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稲葉誠一君 地代家賃のこれは、あとでいろいろむずかしい議論というか、
現実に形成権だという理論を貫けないから、貫くと、いろいろな不均衡というかあるいは混乱というか問題が起きてくる。だからというので、今度それは変えようということになってきたのでしょう。そうじゃないですか。形成権ということが
一つの本質だ、それを今度具体的に適用の中で変えていこうというわけでしょう。形成権だということを変えようという意味じゃないですよ。この条文の適用というものを変えていこうというわけでしょう。それは、形成権説では意思表示が到達したらこそで適正額まで上がるんだということになってくると、
借地人のほうでは何が適正額かということはわからないわけですから、払わないわけです。供託といっても、自分の思っていたとおり供託したら、その供託が足らなかったとか、あるいは提供がなかったとか、何とかかんとか言って債務不履行で契約を解除されるということが
現実に起きてくる。それを防ごうというので今度
改正が起きているわけですね。だから、一方的に形成権説というものをとっているところに
問題点があるのじゃないかという議論がどうもひっかかるわけです。なるほど、
学説でも判例でも、全部形成権説でいっているわけです。だけれ
ども、元来は、
当事者間の契約なわけです、地代というものは。
当事者閥の契約できまっている。それが、いきなり継続的な
債権関係になってきたら、とたんに形成権になってくる、一方的な意思表示によって上がってしまうんだということ、どうもそこのところが、ぼくの勉強が足らないんでしょうか、継続的な契約
関係というものが本質的なものがよくわからんからかもしれませんけれ
ども、どうも納得できないんです。どうもそこのところがはっきりしないわけです。地代なら地代がやはり契約によって成立するんだということでどうしていけないわけですか。それが本筋じゃないですか。たとえば公定価格なら公定価格があるときに、そこまで意思表示があったならば、公定価格までは当然承諾するという黙示の意思表示があるんだから、そこまでは契約が成立するんだという
一つのフィクションのような
考え方でならばわかるんです。適正額なら適正額というところまではそれを承諾するという黙示の意思表示があるんだ、だからそこで契約が成立するというんなら、ぼくはまた話がわかるような気もするんですけれ
どもね。一体、契約というものがばっとなくなって、いきなり形成権になって、一方的な意思表示で適正価格できまっちゃうんだというのは、どうもよくわからない。学者はその点は疑わないし、判例でも疑わないのだけれ
ども、どうもぼくは不思議でしょうがない。本来は契約なんでしょう、地代をきめるということは、
当事者間の。それがどうして、継続的な契約
関係に入っていって、途中で一方的な意思表示によってきまっちゃうんですかね。そこでまた契約があるんだ、黙示にしろ何にしろ、そこで意思表示があって、適正額についての契約があるんだという
考え方じゃないでしょう。そこのところがどうもはっきりしないんです。そういう
考え方もあるようですね。適正額については、あらためてそこで意思表示があって、黙示にしろ、あって、そこで契約が成立するんだというフィクションみたいなものがあるでしょう、
考え方が。どうもそこのところがぼくはよくわからないわけです。どうして途中から形成権になっちゃうのですかね。