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1966-06-23 第51回国会 参議院 文教委員会 第24号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十一年六月二十三日(木曜日)    午前十時二十七分開会     ―――――――――――――   出席者は左のとおり。     委員長         二木 謙吾君     理 事                 北畠 教真君                 久保 勘一君                 小林  武君                 鈴木  力君     委 員                 楠  正俊君                 近藤 鶴代君                 玉置 和郎君                 内藤誉三郎君                 中上川アキ君                 中村喜四郎君                 山下 春江君                 吉江 勝保君                 秋山 長造君                 小野  明君                 亀田 得治君                 瀬谷 英行君                 柏原 ヤス君                 辻  武寿君                 林   塩君    国務大臣        国 務 大 臣  安井  謙君    政府委員        総理府総務副長        官        細田 吉藏君        内閣官房内閣審        議室長内閣総        理大臣官房審議        室長       高柳 忠夫君        文部政務次官   中野 文門君        文部大臣官房長  赤石 清悦君        文部省初等中等        教育局長     齋藤  正君        文部省社会教育        局長       宮地  茂君        文部省体育局長  西田  剛君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君    説明員        文部省初等中等        教育局初等教育        課教科調査官   山口 康助君    参考人        作     家  末富 東作君        日本キリスト教        団・職域伝道委        員会主事     戸村 政博君        大阪市立大学助        教授       直木孝次郎君        早稲田大学教授  根本  誠君        歴史教育研究会        主幹       平田 俊春君     ―――――――――――――   本日の会議に付した案件 ○参考人出席要求に関する件 ○国民祝日に関する法律の一部を改正する法律  案(内閣提出衆議院送付)     ―――――――――――――
  2. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  参考人出席要求に関する件についておはかりをいたします。  国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案審査のため、本日、参考人として、作家末富東作君、日本キリスト教団職域伝道委員会主事戸村政博君、大阪市立大学助教授直木孝次郎君、早稲田大学教授根本誠君、歴史教育研究会主幹平田俊春君の出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 御異議ないと認め、さよう決定をいたします。  速記をとめて。   〔速記中止
  4. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 速記を始めて。     ―――――――――――――
  5. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題といたします。  なお、先ほどの御決定に基づき、参考人として、作家末富東作君、日本キリスト教団職域伝道委員会主事戸村政博君、大阪市立大学助教授直木孝次郎君、早稲田大学教授根本誠君、歴史教育研究会主幹平田俊春君の御出席を願っております。  この際、委員会を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。  参考人の皆さまには公私御多用のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。本日は、目下、当委員会におきまして審査を進めております国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案について、参考人方々の御意見を承り、本案審査参考にいたしたいと存じております。何とぞ忌憚なき御意見をお述べいただきますようお願い申し上げます。  なお、議事の都合上、まず御意見をお一人十五分程度で順次お述べをいただき、その後、委員からの質疑にお答えをいただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いを申し上げます。  それでは、まず、末富参考人からお願いをいたします。
  6. 末富東作

    参考人末富東作君) 私は日本書紀の、いわゆる神武天皇即位の年の辛酉年正月一日という考え方は、これは聖徳太子によってでき上がったものだと思っているのであります。と申しますのは、これはもうすでに学界で認められていることでありますが、推古天皇の九年、辛酉の年から中国讖緯説による一蔀千二百六十年前の辛酉の年、これを神武紀元に、神武天皇即位の年にきめたということ、これが推古天皇のときからさかのぼっているということですね。辛酉の年は、これは六十年目に一回回ってくるのでありますから、いつの辛酉の年であってもかまわないわけなのであります。それを特に推古九年辛酉の年、これを基準にして千二百六十年さかのぼったということ。それから聖徳太子のときに日本で初めての歴史編さんされた、したがって、日本書紀はそのときに編さんされたる日本歴史材料にしてつくられたものに違いないと思うのであります。これは、したがって、日本書紀編さんのときに創作されたものではない、こう言えると思うのであります。聖徳太子は、御承知のとおり、初めて独立国として中国に対立されたお方であります。それ以前の日本天皇方は、雄略天皇にしても、仁徳天皇にしても、中国に対しては独立国として対しておられない、中国に臣従しておられる、聖徳太子のときに初めて独立国として日本は名のり出たのであります。そういう意味でありますから、これはなかなか重大なことだと思う。もちろんこの年は今日の歴史学者方々が言われるように、歴史的には事実ではない、歴史的には事実ではないけれども、そういう意図を持ってなされたものであるということ、これはよく考えなければならぬことだと思うのであります。  それから正月一日を即位の日にされたということ、これは特に正月一日を即位の日にされた。辛酉の年でありさえすれば、その年の三百六十五日のいつかでありさえすればさしつかえないのに、特に正月一日にされたということ、これは初めかか象徴的な意味があると思うのであります。聖徳太子は、初めからその日を独立記念日的な意味を持ってこしらえられたものに違いないのであります。その辛酉の年の一月一日を、明治の初めに当時の新暦に換算いたしまして二月十一日にしたということは、これはちょっとおかしいのであります。ちょっとおかしいのでありますが、その後すでに七、八十年の歴史を持っていることで、この終戦までで七、八十年の歴史を持っていることでありますから、その歴史事実を認めて、私は二月十一日を建国記念日とすることに賛成なのであります。  大体こんなところであります。
  7. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、戸村参考人お願いいたします。
  8. 戸村政博

    参考人戸村政博君) 私たち日本キリスト教団におきまして、数年来この紀元節を復活する傾向に対しまして、教団をあげまして反対意見をたびたび表明し、また、同じ趣旨の各団体と連合の行動をとってまいりました。いま四つの点をあげてこの法案に対する反対意見を述べたいと思います。  第一は、これまでの歴史によってみれば、紀元節大日本帝国憲法記念日その他の行事を通して、軍国主義、あるいは超国家主義の宣伝のために利用されてまいりました事実は否定することができません。また、過去に自分の親族、あるいは縁故の者を戦場に送った経験のある者にとりましては、この二月十一日という日は、この日に限って総攻撃その他作戦上の一つの。ポイントとして利用され、多くの犠牲者を出した日として記憶せざるを得ない悲しい思い出の日であります。したがって、今日これを復活いたしますことは、軍国主義の復活に連ならないと否定することはできません。これからの時代における戦争の悲惨さについては、いまさら言うまでもありません。私どもは、日本の国がこのような戦争に向かう世界傾向に対して加担をするのではなく、これに対して阻止する勢力として発言をし、行動をすることを心から、願っております。  第二の点は、現行憲法の第九条にしるされてあります平和への意思を踏みにじる結果がこのことから起こってくることを憂慮いたします。ある人々は、この平和憲法は押しつけられたものであるから無意味であるということを主張しようといたします。けれども、私は今日の時点において、私たち国民が、この平和憲法を守っていきますことは、ただに日本の平和のためだけでなく、全世界の平和のために与えられた日本国民の嵩高な課題であると信じております。すなわち私たちは軍備を持つことによってでなしに、この憲法を守ることによって世界の平和に貢献をすることのできる偉大なるチャンスを与えられていると信じるのであります。  第三の点は、神社神道一つの祭日であります日を国民祝日として法制化することによって、憲法の第十九条及び二十条にしるされております国民信教の自由、思想及び良心の自由が侵されることを憂慮いたします。御承知のように、人間の持っております要求の中で最も大いなるものは自由であります。そして世界歴史の中で思想良心の自由に先がけて闘われたものは信教の自由であります。すなわち信教の自由こそあらゆる人間の持つ自由の根本であります。これは米国におきますピューリタンの歴史をひもとくまでもないことであります。私たちはこの人類のとうとい犠牲の結果得られました自由を踏みにじり、これに逆行するような方向に私たちの国が道守かれないようにと心から祈るものであります。  第四の点は、国民祝日建国記念日は、こぞってこれを喜んで迎えることのできる日、また合意の上で決定をすることのできる日であるべきであると思います。祝日法が多くの反対と、また混乱の中で強行されることに対しまして、国民は多くの不安と、また議会に対する不信を抱きかねないのであります。もしこれがこのまま国民反対を考慮されることなく法制化されますならば、議会民主主義に対する不信にもなりかねないと思います。私はこれからの世界は武力や腕力によってものごとを解決するのでなしに、話し合いによって解決することこそ、これからの世界の特徴であると思います。私たちキリスト教伝道に従事しております者も、これまでの伝道方法は、どちらかといいますと、相手を説得して、いわばその考えを変えさせて、自分たち宗旨に引き入れていくというふうな傾向がなきにしもありませんでした。ところが、私たちは今日そういう伝導の方法を変更いたしました。反省をいたしまして、話し合いを通して人間のほんとうの真理についてお互いが納得し合うことによって私たち宗旨を選んでもらいたいというふうな態度に変わってきておるのであります。すなわち話し合いこそ伝道の最も根本的な方策であるということを私たちも気づきかけておるのであります。私はこれが政治世界においても、また同じく真理であることを信じます。どうかこの祝日法法制化をめぐって、そのような意味でのあらゆる時代に対する逆行が起こらないようにということを、私たちは心から祈っているのであります。
  9. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、直木参考人お願いいたします。
  10. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 政府が国会に提出しております国民祝日に関する法律案の中の、建国記念日として二月十一日を国民祝日とするという条項につきまして、私の専攻としております古代史学の立場から意見を申し述べます。  海音寺さんのお話にもありましたわけでありますが、二月十一日というのは、言うまでもなく元の紀元節の日でありまして、明治七年以来、終戦の年まで神武天皇が柵原で即位をしたという日となっておりました。しかし、今日、神武天皇存在が疑わしい、まして二月十一日の即位ということが事実ではないということは学界常識である、というよりも、もはや国民常識と言っていいと思います。いまさら神武天皇即位史実性、事実であるかどうかという問題について述べるのもどうかと思われますが、また、概略のところはすでに海音寺さんのお話にもございましたのですけれども、私の話の順序として、簡単に最初にこれについて述べさせていただきます。  日本に初めて整った歴史編さんが行なわれたと言われますのは推古朝時代でございますが、日本には中国から讖緯説という思想が伝わっておりまして、これは十干十二支の組み合わせのうち、きのえね、すなわち甲子、あるいはかのととり、すなわち辛酉という年が大変化の起こる年であるという一つの予言の学問、学説でございます。特に二十一回目の辛酉の年に大変化が起こるというところから、推古天皇九年から六十年の二十一倍の千二百六十年さかのぼったところに神武天皇即位の年を置いたというように考えられます。  推古九年をなぜ基準としたかといいますと、推古天皇九年がこれが辛西の年であります。で、推古朝といいますのは、聖徳太子が出、冠位十二階が行なわれ、十七条の憲法がつくられるというようにめざましい発展を遂げた時代でございますから、日本に初めて天皇があらわれるという大変化は、この推古朝から二十一回辛酉の年をさかのぼった千二戸六十年前でなければならないという考えのもとに神武即位決定せられ、推古朝に、おそらく聖徳太子あるいはその周辺の学者考えによって決定されたというように思われるわけであります。現在の西暦紀元で申しますと、神武即位紀元前六六〇年、推古九年紀元後六〇一年という、ちょうど千二百六十年の差となっております。神武即位の年をこのように机上計算で算出したくらいでございますから、即位の日が正確に伝わっておったというようなことは全く考えられません。これも海音寺さんのお話にありましたとおり、日本書紀はこれを正月元日としておりますが、日本書紀より古い形を伝えております古事記にはそういった日付は出ておりません。正月元日神武天皇即位ということも、やはり日本書紀をつくった人たち机上で創作した、日本書紀あるいはその前身となった推古朝以来の歴史書をつくった人たち考え出したものと言わざるを得ないのであります。  で、それだけではなくて、明治政府がこれを太陽暦に換算して二月十一日としたことにつきましても問題がありまして、どのような計算で二月十一日という日に換算したのか、その根拠は示されておりません。古い暦を太陽暦に換算いたしますためには、古い暦がどういう種類の暦であるかということがわからなければ換算のしようもないのでございますが、推古朝以前の日本でどのような暦が使われておったかということはわかっておりません。それですから、政府も初めは明治六年には一月二十九日を紀元節として神武天皇即位の日として祝い、明治七年から二月十一日に切りかえたというようなことになっております。二月十一日は、ですから二重に根拠のない日、二重、三重に根拠のない日ということになります。  以上申しましたように、神武即位の年や日が不確かで、二月十一日が歴史学上無意味であるということは、繰り返して申しますように、一般常識でありますが、神武天皇そのもの実在天皇であるという考えを持つ人が、なお一部にはおられるようであります。しかし、古事記日本書紀によって、神武天皇の「経歴を見ますと、全く神話的な存在であって、実在の人とは思われません。まず、神武天皇の母はタマヨリヒメですが、それは海の神の娘である。神武天皇の父はウガヤフキアエズノミコトですが、その母は、やはり海の神の娘トヨタマヒメで、その本体は八尋のワニであったと書いてあります。それが神武天皇の祖母であります。さらに、神武天皇の皇后であるホトタタライスヌギヒメはどうかといいますと、その父は美和の大物主神ですが、セヤダタラヒメという女性に思いを寄せ、丹塗りの矢となって、セヤ、ダタラヒメがかわやにはいったとき、そのホトをついて、その結果生まれたのが、ホトタタライスヌギヒメであると古事記に見えております。こういう女性に取り巻かれている神武天皇は、まさに神話中の人物と言わざるを得ません。神武という名前にしても、奈良時代になってからつけたもので、古事記帝紀では、カミヤマトイハレヒコノミコトと言っています。名前からしてカミであって、歴史上に実在した天皇ではないのであります。  神武天皇実在したかどうかは問題ではない、神話として伝えられていることが大切だという意見もあります。古代人々の伝承を尊重せよという御意見もあります。しかし、神武天皇に関する伝説の主要な部分が広く民衆の間に信じられていたであろうか、はなはだ疑問であります。神武伝説のおもなところは、天皇が九州より出発して大和にはいり、ツチグモ、ヤソタケル、エウカシ、オトウカシ、ナガスネヒコなど、土地豪族を平定して大和を占領し、皇位につくということです。血なまぐさい戦いの物語りでありまして、勝利をおさめた天皇家人々や、大和朝廷貴族の間では弄んで語られたかもしれませんが、広く民衆の間に信じられ、語り継がれていたとは思われません。おそらくこの説話は、天皇日本を支配する由来を説明するために、天皇家権力が広まった五世紀以降においてつくられ、主として朝廷貴族の間で伝えられたものと考えられます。あるいは、それに新しい活をつけ加えていったというようにして、日本書紀あるいは古事記の形になったと思われます。一般古事記日本書紀神話は、民間の説話材料としていますが、それに手を加えて、天皇家日本支配を理由づける物語に仕立て直してあるのが大部分で、古事記日本書紀神話そのものを、当時の国民が広く信じていたと考えるのは間違いであります。一般神話と申しますと民衆のものと考えられがちでありますが、古事記日本書紀神話について申しますと、残念ながらそうではないのであります。  ところで、このように神武天皇存在を否定しますと、それではいつ日本の国が始まったかということが問題になります。かつては神武紀元を六百年ぐらい短縮すればよいといわれていたこともありますが、それは明治時代の説で今日では通用しません。六、七百年短縮しても紀元世紀ごろで、考古学のほうで申しますと、弥生時代の中期、中国歴史書である漢書や後漢書によりますと、北九州だけでも数十の小さな国に分かれていた時代であります。国といっても実質は村ないし郡程度の小さい国が政治的にまとまったというにすぎません。三世紀に入いると、約三十の小国を統合して、邪馬台国という国が成立します。かなり政治体制が整い、王、大人、下戸、奴婢という階級も生まれていますが、女王の卑弥呼は、「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」といわれるように、咒術的、宗教的な性格の強い社会でありました。このころには古墳はまだつくられておりません。日本古墳時代に入いるのは、卑弥呼が死んでしばらくたってから、三世紀末ないし四世紀初頭とされておりますが、古墳の築造には大きな労力を必要とするのでありまして、強力な権力者成立意味します。古墳はいまでこそ樹木におおわれて、のどかな外観を呈しておりますが、つくられたときは、多くは表面をコケ石で固めてありますから、緑の自然の中に岩山が頭をもたげて、あたりを威圧するという光景であったと思われます。古墳によって支配者は自己の権力を誇示したのであります。  文献のほうから申しますと、実在した最初天皇崇神天皇とする説が有力であります。古事記や書記では第十代とされる天皇ですが、在位年代はほぼこのころ、つまり古墳成立期の三世紀末ないし四世紀初めと考えられます。日本における国家成立は、このころとするのが穏当でありまして、書紀に伝える神武即位の年とは千年ほどの隔たりがあります。神武即位の日を建国の日とすることは、この点からも無意味と思われます。  しかし、今日の後園記念日の論議は、神武天皇実在性とか、実際の建国の日との関係は問題ではないのであって、建国の日をつくることによって、建国の昔をしのぼうということのようであります。しかし、それについては、天皇及び大和朝廷中心とする古代国家成立を祝うことが、はたして今日の日本国民にとって意味があるかどうかということを考えてみなければなりません。古代日本国家は、天皇中心とする専制的支配の行なわれていた国家でありました。民衆政治的に全く無権利であり、経済的には土地を所有する権利もありませんでした。天皇豪族だけが権力を持っているのが、古代国家であります。このような国家成立を、いまさら祝う必要はないと思います。また、二月十一日という日は、かつての紀元節でありますから、これを建国記念の日とすることは、特に古代における天皇支配成立を祝うことになります。主権在民憲法を持つ今日の日本国民にとって、このような日が国民祝日としてふさわしいでありましょうか。いま政府の提案している建国記念の日は、はっきり申しますならば、古代天皇制記念日、あるいは古代的支配体制成立記念日として意味があるにすぎません。憲法の最も大きな原則である人民主権原則に正反対の日は、現在の日本国民祝日としては適当ではありません。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ヲ統治ス」というかっての国体はすでに変革されています。神武即位の日は、伝説にせよ、日本において天皇支配成立したとされる日であります。この日に反感を持つ日本人も少なくないということを考えていただきたいのであります。つまり、建国記念日を設けることによりまして、二月十一日をそういう日にしますことによって、天皇制批判がかえって高まることになりかねない。そんな日を祝日にすることは、思想の自由の圧迫にもなりかねないおそれがあると思います。  現在、諸外国の建国記念日を見ましても、フランスの革命記念日米国の独立記念日、そういう日が記念日になっておりますし、イタリアやインドのような古い歴史を持つ国でありましても、第二次大戦後の新しい政治体制の生まれた日を建国記念日としております。愛国心というものは、現在われわれの生きている、自分の生きている社会を愛するというところから養われるものでございまして、国民が無権利の状態に置かれていた古代国家成立を幾らしのびましても養われるものではないと思います。  少し時間にせかれまして、早口でお聞き苦しかったかと思いますが、以上によりまして、私は政府提出建国記念日の設置に反対する次第でございます。
  11. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、根本参考人お願いいたします。
  12. 根本誠

    参考人根本誠君) 私は日本人であることを幸福に思います。皆様そう申し上げるとお笑いになるかもしれません。そうじゃない。私は皆さんと同じように日本人であり、日本国民の一人である。したがって、祝日法案のような問題に対しまして私は人一倍に関心を持っておるものであります。残念なことには、私は弁士にお立ちになりました諸先生と学問方向が違いまして、中国史専門にしております。そういう点で、あるいは皆様に十分御満足いただけるかどうかを危ぶみます。ただし、別な角度からまた別な結論が出るのではないかとも思います。  このたび政府において法案が提出され、それが強行審議に入り、そしてここにいろいろな問題が起こっておる。これは私は国民の一人として非常に遺憾に思います。祝日というようなものは、国民全体が喜んでそれを受け入れる、こういうことでなければならぬと思います。私は前置きのようなことを盛んに言うようでありますが、そうではない。やはりこういう大事な問題、こういう時間をずっとかけてきたもの、ある一つ法案、それが一時的であるというようなものでなく、恒久的なものを制定するというような場合には、よほど議会あるいは政府、そういう方々が慎重な態度をとるべきであろうと、こう思うのであります。  普通の考えでありますると、祝日が一日ふえる、こういうことによりまして、いや、これは休みが一つふえたと喜ぶかもしれません。レジャーを楽しむ現在の人たちは、たぶんそういうところにいこうと思うのであります。しかし、議会というようなものは、いろいろな政党があり、政党の性格上からいろいろな問題が起こり、是非の論が起こってくることは当然であります。いや、議会の方だけでなく、一般人々考えるかもしれません。祝日が一日ふえる。けれども、それはホワイトカラーの連中の喜びである。日雇いの人たちは、一日休みがふえればそれだけ自分たちは給料をもらうことができぬのだ、そういうようなことを考えて、祝日のふえることを喜ばない方もあるのです。問題は、一つの問題がいろいろと解釈される、これはやむを得ないことであります。ただし、大事なことは、一つの問題がいろいろと解釈されながら、いろいろな角度で取り扱われながら、話し合いの場において話し合いながら、最後にめでたしと、こういって国民が受け入れてくれるような、そういうものであってほしい。私は国民の一人としてそいつを皆様に訴える次第であります。  なぜこういうふうに問題がこじれたか、こう申しますというと、神武紀元節を政府がお出しになりました。そうして、それに反対する方々は、いや、これは明治政府が制定したものであり、悪い印象をたくさんわれわれに呼び返すと、こういう点を非常に懸念されたのだと思うのであります。もう一つの理由は、神武紀元節についていろいろな学問上の上から証拠が不十分である。いわゆる実証的な根拠が薄いと、これは私もそういうふうに感ずる一人であります。神武天皇実在実在でないかということも問題であるが、と同時に、二月の十一日にきめたということも問題である、しかし、神武天皇実在というようなことは伝説である。伝説を尊重すべきであると先ほどのお話もあったようですが、そういう点では神武天皇を呼ばずして、そうして二月十一日なら十一日と、こういうふうにいってもいいんではないか。しかし、その二月十一日というものが換算法によったり、いろいろなテクニックにおいてそごがある。これは歴史一般が認めるところ。したがって、私としましては、祝日というものはわれわれが喜ぶべきものであり、設けてもらいたいという考えも持っておりまするが、神武紀元節そのものを出してくるということについては私もどうも納得できない。科学的のものがないではないか。これは学者あるいはいろいろな知識人、そういう方によって検討されて、もう一度審議のし直しをすべきではないか。急ぐべきではないと、こう思うのであります。  私は中国史でありますから、日本の国が民族国家なら民族国家国家の形態をとったという時期を調べてみました。先ほど直木先生のお話があったように、推古朝あたりから大体国家形態をとってきている。そこらあたりからさかのぼりまして、神武天皇ではなしに十代、先ほども十代と出ましたが、十代目あたりの崇神天皇、この方についての古事記あるいは日本書紀に書かれているものを見ますというと、いろいろな、完全なものとはいえません、まだ不安な、実証しかねるところもありますけれどもが、そこらあたりからですというと、日本最初国家が始まったと、こう言えるように思われます。そうして、崇神天皇についてのいろいろな説話古事記日本書紀、そういうものに露かれているのを見ますというと、中国の最も理想的な王、周の文王というようなものを頭に描きながらわが国の崇神天皇について書かれている。こういうようなことが考証学者によってわかっているのであります。神武天皇については、やはり古事記日本書紀に書かれておりますけれどもが、どうもそこら辺がはっきりしないばかりでなしに、中国歴史と比較してみますというと、かえって、秦の始皇帝について頭に描きながらモディファイしておる。そういうような伝説の相違がある。で、神武天皇については、日本書紀のほうによりますと、ハックニシラスと番かれている。ハックニシラスというのは最初支配者である。そういうふうに書かれておるのでありますが、その文字の当て方が、先ほど申しましたように、秦の始皇のことを考えながら書かれているように思われる。秦の始皇帝は暴政をしいた、中国の専制国家最初支配者でありますが、暴政をしいたタイラントであるということが一般に言われております。神武天皇の東征であるとか、勇武な方だとか、そういうようなものを考え、やはりこれはよい意味にとってのことに相違ないが、神武というような名前をおつけになったところを見ますと、武勇にすぐれて最初に国を立てた方として何か相共通するところがあってのように思われます。その名は古事記にはなくて、日本書紀のほうに、「始馭国天皇」と、さきの秦の始皇のようなものをとってきてモディファイしているかに思われるのです。ところが、十代目の崇神天皇になりますと、日本国家がどうもそこら辺から始まったであろうという、いろいろな考古学的あるいは民族学的、そして伝説に対する歴史的な資料がそろってきて、日本国家が始まったとするならばここらであると言えるのです。そうして十代目の崇神天皇あたりを考えますと、この崇神天皇神武天皇と同じようにハックニシラスと、こう書かれております。が、その文字の当て方が、「初所知国天皇」として、中国の最も古い王朝の一つであり、その最初の理想の大王であるところの文王を考えながら書かれているということが考えられるのです。文字の当て方が非常に文化的になっている。そうしてこのお名前、ハックニシラスというものが国民から天皇に差し上げたということになっておるのであります。自分がつけたのではなしに、国民に親しまれ、敬われて捧げられた。そうしてこの二つのハックニシラスについてですが、元来、古代史というものは古い時代に行けば行くほどいろいろな創作技術を必要とすることが一般ですから、神武天皇についてハックニシラスであり、崇神天皇についてハックニシラスである。同じようなハックニシラスとその文字の違いを考えますと、あとのハックニシラスのほうが古いように考えられ、そのほうが史実的にほんものだと思われるのです。それで神武天皇のほうの先に書かれているハックニシラスは新しく創作されたものである。したがって、私は神武紀元節というものをまともに出してくるということにはいろいろな点で学問的に問題があると思うのです。崇神天皇につきましては卒年がわかっておりますし、いろいろな操作をしますといりと、即位の年あたりも推定が出てくるのでありまして、それがやはり太陽暦に換算しますというと、二月十五日ころになる。したがって、二月十一日という従来までの神武紀元節に近いものが出てくると思います。あるいは崇神天皇の二月十五日即位ということがまだほんとうに確定はし得ない、ある一部の学者によってそういう想定がなされました。そういう点で、中をとって十三日くらいにするというようなことも考えられないではない。私は全面的にこれを反対するというようなものではない。ただし、神武紀元二月十一日ということをはっきりとうたい出すということは学岡上ぐあいが悪いではないか。ことに現在までの国民のレベルは、明治時代のレベルとは違ってもう啓蒙の時期を過ぎております。あまりにもおかしな問題をお出しになるということは私も懸念せざるを得ないのであります。どうかひとつ、国民が全部こぞって再びながらこの祝日が制定されることを願うものであります。
  13. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、平田参考人お願いいたします。
  14. 平田俊春

    参考人平田俊春君) 私は実証主義をとる歴史家として、事実をもととして率直に日本建国の日を考究しましたところを申し上げたいと思います。  いわゆる神武紀元は、古代史を初めて推定されたときの天皇として追号された推古天皇のときに、先ほど言われましたような讖緯説、すなわち一二六〇年を時代変化の大きな区分とし、その最初の年を辛酉大革命の年とするシナの歴史観と、わが国上古の天皇の代数及び天皇の長寿についての伝説をもとにして構成されたものであります。それは実は推古天皇九年辛酉がわが国の大革命の年であり、この年を第一年としてわが国が新しい歴史時代に入ったとする意識の投影であります。すなわち神武元年辛酉は影であり、その本体は推古天皇九年辛酉が大革命の年であるとする歴史意識であります。このような歴史意識は聖徳太子中心とする当時の活発な国政改革の事実を基盤とするものであります。隋書倭国伝に、推古天皇十六年に隋の答礼使として来日したひ裴世清に対して、聖徳太子が、「冀くは、大国維新の化を聞かん」と言われたとありますが、これは太子が隋の統一を模範としてわが国の維新を目ざして国政の改革に当たっておられたことを示すものであります。こうした聖徳太子の新国家建設の成果として、わが国は隋と対等の国交を結ぶことができ、それとともに日本という国号を称し、天皇号を唱えるに至ったのであります。御承知のように、隋書倭国伝に、推古天皇の士五年に、聖徳太子は小野妹子を遣随使として派遣し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という国書を送りました。これまで倭王が中国の皇帝に朝貢の礼をとっていたのを改め、対等な天子間の交際として話しかけ、また、倭王の倭は矮小の矮と同義でありまして、倭人すなわち矮小な人間の住む国というこのわが国の号が、軽べつを意味しておるというのでこれを用いることをやめる。「日出ずる処」、すなわち日本という国号を称されたのであります。隋の煬帝はこれを見て、「蛮夷の書、無礼なるものあり。また以て聞するなかれ」と憤ったのでありますが、一方では小野妹子から、日本――わが国のことを聞き、また一方では隋の興亡をかけた高句麗討伐を企てていた際でもありましたので、ついにわが国の要求を入れ、翌十六年、裴世清を答礼使としてつかわしたのであります。その帰国に際し、太子はまた小野妹子を使いとして、「東天皇、敬みて西皇帝に白す。使人鴻臚寺掌客裴世清等至る、久しき憶いまさに解けぬ」という国書をつかわされたのであります。すなわち、ここに煬帝が皇帝と称しているのをシナの君主の称号としてこれを用いるとともに、これと対等なわが国の君主の称号として天皇号を初めて用いられたのであります。こうして聖徳太子は隋と対等の国交の妥結に成功しました。聖徳太子はこれについて「久しき憶いまさに解けぬ」と喜ばれたのでありますが、それはまたわが国人すべての長い念願でもありました。そしてそれは太子のさかんな国政の改革と文化の興隆を基にした成果でありました。すなわち、わが国が日本という国号のもとに、天皇中心とする独立国家の体制を名実ともにつくりあげられましたのは、聖徳太子の維新によるのであり、それが、その後の、長い日本政治、外交、文化の発展の基となっているのであります。こうした天皇制の確立、あるいは“本国家の独立を基盤とし、このときに天皇記、国記という歴史の書物が編さんされたのでありました。  さて、聖徳太子、あるいはその当時の歴史家は、この維新の出発点、すなわち日本という新時代の始まりを推古天皇九年辛酉に置いたのであります。それ以前、すなわち推古天皇八年までは、現実にまだ日本の国名も天皇の号もなく、また、わが国は完全な独立国ではありませんでしたので、これを旧時代としたのであります。それが太子の改革によって、天皇中心とする日本という独立国家の体制がつくられたのでありますが、その出発点を聖徳太子あるいはその当時の歴史家は、讖緯説によって推古天皇九年辛酉の年に置いているのであります。建国記念日の設定が日本国民に正しい国家意識を育てるにあるとしますならば、この年をもって日本建国の年とするのが最も妥当であると思われるのであります。もちろんそれ以前にも、われわれの祖先のつくった国があり、天皇の祖先が君主でありますが、それは倭人、倭王、倭国の時代であり、シナに諸侯国として朝貢していたのであります。太子によって確立された日本人天皇中心とした日本国家とは性格も規模も全く異なるものがあります。すなわち、この倭国の時代歴史を書いたものが古事記でありますが、日本書紀は、推古天皇以後の日本国となった後の歴史を主体として書いたものであります。それに、それ以前の倭国の時代歴史をも日本国家歴史として書きかえているのであります。この両時代の相違、古事記日本書紀というこの歴史の書名に余白にあらわれておるわけであります。  さて、日本書紀神武天皇建国の日を正月一日にしておりますが、これは冠位十二階が推古大星十二年正月一日に実施され、あるいは大化の改新の詔が大化二年正月一日に発布されているのと同様に、飛鳥時代に、正月一日が大改革の出発点とされていることの投影であり、それはまた推古天皇年正月一日を日本国の出発点であるとする当時の意識を示すものでもあります。また、神武天皇即位を同様に正月一日にしておりますのは、飛鳥時代天皇正月一日に即位された事実によって構成されたものであります。このような意味において聖徳太子時代正月一日が日本独特の祝日でありましたことは、隋書倭国伝に日本の風俗をしるし、「正月一日至るごとに、必らず射戯飲酒す、その余はほぼ華」、すなわち中国、「に同じ」と特筆しているところに明らかであります。  こうして、推古天皇九年辛酉が大革命の年であり、日本国となった新しい歴史時代の出発点であるという意識をもとにして、それ以前の古い一二六〇年の旧時代の出発点の辛酉大革命の年を神武天皇の元年と定めて、飛鳥時代正月一日の改革、あるいは即位の事実をもとにして、神武天皇即位建国をその正月一日としたのでありますが、このようなことが行なわれましたのは、推古天皇の十年に歴が伝来し――元嘉歴であります事。十二年正月一日から暦が初めて公式に行なわれたことも連関しております。すなわち、わが国民はこの年から初めて公的に時間生活に入ったのでありますが、それはまさに推古天皇年正月一日を日本という新国家の出発点とする歴史意識と時代一つにするものであります。時間的意識の事実の上からも日本人推古天皇九年辛酉正月一日から第一年を踏み出したとすることができるのであります。こうして日本建国の年月日は、推古天皇年正月一日をもってするのが歴史意識の上からも、時間的意識の事実の上からも最も妥当であると信じます。  さて、このような歴史意識と時間的意識に基づいて国史の編さんが起こり、前に申した天皇記、国記が編さんされて、神武天皇即位の年代が推定され、やがて日本書紀の紀年の基となったのであります。すなわち神武紀元推古天皇九年辛酉正月一日、聖徳太子による日本建国の日であるという事実の投影として構成されたものでありまして、歴史事実ではなく、また、その中に種々の矛盾を含んでおります。しかし、これをもとにして紀年を立てました日本書紀が勅撰の国史として行なわれるようになりますと、次第に神武紀元神武天皇のとき以来の歴史事実であると信ぜられるようになり、日本歴史の古さ、あるいは日本歴史の優秀性を示すものと考えられ、奈良時代以来、長く日本人国家意識をはぐくむ上に大きな役割りを果たしてまいりました。  特に近世末期に至り、国史、国学の研究が興るとともに盛んに用いられまして、欧米のアジア侵略に対抗して、天皇中心として国家の体制を整え、日本の独立を守ろうとする連動の基盤となって、王政復古、明治維新の一つの精神的原動力となり、さらに明治政府はこれをもとにして紀元節を制定し、その後、近代国家の建設に当たった人々国家意識の基盤ともなったことはここに言うまでもありません。それが昭和に入り、日本のファッショ化、あるいは侵略戦争に利用せられたこともありましたが、それもまた今日となっては日本の民主化の発展を考える上に一つの反省を与える日として回顧されてもいるわけであります。紀元節の復活を求める声の大きいのは、このような諸事実に基づく国民的感情のあらわれでありましょう。それは、神武紀元の起こりの非歴史的性格にもかかわらず、わが国民国家意識形成の上の祝日として、その存在を主張し得る理由を持っていると思われます。しかし、それは紀元節として制定さるべきものでありまして、歴史上の建国の日とすることはできないのであります。  以上のような理由により、私は紀元節神武元年辛酉正月一日を記念する日であり、建国の日は推古九年辛酉正月一日を記念する日であるとすべきであると思います。両者ともにわが国民国家意識の育成に大きなかかわりがある日でありますが、前者は神武創業の神話と長い国民感情を基とし、後者は聖徳太子による日本国家建設という歴史事実を基とするものであります。ただいま問題となっておりますのは、紀元節の復活ではなくして、建国記念日でありますから、後者を基とすべきでありましょう。ところで、この推古天皇九年辛酉正月一日を新暦に換算いたしますと二月十一日となるのであります。これは紀元節の復活ではなくして、歴史事実に基づく新しい意味における日本建国の日としてここにあらわれてきたものであります。これが神武紀元の日と一致しますのはふしぎなことでありますが、ここにも神武紀元推古天皇九年辛酉正月一日の投影であるということがあらわれていると思います。その日の意義の重大なことを感ぜずにはおられないのであります。  すなわち二月十一日を建国の日として、聖徳太子が倭国を日本に、倭王を天皇に、朝貢国を対等の国家としてわが国の体制を整え、国家の独立を完成された事実をしのぶことは、自主外交の強調されている今日の日本には最も適切であると考えるのでありますが、それとともに、日本書紀においてその日の投影として神武紀元が構成され、これがまた古くから日本人国家意識の形成、あるいは近代国家の建設にプラスあるいはマイナスの役割りを果たしていることを回顧することは、今後のわが国の正しい発展を考える上に、またきわめて重要であると信ずるのであります。しからば、聖徳太子建国の精神とは何かと申せば、それは和をもって基とせよという平和主義を基本とし、あるいはまた、「それ大事はひとり定むべからず、必ず衆とともに論ぜよ」という衆議政治の精神であります。今日の平和の基礎、民主政治の原理が、実に聖徳太子日本という国家を建設せられた当初すでに決定せられておる、われわれは今日、二月十一日の日を建国の日としてこれをしのぶということは、建国記念日の制定の上に最も重大である。このような点から申しまして、私は今日、日本建国記念日を制定するには二月十一日ほど適切な日はない、いな、歴史的にいうならば、この日を除いては絶対にあり得ないということを主張するものであります。
  15. 二木謙吾

    ○要員長(二木謙吾君) 以上で参考人からの意見聴取は終わりました。  ただいまの御意見に対し質疑のおありの力は順次御発言を願います。
  16. 亀田得治

    ○亀田得治君 末富さんにちょっと言だけお尋ねしますが、神武紀元についてのいままで言われていることはこれは事実じゃない、そういうことはあなた自身もお認めになり……。
  17. 末富東作

    参考人末富東作君) 事実でないというより、事実であるかどうかということはわからない、ないという説がありますね。その説のほうに大いに理屈がある、そういうぐあいに考えております。
  18. 亀田得治

    ○亀田得治君 で、それにもかかわらず、やはり二月十一日でいいんだ、建国記念日の日を……。
  19. 末富東作

    参考人末富東作君) 二月十一日ではありませんよ。
  20. 亀田得治

    ○亀田得治君 私の言うのを最後まで聞いてください。私のお聞きしたいのは、建国記念の日をどうするかということについての考え方はたくさんあるわけですね、いま国民の中に。二月十一日がいい、その理由づけもいろいろかわっているようです。きょうはお二人の意見を聞きましたが、二人ともやはり若干違う。また、それに反対されている方の御意見もきょうは三人聞きました。おのおの違う、で、いずれにしても国民の祝いの日をきめるのですから、あれがいい、これがいいと、騒然としたような状態の中で一方的にきめられていく、そういうことは私はよくないことだ、こう思うんですが、その点についてのお考えを承っておきたい。
  21. 末富東作

    参考人末富東作君) ちょっと申し上げますが、おきめになるのはあなた方でありまして、われわれは御参考までにわれわれの考えをいろいろ申しただけのことであります。
  22. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ちょっと申し上げますが、御発言の場合は挙手をお願いします。私が指名いたします。
  23. 亀田得治

    ○亀田得治君 きめるのはわれわれがきめるわけですが、きめるについての参考意見を聞いているわけなんです。お祝いの日だから、賛成、反対いろいろ錯綜している中で、一方的にどれか一つだけ選んできめていく、これではお祝いの日にふさわしくないのじゃないか、私は二月十一日にきめるにしても五月三日にきめるにしても、どの日をとるにしても、そういうやり方でのお祝いの日をきめるしかたというのは間違っているのではないか、それをどういうふうに見ておられるか、その点を聞いたわけです。
  24. 末富東作

    参考人末富東作君) それはあなた方の問題じゃありませんか。私はただ自分意見を申し上げただけのことであります。ぜひこうしろと申したわけではない、これが適当だろうという私の意見を申し上げたわけであります。
  25. 亀田得治

    ○亀田得治君 まあ質問に対する答えがなければよろしいです。  平田先生にちょっとお伺いします。あなたの御意見はよくそれなりに拝聴いたしました。いずれにしても、いまと同じことですが、意見がいろいろあるわけですね。これはやはり納得のいくような状態で、みんながおよそ納得がいくような状態できめられる、お祝いの日ですから。そういうものでなきゃいかぬだろうと思うんです。賛成、反対、非常にこれは強いんですね。だから、そういう点についてはどういうふうにお考えですか。それは皆さんのきめることで、私はそんなこと答えないと、末富さんはそうおっしゃるわけだが、そういう点についての何かお考えを持っておられれば聞かしてもらいたい。
  26. 平田俊春

    参考人平田俊春君) 私はそういうふうな形できめられるのが、いま申しました聖徳太子の精神である。それでそういうふうにきめていただくために資料を提供したわけでありますが、今日までどうして議論がきまらなかったかというと、やはり非常に研究が足りない、あるいは古い事件で論争しておる。今日の建国記念日の問題の起こりになりましたのは、那珂学説でありますが、これは五十年前のとにかく古い説である。もちろん中に取るべき点がありますが、それはただ讖緯の説によって神武紀元がつくられた、そういう一つの影ばかりを皆さんが問題にしている。これは伝説である、国民感情である、あるいはこれはうそだといって対立していらっしゃる。しかし、私はそこで新しい歴史学研究のいわば成果として本体について論じていただきたい。おそらくこの立場によるならば、いままでのようないわれなき対立はおさまっていくであろう、そういう考えのもとに、これまでの行きがかりを皆さんがお捨てになって、虚心たんかいに学問真理についていただきたい。これは終戦後の、歴史教育を地盤としながら、しかもそれをさらに学問的に推し進めよう。それを今日論議されておりますのは、結局古い頭、結局、明治時代紀元節そのものの考え方から離れないで論じていらっしゃるのではないか。そういう点で、まず新しいきょうの提案は実は私が初めてしたわけでありますし、初めてとにかくこういう二月十一日の意味というものを打ち出しました。これは私は二十年間、終戦後、祝祭日が指定せられましてから、那珂学説の批判なり、津田博士の学説の批判にずいぶんかかりました。そうしていろいろ研究してきた成果でありまして、たとえば神武紀元二月十一日、これは非常に換算があやしいというような説もやはりございますが、しかし、それも実は誤りである。非常にそれはやはり簡単な常識で論じているだけであって、一歩深く突っ込んでみれば、これはやはりその当時、明治時代において三正綜覧というものをつくりまして、古代史を換算いたしましたときに、詳しい調査のもとになされておると思います。
  27. 亀田得治

    ○亀田得治君 いや、簡単に言えば、国のお祝いの日をきめるのに、わいわい賛成、反対、騒いでおる中できめる、騒いでおるというのは国会で騒いでおるというんじゃないんです、国民の中で非常に意見が対立していますわね。それはあなたの説のように、みんながわかってくれば、それはあるいは全部がそれに一致するかもしれない。しかし、現に一致してないのは事実ですわね、現状は。そういう中でどれか一つにきめていくということは、お祝いの日という立場から見ていかがなものであろうか。そういうことについてはどういうふうにお考えになりますかと聞いているんです。そういうことはお答えする必要がないというのならば、それでけっこうです。
  28. 平田俊春

    参考人平田俊春君) 私はそういう問題は、ずいぶん長い間論争されておりますが、しかし、世間をある程度リードされるのは皆様方の良識である。そういう良識のもとでここで審議される責任もありましょうし、ここできめられてもいいのではないか。いままでのような形でいたずらに論議を戦わされておるのは必ずしも正しい道ではないと思います。
  29. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 私は三人の方にお伺いしたいと思います。一番最初末富参考人にお伺いをしたいと思うのですが、あなたのお述べになりました要旨を要約すれば、歴史的な事実としては、はたして二月十一日という日が正しいかどうかわからない、ちょっとおかしいということもあなた言われましたが、しかし、それはそれとして、明治初年から昭和二十年まで六、七十年の間この日を紀元節としたものなんだから、建国記念日はあらためて制定をするとするならば、この六、七十年の実績がある紀元節をまた建国記念日にしたらよかろう、こういうふうに結論として考えてよろしいのかどうか、つまりそれ以前の歴史上の問題については、必ずしも確信があるわけじゃないけれども、過去における六、七十年間の実績を尊重されるというたてまえに立っておられるのかどうか、その点をお聞きします。
  30. 末富東作

    参考人末富東作君) 大体そのとおりであります。そうしてその基準は、これは聖徳太子のお考えであるということが私の眼目であります。日本独立国家として中国に対峙させた聖徳太子のお考えであるということが眼目であります。その他のことはそのとおりでございます。
  31. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 それでは次に直木参考人にお伺いしたいと思うのです。神武天皇存在が信じられ、あるいはいわゆる紀元節建国記念日として祝われた、このような事実は明治以前の徳川時代あるいは戦国時代、こういう時代ですね、織田信長とか、今川義元が争っておった時代であるとか、赤穂浪士が討ち入りをやった時代とか、そのような時代においても史実として伝えられたり、あるいは祝日として祝われた、このような史実が過去において歴史的に見てあるのかどうか、ないとすれば、全くこれは明治以後に創作されたものであって、それ以前にこのような神話というものが尊重されたという実績はないというふうに認定をしてよろしいのかどうか。  それから神武天皇云々、あるいは推古天皇云々と、時代は二千年以上も前の話なんですが、国としての形態をなしておったのかどうか、その国としての形態を成しておらなかった、あるいはもっと極論をすれば、原始時代のような時代神武天皇時代であったとすれば、この語り伝えられた物語りは、言うならば桃太郎であるとか、カチカチ山と似たような、いわば語り伝えにすぎない、全然根拠がないのだ、このように考えてよろしいものかどうか、その点をお伺いしたいと思います。
  32. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 初めのほうの御質問でございますが、つまり明治以前において神武即位を祝った史実があるかどうかという御質問でございますが、そう私もその問題について特に専門に研究したことはございませんが、おそらくそういうことは明治以前にはなかったと考えます。たとえば鎌倉時代におきましては、天下草創の日というのが、頼朝が幕府を開いた日を当時の観念では天下草創の日と、少くとも武家政権を担当しておった人たちの間では考えておったわけでございます。つまり中世におきましては、中世の政治形態ができ上がった、武家政権が成立した日を自分たち建国の日であるという意識で考えておりましたわけでございますから、神武即位を特別に祝うということはあり得ないと思います。特に神武即位を祝ったということは私は承知しておりません。  それから次の御質問でございますが、神武天皇時代というと、私のみならず、現在の歴史学の上では神武天皇存在はまずほとんどの学者が認めておりませんですから、神武時代ということは学問的には申せないのですけれども、しかし、伝説上の神武時代ということにしますならば、これは弥生時代の中に含まれるのでありまして、国家形態はまだなしていない時代に当たるということにならざるを得ないわけであります。この学者の中にも、先ほどから根本先生も、十代崇神天皇実在は認めてよかろうというお話でございます。そうすると、また別な学者の中には、崇神天皇実在ならば、そのお父さんもいたはずだ、そのまたお父さんもいたはずだ、だから神武天皇に当たる人はいたはずだというような議論をなさる方がございますが、そういうふうな神武天皇時代というものは弥生時代の中期くらいで、先ほども申しましたが、村程度の小国家が分立しておった、また国家というものが、どういうような状態になったら国家といっていいかどうか、これは政治学上の問題でもございましょう、いろいろ議論もあるわけでございますが、少なくとも伝説上の神武天皇時代というものは国家形態をなしておらなかった、そうしてそれが、いま桃太郎やカチカチ山のような昔話的な、おとぎ話めいたものとして伝えられておったのかという御質問でございましたが、それはそうではございませんので、これは先ほども申したと思いますが、日本神話というものは、古事記日本書紀に書かれておる神話というものは、国家統治を、天皇による国家統治を基礎づけるためにつくり上げた、神話学上で申します政治神話という分類に入るわけで、その中には民間説話が取り入れられております。たとえば八岐大蛇の伝説等の民間説話が、素戔鳴尊による八岐大蛇退治の中に入っております。それが材料とはなっておりますが、八岐大蛇を退治した結果、素戔鳴尊はどうしたかというと、大蛇の体の中から出てきた天叢雲剣を天照大神にささげるということで話が終わっております。つまり民間信仰を、素戔鳴尊を出雲地方の祖神と考えていい神だと思いますが、その素戔鳴尊が天照大神に忠誠を誓うという話につくり変えてしまっているわけでございます。しかし、それにしましても、出雲神話なんかにかなり民間伝承としてよく残っておるわけでございますけれども、神武天皇に関するものは、これは何といいましても、日本の初代と伝えられておる天皇にまつわる神話でございますから、政治的な作為が非常に多い、単なるおとぎ話的なものではありません。それから推古天皇時代についてのお話もございましたですが、推古天皇の十七条憲法の中には、衆議をもって決せよと、よくあげつらって決せよということもございますが、有名な第三条は、「詔を承れば必ず謹め」、詔必謹、戦争中いやになるほど聞かされたことばが第三条に出てきております。「天に二日なく、地に二君なし、率土の兆民、王をもって主となす」というような文句も出てきます。一君万民の思想天皇制の強調ということは、十七条憲法の非常に大きな中心思想をなしております。そういうような時代に回顧せられておる神武神話でございますから、いま申しましたような政治的な意識で統一が行なわれておるというふうに申していいかと思います。
  33. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 根本参考人にお伺いしますが、いまお話によりますと、明治に入ってからきめられたこの紀元節というのは適当ではないというお話がございましたが、大体、建国記念日をきめるにあたって、これは建国なんでありますから、日本という国の形態をなしたときがある程度明確でないとまずい、こういう気がするわけであります。その意味で、古代歴史からとるということがはたして受難であるかどうか。もしとるとすれば、どの程度までさかのぼって、どの程度の史実の明らかなところから建国記念日を採用したらよろしいというふうにお考えなのか、あなた自身の考える何日でもけっこうなんです。これは率直に参考として私はお聞きしたいのですが、神武という大昔の話はどうやらお話によると落第のようです。しからば、ある程度明確になった聖徳太子時代でも何でもいいのですが、根拠があるとすれば、この程度、このくらいの時代のこういう日がよろしいというものを一つお示しいただきたいと思うのですが。
  34. 根本誠

    参考人根本誠君) 私が先ほど申しましたことばが足りなかったかと思いますが、歴史的に見ますと、先ほどもちょっと申したのですが、十代の崇神天皇あたりですと、その物語の中にいろいろな史実が出てくるのです。租税の問題が出てきます。八咫鏡を笠縫村に移しているとかという具体的な歴史的な史実が出てまいります。ことに大きな問題は、四道将軍を地方に派遣している。こういうところで初期の国家形態――崇神天皇のときにすでに初期の国家形態ができたとすれば、そのまえあたりもまたできていたのではないかと、こうまた言われるかもしれません。遡及していけば先ほどの神武天皇のあたりまで突き当たってしまうのですが、歴史的な史実として、あるいは証拠として学者が承認することができるのは、どうも十代の崇神天皇時代、そして日にちの問題につきましても、先ほど平川先生がお話しになったように、古代においては正月元旦が即位の日になっておった、こういうようなこと、これを太陽、暦に換算しますと二月十一日になる。崇神天皇につきましても、即位はやはりそのころに当たるのであります。非常に接近した日にちにはなっております。そういう点で私が申し上げたことは、むしろ国会の方々が、こういうふうにきょうの催しも参考人でおのおの説が違う、あるいは似よっておってもデリケートな点で違うと、こういうことがありますので、こういうことではぐあいが悪いだろう、したがって、審議の際に強行なさらずにもつと問題をあたためて、しかる後に提出し、お互いが手をたたき合ってそれをきめていくというようなことに持っていっていただきたい、こういうふうに思ます。
  35. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 主として直木先生にお尋ねいたしたいと思いますが、先ほど先生のお話、一々ごもっともでございますが、私ちょっと気になりましたのは、推古天皇のころははっきりいたしますけれども、それ以前のことにつきまして先生非常に断定的にお話がございましたけれども、私はこれはやはり推定の域を出ないんじゃないか、先生はいろいろ古墳その他考古学の観点からおっしゃったけれども、この点については史実がございませんので、この点はやはり先生の推定だというふうに理解してよろしいですか。
  36. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 私の推定の部分もございますが、いまのように全般的に申されますと、全部が単なる推定だということではございません。これはやはり部分によっては資料がないので全般論から推定しなければならぬ点もございますし、たとえば、申しますならば、西暦紀元の第一世紀のころは弥生時代であって、そのころに大きな、いまでいえば数県、数郡程度、一県単位くらいの大きな政治体制成立していなかったというようなことは厳然たる歴史事実でございまして、これに対して異見を持っておる学者は、これは世界的にもないと思います。
  37. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 先ほど民族の神話の話が出ましたが、やはり私は神話というものは民族の感情というもの、その当時における祖先の人々の心の中にあるものが出たと、この点はあなたもお認めになったようですが、その中で、先ほど伺ったときに、たとえば八岐大蛇、白ウサギの話も私はあると思うのです。八岐大蛇の話は民間の伝承だった、それで神武天皇のほうは民間の伝承じゃなくて、多分に政治的な色彩が入った、こういうふうなお話がございましたが、私は同じじゃないかと思いますのは、やはり天照大神に剣を捧げるということは、天照大神が豊葦原瑞穂国から始まるわけですから。と考えてみるならば、これはやはり天皇制につながっているのじゃなかろうか。ですから一方が民間の伝承であり、他方は多分に政治的な色彩が加わった、こういう断定をされる何か特別な根拠がおありなんですか。
  38. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) それは私の話を少し誤解していらっしゃるといいますか、少し聞き落としていらっしゃると、失礼ながら感じがいたします。出雲神話も作為がないのではございません。出雲神話の八岐大蛇伝説の場合には、あれが民間伝説を素材としておるという点は、つまり英雄があらわれてきて、危険な状態におちいった美女を救う。その場合、たいてい剣をもって怪物を刺し殺して救うという型の神話は、ギリシアのペルセウスが、例の怪物メドゥサを殺してアンドロメダ姫を救うという有名な神話がございますが、それを初めとしまして、西アジアから東アジアまで、至るところにその神話が広がっておるわけでございます。そういうものが日本にも存在しておるというわけですから、これは単に一部のいわゆる朝廷の役人、貴族がつくった話とは考えられない。ですからそれは民間伝説を素材としておる。ところが出雲神話におきましても、それはその結果、ヘビから取り出した剣を天照大神に捧げるという点において作為をしておって、民族の英雄、民間説話の英雄ともいうべき素戔鳴尊が天照大神の家来になるという形になっておるのは、民間説話そのままではなくて、それは大和朝廷貴族によって支配者の立場からつくりかえたのである。出雲神話においてもそういうつくりかえが行なわれておる。そういうことで神武天皇の話は、終始主役が神武天皇でありまして、それだけに支配者の側からの作為が多いと考えざるを得ないと、こういうわけでございます。
  39. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 これはいずれにしても神話のことですから、それをこうだという話は、あなたの断定を下されるのは、私少し行き過ぎじゃなかろうか、それは一つの御意見として承っておきますが、八岐大蛇の伝説にいたしましても、あの当時の出雲の家族が出雲を平定したのだ。そうして天照大神に統一されたのだというような解釈をする人もあるわけですから。そこで、確かに神話には、私は民族感情とか、その当時の何か国民的な願いが入っていると思う。これは先ほど平田先生からもお述べになったのですが、確かに聖徳太子のときの辛酉の年というのは革命の年であり、それから起算したのだというお話、私たいへんごもっともだと思う。そうしますれば、そういう民族感情というものが当時あったことは事実だ。日本書紀をつくったときにあったことは事実なんですね。私はそれはやはりとうとい国民感情じゃなかろうか、それが民族の伝承となってあらわれたのではなかろうかと思うのですが、この点はどういうふうにお考えですか。
  40. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) それを民族感情と判断される根拠を、私のほうから伺いたいと思います。辛酉革命の思想ということは、いわば当時の推古朝の最も先端的な思想でありまして、それを知っておったのは最上層の知識階級、当時の知識階級は支配階級と共通でございますから、そういう支配階級の間だけの知識でございまして、それから考え出したものですから、決して民間信仰でもなければ、民族思想でもございません。
  41. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 それはあなたの御意見として承っておきますが、それから次に、こういう話が出ました。諸外国では建国記念日は確かに革命記念日が多いことも事実でございます。私はそれと日本の場合は違うのじゃなかろうか、日本の国というものは、ともかく皇室が百代続いたか、その代数までは正確でないにしても、えんえんと今日まで続いたことは、これは事実なんですね。そこで西洋の場合には、フランスの場合にもイギリスの場合にも、王さまが殺されて、そして民衆権力を確保した。こういうことは史実に明らかなんです。だから、それをとって建国記念日にされたということは私はわかると思う。ところがわが国では、幸いにそういうことはなくて、天皇がほんとうに君民一体の政治を行なってきた、それが証拠には、百何十代続いたことはこれは事実なんで、この点は私は西洋の建国記念日日本建国記念日根本的に違うことだ、ですから建国記念日を定めるにあたっては、やはり日本歴史と伝統というものを尊重しなければならぬと思うのですが、この点は直木先生どうですか。
  42. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) そういう点におきましては、日本は確かに、少くとも推古天皇あたりからの天皇家歴史というのは、血統的にはかなりあとづけができるので、推古天皇のもう少し前あたりになるといろいろ説がありまして、はたして天皇が万世一系であるかどうか問題がありますが、まず推古天皇あたりから続いておると考えてよいと思います。しかし、そのことと君民一体の政治が行なわれてきたこととは別問題でございまして、これはもう平安時代に入りますと、天皇政治の実際からだんだんと遠ざかってきておる。天皇政治の実際から遠ざかってきたということは、無事に天皇の血統を今日まで伝えたということでございます。ですから君民一体の政治が行なわれたということは、ずっと行なわれてきたということは歴史的に見て事実ではございません。それから推古天皇から奈良時代にかけての間も、はたして君民一体の政治が行なわれたかといいますと、これは歴史学のほうから申しますと、やはりそうではないと言わざるを得ないのです。先ほども聖徳太子の十七条憲法の話をちょっと申しました。十七条憲法についても疑問がございますが、まずあの七世紀政治思想を、支配貴族たち政治思想をかなりあらわしておるという点は言えると思いますが、「詔を承れば必ず謹め」、問答無用だというような態度で政治が指導されておりまして、はたして君民一体の政治といえるかどうか。  それから先ほどちょっと、私、時間にせかれまして、私有権がなかったということを申しましたが、全然奈良時代ないし推古朝の人民に私有権がなかったのではございませんが、一番、当時主要な財産であるのは土地であります。農業中心時代でありますから土地であります。その土地に対する農民の私有権というものは存在しなかった、むろん政治にタッチする権利もなかった。日本書紀なら日本書紀の記載が確実になりますのは、大体、天武、持統朝、つまり奈良時代の直前の時代からとなっておりますが、あのあたりから奈良時代歴史書である「続日本紀」を見ますと、えんえんと浮浪、逃亡、飢饉による死亡ということが相次いで出てきております。そういうようないわゆる天皇親政の時代にそういう状況であったということを考えますと、君臣一体の政治――君臣は問題かもしれませんが、君民一体の政治が行なわれておったというようには、これは歴史学の上から申しますと考えられないわけでございます。  それから、日本には革命などがなかったという、天皇家を転覆するような革命がなかったので云々という御質問がございましたが、しかし、私が先ほども繰り返し申しましたように、日本の国体、何をもって国体とするか、これも議論があろうかと思いますが、やはり天皇日本政治中心である、天皇主権ということが日本の国体いわゆる戦前に言われておった国体だと思いますが、それがすでに変わっておるわけでありますから、天皇家は続いておっても、日本の国の一番肝心な部分は組織が変わってしまっておる。そういう時代に、すでに政治的な意義がすっかり変わってしまった初代の天皇即位の日と伝えられる日を建国記念日とすることは意味がない、むしろ悪い影響が考えられる、こういうふうに考えるわけでございます。
  43. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 イギリスでは「統治して治せず」ということわざがありますが、私が、日本の国の天皇はさすがに統治して治せずだ、だからいま、あなたが先ほどお話しのように、天皇支配の体制だとおっしゃったけれども、私はそう思っていないのです。天皇はむしろ徳をもって立てられた、仁徳天皇お話もございますように、徳をもっておやりになったのだと、ですから、ある意味では非常に長く続いたとも言えるのです。そういうことを考えますと、私は天皇主権ということばだが、ことばというものが非常に吟味されないで、非常に観念的、抽象的に使われているわけですよあなたのお話のように、天皇というものが政治の実権を握ったということは非常な例外の場合だけで、大部分はだれかが代行しておるわけです。そう考えてくると、私はいまの憲法でも、天皇日本国及び日本国民統合の象徴ということで堂々たる天皇の地位は確立しているわけですね。だから、私は国体が変わったと思っていない。確かに主権在民なことはそのとおり、これは民主政治としてなったことなんで、封建時代はやっぱり徳川の大名がやっておった、そういうものだと思う。政治の実権というものは。だから、日本の国体が私は変わったと思っていない。したがって、天皇家と関係があるからこれははなはだ非民主的だ、こういう結論を出されるのは少しいかがかと思うのですが、どうでしょうか。
  44. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) いまの御質問の方の御意見を私が承って、どういう点について返答したらいいのかちょっと困るのですが、私の御返答に当たる部分は、繰り返し述べたと思うのですが、そのいま例に出されましたイギリスにおきましては建国記念日はございません。女王の誕生日を祝っておるだけであります。日本におきましては、私は何も現在の天皇の誕生日を国民祝日からはずせということは全然申してもおりませんし、考えてもおりません。やはりこれは憲法において国民統合の象徴という地位にある方でございますから、これに対して国民が敬意を表するということは当然のことであろうかと思います。しかし、それは現在生きておられる方についてそうであって、私どもも、私の父親はすでにおりませんが、母親の誕生日は祝います。これは死んだ父親の誕生日あるいはさらにその先祖の誕生日までは一々祝いはいたしません。私はそういうふうに考えております。
  45. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 私がお尋ねしたのは、主権在民になったのだということと、天皇家が続いておって日本の象徴であるということは、これは昔もいまも変わりはないのじゃなかろうか、実際、天皇権力をだれかが実行するわけです。たとえば、徳川将軍が実行するなり、あるいは総理大臣がおやりになるなりして、大部分は、大体は天皇がおまかせになってきたと思うのですよ。ですから、ただ主権在民という民主主義の原理になりますと、これは選挙制度、選挙ということが当然行なわれるわけです。だからこの点は私は、いまあなたが国体が非常に変わったんだというふうにおっしゃったが、私は歴史的事実を見ると、そんなに変わってないんじゃないかというふうにお尋ねした。
  46. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) これは明治大日本帝国憲法とそれから現在の憲法とをお読み比べになれば、私がここで論ずるのはかえっておかしいので、その専門家の方たちばかりでこの委員会が構成されておるものと存じます。それは明治憲法におきましても、天皇は実際に政権を自分で動かすということはほとんどなかったと言っていいと思いますが、しかし国家権力の根源は天皇から流れ出しておる、そういうことで政治が行なわれ、至るところでそのためのいろいろな――これは明治初年の列強に日本が圧迫をこうむっておるときには、むろん悪い点ばかりもなくて、それはやはり明治の一種の歴史的必然として明治天皇制が生まれたものだとは思いますが、それに対するいろいろな弊害というものも同時に起こってきました。その反省として、明治天皇中心政治体制を改めまして、国民主権ということに切りかわったのでありまして、これを国体は変わっていない、背も今も同じだとおっしゃるのであれば、私はそれに対して、私は違う、そうは考えないということしか申し上げようございません。
  47. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 最後でございますが、最近、東大の名誉教授の坂本太郎さんがおっしゃっているのに、戦後の歴史教育というものは、科学性を強調するあまり、史実は教えているが、歴史を貫く精神に欠けておると、こういうことをおっしゃっているのですが、これについて先生はどういうお考えをお持ちですか。
  48. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) それはやはり現在の学校教育のやり方、これは文部省の関係の方がいらっしゃればお考え願いたいと思いますのですが、やはり学校教育のあり方、それからこれは私も大学の一員でございますから、反省を要するわけでございますが、大学入試のやり方、こういったものにやはり反省すべき点があるのではないか、特にこのごろよく聞きます学力のテストの問題、それと結びついたいわゆる勤評、勤務成績評定の問題、そのために歴史の上のたとえば日本における民主主義の伝統の精神、そういったものについて、もはや学校の先生方は教えるいとまがなくて、マル・バツ、Aと問われたらBと答えよというようなこと、そして学力テストの成績を上げるための補習講座、高等学校、大学の入試成績を上げるための補習講義、こういうものに追われているところに最大の原因があると思います。
  49. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 これで終わりますが、私はこれは平田先生にお伺いしたいのですが、とにかく明治以来八十年、二月十一日でお祝いしてきたわけです。それは私は明治維新というものは、やはり日本の近世国家の発展において非常に大きな役割りを果たしたと思う。先ほどお述べになった聖徳太子の十七条憲法以来の非常な画期的な時代であったと思う。その時代に、ともかく二月十一日というものをきめたわけなんです。そして八十何年近くもこれが励行されておった。この場合に、これを今度変えますとね、何か明治という時代というものは間違いだらけであったというような印象を与えるおそれもありゃせぬか、これについて歴史研究家の平田先生はどういうふうにお考えですか。
  50. 平田俊春

    参考人平田俊春君) これは歴史の研究というものは、たえず進歩し、たえず発展していきますので、その解釈というものは、場合によって非常に大きく転換していく、特に終戦後の歴史、戦前と戦後の非常に大きな変動というものは、先ほど直木さんと一緒に御論争になりましたように、天皇中心とする見方が変わりましたので、歴史の見方が非常に変わってまいりました。紀元節というものも、そういう点で申しますと、奈良時代から歴史事実として考えられていた。先ほど、近世以前において二月十一日に当たる日が建国の日として祝われたことがあったかなかったか。で、なかったというような御返事も出ましたが、やはりございまして、たとえば中世において興国元年、南朝の後村上天皇の興国元年に、ちょうど国家意出職が高まった年でございます。やはり二千年の年に当たりまして、橿原の昔をしのんでおりますし、あるいはまた二千五百年に藤田東湖が、ことしは神武天皇建国二千五百年であるということで詩をつくって祝っておりますし、多くの史実がございます。また、讖緯の説に基づいて歴史を解釈した人もおりまして、たとえば三善清行という人は平安時代において、ちょうど延喜元年が辛酉の年に当たっている。それで繊維の説は歴史的に正しい、神武天皇辛酉の年に即位された、あるいは天智天皇が変革をされた年も辛酉の年である、今年は辛酉の年であるから改革の年である、そういう考えが延喜以後盛んになりまして、辛酉の年にはいつも年号が変えられるようになった。今日から見ますと、辛酉の年というのは迷信である、取るに足らぬように考えるのですが、実は千年の長い間、日本人の精神を動かした大きな歴史観でございます。しかし、そういうものも明治になって初めて改められてくる。そういう点で神武紀元と申しますけれども、明治維新というものが、やはり王政復古、あるいは国学というような立場、あるいはそこにまた長州藩とか、薩州藩とかの尊王攘夷の立場というものもからみまして、歴史事実であるという点で押し通してきましたが、確かにそれはそれとして、近代国家の建設に大きな役割りを果たした、封建時代日本人国家というものを意識さした、そういう意味明治の国原の大きな改革は進めることができたわけでありまして、今日から免れば非常に古くさい思想のように見えますが、その時代においては非常に進歩的な役割りを果たしていると思いますが、それがしかし、今日の歴史の研究によってその姿が新しくされてくると、明治時代国家主義の役割り、明治時代紀元節の役割りはこういう役割りを果たした、それはこういう歴史の上からプラスの面もある、マイナスの面もあるというように回顧させることが、やはり長い紀元節の伝統と何ら矛盾するものではない、それをさらに一そう大きく社会思想というものと調和さして、そうして新しい国家意識というものを国民の間につくっていく、これが非常に健全である。戦前のある点で、戦争中に日本が非常にファッショ化したというような誤りを避けて、もっと世界的な立場で日本というものを理解し、日本人国家思想というものが除々に高まっていき、紀元節をそういうふうに理解できるところまで、日本人が高い立場に立つ国家思想を持つに至るというふうに解釈できるのではないかと思います。
  51. 楠正俊

    ○楠正俊君 もう昼でございますので、ただ一点だけ、戸村先生と直木先生に順番にお伺いしたいと思うのでございますが、両先生とも二月十一日は反対である、そうしますと、それにかわるべき何か適当な日にちがおありになるのか、また、建国記念日というようなものは法定する必要がないという御意見なのか、その点を順次お聞かせ願いたいと思います。
  52. 戸村政博

    参考人戸村政博君) 私は建国記念日が正しく私たち国家方向を導くような日であることを念願するのであります。そういう意味で、そういう根拠からして、二月十一日を反対しているのであります。それでありますから、私たちの新しい憲法の与えられました日として、五月三日を建国記念日とし、このためにその日ごとに新しい日本の歩みを、国民全部が覚えることのできるような日でありたいと願っております。
  53. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 私は現在の段階におきましては、建国記念日を設ける必要はないと思っております。将来におきまして国民がもっと一致しておのずから建国の日を祝おうと、それは私の立場から申しますと、戦後の新しい政治体制ができ上がった日と、国民人民主権が確立した日をもってその日と当てたいと思いますが、それを現在の段階で私は特に主張しようとは思いません。将来、国民の意識が一致して、その日として、建国の日をそういうような形でいけるような機運が生じたならばできてもよいと、そういう程度に思っております。
  54. 中村喜四郎

    中村喜四郎君 根本参考人にお伺いしたいのですが、従来から学者意見が、二月十一日の問題について史実上誤りである、あるいは史実である、こういうような論戦をされ、本日もまたたくさんの意見が出ているわけですが、根本さんの御意見をお聞きしておりましても、非常に類推が多いのだ、想像しているのだ。たとえば神武ということも秦の始皇帝の暴政になぞらって武ということがとられた。崇神天皇の神をたっとぶということもここから出てくる。そういうようなことで、その日にちについても二月十一日ころらしいという御観点でございますが、こういうふうなことで、最後の締めくくりとして、根本さんは、よく話し合って、手をたたいてこの日をきめたらよいじゃないかということに結ばれたようでございますが、二十三年の国会のときに、片山内閣でございましたか、祝祭日をきめたい、そうして政令でこれをきめたい。ところが議会のほうでは、政令ではいけない、国民大多数の意向を聞かなければならないので、議会でこれをきめるべきだ。こういうことからして、総理府のほうでは国民の世論を十分調査したい、こういうことで調査をした。で、いつの調査の場合におきましても、この建国記念日紀元節というのは大体第三位から第四位を占めているわけでございます。そしてまたその後の新聞社の世論調査等を見ても、圧倒的に建国記念日は必要であるという、要望するという声が出ていることも、これは無視できないと思います。今日の段階においてもおそらくは建国記念日を要望するという国民の世論は多いのです。ただ、問題は世論調査でなく、いろいろ史実やその他から勘案してきめていきたいというけれども、先生の先ほどの手をたたいてきめていきたいという点は、たとえばどういうことをお示しになるのですか、どういう点でそういう結論を出そうとするのですか、それだけをひとつお聞きしたいのですが。
  55. 根本誠

    参考人根本誠君) こういう祝祭日は非常に大事な問題である。国民全体にかかるものは政令できめるべきではない、やはり国会を通さなければいけない。国会を通す前に、こういう非常に議論の多い問題はその知識者のようなものを集めて、一度でも二度でもやはりある落ちつく線まで討論しあって、それを審議会にかけて答申させて、それを議会なら議会にかける、こういうような点をとることが一番民主主義的なルールに入る、私はこれは政令一辺倒で、その記念日としてしまったなんということのないようにこれを考えます。  それから私も多少こだわったところがありますが、そこに紀元というようなことで、それに最も該当する、しかも歴史にたえるようなお方があれば、それをもって紀元節というものをこしらえてもかまわないのじゃないか。というのは、建国というようなことになりますというと、やはり歴史的にたえるものであれば、私が申しましたように、崇神天皇あたりに史料があるのですから、触釈も相当確実なものができている。ちょうどそれは二世紀くらいになりますか、ですから建国というものをつける場合、それに私は多少こだわって、そうして崇神天皇という方を申し上げたんですが、あるいは聖徳太子のようなお方ならば、この点ははっきりした何というものがあるでありましょうが、そこへ持っていってもいいわけですが、私たちとしては、やはり国民感情としては、古ければ古いほど何かありがたい。したがって、聖徳太子さんの何を建国記念日となさるような意見もあろうと思いますが、もう少しさかのぼる可能性がある。こういうふうな意味崇神天皇を申し上げたわけです。おそらくこれは皆さまの初耳ではないかと思うのでありますが、私の友だちがそれを一生懸命研究していますので、私でことばが足りなかったならばその友だちを連れてきてもよろしい。それからもう一つつけ加えたいと思いますが、面木先生は非常に厳密に新しい史観で古代史をお説きになったようでございますが、私の考えとしては、先ほどから申しますように、非常になごやかな時代であった、こう思うのです。先ほど崇神天皇のお名前国民が奉っている。こういうようなことを申したのでありますが、どうも以前の集団の社会は、われわれが家族生活の中で見出すと同じように非常にアットホームの時代であった。他の種族に対しては相当戦闘的であったかもしれないが、自分たちの同族、同姓というような者の、近縁の者に対しては非常にあたたかい生活をしておった。あまりあたたかい生活をしておったので、いろいろな文句がおこらない。したがって、それが史料にならなかったのだろうと私は思います。
  56. 中村喜四郎

    中村喜四郎君 意見でもございませんから、私はお尋ねしたいのですが、先ほど、崇神天皇の世はあたたかい御代と、神をたっとぶというあて字をあてた、神武天皇の武というのは、秦の始皇帝の暴政があった、武力に訴えた、そういうような意味で先ほど御説明になったが、神武の武というのはどのようにお考えになっているのか、私どもの解釈からすれば、武ということばは、干支を交えるとか、ほこをおさめるとかということばに使われているというふうに考えておるが、その点は秦の始皇帝のような意味でお考えになっているのですか、ちょっとお伺いしたいのですが。
  57. 根本誠

    参考人根本誠君) 神武の神、ことに神というようなことばの書かれた点においては、おたくさんの意見のほうが正しいと思います。ただし、頭の中で、そのときの知識階級、ことに韓国であるとか、あるいは中国人たちもたくさんおったと思いますが、そういう連中が古典を調べながら、そうして日本の残っているところのいろいろな伝説のようなものを、ことに日本書紀なら、日本書紀に雷かれた場合に、よほどことばを、ことばというよりも、日本語をどういうふうな中国の字でもって当てるべきか、その文字の使用において非常に吟味したと思う。それで、日本書紀におけるところの神武天皇のお名前は始皇の始という字が書いてある、始めという字が。その次には訳者の駅という字が書いてある。そうして国が書いてある。そうして天皇、したがって、これはハツクニシラス天皇と読むわけです。そうして崇神天皇の場合はそういう文字を使っていないのです。知るという字、ハツはこの最初の初のほうを使っている、始皇の始のほうではない。初日の初のほうを使っている。それから所という字、それから知という字、そうして始馭国天皇、初所知国大君、両方とも始馭国、初所知国大君となるのですが、その片一方は始皇の始という字と馭――馬へんにこう書いてある、あまりいい字じゃないのです。そのあまりいい字でないやつで翻訳しているところを見るというと、やはり始皇の武というようなものを、武断政治の武というようなものを考えて、どの天皇に当たる、どういう皇帝に当たる、どういうものに当たるか、中国の、歴史の中で最も適当なものをやはり選んでいたんだろうと思います。
  58. 中村喜四郎

    中村喜四郎君 わかりました。意見の論争になりますからやめます。
  59. 小野明

    ○小野明君 平田先生にお尋ねしたいと思いますが、明治政府紀元節を設定いたしまして、紀元節を設定するにはそれなりに意義を認めておる。そうしてまたこのことは国民的な感情を結集し、あるいは侵略戦争の基盤になったと、こういうふうに証言をされたと思うのです。そうしてまたあとのことばを聞きますと、今日、世界史的な立場から新しく国家意識を国民の中に植え込まなければならぬ、こういうふうにおっしゃったと思うわけです。私の考えからいきますというと、国家というものは、そう国家論からいきますならば変わりはない。そうしますと、今日新しい国家意識を世界史的な立場から――世界史的な立場というのは常にあるわけです。明治政府でもあったし、今日の日本にもある。そういった立場から新しい国家意識を再度この建国記念の日を設定することによって植えつけなければならない理由というものをひとつお聞かせを願いたいと思う。
  60. 平田俊春

    参考人平田俊春君) 明治時代はやはり帝国主義の時代でありました。その時代の情勢で日本国家の独立を保つというためには、やはりその時代に応じた国家の役割りというものがございました。それから今日はやはり世界の国々が協力して新しい平和の世界をつくっていく。しかし、われわれは日本人である、アメリカ人でない、こういうやはり自覚、自信、あるいは長い日本人国民的な感情というものをやはり共通に持っておって初めて世界の平和に貢献できるわけでありまして、われわれがアメリカ人のまねをしたり、ソ連人のまねをして、そうしてそのしっぽでただ動いているだけではほんとうの意味の責任はない。われわれ日本人として初めて発言権を持っている。その意味において初めて世界の平和に貢献できる一つの役割りを果たし得るのじゃないか。そういう形の国家意識というものは、やはり今日あらためて持つべきであるというふうに考えるのですが、一つの政策に役立たせよう、そういうとにかくワクに入った人間をつくるというわけではございません。
  61. 辻武寿

    ○辻武寿君 私は根本先生を除いた四人の先生方にお伺いしたいのですが、イエスかノーかだけで、簡単でけっこうでございますから。  それは今度、衆議院から送付されてきたこの祝日法案というものは、法律できめないで、審議会を設けて内閣総理大臣の任命で十人の審議会委員を設けて、半年以内に答申をする、その答申を尊重してつくるのでありますが、政令できめる、答申がこなくてもこれは話し合って政令できめる、こういうようなことになっておりますが、私はいままでの建国の日を除いた九つの従来の祝日というものは、一月元日から勤労感謝の日に、至るまで全部これは法律で定めている。しかも、政令できめるということは前に出て、とれではいかぬ、やはり法律できめるべきであるという結論に達して法律で制定されたものです。ところが、ここに至って今度の祝日法案に限って、もう国会を離れてしまって審議会のほうに行ってしまう、そうして、その結果はもういやでもおうでも十二月十五日が来てしまえば成立してしまう。こういうきめ方は私は納得できない、こういうことに対して、審議会できめるならきめてもけっこうだ、そのかわり半年とか、三カ月とか期限を切らないでじっくり検討して、もう一度、総理大臣はその審議会の結果を国会に報告し、やはり国会できめるのが正しい筋道だと私は思うのですが、先生方にお伺いしたいことは、審議会で期限を切ってしまい、そうして政令できめるということはいいか悪いか、この点に対して末富先生、戸村先生、直木先生、平田先生に一言ずつ。
  62. 末富東作

    参考人末富東作君) 私はそういうつごうになっておるということは存じませんでした。それはよくないと思います。しかし、よくないと言ったって、そうおきめになったのはあなた方でしょう。終わり。
  63. 戸村政博

    参考人戸村政博君) 私は先日こちらに参りまして報告を聞いておりますときに、審議会に回された法案・がそのときの時点で二百九十一もあるということを聞きまして、ほんとうにびっくりいたしました。これは議会が私たち法律を審議するという権利を放棄したことにはならないだろうかということをたいへん心配いたします。ですから、ほんとうならばこういう審議会決定されないことを私は心から願います。
  64. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 私は国民祝日というものは、国民が直接選挙しております議会において、そうして議員立法によってきめるのが木筋だろうと思います。ところが、議員立法によって提出して審議を七回やって通らないから政府立法でやるというやり方自身が、すでに国民祝日というものをきめるきめ方としてはおかしいのじゃないかと思っております。ましてこれを政令できめるというような方式には反対でございます。
  65. 平田俊春

    参考人平田俊春君) 私はまことに残念だと思いますが、しかし、これは国会の現実がそういうふうにさせたわけでございまして、かりに政令で定まったとしましても、昭和四十年ごろの日本国家の状態というのはかくのごときものであったというような史料を後世に残すという意味で非常にけっこうだと思います。
  66. 秋山長造

    ○秋山長造君 直木参考人にちょっとこの機会に教えておいていただきたい。さっきお話がありました讖緯説とか、辛酉茶命の思想だとか、こういうお話が盛んに出たのですが、これは中国において、あるいは日本においてこういう思想が一体どういう事情で出てきたのかということ、それが当時の国家体系だとか、社会機構といいますか、経済機構といいますか、そういうものと何か関連がある思想なのかどうか、それからこういう辛酉革命というような思想が一体歴史的にいつごろまで支配した思想なのか、こういう点についてちょっとお尋ねしておきたいと思います。
  67. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) いまの御質問に対しては実は私はあまり自信をもってお答えするだけの勉強をしておりませんのですが、中国においては六朝時代、すなわち西暦で言いますと、四、五、六世紀というような時代にかなり流行いたした思想で、これは隋、唐の時代、八世紀ごろまでかなり中国においては勢力があったようでございます。しかし、これはある程度中国においては隋、唐時代には次第に禁止される方向に向かったというように理解しております。しかし、ともかく六朝から隋のころにかけてはかなり中国において流行しておった思想でありまして、それが当時の日本中国思想に対して非常に推古朝あたりから敏感でございますから、そういうものを取り入れる、ことに歴史編さんしょうとした場合、やはり時代変化ということを何か理論づける考え方が必要である。そういうことに適応した面を讖緯思想は持っておりますから、この讖緯思想というものは、一つにはいわゆる陰陽五行の説であって、木火土金水の組み合わせ、ないしその移り変わりによって世の中が変わっていくというように、世の中の推移をある意味においては解釈しておるわけで、歴史編さんの上にこれが必要といいますか、ともかく一応役に立つ思想だというふうに考えたので利用したのであろうと考えます。特にこれを日本が取り入れなければならないような、取り入れることを必然とするような社会構成、経済体制というものについては私はまだ考えておりません。日本におきましてはもう律令時代になってまいりますと、やはり儒学の思想中心思想になってきましたから、讖緯説というものはその後はあまり日本では盛んでなかったように承知しております。しかし、先ほど平田さんのお話にもありましたように、三善清行――平安時代学者でございますが、そのあたりまではかなり影響を及ぼしておるということは言えると思います。
  68. 玉置和郎

    ○玉置和郎君 最後ですから簡単に末富先生、戸村先生、直木先年に一つずつだけお聞きをしたいと思います。  戸村先生のお話の中にありました、この二月十一日の建国記念日というのは、これは戦争につながるというふうなお話でございましたが、私たちが戦後のことを思い出しますと、終戦直後、日の丸を掲げること、また君が代を歌うことを何か面はゆいような感じがしたことは、これは事実でございます。しかし、それが七年たち、八年たち、十年たってまいりますと、昭和三十年ごろになりますと、日の丸を掲げることも、君が代を歌うこともそう抵抗を感じなくなって、さらにオリンピックのときに至りますと、日本人のだれしも、いわゆるイデオロギーが違いましても、テレビで上がる日の丸を見ましてほんとうに涙したものだと思います。これは私は国民の素朴な気持ちだと思う。そこで、末富先生は作家でございまして大衆の気持ちを非常にうまくつかんでおられるからと、私はかく存じておりますので、この国民大衆の気持ちというか、庶民の気持ちというものが、この二月十一日というものを建国記念日に定めたときに、はたしてそれが戦争につながるものであるかどうかということ、これはいままで、われわれ国会におきましても破防法をやった、また勤評をやった、いわゆる与党野党がまつ二つに分かれて乱闘騒ぎをしたときに、すぐ戦争につながる、雪国主義につながるといって反対をされました。そういうこともかみ合わせてひとつ御答えをいただきたいと思います。  それから戸村先生、戸村先生にお聞きしますが、先生はキリスト教の信者の方だと思います。そこで、この建国記念日について科学性がないというふうな――先生は言われませんが、ほかの方が言っておられますが、二月十一日について科学性がない、そこで、キリストの生誕という問題、これがはたして科学的根拠があるのかどうか。この点についてお聞きをしたいと思います。非常に私は酷なことだと思いますが、ぜひひとつお聞きをしたい。  それから次に直木先生、直木先生にお聞きをしたいのは、そのお聞きをする前にひとつ私も事実に基づいて申し上げたいことがございます。平川先生から申されましたが、明治以前に二月十一日の紀元節を祝っていないという先生の断定的なおことばでございましたが、私はこれは事実と反していると思います。これは先生もそういった史実を御調査の方でございますので、ぜひ奈良の奥のほうを調べていただきたい、これははっきりしております。もう明治以前、ずっと長く二月十一日を建国記念日としてことほいだ。それからお話の中にあった人民主権の確定した日をもって建国記念日とする、こういうお話でございますが、人民主権の確定の日というのはどういうことですか、お聞かせ願います。
  69. 末富東作

    参考人末富東作君) 大衆の気持ちをよくわかっているだろうとおっしゃいましたが、ちっともわかっておりません。ちっともつかんじゃおりませんが、私は終戦後の日本人のありさまを見て、愛国であるとか何とかということに恥じるようなムードが日本国内にあった、非常によろしくないと思います。だから、日本人に限らないのですが、国民に愛国心を涵養するようないろいろなことをやるということ、これは必要であると思います。それからまた、さっきから伺っておりますと、これは質問の範囲内を脱出しますが、戦後の憲法が制定された日であるとか、人民主権の何々の日であるとか、それをやるなら建国記念日にするほうがいいのだというような御意見も出ましたのですが、国というものと政治のあり方というものは私は別だと思うのであります。国というものは、そういう政治のあり方に超越してずっと続いているものである、そう思うのであります。今日、日本はこれは自由主義、民主主義の国家でありますが、今後どういうぐあいに変わっていくか、あるいは社会主義の国家になるかもしれない、あるいは共産主義の国家になるかもしれない、あるいはまたわれわれの想像もし得ないような新しい政治の形態の国家になるかもしれない、国家でなくなるかもしれないけれども、それでも日本日本である。日本の始まった日と思われる、従来から信じられているそういう日を祝うということは私は肝心だと思うのであります。終わり。
  70. 戸村政博

    参考人戸村政博君) 二つのことをお答えいたしたいと思います。初めの点は、必ずしも直接の御返答にはならないかもしれませんが、事実ということにつきまして私たちはきょういろいろと話し合いをしてきたわけでありますが、私は事実に二つの種類の事実があると思います。一つは、私たちここにおります者がまだだれも生まれておりませんでした遠い昔の事実、史実であります。これについていろいろと研究をし、事実をきわめていくことも一つのことであります。けれども、それと同町に、私たちがその幾分を体験し、私たちの一代前の者が残らずその目で見てきた偽ることのできない事実というものがあると思います。このほうはもっと確めやすいのではないかと思います。私たちはあまり遠いことの事実にのみ目を奪われて、最近の事実をゆるがせにすることはできないと思います。こういうふうな点について私は非常に大きな不安を感ぜざるを得ないことが、私たち反対の非常に大きな理由になっていることをもう一度補足させていただきたいと思います。  それからキリストが事実であるかどうかということでありますが、これは信仰の問題になりますので、私は二つの面から答えることができると思います。一つは主観的な面であります。二つは客観的な面であります。主観的な面から中しますと、信仰というのは非常にそういう面を持っておりますので、これは私がお答えしたので、それで納得するということにはならないと、あるいは私は心配するのでありますが、たとえば親鸞上人が、自分が信じておることが偽りであるかまことであるか、そういうことは問題ではないのだ。自分はたとえ百分の師の法然上人にだまされて地獄に行っても自分は満足であると、こう申されました。こういうものが私は信仰の心底にあると思うのであります。ですから、私というここに生きておる一人の人間がイエスキリストという人間を、イエスキリストという方を信じておるということが、これはイエスキリストの実在を証明する事実であると申し上げても、決してこれはオーバーではないと思います。それから客観的な面から申しますと、この世界の特にヨーロッパの歴史を含めた二千年の歴史を色どる、その中に生まれました多くの優秀なる頭脳が、このキリスト教を信じていく、世界歴史を大きく方向決定してきたこの事実を率直にながめますときに、私はイエスキリストが単なる神話上の人物であるというふうなことは納得できません。神話が二千年の人間歴史決定する力は持っていないと思います。
  71. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 御質問の点二点についてお答えいたします。紀元節明治以前に祝われたかどうかという御質問でございます。祝われた事実があるではないかということでございます。紀元節ということは別としまして、神武天皇即位を祝ったかどうかということで、これは私、実は先ほど少しことばが足りない、ある意味においては軽率なお答えをしまして、機会があらたら訂正したいと思っておりました。ちょうどよい機会を与えていただきました。国民全般として神武天皇を祝ったことは明治以前にはおそらくなかったであろうというような意味で先ほど申し上げたわけでありまして、おそらく歴代天皇家の内部、あるいはそれに側近、近接しているような人たちの間では、やはり一番最初天皇として日本書紀に書かれておる神武天皇即位を祝うというようなことはあったであろうと考えます。それから平田さんの御指摘になりました藤田東湖の例がございますが、幕末になりますと勤皇思想が高まってまいりまして、幕末の尊皇思想、勤皇思想家の間で、やはり個人的あるいは若干の団体的に祝われたことはあったということは私も実は承知しておりました。国民全体としてということで先ほどのようなお答えをしたわけでございます。それから奈良の山奥という点は、私はそこまで調査しておりませんでしたので、今度機会を得て、私も幸い奈良に住んでおりますので、やりたいと思っております。
  72. 玉置和郎

    ○玉置和郎君 十津川ですよ。
  73. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 十津川ですか。――それからもう一つの、人民主権がいつできたかという質問であります。これは人民というのは国民というのと同じような意味で使っておったのでありまして、そういう意味でなら、おそらく御質問はなかっただろうと思います。これはいうまでもなく、新しい日本憲法成立によって、日本の新しい政治の体制が示されたそのことをもって人民主権の確立をしたというふうに申したわけでございます。
  74. 楠正俊

    ○楠正俊君 五月三日でいいわけですか。
  75. 直木孝次郎

    参考人直木孝次郎君) 五月三日でいいわけです。
  76. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 参考人の各位には、御繁忙中わざわざ御出席をいただきまして、長崎問にわたる貴重な御意見をお述べをいただきまして非常に参考になりました。委員会を代表して厚くお礼を申し上げます。  午前の委員会はこの程度とし、午後は二時半から再開いたします。休憩いたします。    午後零時五十五分休憩      ―――――・―――――    午後三時三十三分開会
  77. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) これより委員会を再開いたします。  午前に引き続き、国民祝日に関する法律の一部を改正する法律案を議題とし、質疑を続行いたします。  質疑のある方は順次御発言を願います。  なお、政府側より安井総理府総務長官、高柳審議室長、中野文部政務次官出席をしております。
  78. 小林武

    ○小林武君 安井さんにお尋ねをいたしますが、政府の統一見解として、日本建国というのはいつということになっていますか。
  79. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 日本建国がいつであるということを、歴史学的にあるいは実証的にこれをきめた定説というものは私は必ずしもなかろうかと思います。しかし、日本古代歴史書として現在随一のものと言われている日本書紀によりますと、これは神武天皇即位の日が建国の始まりであるというようになると思います。
  80. 小林武

    ○小林武君 いつが建国の日であるとか、ころであるとかいうことの議論は先ほど来やりましたから、いろいろ参考人意見も聞いたし、また、われわれもいままでのいろいろなものを調べりゃ、大体定説のようなものが出てきます。学者に言わせりゃ常識だと、それを聞いてるんです。政府とすると、あれですかね、日本建国はいつかという統一した見解はないわけですか、これはちょっとぼくはいただけないんですがね。すぐ文部政務次官に聞かなきゃいかぬわけですが、その前に、ないならないとはっきり言ってもらいたい。
  81. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) これは二千何百年あるいは、二千年等の昔にさかのぼる問題でございまするから、歴史学上あるいは考古学上、科学的に実証する日というものは、なかなか学問的にはつかみにくい、しかし、日本古代史の聖典である日本書紀あるいは古事記というものを参考にいたしました場合に、私どもは、日本建国の日を象徴的な意味神武天皇即位の日と、こういうふうに考えるのが正しかろう、でありますから、いつかわからぬと言っているわけじゃないのであります。そういうふうに考えることが一番正しいし、常識的であろうと思うわけであります。ただ、それに対する歴史学的な裏づけとか、考古学的な実証というものについては、これはいろいろ議論があるということを申し上げておるわけです。
  82. 小林武

    ○小林武君 そういうふうに簡単におっしゃいますけれどもね、これはちょっと問題があると思いますな、政府がそういうあいまいなことを言っているんじゃ。これは大臣だからあんまりこまかいことを御存じにならないのでしたら、政府委員にお尋ねしますが、ないんですか、あるんですか、いつ一体日本の……。
  83. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) それはこまかい問題じゃないのでありまして、政府全体の考え方をいま私は代表して申し上げておるので、これは政府委員が聞いてどうするというとまかい事務的な問題じゃなかろうと思います。われわれの考え方は、神武天皇即位の日というのが一番国民感情としても訴えられるし、また、長い歴史を持っているのでありますから妥当であろうと思います。ただ、それに対して歴史学的ないろんな実証、考古学的な実証というものは、必ずしも正確を期し得ないという事実がある。この点はそういう意味で認めておるということでありまして、こまかい事務的な問題じゃないと私は思っております。
  84. 小林武

    ○小林武君 あまり事務的でないのでびっくりしているんですが、そういうことをお考えになるとしたら、これからの審議は重大なことになる。あなたの話を端的に受け取れば、日本歴史というものは神話とチャンポンになっておる。それは戦前の国定教科書ならいざ知らず、いま一体、日本の国がいつから始まったかということをいったときに、それは神武天皇即位の日であります、これは日本書記や古事記に書かれていることがそれですというようなことを言うのは、これはちょっと困る。なぜ困るかというと、これは文部省のほうの関係だ。政務次官にまあ聞くから、しばらくちょっと聞いておいてください。  政務次官にお尋ねしますがね、学習指導要領――小学校、中学校、高校いろいろあるわけです。その中に日本の国のことを書いたところがありますな。ちょっとそこにどういうことを書いておるか御説明を願いたいと思います、社会の中に。それは政務次官からお答え願います。
  85. 中野文門

    政府委員(中野文門君) ただいまの御質問に対しましては、他の政府委員のほうからお答えしたほうが御満足いただけると思いますので……。
  86. 小林武

    ○小林武君 事務的な問題じゃないとおっしゃる。私は政府委員から聞こうかと思ったら、安井さんから、そうじゃないというお話でした。だから、あなたから聞かなければいけない。
  87. 中野文門

    政府委員(中野文門君) ただいまのお尋ねのことは、具体的に学習指導要領その他現実に学校の場でどういう取り扱い、どういう教え方、あるいはどういうことに相なっておるかというお尋ねでございますので、私以外の政府委員から御答弁するほうが妥当であろうと思います。御了承願います。
  88. 小林武

    ○小林武君 まあそうは言いましたけれども、政務次官そうおっしゃいますから政府委員から聞きますが、安井国務大臣もはっきりしていただきたいのは、これはやっぱり政府として、祝日とそれから教育の部面と全然切り離して考えるというわけにいかないと思う。何だか意地の悪いことを言うたけれども、ひっかけるようなことを言うたけれども、ひっかけるわけじゃないのです。昔はそれが一致して何のふしぎもなくやってきた、戦前においてはそれが何のふしぎもなくやられてきて、ふしぎと思うことはいけないということであった。しかし、今度はそうは言っておらぬのです。だから、やっぱり二つに分けて考えるというやり方は、これは安井長官は所管のことでもないので、そこまで考え及ばぬで言ったんだろうと思うが、この点はしかし二つ組み合わせていかないというと、非常にこれから重大なことになるから、それでまあこの間のことも、これからいろいろ申し上げることも、政府に対して文句を言うというよりか、むしろここらではっきり統一した考え方がないと、これは国民として困るのではないか、教育に当たる者も困るのではないかということになりますから、そういう意味で言っているのです。それでは、政府委員からひとつ。
  89. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) ただいま御質問ございました建国讖緯説と言われておりますその取り扱いを、学習指導要領ではどう取り扱っているかという点についてお答えいたします。小学校の学習指導要領社会科では特に明示されておりません。中学校の社会科におきましては、「国家の形成とアジア」の項の中で、「この際、古典に見える神話や伝承などについても正しく取り扱い、当時の人々の信仰やものの見方などに触れさせることが望ましい。」と示されております。また、高等学校、日本史の解説書の中には、「古代国家の形成と大陸文化の摂取」の中の「律令体制の成立」の項で、「記紀の神話、伝承などは、この項で取り上げることが望ましい。たとえば、記紀の構成は、統一国家の形成過程における天皇貴族の勢力を反映した面を持っており、そうした歴史的条件をも考慮しての指導がふさわしいと思われる。この際、最近の字間的成果をじゅうぶん考慮することは言うまでもない。」ということを示しております。
  90. 小林武

    ○小林武君 齋藤さんの答弁はあまり聞いていることを答えないのが特徴でございまして、聞いていることを答えてもらいたい。長々述べたって聞いていることを答えないと問題にならないのですよ。  まず、あなたの言われたことを、これは中学校の三一ページ、三二ページ、三三ページ、ここにあるのですが、教えられていることの中に、日本の国の成り立ちというものは神話から始まっていると書いてありますか。私はしばらく教育の仕事からもう遠ざかっておりますから、率直に言って現在のことはよくわかりません。戦前、戦後の十何年かは知っておりますけれども、最近のことはよくわかっておりませんから、変わりがあったらまずいので、そういうふうにお尋ねするのです。この中に、一体そういうことが、安井長官のような日本の国の成り立ちについてお考えがあるのかないのか、その点をひとつ、ページ数を示しましたから、そこで答えてください。
  91. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 先生御指摘のように、関連するところは、学習指導要領の三三ページにあります。「日本古代とアジア」、「国家の形成とアジア」、「大化の改新と律令制」、「奈良・平安時代政治日本文化の形成」、そこの叙述の中に、「大和朝廷古墳文化、氏姓制度、大陸文化の伝来、」云々、「学習を通して、わが国がアジアの形勢と密接な関連をもちながら統一に向かい、大陸の影響を受けながら国の文化を発展させていったことを理解させる。」、その次に、「この際、古典に見える神話や伝承などについても正しく取り扱い、」云々と、先ほどお答えしたことが響いてあります。
  92. 小林武

    ○小林武君 神話伝説の正しい取り扱いということは、私の理解では、これは歴史ではないと思う。日本国民である以上は、日本の国に伝、えられるところの、伝承されているところのものを教えることは何らふしぎはない。正しい取り扱いというのは、伝承は伝承として、神話神話としてそれをわれわれが知るということ、それはやはり厳密な意味における国の成り立ちという問題とはこれは切り離されなければならないということは、少なくとも高等学校にも中学校の学習指導要領にも書かれていると私は思っている。あなたたちは加曽利の貝塚を掘って、これはどこの国だとか何とかということを言いますか、もっと以前の、このごろでは旧石器のことまで、あれまでさがしている人があるが、そこらまで国家だとか何とか言わない、石器時代の話が出てくるということは当然です。どうですか、神話との岡が完全に切り離されて、あなたのおっしゃる神話の正しい理解のしかた、それによる国民のいろいろな教育のしかたというものは出てくるはずだと思うのですが、どうでしょう。違いますか。
  93. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 記紀に見えますいろいろな神話、伝承等は、もちろんこれを史実とするかしないか、これは草間上の問題でございます。しかし、国家統一の過程に経験されたいろいろなこと、それが神話や伝承の中に古代人がどういうふうに考えたか、その古代人の思想、信仰、ものの見方、そういう精神生活が反映していることは、これは事実だろうと思います。ですから、そういう神話や伝承は伝承として教える、それが正しい取り扱いだということでございます。具体的にこの指導要領に盛られておりますことを、教科書等にあらわれているのを見ましても、その点は正確に触れていると思うのであります。記紀にこういう神話伝説を集めて、こういうふうに記述されておりますというふうな書き方がされているわけでございます。
  94. 小林武

    ○小林武君 もう少ししっかりしてもらいたいと思うのですね、高校の四一ページ、中学は三三ページ、指導要領のそこに、「古代国家の形成と大陸文化の摂取」というところがある。「国家成立」、これは高等学校の木にも書いてある。中学のほうには三三ページに、「日本古代とアジア」、「国家の形成とアジア」と番いてある、だから、そのことは日本の国の成り立ちと関係があるでしょう。そこではっきり教えなきゃならぬ。どういう教え方をするか、このごろはよくわかりませんけれども、それを教えなきゃならぬ。そうすると、建国とは何かという問題が出てくる。国家の成り立ちをもって建国としたのか、日本の国土の中に人間が住んでおったという事実があればそれが建国なのか。伝承や神話の中に出てくる、それが日本建国なのか。どっちか選ばなきゃならぬ。ぼくは、その選ばなきゃならぬなどというよけいなことを言うのは、あなたたちが選びそうだから言っている。それは言わなくてもわかってる、建国ということをいうからには。その区別、どうしていますか。この中ではどうしているんです、指導要領の中では。
  95. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) これは、国家として形成される過程というものについて古代人がどう考えるかという精神生活を記紀は表現しているわけでございますから、そこで、その書かれている事柄は、当時の人々考え方というものを反映しているものであり、それを正しく取り扱う、こういうことでございます。
  96. 小林武

    ○小林武君 どうもあなたの答えはおかしいな。ぼくのほうがおかしかったら、ひとつあなた以外の、説明員でも何でも言ってくれないかな。何だかあなたの話を聞いてると、ちょっとこっちがおかしいんじゃないかと、だんだんそんな気がしてくる。建国ということをどこにおくかということ、それをひとつ、それだけ答えてください。建国というのはどういうことなのか、教育的にですよ。安井さんのほうは何か政治的にという理解らしいから、教育的に、これはもうわかるでしょう。ぼくは変なこと言ってるんじゃないですよ。この指導要領にあるから聞いている。
  97. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 古代国家の形成ということにつきましては、小国家の分立の状態から統一国家の形成に至る過程を、この国家成立という観点で指導要領は押えておるものでございます。ただ、御質問が、先ほどのに関連いたしまして、ここでは古代国家の形成ということでございますから、すべての意味の近代国家の統一組織、それから領土、国民、こういう一体的な意味でこれが国家だというふうに考えれば、それはまた別の解釈も出てくると思いますが、指導要領で言っておりますのは、古代国家としてのわが国がどういうふうにして成立していく過程かということを正しく教える、こういうことを印しておるのでございます。
  98. 小林武

    ○小林武君 ちゃんと答えてくださいよ。そんなことを聞いているんじゃないんだよ。たとえば、いま建国という問題が問題になっているんでしょう。だから、子供に教えるのに――中学校の子供に教えるにしろ、高等学校の生徒に教えるにしろ、それは段階的にいろいろ教え方あるでしょう。その中で、一体、古代国家成立という時期を建国というのか。建国という問題をいま出しているから言うんですよ、ぼくは。教育ではどう押えるかということを聞いているんですよ。
  99. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 説明員からお答えさしていただきます。
  100. 山口康助

    説明員(山口康助君) 小、中、高等学校を通じまして、日本国家の形成過程と申しておりますので、何年何月とか、何月何日が建国の日だということは言っていないわけでございます。しかし、おっしゃるとおり、考古学的な、あるいは文献的な物的徴証を裏づけとして、日本国家の形成過程を子供たちに教えますと同時に、従来軽視されておった精神的な事実の反映されている神話をも大事に取り入れてこよう、これが指導要領の示しているところでございます。
  101. 小林武

    ○小林武君 何かあげ足とられるかと思って心配しいしいしゃべったらだめですよ。あなたたちはその点では専門家なんだから、思いきってずばっと言わなきゃだめですよ。そういういいかげんなことを言うからだめなんですよ。たとえば、建国記念の日というのができますね。そうすると、私はこの学習指導要領の中に、たとえば社会科のうちにもあるだろうし、それから特別教育活動ですか、その中にもこれは若干組み入れられるんじゃないかと思うんですね。組み入れるについてはなかなか問題があると思うけれども、入れられるのは間違いないと思う。その指導をやらなきゃならない、そういうことになった場合、あなたたちはいまのようなのんきなことは言っておられないですよ。あなたたちのんきなこと言っておったって、学校の先生は困るんですよ。そうでしょう。だから、それはなかなか時点的にとらえることはむずかしいということは、それはよくわかる、当然です。しかし、国家がひとつ建国記念する、建国ということをやかましく言っている、言わぬほうがよろしいといっているんだけれども、やかましく言ってしょうがない。としたら、それは総理府総務長官の権限で、文部省は知ったことではないと、こうは言われない。ということは、教育の問題があるからですね。だからそこは、建国というのは一体どこだということを押えなきゃいかぬですよ。いままであなたたち押えてこないといったら、それはいかぬですよ。局長に押えてこいといったって、あなたたちがやっぱり資料を提供しなきゃいかぬ、そういうことですよ。そういうことから言ったら、どういうことになりますか。――あなたのほうがいい。あなたそれを言い出したんだから、過程だとか何だとかいろんなことを言わないで、ずばりと言いなさい。たいした間違い起こさぬですよ。
  102. 山口康助

    説明員(山口康助君) 建国記念の日ができました暁に、祝日となりまして、それを学校行事に位置づけなす場合にも、取り扱いはほかの祝日と同じでありますから、特に行事をやれとか、やるなという指示はないわけでございます。お祝いの行事を行なうも行なわないも、学校あるいは教育委員会の判断に委ねる所存ですから、その点はよろしいわけです。次に、建国、つまり日本国家の形成過程を歴史的に教える場合に、今後、建国記念の日の制定に伴なって、建国神話が加わることになるわけです。日本書紀所載の神話によりますと、打水の建国はこんなふうに物語られているということを子供たちに先生がお話ししてやるのは、古い歴史を担う国民の教育としてまことにけっこうなことだと思っております。
  103. 小林武

    ○小林武君 まだだめだね。先生がどうやって話するの。指導要領に、あなた、何も明らかにされていないで、先生は何を言うの。先生は思い思いにやればいいのかね。それは先生が学君であって、しかも思い思いにやれればいいですよ。思い思いにやれたらたいへんけっこうだと思う。しかし、そういうことにはなっていないはずだね、いまは。特にこの問題に関する限りは、なかなかそう思い思いにはやれないですよ。あなたたちのほうでそんなことやらせませんよ。一番うるさいのが文部省だ、そういうことになると。そういうあいまいなことだめなんですよ。だからこれについて少なくとも閣議で決定してきたんだろうから。国家でもって、一体、国の立場でこれを提案しなきゃいかぬと、議員提案から変わってきたんですよ。その間において、あなたたちがそうとうえないで、やるもやらぬも御随意で、先生がそれぞれ思ったことを説明して、自分の立場で説明するのがよろしいというようなことを言うなら、それで通せるかといったらそれは通ぜない、おそらく。あなた、いまの質問に対して逃げるだけの話で、実際はそんな形ではいかぬ。そういうものならばそれはたいへんけっこうなんです。お祝いしたい者は、こういうものがあるわという程度ならたいしたことはない。それが一つの強制を持ってくるだろう。この中にも番いてある。「国を愛し」と書いてある。そういうことになったら当然教育の中に大きく及んでくることは間違いないでしょう。そうしたらそういうことを言っちゃいかぬですよ。やはり政府としては、こうなんだ、これをさして言っているんでしょうと、こう言えなきゃだめです。それを言えないのは、文部省が言えないとしたらぼくは誤りだと思うのです。政務次官、ここになると政治的判断になるわけでありますが、文部省はさっぱりはっきりしておらぬということになりますが、これは安井さんのほうは、きわめて神話建国のよりどころを求めています。これは前の臼井長官のときに私が質問したときもそうでした。評紀並びに古事記に盛られているあの歴史の内容こそが日本歴史教育のとにかく教材でなきゃならぬ。それを教えてないことが戦後に歴史教育がないということでございますという、こういう意味の大体答弁をした。これは文部省とは全然違うですね。文部省はそこまでいっておらぬ。だいぶおかしくなってきたけれども、まだそこまでいっておらぬ。安井さん、同じようなことを言っておる。しかし、そういう二様の解釈はいまできない、こういうことになる。あなたはそう思いませんか。どうですか、あなたはそういうことを思いませんか。
  104. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) ちょっと待ってください。名前が出たから、ちょっと釈明しておきますがね。私はいまのそういう日本書紀なり古事記日本歴史の科学性を持った正当な歴史であるから、そういうものを国民に全部そういう歴史学上正しいものとして教えてほしいというような意味のことを言ったことは毛頭ありませんし、また二月十一日という日を政治的にきめようとしたこともない。これは国の建国記念する日なんですが、こいつは非常に象徴的な意味があると思うのです。その象徴的な意味を裏づけるものとしては、そういった神話伝承あるいは国民の伝統、こういうものも考えながら、象徴的にその日をきめるのがよろしい、そうしてそういった神話伝説等のよりどころになっているのは何かというと、これは日本書紀であります。しかし、そういうものに対していま小林委員が言われているような、科学的な実証の裏づけがないということはこれは事実でありましょう。またはそれに対する反論もたくさんある、だが、そういうものはそういうものとして、そういう反論もあるということをこれは学校で教にたらいいんであります。ただ初めから神話伝説あるいは民族の伝承というようなものは何ら日本民族として考える必要はないんだ、こういう考え方にはわれわれは反対である、こういうつもりで、いまの建国の日は科学的に何日であるから二月十一日をとるというふうな考え方じゃなくて、非常に象徴的な建国の日というものをわれわれは二月十一日に求めたい、これは明治の初め以来七十何年間国民の中に非常に膳表してきておることでもあり、また同作に、現在新憲法におきましても、御承知のとおりに天皇国民の象徴であり、民族の統一の象徴である、しかも世継ぎ制度であるということを新憲法は認めて、全国民がこれを認める、こうなっておるわけであります。したがって、建国を象徴する日というのは、世継ぎ制の天皇の先祖といわれておりまする神武天皇即位の日ということがいかにも民族感情としてふさわしいものじゃないかというふうに考えておるのでありまして、無理やりにこれを歴史的に押し込んで、これが正しい歴史だというふうに学校で教えてほしい、そういうふうには私どもは一向思ってない、こういうことだけつけ加えておきます。
  105. 亀田得治

    ○亀田得治君 小林委員が質問しておるのは、建国というものをいつに考えておるのかと、記念日のことまでまだいってないのです。建国というもの自体を先ほどから聞いておるわけですね。それに対して総務長官が、日本書紀、古華語の神武天皇即位の日とこれを考えておると、こうお答えになっておるのです、二、三回。しかし、それは科学的な根拠もないし、少なくとも事実に反すると、しからばいつかということになると、これはなかなか問題だが、少なくとも日本書紀に書いてある神武天皇即位の日というものは、これは事実に反する、これはほとんど学界の通説ですね。きょうの参考人からもいろいろ意見を聞きましたが、そう言われておるのです。ところがそれに対して、その点は大体認めておられるようですね、あなたも。認めておられるようですが、それに対する反論もあるというふうに言われましたが、それは戦前の歴史学においてはそういうものはあったかもしれない。しかし、現状では、建国記念日を二月十一日にするという賛成論者であっても、それは非常に別個な立場でまた賛成されておるのであって、少なくとも建国の日と、日本書紀の二月十一日と、こういうことを歴史学の立場から考えておる人は皆無なんじゃないですか。まあ皆無というと、なかなか一々聞かなければわからぬのかもしれぬが、私たちしろうとなりに聞いておるのでは、少なくともいろいろ立場はあっても、子ういう点はほとんど一致しておると、きょうの参考人もそう言われました。政府案に賛成の方二人が来ましたけれども、その点についてはお二人も、やはりこれは事実でない、少なくともそれははっきりしておるという意味のことを言われておるのです。ところが、あなたの話を聞いておると、何か政府の統一見解というものはそれを認めておるのだというふうな答えを最初聞いたのですがね、おかしいじゃないですかね、あまりにも専門家の意見と違い過ぎるから。で、またそれに対する反論があるとおっしゃるのだが、どなたがそれに対して反論されておるのですか。それは戦前の非常に神がかった歴史学というものの立場で説いておられる方はあるかもしらぬが、そういうことが明治、大正、昭和にかけての歴史を非常に曲げたわけでありまして、そんなものは反論でも何でもないですよ。現在そういうことを反論されておる専門家というのはあるのですか。その二点をひとつはっきりしてほしいのです。
  106. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 何か統一見解でこうきめておると言われる意味がよくわからぬのですが。
  107. 亀田得治

    ○亀田得治君 あなたがそういうような意味のことを言われた、政府の見解を。
  108. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) そういう意味というのは、政府建国記念する日は、これは二月十一日が一番ふさわしいものであろうという考え方でこの原案は出した。建国記念する日なんです、これは。
  109. 亀田得治

    ○亀田得治君 あなたのことばが足らないじゃないですか。
  110. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) それじゃことばが足らなかったら訂正いたしますが、法律案そのものが建国記念の日なんです、建国目じゃないのです。建国記念する日なんです。
  111. 亀田得治

    ○亀田得治君 質問者はそうは聞いておらぬ。
  112. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) ですから、いまの建国がいつであったかということは、これは科学的に、あるいは考古学的に立証されていかなければならぬのでありましょうが、われわれが聞いておる限りじゃ、そういう立証でこの日が正しいというものが定説としてできておるものはない。また、逆に日本書紀自身につきましても、これは歴史学的に非常に疑問がある、考古学的にもこれはなかなか立証できてないという点は確かに私ども認めます。しかも、これは何も終戦後に起こった新しい人の意見だけじゃなく、明治時代から昭和にかけましても、やはりこの日本書紀自身については大きな疑問があるという疑問を投げかけておる著明な学名がたくさんあるわけであります。これは私ども認めます。しかし、それじゃそれにかわって一体建国記念するというような日を定めるのに、どういうほかによりどころがあるのかということになると、総合的に判断した場合に、これが象徴的に二月十一日がよかろう、その点はいまの反論があるし、これは誤謬であると指摘しておられる学者があることは十分に認めますが、なかなかそれじゃこれが正しいのだという定説も今日ない。これが現状だろうと思うのですが、定説がない限り、やはりそういったほかの要素を考えながら取りきめるのが、これが一番穏当な方法じゃなかろうかということで、建国の日そのものを科学的に実証されておるというふうに政府は言っておるわけでもありませんし、また、そういう学説はいま定説としてどこにも出ていない、そういうふうにお考えください。
  113. 亀田得治

    ○亀田得治君 そうしますと、二、三回、総務長官がきょうお答えになったのは正確を欠きますよ。質問者は、建国の日をいっと考えておるのかと、こういう立場で質問しておるのです。記念日のことじゃないのですよ。それに対してあなたが疑義を出されたものですから、われわれも一体おかしなことをお答えになるなと思ったのですよ。だからそれは訂正するでしょう。
  114. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) その点なら、建国の日を科学的にいつどういうふうにきめられるかという問題に対しましては、いろいろ議論があるということは認めますし、少し私が、法律案そのものだと思ったものだから、建国記念の日というものについてのお答えであろうと、ことばをはしょって小林委貸が聞かれたのだろうと早のみ込みをした答弁になっておるかもしれません。その点については、それじゃいまのような意味なら訂正してけっこうです。
  115. 亀田得治

    ○亀田得治君 それは訂正をされた。したがって、建国の日は日本書紀なりに善いてある日と一致するものでは必ずしもないと、こういうふうにはっきりしたわけですが、しかし、学界の定説としては、ほとんどの定説としてはこの二月十一日を建国の日とすることはこれは間違いだ。ほとんどそうなっているじゃないですか、現状では。それじゃ紀元何年のいつごろとするのかということは、これはなかなかむずかしい話です。しかし、神武天皇の二月十一日とこれは違うのだ、これははっきりしておると思います。それに対する反論などはないんじゃないですか、反論があるようにおっしゃるが。
  116. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 私も学者じゃありませんから、学問的にいろいろ全部立証するわけにはいきませんが、この日本書紀でいう神武天皇即位という事実が年代的に見て非常に矛盾がある、あるいはこれは間違っていやせぬかという非常に有力な学説があることはこれは事実でございます。しかし、全部がもうこれは間違っておるというふうに全部なっておるとは私ども思っておらない。それじゃかわりに、一体どういう日がそれにかわる日があるのだということになりますと、これはほとんど定説らしいものはないという実情にあるということがあるわけでして、たとえば、いまの神武天皇以来の年代記をとってみると、年代が、即位の日が百年近くに及ぶといったような一代の天皇もあるから、これはあやしいというような学説もあるでしょう。また、讖緯説によったのだろうという学説もあるでありましょう。しかし同時に、それじゃそのときがはたして全部間違いかどうかということを立証して、こうであるというものを反対に出しておるものはまだない。同じ天皇一代の名前にしましても、あのころは自分の名を、世継ぎのときに同じ名前を二代、三代続けて使ったような場合もあるんじゃないか、そういう場合もあるし、そういうようなことから考える場合には、必ずしもこれは歴史上正しいとは言えない、それじゃ絶対正しいのだという断定で、これは正しいのだという、それを反証した定説もこれはないのだ、これだけはお認め願わなきゃいかぬと思うのです。
  117. 亀田得治

    ○亀田得治君 ちょっと議論がうまくかみ合いませんがね。ともかく神武天皇の二月十一日、これは史実ではない、これは間違っているのだ、これはもうほとんど定説なんです。そういうふうにわれわれは聞いておるわけです。これは紀元節を認める認めない、そういう立場を離れて、その点は。だから、これはそういうところに考え方の混乱が政府並びにわれわれの間にあるとしたら、それはもうちょっと究明しなければいかぬですよ。そういう、ほとんどわれわれが、参考人等からも、定説であります、これを史実として認めることは間違いだと、それに対する反論というものは聞かないのですがね。その点だけにしぼって、ひとつ考え方をはっきりしてください。  それで、その点を抜きにして、ほんとうの日は、建国がいつであろうかというような問題はこれはまた時限の違った問題でして、そこへいけば、たるほどいろいろな説がたくさんあることはわれわれも聞かされましたし、だからその問題じゃなしに、少なくとも神武天皇二月十一日、これを建国の史実という考え方で受け取っておるものはほとんどない。それに対する反論なんてあるのですか、出してください、勉強しなければならぬ。
  118. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 明治の初めに二月十一日紀元節がきめられました場合にも、日本書紀による年代編さんというものを太陽暦に直して計算をしておる、この計算はかなり正確なものであるといったような実証は、いまでもされておるわけであります。しかし、歴史学的に、あるいは考古学的に見て、あの二千何百年前の神武天皇即位というものを、学問的に科学的に全部立証できるかという点になると、これはなかなかいまの日本歴史学、いまの考古学というものじゃ、そこまでの立証はできてないということは事実だろうと思います。
  119. 亀田得治

    ○亀田得治君 いや、私の聞くのは、それはうそのことを立証できるわけがないのですよ。
  120. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) うそかほんとうかはわからぬのです。
  121. 亀田得治

    ○亀田得治君 待ちなさいよ、神武天皇の二月十一日というのは史実でないという考え方がほとんど定説になっているのですね、史実でないということは。あなたは立証せいと言ったって、それはそれなりに理論づけはできているわけですよ。二月十一日を何も立証する必要ないでしょう、それは史実でないというのですから。何もそれを現実のものとして証明されたものはないといったって、これはあたりまえじゃないですか。それよりも、学界ではほとんどそれがもう戦後では定説になってきておる。それに対する反論というものはわれわれ聞かないのですよ。あれを史実と見ないのはいけない、あれを史実と見るべきだ、もっとはっきり言えば、神武天皇一の二月十一日を史実と見るべきだという学者専門家は戦後あるのですか、あったらそれを資料として出してください。研究しましよう。
  122. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) 私ども専門家に聞いておりますのは、二月十一日の日がうそであるというふうに断定して言った学説が多数を占めているということではなくて、むしろその年代の点についてはこれはいろいろ疑問がある。いま先生のおっしゃっている日について、全部が学説として否定しておるというふうには私ども聞いておらないのであります。ただ、その年代の長さというものについてこれは疑問、しかしこれは否定も肯定も日のところがないのであって、しかし、それは何も史実としてだれもいっていない、史実であるか史実でないか確かめるだけの状況にいまの学問がまだなっていないというのが、私、正確な表現ではないかと思うのであります。
  123. 亀田得治

    ○亀田得治君 そんな問題をごまかしちゃだめですよ。建国というものをいつに考えるのか、小林さんの質問はそこから始まっているのでしょう。いまの答えは、年代はなるほど違うかもしれぬ、しかし二月十一日については、相当何か根拠があるようなお話をされる、そうじゃないんですよ。年代が違っておるということになれば、あとの日なんかどうだっていいんですよ、うそにきまっているじゃないですか。建国の事実というものをいま究明しているのでしょう。
  124. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 何回も言いますように、建国の事実というものを科学的に立証されたものはないのですよ、その意味では否定されてもやむを得ないと思う。
  125. 亀田得治

    ○亀田得治君 初めからそう言えばいい。
  126. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 初めからそう言っておる、学問的に考古学的に立証されているものはないのです。
  127. 小林武

    ○小林武君 そんなばかなことを言っちゃいかぬ。山口さんは専門家でいらっしゃいますから、やっぱり建国ということばをどうとるかということ、これはいまのような議論をやっておったのじゃ祝日と教育との分裂があって、建国ということばはどういうことなんですか、私は一つ国家成立というようなことを意味していると思うのです。そういうふうにおそらくとらえていままで言ってきている、過去においては。いまそれを持ってきて、明治のときにきめられたこれをここへ持ってきて出しているんですから、私は建国というようなものは全然どこだかわからぬということはないんですよ。それだったら学習指導要領というのはめちゃめちゃだということになる、そうですね。だから、あなたがやっぱりはっきりここで言わなければならないのは、国家成立というものを教えよと書いてある。その時はいつなんだということがなければならぬ。言えるでしょう、それ言ってごらんなさい。
  128. 山口康助

    説明員(山口康助君) ただいまの御意見に同感でございます。
  129. 小林武

    ○小林武君 ただいまというのはだれの意見ですか。
  130. 山口康助

    説明員(山口康助君) いま先生のおっしゃったように、はっきり建国の事実というものはあったはずだということです。それは今日の歴史学から申しますと、大和朝廷国家統一が完成したころ、それは大体西暦で申しまして四世紀ごろと、こう言っているわけでございます。その一つの有力な徴証は、西暦三九一年の好太王の碑、鳴緑江の中流に通溝という場所がありますが、そこに好太王の碑が立っております。その碑に、倭軍がそこまで攻めて来て戦ったということが書きしるされておる。好太王の碑は明治時代になってから発見されたのですが。そういうことで三世紀の後半から国家統一が進んで、四世紀頃には完成した、こういう教え方で日本国家統一の完成を教えておるわけであります。
  131. 小林武

    ○小林武君 そこで、そういうことを教えなければならないということになっている。そうすると、ただし、安井さんの言い方でも、提案趣旨でも、それから議員立法したときにもなかなかうまく逃げているのだけれども、建国のと、のをつけてうまく逃げている。建国の日と記念すべき日というものをきめる場合に、これはちょっと誤解を起こすのですよ。建国というものはあなたがおっしゃったように、古代国家というものが成立した期間は何日とか、何年何月から何年何月というようなことは、なかなかそういうことを言えと言ったってむずかしいけれども、大体、何世紀のころだ、そうすると、ここらだということが決定できる。そうなりますと、それと神武天皇即位というようなことを並べて、これが建国記念の日ですといったら、これは学校の中で混乱を起こす。どういうふうにあなた説明されますか、その場合。それを聞いておかなければならぬ。
  132. 山口康助

    説明員(山口康助君) お答えいたします。その点は、歴史学的には、三世紀の後半から四世紀日本国家大和朝廷の統一によって完成したと教えているわけでございます。そこで、あわせて日本神話伝説、伝承によると、神武天皇の橿原の宮における即位ですね、こういうものが神話として物語として伝えられているということ、つまり古代人がそういうふうにして甘木の国の建国ということを考えておったという、そういう精神的事実をもあわせ教えることは一向に差しつかえない。しかも、安井長官がお答えになりましたように、建国記念の日の建国という意味は、事実としての建国よりは象徴的な意味建国だと、こうおっしゃっていることに賛成いたします。
  133. 小林武

    ○小林武君 賛成しないわけにいかぬだろうな。そこまで追い込んだのは気の毒だった。しかし、あなた、これから文部省やめたときにはそんなこと言わぬだろうが、歴史家としてはそういうことをおっしゃらないと思う。それはそういうものじゃないのですよ。建国という、この時がそれだからこそ、この時に日本の国というものは国家というものができたのです。もしその当時をしのんで、わが建国はあそこだ、大いに国を思い、こぞって祝おうという気持ちを起こさせよう、こう言っている。これはとんでもない。それをひとつお祝いにしましょうなんという、そんなことは教育的ではありませんよ。あなた、小学校の子供なんか教えたことはないでしょう。指導はなさったことはあっても、先生の立場になってなさったことはないだろう。そんな使い分けはできるわけはない。だから、戦前の教育では歴史神話というものは切り離して考えない。もしも、かりに天照大神というものが存在しなかったとか、何とかと言ったものなら、それこそ入ったきりなかなか出てこられないというような状況になる、事実でしょう、それは。たいへんですよ。ぼくはいつでも言うのだけれども、さし絵にある一つのことでも、もしわれわれが間違った――間違ったというのは、上から言われたとおりのことを言わなかった、新田義貞が剣を投げたら水が引きました、そんなことはないはずだなんということを教えたらたいへんなことになる。いなかへ行ったらそんなことはけっこうあった。これは切り離してはならないという一つ考え方だ。それはあなたに申し上げるまでもなく、教育の目的をそこに集中して、そうしなければならない事情があったのでしょう。それは認めますか。それをあなたいまここへきて、科学時代ですよ、お月様へいま旅行でもしようかといっているときに、そういうぼけたようなことを一体学校でまじめな顔をして学校の先生がやれますか。高等学校の生徒諸君がそんなことを聞きますか。大学の学生諸君がそういうあれをほんとうに民族の日として、再びをもって一体参加していけるかどうかという問題があるのです。そういうことをわれわれ教育の、面では考えなければだめだと思う。だから、私は非常に安易に考えてはいけないと思う。なぜならば、片方においては科学的な教育をやらなければならぬ、一方においてはそういうものがあるということはたいへんなことだ、こう言っている。しかし、あなたとここでそういう議論をしても先へ進みませんけれども、答弁じゃなしに、教育の実態に即してどう解釈するかというようなことをひとつ考えてください。何かそこに言い負かしてやるような材料があったら言ってもよろしい、言いなさい、ないでしょう。
  134. 山口康助

    説明員(山口康助君) 先ほどお答え漏れしたのでありますけれども、祝日と定められたものを学校行事等でどう取り扱うかという問題と、それから歴史の教育においてどういう教え方をするかということは別になってくると思う。先ほどもお答えしましたように、神話や伝承というものが古代人の精神生活を反映しているわけでございますから、これは神話伝承として、その精神的な事実を教えることが非科学的であるということには絶対ならないと思います。そういう神話伝承は神話伝承としてわが国の祖先が持ってきたとうといものでありますから、神話伝承をやはり正しく教えるということもまた教育的な価値が高いと言っているのです。それは単に歴史的事実でないのを歴史的事美であるかのように教えるのは誤りだということとは別問題だと考えます。
  135. 小林武

    ○小林武君 質問をよく聞いてからやりなさいよ。ぼくはさっきから言っているのだ。神話なり伝承されたものを国民として学ばしたり、あるいは学んだりするということはたいへん意味がある、こう言っている。それはどこまでも神話なら神話として、伝承なら伝承としてやるのです。しかし、いまここで言っているのはもっと違うことなんです。日本建国というものをしのんで、そうして非常な期待を持っているでしょう。この中に、「建国をしのび、国を愛し、国の発展を期する」という、そういう大きな使命も与えられている。その場合に、それを神話に求めるということが適当なのかどうかということなんですよ。片一方では科学的な歴史を教えているわけです。昔は少々うそでも、あらましうそでもかまわぬから、大体いまの国の事情に合うようなやり方をやれというのが国史教育だ。いいですか。それを分けて考えなければだめだ、齋藤さん。私は、あなたもうそういう経験がおありだから上言うんだが、何か古事記日本書紀なんというものは見るにたえないということを言っているんじゃない。私も好きだ。これは日本国民であればひとつ読んだほうがよろしい。しかし、それはどこ左でもそういう国の一つの、神代のそういうあれを伝えたところのものである。これは神話として伝えた。しかし、その中の研究の中から全く事実に反することばかりかというと、そんなことはない。この研究によってその当時のことを採り出すということだってできる。しかし、これがそのまま教育の材料として正しいというわけにはいかない。そういうことを認めたらいまのようなあなたの答弁なんというのはいけないですよ。しかし、あなたに答弁してもらう必要がない。  次に、そこで安井さんにお尋ねいたしますが、建国の問題については、あなたも、大体議論の中から文部省でどういうことを教えているかということはおわかりになったと思う。いつ建国だかわからぬ、そんなことないですよ、わかっていますよ。わかっているのに、一体、神代にそれを求めたり神話に求めたりするから問題が起こってきた。そこで、あなたはこれについてこういうことを言っている。そういう「建国記念の日につきましては、建国をしのび、国を愛し、国の発展を期するという国民がひとしく抱いている感情を尊重して、」、「ひとしく抱いている感情」というようなものが、少なくとも神話というような、そういうものに求めることに非常に私は疑問があると、こう言っているんです。日本の一体建国なんということは、国ができたなんということはいつごろかということははっきりわかっている。それを、先ほど来、参考人のほとんどの、少なくともその道の学問だけしている人たちは、だからそのことについてはっきり言っている。神武天皇について、先ほど亀田委員も話されたが、はっきり言っている。いまやこれは国民常識だと、こう言っている。それは認めなければいかぬ。そうしておいて、そういう国民常識化している問題について、二月十一日を選んだことに対してあなたはこう言っている。あなたの提案は、「この日を二月十一日といたしておりましたのは、この日が明治初年以来七十余年にわたり祝日として国民に親しまれてきた伝統を尊重したからであります」、こう書いてある。寄りどころは何か、七十数年の伝統なんです。七十数年の伝統、これなんでありますが、その伝統にたよったわけはどこなんです、七十六年。いわゆる明治時代紀元節をつくったという政府の意図をどう御判断になっているか、それを承りたい。
  136. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 明治は、御承知のとおりに封建時代を脱皮して近代国家として世界国家になった初めての時代なんで、非常に民族的に活力にもあふれ、そうしてまた、いわゆるいい意味の民主主義も取り上げるという気風も非常に強かった時代で、そういう時代に、一ぺん日本民族というものを振りかえって見て、そうして民族のあり方、あるいは建国の象徴的な日をどういうふうにしてきめるかということを明治の初期にきめられた、これが七十何年間、日本の人口に膾炙してきた事実であります。また、それにかわる、それじゃいま建国記念する日といったようなものにどういう適切な日があるか、比べて見ますとなかなかほかに見当たらない。それならいい意味で二月十一日を今後も民主的に生かしていこうということが、民族をしのび、そうして国の基礎を考える上からも非常にいいんじゃないかというふうに私どもは考えておるわけでございます。
  137. 小林武

    ○小林武君 まあぼくの聞こうと思うことはお答えになっておりませんが、それじゃ文部省にちょっとお尋ねいたしますが、明治紀元節を設けたということの、どういう理由といいますか、必要感で認めたかということについて、これは歴史的な解釈をひとつお願いしたい。どういう必要から、あるいはどういうことでそういう紀元節ということを、国家のこれは祭日としてきめたのか。
  138. 齋藤正

    政府委員(齋藤正君) これは文部省としてというお尋ねでございましたけれども、教育上どう取り扱うかということを示している問題でありませんから、むしろ私の考えになると思います。明治政府がやはり封建制度を打破いたしまして、いわゆる幕藩体制を破って、統一的な近代国原に踏み出すという時期に、日本古代の統一に向かった時期、そのことを日本書紀による神武天皇即位日に基づいて、まあいろいろ換算をして二月十日ということを創設したものというふうに考えるわけでございます。これはやはり古い国の過去、あるいは文化遺産、あるいは当時としてはわが国の成り立ちというようなものに思いをはせてつくられたものだというふうに考えておりますが、しかし、このことは、別に明治政府のとった態度について、教育上どう取り扱うかということをいたしておりませんので、はたして文部省の考えというふうな意味でお答えできる事柄では私はないと思います。
  139. 小林武

    ○小林武君 文部省の答えることのできない問題であるということはありません。そんなばかなことはないです。文部省が答えられないことでありますということは、知らないから答えられないのでありますと言うなら話はわかる。これはやっぱり明治時代に、なぜ紀元節が必要だったか、紀元節をなぜ認めたか、あなたはその一端は言った。幕藩体制というものを破壊して、そうして新たな体制が生まれたわけだ。  それじゃ山口さんにお尋ねいたしますがね、これはあなたのほうの専門ではないなんということをおっしゃらないと思いますが、戦前の国定教科書の中に、神武創業の昔にかえり、これは非常にやかましくこの場面だけを教えたのですね。これをあなたは歴史学学者として、研究者としてお考えになれば、なぜ明治のいわゆる初頭において紀元節というものが、いま齋藤さんのお答えになった幕藩体制の大破壊のあとに必要であったかということは、これはもうあなたならば明確にお答えできると思う。これはなぜそういうことをぼくは聞くかというと、いやがらせに聞いているのじゃないんです。これはいまの時代と一体どういうかかわり合いで必要になるかということでぼくは聞いている、そんないいかげんなことを言われないようにぼくは聞いているんです。
  140. 山口康助

    説明員(山口康助君) ただいまおっしゃいましたとおり、明治維新のときに神武創業の古へに返りということばが王政復古の大号令の中に入っております。王政復古の大号令が出ましたのは慶応三年十二月九日、太陽暦に換算いたしますと一八六八年の一月三日でございますが、その中に、古いいろいろの、陋習を破って、そうしてこれから近代国原として日本が出発する、その精神的バックボーンを神武創業の昔に求めると、こういうことになったわけでございます。続きまして五箇条の御誓文の中にも、その神武創業の昔に返れということばはそのまま出てまいりませんけれども、王政復古の大号令で言われておる旧習を洗いという、それが五箇条の御誓文の中にも引き継がれて出てくるわけであります。そういうところから、明治政府は幕藩体制を脱却して、十九世紀世界列強の中にはさまって何とか独立を保全しようとするときに、統一国家を新たにつくるというその意気込みを古い歴史の中から求めてきた、これは私ども歴史学的に考え、研究しております者が受け取っております明治政府の意気込みだと、このように考えております。
  141. 小林武

    ○小林武君 もう少し遠慮しないでお話しになったらどうですか。それだけですか。五箇条の御誓文のことはよくわかったんですが、幕藩体制をあなたは脱却してと言う。それがつぶされた、破壊されたそのあとに何が必要か。いわゆる征夷大将軍としての徳川幕府、これの権威というものは幕藩体制のときは最高のものだった。そのあとにどういう手当てが必要か。もう少しやはり一生懸命聞いてるんですからね、汗たらしながら。もう少しあなたは専門なんですから、そこのところをやはりもう少し紀元節の必要であった理由を言わなきゃいかぬです。私の考えを述べたんじゃおまえの偏見だなんて言われるから、やっぱりあなたの学問的な立場でお述べください。そうしないというと、一体いま二月十一日に固執するという、そういうことがわからない。建国の日なんてのをつくって、昔の紀元節の復活だと思われるような固執のしかたがわからない。どこに意図があるんだということを明らかにしないというと、またわれわれのような――私のようなだ、疑い深い者にはなかなか理解させることができない、また、国民こぞってこれをやるという国民の理解にもなかなかこれは到達できない、こういうことになりますからね。私はそこらのところはやっぱりきちんとやらにゃいかぬと思う。あなたがいらっしゃるから、この際そういうふうにしていただくことが、これからの質疑を非常に発展的に進ませるためにはいいことだと思うからお尋ねするんです。
  142. 山口康助

    説明員(山口康助君) 王政復古の大号令と、それから五箇条の御誓文と、そういう明治国家の出発に当たって、神武創業の昔に返れ、こういう気持ちを定めた、決意を固めたことが、おっしゃるとおり、当然、神武創業の建国神話につながるわけでございます。神武天皇橿原の宮において御即位と伝えられている日本書紀辛酉年春正月庚辰朔を祝って、紀元節というものを明治六年にきめたわけでございます。その点はまことに明治政府神武創業の背に返れという気持ちと、その一つの表現として新たに神武創業の即位の故事に基づいて紀元節を定めたことと、非常に符節が一致していると思います。
  143. 小林武

    ○小林武君 どうも遠慮するね。もう少し、たとえばあなた高等学校の生徒に教えるとなったら、それだけで済ませますか。ぼくは中学の生徒に教えるならばもっとはっきりさせなければ、あの先生さっぱり勉強してきておらぬなということ、いまの生徒は遠慮しませんから、言われますし、あなたからもう少しやはりはっきりしたことを聞きたいと思うのです。神武創業というふうなことを、単に丘箇条の御誓文とか何とかおっしゃるけれども、王政復古の大令もわかった。しかし、もっとあれでないですか。そのことはもっと大事なことが一つあるのじゃないですか、まだ。将軍と天皇というか、そういうとらえ方はどうですか。そういう角度のことはこの配慮の中にありませんか、紀元節の。どうです。あなた紀元節の歌を歌ったことありますか、唱歌。――あるね。「雲にそびゆる高千穂の、高嶺おろしに草も木も、なびき伏しけん大御代を……」、ありますね。だんだんやるとわからなくなるから、そこらでやめておきます。そういうことの考えはどうですか。そうなっていったとすれば、この歌は決してあれでしょう。非常にそういう点ではよく説明できる歌でしょう。その点どうですか。
  144. 山口康助

    説明員(山口康助君) その点は、日本歴史の二千年の中に脈々と流れておりました気持ちが、幕末から明治維新にかけて盛り上がった尊皇運動に徴するまでもなく、さかのぼって建武の中興のときも大化の改新のときも、常に、武家政治や閥族政治日本歴史の正体じゃないのだという考えが、事あるごとに噴出し、倒幕連動の、原動力となったことは御承知のとおりであります。それは幕末の勤皇者の中にたくさん出てまいりました。国学を勉強し、あるいは水戸学の中から。その結果、明治維新が成就しましたときには、おっしゃるとおり、日本天皇の治める国だ、天皇に主権のある国だ、したがって、征夷大将軍は廃絶されたわけです。したがいまして、紀元節というものも、皇室の一番祖先の神武天皇の御即位の創業を祝うというのですから、明治国家はまさに天皇中心の国として日本は統一されたわけです。このことは、あの時点では確実にそう言えると思います。
  145. 小林武

    ○小林武君 一つずつお尋ねしなければ出てこない。たとえばその場合にどうですか。神武天皇は、少なくとも小学校の子供たちを教えるときには、神武天皇の御東征という話が出た。先ほども参考人がそういうことをおっしゃった。ある参考人の話が、ちょっと秦の始皇帝との比較というか、そういうあれと、崇神天皇の文王ですか、そういうようなことをおっしゃったが、だいぶそれについて異議のある方がいらしたようです。それは学問内見地でそういうことを言われた。しかし、武ということ、武がほこをおさめることだとか、そんな文字の解釈、いろんなことを言っても、結局、武力というものでとにかく日本を征服、統一したということは、その当時において日本の富国強兵という一つの政策に合致することもあったのでしょう、そういうことは。軍国主義的な傾向がこの中から出てきたということも間違いない。それの是非の問題は別。天皇制、天皇中心、いま私が言ったこと、そういうことをまとめて紀元節というものがそこに引き出された。このことをまとめてやはりお話しいただかぬとぐあいが悪い。なぜかというと、先ほどから言っている政治要求があってやはりやっている。私は祝日法というものはそういう政治的なものではないと思う。祝日法の第一条の、日本は平和、自由という、こういうことを追求している日本国民祝日でなければならぬということは祝日法の第一条に書いてある。三条しかない法律ですから、あとの二条なんというものは、次の日がこれが祝日だ、こういうことを言ったり、休日だというふうなことを言ったりするだけの話です。この第一条が一番問題なんです。これが一体、紀元節の復活のような形でやってきた場合に、第一条に該当するかどうかという問題が出てくるわけです。だから、もっとそこらの点をはっきりしないと、あなたのほうはやはり全国の教育についてとにかく責任のある立場だ。責任過剰というふうにも思われるような、意識過剰ですね、やらぬでもいいようなことまでやるような傾向もあるんだけれども、やはりそれにしてもあなたのほうでは相当それについて指導、助言の責任があるわけですから、大いにやってもらわなければならぬ、その線でね。その線でやってもらわなければならぬ。そういうことになると、このとらえ方をもう少ししっかりしてもらわないと困ると思うんです。それをやらぬというと、あなたのほうで指導要領の中のたとえば特別教育活動の問題とか、その扱いについても、これは大きな間違いを起こしますよ。そういうことを思いませんか。どうですか。しっかりした分析をもって新しいものがどうであるかという比較をし、どういう点におちいるおそれがありはしないかどうかという問題、それからそれに対していま非常に支持している人たちの意識というようなものはどうで、年齢層がどうで、政治的なそれらの人たちの、要求が何だと、そういう分析をやらぬければこれはいかぬと思うんです。そういう意味でどうですか、何かそれについてお答えありますか。
  146. 山口康助

    説明員(山口康助君) いまおっしゃいましたことも全部総合いたしますと、明治六年、紀元節が設けられましてから、紀元節がどういうふうに利用され、どういう役割を果たしてきたかということを御心配になるわけだろうと思います。確かに大日本帝国憲法の発布が明治二十二年の二月十一日、それから日清戦争の威海衛の陥落発表が二十八年の二月十一日でございます。日露戦争の宣戦布告が明治三十七年の二月十一日でございます。しかし、一方また自由民権運動の拡大、あるいは普選運動の拡大、治安維持法反対大会、護憲三派の運動、そういうもろもろの自由の拡大あるいは平和を願う決意を示し、行動を起こした日が明治の末年以降、大正末年、昭和初年と、年々、二月十一日を期して繰り返されていることは、当時の新聞を見ると明らかでございます。したがいまして、二月十一日紀元節というものが、当時の日本国家体制ないしは雰囲気の中で非常に初めの意図とは違った方向に利用されたことは事実でありますけれども、それをもって直ちに暗いとか明かるいとか、一方に偏して言うことはできません。また、軍国主義につながるとか、あるいはつながらないということも、実は今日のわれわれ次第であって、必ずどちらだと断定することはできません。われわれが今後、日本の、たとえば建国記念の日をつくりました暁に、これをどのようにこれからの国民日本の発展に大いに使っていくかということが、今日のわれわれに課せられた課題だろうと思います。しかも、明治時代にあの国家体制の中でそういう使われ方をしたことを、そのことは事実として認めますけれども、なおかつそういう歴史をわれわれ日本国民が過去に背負っているということをはっきり知ることが、今日からの平和と民主主義と、そういう決意のもとで日本の国を発展さしていく、国際協調に努力していくという国民にとって、当然私はそういう歴史的な背景というものを教えていくということが必要だろうと思います。そういう意味祝日法第一条にも決して矛盾するわけでございませんし、むしろそういうわれわれ日本人の過去の歩み、それも大事な問題を拾って、それを今後の国民教育に寛容に取り入れていく。そして反省すべきところは反省するという態度をとっていくことが大切だと、こういうふうに考えております。
  147. 小林武

    ○小林武君 まあここではあなたに対してはもうやめますが、あなたはいいことを言ったり悪いことを言ったりしてどうも一貫しとらぬ。それはしかしよくわかりますわ。あなたにそれを言えと言ったって無理なんでね、しかし、どこまでもあなたに聞いているのは科学的な立場で聞いているのですけれども、しかし、それは限界がありますからね。これは認めます。しかし、そういう限界のある人に聞かなきゃならなかったことはまことに残念。残念だけれども、しかし、責任者の大臣がきょうおいでにならなかったし、齋藤さんに聞くと何だかだんだんおかしく言うから、それでそこへ行ったんですけれども、それで私は、矛盾しない、いまの祝日法に矛盾しない。それから、これはこれからあなたに厳重にやっぱり検討してもらわなきゃならぬ問題だということは、祝日法と矛盾しないという問題ね。政府原案がそのまま通っていった場合ですよ。通るか通らぬか知らぬけれども、通った場合、矛盾しないということと、もう一つは、一体この祝日の設け方というものが、歴史教育と何ら矛盾しないというようなお話だ。これも重大な問題だ。あなたはその日本国民の負わされてきた過去のさまざまなことを習うということは、これは学習するということは、これはね、決して無駄じゃないし、たいへん大切なことだ。この限りにおいてはだいじょうぶなんだ。わざわざしかし、そのためにだね、これは国民こぞって祝わなきゃならぬということはこれは別個の問題だ。まあ学習するということと、私は過去においてしてきたことを、ただべたほめにやったり、べたくさしにやったりするということでなく、やっぱり客観的に科学的にそういうものを学習させるということは必要だと思うが、あなたそれをごっちゃにするから、どうも話がおかしくなるのだ。この二点だけはいいかげんなことでは済まされないから、やがてあなたたちは何らかの形で全国の教師に対して一つの方式を出すのだから、ひとつ十分お考え置きを願いたい。あなたたちは実際の仕事におつきになる方ですからね。  なお、政務次官並びに齋藤局長にも申し上げますけれども、この点についてはまだまだたくさん問題があるということは質疑の中で十分おわかりになっておると思う。自分のほうだけが正しいなどと、まさかよもや思っていらっしゃらないと私は思う。私はいまあなたたちにどうこうせいというようなことを言うのじゃない。教育とのかかわり合いにおいて、われわれはもっと厳粛に、きびしくものを見なきゃならぬということだけはひとつ十分お考え願いたいと思うのです。  次ですが、これは安井総務長官にお尋ねをいたしますが、どうなんでしょう、安井長官はこういう心配はお持ちにならぬでしょうか。何でも二、三日前に、数寄屋橋で何かハンストか何かやられた方があると聞いているのですね。新聞にはちょっと見なかったけれども。やられた方は神道諸派に所属する方、それからキリスト教関係の方、それからもう一つは仏教ですが、たしか日達宗の関係の方、これちょっと聞いたんです。これは私が行ってみたんじゃないですから、聞いたことですから。これはですね、なかなか私は重大なことだと思うのです。なぜ反対なさっているかということね。で、こういう問題は、どうなんでしょうかね。たとえばはっきりした、この古代国家ができた時期をやるのだということであれば、かなりこれは事実に即している神代の昔の何だと、神社神道の一体言っていることを皆が信仰せいというようなこと、あるいはそれを正しいとしてみんなでやれということになると、それは宗教者の間では非常なこれは問題が出てくる。これらの人の陳情などを受けられて、大臣としては、これはどうなんです。どうもこういうこの哲学的、神学的問題点まで、国が一つの方針を出して祝日としてやるというようなことは行き過ぎではないかということが反対方々のあれだと思う。そういう点はどうですか。どういうふうにお考えになっておりますか。
  148. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 私どもこの二月十一日がきまるということによって、これがまたいわゆる王政復古になるとか、軍国主義に結びつくといったような点のないように、いまも御注意があったように十分な戒慎はしなければならぬと思います。これは宗教的な立場でいろいろな御見解もおありであろうかと思います。宗教的な立場でいろいろな御見解をお立てになる、これはまたいま自由でございますから、そういった点についてとやかく申すつもりはありません。ただ、日本建国を象徴する日としていろいろな諸般の状況を考えるならば、二月十一日という日が好もしいんじゃないかというふうに、全体を総合的に考えておるわけでありまして、それに対して、学説的に異説をお唱えになることも自由であろうと思います。また、その主張の上でこれは自分たちは納得できないというお考えがあっても、これもやむを得ないと思います。そういう意味でいまハンガー・ストライキですか、をおやりになっておるといった具体的な事例は、まだ私も伺っておりませんので、どういう程度のものか知りませんが、いろいろなお立場から、これはいろいろな御意見が出ることはやむを得ない。国民が全部一人残らず一致するというようなことは、今後の民主主義国家じゃなかなかあり得ないだろうと思います。それを全部、国民に何でも一致をさせなければすべていかぬのだというふうに考えると、これはむしろファシズムになる危険もあろうと思います。だから、ある程度は、やはり最大公約数でものを見るという考え方でいきたいと思います。
  149. 小林武

    ○小林武君 えらい最大公約数……。そこで、いまのような議論でなくお尋ねしたいのですが、先ほどから建国のことについて、あなたたちが十一日を言っていることはおかしいじゃないかというようなことを大体言ったので、いまあなたはそれを正しいということを盛んに言おうとしているのですが、これはもう削ったんです。あなた、修正案を提案して、そして修正案の中に、しかも経過として盛り込んでおったために、わが党の議員の中から問題が出たというわけです。そこでどうなんですか。いろいろあなたのほうでも、原案を出す者としてはそういうふうにお考えになったが、国民の祝祭日としてみんながともかく喜べるというもの、みんながとにかく感謝するというようなものをやろうとするならば、もう譲歩せざるを得ないから削られたのですね。だから、私はあなたにお尋ねいたしたいのは、そういういまの立場に立ったら、全部が賛成してくれることはむずかしいから、それに全部に賛成を求めるというのはファシズムだというのは、これはどういうことかようわかりませんけれども、こうなったら、とにかく国会内におけるところの、衆議院では三党、参議院では四党、この三党、四党の意見を十分に入れてやるという考え方がなければ、私は一番やっぱり心配している問題点で、この祝祭日が喜びの祝祭日ではなくして、のろわれる祝祭日になるおそれがある。これは担当のあなたの英断をふるわれるところだと思うわけでありますが、そういうことについての心がまえというようなものはどうなんでしょうか。これは十一日は既定の事実だ、削っていようが何しようが、とにかくきめたほうがよろしいというようなことにお考えになるような、そういうお人柄でないということはよう承知いたしておりますので、御答弁をいただきたい。
  150. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) いままで私が述べておりました事柄は、政府が原案を提出するに至った理由なり根拠なんでございまして、これが衆議院においては、議長のあっせん案によりまして二月十一日は法律の上から削って、あらためてこれは審議して政令で定めると、こうきめられました。それにつきましては、私どもこれは国会できまったことに、当然、政府は誠心誠意をもって従うべきものであるというふうに考えております。また、当参議院へ参りまして、さらに公明党等も入られて、まあ四党になりますか、その他もありましょうが、そういった参議院の審議の過程においていろいろおきめくださいましたことにつきましては、今後ともその精神を私どもは十分に尊重して実施をしてまいる、こういうつもりでおります。
  151. 亀田得治

    ○亀田得治君 ちょっと。そうすると、安井さんのほうは現在は白紙ですか。
  152. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) 個人の考え方までこれはこう強制して直していくわけにはまいらないと思いますが、政府としては、もう完全にいまの衆議院でおきめになった考え方、さらにいま参議院できまります考え方そのものに文字どおり従っていこう、こういう気持ちでございます。
  153. 亀田得治

    ○亀田得治君 そうすると、原案提出の考え方というものは、現時点では一応白紙になっておる、政府として。大事なところですから、もう一度念を押しておきます。
  154. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) これはなかなかむずかしい問題で、たとえばまあ私に個人の考え方まですぐ変えろと言われましてもなかなかむずかしいのですが、政府全体といたしましては、国会できまった、ことにこの審議されております参議院での決定された方針を順守していくということで、これはまあ白紙とか黒紙とかいうような形でなく、文字どおり守って、その精神を政府としては実施に移していく、こういう立場になっております。
  155. 瀬谷英行

    ○瀬谷英行君 その白紙とか黒紙とか言いますけれども、二月十一日を削るというのでしょう、衆議院では。削るということは、なくなっちまうわけでしょう。あとかたもないわけですな。そうすると、日取りについては、これは白紙というふうに言ったっていいんじゃないですか。これは日取りについてはないわけだから、だから、これは白紙という言い方は間違いないのじゃないですか。
  156. 安井謙

    ○国務大臣(安井謙君) そういう意味なら、まさに「政令で定める日」となるのでありますから、法律の上から白紙であります。
  157. 小林武

    ○小林武君 それではもうそのところは終わりまして、一つだけスポーツの日についてお尋ねいたします。これは、スポーツの日を単にきめたというだけではこれは大した意味がないことだと思う。この点について、このスポーツの日が一部の選手たち、少数の選手たちの日であっては、これは別な大会だとか、いろいろな競技会とかがあるわけでありますから、国民こぞってスポーツを楽しむというような、そういう趣旨で、いま案を示せなんというようなことは言いませんけれども、そういう面では体育局長としては十分お考えであると思いますが、そういう理解に立ってよろしいですか。
  158. 西田剛

    政府委員(西田剛君) ただいまお話しのとおり、体育の日は、国民一般、老若男女を問わず、全国津々浦々で体育の実践をしてもらおうという趣旨で、これはいわば体育を日常生活の中に取り入れてもらう、いまの社会が近代化されまして、健康を、体力を阻害する原因も多いおりから、これはぜひ国民生活の中に定着するように、根をおろすようにぜひしたい、こういう願いに立っておるものでございますから、そういう趣旨に沿った計画を実施してまいりたいと思います。したがいまして、大きな大会を用意するというようなことでなしに、全国津々浦々でそれぞれの年齢性別に応じた体育が親しまれるように、どちらかといいますれば、従来スポーツになじんでおるような人はできるだけお世話役に回って、いままでなじむ機会もなかった人たちにできるだけスポーツを楽しんでもらうというような方向にまいりたい。そのためには公共の施設であります体育施設を無料で公開するとか、あるいは学校等、時節柄、連動公等も行なわれるかと思いますけれども、さような計画のない場合には一般の青少年に開放してもらう、あるいは広く老人たちにも歩く運動とか、あるいは簡易な体操をやってもらうとか、各般にわたりましてその日はぜひ実践をやっていただく、ただ休みになったので、うちでごろごろしてもらうというようなことがないように、ぜひ政府といたしましても、環境を整備していくというような意味で、地方公共団体と協力して、あるいは関係者団体とも協力いたしまして、全体として国民がほんとうにスポーツに親しむような日といたしたい、かように考えております。
  159. 小林武

    ○小林武君 私もたいへんいまのような意見に賛成でございます。私もオリンピックとか、ああいう種類の大会に優秀な選手をつくるということも決してこれは無視してはいけません、度が過ぎていろいろな面のバランスを失うようでは困るけれども、そういう点も積極的にやらなければならぬけれども、むしろいまのところは体育というものを楽しむということが国民全体に及んでおらないというところでいまのように着目されておる、それが単なるその日の一日のためではなくて、さらにもっと日常生活の中に体育を取り入れるというような、そういう仕組みにまで及んでいくようなひとつ配慮を、これから文部省は力を入れてやっていただきたいという希望を申し上げ、きょうの質問を終わります。
  160. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 瞬時休憩をいたします。    午後五時十二分休憩   〔休憩後開会に至らなかった〕      ―――――・―――――