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参考人(
根本誠君) 私は
日本人であることを幸福に思います。
皆様そう申し上げるとお笑いになるかもしれません。そうじゃない。私は皆さんと同じように
日本人であり、
日本の
国民の一人である。したがって、
祝日法案のような問題に対しまして私は人一倍に関心を持っておるものであります。残念なことには、私は弁士にお立ちになりました諸先生と
学問の
方向が違いまして、
中国史を
専門にしております。そういう点で、あるいは
皆様に十分御満足いただけるかどうかを危ぶみます。ただし、別な角度からまた別な結論が出るのではないかとも思います。
このたび
政府において
法案が提出され、それが
強行審議に入り、そしてここにいろいろな問題が起こっておる。これは私は
国民の一人として非常に遺憾に思います。
祝日というようなものは、
国民全体が喜んでそれを受け入れる、こういうことでなければならぬと思います。私は前置きのようなことを盛んに言うようでありますが、そうではない。やはりこういう大事な問題、こういう時間をずっとかけてきたもの、ある
一つの
法案、それが一時的であるというようなものでなく、恒久的なものを制定するというような場合には、よほど
議会あるいは
政府、そういう
方々が慎重な態度をとるべきであろうと、こう思うのであります。
普通の
考えでありますると、
祝日が一日ふえる、こういうことによりまして、いや、これは休みが
一つふえたと喜ぶかもしれません。レジャーを楽しむ現在の
人たちは、たぶんそういうところにいこうと思うのであります。しかし、
議会というようなものは、いろいろな政党があり、政党の性格上からいろいろな問題が起こり、是非の論が起こってくることは当然であります。いや、
議会の方だけでなく、
一般の
人々も
考えるかもしれません。
祝日が一日ふえる。けれども、それはホワイトカラーの連中の喜びである。日雇いの
人たちは、一日休みがふえればそれだけ
自分たちは給料をもらうことができぬのだ、そういうようなことを
考えて、
祝日のふえることを喜ばない方もあるのです。問題は、
一つの問題がいろいろと解釈される、これはやむを得ないことであります。ただし、大事なことは、
一つの問題がいろいろと解釈されながら、いろいろな角度で取り扱われながら、
話し合いの場において
話し合いながら、最後にめでたしと、こういって
国民が受け入れてくれるような、そういうものであってほしい。私は
国民の一人としてそいつを
皆様に訴える次第であります。
なぜこういうふうに問題がこじれたか、こう申しますというと、
神武紀元節を
政府がお出しになりました。そうして、それに
反対する
方々は、いや、これは
明治政府が制定したものであり、悪い印象をたくさんわれわれに呼び返すと、こういう点を非常に懸念されたのだと思うのであります。もう
一つの理由は、
神武紀元節についていろいろな
学問上の上から証拠が不十分である。いわゆる実証的な
根拠が薄いと、これは私もそういうふうに感ずる一人であります。
神武天皇実在か
実在でないかということも問題であるが、と同時に、二月の十一日にきめたということも問題である、しかし、
神武天皇の
実在というようなことは
伝説である。
伝説を尊重すべきであると先ほどの
お話もあったようですが、そういう点では
神武天皇を呼ばずして、そうして二月十一日なら十一日と、こういうふうにいってもいいんではないか。しかし、その二月十一日というものが換算法によったり、いろいろなテクニックにおいてそごがある。これは
歴史家
一般が認めるところ。したがって、私としましては、
祝日というものはわれわれが喜ぶべきものであり、設けてもらいたいという
考えも持っておりまするが、
神武紀元節そのものを出してくるということについては私もどうも納得できない。科学的のものがないではないか。これは
学者あるいはいろいろな知識人、そういう方によって検討されて、もう一度審議のし直しをすべきではないか。急ぐべきではないと、こう思うのであります。
私は
中国史でありますから、
日本の国が民族
国家なら民族
国家、
国家の形態をとったという時期を調べてみました。先ほど直木先生の
お話があったように、
推古朝あたりから大体
国家形態をとってきている。そこらあたりからさかのぼりまして、
神武天皇ではなしに十代、先ほども十代と出ましたが、十代目あたりの
崇神天皇、この方についての
古事記あるいは
日本書紀に書かれているものを見ますというと、いろいろな、完全なものとはいえません、まだ不安な、実証しかねるところもありますけれどもが、そこらあたりからですというと、
日本の
最初の
国家が始まったと、こう言えるように思われます。そうして、
崇神天皇についてのいろいろな
説話、
古事記、
日本書紀、そういうものに露かれているのを見ますというと、
中国の最も理想的な王、周の文王というようなものを頭に描きながらわが国の
崇神天皇について書かれている。こういうようなことが考証
学者によってわかっているのであります。
神武天皇については、やはり
古事記、
日本書紀に書かれておりますけれどもが、どうもそこら辺がはっきりしないばかりでなしに、
中国の
歴史と比較してみますというと、かえって、秦の始皇帝について頭に描きながらモディファイしておる。そういうような
伝説の相違がある。で、
神武天皇については、
日本書紀のほうによりますと、ハックニシラスと番かれている。ハックニシラスというのは
最初の
支配者である。そういうふうに書かれておるのでありますが、その文字の当て方が、先ほど申しましたように、秦の始皇のことを
考えながら書かれているように思われる。秦の始皇帝は暴政をしいた、
中国の専制
国家の
最初の
支配者でありますが、暴政をしいたタイラントであるということが
一般に言われております。
神武天皇の東征であるとか、勇武な方だとか、そういうようなものを
考え、やはりこれはよい
意味にとってのことに相違ないが、
神武というような
名前をおつけになったところを見ますと、武勇にすぐれて
最初に国を立てた方として何か相共通するところがあってのように思われます。その名は
古事記にはなくて、
日本書紀のほうに、「始馭国
天皇」と、さきの秦の始皇のようなものをとってきてモディファイしているかに思われるのです。ところが、十代目の
崇神天皇になりますと、
日本の
国家がどうもそこら辺から始まったであろうという、いろいろな考古学的あるいは民族学的、そして
伝説に対する
歴史的な資料がそろってきて、
日本国家が始まったとするならばここらであると言えるのです。そうして十代目の
崇神天皇あたりを
考えますと、この
崇神天皇も
神武天皇と同じようにハックニシラスと、こう書かれております。が、その文字の当て方が、「初所知国
天皇」として、
中国の最も古い王朝の
一つであり、その
最初の理想の大王であるところの文王を
考えながら書かれているということが
考えられるのです。文字の当て方が非常に文化的になっている。そうしてこのお
名前、ハックニシラスというものが
国民から
天皇に差し上げたということになっておるのであります。
自分がつけたのではなしに、
国民に親しまれ、敬われて捧げられた。そうしてこの二つのハックニシラスについてですが、元来、
古代史というものは古い
時代に行けば行くほどいろいろな創作技術を必要とすることが
一般ですから、
神武天皇についてハックニシラスであり、
崇神天皇についてハックニシラスである。同じようなハックニシラスとその文字の違いを
考えますと、あとのハックニシラスのほうが古いように
考えられ、そのほうが史実的にほんものだと思われるのです。それで
神武天皇のほうの先に書かれているハックニシラスは新しく創作されたものである。したがって、私は
神武紀元節というものをまともに出してくるということにはいろいろな点で
学問的に問題があると思うのです。
崇神天皇につきましては卒年がわかっておりますし、いろいろな操作をしますといりと、
即位の年あたりも推定が出てくるのでありまして、それがやはり
太陽暦に換算しますというと、二月十五日ころになる。したがって、二月十一日という従来までの
神武紀元節に近いものが出てくると思います。あるいは
崇神天皇の二月十五日
即位ということがまだほんとうに確定はし得ない、ある一部の
学者によってそういう想定がなされました。そういう点で、中をとって十三日くらいにするというようなことも
考えられないではない。私は全面的にこれを
反対するというようなものではない。ただし、
神武紀元二月十一日ということをはっきりとうたい出すということは学岡上ぐあいが悪いではないか。ことに現在までの
国民のレベルは、
明治時代のレベルとは違ってもう啓蒙の時期を過ぎております。あまりにもおかしな問題をお出しになるということは私も懸念せざるを得ないのであります。どうかひとつ、
国民が全部こぞって再びながらこの
祝日が制定されることを願うものであります。