○門司小
委員 初めに、
資料等を出していただきたいと思いますが、私は、あらかじめこの
委員会でわれわれが考えなければならないことは、交通行政に対するいまの
状態でよろしいかどうかという基本的な問題です。ばらばらな形で、この
資料を見ても、何が何だか一向わからない。一体どうしていいのか見当がつかない。どこで締めくくりをしていいのか、どうすれば
交通事故がなくなるかというようなことが、ちっともわかっておらぬ。こういうことで一体よろしいかどうか。
したがって、
一つの項目として、行政機構の改革についての討議をしばらくやってみたい。これが確立されなければ、おそらく日本の
交通事故はなくならないだろう。
その次に問題になりますのは、文部省からいま出ております
資料などは、これはもう現在のいわゆるちまたの声が現実にあらわれてきた問題だと思う。こそく的に何とかしょうという範囲を出ない。これから社会に最も大きな
一つの課題として投げ出される交通行政に対して、教育行政が事実上何らの関心を持っていないと言ってもいいくらいの問題だと私は思う。
交通行政は、単に教育だけの、道の渡り方その他で片づく問題ではない。交通の安全、いわける生命の安全でありまするから、これに対する基本的の教育がどこの場で行なわれておるかということであります。小中学校あたりの教育の
一つの正科くらいに入れて、交通安全についてはかくあるべきだというようなことを教える。あるいは今日の技術をざっと調べてまいりますと、いろいろな免許の基準がある。しかし、その免許の基準に対する年齢その他から考えてみて、いままで高等学校、あるいは場合によって大学でもよろしいかと私は思うが、学校教育の中でどれだけこういうものが教育されているか、何にも教育されていない。ごくわずかの時間とわずかの経験で免許証をとっている。運転自身についての経験がない。だから、さっきの質問のように、運転手が
自動車の構造
一つ知っていない。
私はゆうべも名古屋で車に乗ったのでありますが、その運転手がこう言っておった。あるドライバーが、車をとめてくれと言うから車をとめいら、何と言うかと思ったら、タイヤを取りかえてもらいたいと言う。タイヤの取りかえ方がわからない。これは女性だったそうでございますが、こういうことでどうして交通の安全ができますか。
私は、交通の安全を保とうとするならば、教育の基本的問題に対する科学的の、機械的の知能を子供のときから教え込んでいく。こうしておかなければ、私は、日本の現状ではとうてい困難だと思う。外国では、ほとんど子供から御老人に至るまで、みな自動率が運転できるような仕組みになっている。しかし、日本の場合は、学校教育において何らそういうことが施されていない。こういう基礎知識をどこで
国民に与えるか。基礎知識が欠けている。そうしてとってつけたような、きわめてわずかな時間の運転の練習と機械の構造に対する知識だけで、
事故が起こらないとは言えない。
事故が起こるようにできている。
事故を基本的になくそうとするならば、こういう問題が考えられなければならぬ。
これらに対して、文部省のこれで見ても、何にも書いてない。私は、あまりにも場当たり的の、末梢的のことでこの一年に一万人あるいは二万人になんなんとするようなものを出して、このまま推移すれば、五年か十年たたない
うちに、日本の国の何分の一かは、
自動車事故によりかたわにならなければならぬということが考えられるでしょう。それほどおそろしい問題である。これに対する文部省の教育行政に対するこの紙を見てごらんなさい。何が書いてある。当然こういう問題はもう少し真剣に考える必要がありはしないか。
その次に考えられるのは、
道路構造の改善、これには
踏切を含むのでありますが、これらについて、
先ほどから指摘されておりますように、一体やるのかやらぬのか、やれるのか、どうするのか。
踏切事故一つを見てまいりましても、
先ほどの
説明を聞いていますのと、遮断機が非常にたくさんできたように報告書には書いてある。しかし、実際は直前横断が
事故の七〇%を占めておる。番人がおって、遮断機があって、
警報機があったら、こういうことはあまりないんじゃないか。この原因は一体どこにあるのか。こういう問題をやはりほんとうに真剣にやる必要がありはしないか。
それからもう
一つ、私が最も遺憾に考えておりますことは、
交通事故に対する政府の責任であります。これはあらためて警察から
資料を出してもらいたいと思いますが、
道路構造によって必然的に起こったと考えられる
事故に対する
道路管理者の責任は、一体どうなっているか。何でもかでも
事故を起こせば運転手が悪いのだ、
道路が十分に
歩行者が歩けないようなどろだらけの
道路になっておって、そうしてそういう場合に
事故が起こる、それでも
運転者の過失である、あるいは
歩行者の過失である。もう少し
事故に対しては、国も個人も、地方の行政を担当しておるものも、一体となってこれに当たる覚悟が必要じゃないか。
道路管理者に対するそういう責任は、一体どれだけこの
法律の中にありますか。現在の中でこれが行なわれておるか。
歩道のないところは、車道との区別はつかないわけです。今日の
道路構造を見てごらんなさい。車の通るところだけ舗装がしてあって、
あと両側一メートルずつくらい草がぼうぼうはえておって、
道路がどろで一ぱいになっておる。自転車が通ろうと思っても通れない。人もここを歩けない。この
道路構造の上で
事故が起こったら、一体だれの責任なのか。政府の役人は、自分たちのやったことだけが正しいのだ、
あと起こったものはすべて
国民の責任だというような思い上がったものの考え方はやめてもらいたい。
道路構造の欠陥からくる
交通事故に対しては、
道路を管理している管理者の責任としてこれを処分する、始末をしていくという責任体制をぜひ確立してもらいたい。そうしなければ、いつまでたったって
道路、
踏切なんというものはよくなりはしない。
踏切には当然
踏切に対する安全装置をしなければならぬことは、
国鉄の任務であることはだれでもわかっている。その任務自身を、交通量が少ないからあるいはどうだからということで怠って、そうして
事故が起これば、
事故を起こした者がすべての責任をしょわなければならない。物質だけの責任ならまだいい。命を失わなければならぬ、身体の障害を起こさなければならぬ、こういう不幸な事実に対して、責任体制がほんとうに確立されておるかどうかということ、
道路構造の問題として、ひとつほんとうにこれらの問題を考えることが必要ではないか。したがって、ここで私は
資料を
要求いたしておきますが、この
交通事故に対する、
道路管理者の責任において処理されたものがどのくらいあるのか。
歩行者、
自動車の運転手から言わしむれば、必ずそういう意見があるはずです。そういうものには一切ほおかぶりをしている。こういうことで
交通事故がなくなるとは考えられない。
それから、その次にも
一つ二つ、
資料その他を
要求しておきたいと思います。これは車体の構造に対する
一つの考え方であります。通産省からも
資料が出ておりますし、また科学技術庁からも
資料が出ておる。しかし、これについて、いままでの
事故と対応してどれだけ一体改善が行なわれてきたのか。この問題は、私はかなり大きな問題だろうと考える。まあ通産省の行き方として、当然であるかもしれないが、たとえはテレビを見ておっても、
一つの新しい車ができれば、千二百cc百二十キロ走る、百三十キロ走ると、びゅっと走らした映像がちゃんと出てくるでしょう。あれは許されないはずなんです。日本の
道路で、どこに百キロ以上飛ばすことのできる
道路があるかということです。しかし、テレビの画面にはぴゅっと出てくる。私は、あの速度が百三十であるかあるいは百二十であるかということはわからぬ。しかし、解説はそう言っている。これで私はよろしいかと考える。しかし、現実に国内においては使うことのできないオーバーしたものが、公然と宣伝をされ、公然とこれが世の中を歩いておる。若い諸君が車に乗れば、おれの車は百三十は出るんだということになっておれば、やはり人さえいなければ一ぺん出してみたいという気持ちが起こるのは心理だと思う。こういう問題に対して一体どういうふうにお考えになっておるか。私はこの車体構造についての話をまだ少ししたいのでありますが、一体通産省のこれに対する指導はどういうことになっているのか。この
資料だけではわかりません。ひとつあらためて構造上の
事故防止に対する考え方、あるいはいま行なおうとされているものの
資料があったら、出しておいてもらいたい。私は、いろいろこまかい問題を
一つ一つここで申し上げるとかなり長くなろうかと思いますので、題目だけを申し上げてきょうは終わっておきますが、いずれ
あとの
委員会等でかなりこまかい問題についてのお伺いをしたいと思います。
車に対する安全装置その他が一体どうなっておるかということ、それからその次に問題になるのは、主として取り締まり
関係であろうかと思いますが、人為的の
事故防止に対して一体どういうふうにこれを持っていこうとしておるのか。いま申し上げておりまするような、いろいろな社会的のあるいは行政上の
事故があろうかと思う。しかし、そのほかに運転手の養成、あるいは運転手に対しまするいろいろな教育、あるいは営業上からくる運転手の心理に及ぼす影響というような、人為的に起こってくる
交通事故に対して、一体どういう処置がとられようとしておるか。いま起こっておりまする問題は、主としてこの人為的の
事故に対する取り締まりとこれに対する対処というようなことが考えられておる。いわゆる
事故を起こす者が悪いんだというものの見方においてすべての対策を立てようとするから、基本的の対策が全部なくなってしまっておる。こういう問題について、もう少し掘り下げた議論と同時に、掘り下げた検討が行なわるべきではないか。警察の立場からすれば、警察の
一つの職務として犯罪を
防止するということで、運転手自身がどうもいいことをしていないらしいというものの考え方でやろうとする。あるいは運転手のほうも――警察の取り締まりが私は不公正とは申し上げませんが、不公平な面があると思う。同じように運行しておって、一方は取り締まられる、一方はのがれるといえば、おまえさんが運が悪かったんだということになってしまう。これではいつまでたったって
事故はなくなりはしない。ここまで警察が入るわけには私はいかないとも思いますけれ
ども、個々の営業車と
運行管理者との間にどういう
実態があるのかということ。たとえば三百六十なら三百六十にきめられておる、速度は四十五で走れる、この中で水揚げがどれだけできるかということが、精密に
調査されておるかどうか。こういう問題があるし、また
先ほど申し上げておりまするように、機械に対する知識のきわめて少ない人が免許証を短時日の間にとって、自己の持っておる車をそれによって運転するという場合もたびたびあるのである。これらの人為的の
事故についての
調査と検討がどこまで行なわれておるのかというようなことを、この際やはり十分検討する必要がありはしないか。
その次に立てられてまいりますのは、当然ここから起こってくる賠償あるいは
保険制度の強化、これらの交通の犠牲になった人たちに対しまする国の責任あるいは自治体その他の責任においての始末をどうしていくかということ、これはすでに
事故の起こった
あと始末である。いま問題になっておるのは、ここに非常に大きな重点が置かれておるような気がする。これも非常に大事なことであることに間違いない。しかし、起こったからといってここに重点を置いてものを考える前に、まず起こらないように、
先ほどから前段で幾つか申し上げましたようなことを
一つ一つやはりお互いが真剣に討議する必要がありはしないか、こういうことが考えられる。
さらに問題としては、やはり現在のこれらの取り締まりに対する
一つの交通裁判の機能の問題がもう少し
整備されて、そうしてほんとうに取り締まりからくる
運転者の自覚を促すようなことはできないだろうかということであります。この問題については、私は全部人為的な
事故と同じような関連を持つものだろうとは思いますけれ
ども、個人個人についてはおのおのの性格がある。よく調べてみれば、
警察庁のほうがよく知っていると思うのだけれ
ども、追突の事件を起こす
運転者はたびたび追突の事件を起こす。横からぶつけるくせのある
運転者もある。
運転者別に、
事故別に調べてごらんなさい。必ずそういう統計が出てくるはずである。これらの諸君に対して一体どういう教育と方法を行なっておるか。私は、できれば
運転者個々のそういう人体からくるいろいろなくせ、あるいはその人の持っている、何と言いますか考え方等からくる問題、あるいは視力の問題、耳の聴力の問題というようなものも十分
検査し、精査して、そうして本人にそれらのカードを与えて、お前はこういうくせがあるのだ、お前の目はこういうふうに見えるのだ、お前の耳はこういうふうにしか聞こえておらないのだ、一応
試験には合格するが、しかし必ずしも耳はよくないのだぞというカードみたいなものを、何も公にする必要はございませんので、本人が十分それを知り得るような方法はできないものだろうか、そうして本人自身が自分のくせを直し、自分の足らざるところを自分の注意力によって補っていくというような方法はできないものだろうか、こういうことをずっと考えてまいりますと、いま議論されておりまするいろいろな問題について、最後の問題として、また一番先に戻るのでございますが、いまの交通行政の機構の中ではとうてい問題の処理はつかないのだ。いまここでお聞きをしておりますように、おのおのばらばらの意見でおって、それを総合してみて、そうして、それで全部
交通事故がなくなるという確信が私はない。片方は三カ年
計画でやろう、片方は五カ年
計画でやろう、あるいは片方はこういうことでやっておりますというようなことで
事故がなくなるはずがないのであります。少なくも、これを一本にまとめようとするなら、これは皆さんにお聞きしてもわからぬのですが、小
委員長にひとつ心得ておいてもらいたいのだが、交通に対する
一つの役所、これを全部統括して、私は交通省ができれば交通省でもよろしいが、そういう基本的のものをこしらえてやらなければ、
先ほどからお話しになりますように、日本の
道路、いまの
自動車の数と交通産業の発展の状況等と見合って
交通事故がやや減るだろうと考えられる時期というのは私
どもには見当がつかない。そうすれば、かなり半永久的にこういう
交通事故の問題が起こるということを考えないわけにはいかない。そうすると、国の
一つの大きな施策として当然私は人命に関する――交通戦争なんというばかばかしいことばが出てきて、日清戦争の戦死者より、日露戦争の戦死者より多いとか、五年か十年たつ
うちに、四分の一以上の
国民は全部
交通事故にひっかかって片輪になるだろうというようなことが予測されておる時代に、生命の安全を確保するという最も基本的な問題である限りにおいては、やはり政府がこれを考える必要がありはしないか、できればさっき申し上げましたような、いまの
総理府の中にありますような行き方でなくて、そうしてもう少し権力の強い総合的な交通行政に対する処置をとることが必要ではないかと私は考えておりますが、その点等についてはひとつ
あとでまた御
相談をしたいと思います。
そこで、
委員長の御意向もございますので、あまり長くやっておって
あとでおこられると、これもあまりいいことにはなりませんので、ごく簡単に以上申し上げましたような幾つかの、たとえばこの行政機構の改革に関する問題であるとか、あるいは交通安全の教育の徹底問題であるとか、
道路構造の改善、これには踏み切りその他を含むことは当然であります。それから車体構造に対する問題、人為的な
事故防止の問題であるとか、外傷
保険制度の充実の強化であるとか、あるいはこれらに対する交通裁判の問題であるとかというような幾つか項目に分けて、できればほんとうに真剣に
一つ一つ審議をしていくというような形が
委員会でとられるならば、ひとつそういう方法をとってもらいたい。
先ほど秋山君からお話がございましたように、やはり
一つ一つの問題をほんとうに掘り下げて考えて、そうしてそれが総合的にまとめられるときでなければ私はこの問題は片づかないと思う。だからそういう処置をひとつ
委員長におはからいをお願いをしておきまして、私のきょうの考え方を一応申し述べて終わりにしたいと思います。
委員長はぜひそういうことをひとつ取り計らってもらいたいと思います。