できるだけのことをして、互いに力を合わせようではありませんかと言いましたら、私はいまでも記憶しておりますが、
椎名さんは――最近は少しかっぷくがよくおなりのようですけれ
ども、
水っぱなをたらされて、そしてあのそらとぼけたような顔をされまして、少しの興奮もされず、
帆足君、しっかりやろうなと言って、手を握ったりせずに、
水っぱなをハンカチでふきながら、事がここに至った以上、これは容易なことではない、しかし、軍から
一言の
あいさつもない、事ここに至った以上は、落ち着いて、そして毎日一、二回
連絡を保ちながら、できるだけのことをしようではないかというのが、
椎名さんの
あいさつでした。よく世の属僚はそういうときに興奮して涙を流し、そして互いに空虚な励ましの
ことばをかわすのが、この国のおおむねの習慣でありますけれ
ども、私はそのときの
椎名さんの
ことばを
忘れることができません。今日の
椎名さんの
外交政策に対しては、私は正面からいつも批判的です。いつも衝突しておりますが、そのときの
風景を
忘れることはできません。
やがてその後三年たって、
日本の鉄は二百万トンを切りました。
アメリカの鉄は
一徳トンをこえまして、
ルーズベルトの特命で九千八百万トンに
生産制限をしました。
昭和十九年八月のことです。
日本の鉄は二百万トン、
アメリカの鉄は一億トン、一億と二百万の
戦いです。サンフランシスコから
東京までの
距離を六千キロと仮定いたしましても、三次
方程式をかければ、大阪の
全滅は六カ月後、
東京の
全滅は八カ月後、十二カ月で
日本はほぼ消えてしまうであろうという計算が立ちます。当時
アメリカはB29の
大量生産に成功しつつあるということが伝えられておるのであります。私はこの三次
方程式というものを
海軍に提出いたしました。いまでも覚えておりますが、そのときの
海軍の
水交社には、「淡如水 熾仁親王」と書いてあったのを思い出します。まことに
海軍は
礼儀正しく、そうしてみな
背広を着て
出席されまして、きょうは民間の
専門家の
意見を聞くのであるから、
帆足さんはかねて
軍人をあまり好いていないと聞いているから、
自分たちは学者に会うのに
礼儀を尽くす必要があると思って
背広を着てきました、ひとつ国の運命を決定する重要なときであるから、
専門家として偽りのない
日本の情報の分析をあなたはあなたなりにしてください、こう言われまして、私は、一時間にわたって、その統計を示して、そうして
軍事の
限界はすでに終わった、
経済の
限界も終わった、残るのは
政治と
外交の問題ですという話をした。数日後に
陸軍に呼ばれまして、同じような説明を九段の
軍人会館でいたしました。
その数日後、突然私のうちは
憲兵隊の自動車に取り囲まれまして、朝の六時ごろですか、私は
戒厳令がしかれたのかと錯覚して、当時の
弁護士会長の
海野先生に書き置きして、
子供たちの末をたのみまして、
憲兵隊に連行されていきました。それから
爆撃を受け、やけどをし、一年間いわゆる人間の
条件の、
獄中の
生活が続きまして、その三つ離れた私の先の部屋に、あの大磯の
吉田茂老が、たしか三カ月ですか、四十日でしたか、あそこに入獄しておりましたのを、私はかいま見て知っております。一年の
獄中の
生活でしたけれ
ども、当時のことですから、
子供たちの行くえもわからず、夕方のたそがれどきになりますと、お母さんとかお父さんとかいって逃げまどう
子供の声が聞こえます。夜になりますと、夜ごとの
爆撃で地下道の中は硝煙で息もつけないような
風景の一年が続いたのでございます。
戦争が済みまして初めて焼け野原になった
東京の空を見たときは、ぼう然自失するような気持ちでありました。もちろん、当時
経団連は私を喜んで迎えてくれましたけれ
ども、それが動機になりまして、私は、平和を守ることが私
どものゼネレーションにとっていかに重要な仕事であるか、特に私は合理主義的な傾向がありまして、
子供のときに
福澤諭古
先生の四軒隣りが私の母のうちでありまして、そういう
関係がありまして、結局
財界をやめてそうして平和の一兵卒として
野党に入った、こういう次第でございます。
今後の
質問を理解していただきますために、ちょっと
質問の
前提としてこのことを申し上げまして、これから申し上げますことは、一瀉千里に実務的に申し上げますから、それぞれお答え願います。
総務長官から、私がただいままで申し上げました
前提について何か御
答弁があるといたしますならば――私は、民の語ることは長く、官の語ることは短くというこの
ことばは適切であろうと思っておりますが、私は民の代表としていささか
前提として長く語り過ぎましたけれ
ども、
大臣がもし何か
お話があるならば、一、二分間御
答弁を許してもけっこうでございます。