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参考人(
堀部次男君) 私は協同組合の責任者でありますが、看護
学校の副校長をやっております。なお、
集団求人につきまして当初から責任を持ってやっておりましたので、その間の事情をお話いたしたいと思います。いま申されました
葛谷市医師会会長並びに現石井
理事、太田副
会長は、それぞれ三十八年、三十九年まで
協会の
会員でございました。いま申された共産党云々というて記録を申し上げておるようでございますが、その記録があるその
あとずっと
協会の
会員でございましたし、まず冒頭に申し上げておきます。
阿久根理事長がいろいろ
看護婦の
集団求人について申されましたが、現在
看護婦の不足の問題につきましては、
相当世間で関心が強いようでございますが、
昭和三十五年当時は、政府もそのことにつきましてはそう力を入れておりません。非常に私たちは困りました。これはおわかりと思いますが、
看護婦不足がいかに人の生命に対し、健康に対して影響を及ぼしておるか、今日私たちの日常の診療にどのように不自由を感じておるかということをとも
どもに、
医師会員といたしまして、また、
協会員といたしまして、これを充足しまして完全な診療を行ないたいという熱情からこの
集団求人を始めたのであります。今日まで七百名以上の
生徒が集まりまして、これが第一線で十分活躍いたしております。こうしたことをずっと続けてまいりましたところ、私たちはこの三年間、ことに
あとの二年間というものはひどいアカ宣伝と共産党、また、
医師会の
決議を乱したものだというレッテルを張られまして非常な困難な道を歩んでまいりました。しかし、私たちは、私たちのやっていることが正しいという信念に燃えてやってきたのでございますが、いろいろ
妨害にあいまして、
学校も十月三十一日一ぱいで
認可を取り消すという結論にまで達したわけでございます。その間の事情を詳しく日にちを追って申し上げてみたいと思います。
まず、私たちは
集団求人をやりますにつきまして、
理事長が申しましたように、最低賃金制、それから退職金制度、奨学金制度というものを創設いたしました。この奨学金制度をつくりましたのは全国で初めてでございまして、厚生省よりも一年早いと私は思っております。そうした制度をつくりまして、他産業に大いに魅力があって、そちらに
看護婦となるべき人が引っ張られておる人を魅力ある制度にいたしまして、
看護婦を一人でも多く募集する
考えでこういう制度をつくってまいったのであります。ところが、その後、私たちの行動に対しまして、賃金が非常にばらばらだとか、いろいろな文句がつけられましたが、そういう
意味におきまして私たちは最低賃金制で
統一したのでございます。そういうことがありましたが、これに対しまして、現地において私たちが共産党だとかアカの
教育をしておるということが盛んに申されてきたのでございます。しかし、私たちはそれにも耐えまして、私たちは身をもって
教育をし、そうしてその中ででき上がってきた人がいかに行動するかということを目標といたしまして、着々と私たちは
日本女性として、また、りっぱな
看護婦としてこの世の中に生きていくことを願い、また、次の世代を背負うところのりっぱな女性であるように
教育をしてきたつもりであります。ところが、三十九年の五月でしたか、
県医師会のほうから
集団求人を一本化してほしい、でなければ入学を制限するということが最初からぱかっと言われてきたわけでございます。私たち
昭和三十五年から長い間苦労して未開の地を開拓して
看護婦を集めてまいりました。これは一口で言えば簡単でございますが、何にもないところにそういう道を開くということはたいへんなことでございましたが、どういうわけか、
医師会のほうでこういうことをおやりになるからやめろということを言われまして、それで私たちは頭にがつんときたのでございます。しかし、これまで何とかしてこの道を開き、そうしてとも
どもにりっぱな
看護婦の
求人をやり、そうして一人でも多くの
看護婦さんを集めたいという情熱から、いろいろ相談いたしましたが、十二月の二十五日には、県の三輪田
理事は、おまえたちはそんなに言うなら自分たちでかってに
学校をつくればいいじゃないかということの暴言を吐かれましたし、なおかつ同じ三十九年六月十日には、先ほど
服部会長が言われました「
愛知医報」に、
医師会で、来る
看護婦は全員入学の特典があるという特別な印刷を出されたわけでございます。こういうことは、裏を返しますと、ほかの者は入学させないというふうに私たちも
考えたのでございます。そうして六月の十五日には、他
団体は入学を制限するという通知を各
会員に流したのでございます。そうして、なおかつ十二月になりますと、現地で
市医師会の仙田平正という人が、
協会関係の者は入学が制限されるだろう。自分たちのところは全員入学が許可されるというような宣伝を文書をもって各
学校に流したわけでございます。そうして、なおかつその前の年には、
九州に萩原という
市医師会の事務員が参りましてアカの宣伝をしてまいったのでございます。これは私たち鹿児島の北部、それから熊本の職安でそのことをはっきり聞いてまいりました。そして十二月の二十五日には、原則として入学を許可しないという文書を中職安、
県労働部、それから県
教育委員会の指導部長、県
衛生部医務課長の名前を使いましてそういう文書を配布したのでございます。これは
理事長が先ほど申し上げましたように、
公文書偽造に近い文書を現地に流したのでございます。私たちはこの
看護婦問題をどうするかということで悩んでおりますときに、すでにこういう文書がどんどんと現地に流されて、私たちのいままでやってきた実績をつぶし、なおかつ
集団求人に対して水をさしてまいったのでございます。私たちはこういう姿を見まして、どうすべきかということを寄り寄り協議し、
会員ともはかったのでございますが、どうにもならない
状態になりましたので、何とかしてこの道だけは残したいということを
考えたのでございます。ところが、二月六日になりまして、県の
労働部から、
県医師会に対しまして、まことに遺憾であるという抗議文が出されてまいりました。越えて二月七日になりまして
日本福祉大学の
理事と正式に協議いたしまして、
学校を福祉大学の中につくっていただきたいということを申し上げて、その承諾を得まして、これから第一次の
学校設立に入ったのでございます。ところが、これも先ほど申し上げましたように、私たちが書類をつくって出しましたものがすぐ
取り消しになり、また書類を出して二時間ぐらいしますと、
実習病院を承諾された
病院から
実習病院は断わるということが出てきたのでございます。それは先ほどの憲法改悪反対に私たちの名前が連ねられておる、そしてそれがアカにつながるんだというビラをもちまして、これを各
実習病院あてに通報いたしまして、このことで各
病院の院長その他がおどされて
実習病院を引き受けないということが出てきたわけでございます。越えて三月五日に
阿久根理事長は県の
医師会の
服部会長と会いまして、この問題を話しました。県の
医師会は
妨害しないということを言ったのでございますが、どんどんとこの
妨害が続きまして、市内の南区では連日私
どものところに電話がかかりまして、おそいときは十一時、十一時半までかかりまして、おまえたちは
集団求人をやめろ、そうして
医師会のほうに入れという電話がかかったわけでございます。こういうことに対して私たちは証人を出すことにやぶさかではございません。ところが、どうしてもこれが
実習病院のほうがうまくいかないし、
認可のほうもうまくいきませんので悩んでおりましたときに、県
衛生部の高部前部長が仲に入りまして、ここに先ほど申し上げましたところのメモという形式でお互いが妥結したわけでございます。これは
前任者の高部さんともよくお話をしたのでございますが、今日まで
保険医協会は非常によくやった、そうして
集団求人並びにその定着補導については非常によくやった。しかし、
医師会の中にはそういう欠点が多かったが、今後はこのメモの形式で妥結したように、お互い有能な人たちが仲に入って、そうしてこういうりっぱな
求人というものをやっていただきたいということを私に話し、しかも、その
経過については、
資料としてメモ妥結の
公文書の裏につけておくということを話しながな、現在までその
資料はついてないそうでございます。そういうわけでメモの四項目がきまったわけでございますが、この四項目が、実行されなかったということは先ほど
理事長が申されたとおりでございまして、第一項目の平等に
生徒を
学校に入れるという点につきましては、私たちの中の
生徒十二名が非常に藤田学園という、これは私立の
看護婦学校よりも非常に遠いところから通わなくちゃならないという点で平等に入れられなかった。そうして第二項目の協議会はつくられたと言っているが、全然つくられないということは、三輪田
理事と四月二十二日にお話いたしましたときに、協議会を設けて、
協会からも人が入ってもらうということを
阿久根理事長同席のもとではっきりとそのことをお話されたわけでございますが、全然そういうことはなされておりません。にもかかわらず、四月の十六日と十九日で、すでに
医師会のほうからは一本化されたという文書が理地で流されたのでございます。もし私たちはほんとうに協議会が開かれて、お互い今後りっぱな
求人をやっていこうとするならば、お互いがいままで開拓した現地に対しまして両方が名前をつらねて、そうしてこういうことでございますというあいさつを出すのが私たち人としての道じゃないかと思うのでございますが、すでにこういうふうに一方的にすべての文書が出され、一方的にものごとが解釈されてきたわけでございます。なおかつ四月の十三日には私たちは
葛谷会長に会い、また、十七日にも会って、
教育の基本
方針と、また、
生徒をどういうふうにしていただくかというようなことをお話したわけでございますが、その節におきましても、夏休みごろになると二割ぐらい
生徒がやめるだろう、だから
学校のほうもちょうどいい
生徒数になるというようなこともお話になりましたし、また、補導
委員にも全然入れてもらえなかったわけでございます。ことに私たちがここで非常に残念に思いますことは、その当時定時制の
看護婦高校をつくりまして、そこから看護短大、あるいは現在不足しておりますところの養護訓導
補助、あるいは栄養士の免状を取らすまでの構想をもちまして福祉大学にお願いしたのでございますが、そういう構想が一ぺんに飛んでしまいました。と同時に、そこの福祉大学の副
理事長である石搏さんが
県医師会に参りましたときに、
保険医協会はアカだと、これがつくる
学校に対しては徹底的に
妨害してやるということを聞いて帰りまして、非常に憤慨しておったという事実がございます。そういうわけでこのメモが簡単に打ち破られたという点につきまして、私たちは非常な悩みと、それと同時に、不信感を持ったわけでございます。しかし、私たちは零細な開業医でございまして、大きなところには人は集まりますが、零細な開業医には人が集まらないという非常な悩みがありました。この問題を私たち零細な開業医が集まった
保険医協会の
会員は身をもって知っておるわけでございます。ここでよしんば
医師会と一本化いたしましても、はたして自分たちのところに
看護婦が来るかどうか、そうして自分たちの診療が完全にできるが、そうして自分たちの生活を守っていけるかという点については非常に不安を持っております。と同時に、過去におきましていろいろな
妨害があり、虚偽の文書が流され、しかも、なおかつ二割もやめるというようなことを言われましては、
会員としてどうしても納得ができないということにつきまして、私たちは私たちで
学校をつくろうということで、
昭和四十一年に
学校をつくることに
決定したわけでございます。その土地も自民党の市
会議員から安く土地を提供していただきまして、ここに
学校をつくろうとしたのでございますが、やはり今回も同じように
実習病院に対して非常な
妨害が出ております。十一月三十日に
実習病院としてお願いいたしました守山
病院の院長さんを呼び出しまして、これには
葛谷氏、荒川氏が立ち会いまして、この
病院に引き受けないようにということが言われております。また、国鉄の野坂院長は私は再三会ったわけでございますが、この人にもいろいろな電話がかかりまして、
実習は引き受けないようにということがはっきりと言われておるわけでございます。そうして私たちはこの問題に対して市
会議員にお願いいたしたのでございますが、市
会議員のほうでも非常にアカ攻撃がすごくて、私たちは非常に困っているということを言っております。ところが、四月二十二日、五月二十七日の
県医の
代議員会におきまして
会員の
質問から、両
会長は
協会の
学校設立については
妨害をしない、また、今後も
妨害をしない。ことに
葛谷会長は、もしそういう事実があったらここで対決しようということまではっきり言われているわけでございます。こういう事情がありましたので、私たちどうにもならないというところから、この問題を
生徒にはっきりと打ちあけましたところ、
生徒といたしましても自分の将来に関することでございますので、私たちのできることならどんなことでもやろうということで、四月の二十日と五月二十七日の街頭行進になったわけでございます。この行進を、来た幼い子供がこういうことに立ち上がるということは一体どういうことだ、
協会のそこに実態があるような気がするというようなことが言われておりますが、そうではなくて、その前にどうして
妨害があったか、こういう事実を抜きにして、
生徒が行動に立ち上がったということだけを指弾するということは、私は当たらないというふうに
考えるわけでございます。
越えて四月二十五日と五月十二日、五月十八日の第一次、二次、三次案が県
衛生部のごあっせんによりまして出たわけでございます。その
条件も私たちは十分のんだのでございますが、徹底的な無
条件全面降伏を要求したような案でございまして、最後にはイデオロギーの違ったものはこれを受け入れることができないというふうな、前からつながっておりますところのアカ宣伝と同じようなことが出てきたわけでございます。そういうことがありましたので、私たちはこの問題をこの社労にお願いいたしまして、大橋議員にこの議会で取り上げていただくことができました。そういうことがございまして、六月の六日に大学
病院の
実習病院として引き受けられたことをきっかけにいたしまして
認可がおりたのでございます。ところが、
認可のおりたということがテレビ並びに新聞で報道されますと、とたんにまた
妨害が始まりました。五月十一日に
認可がおりましたとたんに、水谷不二夫という男が来まして、なんで
笠寺病院のような設備の不完全なところを
実習病院として
認可をするのだというような抗議を
衛生部に申し入れております。そうしたことがありました。六月二十日に青山教授のところに行きましたところが、青山教授は
医師会からのいろいろな
妨害があるということを言っております。
越えて六月十七日に、
県医師会の中で三輪田氏、
岡崎七郎氏が清水教授のところへ行き、それから
葛谷氏が加納教援のところへというようなことが話されております。それから八月の五日に
県医師会の中で、
保険医協会はこういうふうになってきたので、県では
実習病院を求めるだろうから、これを手分けして求めないようにしようじゃないかということが話されております。なおかつ自民党の政調会には、私たちのことにつきましてアカの宣伝、なおかつ私たちのところにおりますところの専任教師は二人ともアカだ、そういうふうなことを言っているというようなことを言っております。この専任教師の一人は
市医師会の専任教師として三年間教べんをとっておった先生でございます。そういうようなことがございまして、それから九月九日には桑原県知事に対しまして、早く
認可を取り消せということが堂々と申し込まれております。そうして九月の十四日には
日医の
会長会議並びに
日医連の執行
委員の
会議におきまして、
市医師会の
葛谷会長は私たちの
協会のことにつきまして非常な誤った発言をしております。私たちが特殊な
教育を
生徒に対してやっているとか、私たちが特に共産党と
関係があるとか、あるいは、また、デモをやって
葛谷氏の私邸の前に押しかけたとか、また、いま言った専任教師がアカである、そういうような徹底した
妨害が私たちに加えられてきたのでございます。これがこの問題をこじらすところの一つの大きなポイントでございまして、この
妨害さへなければ私たちの
看護婦学校も非常に明るい
教育をなし、りっぱな
生徒を
教育することができるわけでございます。なおかつ私たちが
市医師会の
決議に従わない、あるいは
市医師会の看護
学校の拡充に対して協力していないように言っておりますが、私たちは全然そういうわけでございません。集めた
生徒も
協会の
学校でなくて、
医師会の
学校に入れまして、非常にうまくいっておったのでございます。なおかつ現在におきましても第一准看、第二准看の
学校の土地購入につきましては、私たち毎年三千円ずつ出しまして、おそらくこれ七年間出すのだろうと思いますが、そういう協力もいたしております。また、第二准看の
学校が増設されることにつきましても、私たちの
協会の役員がこのことにつきまして非常に安くこれを建築することを請負師に話しましてやらせた実情もございます。なお、第二准看ができる前におきましては、
保険医協会で
看護婦学校をやったらどうかということが市
会議員のほうから話がありましたときも、これは私たちがやるべき問題でなくて、
医師会でやるべき問題だということで話しました。そして
医師会の
学校として持っていっていただけるようにやったわけでございます。そういうわけで、私たちも
市医師会の代議員をしておりまして、この
看護婦を拡充強化するためには、お互いに金をたくさん出し合ってりっぱな
学校をつくろうではないかというわけで、出資も一人について一万円は出すようなことを私も
代議員会で提案したこともございまして、すべてこういうふうに協力していたのでございますが、
昭和三十九年以後、こういうことにつきまして先ほどから私が申し述べておりますようないろいろの問題が起きまして、思想が悪いとか、あるいはアカの
教育をしているとか、あるいは
県医師会の
代議員会の
決議に従わないというようなことを申しておるわけでございます。もし私たちが
県医師会の
代議員会の
決議に従っておらないというようなことがあるといけないと思いまして、その
県医師会の
代議員会の記録を見せてほしいということを
県医師会に申し入れたのでございますが、これに対しましては三週間以上
経過いたしました今日に至りましても、弁護士の
意見を聞いて、そして
理事会でもう一ぺんこれをはかり、その結果でなければ見せないというようなことを言われまして、今日に至っても
代議員会の議事録は見せていただけないわけでございます。いまここで聞きますと、その議事録がここで発表されておるようでございますが、そういうふうに、ことごとく私たちに対しては、どういうわけかわかりませんが、申し述べたようなことが起こりまして、徹底した
妨害が加えられておるわけでございます。しかし、私たちは、二十四年以来、ほんとうに誠意をもって行動いたし、批判すべきものは批判し、そして自由な発言をし、そして一つのはっきりと私たちの良心に従った行動をしてきたつもりでございます。なおかつ私の
考えますことは、この世の中には誠意と感謝があってこそはじめて美しい社会ができるんだ、建設ができるんだと、そういうふうな
意味におきまして、やはり
看護婦もそういうふうな
教育をいたしまして、一人のりっぱな
看護婦であり、女性であるという
教育をしてきたつもりでございまして、特殊な変な
教育をしてきたことはございません。いま現在、小バトのような百二十名の
生徒が非常に悩んでおります。こういう悩みを
生徒に持たせるということは非常に残念でございますが、どうかこういう機会におきましてこの事情を御推察いただきまして、りっぱな解決への道が開かれましたならばほんとうにうれしいことだというふうに
考えております。私は自主と宗教心が人間の心の中におるならば決してこういう問題が起きないのだということを自信を持っておりますと同時に、また、私たち
協会のこれからの進むべき一つの指針といたしたいというふうに
考えております。
以上、私の
考えておりますことを述べさせていただきました。ありがとうございました。