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1966-06-02 第51回国会 参議院 文教委員会 第18号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十一年六月二日(木曜日)    午前十時十九分開会     —————————————   出席者は左のとおり。     委員長         二木 謙吾君     理 事                 北畠 教真君                 久保 勘一君                 鈴木  力君     委 員                 楠  正俊君                 近藤 鶴代君                 玉置 和郎君                 内藤誉三郎君                 中上川アキ君                 中村喜四郎君                 吉江 勝保君                 秋山 長造君                 小林  武君                 鶴園 哲夫君                 柏原 ヤス君                 辻  武寿君                 林   塩君    国務大臣        文 部 大 臣  中村 梅吉君    政府委員        文部政務次官   中野 文門君        文部大臣官房長  赤石 清悦君        文部省文化局長  蒲生 芳郎君        文部省管理局長  天城  勲君        文化財保護委員        会事務局長    村山 松雄君    事務局側        常任委員会専門  渡辺  猛君        員    参考人        松竹株式会社常        務取締役     香取  伝君        歌舞伎俳優    喜熨斗倭貞君        早稲田大学文学        部教授      郡司 正勝君        演劇評論家    菅原  卓君        テレビタレント  松岡 壽夫君     —————————————   本日の会議に付した案件 ○国立劇場法案内閣提出衆議院送付) ○教育文化及び学術に関する調査  (私立大学に関する件)     —————————————
  2. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  国立劇場法案を議題といたします。  なお、参考人として、松竹株式会社常務取締役香取伝君、歌舞伎俳優として喜熨斗倭貞君、早稲田大学文学部教授郡司正勝君、演劇評論家菅原卓君、テレビタレント松岡壽夫君の御出席を願っております。  この際、委員会を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。  参考人皆さまには、公私御多用のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。  本日は、目下、当委員会におきまして審査を進めております国立劇場法案について、参考人のお方々の御意見を承り、本案審査参考にいたしたいと存じております。何とぞ忌憚ない御意見をお述べくださいますようなお願いを申し上げます。  なお、議事の都合上、まず御意見をお一人十五分程度で順次お述べをいただき、その後、委員からの質疑にお答えお願いいたしたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。  まず、香取参考人からお願いをいたします。
  3. 香取伝

    参考人香取伝君) 発言をお許し願いたいと存じます。  まず、国立劇場ができますということに対して愚見を述べよというお話でございますが、いささかそれに対して迂遠であり、また、よそ道へ触れるかもしれないのですが、その点も幾ぶんの御容赦を願いたいと思います。  まず、この席を借りまして、私が非常に感謝の意を表明したいという一事は、昨年秋におきまして皆さまの絶大なる御協力をかたじけのういたしまして、私が副団長としまして、ドイツ、フランス、ポルトガルの三国における歌舞伎公演を行なったわけでありますが、その際はたいへんに好評でございまして、皆さまとともに日本の持つ一つ国劇がよき姿において発揚できましたことを心嬉しく、また同時に、これに協力していただいてその推進を願った皆さまへ改めてお礼を申し上げたい。と申しますことは、いままでそういう機会がありませんので、この際において、まことに過去に属することでありますが、深く謝意を表したいと存じます。  向こうへ参りまして、いろいろ向こう演劇も見ました。また、私たちの持つこの国劇歌舞伎というものも、はたして向こうにおいて真に迎合し、また感銘の深いものであるかというようなこともしさいに検討してまいったのであります。わが国には非常によき芸能が、歌舞伎にかかわらず、あるということを私たちはその節知ったわけであります。振り返って考えますと、やはり外国にも実にその国の誇るべき芸術があると同時に、日本においても諸般のこの芸能というものが非常に民族の心というものからきざして、りっぱな芸術の花を咲かしているということを私たちは痛切に感じるわけです。で、この意味におきまして、やはりそれを保護育成するという意味において、この国立劇場設立されたということは、皆さまとともにわれわれは非常に嬉しく存ずる次第でありますが、ただ、この国立劇場運営というものが、どういう形になされていくかということにいささか私は疑義を持っているものであります。と申しますことは、私たち松竹が長き苦労といろいろな諸条件の圧力と戦って歌舞伎保護してまいったのでありまして、やや最近においてはいろいろな意味において幾ぶんそろばんに合うようになったわけであります。しかし、振り返って考えますと、終戦後におきましては——その前、戦争というものが始まりまして、ことごとくこの高級な娯楽というものが停止されまして、その間において俳優の保障、それから終戦におきましてこんとんたる世相でなかなか歌舞伎というものが迎えられませんので、まことに多くの犠牲を払って今日まで持ちこたえたわけであります。また先年、松竹から手放したかのごとき感を持っておりましたあの文楽のごときにおきましても、十何年間というものは実に大きな赤字を出しつつも松竹が維持しきたっていたわけであります。幸いにして、ああいう形に国家保護を受けて文楽が再生するということになって、松竹から離れていったわけでありますが、しかし、その間に累積された赤字というものは、実に会社経営のわれわれとしては忍びがたい大きな赤を持ってあれと訣別したような形になったわけでございます。歌舞伎もまことにむずかしいものでありまして、非常によきものであっても、やはり普及性を持たないというところに難点があるんじゃないかと思います。としましても、やはり一つの持つ伝統的なものを大衆化するために、非常に平易にこれを決定するということもなかなかむずかしいことでありまして、したがって、わからないながら、これをある程度わからしておいて、そうして、古典が持つところの姿をそう簡単にくずさずして、これを維持していくということもなかなかむずかしいことであるわけであります。それは先刻皆さま承知のことであろうと思いますけれども、その中に今日来たっているわけでありまして、いうならば、長く社長をし、また現在、会長をしております大谷竹次郎が、もしかりに歌舞伎文楽というものに大きな生命をかけなかったとするならば、われわれもそれに続いて、経営者もあるいはこの歌舞伎というもの、文楽というものを過去において捨てていたかもしれないのであります。そのくらい会社経営責任者として取り上げる商業一つの方策ではないわけでありましたけれども、しかし、何としても三百年の誇りを持つこの日本のやはり伝統というものを、一ぺんともしびを消しますと、そのともしびが再びつくことはなかなか困難でございますので、採算を度外視して今日まで守り続けてきたわけであります。  そこで、国立劇場ができまして、さて松竹が長き犠牲を払って持ち続けてくれて、今度はわれわれがとにかくその片棒をかついでやるというので、この年間公演七カ月ということになっていると思うのでありますが、どうも私は国立劇場というものができるについて、そもそも初め歌舞伎を主としてやるというのが設立趣旨であったとすれば、多くの人の反対はが然起こったかと思うわけでありまして、国立劇場というものは、やはり外国のもの、日本のもの、日本の持つ諸般芸能犠牲的に上演する、何らかの国家補助において上演するということによって、みんながこの設立に参与し、それからそこにもろ手をあけて賛成したということであるのですが、さて、国立劇場は着々と竣工しつつあるこの過程において発表された国立劇場の主たる目的なるものが、歌舞伎保存という形になっていることは、松竹にとって非常にいいことではないかと多くの人が言うわけですが、私はさにあらずして、むしろ松竹の持つところの、やっといま企業に幾ぶん合理性をもって商業ベースに乗ったものを、さらに国立劇場が何か片手を取るかのごとき、民間の商業を圧縮するような危険がないかということを想定して、非常に一抹の不安を感ずるわけです。それはどういうことかと申しますと、御承知のごとく、なかなかこの豪華な歌舞伎をかけましても、いつも一ぱいになるという状態はあり得ないわけです。ことに、いままでは西、また中京において栄えておりました歌舞伎の姿も、いまや東京の歌舞伎座一軒のみにやっとささえられているというようなことは、結局、動員普及が何としてもはかれないということであるんじゃないかと思うわけでありまして、かつて年間に百二十万の動員をはかったものが、現在においては純歌舞伎という古典中心考えますと、約九十万人ぐらいに減っているわけであります。その動員というものも、二つの歌舞伎を行なう、たとえば国立劇場がいま持ちますところのスターを二分しましてやったとする、それから歌舞伎座は依然としてまたその二分された歌舞伎を続けていくということになりますと、現在の動員しておる人数がふえていくならばいいんですけれども、かりに保有している人員が半分半分を分けとるという形になってきますと、なかなか双方がこの経営が成り立たないんじゃないかということを考えるわけです。一方、国立劇場はもうけなくてもいいんだという考えでおやりになるから楽でしょうが、われわれ松竹株式会社は二十七億の資本のもとで、やはり演劇の負担する利益率というものの責任額があるわけでありますから、どうしてもそれについては松竹が持っておりますところの歌舞伎座演舞場、さらに年間借りております東横ホール、それから西におきましては南座、中座、こういったもので年間何千万というか、何千万なり何億の金をもうけなくては松竹株式会社は二十七億の株主に対して申しわけないのでありまして、その中に主要な利益率をあげているのが歌舞伎座であるわけでありまして、自余の関西の一座におきましては、現時非常な不況におきまして、諸般演劇がなかなか成り立たない中に、ことに関西が非常にいま演劇の収益が低下しておりますんで、何としてもやはり歌舞伎座中心の大黒柱でないと、ささえられた四本柱はうまくいかない形になっているわけです。その中に国立劇場動員がどんどん新しい分野を開拓されればけっこうですが、現在、歌舞伎に来ているやつを半分とられるというと、われわれの仕事は成り立たないということになるわけでして、まことにむずかしいことでありまして、やはり国立劇場におきましても、しかるべき対策を講じられると思うわけですけれども、現在われわれの情勢を判断しますと、そういう結果を招くんじゃないかと思っているわけです。それから同時に、われわれとしては、なるほど松竹が長い間犠牲を払って、おまえたちがいつまでも犠牲を払ってはなかなかうまくいかないから、国家補助の上に国立劇場を立て、主として歌舞伎を行なうよというおぼしめしはけっこうでありますが、そういうわれわれの営業がむしりとられるような危険があったとすれば、まことに残念なことでありまして、深くわれわれは心配するのであります。  それから同時に、ただいま申し上げましたとおり、やはり何で歌舞伎を主としてやらなきゃならないのかということ、それは現在において商業ベースになっているのが歌舞伎かもわからないけれども、しかし、たとえばオペラにしましてもバレーにしましても、言うならば一つ資本を持たない、それから劇場を持たないんで、真にその真価を発掘し得なかったということも私は言えるんじゃないかと思います。その場合において、やはり長く研究し、また修練したものをもう一ぺん繰り返して、これで真にこれがいまの民族芸術として成り立つかどうかということも大衆に訴えて、しかるのちにこれが取捨されるということが適切ではないか。また、分野は違いますけれども、いま新劇におきましてもなかなか経営がむずかしいわけでありまして、みんな新劇の人は、自分新劇分野において真に自分の持つ真価を発揮すべく公演を行ないたいのでありますけれども、なかなか劇場がない。それからまたいろいろそれに投資して準備する金もないということで、映画に出、それからテレビに出て、そのかせいだ金で皆が公演を行なっているというような状態でありますので、これなどもどんどん取り上げていただいて、真にやはり新劇というものの価値がどこにあるかということを大衆とともに見分け、聞き分けていただいてどんどん上演されるということ、それからまた、外国のすぐれたものをどんどんここへ持ってきて、そうして国家補助の上でやられる、これが国立劇場設立される趣旨ほんとうに沿うところの真理じゃないかと私は存ずるわけであります。自分らに味方されて歌舞伎をやってくださるのはけっこうですが、何か広い意味に私たち考えますと、いかにもこの国立劇場が偏狭な一つのあり方を示してくるように、最近——これは私の憶測であります。もちろんこれが本院において審議されてこの動向がきまるわけですけれども巷間伝わっているところをいろいろみますというと、何か歌舞伎に偏重していくものがあるんじゃないか、その偏重に対する反撃というもの、各方面のいままで設立に協賛した側の非常に憤激を買っているということを聞くに至りましては、単にわれわれの所属の歌舞伎を取り上げてくださるからありがたいということにはいかないんじゃないかということから、私はあえて本日、国立劇場法案を御審議なさっております諸先生に対して、まことに不遜のことばかもしれないですけれども、芸能に席を置く一個の人間としての所懐を述べた次第であります。  なお、尽きせぬところはまたお尋ね願ってそのつど、お答えしたいと思います。  まことに何かと放言を吐いたかのように存じますが、お許し願いたいと存じます。(拍手
  4. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、喜熨斗参考人お願いいたします。
  5. 喜熨斗倭貞

    参考人喜熨斗倭貞君) お指図によりまして、しばらくお耳を拝借さしていただきたいと存じます。  私は市川中車歌舞伎俳優でございますが、私は能楽及び文楽無形文化財として指定されておりまして、なぜ歌舞伎無形文化財にならないかという疑いをかつて持っておりました。わが日本政府が御理解あって、昨年、歌舞伎保存委員会というものができ、その団体を無形文化財として指定してくださいました。たいへんわれわれにとってはありがたいことだと存じております。それに先立ちまして国立劇場設立が計画されまして、いろいろ皆様方のお力添えもございまして、私も国立劇場設立委員会にたびたび出席いたしまして意見も述べ、また、いろいろお伺いいたしました。われわれ歌舞伎俳優としては、まことに起死再生と申しますか、砂漠にオアシスを見つけたと申しますか、この国立劇場設立は何とお礼を申していいかわからないくらいでございます。私は現在建設されております国立劇場の前を通りますときに頭を下げて通ります。それはあの前を通るときに歌舞伎俳優としてこの国立劇場を建てようと御企画くださった政府及びその皆さん、あるいはそれに対して現在尽力していらっしゃる当事者、また、本日お集まりのこの国立劇場法案を御審議なさる皆さま、あらゆる方面の方に対して、感謝の意と申しますか、自然に頭を下げて私は通っております。私も歌舞伎俳優となりまして五十三年ばかりになりますが、早く国立劇場の舞台に立って、自分の天職である歌舞伎演劇をお見せしたいという念願で一ぱいになっております。  ただ、なぜ歌舞伎がそこまで保存されなきゃならないかという理屈は、これは皆さまも御存じのとおり、古典演劇である、日本のよき演劇であるという御認識だと存じております。終戦後、非常に外国人日本へおいでになられまして、歌舞伎ごらんになって、おせじでなく、歌舞伎のいいところを指摘なすっていらっしゃいます。また、私は、いまの世の中が非常に低下しているんじゃないかと思っております。これは、ことに若い層——終戦後、青年層低下ということは皆さまにおいてもお気づきではないかと存じております。現在、デパートへ参りましても、あるいは劇場映画館へ入りましても、食堂へ行っても、あるいは道を歩いても、若い人たちの、何と申しますか、礼節を知らないというか、非常に寒心すべき状態だと存じております。これは終戦後の教育と申しますか、あるいは民主主義というもののはき違えと申しますか、いろいろございましょうが、私は家庭教育に非常に欠陥があったんではないかと思います。そういう意味で、この歌舞伎をもって世の中低下を少しでも向上させる役割りをつとめることができますれば、望外の喜びだと存じております。  その意味において、衆議院文教委員会で審議されました修正案がございます。  国立劇場法案に対する修正案  国立劇場法案の一部を次のように修正する。  第一条中「国立劇場は、」の下に「主として」を加える。  第十九条第二項中「第一条の目的達成支障のない限り、」を削る。  第一条は、ごらんのとおり——ここにはお持ちでないのでございますか。「第一条国立劇場は、わが国古来伝統的な芸能の公開、伝承者の養成、調査研究等を行ない、その保存及び振興を図り、もって文化の向上に寄与することを目的とする。」、その「国立劇場は、」の下に「主として」というのを入れるという修正案がございます。また、第十九条第二項と申しますと、「国立劇場は、前項の業務を行なうほか、第一条の目的達成支障のない限り、前項第一号の劇場施設を一般の利用に供することができる。」、この「第一条の目的達成支障のない限り、」というのを削るという修正案がございます。これはまことに当を得た御修正案ではないかと私は考えます。と申しますことは、国立劇場創立委員会で、もう基礎工事もできましてから会合がございましたときに、私は当事者の方に質問をしたことがございました。この国立劇場は、歌舞伎の、古典芸術保存だけであって、歌舞伎発展ということをお考えにならないのでございましょうかということを質問いたしました。そのときの御答弁では、とりあえず古典芸術を正確に保存するのであるというお答えでございました。  かつて、私は中国の招きによりまして、なくなりました兄、先代猿之助とともに、歌舞伎を持って中国へ国賓として呼ばれたことがございます。そこで、中国の各劇場歌舞伎を演じましたが、そのときに、劇場に毛沢東のスローガンとしてこういう意味のことが書かれてありました。古きも新しきも百花らんまんとして芸術の花を咲かせろ、こういうスローガンがございました。共産国ではありますが、なかなか芸術に対してはいいことを言うなと思っておりましたが、これは国立劇場も、そういう意味で、古き古典芸術である歌舞伎を正しく保存していただくと同時に、歌舞伎発展をおはかり願いたいと存じているものでございます。  それからもう一つ国立劇場法案に対する衆議院附帯決議といたしまして、「政府は、伝統芸能以外の芸能振興を図るため、施設その他につき、必要な措置を講ずべきである。」という点と、「国立劇場において行なう芸能について、入場税は、すべて課さないよう速やかに検討すべきである。」、この二条もまことにごもっともな案であると私は存じます。ことに、この第二項の入場税につきましては、ここに松竹香取氏もいらっしゃいますが、別に松竹に頼まれたわけでもなく、東宝に頼まれたわけでもございません。当然、国立劇場入場税は撤回されるべきであり、また、戦後悪税とされておりまするこの入場税は、承るところによりますと、大した収入ではないと伺っておりますので、できますれば入場税の撤回も同時に行なっていただけば、各演劇関係者喜びはいかばかりであるかと存じます。  以上、私の参考人としてのごあいさつをこれで終わりたいと存じます。(拍手
  6. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 次に、郡司参考人お願いいたします。
  7. 郡司正勝

    参考人郡司正勝君) 私、適任かどうかわかりませんが、御指名によりまして一言申し上げたいと思います。日本演劇を研究している者の立場から申し上げますので、どうぞそのおつもりでお聞き取りいただきたいと思います。  文部大臣が提出されております国立劇場法案提案理由は、これはまことにもっともなことだと思います。国立劇場ビジョン明治以来ずっと日本人が持ち続けてきましたものですが、明治時代と今日とは全くその考えているビジョンが違ってきて当然だとまた思います。ただ、国立劇場は、いま香取さんや何かからも申し上げられましたように、いろいろの諸般芸能が同時にされるのが理想でございますけれども、いろいろな理由によりまして、古典芸能を先にするということもこれはもっともなことだと思います。と申しますのは、古典芸能、具体的に申し上げますと歌舞伎ですが、この古典というものは、先んじますのは、常に現代新しく生まれてくるもののかがみとして古典は必要なものでありまして、今日のごとく、ことににせものと本物の区別のつかない世の中にありましては、ことに古典というものをはっきりとした柱に立てませんと、新しいものが生まれてくるその基準になるかがみがないということになりますので、古典現代のかがみとしてまず第一に必要で、これをもって先んずるのがほんとうだろうと思います。ただ、このかがみがゆがんでおりましては何にもたりませんので、ゆがんだわれわれの現代のものでそれを反映させましてはかがみもゆがんでしまいます。つまり芸能は生きものでありますので常に動きます。したがって、古典を正しい道に置く、正しい位置に置くということが大事なことになろうかと思います。それを国立劇場がやるべき仕事だろうと存じます。ことに国立劇場歌舞伎をやります急務を申し上げますと、文部大臣も申しましたような理由でございますけれども、一つは、商業劇場というものは、先ほど香取さんも申し上げましたように、松竹がこれまで歌舞伎をもってきた功績はたいへんなものだと思いますけれども、一番最初にやはりそろばんが先に立つものでございます。これによって古典はある程度変質しなければならないわけであります。それが一つ理由でございます。  それから近来ことにテレビや新しい分野芸能が進出してきておりまして、それによりまして歌舞伎俳優テレビであろうとラジオ、いろいろな分野に活躍をし出しました。したがって、歌舞伎本質自体もそれによって変質するおそれは多分にあるわけでございます。古典であります以上は、どこの国の古典にいたしましても、今日の芸能と違いますので、退屈さ、わからないという点はどこでもこれはつきまといますので、それをわからせようと、現代に売ろうとするためにはゆがめなければならないということが起こってまいります。わからせるということと、芸術が持っていますその根本の感動ということとは別問題でございます。わかっても芸術本質だということはできません。わからなくても感動させるという第一条件があるわけでございます。  それで、先ほども香取さんが危惧なさっておりましたけれども、歌舞伎劇団が引き裂かれるということ、こういうことを御心配なすっておられるようでございますが、確かに今日歌舞伎松竹の一手によって保存されてきておりますので、どうしても松竹さんの手を借りませんと上演はできかねるわけでございます。しかし、何も向こう俳優さんを全部半分に引き裂かれるということでなくして、商業劇団のアルバイトに国立劇場でするのだということでは、やはり国立劇場の本旨にかかわるわけでございます。   〔委員長退席、理事北畠教真君着席〕 したがって、国立劇場は本来ならば専属の劇団を持つのがほんとうだと存じます。この専属の劇団は、あるいはイギリスにならって契約制度でもよろしいかと思いますが、また、全部が一流の俳優ばかりを国立劇場にやることが保存になるかどうかということも一つは問題がございます。そういう方々は指導の位置に立っていただければ、その中で若い者を国立劇場で養成をしていただければ、それでその方向の立つものだと実は存じます。したがって、その上演をいたすために一つの研究機関ということがこれは並行した大事な問題になろうかと思います。  また、この国立劇場が常に外国ビジョンが頭にありますために、日本国立劇場、つまり日本演劇を主体にした国立劇場でなく、まず外国国立劇場ビジョンを持ってきてそこへ日本本質を当てはめようとする、これは無理なことでございます。その無理はもう劇場それ自体の処置にあらわれておりますので、それは日本演劇本質ということをお考えくだされば、日本芸術は大体は一つの入れものに一つ芸能がある、これが本質でございます。たとえば舞楽にしましても舞楽の舞台、能にいたしましても能舞台、文楽にいたしましても文楽の舞台、歌舞伎にいたしましても歌舞伎の舞台というものは融通がきかないものでございます。これが日本芸術本質でございます。これは茶の湯に茶室が要るように、日本芸術に通ずる性格だと思いますけれども、これを無視して融通のきくような国立劇場というものは、もう日本国立劇場ではないと思います。したがって、歌舞伎保存するためには、回り舞台と花道のりっぱについた舞台が必要でございます。しかもドラマである以上、どこの外国におきましても千人以上の劇場というのはまず無理でございます。この無理は、諸般の事情によりまして独立採算という一つの壁がございますので、それによっていろいろな本質がゆがめられることはこれは不本意なことで、そのために本質が二の次になるということが一番私どもの危惧するところでございます。いまの古典が、歌舞伎が変質して変わっていくということになりますれば、これはもう日本だけの問題じゃなくて、世界に対しても日本民族の責任があることで、それだけ歌舞伎、能というものは世界においても独特な芸能でございまして、かけがえのない芸術でございますので、その本質国立劇場によってゆがめられるということになりますると、これは重大なことでございます。ぜひ、本質の研究からほんとうは始められて形ができるのが本来ですが、日本はなかなかそういう事情でいきませんので、まず形ができるというのも一つの行き方だと思いますので、これは必ずしも一本で通そうというのではございませんけれども、したがって上演をいたしますのにも、歌舞伎考えますのにも、現在の時点のみを目標として古典芸能考えられないということで、長い歴史の上で将来に向かって考えなければならないので、現在の時点から常に歌舞伎を批判することはこれは違うのじゃないかと思います。したがって、国立劇場で上演されます歌舞伎は正しい方向、姿勢を正すために常に審議機関と申しますか、研究機関と申しますか、それが同時に有効に並行して働かなければならないものだと存じます。ぜひそのことを要望したいと思います。  たいへんまずいのでお聞き苦しいところがございましたでしょうが、どうぞよろしくお願いします。(拍手
  8. 北畠教真

    ○理事(北畠教真君) 次に、菅原参考人お願いいたします。
  9. 菅原卓

    参考人菅原卓君) 本日の議題は、国立劇場法案を対象としての議題だと思うのでありまして、それで国立劇場法案という場合に、私どもはそれが議会に提出されたというときに、国立劇場そのもののビジョンをもって日本国立劇場というのはどういうものであるかということが、法案として提出されたのだと思っておりましたところが、案に相違いたしまして、今度できる国立劇場そのものの建築物に関係する法案であったというところで私どもは非常にあわてたわけでございます。日本国立劇場というものは、やはり現代芸能とそれから古典芸能とを、両方をうまくコンバインドしてどういうふうに持っていくかということが国立劇場そのものの使命であるということは、国立劇場設立準備協議会ですか、あのときの最初の意思表示がありまして、それが、いろいろと実際に照らし合わせまして、何を早くし、何をおそくしてもいいかというようなことで最後に準備協議会でもってきまりました。私も参加いたしておりましたけれども、準備協議会で協議されて、そしてあの敷地がきまり、そしてそこにどういうような劇場を建てるかといったときに、現代芸能の二千人の劇場を建てるということと、それからいわゆる歌舞伎用の古典芸能用の劇場と、二つの劇場を建てるということで、はっきりとその意思は決して曲がっていなかったと思うのでございます。  国立劇場というものは、古典伝統芸能保存し、育成し、そして将来へつないでいくという重要なる使命を持っている一方において、現存われわれの国の中にある現代芸能というものを、世界の、国際間の視野からながめてこれをどうするかということ、それ自体が重要なる課題であるということは非常にはっきりしていたわけでございまして、この二つを並立さして国立劇場というものを建てようということ、それが本来の国立劇場の使命であるということ、これは明瞭でございまして、しかし、その場合に、あの建物に高速道路が通るとか、いろいろな問題が起こりまして、主として現代芸能と申しましても、オペラ、バレーというような世界に通じる、どこの国でも国立劇場というものが必ず持っているそういうような劇場日本にも必要だ、そういう施設が必要だ。それは、日本にいまだかつて一つもない施設であるのだから、そういうようなものをつくろう。それはぜひ必要だ。現代文化の上からいっても必要だということで、その建物を建てることにきまっておったのでありますけれども、たまたま高速道路が通り、建蔽率その他の問題からして、それではどうするかということの問題になりまして、それでいま一番究極の時点に立ってわれわれ考究いたしまして、それではまず歌舞伎のための大劇場をつくる、それからもう一つ、やり場所のない文楽という重要なる使命を持っているところの芸能日本にあるのだから、その劇場、舞台というものをつくる、この二つを入れられるような劇場国立劇場の中につくるということでありまして、第二次案というものでもって国立劇場現代芸能劇場をつくるということは第二次案としてはっきりきまっていて、これを決して見落としてはならないという議事録まであったと思うのでございます。  ところが、たまたまこの劇場案を提出いたしましたのが文部省の芸術課ではなくして、文化財保護委員会がこれを提出いたしまして、それが通りました関係上、文化財保護委員会の管轄にこの国立劇場そのものの主導権が移ったようにわれわれには思われます。しかし、それは現代芸能というものも決して忘るべからざるものであるということは何度も協議会その他でもっていろいろな人が申し上げ、それは全員が納得していたところでございますが、建蔽率その他土地の関係からいたしまして、この現代芸能は第二次に見送って、そして第一次、今度建ちますところの国立劇場の中へへ歌舞伎古典芸能であるわれわれの大事な国劇であるところの歌舞伎をどういう形で、どういうふうに発展させ、将来に受け継いでいくかという使命を負った劇場を第一劇場におさめ、そして第二の小劇場において、文楽、場所も持っていない、舞台も持っていない、何にも持っていないという、つまり無形文化財に場所を与えるという使命が、ここに完成することになって、われわれ現代演劇関係の人間といたしましても非常にほっとしたような形であったのであります。  ところが法律案、日本国立劇場法案として出てきたものに、現代芸能というものは全然抹殺されておって、先ほど中車君が申し上げましたような、国立劇場古典芸能保存とか何とかいうところに片寄ってしまったということであって、現代芸能というものについては何にも触れていないような、これは第一の目的古典芸能保存し、すいているならば、ひまができたらこれは貸してやろうという形に、法案が貸してもいいのだという、貸し小屋にしても、国立劇場が貸し小屋であるということは世界の歴史の中で非常に珍しいこれはちょっとふしぎな現象であると思うのでありますけれども、しかし、それもやっぱりいろいろの予算関係その他でもってやむを得ないし、また、広くこれを公開するということは、これをあえて反対はいたしませんけれども、しかし、できることならば、この国立劇場がせっかく建ったものを、広くよいものにこれを選択して使用してもらうということ、これは当然のことだろうと思うわけでありまして、そういう意味からいたしまして、われわれは衆議院法案が提出されましたときに、驚いて、案に相違したということで、われわれは趣意書を提出し、そうしてわれわれの意思を明示して、そうして皆さまがたのところに御協議願うように、さらに修正案をつくっていただくと、法律そのものが実際問題といたしますと、この法律というものは、日本の国立古典芸能劇場であるか、あるいは伝統芸術劇場であるか、そういうような名称がつきましたものが国立劇場と、いわゆる一般の世界的通念で言うとナショナル・シアターという名称でもって呼ばれたところに、何かそこに落ち込んでしまったということが、実際面と建築そのものとの関係もありまして、そういうふうな錯覚におちいってしまったのじゃないかということを考えて、これは相当のゆゆしき問題であるということを考えて、修正していただけるように飛び回ったりもいたしたような次第でございます。幸いにして衆議院修正案及び、大事なのは附帯決議のほうだと思うのでございますが、現代芸能について十分国家は考慮する必要があるのだ、政府は。というような文章になっておりますけれども、そういうふうなことで、現代芸能は決して今度の国立劇場法案の中で忘れられておる部面ではないのだということが明確になったことを非常に喜んでおるわけでありまして、さらにこれを推し進めて、参議院においても御検討願って、この趣旨が曲がりなく通り、そうして世界に向かって日本国立劇場法案というものが、現代も忘れていない、現代ばかりでなく将来も忘れていないのだということになるように、ひとつぜひともお願いしたいというふうに思うわけであります。  国立劇場というものは、本来、先ほどからお三方の御説明がありましたようないろいろな問題を含んでおると思います。新しい日本の立場に立って、これを推し進めるということになるわけでありますけれども、国立劇場本来の使命というものは、過去の伝統を現在にどう受け継いで、そうして将来に向かってこれをどういうふうに保存し、発展さしていくかということに尽きるのだと思うのであります。ことに演劇というもの、芸能というものは生きものでございますので、この生きものであるというところが、博物館に押し込めるようなわけにもいかず、これをただ図書館のようにたなをつくってこれを備えておいて、見たい者だけ見るというわけにもいかぬのでありまして、やっぱりパブリックな、たとえば公園のような性質も持っておりましょうし、いろいろな性質を持っている生きものであり、演じる者も生きものであり、見る者も生きものであるというところの性質が、どういうふうにこの国立劇場を、われわれの世代において過去をどう受け継いで将来にどう受け渡していくかということの問題をはらんでいるわけでありまして、だれにも一番いい解決策というもの、答弁というものはなかなか出ないのだと思います。先ほど郡司君が申しましたように、研究機関なり何なりというものは、これはぜひとも必要でありまして、どういうふうに、何が本質的に日本歌舞伎なり文楽が正しいか、どこがいいのだ、芸術として将来にどういうふうに残していくべきか、そのことが完全に行なわれたならば、これをいかに商業的にうまく利用していくかということは、これは松竹さんの役目として、商業演劇的なこれが花を一そう咲かしていくことになるであろうというふうに考えておりまして、少なくともこれは文化財保護委員会だけの問題でなくて、今度できました文化局も相当力を入れてやらなければならない問題であるというように私には思えるわけであります。  また御質問等ございましたらお答えするといたしまして、一応、法律案に対する意見を申し述べたわけであります。(拍手
  10. 北畠教真

    ○理事(北畠教真君) 次に、松岡参考人お願いいたします。
  11. 松岡壽夫

    参考人松岡壽夫君) おはようございます。私は本日の肩書きはテレビタレント兼作曲家ということになっておりますけれども、考えてみますと、全く関係性を持たない、適任じゃない、不適任というそしりを受けることもやむを得ないと思います。その点ももう一度御一考を願う意味で、本日は、世田谷区北沢五丁目に住む一国民として、特に商売の関係上、現在、国内において上演されておる、また公演されているところの芸能に関心を持っている一人として発言さしていただきたいと思いますので、よろしく御了承をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。  思いますれば、明治十九年、十二世守田勘弥が中心になって国立劇場設立の計画が立てられてから、明治、大正、昭和と、御存じのとおり三代の夢でありまして、この四十一年の国立劇場のこけら落しというものは、実に八十年目の快挙と言えるわけです。八十年と一口に申しますと一世紀に近いのでありまして、どうして今日このように重要な協議がされるような国立劇場が一世紀近くにわたっておくれてきたかと申しますれば、わが国のやはり文化政策の弱点あるいは弱さ、そういうようなものを物語っているんじゃないか、こういうふうに感じられますし、実は私、えらそうに八十年と申し上げましたけれども、国立劇場がこけら落しの運びになるので、一体いつごろから計画があったんだろうとあらためて調べたような現状で、現在の国民は、いま本日ここで協議されておりますこの国立劇場の問題に対しても、あまりに関心がないというのが実情であると申し上げても決して過言ではないと思います。そういうような文化対策に対する日本の政策の弱体が、国際的な外交の友好の点においてどのような弊害がきているかということを、一がいにそれのみとは言えないと思いますけれども、つい二、三年前までは、ロンドンなどの学校の教科書の日本の風俗を紹介する写真の中に、芸者が人力車に乗って引かれているところの写真が載っていたとか伺っておりますけれども、あまりにも日本の風俗、あるいは文化に対する諸外国の無理解というのは、やはり八十年、国立劇場の計画が立てられてから今日まで延びたような弱体が、そのような影響をもたらしているのではないか、このような一つ理由の判断に立ちまして、国連加盟諸外国における有名なフランスのコメディ・フランセーズとか、オペラ座、イタリーのスカラ座、オーストリアのウイーン国立劇場、ソ連のボリショイ劇場などをはじめとして、加盟国では二十三カ国目に日本も加わったわけであります。したがいまして、国立劇場という舞台で上演された限りは、その国におけるところの演劇古典、あるいは現代の最高の権威と内容があるのだということが対外的に認められ、今後、国立劇場で上演された演目が諸外国とお互いに交流をはかれるようになっていますれば、日本文化、あるいは思想を理解していただく上に大いに役に立つのではないか、このように判断をいたしましたたてまえから、国民の一人として、今回の国立劇場のこけら落としは、ほんとうに心から喜び合いたいと思っておるわけでございます。  しかし、いずれにいたしましても、今回は初めてのことでございますので、その内容、あるいは運営方法については、さらにさらに詳しく、ただいままで参考人の先生方からもお話がございましたけれども、さらにさらに詳しい研究を行なって運営をしていただきたいという切望は、もうひとつ立ち入ってその内容を申し上げますれば、先ほど香取参考人がお話ししたように、主要な利益をあげているのは歌舞伎座である、だがしかし、歌舞伎というものは、大へんにいまやピンチに追い込まれている、しかし、二十七億の株主の面目を一新するような、主要なところだけは歌舞伎座であげているのが現状であるというようなところへくるまでに、松竹としていろいろ長い間なみなみならぬ苦労をしてきたことは推しはかることができるわけであります。さきに文楽が泣きの涙で松竹から離れて、大阪府、あるいは財界人、大阪市の財政の保護のもとに今日あるという話も聞きました。思えば歌舞伎もやがてはそういうような状態になっていくのじゃないか。しかし、なぜ今日こうやって伝統芸能として非常に重要視されております日本歌舞伎が、このように保存会だとか、先ほども喜熨斗参考人から無形文化財、ことばを変えれば無形文化財と指定された芸能はすでに衰退している、国民から離れているが故に無形文化財と指定しなければならない、そういうふうにも読み取れるわけであります。   〔理事北畠教真君退席、委員長着席〕 なぜそうなったかといえば、もちろん芸能の中にはすばらしい芸術本位の伝統もありましょうし、また、姿の点で申しますれば、正しくない姿の伝統もあって、それが家族制度を主体とするところの日本芸能愛好家の皆さんに好感が持てないような向きがたくさんあったがために、次第に一般大衆から離れて、今日のような歌舞伎のピンチを迎えたのではないかという見方もあるのだろうと思うのです。たとえば日本芸能歌舞伎がきょう主体に話されておりますけれども、邦楽にいたしましても、日本舞踊にいたしましても、どのマーケットを主体にして、その運営をなされているかといえば、三業を主体としてかろうじてそういう運営がなされているわけです。その三業を主体とされて運営されているがゆえに、そこにはやはりスポンサー制、どうしても費用がたくさんかかる関係上、発表するためにはたくさんな膨大な費用がかかるために、特定のスポンサーを設けて、そしてなみなみならない苦労をして芸能を維持していかなければならないという言い分もあるでしょうけれども、そういうような底辺のつながりがだんだん積み重なって歌舞伎というものに国民感情が結びついていく、しかし、いまは人口に膾炙されないような芸能になって、今日五カ月間、複雑な歌舞伎座の上演のスケジュールを見ておりましてもわかるとおり、そのほかの七カ月はどうであるかといえば、映画俳優、あるいは歌謡曲の人気歌手、こういう人たちを主体として人気を集める。またさらに、マーケットだとか、あるいは各団体に呼びかけまして、団体券を売って、かろうじてその客席のキャパシティーを埋めているというのが現状だと思うのです。それから見ますと、歌舞伎の今度の上演のスケジュールを見ましても、七カ月が本公演で、今度見ますとまた二カ月ふえております。五十日が一つございます。小劇場でまた二カ月がございますので、延べ三カ月がふえております。十カ月の公演になります。近く帝国劇場が開場になりますと、歌舞伎上演の日というものは、東京都内において一、二、三、四、四カ所から五カ所、日生劇場も含めてそういうことになるわけであります。そこへ持ってきて、さらにまたこの十カ月の上演、それもあくまで民衆が喜び、あくまで大衆の生活の中からわき出た感情のものを取り入れて、新しい伝統芸能の何といいますか、バイタリティーと申しますか、そういうような精神のもとに新しい創造芸能国立劇場で創造していくんだというたてまえならば、これはその日程も埋まる可能性もあるんじゃないかと思いますが、さらにもう一つ、そのスケジュールが非常に、早くいえば安売りのようにたくさん東京都内に出ております。そこへ持ってまいりまして、国立劇場歌舞伎の一等の入場料が千八百円でございますね。これも高いんではないか、国立劇場という名のもとにおいては高いんじゃないか。しかし、商業会社との共存共栄の立場からいって、その面目を保つ意味で千八百円という額が出たならば、これもやむを得ない話ですが、当然、自主公演のたてまえからこれは無税になるでしょうし、それならば千八百円の内容のある十分なものを見せていただけるかどうか、これも私どもの期待であり、また疑問でもございます。  さらに、いろいろとこまかい話がございますが、切にお願いしたいことは、文楽が大阪市、国立という名から見ればはるかにスケールの小さいものですが、その財政難の中にあって今日蘇生し、アメリカでも好評を博して、これからとにかくその保存の、未来はあまり憂いがなくなっているような形になってきておりますけれども、この歌舞伎という、何といっても歌舞伎が主体になるのは、これはやむを得ないことで、慶長年間の郢曲だとか、小唄だとか、あるいは当時の俗曲などの集成された、しかも、いままでの、それ以前の伝統芸能の中から新しい時代の息吹きを感じて生まれてきた総合的な芸能は、日本国劇と言えるものは、その内容からいっても歌舞伎以外にはあり得ないことですから、それを伝統芸能として保存していこうというたてまえで企画、運営されていくことは当然のことでございますけれども、伝統芸能のここは何条でしたか、国立劇場運営概要案の「自主公演の方針」というところの(イ)の項でございますが、「伝統芸能保存の見地からすぐれた作品を選び、これをできるだけ正しい姿でかつ高い水準で公演する。」、私は「正しい姿」というのは手前みそな解釈をいたしまして、これはいままで日本の家庭から離れておりました伝統芸能、離れてというよりも忘れられておりました伝統芸能が、今度はいままで三業だとか、そういうような反家庭的な線からのつながりを断って、国庫補助のある関係上から経済的な拘束を受けることなく、芸術本位にいわゆる演劇活動ができるというこの国立劇場本来の利点からいく正しい姿勢ならば、たいへんに喜ばしいことであるし、また、すぐれた作品を選ぶということがありますけれども、いま伝統芸能として明治以前の作品が残っているものは、全部選ばれたすぐれた作品として残っているものであります。当然これは明治以後の黙阿弥、それから岡本綺堂、坪内逍遙、真山青果、このような作品も選ばれるだろう、このように推測しております。もちろんこれも新古典の中に入っております。何となれば、先ほども郡司参考人からお話があったように、一つの舞台に対して一つ芸能という原則の話がございます。これもむべなるかなと拝聴したわけですけれども、しからば、現在の歌舞伎というものの形のあり方というものはほんとう伝統芸能であろうか、どうであろうか。今日の歌舞伎座のあの間口の幅の広い舞台、あの照明効果の中に回り舞台を有し、あの客席の雰囲気の中で作り上げたものが歌舞伎であるというならば、歌舞伎こそは明治以後のものである。それ以前の江戸時代の元禄ごろの舞台を見ますれば、能楽のあのかかり舞台に少なくとも雨落ち——雨落ちと申しまして舞台の、いわゆるかぶりつきとも客席のほうから呼んでおりますけれども、一ぱいのふちどりでございますけれども、それが能楽のようにぽんと前のほうへ、引き出しを引っ張ったように出ております。それから能楽と違う点は、名のり座、それから笛座、こういうような設計が非常に音響効果を、当時の芸能の実態からいって、音響効果を考えて改良されたものが歌舞伎の舞台であります。しかも、これは変な表現ですが、目を引っくり返したり——もちろんその中に芸術はあるわけでありますが、そういうような表現をろうそくの火を頼りに、観客にその感情の移り変わりを伝えていくというものの中から考案された最も洗練された芸だと思うんです。今日のように、ライトが、いろいろの照明がりっぱにでき上がってまいりますと、それに応じて、建物に応じて、つまり、はこに応じて、舞台に応じて演技は非常に変わってきた。近松門左衛門の芝居が歌舞伎座で上演されるときにおいては、近松当時の絶対芝居でないということは断言しても間違いないと思うわけです。近松当時の正しい姿でそのまま伝統芸能を残すというのであるならば、今日の東京の歌舞伎座においても絶対にこういうものは通じないし、意思も疎通されないわけです。したがって、国立劇場の設計は、諸外国国立劇場の設計内容を参考にして、最高の費用で最高の設備ででき上がっているということでございますれば、当然、幾分かは東京のいままで上演された歌舞伎座と違ってまいります。先ほどもこれは話はございましたが、芸能とは生きたものである、生きた人間が上演する限りは、その疎通は、そのまま伝えていくためには多少の変化もそこに生じてくるわけですから、そのまま国立劇場においていままでの伝統芸能が、人間によって、そのままの姿で、正しい姿で上演されるということは考えられないことでございます。してみれば、ヨーロッパにおいて、ドイツなどでも国立劇場で上演されておりますものを見ますると、上演種目が三題あるとしますと、その中の一題は最も古くから伝わっておりますところの古典芸能を取り上げ、二題の中の一つ現代好評を得たもの、さらに一つは新らしい創意くふうをなされた創作であるということを見ておりましても、いかに大衆というものを重点においてその運営でなされているかということがわかるような気がいたします。生活様式も変わってまいりまして、古典を軽んずるわけではございません。その古典の中にはぐくまれてきた歌舞伎俳優あるいは役者というものの立場を非常に私は重要視しているわけでございますが、近来、歌舞伎俳優のむすこさんたちの間では、親のあとを継ぐのはいやだ、サラリーマンのほうがいいということが出ているのは、営業政策あるいは現在の経営の不振からくるところのいろいろな不満というものが子供たちに受け継がれているんじゃないか。そこに国立劇場が国の財産を使用して、せっかく貴重な国民の税金を使うならば、この演技君たちほんとうに、中間に何も入らずに潤いが与えられるようにするならば、その子息たちはやはり親の商売を受け継いでいくでしょう。これこそ伝統芸能保存の最も内面的な正しい一面だと思います。それと同町に、先ほど喜熨斗参考人が申しましたとおり、保存とともに発展——発展のない保存、人口に膾炙のない保存、国民に理解のない保存はあり得ないわけだと思います。したがって、演目の点においても、先ほど申し上げましたように、ドイツの三本立てのような、伝統芸能明治以前のものだということではなくして、歌舞伎の芸風そのものが伝統芸能であり、その芸風をもって新しい演題に対してどのような発展をしていくかということが、やはり今日の日本の国立のあり方の一つであると国民は望んでいる一部を代表して申し上げさせていただいたわけでございます。  たいへんに長くなってしまいましたけれども、最後につけ加えて切にお願いしたいことは、さらに先ほど私が申し上げましたとおり、非常に不合理な因襲によって継承されております伝統芸能を、正しい芸術本位の姿に返して、正しくそれを保存していくという国立劇場の運営方法であっていただきたい。また、きびしくその点を監視をしていただきたい。このようにたいへんてまえがってな意見を述べさせていただきました。以上。
  12. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 以上で、参考人からの意見聴取は終わりました。  ただいまの御意見に対し、質疑のある方は順次御発言を願います。
  13. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 郡司先生にお尋ねしたいと思いますが、先ほど一芸能劇場、たいへんいいことをおっしゃったわけですが、こういう観点から見ますと、ミラノにあるスカラ座あるいはパリにあるオペラ座ですね、こういうところは大体オペラなりバレーが中心にできておると思うのですが、この点どういうふうにお考えでございますか。
  14. 郡司正勝

    参考人郡司正勝君) 外国のことは、私、弱いものですから十分申し上げられないと思いますけれども、結局、外国のオペラ劇場はオペラに会いますような大劇場だと思います。日本人のビジョンとして昔から国家施設が建ちますと、向こうへ行ってお客さんで見てきましたのは、いつでも大劇場の壮大なものでもっておどかされてきたという点がかなりあると思います。日本では量でおどかすという芸術は発達しなかったわけでございます。これはもう芸能によらず、日本芸術全部がそうだと思います。どこまでも質を考えなければなりませんので、その質の点で外国にすぐれたものが、独得なものが日本ではたくさん育っております。それが全部先ほど申し上げましたように、一つの入れものに一つというのが日本芸術のむしろ特徴であって、それが外国にユニークな点だと思います。したがって、そのために舞楽も能も茶道もその入れもののために今日伝統が正しく継承されたわけでございまして、歌舞伎がややその点では融通がきき過ぎるために変質が早かった、早く変質する危険性があるというふうに考えられるかと思います。したがって、今日の歌舞伎座のように、十六間とかいうのは、これはまことにもってそろばんのほうから出た計算のしようだと思います。大体明治までは八間、歴史に徴して八間というのが歌舞伎伝統的な舞台でございました。今日、八間は無理としましても、まず十間までの間で、しかも千人というのが歌舞伎劇場の、これは理想と申しますか、伝統、質を保存するためには大事なワクじゃないかと存じます。よろしいでしょうか、お答えになるかどうか。
  15. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 次に、菅原先生にお尋ねしたいのですが、いまのお話のように、大体私もやはり一芸能というものは一舞台だろうと、やはりそれに相応した舞台というものができるわけでございますので、フランスのオペラ座は大体バレーとかオペラが中心じゃないか、それからイタリーのミラノのスカラ座はオペラが中心だと思うのですが、こういう観点から見ますと、これから現代芸能をやる場合には、いま、とりあえず国立劇場というのは歌舞伎中心だと思うのですけれども、先ほど先生のお話のように、現代芸能を入れますと、オペラ、バレーのようなものと、それから新派、新劇のようなものは別につくらないと無理じゃなかろうかと思うのですが、この点いかがでしょうか。
  16. 菅原卓

    参考人菅原卓君) 私、歌舞伎用の国立劇場をどういうふうなスケールでつくるかというときに、実は参考人として呼ばれて出ていたのでありますが、そのときに、歌舞伎をどこへ戻すのだということが、いま郡司君が申しましたように、歌舞伎八間という定説があるけれども、これに戻して、それでいまの劇場というのはプロセニアム・マーチの中に入り込んでしまっていることになっているけれども、そういうふうなことを除いて歌舞伎をもとへ戻すならば、四条河原に書き割りなんかをしておいて、あそこへやって、芝生だけをつくっておいたならば一番もとに戻るような形になるのじゃないかというような暴言を吐きまして、それもいいじゃないかというような説もなくはなかったのですが、そんなことでは国立劇場にはならず、結局やはりいまある劇場機構の中に歌舞伎保存するということになって、あの何間の幅が必要だろうか、八間ではとても持たないのだ、やはり千人以下ではペイしないのだというようなことが出まして、そして現在のようなスケールの劇場——私どもはほんとうのことを申しますと、もう少し幅の狭い、そして天井の高い、いまあれは相当高いはずですけれども、そういうようなことを考えておりましたけれども、しかし、歌舞伎というものをどこへ戻すのだということが、根本問題として日本ではもうすでに定説がなくなってしまっているということでありますので、いま内藤さんのお話のございましたような、それぞれの場所を持つということが、これからやはりもう一度歌舞伎用の独得の劇場をつくるということに、もう一つ何かほんとう意味でもって日本文化的な施策を十分に持つならば、そういうようなことになる危険性というか、可能性というか、そういうようなことまで考えていて、それこそほんとう文化財保護委員会でもってやるべき仕事であるというふうに思うわけであります。いまのものはほんとうのことを申しますと、国立劇場歌舞伎に花道をつけたり取ったり、それからすっぽんと申しますか、舞台の上でもってにゅうっと出てくるような場所だとか、いろいろなことをちゃんと考えてつくってはあるはずでございますけれども、そして劇場設備といたしましては、いま日本の歴史の中において、近代劇場は、国立劇場はぼくは劇場建築としてはほんとうに初めて今度これができたというふうに思うわけであります。ということは、商業資本にわずらわされずに、舞台の上のスペース、演技スペースの約六倍を持つということ、これが劇場の第一要諦でありまして、その一番むずかしい要求があの劇場に含まれているはずでありまして、そういうようなことから見ますと、これは日本劇場建築及び日本演劇芸能を展示する場所として国立劇場は完成したものではなくして、これでもってよろしいのだということではなくして、非常に大きなトライヤルをしていることにぼくはなるのだというふうに見るわけでございます。でありますから、われわれといたしまして、この審議過程に見ましても、歌舞伎のための劇場文楽のための劇場、オペラ、バレーのための劇場を、いま内藤さんがおっしゃいましたような、オペラ、バレーというものが日本ではやれる場所がないということ、これはやはり世界の現代文化水準からいって、日本にそういう場所がないということは非常にこれはおかしいし、また、海外のそういうような使節団なり何なりが来たときに、そういうものをほんとうにやれる場所がないということは、これはおかしい。そしておそらく国際会議なり何なりにお使いになるような場合に、そういうようなところがぜひ必要になるであろうというわれわれのはかない想像もあったわけでありますが、それはやはり現代芸能の場所を提供し、そして海外から派遣された文化使節団なり何なりの公開がそこで行なわれるという場所がどうしても必要である、日本芸能、世界に通じる芸能をそこに展示する場所がどうしても必要であるということと同時に、それじゃ現代劇といいますか、新劇であるとか、新派であるとか、あるいは新国劇とか、あるいは前進座でありますとか、いろいろなもの、現代歌舞伎を変形したというか、そういうような伝統的な日本現代劇というものと、世界演劇に通じる形でもって演劇の根本理念を変更して、そして世界演劇的な立場で、ギリシャからきている三千年来の伝統を持った演劇を、ここに日本にもつくっていくという新劇の立場をとってみますと、この新劇なり何なりという現代芸能というものは、どんな場所にでも入り得る可能性をぼくは持っているというふうに思うわけであります。そうでなければ、オペラのやられる場所でもっても演じることができるような、シラーの「群盗」だとか何とかいう群衆劇というものがございますし、また、文楽をやるような小さな劇場でやるような、つまり家庭内のホームドラマというようなものも、その場所に入り得る、また、それから歌舞伎座なり何なりのスケールのところでもやり得る演劇というもののレパートリー、演目を持っているわけでありますから、そういう意味合いからして、新劇がややおとなになりまして、国立劇場設立案の中で、どの劇場でも使い得る可能性を考えて、新劇の特有の劇場を主張してこなかったわけであります。そういうようなことが現代芸能を無視した形になってあらわれてきていると、いささか、やはりわれわれの主張すべきところは主張して、われわれの劇場をつくれというようなことを言わなければいけなかったかなというふうにも思うわけでありますが、そんなことではなくして、新劇というものはどういう場所でも演じ得るような現代芸能現代芸術というもの、現代演劇というものを持ち得るようにわれわれは考えていて、特に主張しなかったわけであります。そのかわり能楽堂というようなものが、これはいまどっさりあるじゃないかというようなことを言われたんですが、あれではやはりほんとうのことをいって不便であり、不満であり、能楽堂が国立劇場の中にないということが非常におかしいことにもなるわけですが、それはそれといたしまして、ただいま内藤さんからお話のありましたオペラはオペラ、オペラですとか、バレーとかいうものはやはり特殊な芸能であり、千人ぐらいしか入れないところで、あの大きな声でもって叫びますと、これはやはりオペラのほんとうの効果というものは成り立たない、バレーもあの群衆が出て、大ぜいが乱舞するというような芸能であるならば、それはやはりその場所がどうしても必要であり、歌舞伎なり何なりと違ったライティングの効果及び舞台と客席とのバランスというようなものが独得のものでなければならないというふうに私どもは考えますが、しかし、そういうようなぜいたくをいま言うわけではなくして、むしろいまの国立劇場のあの施設内容を見まして、これがただ音響の点で、日本音響的に、日本音楽、日本音響に効果あるように、あの今度の国立劇場の大劇場のほうは計算してあると思うのです。そういう意味でもって、西洋音楽をあそこに入れるといささか効果の面で狂いがくるんではないかという心配は持っておりますけれども、演劇スペースといたしましては、今度のあのうしろに演技面のそれと同等のバックの広さを持っているとか、横のそでに両方にどれだけのそでを持っているとか、いろいろな日本の初めて劇場らしい劇場ができたということでもって、そこで音響の点、完全なことはできないといたしましても、そういうようなととろでもって、第二次の国立劇場設立案のためにあそこがオペラ、バレーに使われて、そうしていろいろな経験を積み重ねて、純粋にいい第二次の国立劇場現代芸能、オペラ、バレーのための劇場というものがつくられてくるようにされることを切に望むわけでございます。  何か御説明にならなかったかとも思いますけれども、大体それぞれに一番いい場所、会話劇というものは外国では舞台の端から、フットライトのところから向こうの壁までのところまで大体きまっているわけです。大体距離がきまっている。日本の建築屋さんはそれを、承知しないから幅を広げる。それから向こうのほうを広くすると観客の人員もよけい入るということで高さをつくったり何かしますけれども、それはやっぱり演劇の内容を展示する舞台の効果というものを無視して、そういうふうに何かやっぱり採算を合わせるにはどうしてもそうしなければならないということ、最近、ことに遺憾ながら、劇場その他でも、日本の建築屋さんの傾向としましては舞台を片すみに寄せてしまって、片一方のそでが全然使えないような形のホールその他をつくっているところは、やはり劇場建築のほうからいいますと、やるほうの身にちょっとなってもらうと、ああいうようなもう一間でも二間でもどちらか寄せておくというようにすぐ考えられるのですけれども、やはり劇場建築そのものからいっても、まだほんとう日本文化体系の中で劇場建築というものがやられてない、追求されてないんじゃないかということを、つくづく今度おかげさまでもって委員会に出してもらって教えていただいたわけです。
  17. 内藤誉三郎

    内藤誉三郎君 もう一点。先ほど菅原先生おっしゃった現代芸能に対して自主公演をやれというお説、たいへんごもっともだと思いますけれども、現代芸能の場合は非常にバレーからオペラから、またその中でもいろいろな流派がありますし、新派、新劇、新国劇、前進座、たくさんのその他民芸等もございますが、どういうふうに自主公演をやるのか、やる場合にどれを一つ選ぶかということはなかなかむずかしい問題だと私は思うのですけれども、これはどういうふうにしたら先生のお考えよろしいのですか。
  18. 菅原卓

    参考人菅原卓君) これはだれか言っておりましたけれども、これは法律の問題ではなくて運営のほうの問題に入っていくと思うのですけれども、運営につきましては、あれは予算案が出て、予算の数字があそこに出ておりますけれども、あの予算案というものはもうつくった数字であって、あれがどういうふうに使われるのかわれわれには内容の検討も不可能なような状態でございますけれども、一番、国立劇場として最近発足いたしましたのはイギリスの例がございますけれども、サー・ローレンス・オリビエに全部国立劇場の運営をまかして、それで六十人くらいの俳優を集め、三人の演出家を集め、そうしてそこに優秀な評論家を一人まじえて劇団をつくる。国立劇場というものはどこでも世界的通念からいいますと劇団であって、劇場ではないわけでありますから、それで劇場劇団をローレンス・オリビエにまかせてしまって、その一年に十分研究して、最初の年に十一本の出しものをやって八本という非常に大量のヒット作を出したわけですが、その計算をちょっと雑誌で見ますと、政府からとロンドンからと、公演のための費用に約二億円ぐらい出ていて、それから収入の面でもって三億円の入場収入があって、その五億でもって約一億ぐらいの欠損が出た。全体を通して八〇%以上の入場者があって、そして大成功であったにもかかわらず、一億円ぐらいの欠損が出ているということと、今度の国立劇場法案の中に出ている数字とを比較いたしますと、これはやはり何か経常費の補助であって、そして演劇を行なうほうの補助金ということがどういうふうになっているのか、そこいらのところはまだ専門家でないのでよくわかりませんけれども、そこいらにいろいろと運営の上でも検討しなきゃならない問題がどっさりあるんじゃないか。そういう点は香取君あたりに聞けば——ほんとうのことを言うかどうかわかりませんけれども、どういうふうになってもうかるものなのか、どういうふうになって損するものなのかというようなことはありますけれども、しかし、劇場があって、劇場の費用までしょっていくということになると、なかなかいかないということ、つまりやりたい演劇をやっていくということはとてもむずかしいということになるんではないか。それと、いまの国立劇場の運営は、館長があり、理事長があり、そして理事があり、そして評議員をつくってやっていく、それが、評議員の意見なり、理事がどういうふうにそれをまかなっていくか。それで、ある一面ではプロダクションにして、一人一人プロデューサーを置いたらばいいじゃないかという案さえ出ておりますが、先ほど内藤さんからお話のありましたいろいろな現代芸術現代芸能のほうをどういうふうにして取捨選択していくかということは、それはやはり当事者の権威において話し合いを十二分にする機会というものが幾らでもあるし、またそれでは、全面的に自主公演が可能でなければ、つまりどれだけのギャランティを持っているか、あるいはギャランティをしてやるかというようなこと、共同制作というようなこともある意味でできないことはないんじゃないか。そこのところは法案に詳しくないのでもって、どういうふうにやれるか、やれ得る方策というものはまだ固定しないで、歌舞伎を自主公演やるような形でばかりが公演の形ではなくて、いろいろな劇場費をただにしてやると言ったらば、おそらくずいぶん申し込みがあるんじゃないかという気がいたしますし、また、それだけでもって、つまり自主公演と同じような効果があがり得ると思うんです。ですから、内藤さんよく御存じだと思うんですが、芸術祭の自主公演みたいなことの場合に、あれは二十万円ぐらいしか出してないんだけれども、何となし自主公演みたいな形になっていて、そして自主的に動けるように協力してやるということが、これはやっぱり発展の非常に大きな基礎づけになるし、いま日本文化体系から見ると必要なんじゃないかという気がするわけです。御返事にならなかったかと思いますが。
  19. 小林武

    ○小林武君 五人の先生方にそれぞれ教えていただきたいわけでありますけれども、これは参議院に参りましてからは一口だけ審議をいたしたわけであります。その中で一番中心になりました問題を一、二お尋ねいたしたいと思うんです。  で、法律の第一条の中にある伝統的な芸能というものについては、第十九条第一項において伝統芸能ということになっておりますから、これはもう伝統芸能といっても、何々が伝統芸能であるということがはっきりしているわけです。何でも持ってきていろんなものをひっつけるわけにはちょっといかない。それで、まあ私としてはその伝統芸能が、文部大臣のことばをかりて言えばまさに滅びようとしている、こう言われるから、あるいは衰退しているというか、そういう状況にあるということでありますから、それぞれやはり何と言いますか、黙っておいたら貴重な文化財がなくなるのではないかという心配もありますけれども、それぞれにはやはり衰退のしかたというものがありますから、それに対する何というか、対症療法と言いますか、それぞれに応じた将来の保存のしかた、振興のしかたというものがあるだろうと思う、こういう議論をいましつつあるわけでございます。きょうこれが終わればまた続きが始まるわけでありますけれども、しかし、ここで一番いいのは、大体、歌舞伎中心のお話にしますと一番ぐあいがいいから歌舞伎中心の話になっているようでございますが、私は歌舞伎というものをどういうふうに保存するのだろうかということを、非常にしろうととして、どういうふうにやろうとするのか。たとえば国立劇場当事者がこれをどういうふうに保存しようとしているのか考えているわけです。先ほど来のお話を私なりに受け取れば、保存というようなことは何と言いますか、とにかく絶えない、なくなりさえしなければいいのだということで言えば、そのつもりで表現なさったかどうかわかりませんけれども、博物館的な保存のしかたというものがある。しかし、これが歌舞伎というようなものが一般国民大衆に受け入れられて、法律にあるように、保存からさらに振興という段階をたどっていこうとするためには、これは何といっても発展の形をとるわけでありますから、様式なり解釈のしかたなりというものに変化というものが起きないものだろうかどうか、こういうことを感ずるわけです。古典古典である、しかしながら、その古典の解釈というようなものは、これはある程度発展の余地があり、現代に生きる人間には現代に生きる人間の理解、共鳴のしかた、感銘のしかたというものがあるのではないか。なかったら、これはまあいわば博物館的保存に終わるのではないか、そういうふうに私は考えるわけです。そこで先ほど、香取さんはさすがに商売人でいらっしゃると思ったのですけれども、百二十万の動員、いわゆる歌舞伎動員される人間が現在九十万に減ったということは私は重大だと思うのです。これがさらに六十万人になり、五十万人になり、三十万にしていくと、やがては採算もとれなくなっちゃう、こういうようなことになったらどういうことになるだろうか。しかし、それをふやしていくということになったら、これから生まれてくるものにもどんどん歌舞伎を見るという、歌舞伎に興味を持つ、歌舞伎を鑑賞する層をふやさなければならぬわけでありますから、それには非常な努力が必要だと思うのです。歌舞伎の完成の時期、一番の黄金時代というのはどこかというようなことは、私なりにちょっと調べてみますと、そうすると、その時代の人間の感情と昭和の現在の人間、明治の生まれの大体終わりに近づいた生まれのぼくでも、自分の子供の現在の小学校のあれには、もうちょっととにかく理解も何もできないような開きが出てきているということになると、これは歴史的な問題で、時の問題であって、なかなかそれを昔に返そうといったって返すわけにいかないわけでありますから、そういうことで一体歌舞伎保存ということはどういうことなのか。絶対、先ほど郡司さんのおっしゃるようにどこに一体標準を置いて、この段階までということをおっしゃるのか、それとも全然何というか、そういう古典というものを尊重する立場からも、将来歌舞伎というものは今後発展の姿というものをたどって行ってはいけないのであるか、それでは保存ということにならないのかどうか。これは私は保存振興ということから、さらに伝承者の問題にかかわり合いを持ってくると思う。ですから、そういう問題についてきわめてしろうと的受けとめ方なんであります、この法律に対する。また、われわれのこれに賛成しているのも、そういうしろうと的受け取り方の上において心配をしたり、あるいはいろいろなことを言っているわけでありますから、そういう点を五人の先生方から、それぞれのお立場でひとつ御説明を願えれば、今後の審議の上で、しろうとのわかったようなわからぬような、群盲象をなでるような議論も出てくるでありましょうから、お聞かせをいただきたい。
  20. 香取伝

    参考人香取伝君) いま小林先生がおっしゃっていることは、まことに私たち、まあ悪く言えば商売人も適切に考えていることばかりと思います。何としましても、やはりさまざまなこのレジャーの発展というものは、非常に、ひとつの人間をして何時間かそこに定着してものを鑑賞さすということはなかなか不可能であります。それを実証するものは、たとえばかつてこの演劇を行ないます場合は、土曜日、日曜日というものがほとんど満員であったにもかかわらず、最近におきましては、屋内におきますすべての娯楽というものが、屋内において鑑賞するということでなく、大気を吸い、青空を眺めながらしようというこの屋外の娯楽鑑賞ということが非常に強くなっているわけでありまして、したがって、この屋内で行ないます演劇というものは、まず私の経験におきますと、一月から始まりまして五月に終わる。それから十月に始まって十二月というのが演劇シーズンじゃないかと思うわけであります。自余のときは、私どもはほとんどやはり屋内へ入らずして、われわれがかりに完全なる冷房を持っている、だから外に行くよりも歌舞伎座が涼しいと宣伝しましても、屋内へ入ってくるそのことがどうもいやらしくて、ことに青年層におきましては、屋内において何時間か拘束されるということを非常にいやがっているわけですから、歌舞伎を見るよりも、まあ表へ出て、すばらしい天然の空気にあたったほうがいい、天然の日にあたったほうがいいという傾向が近時著しくその度を増してきたわけです。そのような非常に悪い条件下にありまして、歌舞伎というものは非常に難解であります。古典歌舞伎というものの中心をなしているものは、やはり義理、人情。義理、人情におけるそれを表現するものが演技と同時に義太夫であるわけです。義太夫というものがかつて盛んな時代というものは、明治から大正の末期でありまして、昭和の時代になりますと、義太夫を口ずさむ人が非常に少なくなってきまして、それが文楽衰退の大きな原因となってあらわれてきたんじゃないかと思います。たとえば皆さんが芝居をごらんになりましても、前置きといいます義太夫が何かその説明をしているわけです。がしかし、その前説明をしているそのことばがわかりにくいし、これから同時にその曲がやはり近代性を欠いているといいますか、みんなの心に感銘が少ないというようなことであるわけです。こういう主体をなすところの義太夫における歌舞伎というものは非常にむずかしいわけでございまして、やはりわれわれも常にわかりやすく、ことばを平易にするとなると、浪花節だとか、歌謡ショーみたいになってくるわけですから、まあ日本古来の、いにしえのやはり何かそこに感情を巧みに表現しているゆかしいことばというものをとらなきゃならないということになるわけです。これが非常にむずかしいことでありまして、これが義太夫というものが、それじゃいにしえのことばをなるたけとらないで、浪花節口調ことばにしたらどうだということになると、これは過去のつまり民情、たとえば義理、人情というものを表現する何ものも残らないわけでありまして、これを調節しつつ改定するということが大事だと思います。たとえば一例をあげますと、菅原伝授に手小屋というのがあります。皆さんもごらんのように、あの場合において、自分の主君のために松王丸が一子小太郎を身がわりに差し出して、そうしてあの忠義をたてるわけですが、そのときに松王丸が大きく泣いております。その中で、櫻丸、櫻丸と言って、兄弟がやはり自分がいわゆる菅原家の問題を起こした一人として自責の念から切腹する場面がすでに前にあるわけですが、これを見ずして、かりに寺小屋だけを見ますと、あの大泣きをしている松王丸は、一子小太郎というものに実は泣きたいのだけれども、やはりそれでは相手の手前ぐあいが悪いので、櫻丸、櫻丸と言って、そうして心では自分の子供の死をいたんで泣いているわけでございます。ところが、この歌舞伎を初めてごらんになる方は、なるほど、昔はこの主君のために自分犠牲にし、また子供を犠牲にした、残酷なものですから、やはりそこに犠牲の精神というものがあってこそ、日本というりっぱな国体ができるのだという、おぼろげながら理解を持ってくださるでしょうけれども、何でそこに出ていない櫻丸、櫻丸と泣くんだと、こういうようなこともあるわけです。こういう芝居というものは非常に難解なものでありまして、同時に、義太夫をもってやるということはなかなか容易ならぬことであって、そうして義太夫を理解し、そうして文楽を理解する人はまことに少数の人でありまして、多くの人はほとんど居眠りをするということもあるわけです。さればこれを、われわれはかつて通しをやったこともありますが、なかなかこれが耐久力を持たない人は、ほとんど途中で居眠りをしたり、あくびをしたり、それから退場するというようなことです。で、古典というものをがっしりと、何か改定しながらも押えていくということになると、大きな努力を払わないで大衆に呼びかけて、いま小林先生もおっしゃるように、さらに拡大すべくファンというものを獲得していくということは非常に困難な情勢にありますので、われわれももう実はそういうところに悩みながら営業をやっているようなわけでありまして、これから、なるほど諸先生のおっしゃるとおり、昔のりっぱな姿というものをもっと強調して、そうしてそのりっぱな姿はかくのごときものであるというお手本を国立劇場があれして、そうして多くの人に同感されて、これを発展させるというのが国立劇場の使命でしょうが、しかし、これを運営するのは人であるということでありまして、もしこれを、いたずらにそういう理念にばかりとらわれて、大衆というものを——何としてもこの演劇というものは、一人でも多くのお客さまを得なかったならば、それは博物館的な存在に終わるわけでありまして、いかに正宗の銘刀でありましょうとも、これは一部の人が見ても、一部の人にこれが銘刀かという疑念を持たしたならば、やはり存立しないんじゃないかと思うわけです。そういう意味において、小林先生の御杞憂なさっていることは、これはいろいろ多角的に検討して、どうすれば古典というものをやるのに、古典をやるのだったら、どういうふうに大衆にも受けていくかというような大きな操作方法というものは、重大なる、国立劇場古典を行なう上の、将来において発展させる上の重要な要素として、また課題として残されていくのじゃないか、要は、それを運営する人の頭の自在性、そうしてあまりにこの型にとらわれずに、言うならば、自分自身がやはり大きな信念を持っておられることもけっこうですけれども、多くの人々、実際に仕事を行なった人間が一番適切であるんじゃないかと思うわけです。  私は、いまここにもう一つ不満を申し上げるならば、われわれは幾多の劇場を持っていて、何十年間営業を行なっているわけです。お客が、たとえば私たちが企画しましたものが、あるいは非常に感銘し感動しているか、ただしは、これがあくびをしているかどうかということは、客席を見れば長年の勘としてわかるわけです。また、劇場をさらにこれからこしらえますならば、俳優が非常に巧妙に演じられる構造、それからまた楽屋の構造、それから客席から見ての間隔、舞台のやはり感じ方、それが演技の効果的のようなものをよく知っているにもかかわらず、この国立劇場が設計される前に、俳優はお呼びになったけれども、協力を松竹に求めて、すでに準備委員会はわれわれに協力を求められて、そうして松竹が長く苦労しながら育ててきたものを、今日、国立劇場でさらにこれを保存してくださることはたいへんうれしいことでありまして、もう九十歳になんなんとする大谷老は、まことにこれに大きな感銘をしまして、できるだけの御協力をしてあげようという指示を得まして、私は国立劇場準備委員会といろいろ折衝しているわけであります。しかし、そういう実際のものを知っている人間をどういう意味か敬遠されて、この設立のときの設計の参考人にお呼びにならなかったという一事は、少しやはり何か一商業劇団、商業会社というような興行会社ができたかの感があるのじゃないか。国家がかりに国民の税金でこしらえられるのもけっこうだし、また国民もこれを喜んでいるならば、やはりもっと広い意味に、清濁あわせのむという大雅量のもとに、われわれに何でお聞きにならなかったかということを、私は何かそれが松竹に教わっていることが屈辱だ、われわれは創立準備委員会なり、たとえば準備委員会の幹部であるから、われわれが創造したものによって、上官、また各議員の先生の方々においてやらないと、ただ教わっただけで準備委員会責任者にはならないというような、日本人の非常に偏狭な考えがあったんじゃないかということを申し上げたいと思います。
  21. 喜熨斗倭貞

    参考人喜熨斗倭貞君) 小林先生の御質問に対しまして一言申し上げますが、国立劇場ができ上がる暁に、どうして歌舞伎保存していかなければならないかということに対しましては、私は歌舞伎俳優として一言申し上げたいのですが、歌舞伎という芸術は封建制度の徳川幕府中に発達しております。起源はもっと古いのでございますが、発達したのは徳川時代だと思います。封建時代のもとに発達しておりますから封建性のところが多分にあります。しかし、やはり歌舞伎のいいところというのは、人間の持つ正義感とか、礼節とか、あるいは先ほど香取君も言われました義理、人情、そういうものを多分に含んでおる。ですから、国立劇場歌舞伎保存するという意味は、やはり歌舞伎の美点、いいところを御理解なすっていらっしゃるのだろうと思うのです。ただ単に古いからいいという、ただ骨とう品であるというお考えだけではないと思う。もちろん古いものはいいものはたくさんでございますが、やはり歌舞伎保存するという意味はその意味だと存じます。その意味でこの歌舞伎というものが、わが日本国民にいい影響を及ぼさなければ何にもならないということは、先ほどちょっと私も申し上げましたが、教育のほうの問題になっていきますが、今日歌舞伎がややもすれば敬遠されておりますというのは、私は歌舞伎俳優の貧困にあると思っておりました。現在も思っております。われわれの責任であると思っておりましたが、そればかりではないと思うのです。最近、私は舞踊を指南しておりますが、その舞踊のけいこにくる若き男女の集まりで、君たちは石川五右衛門というのを知っているかと聞きましたら、その若き男女たちが、それはもう日本でどろぼうの大家だ、石川五右衛門はよく知っている。それでは楠木正行というのは知っているかと聞いたらば、楠木正成は知っているけれども、楠木正行は知らないというのが十代の返答でした。私はそのときほんとうにぞっとしました。そういういまの世の中であればこそ、大学の校庭で格闘が始まったり、あるいは日本の政治ということを考えずに、デモンストレーションを起こして横須賀で騒いだり、あるいは釜ケ崎でも騒動が始まったりするのではないかと思っております。これは歌舞伎を通してぜひ教育の資料にさしていただきたいと思うのはわれわれ歌舞伎俳優の願いなんであります。  一昨日でございましたか、ジョフレとファイティング原田の拳闘を見に参りました。あの二人が、たった二人が一万五千の観衆を集めて、そうして三千五百万ですか、四千万ですか、ちょっと忘れましたが、何千万かの入場料を吸収できるということは何にあるか、私もそこでジョフレと原田の拳闘を見ながらよく考えました。二人でこれだけの観客が呼べるのに、われわれ歌舞伎俳優は何百人も集まって観客が呼べないのかと考えましたが、この拳闘はぼくは興奮だと思います。闘争であり興奮である、歌舞伎はやはり興奮もございますが、教えがあると思います。これが歌舞伎の大事なところだと思います。でありますから今後、国立劇場を少しでも早くこの法案を通過さしいただいて、早く歌舞伎の舞台に立たしていただきたいと思う次第であります。  それからもう一つこれも最近の話ですが、私は昨晩、赤坂のあるところへ食事に参りました。そうしますと、そこに若い女の子が世話をしておりました。私は紹介されました。品のいい若い女の子でありました。君は幾つになると聞いたら十九歳だと言う、東京へいつ出て来たのだ、昨年出て来た。国はどこだと言ったら、北海道の苫小牧、そうか、君は映画か何か好きか、演劇は好きかと聞きましたら、映画はよく見る、しかし歌舞伎というものを見たことがないので、最近、歌舞伎というものを見たいからというので、さる人に連れて行ってもらって歌舞伎を見た、ということは、歌舞伎座を見た、先月ですか、「角田川」というのを見た、見てどうだったと聞きましたら、十九歳の北海道から出て来た少女が、私は「角田川」を見て感銘したと申しました。あの清元、歌右衛門君の狂女、勘三郎君の船頭、その三体が舞台にかもし出した空気、私はそのうたの文句もわからない、それから劇の主題もわからない。あれは舞踊劇でございますが、あれは純粋の歌舞伎とは言えないかもしれませんが、まあ歌舞伎舞踊劇だと存じますが、それを見て実に感銘した。こんなに歌舞伎というのはいいものかということを昨晩聞きました。それを聞いて、私は実に意を強うしまして、若き婦人にも石川五右衛門は知っているが、楠木正行を知らないものがいれば、初めて歌舞伎を見て「角田川」に感銘する若き女の子もいるんだ。そこで、結局先ほども申しましたとおり、教育というものがいかに大事であるか。ですから、この国立劇場ができましたならば、お子さんにも歌舞伎を見せ、正しき歌舞伎を見せ、青少年にも正しい歌舞伎を見せ、そうしておとなの方にも見ていただくという方法をとっていただきたいと存じております。  以上、歌舞伎俳優としてのお答えでございます。
  22. 郡司正勝

    参考人郡司正勝君) いま中車さんが「角田川」の例をあげられましたけれども、歌舞伎にはそういう親子の情愛とか、人情にかかわるとかくいい面もありますけれども、かなりいかがわしい面もたくさんございます。したがって、いま歌舞伎の持っている思想を云々することは、ここでは論ぜられないたいへんにいろいろなむずかしい問題がございますし、また、江戸時代にできましたものが、今日の現代にすぐ影響を与えるようなものでも困ると思うので、実はこの思想の問題はまた別に論ぜられなければならない問題と思います。ただ、先ほども御質問がございましたが、保存ということにつきまして、ただ内容だけでありますれば、これは台本だけ残ればけっこうなんで、それを読み取ればいいんですが、台本だけ今日われわれ見て、決して今日の歌舞伎のあの姿を思い浮かべることができないんです。とても台本に盛られている思想はすぐれたものだということはできないのは、一般民衆の中に、常に江戸幕府のむずかしい法令の中に弾圧のもとに育ったんですから、雑草のごとくおい茂っていますので、これはなかなかむずかしい問題でございますけれども、歌舞伎が世界に冠たるゆえんは、一にしてこれは様式の美にあると思います。この様式の美は、今日の日本人がつくったものでなくて、江戸時代の民衆がつくり出したものでございます。したがって、これを今日の日本人はやっぱりそれに匹敵するだけの様式の演劇をつくり出すのが今日の日本人の義務ですから、それに当たるようなりっぱなものは現代われわれは持っておりません。江戸時代の歌舞伎の様式に匹敵するようなものは、現代日本人はまだつくり出しておりません。そういう意味でも、またこれから歌舞伎に匹敵するような様式を外国でも日本人でもつくり出せるとは思いません。そういう意味で、これは能も同じでございます。したがって、それを民衆に退屈でないように、あくびが出ないようにわからせようというのはかなりむずかしく、それの本質の美の格調をくずす危険性がございます。むしろ伝統歌舞伎でもって見物を教育する、つまり教養を見物にしいるのが古典芸術だと思います。これは外国のオペラでも何でもそうで、一応、教養がなければ古典がわからないのがほんとうだと思います。したがって、大衆に迎合するのは、これは商業劇場ですることですから、それが歌舞伎本質をこわすもとになりますので、国立劇場で正しく保存をすべき問題だろうと思います。この基準と申しますのが、先ほどからも問題になりますので、歌舞伎には、これはぜひ先ほど中車さんからのお話を伺いたかったところですが、型というものがございます。その型がその様式を維持しているものでございます。今日の俳優が受け継いでおります型と申しますのは、おおよそは明治の、団、菊という名優によって集大成されたもので、今日に伝わっているものだろうと思います。したがって、それが時と場所によって、あるいは見物の多寡によってかなり変えられますので、まず団、菊の型というところで今日伝承されております。団、菊の型というものを基準に押えるべきだろうと思います。これを歌舞伎を戻せと申しましても、阿国歌舞伎の河原芝居に戻せということは、歌舞伎のプロセスを無視することになりますので、ぜひ明治のところで基準に置くべきじゃないかと思うのであります。したがって、正しい発展と、こう申しますけれども、正しいという問題と発展という問題が、むずかしいまた問題になりますけれども、古典はどこまでもそれを基準に置いてむしろ見物を訓練しているものだ。それから新しく歌舞伎発展考えますのは、全く歌舞伎の持っている日本人独特のエスプリと申しますか、その要素を分析して、われわれがその中からまた新した芸術をつくり出すというような発展であって、古典の型をくずすとか、変えていくということは、その時代、時代でなすべきことで、これは発展ではないと存じます。舞楽や能は現代から離れた芸能であるからこそ、りっぱに今日古典として保存されたわけでございます。したがって、歌舞伎もつまり世界に冠たる美を保存しようとすれば、その現代からはずれることが必要だろうと思います。古典としてはずれてその流れに立つことが必要だろう。そうして新しい歌舞伎発展ということを考えるなら、いま言いました要素を持って発展さすべきだと考えます。
  23. 菅原卓

    参考人菅原卓君) 歌舞伎をどう保存し、どう伝承していくかというふうな問題だと思いますが、これはやはりいままでに純粋に歌舞伎保存ということ、歌舞伎を興行することが保存であったというふうに思われていたのですけれども、そうではなくて、歌舞伎をいま郡司君が申しましたように、歌舞伎演劇様式の中で何が一番特色があり、どこに価値があるかということを分析して、そうしてこれを保存していくことになるのだと思います。そこのところは、いままで学問上あるいは諸説いろいろあり、そうして先生方の学者としていろいろな意見が出ておりますけれども、結局、先ほど来申し上げましたように、歌舞伎というものが生きものであり、生きているのだ。それは台本があれば、古典は残るという、台本として古典は残るでありましょうけれども、演劇としてこれが残っているわけでは決してないのであります。  そうすると、保存するということは、どういうふうにして保存するか。何がいいか、何が歌舞伎の中で価値あるものか、今日及び将来に向かって価値あるものかというものを保存するということを追求し、再検討することが、国立劇場一つの大きな役目になってくるのではないかというふうに思うわけであります。先ほどお話がありましたように、われわれ現代演劇をやっておるものから見ますと、歌舞伎の中で何が一番価値あるものかと申しますと、先ほどもお話のありましたように、やはりこれは様式の美であり、いわばフォームであると思うのです。あの貧弱なる台本、いわば非常に簡単な台本、人間性を無視したシチュエーションでもって動いて、台本というものをあれだけの様式美をもって色どっているから、演劇美というものが成り立つというように思うわけでありますが、しかし、そこのところを追求し、検討し、日本ほんとう演劇の価値として後世に残していくのが国立劇場の非常に重要な役目になってくると思うわけでありまして、そうしてそれをどういうふうに発展させていくかということになりますると、演劇美というものが外国のことばから発達した——ギリシャ劇からずっときていることばから発達している演劇に対して、日本演劇は舞踊系統から発達してきた演劇でありまして、その様式美の中でどういうふうに後世にこれを残していくかということを追求し、ですから国立劇場の今度の目的は、保存という意味は、俳優に対しても演出家に対しても、あるいは劇作家に対しても、ことに観客に対しても再教育の場である、再認識を与える場であるということが国立劇場の非常に重要なる役目になってくることだと思います。そういたしまして、これの中に現在の文学及び芸術が要求しているところの思想性なり、それから文学性なりというようなものが盛り込み得るものか、盛り込み得ないものかということを考えていくことが国立劇場一つの大きな役目になり、やはりこれはあるものを保存するというよりも、何か美を再発見するという方向に向ける、そのこと自体が保存になるということであり、また、将来に対しての発展に続くものだというように私は考えて、国立劇場の創設が日本文化の中で非常に大きな役割りを持つ有意義なことだというように思っているわけであります。
  24. 松岡壽夫

    参考人松岡壽夫君) 小林委員の御質問はどのように保存していくか、どういうふうにしていくかというような御質問に受け取りましてお答えさしていただきます。  ただいままでイデオロギーの問題とか、モラルとか、あるいは文芸復興論とかいうような話が出てまいりましたが、どのようにして維持していくか、そういうような論議はよそに置きまして、私自身、歌舞伎の愛好家の一人といたしまして、その形式、その形、時間の中にあるごく短い時間、空間に近い時間ですね、それがたいへんに歌舞伎のムードが好きで、どうしても当然これは保存していただきたいと強く主張してやまないものであります。その意味で、いま例といたしましては、その本質的な内容はヨーロッパのオペラと日本歌舞伎とは全然違うのでありますけれども、しかし、ストーリーということよりも、そのつど人間が創意くふういたしました感情の動きのエッセンスとして、歌舞伎古典的ミュージカルである、そう説明したほうが対外的にはわかるんじゃないか。このように思いますので、いい例といたしましては、イタリーのスカラ座の運営方法、これを大いに参考にする、それがいいのではないかと思います。つまり歌舞伎の国有化、俳優や演出も一切含めて強力な国営化というものを主張しなければ、歌舞伎の今後の存続というものはおぼつかないというように考えます。  また、演目の問題ですけれども、最も古典的な伝統的な芸能を最も正しいものに近い形で残すにはその方法が一番いいし、また、民衆の支持を得て、その演目においても歌舞伎という表現方法によって新しい創造がそこから生まれてくる、そういうものをたてまえにし、歌舞伎の国営化というものが最も一番いい保存方法だ、また間違った伝統もそこに流れることはないというように考えます。
  25. 小林武

    ○小林武君 それぞれのお立場からたいへん懇切な御説明をいただいて感謝をいたします。  お聞きいたしておりまして、やはり興行する方の立場というものと、そうでないものとの立場と二つに分かれるようであります。私はそういう立場の分かれというのは、一応この法案と取り組んだときに想定をされたわけです。それでありますから、国立劇場というものと、それから興行者、たとえば松竹さんであるとか、東宝さんであるとかいうものとの協力関係は、それぞれある段階まではあり得ても、古典芸能としての歌舞伎保存というものを、いまの大体の御議論のような観点でとらえていけば、国立劇場というのはかなり大きな責任を持たなければならない。そうしてまた歌舞伎伝承者の養成というものは、興行者の立場と国立劇場の立場とはっきり分かれなければならぬのじゃないかという考え方を持ったわけです。こういう考え方は一体間違いでしょうかどうかということなんです。  それからもう一つお尋ねいたしたいのであります。いま、これもちょっと議論になりました、たとえば歌舞伎の衰微という問題をとらえるのに、これはきわめて短い時間の間のやりとりでありまして、これは前のことでありますから、衆議院の段階の速記録から見たのでありますが、特に上演回数というものが非常に減っているということ、劇場も減っているということが一つ入っておりますね、上演回数というものが減っているということ。もう一つ、ことばの端をとってみれば、俳優の演技のくずれといいますか、そういう何か表現だったと思いますが、そういうものが目に立つということが出ている。そうしますと、そういうことがらひとつ判断いたしまして、これはこれからの養成にあたってのいろいろ参考になると思いますが、たとえばいまの若い歌舞伎の後継者たちでありますが、市川先生の身のまわりにもいらっしゃると思いますが、若い方でいま人気がどんどん上がってきていらっしゃる方が、大学出が相当いる。大学を出るというようなこと、大学で学ぶということ、もちろんそういう人が歌舞伎だけでなくていろいろな方面に出演される。ミュージカルにも出れば、それから新派にも一人の若い俳優として出る。こういうやり方というものが、私自身はこれからの歌舞伎俳優としての芸をくずすということにはならないのだろうかということを考えるのです。それはそういうやり方をとっちゃいけないのかどうか。もう非常に固い——固いといったらあれですけれども、いまの相当年輩になられたような方の教育のしかた、それからきびしい歌舞伎の世界だけで練磨するというか、やっていくというのがいいのか。そういう点なんかはそれぞれの立場から、簡単でよろしゅうございますから、どんな御意見があるか、承りたいと思うのであります。
  26. 喜熨斗倭貞

    参考人喜熨斗倭貞君) ただいまの御質問についてお答え申し上げます。  現在、歌舞伎俳優の、ことに若手俳優のあり方というのは、ただいまおっしゃったとおり混然としておりますが、純然たる歌舞伎俳優を養成するということは全然違うのではないか、あるいは興行者の立場から、国立劇場の立場からも違うのじゃないかというお説でございますが、興行会社といたしましても、松竹としても東宝としても若手を養成していることには間違いないのでございます。ただ、これを純歌舞伎俳優として養成するか、ひとつの人気俳優として養成するかという違いはございますが、それはつまり俳優自身の心がまえだと思います。私も歌舞伎俳優の家に生まれまして、歌舞伎俳優となって歌舞伎の修業をし、かたわらいろいろやってまいりました。まず、放送、テレビ、舞踊——ミュージカルはまだ出ませんが、現代劇、邦楽、いろんなものをやってまいりました。これも一つの勉強で、決してマイナスにはなっていないと存じます。  そこで、私が考えますのは、歌舞伎俳優現代劇もやればやれます。新派へ出れば新派の俳優ともやれます。あるいは新劇をやらせればある程度やれると存じます。歌舞伎という基礎の修業があるからではないかと思いますが、しかし、いま新劇俳優さんにすぐ歌舞伎をやれといっても、ミュージカルの俳優さんにすぐ歌舞伎をやれといっても、これはちょっと無理なことじゃないか。ですから、歌舞伎という基礎のもとに訓練されれば、どのような芝居でもある程度やれるのではないかと私は存じております。しかし、純然たる歌舞伎俳優を養成するには、それはじゃまになるのではないかという御説もございましょうが、これは私はじゃまにはならないと思います。あらゆる面ができて、そうしてなおかつ純然たる古典歌舞伎ができるのが理想的な歌舞伎俳優ではないかと思います。私もよくそういう疑問にぶつかり、私は、一体おれは何をすればいいのかという疑いを持ったことがよくございます。今日では、歌舞伎という土台を築いて、それから演劇もやれればミュージカルもやれれば、あるいは新劇もやれれば映画もできればテレビもできる、放送もできる、それがほんとう歌舞伎俳優ではないかという考えになっております。以上でございます。
  27. 辻武寿

    ○辻武寿君 私は歌舞伎は大好きですけれども、運営その他についてはしろうとでわかりませんので、香取さんと松岡さんに一つずつお尋ねしたいと思います。  香取さんにお願いしたいことは、先ほどのお話を聞いておりますと、国立劇場ができたために歌舞伎の勢力が二分された場合、双方経営が成り立っていかないのじゃないか、関西のほうも収益が低下しておる。国立劇場が新しい分野を開拓するのならばよいけれども、そうでなければマイナスになるというように、ありがた迷惑であるというように、私にはそんなふうに聞こえたのでありますが、あなたは準備委員のお一人として推進していかなければならない立場におありのようですが、この点の矛盾に対して今後どのように努力されていくつもりなのか、この点が一つ。  それから松岡さんにお願いしたいことは、伝統芸能の置かれている立場、環境というものが非常にきびしい、好ましくないけれども、サラリーマンになってもいいから親のを継ぎたくないというようなこともちょっと先ほどお漏らしになったようですが、もっと潤いを出すべきである。その潤いにも精神的な潤いもあるし、肉体的な潤いもあるし、時間的な潤いもあるだろうし、金銭的な潤いもあるだろうが、そういった点についても、何かあなたが革命していかなければならないという意味なのか、あなたのお考えをこの点についてお伺いしたいと思います。よろしくお願いいたします。
  28. 香取伝

    参考人香取伝君) 先生の御質問の中に、私たちが協力するという精神を持ちながら、やはり矛盾した言動がなされた、ことばがなされたということの御質問と存じます。それからもう一つ、ここに付言して申し上げますことは、先ほど喜熨斗君の若きファンの歌舞伎観ということですが、最近の情勢から申しますと、非常に若い層の女性のファンが歌舞伎を見るというのがどんどんふえてきております。たいへんうれしい傾向であると思うわけであります。私たち映画もやっております。歌舞伎もやっております。いろんな諸種の演劇をもって看板としている松竹でありますけれども、まことに憂うべきは、いま、人情の世界におきまして、後輩である青少年というものが非常にいろんな映画というものに災いされていると思うわけであります。その中に、歌舞伎を見ている青少年というものは、非常に何か、言うならば豊かな情操を持っている人間が多いように思うわけでして、私はよく結婚式なんかに行きますと、お嫁さんがたいへん歌舞伎好きだというと、これはもう絶対に歌舞伎の好きなお方はいいお嫁さんだということをいつも言うのでありますが、ほんとう歌舞伎ごらんになる方はみんな情操豊かな、やはり日本的な精神を持っておられる、過去の日本的精神を持っておられる、こういうふうに思うわけであります。そこで、言うなれば、非常に動員力が低下しております現在におきまして、これをやはりどんどん拡大政策をとりませんと、先ほど申し上げたとおり、十のものを折半するような形になってはいけないわけですから、やはり若い人がわかる歌舞伎を創造して、国立劇場がやはりどんどん層をふやしていって、それが少しむずかしいけれども、今度歌舞伎を見ようということが、歌舞伎座へ均てんさすというようなことが大事じゃないか、そういう場合におきましては、われわれが協力して、そうしてそういうりっぱな国立の国家機関におきまして、どんどんお客さまをふやしていただいて、それが九十万が百八十万に倍加したとしまして、それが依然として歌舞伎のファンは国立も見、歌舞伎も見る、歌舞伎のファンも国立を見るということになれば、そういう杞憂もないわけです。かたわら、国立劇場がもうけなくてもいい、そろばんを度外視して営業をやられる、われわれはもうけなければならぬという悲運な立場に入るというようなことですね。そうしてわれわれの権益が侵されるような心配はないかということを、観客の動員と同時に考えますとともに、この入場税というものが、同じ歌舞伎という古典をやって、かたわら血みどろに働いておるところに課税する、国立劇場国家機関なるがゆえに課税しないというへんぱな処置に私たちは杞憂を感じるわけです。同じファンが見ておって国立劇場のものよりも歌舞伎を見て、歌舞伎座のほうがいいから、これはこのほうが出し物もいいし、これはりっぱなものだから見ようとするものが、かりにいま打ち出されております国立劇場が千八百円の料金がわれわれにおいては千九百八十円取らなければならぬというようなこと、このアンバランスというものが、同じ使命を持ち、また国立劇場発展の使命を持つならば、松竹もやはり何十年間持ち続けた歌舞伎というものをこれから発展さす使命があるわけです。お互いに使命を持っているものの、国家から見るところの処置としては非常にへんぱなものじゃないかということを考えるわけです。そういうところに、われわれが営業が成り立たなかったとすると、何とかわれわれが協力しているうちにお面をとられやしないかということがある。また、とられるとか何とかいうことよりも、われわれの営業が圧迫されていくのじゃないかということを考えるわけです。そういうところに先生の御指摘になった矛盾の私のことばが出るということではないでしょうか。そういうふうにお答えしたいと思います。
  29. 松岡壽夫

    参考人松岡壽夫君) 潤いを持たせるということと、それから今日まで伝統芸能、たとえば歌舞伎を主体とされておりますけれども、そのほかの例をとって見ますと、日本の舞踊家において踊りを見せて入場料を取って、そうしてそれで生活をしておる人が何人いるであろうかということになりますと、結局、踊りを踊ってお金を取るのは歌舞伎だけでございます。また、それに新しい振りを考えますと、舞踊家と称される人たちは、流派という組織を通じて——これは決して否定するものではありません。それぞれの個性とその研さんは尊重しておりますけれども、流派という組織の水掲げ、たとえば家元が踊る場合には、すぐ下の名取りさんたちが十万円持ってこい、二十万円持ってこい、そういうふうにしぼり上げまして、日本舞踊を勉強するということは、また舞踊家になろうということは、延べ計算いたしますと膨大な費用がかかってくるわけであります。したがいまして、踊りという関係上から、女性がそういうような勉強をする機会が多いわけでございますから、そういう方々においても、親の応援を受けるだけでは勉強ができないということになりまして、ひっきょう、先ほどちょっと俎上にのぼりましたけれども、スポンサーということになりましたけれども、このスポンサーは、皆さんもよく御存じと思いますが、つまり二号制であるということ、三号制であるということ、こういうことなんです。そうして経済的な援助を得て、そうして舞踊家である面目を保っていこう、身を粉にしてと言いますけれども、ほんとうに本末を転倒した、何が主体であるかということがわからないような状態で、伝統芸能が何となくその面目を持ってきたような現状でありますがゆえに、一般家庭からだんだん疎遠になってきたこと、それと、私も自分のささやかな経験でございますが、十代のころは日本舞踊が好きで好きで勉強を始めました。ところが、いろいろ考えてみますと、入れ歯を入れるようにならないと舞踊家としてはめしが食えない、やっと食えるようになったら自分の歯じゃ食えないということになりそうだと、そういうことを見まして舞踊界から足を洗って、今日いろいろ流れてテレビタレントという商売をやっているわけです。また、日本の長唄、そういったたぐいの古典的な芸能も、踊りをやります関係上、やはり自分のうちでならさなければならない。そのようなときに、男が何だそんな女の腐ったみたいなのをやって。それが今日、文教委員会においては古典伝統芸能として守っていかなければならない。どうもおやじから聞いていたものと意見がだいぶ違うようである。そういうことで、今日まで私はひそかに、日本伝統舞踊はいかにあるべきか、ほんとうに心から勉強しようとする者がまるで親不孝な、社会をよごしていくようなものに見られるということは一体どういうことであるか。先ほど潤うということを申し上げましたことは、経済的なことはもちろんでございますけれども、こういうような社会的な人に隠れた経済援助を得なければやっていけないというようなことがないということなんです。そうでなければ、国立劇場という名のもとにおいては自主公演なんということは何ら意味を持たないことになってしまうのです。また、今度は歌舞伎が主体になっておりますけれども、歌舞伎俳優の場合においては、やはり先ほどからもお話ししておりますように、松竹さんは確かに赤字、私どももいささか関係しております関係上、ひそかに、どうやってそういう専業が成り立っているかというのでこまかく計算した時代がございます。確かに俳優にこれだけの金をかけ、舞台にこれだけのセットをしたならば赤字であるということは火を見るよりも明らかであります。それじゃどのようにして松竹は持ってきたかと申しますと、これは専門でないからわからない、客観情勢でごさいますけれども、売店の売り上げ、食堂の売り上げ、また、あるときには入場税五割という時代がございました、また七割という時代がございました。その半年か一年間のプールによって映画をつくる、松竹映画は上映されていた。その資金のほうに回されていたということも考えられるわけですけれども、そういうふうにして、かろうじて、四苦八苦しながら今日この歌舞伎という総合的な伝統芸能が持ちこたえてきたと思いますけれども、俳優さんたちは、役者衆は、今日二年や三年で——決してそれを羨望するものじゃありませんが、売り出してきて、一日何十万円、何百万円と金をとる若い方々と比べて、生まれ落ちてから芸道精神をしてきたその努力に報いられるものの報酬であるとは決して言い得ないわけでございます。  そういう意味で、営利を目的としないならば、またいろんな維持費ですね、そういうようなものを捻出することを目的としないならば、今回のこの契約制も、プロデューサーシステムにいたしまして、俳優と。これも実は先ほどお伺いしたかったのでありますけれども、契約を結ぶということは個人契約であるか、会社の承諾を得ての契約であるか、もちろん会社を抜きにして個人契約をいたしますれば、道義上の問題からいろいろの問題が起きてくるでしょうけれども、そういうような点も加味いたしまして、もちろん営利を目的とする会社にも害はないように、そうして俳優その他関係者に潤いを、たとえばその予算の捻出ですけれども、歌舞伎出演に関するところの予定予算案ですね、あくまで案ですが、二億九千九百九十九万九千円になっておるようです、年間ですね。一億九千九百九十九万九千円、初年度かもしれません。二億九千九百九十九万九千円ということは——何か舌をかみそうですけれども、千円多くすれば三億なんです。三億にすれば苦情が出るだろうというので千円だけ安くしておこうというのでは、りんごを売るのにきめるマーケットの値段のつけ方と同じじゃないか。まあ予算を案として立てるについては、もっと具体的な内容を立てて、三億でも五億でもいいと思うんです。たとえば一番費用がかかるのは道具方です。道具方が一番膨大な費用がかかります。そのたびに新しくたてるわけですが、この舞台道具を製作する工場も国立劇場に付属して、そこにまず最初に、初年度に予算をかけておくならば、長い年度の間においてはこの製作費というものもかなり節減されるのじゃないか。ですから運営方法のくふうをさらにきびしくしていただきたいというのはそういう点でございます。たとえば床山と申しまして、かつら、あるいは衣装方、みんなそれぞれ独立した会社があるわけでございまして、じゃあ借り料、損料だけで済めばいいわけですが、役者衆がそのたびごとに御苦労さまと、税金に載せない金を払う。これは事実をこの場合しゃべっていいことかどうか、事実ありのまま申し上げるのですが、おそらく個人としてその受け取る給料よりはるかに大きな額を心づけとして、御祝儀として受け取っておるような状態であります。だから一般サラリーマンから見れば、歌舞伎俳優というのは相当な生活ができるんじゃないかと言うかもしれませんが、それを取り巻いて、俳優としての地位、体面を保っていくためには、やはりそれ相応の膨大な支出があるというわけですね。そういう支出を、国立劇場という名のもとに運営するなら、一切なくなるように協力してあげることは、経済的にも、精神的にも俳優保護していくことになりますし、伝承者を養成する費用も、この間の回答では、ちょっとべっ見したのですけれども、二十万円、いろいろな予算に対して養成にかける費用が二十万円、電話代やノート代ぐらいにしかならないのじゃないですか、年間。これでは養成ができません。したがって、俳優そのものに潤いを与え、そうして一流の権威のある俳優さんたち国立劇場で保障して、若手の皆さんを養成する。これもまた、毎年国内で行なわれておりますところの芸術祭の中で、たとえば舞踊部門なら舞踊部門で優秀な人が選ばれたならば、その人の技術に対して、ここに所属をさして、こういう一部の人たちから薫陶を受けさして、新たな歌舞伎伝統芸能伝承者として養成していくとか、いろいろな方法が山ほどあるのじゃないかと思います。そういう意味で、精神的にも、また社会的にも、そうして経済的にもですね、潤いということばを申し上げさしていただきます。以上です。
  30. 鈴木力

    ○鈴木力君 たいへん時間がおそくなりましたので、簡単にお伺いをいたしますが、いま五人の先生方から伺いまして、まあこの法律自体が古典中心としておって、しかも古典だけではなしに、現代芸能を重要視しなければならないという趣旨のことが、どなたからか述べられたと思います。これは実は私どももこの法案作成の過程で、やはり現代芸能の方々に相当の御不満があったということも伺っておるわけではあります。しかし、国立劇場として日本で初めて発足する、まあこの人たちも画期的な進歩だと言ってほめていらした。この劇場が成功するためにもいまのような御不満がある方々に、どうしても、やっぱり納得をしていただくような、そういう皆さんの意見が反映するような発足をしなければならない、こういうふうに考えての上でお伺いをいたしたいと思いますが、時間がありませんので、骨原先生にお願いをしたいと思います。  これは、先生のおことばにもありましたように、何か法律を見たら建物ということでびっくりしたというおことばがあったと思うのですが、やはりこの法律自体が、建物ということが国立劇場という印象を与えておると、どうもやはりなかなか皆さんの納得がいくということはむずかしいのじゃないか。たとえば、いろんな考え方があると思いますけれども、国立劇場というのを、これを特殊法人にするいうことなんでありますから、法人の性格なり目的の中なりに、いろんな近代芸能の御要望なさっていらっしゃる問題なりをずっと取り上げて、ただし、敷地の問題でありますとか、道路の問題でありますとか、そういうことからまず第一に古典を取り上げたということなんでありますから、事業面としては一次、二次、三次ということがあり得ても、法人の性格ということは現代芸能も含む性格ということにすればどういうことになるのだろうか、こういう問題。なお、菅原先生は設立準備協議会の委員でもあらせられたわけでありますから、この設立準備協議会でも、第一次では現代芸能まで含んだ案を出されまして、第二次に修正をして現代芸能を除いていらっしゃるわけでありますから、その除いていらっしゃる考え方が、私がいま申し上げた考え方でありますのか、あるいは劇場ごとの法人というような考え方であらせられたのか、そういう辺の経緯も含めて御意見をちょうだいしたいと思います。
  31. 菅原卓

    参考人菅原卓君) 法律のことをよく存じませんが、法律がどういうふうにしてでき上がるのかということがわからないで言っておるのはおかしいのでございますが、大体が準備委員会の経過、われわれ現代芸能のほうの委員として出ておりました関係上、あそこの敷地に古典芸能現代芸能とを入れる劇場を二つ建てるということがきまった案でございました。それが敷地、それから建蔽率及びあそこへ高速道路が通るとか何とかいうことでもって、現代芸能のほうはオペラ、バレーというようなものを考える関係上、二千人を入れるかなり建物として高層建築になるということがあって、あそこに通る道路の関係上その高さがとれないのだということになりまして現在の建物になった。建物というか、建物の構造になり、そして切実に要望しているところの文楽を入れる小劇場一つ含めなければならないということになりますと、現代芸能というものは第二次案にわれわれは劇場として保留いたしまして、そして歌舞伎及び文楽、第一、第二劇場というものの古典芸能を主とした劇場国立劇場の第一次案がそういうふうにきまったのだと思う。そういたしますと、そこで現代芸能関係の人間は全部はずれているわけです。ですから、それがどういうふうに、国立劇場法案として出る法案そのものが——私どものほうにはいろいろ運営でやりますとか、いろいろなことの御説明はありましたけれども、国立劇場としてこういう法案を出すのだという際に、われわれには別に御通知が、当然なくてもいいのだろうと思いますけれども、古典芸能を二つ入れるものが国立劇場である、これが今度できる第一次国立劇場の内容であったのだと思うわけであります。ところがそうじゃなくて、日本国立劇場はという法案になりますと、これはやはりわれわれちょっと文句を言わせてもらって、少なくとも主として今度のものは古典芸能に使うのだということに直してもらいませんと、国のやることですから、いつ第二次国立劇場ができるともできないとも、それはもうたいへんむずかしい問題になって、あらためて今度われわれの観念といたしましては国立劇場法案そのものを変えて、今度、現代演劇のための国立劇場、第二次案をつくる場合には、非常に国立劇場というものは伝統芸術のためにあるものであって、現代芸能というものは全然考えてないのだということになると、それではやはりわっしょわっしょといって、これから基本のところからもう一度やり直して、現代芸能のための国立劇場というものを建ててもらうための法案の成立から何から、今度基本からやり直さなければならない。そういうことになるんでは、やはり何かそこで何年間かわれわれも引っぱり出されまして、いろいろと協議したことが全然むだになり、いろいろといま長老になっておる現代芸能の関係者の方々は、議員、議会その他ずいぶん回って、現代芸能の立場というものを保留したわけなんですが、それが全然無視されてしまうということはわれわれの一番大きな危倶でありまして、今度できますところの国立劇場そのもの、あそこに建てております劇場古典芸能のための劇場であることはわれわれも十二分に了解いたしておりますし、また、古典関係、伝統芸能関係の方々も、現代芸能のための国立劇場が第二次か第三次か知らないが、とにかく緊急にそれも考慮してもらうということを保留して、いまの劇場案になったというふうに私は考えますし、また、そういうふうにみんな世間では、民衆の間では了解しているわけでありまして、ですから、いま現在建てております国立劇場現代芸能を無視してというよりも、伝統芸術、それからことに歌舞伎及び文楽のために使われるということについて、われわれは何にも文句は言ってないわけであります。ですから、そこのところを十分御理解願うと同時に、しかし、その運営のプランを見ますというと、何カ月かはあいておる、非常に大きなすき間があるということになりますと、これを伝統芸術なり古典歌舞伎なりをやることでは埋まらないから、そういうふうなすき間が出てきておる。十二カ月の間、七カ月くらいのあき間を使って、そのあとはすき間だらけ。それで、それは貸し小屋にするのだというならば、これはむしろ取り落としておる現代芸能のほうにそれを使うようなことができないか。あるいはそれに活用するほうが、国家の建てたところの国立劇場趣旨に合うのではないかということが私どもの主張でございまして、御返事になっておるかどうか、何か御質問があればまたお答えしたいと思いますが、と同時に、この審議経過の一番最後のところの、国立劇場古典芸能のためにということにきまるそこのところの処置が、われわれの委員会のほうに全員周知されなかったという事実があることは、そこのところが十分でなかったということは、文化財の事務局長の村山さんも、この前の委員会——これは衆議院委員会だったと思いますが、そういうことも申されておりまして、そこらのところが、つまりわれわれが今度特別に異議を申し立てている事態でございます。
  32. 鈴木力

    ○鈴木力君 どうもくどいようですけれども、もう一回お伺いしたいのですが、法律の文章はともかくとして、国立劇場は主として伝統芸能云々と、こうある。そこの「国立劇場は、」というそのことばが、いま建てておる国立劇場はということであると、まあ理屈はわかってくる。しかし、建てておる建物ということじゃなしに、いわゆる日本芸能を育てていく、保存する、あるいは発展さしていく、そういう役割りのセンターとしてのいわゆる特殊法人としての国立劇場はという言い方になってきますと、主としてどこどこの芸能ということではなくて、お説の点が変わってこないと非常に御不満な方々がたくさんいらっしゃるのじゃないか。それを整理しますと、具体的には、現実のいろいろな事情によって、第一次としてはいま後でておる国立劇場が第一次である、こういう考え方に発展していくんじゃないかというふうにも考えているんですけれども、その辺について、くどいんですが、もう一度お考えを伺いたいと思います。
  33. 菅原卓

    参考人菅原卓君) できますことならば、国立劇場現代芸能及び古典芸能というタイトルになることが、日本国立劇場を規制する法律案としても、ぼくは明瞭、非常にはっきりしておって、そして国立劇場の精神的な意思表示を明確にしていくことだと思います。その中で、今度できる建物は国立伝統芸術劇場であるとか、古典劇場であるとかいうようなことであって、これが特殊法人として何か先行するということになりますれば、それは一番完ぺきであって、世界の連中がこれを法文化されて読んだ場合にも、日本のナショナルシアターというものはこういうものだ、現代と、それから両方を均等に見て、バランスをとりながら見ているけれども、まず第一番に古典芸能のほうを主として先行さすんだ、第二次の現代芸能演劇というものに対しても、当然、国立劇場ができるものだというふうにすぐ読みとれるわけだと思うのですが、そこいらのところが、われわれ非常に法文に明かるくないもんですから、しかし、もうそういうふうな形ができているから、ですから、せめても議院の附帯決議においてそういうことを促進していただいて、そしてさらに現代芸能劇場ができるか、あるいはその劇場が建つまでの間は、いまあるものをバランスをとりながら使えるものは使っていくというふうに御審議願えれば、一番ありがたいものだと思うわけですが、その法文のほうのあれがはっきりしませんのですが。
  34. 鈴木力

    ○鈴木力君 どうもありがとうございました。
  35. 秋山長造

    ○秋山長造君 香取さんか、中車さんにちょっとお尋ねしたいんですが、国立劇場自分の手で俳優を養成するというようなことは、これは考えてみると全く歴史的、画期的なことだと思う。だけども、これ実際問題となると、これはなかなかたいへんな問題だと思うのですよ。まあそのことについて、この委員会でもこれから審議の過程で、文部当局のいろんな将来計画というものをよく聞いてみたいと思っているのですが、その参考にする意味でお尋ねするんですが、先ほど来お話があったように、歌舞伎保存、あるいは発展というようなことは、ほとんど松竹の手でやってこられておる。なるほど半面営業ではあったかもしれぬが、また他面においては、その非常な文化的な大きな功績というものは私は高く評価しているのです。これは大谷さんの功績というものはまことに偉大だと思う。それはともかくとして、一体、歌舞伎俳優というものが、いまどのくらい数おられるのか。それからもう一つは、これを伝承していくわけですから、まあ歌舞伎俳優というものの卵ですね、俗なことばで卵がどのくらい一体日本の国におられるのか。また将来の見通しのようなもの、それからあなた方の手で歌舞伎俳優というものを一人前に育てる、一人前とは何ぞやということになるとむずかしいですけれども、一応、通俗的にいえば、舞台へ立てば一人前ということになるんでしょうけれども、そこらまで一人の俳優を育て上げるのに一体どのくらいの手数がかかっておるのかというようなこと、そういう俳優の養成の実情というようなこと、費用の面なんかも加味して、ひとつ簡略でよろしいから、参考に教えていただきたい。
  36. 香取伝

    参考人香取伝君) 私が長くこの俳優をいじっております関係上、その感覚から受け取っているものを申し上げるのですが、歌舞伎というものは、たとえば映画なら映画というものは新たにスターをつくらなければならないわけですが、歌舞伎というものは皆子供がそれぞれ親の芸を継いでいく、ほとんど。親が歌舞伎俳優だから、おれは歌舞伎俳優なんてああいう因襲の中にこむずかしげなことはやらないという人はないようです、現在。皆それぞれ親の芸を受け継いで、親にまさる俳優になるために非常に苦労して精進しているわけです。それから同時に、すべて歌舞伎俳優というものは、中車君なら中車君の弟子というものは、中車君に教導されて、そしてその芸というもののよさから自分の個性をつくっていくわけであります。したがって、たとえばここに養成所ができまして、どういう形に演技を政変するんだ、したがって、君もこういうふうに国立劇場の演技は変わってくるんだから、これをやれと言っても、その親が納得をしない限り私はその子は納得しないと思っております。したがって、たとえばいまここに例を置きまして、中車君がここの養成所の指導者になったと仮定します。そして勘三郎、歌右衛門、松緑の子供たち、また弟子たちに、中車君が指導することによって国立劇場へ出してやるんだといっても私は出ないと思います。皆やはり党派がすべて政界にもありますように、やはり主義主張というのが非常にむずかしく固まっているわけでして、演技におきましてもやはり自分の親を中心にする。たとえば団十郎系、また音羽屋系、それから成駒屋系というのがそれぞれ分かれているわけですから、いかなる人がやりましても、その親が、たとえば中車君が自分の子供を勘三郎に預けるというならいいでしょうが、いきなり国立劇場のおれは先生である、だからお前たちを教えてやると言っても、横を向いておそらくこないでしょう。そういうなかなかむずかしさがあるわけでして、まあ弟子はそれぞれ師匠について勉強する。で、師匠とのつながりが強いわけです。これはやはり先生方が一番お考えになるでしょうが、やはり先輩に引き立てられてみんな偉くなっておられることだし、また、そういう世の中でありますので、なかなか派閥が強いわけですから、まあ指導者を、全部今日の大幹部を包含してのことならできるでしょうが、一部の人を指導者にして養成所をつくるなんということは、私の考えでは、私がもしかりに国立劇場の幹部になってこれをやろうと言っても、絶対不可能であるということを申し上げたい。それから、それはあまりに実情を知らないことであって、もしかりにそれをしなければならないのが国立劇場の任務であるとすれば、やはりそういう大幹部俳優国立劇場の講師として委嘱してやられるということならできます。ですから、一部の固まったものにおいて、この人が大幹部の一人であるから、これに指導させれば万全であるという考えはちょっと当たらないんじゃないかということを考えます。
  37. 秋山長造

    ○秋山長造君 ありがとうございました。いまの点もありがたいと思うのですが、もう一つ歌舞伎俳優というものは一体今日どのくらい実数おるのかというようなこと。それから俳優の卵というもの、ちょっとあまり俗なことばですけれども、ほかのいいことばがないですから。この俳優に将来なる人がどのくらいあるもんですか。そういうことも聞いておきませんと、絶対数が非常に少ないのをあっちでもこっちでも引っ張り合いみたいなことをしてもつまらないし、そういうようなこと。それから、子供のときから育て上げるのでしょうが、一人前の役者さんに育て上げるまで、よく大学生一人について文部省は年に幾らかかっているんだというようなことをすぐ御議論になるのですが、そういうように端的に数字は出ぬだろうと思うのですけれども、大ざっぱに、一人前にするまでに一体どのくらいかかるかというようなことも答えられれば参考お答え願いたい。
  38. 香取伝

    参考人香取伝君) いま松竹に所属します俳優が、歌舞伎俳優と名のつく俳優が二百二十名ぐらい、東西——大阪を含めましてあります。それから、中車さんが所属されております東宝の俳優さんが三十六名、大体二百五十名前後と御記憶願えればけっこうであろうと思います。それから、いま先生のおっしゃいました、どういう形に育てていくんだ、どのくらいの費用ということ、大体冒頭に申し上げましたことは、非常に俳優の給料はばく大であるということだけは、私は内容は申しませんが、申し上げたいと思います。それはばく大な給料をそれぞれ払っているわけです。若い俳優におきましても、二十代、三十代にしても、ちょっとしたスターの給料というものは、実にわれわれが何十年間獅子奮闘してもらっている給料が何分の一かわからないくらいばく大なものであります。これは、やがて松竹国立劇場俳優さんをあっせんして、松竹は何もそこに利益しようということは考えておりません。しかし、松竹が長年、とにかく、俳優というものを、たとえば戦争中におきましても、芝居のできないときでも給料は払っているわけです。ことに俳優というものは、なかなか神経を使う仕事でありますので、やはり年間毎月出るということはむずかしいのでございます。年に、やはり八カ月なら八カ月で、自余の四カ月というものは生活の保障をしなければならぬ。そういう保障のような意味におきましても、何らかの、やはり手数料をいただくということは当然じゃないか。手数料でなくて、俳優の生活であって、つまり、いうなれば十二カ月のうち八カ月働いて、四カ月の給料も払うとすれば、八カ月のうちに国立劇場が一回とすると、八分の一は払うのがあたりまえじゃないかという見解を持っているわけです。これから後に、国立が払うか払わぬかは、これはわからない話ですけれども。それで、俳優というものは、なぜそういうふうに多くのものをあれするかというと、どうしても俳優というものは、長唄にしても、常磐津にしても、清元にしても、踊りにしても、こういうものを身につけておかなければいけないわけです。それについてのおけいこ料、それからまた、リサイタルのつき合いというものが、年間なかなか大きな金がかかるわけです。それから、先ほど松岡さんがおっしゃった俳優は非常に出銭が多いということは、これは誤解のないように、松竹俳優さんからもらっているのじゃなくて、俳優さんが、つまりたとえば大道具、別会社でありますので、大道具の人に、これはいろいろ注文を出して、ここをこうしてくれ、ああしてくれ、塗りかえてくれ、この出口をこうしてくれというようなこともありましょうし、そういう場合に、御苦労だったというお礼のしるしが出ていることもあるわけです。そういうような諸般のことを、情勢を考えますと、やはり俳優の給料というものは相当のあれをしないと生活にならないということと、あのメーキャップしますおしろい代というものは、普通のおしろいと違いますので、特殊なものを用いる。なかなか大きな金がかかるわけでして、そういうことを考えてやっているわけですが、たとえば、まあこの方なんかも非常に小さいときから舞台に立って初舞台を踏んで、それからされているわけですが、大体、いまでもそういうことは変わりなく、いま小学校一年ぐらいの程度が初舞台を踏みまして、それから、どんどん踊りを教わり、また少し年をとってくると長唄を教わり、常磐津を教わるというような形に入ってくるわけです。それで、親が手をとってあれする、そういうことにおいて、松竹も、小さな人は小さな人、また中年は中年というようなことで、またこれを東横ホールで行なったりいろいろしていきませんと、大幹部ばかりお歴々の中へ入っていくと、ついそういうものが浮かばないということで苦労しているわけですが、その費用の分析というものは、ちょっといまここでそういうデータを持ち合わせしておりませんが、少なくとも十五、六ぐらいになりまして、やや青年俳優として一人前になるまでの費用というものは、少なくとも月に二万円から三万円、これが初舞台を出てから、まる四、五年間の経費で、それから今度は、かりに初舞台を五つで出まして、十になって、これはやはり五万円以上かかる。それから十五になると月に十五万円ぐらいかかるというような、修業費が出てくると御解釈願えればいいのじゃないかと思います。以上です。
  39. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 郡司先生にお聞きしておきたいのですけれども、先ほど古典芸能は一般の人が見て退屈だ、わからない。これをわからせるためにゆがめてはならない。見る者の教養をつくることであり、見物を訓練することだというお話でございましたけれども、今度の国立劇場というものは、営業のためではなくて、むしろ文化政策であり、教育事業であるという立場から、先生おっしゃった御意見は大事なことだと思いますので、それはもう少し具体的に、それじゃどういうふうにするかという点についてお話を聞かせていただければと思います。
  40. 郡司正勝

    参考人郡司正勝君) そこが商業劇場と違う国立劇場の立場じゃないとか思いますが、外国のオペラや何かでも、かなり国民として、教養として見なければならないという点が一つあるのじゃないかと思います。ですから、歌舞伎を知らないではという一つのプライドのようなもの、まあ責任といったもの、そういうものが大事だ。それかといって、それじゃ大衆に働きかけなくてもいいかということにはなりませんで、その働きかけ方は、また、いろいろ書いたものなり、あるいはその劇場で、舞台を見に行きます前にいろいろ演技を解説したり、これはこういうことを表現するのだと、こういうこととこういうことと合わさってこういうことになるのだということで、かなり興味を持つのじゃないかと思います。歌舞伎はかなり教養がないとおもしろくない、いや、あったほうがよほどおもしろいわけで、音楽一つにしましても、かつらの変化一つにしましても、ぼんやり見ているよりは、知ったらおもしろさが倍加するわけでございますから、これは大衆に迎合してくずすというのではなくて、ぜひそういう教育、教え方の方法の、教育をいろいろ考えるべきだろうと、こう思います。お答えになりますかどうか、もう少し何か具体的な問題が出ますれば……。
  41. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 参考人の各位には、御繁忙の中わざわざ御出席をいただきまして、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、非常に参考になりました、委員を代表し厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。  なお、午後の再開は二時十分の予定にいたしております。その間暫時休憩いたします。    午後一時三十分休憩      —————・—————    午後二時四十四分開会
  42. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  午前に引き続き、国立劇場法案を議題とし、質疑を続行いたします。  質疑のある方は順次御発言を願います。  なお、政府側より中村文部大臣、村山文化財保護委員会事務局長出席をいたしております。
  43. 小林武

    ○小林武君 村山政府委員にお尋ねいたしますが、きょうの参考人のお話を聞いておりましても、やはり保存の問題についていろいろな立場から——いろいろなというのは、たとえば興行者の立場、歌舞伎の側に立った郡司さんのような考え方、それから新劇関係の方の考え方というようなぐあいに、やはり多少考え方の相違があるようなんです。きょうは、おもに歌舞伎保存の問題を議論したのでありますが、そこで、歌舞伎の問題を議論をしているときに、皆さんが口をそろえて古典芸能古典芸能とおっしゃるのですね。これについては、古典芸能について、古典芸能伝統芸能という、こういう分類のしかたは、実はこれは公式の場所ではないけれども、あなたから聞いたことがある。古典芸能とはこうこうのことで、伝統芸能はこういうことでございますという説明をぼくは聞いたことがある。たしか私の部屋で聞いた。そのことと同じような立場でお話になっておる。郡司さんの書かれたものの中に、これはたしか朝日新聞か何かだと思いますが、その中に、公演日数予定表に古典芸能伝統芸能というものについてあなたたちの見解というものがこのように述べられておるということを書いてあるのです。申し上げますと、形式的内容が固定してほとんど発展の余地のないもの、具体的には雅楽、能楽、文楽歌舞伎、これが古典芸能伝統芸能とは、わが国固有の文化的特質を持ち、しかも流動性のある芸能を包含するものであると、大略こういう分け方をしておる。でありますから、法第一条によるところの伝統芸能のうち四つのものが古典芸能で、あとのものが伝統芸能だと、こういうことになるわけでありますが、きょうは非常にそういうことばがたくさん出た。われわれの持っておるあなたたちのほうから出した資料にはそれがなかなか見当たらないので、盛んにさがしたのですけれども、これはどうなんですか。何かわれわれのところに出てくるときには変わってきたのですか、そういう発表をしたことがあるのですか。きょうは質問をなるたけ短くするような御注文がありましたから、その意味で申し上げますが、ついでに、たとえば寺中さんは、古典芸能に関しては、税金の問題で取り上げてどこかに発表しておる。そういう古典芸能伝統芸能というような分け方をあなたたちがなさっておるのなら、ここで明らかにしてもらいたいと思う。
  44. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 古典芸能伝統芸能と違った種類のものとして使い分けたような説明をした記憶はございません。もしあったとすれば、それは説明の不足だと思います。私どもは、わが国古来から伝わっておる芸能伝統芸能としてとらえまして、その中で比較的様式の確立した固定したものを、しいて言うならば古典芸能というぐあいに、必要があれば分類しておったわけでありまして、当然、古典芸能というようなものも伝統芸能の中に含まれるものでございます。何が古典芸能として特に抜き出されなければならぬかということにつきましては、厳密な定義もないようでありますし、また、そういう定義づけをして、それに基づいて国立劇場の運営を特に変えていくというようなことは考えておりません。御指摘のように、能楽、雅楽のように発生が古く、比較的様式が固定したものは、必要があれば古典芸能という称呼で呼ぶこともあろうかと思います。歌舞伎がどちらに属するかはいろいろ議論が分かれるところだと思います。私どもとしては、歌舞伎古典芸能というものに入れたほうがいいかどうかということは、これは議論の分かれる問題だと承知しております。
  45. 小林武

    ○小林武君 これは参考人として言われたことですから、あなたたちの解釈と同じでなければならないということはないのでございますけれども、郡司さんも一応その面ではあなたたちに協力をされて仕事をなさったこともあるのでしょうから。その中で、郡司さんは、古典芸能ということをあなたたちのほうでおっしゃっている。しかも、それはどこで言っているかというと、公演の日数予定表の中に出ていると、こう言っているのでありまして、古典芸能についてはこういう解釈を下していると、こう言っている。これは間違いのないことでありましょうから、もし、いまのような解釈になったら、あなたのほうでは、初めはそういうことだったけれども、誤解を招くからそういうように変更したというなら納得いきますが、あなたがぼくの部屋でお話になったときに、先ほどぼくが申し上げたようなことを申された。そのときぼくもいろいろ意見を述べたはずですけれども、それではどうも古典芸能ということを、あなたのように、比較的なんていうことばでいくと根拠が少し薄弱なんですよ。そうでありませんか。古典とは何ぞやということになるんです。古典主義とか、古典とかいうようなことをどう考えるかという問題になりませんか。郡司さんの話の中に、もう絶対とにかく様式の変更というものはあり得ないものだという、これは古典というものに対するきびしい態度だと思うのです。これは郡司さんの所見としては、われわれはいい悪いということを言う必要がないのですけれども、そういうふうに、あなたのほうでは古典ということばを使う、これからも使うだろうし、きょうお見えになった方はそれぞれみんな国立劇場について参画した人なんですね。その人たちが使うのですから、どうなんでしょう、もう少しはっきりしたほうがよろしいのではないかと思うのです。歌舞伎古典芸術なのかどうなのか、それから雅楽だとか文楽だとかいうものもその中に含まれるかどうか。これはいいかげんにいまここでやっておくというと、あとで困るのじゃないですか。
  46. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 国立劇場法案の中では古典という字句は使っておりませんので、すべて伝統芸能ということになっておることは御承知のとおりでございます。それから法案の基礎をなしました国立劇場設立準備協議会におきましても、答申その他発表した文書の中では、私の記憶する限りでは、古典芸能というよりは伝統芸能という字句を用いておったと承知しております。そこで、しからば古典芸能とは何ぞやということでございますが、先ほど御説明申し上げましたように、伝統芸能の中に含まれる概念であって、比較的固定したものを特に分けて整理する必要がある場合に古典芸能という称呼を用いておりまして、その例示としては、能楽、雅楽、それから人によっては歌舞伎古典芸能の中に入れるというようなことが行なわれておるということを申し上げたわけでありまして、国立劇場の運営上、古典芸能を特にその他の伝統芸能から抜き出して分類して別の扱いをするということは、現段階では少なくとも考えておりません。もちろん伝統芸能にもいろいろな種別がありまして、その扱い方は一様ではないと存じますが、古典芸能伝統芸能という二つの種類に分類して特に取り扱いを変えていくということは考えておりません。もっとも国立劇場の運営につきましては、これは何度も申し上げますように、現在、文化財保護委員会で考えておりますことは、設立準備協議会の答申を基礎とした一応の腹案でありますが、特殊法人発足後におきましても、さらに各方面の御意見を聞いて、必要があれば修正しながら運営をしてまいりますので、その段階において、別の有力かつ全体的な御意見が出てまいりますれば、その線によって運営を修正していくこともまた当然でございます。
  47. 小林武

    ○小林武君 これはもうあなたのほうから出た問題だと郡司さんは受け取っているわけですけれども、そうすると、伝統芸能というのは、わが国固有の文化的特質を持ち、しかも流動性のある芸能を包含したものということになりますか。
  48. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 流動性の解釈いかんでありますが、それからまた変化ということばの解釈にもよりますが、伝統芸能ないし古典芸能につきましては、基本的には流動性よりはむしろ確立した様式の保存というのが主体になるものと考えますが、その保存が絶対であって、一切の変化を許さない、必要があれば変化をすることもあり得るという意味で流動という字句を使ったわけでありまして、流動の内容につきましては、芸能の種別により、また今後の推移によって、また速度、状況が変わるものと考えます。
  49. 小林武

    ○小林武君 なかなか苦しいですね。やっぱりそういう一つの解釈をしているというと、古典というものを別個につくらなければならぬということになるわけですが、これはひとつこの程度にしておきましょう。  それから準備室長の寺中作雄さんですが、「国立劇場を探る」というのですが、東京新聞の一月二十四日に出したものの中に、「国税庁や文化保護委が古典と認めたもので、文化財に指定された人が演じるものは無税です」、こういうことばがあるが、この場合の古典というのは伝統芸能の中でそのつど選ばれる、認定するのですか。
  50. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 寺中さんの発言につきましては、私は実は細部の点まで確認しておりませんが、国立劇場において上演する演劇入場税が非課税になるかいなかは、古典という字句にはこだわらないで、国立劇場がみずから上演する芸能、これは国立劇場の主たる目的伝統芸能保存振興にあるという意味合いにおきまして、これは非課税という扱いになっております。したがいまして、古典であるかいなかということと、それから国立劇場入場税の課税、非課税問題とは直接関係がございません。
  51. 小林武

    ○小林武君 一つはっきりしておきたいのですが、これからあなたたち方面の方と接触を持たなければならぬと思うのですよ。実際こういう運営をするということになれば。そうすると、先ほどもわれわれがよく伺いましたように、その立場立場によって非常なやはり利害関係というものがある。特にあなたたちはいわゆる常利を目標とした、目的としたところの人たちとやらなければならぬというようなことになりますから、交渉しなければならぬということになりますから、これはいろいろな言い力をいろいろな人が言うということになると問題が起きますよ。私は寺中さんが何言ったか知らぬというようなことは、これはあなたたちが寺中さんの言ったことを全部知っているとはぼくは言わぬ。しかし、東京新聞という新聞は、それは日本じゅうどこへ行っても見られるという新聞じゃないけれども、東京においては相当出ておる新聞です。その中に、やはり準備室長である寺中さんが、「国立劇場を探る」というようなことでものをお書きになっているとすれば、これはやはり何言ったか知りませんというようなことはできないのですね。そういうことを言ったのじゃこれは始末がつかぬですよ。だから、そういうことについて、これから言ったか言わぬかというようなことをここでやり合うわけじゃないのです。ただ、そういうことについて知らないなんていうこと言ってもらいたくないのですよ。これはやはりあなたたちのほうで、ぼくらが見ておるものを何であなたたちが見ないというわけはないのです。おまえひまだから見たのだろうと言われるならまた別だけれども、そういうものの言い方はなされないだろうと思う。この間のことを引き合いにしてまことに申しわけないと思うのですが、たとえば毎日新聞に「教育の森」というのが出ていれば、軒並み文部省の方々は見ていないと、こうおっしゃる。こういうことでは私はちょっと済まぬと思うのですよ。直接われわれがこの関係のあることを、これは見ていないというようなことは、ちょっと言いかねるのじゃないかと思うのですがね。もし見ていなかったとしたら、直ちに見て答えなければいかぬですよ。何も私は見ていないからけしからぬとばかりは言わぬけれども、国立劇場というものが非常に問題になっているときに、国立劇場についてかなり重い責任の立場にある人が、将来またその中の有力な立場を占められるというようなうわさもあるわけですから、そういう人がおっしゃることというものは、これはあなたみんな非常に興味を持って見ますよ。そういうことを知らないというようなことをおっしゃらないようにこれからしないとおかしいのじゃないですか。それは御注意までに申し上げておきます。  それから次の質問は、たとえば講談だとか、落語だとか、奇術だとか、軽わざというものは、日本伝統のものがあるのだが、ああいう寄席芸術というものはどうなんだという問題を出しておる人がある。これは一体伝統芸術に入るのか入らないのか。講釈というのは、相当古い起源を持っておるのです。芸術祭に参加する作品でしょう。落語だってそうばかにできない、ばかにできないじゃなくて、りっぱなあれは日本の芸の一つだ。そうすると、そういう講談、落語とか何とか、その種のやはり寄席の芸というものは、これはてんで顧みられないのかどうか。これはやはりあなたたちのほうから一言つけ加えておく必要があると思うのですが、その点どうですか。
  52. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 御質問の前段につきまして釈明いたしますが、私は東京新聞の寺中氏の発言に関する記事を見ていないとは申し上げなかったつもりでございます。確かに見ております。内容も承知しておりますが、東京新聞の記事の全体が寺中氏の発言を正確に伝えておるかどうか、そこら辺まではわかりかねるというふうに申し上げたつもりでございます。  それから後段の御発言でございますが、いわゆる講談、落語、その他わが国に伝わっておる芸能がございます。これらは総称して何か巷間芸能、ちまたの間の芸能として分類するしかたがあるそうであります。これがいわゆる伝統芸能に入るかどうかにつきまして、私ども実は検討いたしました。気持ちとしては、文化財保護委員会事務局としては入れてもいいのじゃないかという感じを持っております。ただ、伝統芸能の中に入れて国立劇場の事業の対象とするためには、芸能伝統ですとか、様式ですとか、それから現在伝わっておる演技者ですとか、ある程度しっかりした実体がないととらえにくいというような実際上の問題もありまして、この問題はやや積極的に解しながら、発足後の国立劇場の評議会、あるいはその他の論議にゆだねたような気持ちでおります。
  53. 小林武

    ○小林武君 まずあとのほうから。あなた、巷間芸能ですか、巷間芸能というのが軽視される意味がちょっとぼくは理解ができないのですよ。これは日本の国ばかりでなく、これは外国でもやはりこの種の芸能をいろんな呼び方をするでしょうけれども、実は民族独特の芸能民族芸能ということばを使うところもある。このほかにもサーカスの類の中に入る種類のものまでたいへんこう大事にして、そして日本に来て相当円をかせいでいくような、そういうものもあるようなことは御存じのとおりですね。これらをひとつどうですかね、少しどうもそういう芸能そのものに甲乙のつけ方が何かあり過ぎるのじゃないか。もちろん準備委員の中には講談だとか、落語の人たちは入っていなかったような気がする。これは文部大臣にも一つ考えを願いたいのですよ。この種のものはあまり差別的に扱うということについては、一つ御考慮をお願いしたい。何らかの機会でそういうことをやってもらいたいと思うのです。  それからもう一つ前のほうで、あなたは読まれたけれども、内容が寺中さんの言わんと欲するところをよく書いたものかどうか、そのことについては確かではないと、こういうことをおっしゃったが、こういうことはいかぬですよ。これはもう役所というところは、ぼくはひどいところだと思っているのは、あなたのほうの役所に、これは文部大臣に聞いてもらいたいのですがね、あなたのところで談話を出したじゃないかと、こうぼくが言ったら、談話じゃない、話です。話と談話とどこが違うのだと、こう言ったら、話の場合は何でも役所の手続を踏まぬでもよろしい、談話というと、会議とか、上司の何とかという手続を経なければならない、こういうことは、まさに珍中の珍だとぼくは思うのです。そして話です、話ですと、こういう話です。なるほどそれから見ているとみんな話になっているわね、これは。しかし、内容は単なる話ではない。いつも大事なところの話です。こういうことはお互いに政治をやっていても、この間話したのは、あれは話で談話じゃないというようなことは通用するわけはないから、そういうことはひとつ大臣考慮してもらいたい。そういう式の発想が村山政府委員の中にもあるのですよ。もしあなたがこの問題をお読みになったんなら、寺中さんの真意はどこですか、それからわれわれ文化財保護委員会としては、この見解は正しいか正しくないか、誤りを伝えているということになったならば、東京新聞を通すなり、ほかのほうの機関にそういうことの誤りのないようにということを少なくとも関係者に伝える義務がありますよ、国民に伝える。それをやらないでしょう。新聞だからほっておけというような、これではいかぬですよ。しかし、あなたがおっしゃるように、真意を伝えないという点はあるけれども、あの種の記事はなかなかそんなもんじゃぼくはないと思うのですよ。それはもうここにもありますけれども、あの種の記事はそういうものではない。だから、そういうことはいたずらに時間を空費して、ただ感情的に刺激するようなあれになりますから、そういうことはやめてもらいたいとぼくは思う。談話と話の区別は、文部大臣、いずれひとつ、いまここで答弁は必要ありませんから、省内でひとつ御検討をひまのときにやっていただいて、話のときにはどうやるとか、談話のときにはどうやるとか、使い分けはなかなかまともな人はできないわけですよ。  そこで、この間お尋ねをしておった問題に入るわけでありますが、いま一つだけ歌舞伎の問題を申し上げておきますというと、歌舞伎の問題について、保存のしかたについて二様の解釈がある。この二様の解釈はなかなか今後私は重大なことになると思うのです。たとえば香取という松竹の重役は、これはいまの商業劇場という立場からいえば、これは何といったって百二十万の観衆というものを九十万に減らされたということはたいへんだ。これをせめて百二十万、もっと広げていきたいということになるのは当然です。これはそろばんをはじいた場合に。その場合に保存ということなんかも、たとえば郡司さんが考えているようなことと香取さんとは違う。香取さんは厳格なんです。そうして香取さんの考え方はどういうことかというと、厳格な考え方の古典芸術としての歌舞伎保存、こういうのはこれは国立劇場がやるべきだ、こういう考え方です。松竹さんが金もうけにやるならば、くずそうがくずすまいが、かってにおやりなさいとは言わぬが、松竹さんのやることについてはかれこう言うべきじゃないとお考えになっている。それは当然です。そうすれば、今度は役者の交流という場合にどうなるのか、伝承者の養成という場合にどういうそれが結果になるのかということをいろいろ配慮していきますと、これは劇団を持つという場合にどういうことになるかということをいろいろ考えてみますと、影響がかなり大きいですが、歌舞伎についてはとにかく二様の問題があるということは、あなた、村山さんはお認めになったと思う、先ほどの話で。そうすれば、歌舞伎保存というのは、国立劇場としては郡司さんの発言のように、古典芸術としての歌舞伎の様式には絶対に変更を加えない、そういう形の中で国立劇場の存在の意義があるのだ、こう考えてよろしいのですか。
  54. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 国立劇場の運営は、一個の学識経験者の意見ではなくて、多くの学識経験者の御意見の総合の基礎の上にやってまいりたいと思っております。いままでも設立準備協議会はそういうつもりで運営されてまいったようであります。国立劇場設立準備協議会あたりの考え方は、どちらかといえば、いまお示しのうちでは郡司さんの御意見に近い考え方でありまして、国立劇場の運営も発足当初にはもちろんその線で考えていくことになろうかと思います。これは郡司さんの御意見全くそのままじゃありませんが、どちらかといえば、郡司さんのお考え方の線に近い考え方で進むと思います。
  55. 小林武

    ○小林武君 どちらかというのがつくのは、どういうわけでどちらかがつくのですか。
  56. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 御説明申し上げましたように、かなり多くの方の御意見を総合いたしましたものですから、郡司さんの御意見とぴったり同じではない、こういうことでございます。
  57. 小林武

    ○小林武君 どうも歯切れが悪いですね。日本語の受け答えにはちょっとならぬと思うのですが、郡司さんの言うのは古典としての歌舞伎というものの様式というようなもの、これは変更しないという線でやっていけと言う。そうしたら、この場合には変更してもよろしい、流動の可能性も認めるという行き方、これは二つある。私は、その流動の可能性にも幅がある、その流動の変化の可能性といいますか、流動の可能性といいますか、香取重役をもって言わせれば、むずかしいことを教える前に、歌舞伎をやさしくして理解さして、そうしてそれからむずかしい歌舞伎を知ってもらう、私はほんとうのことを言うと、きわめて商売人らしいそろばん高いやり方だけれども、具体例だと思います、そのやり方は。そういうことをはっきり言っているんですね。このいい悪いは別ですよ。そこで、その間のいろいろな意見というのはどういう意見ですか、私は理解できないのです。たとえば郡司さんは、あまりにかたくなというか、しかし、やっぱり先ほどの話し合いの中に再三出ました、演劇というものは生きものですということばの解釈を言えば、生きているものだということは、これは流動性の多少あるということを認めたということになるのかと私は解釈しておった。そういうこともあるから、郡司さんの意見に近いけれどもさまざまな方の意見の総合ですからと、こういうことをおっしゃるのは、流動性が加味されたということですか。
  58. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 演劇本質論ですとか、それから上演様式なんかの議論になりますと、なかなか具体性がございませんので、具体的な事柄につきまして一例をあげますと、たとえば劇場の大きさでございます。郡司さんは歌舞伎は舞台間口八間で数百人程度が理想だ、妥協するとしても十間で千人までという御意見でありますが、つくっております国立劇場は舞台間口が十二間で席数が約千七百でございます。そこら辺にもまあ郡司さんほどきびしい御意見には沿ってないので、若干の妥協があるということでございます。
  59. 小林武

    ○小林武君 それは違いますよ。それは、そういうことを言っているんじゃないんじゃないですか、郡司さんのおっしゃるのは。様式というのはそういうことまで全部言っているんですか。そうじゃないと私は思うんです。郡司さんの意見というのはぼくも聞いております。これは八間だと、こう言う。これは八間だとか何間だとか言う前に、先ほどの菅原さんの話にありましたけれども、どこの時点にいわゆる古典としての標準を求めるかということは、これは重大な問題ですね。これはいわゆるずっと以前の歌舞伎の草創なんかをみると、ほんとうに河原で芝居をやっていたところまでいくのかと極端なことをおっしゃっておりましたが、そういうところまでいくのか、それから団、菊の時代ということをはっきり郡司さんの場合には限定していらっしゃる。そういうあれを言うんでなくて、そういう舞台の大きさだとか何とかということでなくて、その他のいわゆる演劇の持っている一つの様式の、もちろん舞台の大きさも入るだろうけれども、そういうものまでも厳格に守っていくのか、団、菊なら団、菊はそれで厳格に守っていくのか、それとも多少の変化はしかたがないというのか、いろいろな議論というのはそういうことじゃないわけですか、議論されたことは。
  60. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) いまの御質問に即してお答え申し上げますと、国立劇場における歌舞伎演出様式の基準は、現段階では郡司先生のお説のように、明治時代に確立された様式を基礎にしてやっていったらどうかというようなぐあいに考えております。俳優の名前で言えば九代目団十郎、五代目菊五郎ということになろうかと思います。ただ、国立劇場におきましては、同時にいわゆる新歌舞伎と申しますか、岡本綺堂とか、あるいは真山青果とか、こういうすぐれた劇作家が歌舞伎の様式によってつくった脚本に基づき、歌舞伎の様式にのっとって演出する歌舞伎劇も、これも含めて当然本来の上演対象として考えていっていいんじゃないかということが現段階では議論されております。まあそういう意味合いにおきまして、若干の幅があるわけであります。
  61. 小林武

    ○小林武君 その点で、ひとつそれはやめましょう。そこで、この前に何を聞くかということを申し上げておきましたから、いまここで能の場合をひとつ申し上げまして、能の場合には、一体、能というものがいわゆる滅びるのではないかと、そういう心配がある。この滅びるのではないかという心配の点は一体どういうことでございましょうか。
  62. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 能楽は、参考人のどなたかの御意見にもありましたように、発生も古く、それから様式固定の時期も古く、現在でしいて分類すれば、伝統芸能の中で古典的なものとして行なわれております。で、専門家は全国で約千三百人程度おられるそうでありまして、演技者は能の様式によりまして、シテ、ワキ、ツレ、笛、鼓、太鼓、狂言方というぐあいに分業が行なわれております。シテ方で申しますと、いわゆる能楽五流がありまして、演技者であると同時に、伝承者もそういう家元において養成、受け継がれておるという状況でございます。これがやはり保存に問題がある最大の点は、こういう能の演技者は能の本来の上演、つまり演能をやって、それの収入では生活を維持できなくなってきておるというのが問題点であろうかと思います。したがって、どうしておるかといいますと、能の関連で一番盛んであるのは謡曲でありまして、謡曲を教えることによって生計を営んでおるというような状態になっております。能の演技者が、本来の演能によってはなかなかその生活を維持していけないというところが、能楽についても保存に非常に問題があるという一つの大きな理由になろうかと思います。
  63. 小林武

    ○小林武君 大体お話のようなところが能楽における問題点だと、まあ私もそういう考えです。というのは、どういうところに問題点があるかということを考えないで能楽の保存なんということはできないわけですが、そういう角度に立った場合に、一体能楽をやる人たち、能楽の中にいろいろな専門がある、七つの専門があるということをいまあなたがおっしゃった。その七つの専門の方があって、シテ方というやつの最高級の三人くらいのクラスのAクラスでも、一回の出演料というのは二千円、こういうことでは能楽の回数というものはおのずから数が限定されておりまして、生活できないのは当然です。それから、郡司さんがおっしゃったのは能楽の舞台というふうなものは、いわゆるはっきりした小さいもの、三間四方とか何とかいう小さいもの、入る人間も少ないということになれば、これもまた収入が少ないということになるわけであります。そういうものを、一体それではこれを保護するということではどういう配慮があるわけですか。そういうものを、今度はもちろんその中に金の配分のしかたにも私はいろいろあると思います。それはさておいて、一体そういうことについてどういうふうに具体的に国立劇場は能楽というものが衰亡しないように、あなたのおっしゃるような、謡を教えるというようなことでやっているために芸が非常に荒れてきているということを言う。問題点はそこなんだ。能楽のほんとうの芸の修業というやつが行なわれていない。こういうやり方、批判に対してあなたはどういうふうにやろうとするのか、私は文教の国政調査で金沢に行きまして、金沢の市にある能楽堂へ行ってみた。そして、あそこを守っていらっしゃる能楽の先生に会って、そしていろいろ諸道具なんか見せてもらったが、古くなってたいへんなものだ。たいへんりっぱな能楽堂だけれども、手を加えなければならぬというような状態だ。経営がなかなか困難だ。金沢という市では持ちこたえることが容易じゃないというふうに思ったのですけれども、これは東京においても同じだ。これを衰亡させないためにはどうすればいいかという具体的なあれは、どういうふうになっておりますか。
  64. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 能楽の保存につきましては、実は国立劇場ができる以前から、文化財保護委員会におきましては若干の手だてを講じております。精神的なものと物質的なものとあるわけでありますが、精神的なものといたしましては、昭和二十九年の文化保護法の改正と、三十二年に能楽を重要無形文化財に指定しました。社団法人日本能楽会というものがございますが、これの会員全員を保持者に認定しております。現状では百三十二名でありますが、その中でさらにシテ方、ワキ方、鼓、能楽の代表的な演技者を選びまして、三件、個人指定として重要無形文化財の指定を行なっております。物質的な問題といたしましては、伝承者の養成に対しまして、昭和二十九年から計画を立てまして、現在若干の養成費の補助金を立てております。国立劇場設立に際しまして、能楽も伝統芸能であることは、これはもう疑いを入れないところでありますので、国立劇場の事業対象として、観念的には当然入っておりますけれども、能楽につきましては、特殊な舞台形式があり、能楽堂を国立劇場の中につくるという計画が実現しなかった関係もありまして、能楽を国立劇場としてどのようにするかというのは、現在研究課題になっております。特別な能舞台を必要としない狂言につきましては、現在年四回程度の公開を予定しております。国立劇場で行なう伝統芸能調査研究、資料の収集といった事業の内容には、これは当然能楽関係も含めて計画する予定にしております。
  65. 小林武

    ○小林武君 まあなかなかむずかしい問題だと思いますけれども、能楽をほんとうにこの法律に書かれているように保存し、しかも振興するということに真剣に取り組むとすれば、単なる精神的なものだとか、それからまあ何とかいうようなことでは、ちょっとほんとう保存というようなことにはならないのじゃないか、この法律案は、いささか歌舞伎偏重の傾向があるといわれても私はしかたがないと思うのです。それで、たとえば家元制度なんということも、これはひとつ、能楽だけではないのですけれども、非常に家元制度というようなものは強い権力を持っているということ、こういう問題との関係なんというものも、これは当然国立劇場としてはこれから出てくるわけじゃないですか、そういうものにまでメスを入れるというような気持ちがなければ、うまくいかないのじゃないですか。能楽のほんとう保存ということになったら、そういうことにぶつかりませんか。どうせあとで出ますけれども、たとえば歌舞伎伝承者の養成という問題だってぶつかると思いますが、どうですか。家元制度なんというものもぶつかる、そういうことについて、国立劇場というのはかなり積極的な、これを保存するために勇気をもってやるというか、そういう考え方をいま持っているのですか、どうですか。
  66. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 能楽に限らず、日本伝統芸能には、午前中の参考人の発言にもありましたように、古くりっぱなものを持っている反面、若干の何と申しますか、弊害を伴っていることも事実でありまして、家元制度につきましても、これが弊害とのみ言い切れないとは思いますけれども、家元制度のいい面がある反面、弊害があるということも言われております。これらに対しまして、国立劇場の発足を機会に一挙にメスを入れて解決をはかるというようなことは、これは理想としてはもちろん将来に掲げなければならない課題だとは思いますけれども、現実に即した事業計画で申せば、遺憾ながらそういう具体的な計画は持ち合わせておりません。
  67. 小林武

    ○小林武君 一々いろいろお伺いしようと思いましたけれども、いままでの質疑でもって大体のあなたたちの態度というものはわかった。ほんとうのことをいうとなまぬるいわけですね。それから実際の運営の問題にぶつかった場合どうなるかということ、これはかなりぼくは心配しております。いまの状況では心配だと思う。たとえば文化保護法ができても、青蓮院の問題をはじめとして、やたらにこのごろ重要文化財といわれるものまでどこへどうなったかわからない、文化財保護委員会に言わせれば、法律がどうも悪いからとか、相手方が法律を知らないで協力をしてくれないとか、法を無視したとかおっしゃるけれども、私はそうとばかりは言えない。法の運用というものについて、ある面ではまるで法の拡大解釈をやっていくような熱意を持っている役所が、その面になるととんと弱くなってしまうということがその面に出てきておる。そういうことが文化財の一面にあることを見ておりますから、いまのようなことだと、日本文化財をひとつ守っていこうというようなことは、いまの状況ならだめになるのじゃないかという心配を一つ持つわけであります。だから、雅楽についても邦舞、邦楽についても、文楽についてもこれ以上申し上げません。どういう状況でどうだということはここで聞きません。聞きませんけれども、具体的に運営するときにはひとつ相当突っ込んでお考えになったほうがよろしい。それからまた、それを議論する人たちもそれにかかわる人たちも、相当これは有力な方を選んでおやりになる必要があるのではないかということを痛感いたしました。まあ、そういっては何ですけれども、一応うまく体をかわすようなことをおっしゃっておるけれども、答弁の技術のためにこれがあるのではありませんから、実際の運営というものが目の前にぶらさがっておりますから、こういう点で、今後、国立劇場がかなえの軽重を問われるようなことのないようにひとつお運びをここのところでは要請をしておきます。  そこで、伝承者の養成のことをお尋ねするわけでありますが、これは歌舞伎の問題が一つあります。これはどういうものをやるんですか。日本俳優学校というものがあったし、何か女優の学校もあったんですが、帝劇の女優の養成とか、俳優、これは一体どういう仕組みですか、全然考えていないのか、考えているとしたらどういう仕組みでやるのか、歌舞伎のことに限って言ってください。
  68. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 伝承者の問題は、具体的な計画で申し上げますと、初年度である四十一年度は発足させるのに手一ぱいでありまして、伝承者の養成にはまだ手をつけません。四十二年度以降におきまして、まず歌舞伎の演技者といいますか、歌舞伎関係の技能者を中心として養成を考えていきたい、こう思っております。その考え方としましては、むしろ俳優学校というような特定の演技の訓練というよりは、もっと基礎的なところから出発したらどうかということを考えております。これも発足後、各界の方々の御意見を聞いてきめるわけでありますが、いままでのところ御意見を聞いたところでは、そういう行き方がよかろうという御意見が多いようであります。そこで、素案といたしましては、まず、義務教育終了程度の子供から基礎的な訓練を施したい。それも一挙に多数ではなくて、少数、学校がいえば一クラス三十人程度の規模で基礎的な訓練から始めていきたいと思っております。歌舞伎は御存じのように総合芸術でありまして、演技の前に、踊りとか、うたとか、あるいはもっと前に歩き方、口のきき方というところから、もう体で、文字どおり体得するような訓練を経なければなかなかできないわけであります。そこで、そのような基礎的な訓練をやっていきたい。で、おいおいはそれがうまくいけば高等科と申しますか、そういうものに広げていきたい、かように考えております。その指導者としては、これは国立劇場に専任の教官を置くというようなことよりは、むしろ、現在歌舞伎保存に関しまして歌舞伎保存会という組織ができております。歌舞伎保存会はほとんど松竹、東宝のおもな俳優の全員を網羅しているわけでありまして、言いかえれば、現在のおもな歌舞伎俳優の全員といって差しつかえなかろうかと思いますが、この歌舞伎保存会の組織と、これに、協力、指導を仰いで、基礎的な訓練からやっていきたい、こう考えておりまして、おいおい準備的な話し合いをしております。保存会におかれましても全面的に賛意を表されまして、発足の暁には協力を惜しまないということを申されております。そういう関係でありますから、学校、養成所というようなカリキュラムをもって、スケジュールを組んで、基礎的な訓締ができるかどうか、なかなかむつかしい問題もあろうかと思いますが、そこら辺を研究しながら四十二年度から発足させたい、かように考えております。
  69. 小林武

    ○小林武君 やはりこの法律をつくって、法律にこれだけの目的を明らかにしたからには、内容がやはり伴わなければだめですよ。これは、あなたのおっしゃる伝承者の養成というのは何が目標なんですか、どういうところに目標があるんですか、伝承者の養成というのは。
  70. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 歌舞伎に例をとれば、歌舞伎は主役、わき役、それから種々の伴奏音楽、いろいろな範囲の日本伝統芸能を含むわけであります。それらの、極端に言えば、すべての分野にわたって後継者を養成しないと続いていかないわけであります。ただ、それを一斉に始めるべきであるか、あるいは順序を立ててやるべきか、方法論についてはいろいろな意見、やり方があろうかと思います。いま承りますと、主役クラスと申しますか、そういうところは、実際問題として、親が歌舞伎俳優であれば、子供は、まあ自分からいやだと言って、歌舞伎の世界から飛び出さない限りは、親のあとを継ぐのが実情でありますし、また、親が仕込み、親に習って育っていくというのが実態でありまして、関係者の御意見でも、それほど火急の問題ではない、むしろ、わき役ないし関連の技術者のほうがより緊急である、そういうものもなければ歌舞伎芝居というものは成り立たないのであるから、順序としては、そういうまわりのほうからやるほうが大事ではないかということが言われております。まことにごもっともな意見であると私ども思いますので、初めから主役の養成というようなことを目ざさないで、基礎的な訓練をやって、わき役、下働きもつくるし、その中から主役級の者が育ってくれば、もちろんそれはけっこうなことである。そういうような予想のもとに仕事を始めたいと思っております。
  71. 小林武

    ○小林武君 文部大臣にお尋ねをしたいと思います。これは単なる技術のことですけれども、いまのこと私は重大だと思うのです、いまの御答弁は。一体、国立劇場をつくったって——先ほどちょうど文部大臣おいでにならなかったけれども、松竹香取という重役はきわめて率直にものを言ったと思うのです。きわめて率直にものを言った。とにかく協力はします、協力はしますけれども、われわれの領域まで侵されて、株主に申しわけのならぬような経営にならぬようにしてもらわなければならぬというようなことを言った。それから、俳優の養成などについても、できるもんじゃありませんよと、これは私、商売がたき根性をむき出しにしたのではないかと、失礼ながらうかがったのですけれどもね。文部大臣、あれですか、劇場を持てば、これはだれでも議論しているところなんですから、だれでも聞いていることですが、劇団を持たない国立劇場というのは、これはあり得ないのだということをみんなが主張するわけですね。イギリスでも、国立劇場を建てているが、劇団のほうが先だと、こう言っている。劇団があって、そして建物はあとからできつつあるということを言っている。私はそういうようなことを一々見たり聞いたりしているわけじゃありませんけれども、将来、私は日本は多少立ちおくれて、建物が先でもいい、私はそのことについてはあまりこだわりません。建物は建ったほうがいいかもしれません、だんだん馬力をかけてやっていくということになるんなら。そうすると、劇団を持つという気持ちがあるのかないのかということですよ。劇団を持つという気持ちがあるのかないのかということと、それからもう一つは、先ほど言った古典をしっかり守っていくんだ、郡司さんの言うように古典の様式というものを変えない、とにかくちゃんと守っていくのだという、国立劇場ほんとうの使命といいますか、そういう使命の立場から言っても、伝承者の養成というのはそこらに焦点をしぼって考えなければならぬ。何かわき役のようなのをたくさんつくったり、馬の足をつくったりする、馬の足をつくるのに一体伝承者の養成というのが必要だということでは、国立劇場はたいへんなことになってしまうと私は思う。そんなことで一体おやりになっているのかどうか、私はそうでないと思うんですが、どうなんですか、そこらは。そんならあんなりっぱなものは要らぬ。
  72. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 専属劇団を持つかどうか、この点は非常に国立劇場の将来として重要な問題だと思います。ただ専属劇団を持つということは、現在、松竹あたりでも専属は持ちかねて、持たないで、契約でいっているようでありまして、理想としては国立劇場は専属の劇団を持って、そして自主公演をやるのが私は理想だと思います。しかし、わが国の現状がそういうふうな状況でありますから、現在は、いろいろ村山事務局上長が追及を皆さんからあらゆる角度から受けておるわけでありますが、要するに、文化財保護委員会あるいは文部省といたしましては、目下、産婆役でございまして、これができましてから後、いろんな評議員会等も相当数の専門学識経験を有する人たちになっていただいて、こういうところでいろんな経験を積みつつ、今後の諸情勢と照らしあわせて理想の方向に進んでいくと、こういうこと以外にないだろうと思うんです。いま一挙に産婆役が先の先まで考えて、そして企画をきちんと、動かしがたいものをきめられるかというと、それはなかなか事実上困難で、やはり国立劇場の構想が打ち出されて、すでにここまで進行してきたのでありますから、特殊法人としてスタートをし、その特殊法人の中にはそれぞれの機関ができ、また評議員会のような専門家の、二十人からなる機構ができますから、そういう人たちにもくふうをしていただきつつ進んでいく以外には方法がないのじゃないか。そういたしまして、目標としては伝統芸能保存し、あるいは伝承者を養成し、その他この法律でうたっておりまするような目的を逐次達成するということでわれわれとしては進めてまいりたいと、かように思っておる次第でござ一います。  それから伝承者の育成について、いま御議論がございまして、これも私どもしろうとでよくわかりませんが、国立劇場でできることとしては、やっぱり年少の者に、歌舞伎なら歌舞伎についての基礎訓練的な養成をする、しかし、ほんとうの奥義をここで仕込めるかというと、それはやっぱりむずかしいのじゃないか。きのうかおとといかも、今度、三津五郎さんが芸術院の芸術院賞を受けまして、そのときに会って聞きましたら、自分は獅子の踊りを覚えるのに、自分が頭のほうに入って、おやじがしりについて、そして獅子がうしろ足で頭をかくところか何かがあるのだそうでありますが、それがうまく頭がひねれないというと、うしろからげんこつでおしりをやられて、三十何べんか四十ぺんぐらい、やられました。おとうさん教えてくれればいいじゃありませんか、教えたって、教えてわかるものじゃないと、教えないでおしりばかりやられる。やっているうちに、ある日、うまく頭をかしげたら、それでいい、それでいい、きょうのはよくできた、そういうことからだんだん覚えたのです。こう言っておりましたが、これはやっぱり歌舞伎のような芸能は、ほんとうの奥義というものは、やっぱりその奥義に徹しておる親なり先輩なりがあって、その人たちがやはり世の中から歓迎もされ待遇も受ける。それに従って後継者もできる。その後継者が、非常な愛情というか、芸に対する情熱のある親なり先輩なりから自然に会得させられるところに、私はこういう歌舞伎のとうとさがあるのだと思うので、そういうことを、ちょっと聞いた話から思い浮かべてみましても、なかなか、伝承者養成といいましても、それじゃ国立劇場で全きを期して伝承者の養成ができるのかというと、そこまではむずかしいので、やっぱり基礎づくりをするということが本来やるべきことじゃないかと思いますが、それにいたしましても、私どもしろうとでございますから、問題は、国立劇場を発足いたしまして、専門家が大ぜい集まりまして、運営なり将来の発展なりに寄与していただく段階で、そういう専門の方々にくふうをしていただいて、とにかく伝承者を今後絶えないように続けていくというくふうをしていただけばやりようがある。これに対して、私は予算措置その他において協力をするということになっていくんじゃないかと、かように思っております。
  73. 小林武

    ○小林武君 村山君を追及するのではないんですが。何もいじめるためにやっているのじゃない。村山君もそういうふうに考えられたら迷惑しちゃう。この法案が出たら、どういうふうにお互い理解し合って、どうしてこれはうまくやるかというところに議論がある。慎重審議ということはそういうことです。だからあんまり、あいつはいじめるということはお考えにならずに、思うなら幾ら思ってもかまやせぬが、しかし、あんたたちだんだん心が狭くなるから、そういうことは思わぬほうがいい。  そこで、文部大臣、私も芸のことについてはちょっと人の話ですけれども、人の話、もう一つはよその国のことですね。サーカスというものが学校で教えられるかどうかということ、やっぱりこれは親が子供に教えるというようなやり方で大体やってきた。しかし、学校で教えることの可能性というものがこのごろ出てきた。それから、その他音楽のあれだって私は同じだと思う。三味線を習うのも三味線のばちでなぐられたとか何とかという話がありますが、芸術大学へ行きますれば邦楽科というのがあるんじゃありませんか。そこからえらいのが出ないか、出たか、それはわかりませんけれども、私もその中から優秀な者がこれからどんどん出てくると思う。これは一種の近代化です。三津五郎さんの芸の修業ということには敬意を表しますけれども、私はいつまでもそういうやり方だけが正しいというのでないところにこの法律案の非常な意味があると思う。伝承者の養成というようなものは、その人たちがおれたちにまかせておくなら、親が子を育てていく、りっぱに保存してみせますといっても、そういうことができないから滅びるんじゃないかといって、専門違いの文部大臣まで御心配になる。われわれのように歌舞伎か何かよくわからないものまでこういう議論をして、日本文化の衰退まで心配をするのです。だから、そんなに大きなことを言ったってだめです。三津五郎さんは芸術院会員になったのは大いに私もけっこうだと思う。しかし、われわれからいえば三津五郎さんをもっと乗り越えていくようなりっぱな芸術家が出てこなければならない。それが伝承者の養成であるところの国立劇場一つの使命としてそういうものをつくり出せないとしたら、これはまことに国民の期待に反すると思うんですよ。だから、いまから敗北主義はだめですよ。あなたのは敗北主義だ。大体できないと、こう言っておる。さっきあそこで聞かれたら直ちにへなへなになっているのじゃないと思うけれども、よほど毒気にあてられているかどうかしらぬけれども、自信がなくなっちゃう。馬の足でなければ養成できないとは言わないけれども、大体、主役は養成できませんということを言っておる。やってもうまくいくのかどうかわかりません、基礎さえよく覚えられるかどうかわかりませんというようなことも言っておる。そういうことじゃだめですよ。それはどうですか、この伝承者の養成というものがとにかく徹底的にここで仕込まれるのだ。それは役者の子だけ養成するんじゃないんですよ。ここへ入れようというものはどうなんですか。おやじは役者でなければならぬという条件があるんですか。私はいまこそ親の子は、蛙の子は蛙というんじゃなくて、家柄とか家元とか、そういうものから抜け出て、日本の新しい伝承者としての有名な俳優が出てこなければならぬ時期だと思うのです。だからこそこの段階で非常に重大だと思う。それはできないというのか。あなたは産婆役か何か知らないけれども、産婆は子供を産むものじゃないけれども、産婆は子供を出してやるものだから。あなたは重いからこのことはできないからといってやめているんですか。死ぬか生きるかわからないから引っ張り出してやろうということでやっているわけじゃないんですか。私は決してあなたをいじめるとかどうとかじゃなしに、いままでずいぶん専門家という人が集まって何を議論したのかどうかわからぬ。中には速記録を見ると、刷りものをもらって帰ったというような人も中にはある、いろいろ言っておるうちに。われわれもちょいちょいそういうことがありますが、刷りものをもらってただ帰ったという、議論をやったかどうか知らぬが、そういうことじゃだめです。どうですか、それはあなたは自信がないですか。伝承者の養成は、歌舞伎界が市川家がどうなるとか、松本家がどうなるとか、喜熨斗家がどうなるとかということじゃなくて、一切のものがあれしても、日本国立劇場——日本はついていないか、とにかく国立劇場というものは歌舞伎を絶やさないのだ、伝統芸能はがっちり守って伝えてみせるということじゃないんですか、それはどうなんです。
  74. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 伝承者の養成の問題はできないと、あきらめておるわけじゃもちろん決してございません。ただ、四十一年度の事業計画としてはまだ具体的な計画ができていない、こういうことでございます。
  75. 小林武

    ○小林武君 だいぶ元気がよくなってきてよろしい。四十一年度の予算を見ておったら、これはたいへんだと思う。しかし、ぼくは四十二、三年度になったら思い切って、やっぱり政府ばかりでなく、与野党一致して、せっかくの乗りかけた船ですから、これはもうりっぱに乗り出させなければいかぬ。そのときに、あなたたちが計画としていまのようなことをいったらだめなんですよ。だから、もう一ぺんはっきり聞きますが、ここへ伝承者として入れる者は、役者の子なら役者の子で、いままでの経験の上に立って、いつから何を始めて、どのぐらいのところから初舞台を踏んで、それがいいか悪いか知らぬけれども、そうしてとにかくずいぶん私は役者の子供を見るというと、われわれのうちの子供なんというのは実際いいかげんに甘やかして育てたと思うぐらいですよ。やれ何を習わなきゃならぬ、これも習わなきゃならぬ、おまけに学校も行かなきゃならぬ。だから、書いていますね。あの衆議院のときに、そういうあれがあったでしょう。学校とのいろいろな問題があると。それと同時に、一体いろいろなことを覚えなきゃならぬ。そういうことはしかたないのですよ。バイオリンの名手を生み出すためには、そういう教育をやっているところは日本だってある。そういうようなことをやるために一体どうなんですか。それだけの気持ちでやるのでしょう。広くここへ募集をして、そして入れるのじゃないですか。いつごろ、何年の、どのぐらいの年齢の層からいったらそういう一体あれになるのか。そういうことをやらないのですか。バレーなら、ソ連の場合、バレーは非常に盛んだそうですが、バレーをやっていてやっぱりある程度見込みない者が出るそうです。ここら辺まできて将来大成する見込みがないという者ははずされるという話を聞いたことがある。そういうものだって出るのです。しかし、とにかく鍛えて鍛えて鍛え抜くのでしょう。そういうやり方じゃないですか、どうなんですか、伝承者とは。
  76. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 具体的な計画がないわけでございますので、こういうことでやるというはっきりしたものを申し上げることはできないわけであります。ただ、四十二年度以降に考えておりますので、考え方の基礎として、素案をつくって関係者の意見を聞いておる段階でありまして、その素案と申しますのが、先ほど御説明申し上げましたように、いきなり俳優学校のような形で特定の演目で演技の指導をするというような行き方よりは、むしろ基礎的な訓練から始めるほうがいいんではないかという意見が多いわけであります。これでそのとおりやるかどうかは、まだ十分検討して練り上げなきゃなりませんが、現段階で比較的多数の御意見の支持のもとに一応考えております素案は、先ほど申しましたように、義務教育終了程度の子供を入れて、約二年間基礎的な訓練をやることから始めて、おいおい高等科と申しますか、そういうところへ及ぼしていく、そこへ入れる資格はもちろん俳優の子でなければならぬというような条件は必要でないだろうと思います。俳優の子は、むしろいままで親が仕込んでおるのが実情でありまして、国立劇場ができたといって、ここに養成所ができたからといって、直ちに全部がそれじゃもう自分のところでやるのはやめて国立劇場に預けようというような形にはならないだろうと思います。中にはお預けになる方もあろうかと思います。まあそういう形で基礎的な訓練から始めていきたいというのが現段階の考え方でございます。なお、蛇足でありますが、いろんな御意見の中で、大別して、従来から非常に対立しておりますのは、一つはやっぱり若いうちから無我夢中で仕込まなければいい役者はできないという考え方と、ある程度教養を高めて、分別もできた上で仕込んだほうが前向きの姿勢であるという御意見は、歌舞伎の専門家の間でも現在では分かれております。で、いずれか一方にきめつけることもあるいは困難ではないか、両者の併用のような形も考え得るのじゃないかと思います。
  77. 小林武

    ○小林武君 まあいろいろな意見を確かめながらやっているということはたいへんぼくはいいと思う。そこで文部大臣に要望しておきますが、ぼくはやっぱりこれをやるとしたら、役者の世界には役者の世界でいいところもあるけれども、ぼくはやっぱり一種の旧来の陋習みたいなものもあると思う。つまり自分はいいと考えておっても、そのことのために逆に、いまのような話で若い、小さいときからやることが一番いいかどうかという問題、しかし、一面またそういうけれども、大きくなってからというが、たとえばピアノの例をとれば、ピアノは一体高等学校を出てからピアノをやるとか、中学校を出てからピアノをやれといったところでそれはだめですね。どんな素質のある者でも、いわゆる演奏家というりっぱなものになることはできない。これはまあそういう一つの年齢があるわけですから、このごろはなかなか。これはそれこそ蛇足ですけれども、数学でもとにかく幼稚園から、やっぱり数の問題というようなものは、数というもののより理解を深めるというようなことを言い出すからね。それはいろいろあるでしょう、その検討はぼくはあると思うのですよ。歌舞伎意見とか何かばかりでなしに、むしろほんとうの衝に当たる人たち外国の例なんかもひとつ見てうんと検討して、そうしてりっぱな案をつくるべきだと思うのです。あまり引きずり回されないように。それにはとにかく義務教育だとか何とかいうことにあまりこだわらないでひとつおやりになったらどうかと思うのです。それから、とにかく当然これをやれば、私は歌舞伎の子供で、歌舞伎のうちの人たちの養成した人たちと学校から出た者があるでしょう。歌舞伎の世界に出ていったら今度はどうなるかと言ったら、今度は家柄がある者、そうでない者、日本の場合でもあるでしょう。学生歌舞伎俳優というのがあるでしょう。あれはいまどうなっているか知らぬけれども、大学を出た者が数年前に入った、いまどういうことになっているか知らぬけれども、おそらく私は下積みだと思う。これはおやじがよければ多少芸のほうはとろくてもなれるかなれないかよくわからぬけれども、そういうこともあるというような風評はずいぶんある。家柄でなければとにかくだめだということ。昔の偉い俳優——下積みの俳優が偉くなった人たちの何かを見るというと、たまには家柄が低かったけれどもたいへんりっぱな俳優になったというのがありますから、私はあるだろうと思う、そういうことを考えると。それもぶつかるのじゃないですか。そういうときに国立劇場というものが、そういうものと自分のほうの養成したものとの扱いの問題も出てきますね。そのときにあなたの考えのように、ここは脇役養成ですというようなことをお考えになるのはどうかと思う。はっきりこの中からこそ歌舞伎伝統を守るような伝承者をつくり上げて、それがもう専属劇団になって、歌舞伎の中でどんなことがあっても守っていくのだという、そういうあれでなければぐあいが悪いと思う。だから予算は都合でいろいろなあれがあったろうけれども、計画というものは、予算が取れようが取れまいが四十二年、三年に実現するとしても、いまからその案というものは私は緻密に立てるべきだと思う。  それから素案をつくりまして各方面にお配りしましたと言うが、われわれになぜ見せないのですか。われわれに法律だけ預けておいて、素案はさっぱり見せてくれない。こんなばかな話ないですよ。おまえらどうせとんちんかんな頭しているから法律ばかりいじってろというのか、まさかそうでもないでしょう。なぜわれわれのところに持ってこないかおかしいと思うのですよ、これは。大体いままでそういうことばかりやっている。文教委員会にかかるということは明らかなんです。そうしたら、なぜいろいろなものを前に提示してわれわれに見せないのですか。ぼくはいままでのことはとにかくがまんしてやるとして、これからそういうことがあったら一々われわれのところに出すべきですよ。そうして予算を取るときには野党も、あまり役に立たぬか知らぬけれども、野党にも応援しなさいというぐらいのことを与党が言うべきじゃないか。法律案を早く通してくださいなんていうことばかりあまり言わぬようにしてもらいたい。そう言いたいのですよ、ほんとうのことを言うと。資料を十分に与えて、われわれに十分検討さしていただきたい。しろうとにはしろうとのいい考えがあるのです。専門家というのは非常に一面いいところがあって、またきわめてだめなところがある。そこをしろうとのあまり型にとらわれないところで埋め合わせるということだって世の中にあるのですから、たいへん説教になりましたが。そこで、たとえば歌舞伎のことをいま例としてやったわけですけれども、雅楽なんていうのはどういうことになっておるのですか。雅楽の伝承というのはどういうことになりますか。いま宮内庁でやっておるのでしょう。これはどういうことですか。
  78. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 前段の問題でありますが、伝承者の養成の問題は配付資料に私が申し上げた程度のことは簡単に書いてございます。
  79. 小林武

    ○小林武君 これが素案ですか。
  80. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) はあ。
  81. 小林武

    ○小林武君 これが各方面に配ったものですか。これはあまり素案過ぎるじゃないですか。この程度のことをやったのでは相談にならぬと思うのですよ。もっと大胆なことを提示して、あなたのほうでぶつけるならぶつけて、あるいはだれかの知恵を借りるなら借りてやらなければ、こんなことではと言っちゃ悪いけれども、ほんとうに言いわけみたいなものですよ。学芸会の何かあれするようなことではだめだ。これはまあこれとして、雅楽です。
  82. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 後段の雅楽の問題でありますが、これは前回にも御説明申し上げましたように、文化財保護委員会の文化保存の態度といたしまして、しかるべきところで保存の方策が講ぜられておるものは、その主体との協力によってやっていくという基本的な考え方であります。雅楽につきましては、現在は営内庁の楽部という形で保存されておりますので、宮内庁楽部と協議相談して種々な方法を講じておるわけでありまして、現段階では文化財保護委員会として援助いたしておりますのは、地方公演に対する援助をやっております。国立劇場ができました暁には、国立劇場におきまして雅楽の自主公開を年数回計画いたしたい。資料の保存、収集、研究というようなものにつきましても宮内庁と協力の上で進めていきたい、かように考えております。
  83. 小林武

    ○小林武君 だいぶ時間がたちましたから、あと一括して申し上げますが、やはり私は雅楽の問題、それから邦楽の問題でも、家元か何かがあって、踊の場合はさっきも話が出ましたが、まあ、それらは逆に、何というか、一種の教養として、女の方であれば一種の嫁入りのための道具みたいに習うというようなことでやっておる例がありますから、急に消えてなくなるようなこともないようですけれども、私はやはりこの種のものを伝統芸術として少なくとも残しておく。ちょっと区別しておかしいけれども、古典といわれるような、古典的な芸能ということをやるということになったら、それはどこで——宮内庁の雅楽の例をとれば、そこで養成の機関がもしあるとすればそれを的確につかんで、もしもいまのままでぐあいが悪いならば一体どうするかというようなことは、一応はっきり国立劇場は把握していなければならぬし、それに対してさまざまな意見を述べて、そうして絶やさないように、衰微しないようなやり方をしなければ私はいかぬと思いますよ。あそこでやっていましたよというようなやり方は私はいかぬと思う。それにいろいろな因襲のあるものなんかでは、へたをすると、何か行なわれておるようだけれども、事実は非常にすたれていっておるというような事実もあり得るわけでありますから、そういうふうにひとつ十分に案を立てられる段階で御検討いただきたいと思うのです。  それから最後にまとめて申し上げますが、支持層の育成ということをいわれておる。普及啓発事業とでもいうべきものです。幾ら雅楽が何といったところで、雅楽のよさというものをほんとうに残そうとするならば、雅楽を聞く人がなければならぬ。朝廷の儀式とか神社の儀式だけに残しておくということ限界があるだろう。やはり雅楽をやる人たちが、ほんとうに雅楽を貴重な音楽として残さなければならない気持ちを起こさせるには、やはり支持層、いわゆる聞いてそれを楽しむ人がいなくては張り合いがないと思うのです。そういうことのためには、私はできるだけこれの大衆化、大衆化ということばが様式を破壊されるというようにとられると困るのですが、私はかつてあなたに申し上げたことがある。高校の生徒とか、あるいは大学の学生の諸君等が東京に集まってくる。そういう人が数多く集まってくる。いろいろなところを見て歩くのはけっこうだ、何とかタワーにのぼって東京を高いところから見るのもけっこうだけれども、たとえば国立劇場日本伝統芸能を見るのだという、そういう一つのコースに入るということで、そういうことは安売りでけっこうじゃないというかもしれないけれども、私はそうじゃないと思う。そういう機会をできるだけつくって、そのときに、聞いてみたとたんにびっくりするようなものをやらないで、やはりわかりやすいものから入らしていくというような、そういう配慮もなければだめだと思うのです。私の同僚の千葉議員がよく言っておりましたけれども、相撲が衰微した時代に、相撲協会は東京の小学校の生徒を皆招待した。しかし、その招待したのは、その後数年にしてどうであるかというと、相撲の隆盛のときには非常にいい影響があった。それは相撲を見ている子供たちが大きくなって、それは相撲はおもしろいと言って、あれだということを言っておりましたが、私はほんとうだと思う。それはどのくらいやったか、調査して数としてあげることはできませんけれども、これは営業政策だと思う。私は文化政策として、やっぱり国立劇場経営するにはそういう支持層の獲得、普及、啓発の事業は、へ理屈でなく具体的な問題をやるべきだ、地方公演をやったり、とにかくその地方の学校の子供たちや何かにわかるようなやつをサービスとしてやってやるというやり方も、大いにそれはサービスとしてやったほうがいい。そういうことのために予算をうんと使って、そして伝統芸能をとにかく滅ぼさないようにするということが私は必要でないかと、こう思っているのです。文部大臣はそういう点についてはどうお考えでございますか。
  84. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 全くいい御指摘で同感に思います。そこで、そういうことは今後の運営の上において、所管である文部省ももちろん、それから国立劇場の機構として選ばれた役員や評議員、こういう方々にも御研究いただきまして、できるだけそういう方向に努力してまいりたいと思います。
  85. 小林武

    ○小林武君 最後に一言だけ。役員の問題ですけれども、役員とか、これの運営に当たるさまざまな、まあ職員も入るかもしれません。そういう人に対していろいろな意見の提案があるわけですね。これはまあいわゆる芸能界の人の意見として、お役人ではなかなかようできないのではないか。ひとつ大いにわれわれのようなくろうとみたいなものを入れてやったらいかがかというような提案もいろいろあると思う。私はしかし、それじゃそういう人たちが集まってきて、全部集まってきたらうまくいくかというと、私はそうも思わない。やっぱりしっかりした役所の人もいたほうがいい。一がいにはそれは言えない。しかし、各方面の人材をとにかくやはりたくさん集めてごたごたになるということでなしに、やっぱりりっぱな人たちを集めて、とにかく発足の時期、これがかなりのはっきりした方針を確立するまでには、それらの人たちの力をとにかく借りるのだという気持ちを役員の人事に十分御配慮願いたいと思うのです。これは文部大臣お願いしたいと思う。これを単に、どっかのポストの穴埋めになったり、たらい回しの一つになったり、そういうことのないように、一つの思い切った文化行政の人事というものをひとつ特にお願いを申し上げたいと思うのであります。終わります。
  86. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 ただいまいろいろ審議されております国立劇場法について私も質問さしていただきます。  法案について質問します前に、わが国文化政策についてお聞きしたいのです。大臣にお願いいたしますが、佐藤内閣の長期政策はあると思いますが、その中の文化政策というのがございますのかどうか。それをお示しいただきたい。
  87. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 文化の向上発展、これは国の将来のために非常に重要な問題でございますから、政府といたしましては、こういう方面に深い関心を持ち、その具体的な進展に意を注いでおる次第でございますが、一口に文化と言いましても、こういう伝統芸能の問題から新しい文化の取り入れ、あるいは育成、開発と、非常に幅が広いものですから、どういうことをやっているかとおっしゃられましても、ちょっと指摘しにくいのでありますが、何か具体的にこういう問題は取り上げておるかとか、どういう施策を講じておるかとか、具体的な御指摘がございましたら、それに応じてお答えを申し上げるようにいたしたいと思います。
  88. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 それは文化に限らず、教育なども見ておりますと、内閣が変わるたびに大臣ががらっとかわるというような様子をずっと続けてきていると思うのです。それで、教育においても文化においても、そういうものがそうであってはならない。文化政策にしても教育政策にしても、長期政策でなければならないと思うのです。そうした長期政策としての政策があるのかどうかということをお聞きしたいわけです。
  89. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) もちろん御指摘のように、すべての問題が長期的な視野に立って進められるべきもので、まあなるほど御指摘のように、ときおり内閣総理大臣がかわったり、あるいはまた閣僚はなおしばしばかわりますが、しかし、いま政党政治の今日、母体は一つの政党でございますから、その政党としての大方針はそう違わないわけで、個々のニュアンスはまあ閣僚がかわりますと、若干、どこに重点を置くかとか、どういういままで忘れられておった点に特殊な人が特に関心が深いとかということで、若干の相違はあろうと思いますが、まあ大体、ことに文化とか教育とかいう問題は、産業その他の問題もそうでしょうが、特に文化教育等の問題は長期的視野に立って進めていかなければならない事柄でありますから、そういうふうに常に留意をいたしておるつもりでございます。
  90. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 もう一つお伺いします。具体的な問題ですけれども、予算の中に、「芸術文化振興に必要な経費」というものが組まれております。四十一年度のところを見ますと、一億二千二百二十五万八千円、これが要求されております。四十年度のところを見ますと一億八千五百十一万、こうなっております。四十一年度の要求額というのは前年度に比べますと約六千三百万の減になっております。約三分の一減っている。これは見ましても前年度より著しく減っているのじゃないか。これで芸術文化振興がはかられるのか。むしろふやしてもいいのじゃないか。こういうふうに私は思っているわけなんです。
  91. 蒲生芳郎

    政府委員(蒲生芳郎君) お答えいたします。ただいまのお尋ねの点につきまして、予算書をちょっと持ち合わせませんのであれでございますが、はっきりとお答えが申し上げられませんけれども、おそらく前年度から減っております分は、近代文学館の設立に対して補助金を出しております。それが四十一年度では載っておりませんので、その関係であろうかと思います。
  92. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 それで次にお聞きしたいことは、大臣にお願いしますが、ことし文部省の中に文化局が設置されまして、たいへんけっこうなことと思いますが、この文化局は、どういう意図のもとにつくられたものかをお示しいただきたい。
  93. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 実は先年来、政府としましては、文化行政をさらに推進するために、文化局を設けたいという希望を持っておったわけでありますが、近年、官庁が膨張することを防ぐために、政府の閣議の申し合わせ、あるいは行管の方針等によりまして新しい局の設置を許さない。もし新しい局の設置を許すとするならば、どうしてもしたいならば、他のどこかの部局を廃止して、整理統合して新局をつくるようにすべきであるというような方針になっておりましたので、文部省といたしましては、かつてございました調査局を廃止いたしまして、文化局を設置し、この文化局には調査局の持っておりました仕事の一部、それから大学局、あるいは社会局等にありました仕事の一部等を文化局に移しまして、そしてこの局を、文化行政を中心とした行政組織にいたしたいということで、今回のような設置法の改正を国会にお願いして、そういう段取りになったような次第でございます。
  94. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 大臣にお願いいたします。日本文化国家として今後繁栄し、世界の各国と広く文化交流をしていくためには、文化省をつくるべきだと、こういうふうに思っておりますが、いかがでしょうか。
  95. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 先ほど申し上げましたように、省の中の局を新設することでさえ、なかなか、行政機構の拡張を防止しようというたてまえから困難な現状でございますから、新しい省を設置するということは、さらに困難な問題であると考えております。したがいまして、長い将来のことは別として、当分は私どもとしましては、文部省の中に文化局を設置いたしましたので、まず文化局を中心文化行政をさらに推進をしてまいりたい、かように考えております次第で、まだ今年、ようやく先だって設置法改正を議決願いまして、文化局を新設したばかりでございますから、御承知のとおり、文化行政の予算等、施策の内答としては前年と変わっていないわけでありますが、明年度以降、予算編成にあたりましては、今後、せっかくできましたこの文化局の施策内容を充実し、また、拡張をしてまいりたい、そういう方向に、とにかくわれわれとしては努力をいたしてまいりたい、こう思っております。
  96. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 続いて大臣にお伺いいたしますが、これは今後の問題としてお聞きしたいことなんですが、政府として外国との文化交流を積極的に進めるお考えがあるかどうかということです。
  97. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 国際親善の上からも、また国際間の平和を願う上からも、文化的な交流はできるだけ盛んにしたほうがいいと、私ども自身も考えております。したがいまして、文化的な交流の発展につきましては、私どもも積極的に今後意を用いてまいりたい、かように思っております。
  98. 辻武寿

    ○辻武寿君 関連。そういった国際的な文化交流ということは、これからますます盛んに行なわれていくと思うのです。そういう点からも、文化省というものは私は必要じゃないかと思う。特にフランスあたりは文化の国として、先進国として、あらゆる文化事業を文化省で扱っている。オペラなんかも、国立劇場なんかも、とっくのむかしによその国ではできている。そういった文化省のようなものがないから、調査局なんかを廃止して文化局に直したりなんかしている。こういう点に、国家百年の大計の上に立った文化事業というものがなされていないのじゃないか。その一つのあらわれが、国立劇場がいまごろになって云々されなければならないという、こういった事態に現われている。それで、先ほども大臣にお願いしたように、政府として長期的な百年の大計の上に立って、文化省というものは必要じゃないかと思っているわけですが、中村文部大臣、自民党としてでなくて、あなた個人の立場からは、文化省というものに対してはどういうふうに考えておられるか、お伺いいたします。
  99. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 御指摘のように、国によりましては、文化省を設けて文化行政を統一的に推進しておられる国もあるわけでございまして、考え方としましては、近代国家として文化行政について力を注ぐべきことはよく私どもも感じますし、全く御同感でございますが、ただ、国のそれぞれの政治機構が違いまして、非常に省の数の多い国もあります。日本では現在のような、最近一、二ふえてまいりましたが、省の数が御承知のようなことになっておりますので、もし文化行政が重要だから、これを一つの省を独立せしむべきだということになってまいりますと、他の部門にも、やはりいろいろ省の統廃合等については議論の余地がございますから、なかなか歴史的に、省をたくさん設けている国の国柄と違いまして、大臣の数等も日本は非常に制限しておりますので、そういう点で、日本の現状としては、諸般の点を考慮して非常に困難だと思います。  ただ、いままで御承知のとおり、文化行政を中心的に担当いたしまする部局すらなかったような現状から見まして、やはり文教を担当します文部省が、文化行政の一部門を担当することが当然であるという考え方から、このたびようやく文化局を設置する運びになりましたような次第でございますから、今後、極力この文化局を中心文化行政の発展に努力し、そうして必要の担当の課等も整備をいたしまして、なお日本発展度合い、あるいは政治全体のあり方から見て、そういうような新しい省を設けるべきであるという時代がくれば別でありまするが、現状といたしましては、直ちに省まで飛躍することは、諸般の情勢から見て非常に困難ではないかと、かように考えております。
  100. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 文化交流のことについてもう一点お聞きしたいのですが、現在、政府の力での文化交流というものはされてないと思いますが、民間の力によっては相当やられていると思うのです。こうした民間の文化交流に対して政府がどれだけそれを応援しようとしているか。また、今後応援しなければならないと思うのですけれども、そうしたことについてお考えがあるものかどうかお聞きしておきたいと思います。
  101. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) もちろん文化交流というものは、むしろ民間的な交流のほうが自然で望ましいことでございますから、そういった事柄につきましては、政府としては、私どもの考えとしては、つとめて御協力を申し上げるようにいたしたい。ただ、これに対してどれだけ積極的にいま援助をしておるかということになりますと、まことに日本の現状は、非常に戦後短い期間の立ち上がりでございますから、まあ産業部門などはかなりの進度、発展を見せておりますが、他の面ではいろいろなまだ、不満足といいますか、不十分な点が非常に多いわけで、民間の文化交流等に対する政府の寄与は、まことに残念ながら薄弱であると思います。で、今後私どもとしましては、機会あるごとにそういうことを充実してまいるべきものであると思っておりますので、さような方向に努力を続けていきたいと思います。
  102. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 国立劇場法案の内容について質問いたします。答申に関係ある問題ですが、昭和三十四年の国立劇場設立準備協議会の答申によりますと、現代芸能のための第二劇場設立することになっておりましたが、いろいろな理由によってその計画が変更されてしまった。そのいきさつはわかりましたが、その際、現代芸能関係者の了解をはっきりと得たものかどうかということを政府委員の方にお聞きしたいのです。
  103. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 国立劇場設立計画はるる御説明申し上げましたように、国立劇場設立準備協議会を通じて練られてきたものであります。国立劇場設立準備協議会には、現代芸能の関係者も委員として入っておられました。計画が一瞬現代芸能まで広がり、次に、主として敷地の関係から、まず伝統芸能から発足することに変更になったわけでありますが、その変更経過もまた国立劇場設立準備協議会におはかりしてございまして、その中には現代芸能関係者も入っておられました。したがいまして、事務を担当しました文化財保護委員会事務局としては、計画の変更につきまして現代芸能関係者の御了承も得たと信じておったわけでありますが、今回の法案提出を契機といたしまして、そこら辺が十分御納得がいってなかったという御主張がございまして、私どもとしては、まあ主観的には御了承を得たと信じておったわけでありますけれども、結果的に御了承が得られなかったという御主張に対しましては、衆議院におきまして遺憾の意を表したわけでありますが、本院におきましても、同じように、私どもの意図と違いまして、結果的に御了承を得られなかったことにつきましては、たいへん遺憾に存ずる次第でございます。
  104. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 この前のこの委員会でしたか、いきさつをずっと承っておりますときに、その了解を得る方法を何か文書で通知したというようなお話に聞いておりましたが、こういう大きな問題を了解を得るのに、またそれが変更の場合の了解ですから、文書で通知するなんというのはずいぶん失礼じゃないか、関係者を集めてそこで納得のいくような話をし、また、現代芸能の将来についてはこういうふうにしていくというような話し合いがしっかりされていなければならないと、こういうふうに思いますが、いかがでしょうか。
  105. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 実は変更計画を最終決定いたしましたのは、昭和三十六年の二月の準備協議会でありまして、そのときも現代芸能の方々は委員として参加されておったわけであります。ただそのころの時点では、現代芸能関係の施設は建たないということがほぼ明白になっておった関係もありまして、現代芸能の関係の方々の御出席は必ずしもかんばしくなかったようでございます。そこで私どもとしては、国立劇場準備協議会で御了承を得たから、まあそれでいいわけでありますが、さらに念を入れる意味合いにおきまして、こういうことになりましたということを、その後、文書で関係の委員の方々に御連絡申しあげた次第でありまして、文書一本で連絡したというわけではないのでございます。
  106. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 大臣にお伺いいたしますが、関係者の、これは現代芸能の関係者ですが、その方たちがこれを承認したのは、できるだけ早く現代芸能専用の国立劇場がつくられるということを前提としてであると、こう言っております。第二劇場をできるだけ早くつくるべきだと思いますが、これについて具体的な検討がその後なされているのかどうかということをお伺いいたします。
  107. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) いままでに先ほどの参考人の御意見、その他いままでの話題で御了承のとおりに、いろいろ変化を見て今日に至ったわけでございます。そこで、とにかくこの国立劇場設立準備協議会で、一度は伝統芸能及び現代芸能両方の施設をあの場所につくろうということがきまったわけでありますから、この方向が基本的には今日も維持されているべきものだと思います。ただ、場所の関係、建蔽率の関係等で伝統芸能の大劇場一つ現代芸能の大劇場一つ、それから小劇場伝統現代芸能と二つ、こういうように四つつくろうというのが設立準備会の協議をされた構想のようであります。ところが建蔽率や地坪の関係、高速道路の関係等で、とてもそれは不可能であるということがはっきりしたので、それでは伝統芸能を先にやろうということになったわけですから、引き続き現代芸能についても、これは先にやろうということになりました伝統芸能のこの国立劇場がまず解決しましたら、引き続き現代芸能についても積極的に努力をすべきものである、かように私ども考えておる次第でございます。特にこの中間の三十六年のころには、上野に文化会館が建つ、ここに大ホールが建つ、これがかなり現代芸能に利用されるのだという、当時、現代芸能の関係の方々は期待を持っていたようであります。しかし、できてみたらどうも使いにくいということで、今日、現代芸能について早くやるべきだという声が非常に強くなっておるように私は聞くのでありまして、もし上野の文化会館の大ホールが現代芸能に全くぴったり使えるようなものであったら、あるいはそれで一つの一応のおさまりができたかもしれませんが、そうでないようでございますから、私どもとしましては、現代芸能についても積極的に今後その方向に努力をしてまいるべきものである、こういうふうに思っておる次第でございます。
  108. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 大臣に次いでお願いいたしますが、引き続き第二劇場のほうも考えていきたい、できるだけ努力する、こういうふうにおっしゃって、ばく然としておりますが、大体いつごろとか、委員会をつくってそれに当たらせるとか、そういうような具体的なお考えがありますんでしょうか。
  109. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) まだ実は先発の伝統芸能のほうについての劇場問題が終了いたしておりませんから、具体的なスケジュールは持っておりませんが、衆議院でも、現代芸能に関する附帯決議等御鞭撻をいただきましたので、私どもとしましては今後積極的に努力をしてまいりたいと思います。
  110. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 それで、第二劇場を今後つくるとして、まず一番問題になるのは敷地の問題だろうと思うのです。この敷地の問題について大臣にお聞きしたいのですが、現在建てられた国立劇場の予定地の問題は前々から検討されて、パレス・ハイツあとと決定しておったわけです。今度建てられたこの国立劇場の敷地はその半分が使われている。あの劇場の隣に地続きで残りの半分がまださら地になってある。大体八千七百坪ばかりあるようですが、その残った半分の土地を最高裁を建てる予定地になっているようなことを聞きました。それは事実なんでしょうか。
  111. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 私の承知しておりますところでは、昭和三十三年のころに国立劇場の建設地をせんさくいたしました際、パレス・ハイツあとということできまる際に、あの中に半分というか、一部分は最高裁判所を建設する、それから、あと国立劇場を建設するということに、そのときに同時にきまったように承知いたしております。同時にきまってしまったものですから、さて建設計画を具体的に進めてみたところが、とても国立劇場用地として当てられておる坪数では、伝統芸能、近代芸能両方あわせて同一敷地内につくることは不可能であるということになったのが、だんだん今日の結果のような結論にしぼれた経過のように承知をいたしております。
  112. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 そのいきさつはわかりましたが、しかし、まだ最高裁があそこへ建てられたわけでもなし、予算についても四十二年度に十五億の予算を何か組むようになっておるようですから、まだあそこを最高裁の敷地にしてしまう、敷地になってしまったんだとあきらめる必要がないと思うのですね。文部省がほんとうに第二劇場も、現代芸能関係の人たちの熱心な要求に対して、それにこたえるためにも、またあそこにりっぱな国立劇場ができて、その隣に裁判所ができてるなんというのはあまりみっともいいものじゃない。政府側があまりにも計画性がないのじゃないか、こういうふうにあとで言われるのじゃないかとも思います。そこで、第二劇場はどうしても建てる、そして建てる以上は、現在建った伝統芸能劇場と並べて、あそこに望ましい姿で芸能センターのような形でつくれば非常にいいんじゃないか、こういうふうに思いますので、大臣がそれに対して積極的なお考えがあるかどうかお聞きしたい。
  113. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 先ほど申し上げましたように、三宅坂のあの場所に最高裁判所と国立劇場とは分けて使うということになりましたのは、その当時、国有財産中央審議会というものがありまして、そこで関係方面と議を練った結果、大体地割り等もきめてそういう決定になったようであります。その前のいきさつを聞きますと、最高裁判所は、いまの最高裁の建物が古いれんがづくりの建物で、戦災にもあって丸焼けになった建物を、焼けた骨を利用して一応使用可能な状態に修復をして使っているという状況にあったので、最高裁判所は、駐留軍があそこを移転するということがきまって、移転になりましてから、一番先口にあそこへ最高裁判所を建てたいという先口の申し入れで、国有財産の審議会のほうで受け入れておったようで、そこに国有財産中央審議会でいろいろ関係方面と議を練り、審議をした結果、それじゃ一部分は国立劇場にということになりまして、まあ国立劇場のほうが、経過から見るとあとから割り込んだほうになっておるようです。当初はだれも国立劇場国立劇場と口には言いますが、敷地面積と建坪あるいは計画、そういうようなものも詳しく具体性がなかったものですから、あれだけの場所に伝統芸能現代芸能とを並行して建てられるものだと思っておったようです。しかし、だんだん研究しますというと、伝統芸能現代芸能とは音響効果なども全然違う。あるいは舞台装置も違うということになってきて、別々で建てなければならぬ。そこで劇場を二つずつ持てば——劇場二つ、小劇場を二つ持てば二つずつということになって四つということになる。それで具体的な建設計画を進めた結果、とても建たない。建たなければ、両方やめるわけにいかないから、まず伝統芸能のほうを先に解決しようということになったのが今日に至った経過のようでございますので、私どもも、その後の業務を担当しておる者といたしましてはいたし方ない。なるほど御指摘のように、一方は芸能関係の国立劇場である。お隣はいかめしい裁判所であるということはどうかと思われますが、まあそれは区切り等の方法で解決がついていくものと思いますので、とにかく、いまかいつまんで申し上げたような歴史をたどってそういう結論になってしまっているので、ここで最高裁判所をどこかほかに追い払うと言っても、向こうが先口であり、それから最高裁判所のほうを聞きますと、すでに建設審議会ができまして組織ができ、具体的に設計をやって、あの敷地に最高裁判所としてふさわしいものを建設するにはどういう設計がいいか、どういうつくり方をするか、もうすでに具体的な検討をやっておる最中のようでございますから、どうもいまの私どもの立場としてはいかんともいたしがたい。ですから、現代芸能については困難であっても、将来、他に場所を考えなければならないというように思っておる次第でございます。
  114. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 いま大臣からいろいろお話を伺いまして、もうなっちゃったことはしようがない、国立劇場を建てるほうの立場から言えば後手なんだ、あとから割り込んだんだからしようがないじゃないかというようなお考えのように聞き取れるわけですけれども、いきさつはどうであっても、現段階がどうであっても、国立劇場だ、最高裁判所だと、将来長く残る建物を、だれが考えてもバランスのとれてない並べ方であるし、また、ここへ何で現代芸能国立劇場を建てなかったのかなあと、あとでもの笑いの種になるよりは、ここで、裁判所のほうだ、やれ、文部省だという考え方でなくて、国家全体の立場から、こういうほうがいいじゃないかということになれば、理想的な形にしていったほうがいいし、また、そうしなければならないと思うんですね。そういう点では、何か文部大臣があきらめているような、しようがないというようなお考えで、ちょっともの足りなく思いますのですが。
  115. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 実は私もこの国立劇場問題は在野当時詳しく承知しておりませんで、こういう問題があることは承知しておりましたが、詳細は実は承知していなかったわけであります。文部省を担当することになりまして、赴任をいたしましてから、聞けば、国立劇場伝統芸能劇場だけであるということを聞きましたので、せっかくつくるんだから、近代芸能にも使えるような方法が立てられないものか。急にはなかなか近代芸能劇場をつくるといっても、これ一つつくるのでも相当長年月かかっておる。急にはできないことだから、やはり現代芸能にも兼用できるようなホールにはできないか、もちろん相当な伝統芸能としての建設計画で進んできておりますから、末期に非常な設計変更をしたり、改造をしなきゃできないことでありますが、という私は気持ちも持って、内部的には意見を言ったことがあるんでありますが、それはとうてい困難である。まあオーケストラを入れるのには、オーケストラを入れる場所もつくらなければなりませんし、かりに入れる場所を設計変更等をして無理につくったにしても、伝統芸能等の場合には声の響きが切れるようにいかなきゃならないし、それからオーケストラやなんかの現代芸能になりますと、声の余韻が残るような音響効果にならなきゃいけないんだそうで、音響効果が全然違う。だから、伝統芸能をやるにふさわしい劇場でオーケストラをやるということになると、また音響が全然理想どおりにいかない。それから、オーケストラをやるような劇場伝統芸能のような、歌舞伎のようなことをやっても、声が歯切れよく届かないというようなことになるそうで、非常に音響効果や何かの差があって、とうてい一つところを両方に兼用するということは、これは技術的に不可能であるということを聞きまして、私どもも、それはもうそういうことならば、とにかくこれでいままでの企画どおり進む以外にないという決心をいたしました次第で、なお私はその後、これは私のかってな考えでありますが、考えようによりましては、伝統芸能芸能人あるいは芸能の内容、本質というものと現代芸能とは、かなりやはり芸能人の性格とか、いろいろな差があると思うのです。そうすると、そういう差のあるものを、一体かりに前の、最初の計画のとおり、四つつくって、一つ場所で同居するのが一体よかったのか、あるいは、これはできないということになったために、別の場所に将来つくるということになったのがよかったのか、私どもはこの点疑問だと思って、実は内心的に考えいるわけで、あるいはこれは性格が違うものなんだから、やるならばやはり別のところで、別の機構でやるほうがふさわしいのじゃないかということを、実は内々内心で考えておるわけで、ここらも、ものごとはたってみなくちゃわかりませんが、とにかく結果としては、いろいろないきさつを経てこういう結論になってまいりましたので、私どもとしましては、この伝統芸能中心とした今回の国立劇場は、すでに建設準備もやや完了に近い状況でございますから、このままスタートをさせ、いろいろ国会における審議段階におきましても、ずいぶん傾聴すべきたくさんの御意見を承ってまいりましたから、担当の文部省としましても、また今後できます劇場の評議員会等の専門家の機関におきましても、いろいろ細心最大の注意をひとつ払い、また知識を糾合して、この国立劇場設立意味を、大いに今後発展させ意義あらしめるようにいたしたい、こう思っておるような次第でございます。
  116. 辻武寿

    ○辻武寿君 関連。大臣のお話によれば、同じところに伝統芸能国立劇場と、それから現代芸能国立劇場が並んで建つのはどうかと思うような、いいか悪いかという、そういうふうにいま私は聞き取ったけれども、裁判所と並んで建つよりは私はいいと思うのですよ。片一方でさばきの庭に立ってやられている、片一方は踊りを踊っている、そういう環境にあるのはいかにも不つり合いで、あまりだれが見ても感心できない。ところが、二つ並んでおって、こっちはもう古典だ、こちらはもう現代劇場なんだ、こう言えば、だれでも、ああそうかと、これはちっともふしぎには思わないと思うのですね。また、過去にさかのぼって云々してもこれはしようがないけれども、とにかく現代芸能国立劇場考えているかと言ったらば、考えているようないないような、まず一つ国立劇場をつくってしまってから、それからゆっくり考えようと思うというように、さっきの答弁では私聞きました。けれども、現代芸能人たちは非常に不満を持っている。そこで、いま次の場所を物色中なんだ、こういう予定でいま一生懸命探している、こういうところに当たってみたのだ、そういう具体的の努力のあとが見えれば、いますぐできなくてもこれは納得できると思うのです。また、それが政治だと思うのですけれども、そういった努力がされてないということは非常に不手ぎわであるし、これが佐藤内閣の姿勢じゃないか、こういうふうに思うのですが、その点について大臣の考えを聞きたい。
  117. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 先ほど来申し上げておりまするように、昭和三十一年に閣議決定をされて、今日に至るまでの間に、御承知のような経過をたどってまいりましたわけで、片や三宅坂のかどに面したほうの敷地は最高裁判所の用地ということに最初からきまりまして、最高裁判所もすでに具体的な準備段階に入っておるようでございますから、どうも裁判所と国立劇場と、背中合わせにおるのはかんばしくないじゃないかという御意見でございますが、どうもこの段階で、私どもの責任としてはいかんともいたし方ない状況でございますから、附帯決議等で、御鞭撻していただきました現代芸能についての次の第二劇場といいますか、現代芸能国立劇場といいますか、次の施策につきましては、この伝統芸能中心とした国立劇場の完成をまちまして、すみやかに具体的な検討を開始いたしたい、かように思う次第でございます。
  118. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 第二劇場のことに関係してもう一つお伺いしたいことは、附帯決議の中に、「施設その他につき、必要な措置を講ずべきである。」との決議がされておりますが、これは第二劇場を建てるということを意味していると、こういうふうにとってよろしゅうございますか、大臣にお願いします。
  119. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) これはどうも国会のほうで附帯決議を鞭撻の意味でつけていただきましたので、私のほうでかってに解釈するのはいかがと思いますが、いま御指摘のような趣旨に私ども伺っておるような次第でございます。
  120. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 修正案の問題についてお尋ねしますが、本法案目的のところに「主として」ということばが入った。そして現代芸能も入い得る余地を与えたのだ、こういうふうに受け取りましたが、今後の現代芸能に対して、それじゃ具体的な検討がされたのかどうかという点ですけれども、大臣にお願いします。
  121. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 私どもこの点につきましては、先ほど申し上げたように、オーケストラを使うような現代芸能はこのホールとしては現実的に無理だと思いますが、しかし、現代芸能の中にも新劇のようなものもありますし、やはり歌舞伎で使いまするような舞台をそのまま生かして使える現代芸能も相当数多くあると思います。そういうものにつきましては、今回の修正の趣旨は、伝統芸能を主とするけれども、そういうものにも活用できる限りは活用したらいいじゃないか、こういう御趣旨承知いたしておりますので、そういう運営に進めてまいりたい、かように考えております。
  122. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 いまの大臣のお答えを聞きますと、いま建てられて使うようになるその国立劇場に対してのお話のように伺いますけれども、私がお聞きしたいのは、その建物に対して現代芸能が使われるのか使われないのかというようなことじゃなくて、国立劇場法案なのですから、建物のための法案じゃなくて、今後この国立劇場中心にして芸能界をどのように発展させていくかということに内容はかかわっていると思うのです。そういう立場から、古典芸能にだけ範囲をしぼっていたように思われる法案が、そうではないんだ、現代芸能にも余地は与えていると言うている以上は、この法案の第十九条に、国立劇場の具体的な活動の内容が示されているわけですね、伝承者の養成とか、また調査研究もする、いろいろのことが出ておりますが、そういう方面に対して現代芸能にもそうしたものが考えられていかなければならないと思いますけれども、そういうことについて当然検討されなければならないと思うのですけれども、検討されているのかどうかという点。
  123. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) そう、先ほど私も参考人の御意見を承わっておって、若干、名前が国立劇場ですから、国立劇場という以上は伝統芸能だけでなくて、この法案の範囲で他の演劇等も、あるいは芸能等も織り込むべきであろうという御趣旨参考人の発言もあったように思います。いま柏原さんの御意見も、この法律ができたら、この法律の範囲で現代芸能等についてはどうなんだ、こういう御趣旨の御質問のように伺ったわけであります。この点は今度の国立劇場法は、現在つくっております国立劇場の管理運営、それからその使命等を特殊法人としてきめていく法律でございますので、したがって、芸能全部、あるいは演劇全部を取り扱おうという趣旨ではございません。ただ、修正として、「主として」ということが入りましたので、主として伝統芸能のこの修正が本参議院においても議決をされましたら、私どもとしましては、主として伝統芸能中心としてやってまいりますが、他の方面にも活用することにいたさなければ御決議の趣旨に沿わないと思っておりますが、とにかく今度の国立劇場法というのは、いまできておりまする施設を管理運営してまいります。また、それに関連する業務を行ないますための特殊法人の法律でございますので、将来、現代芸能について別の施設ができることになりますれば、この法律をさらに改正して、それも含めた広い範囲のものにするか、あるいは現代芸能についての特殊法人設置の新しい別途の法律を用意するか、いずれにかいたさなければならないと思いますが、今回の法案は、とにかくできてまいりました施設の管理運営及びそれに関連する諸業務の遂行に支障のないような特殊法人をつくろう、こういう目的でございます。
  124. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 この法案の内容についてもう一点お伺いしたいのは、目的のところに国立劇場伝統芸能保存振興をはかり、もって文化の向上に寄与する、こう示されておりますが、保存の態度によって、自主公演にしても、また養成にしても研究調査にしても、あらゆる点、国立劇場の方向が変わっていくのではないかと思います。基本的な問題として保存ということをはっきりとお聞きをしておきたいと思います。私の考えでは、一つ考え方は、古いものをただそのままの形で、なくさないように保存していく態度、もう一つの態度は、演劇こそ民衆の中に生きているものである、民衆の文化として伝統を受け継ぐことはもちろんであるけれども、これをさらに発展させる、新しいものをつくってこれを伝えていこうとする態度、こういう二つがあると思いますが、これに対してどういうお考えでしょうか、大臣にお聞きしたいと思います。
  125. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 御指摘のとおり、単に保存目的とするだけでなしに、それに関連して芸能振興をはかっていく、同時に、この文化全体をになうわけじゃありませんが、文化の一部分の向上に寄与していきたい、こういうことでございますから、大体御指摘のような意味に私どもも解釈をいたしておる次第でございます。
  126. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 先ほど私が申し上げましたように、ただ古いものをそのまま残していくという態度の保存であったならば、国立劇場は言われているような演劇博物館になるのだ、後者ならば演劇活動の中心となって演劇界をリードし、望ましい国立劇場になると思いますが、聞くところによると、作品の選び方などについても、黙阿弥以前のものを対象にするというようなことも聞いておりますし、自主公演の方針を見ますと、正しい姿だとか、高い水準でというようなことばが並んでおります。また、発展させなければならないこの国立劇場の活動を文化財保護委員会などに行なわせているという点から、私はこの国立劇場は、将来やはり演劇博物館のようになるんではないか、こう心配しているわけなんです。こういう点、大臣はどのようにお考えでしょうか。
  127. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) まあ物でございますと、博物館的陳列をする保存をすればよろしいのでありますが、けさほど来いろいろな御意見がありましたように、演劇は確かに生きものでございまして、人間が演出をするわけでございますから、保存といいましても、保存の完ぺきを期するためには、それに対する伝承者の養成とか、いろいろ重要な課題が伴ってくるものと思う次第でございます。で、私どもとしましては、できるだけ日本伝統芸能をあまり型をくずさないで、できるだけ正確なものを保存をしてまいる。そういう保存を通しまして新しい劇等にも発展をしていきます別の新しい文化の向上に資してまいりたいというふうに思っておる次第でございますので、保存といいましても、物の保存とこういう芸能、あるいは人的資源の保存ということとは全く違う点があるんじゃないかというふうに思っておる次第で、こういう古い芸能を正確に保存をしてまいりますということは、やがては新しい時代の演劇芸能等の発展に寄与することができるようになると考えておる次第でございます。
  128. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 国立劇場の問題を文化財の保護委員会の管轄において行なわせるということについて、大臣は適当と思っていらっしゃるのか、また、将来これは考えていったほうがいいというふうに思っていらっしゃるかをお聞きいたします。
  129. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 現在までに至ります経過、それから現在建設をいたしております国立劇場の実態、こういうものから見ますと、今度の修正で「主として」ということが入りましたが、とにかく文字どおり主として伝統芸能を取り上げてまいるわけでありますから、この国立劇場に関する限りは、私ども文化財保護委員会に担当せしめていくことが適当であると考えております。また、過去の人たちも、私どもが就任いたしまする前から、この国立劇場の所管については、国立劇場はこういう方向に決定いたしまして以来、文化財保護委員会が所管の機関としてきめられてまいったのも、そういう精神であろうかと思うのでございます。将来、現代芸能について新しい構想が具体化されてまいりますれば、現代芸能については、これはもちろん文化財保護委員会でなしに、文化局等が担当をしてまいるべきで、その段階でやはり文化財保護委員会が伝統芸能を主とする劇場の所管で続けていくのがいいのか、あるいは現代芸能とも無関係でないから、一つのところに集めるのがいいかというような議論も起こり得ると思いますが、現段階では、とにかく今日までの歴史にかんがみ、また現状としましても私ども文化財保護委員会が担当してまいるのが適当である、かように考えておる次第でございます。
  130. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 政府委員の方にお聞きしたいのですが、伝統芸能保存するということは、やはり保存しなければならなくなった推移の原因があると思います。その原因をどういうふうに分析していらっしゃるか、そうしてそれに対してどのようにお考えになっているか、それをお聞きします。
  131. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 伝統芸能にもいろいろな種類がございます。種類によって沿革、現状必ずしも一様でないと思います。しかし、一般的に申しまして、演技者、それから観客が必ずしも増加いたしません。むしろ減少の傾向にあります。それから特に観客の側においては、生活様式や趣味、趣向の変遷からいたしまして、伝統芸能を鑑賞する態度にはズレが生じております。参考人の方も申されましたように、そのままでは一般には理解されがたくなっておる面がありまして、伝統芸能を鑑賞するには予備知識といいますか、基礎的な教養が必要であるというような段階になっております。そういう社会的、経済的変遷、趣味、嗜好の変化、そういうものが伝統芸能の衰微をもたらしておると言ってよかろうかと思います。細部の点にわたりますと、種類によって必ずしも一様ではないと思いますが、一般的に申せばこのようなことになろうかと思います。
  132. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 資料を見せていただきましたけれども、その資料の中から幾つか質問をさせていただきます。  運営の概要の中に、「芸能の範囲」というところがあります。これは事業内容のところの(1)ですけれども、そこに十分な調査研究をすると、こういうふうにございますが、どんな機関で、どんな方法でそれを行なうものか、具体的に示していただきたいと思います。
  133. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 伝統芸能調査研究につきましては、国立劇場ができる以前におきましても、文化財保護委員会に所管の課もございまして、それから専門審議会に分科会もありましてやっております。その内容は、歌舞伎の例をあげれば、昔の脚本の収集、それから上演様式の研究、装置、その他道具などの研究、資料の収集などをやっておるわけであります。それから文化財保護委員会以外におかれましても、歌舞伎を主として守ってこられた松竹株式会社においてはかなり資料も持ち、研究もなされております。それから学界においても同じように調査研究が行なわれております。代表的なものといたしましては、早稲田大学の演劇博物館などがございます。演劇博物館は西洋演劇のほうがむしろ量的には多いわけでございますが、日本伝統演劇につきましても調査研究をやっております。これら国立劇場発足以前からやっております調査研究資料の成果も参考とし、それらの援助も受けながら、国立劇場におきましては、組織といたしまして調査研究の部を設けまして、ここにおいて脚本、様式、装置、時代考証等の研究を行ない、その研究に基づいて上演をやっていこう、こういう計画でございます。
  134. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 続いて政府委員にお伺いいたしますが、自主公演の方針の中に、「すぐれた作品を選び、」と、こうありますが、それはどういう範囲から選ぶのか、お示しいただきます。
  135. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 歌舞伎にいたしましても、文楽にいたしましても、長い間に社会の評価を受け、時代の淘汰を受けまして、いわゆる代表的な作品というのが現在残っておるわけであります。たとえて申しますと、歌舞伎十八番というようなものがあげられようかと思います。そのようなものを専門委員などの協力も得ながら、国立劇場上演の演目、いわゆるレパートリーとして掲げまして、その中から計画的に上演をはかっていこう、このように考えておる次第でございます。時代的に申せば、江戸時代から明治にかけてそのようなものが成立しておりますし、それから必要に応じて伝統歌舞伎の様式を用いた新歌舞伎も加えていきたい、かように思っておる次第でございます。
  136. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 政府委員にお伺いいたしますが、その次のところに、「正しい姿」、「高い水準」ということばがございますが、内容はどんなことを意味しているのですか。そしてそれはどこできめるのですか。何をもって基準とするのか、こういう点についてお示し願いたいと思います。
  137. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 「正しい姿」とは、先ほど御説明申し上げましたように、代表的な脚本を選んで、その脚本の上演様式というのは歴史的に形成されておるわけでありますから、そのうちからつかみとれると思います。それから「高い水準」と申しますのは、まず第一に、演技者が十分その脚本をこなして演技しなきゃならぬわけであります。したがって、根本的には演技者が平素十分修練をする必要がありますし、それから具体的な演目を上演する場合に十分なけいこをする必要がございます。そのように平素の修練、それから具体的なけいこの日数も、必要にして十分に取り、かつ俳優が過重におちいらないように配慮をなしつつやる必要があるかと思います。さらに、高い水準での公演というのは、単にその演技者の演技だけではなくて、舞台の装置、道具、衣装その他上演を構成する一切の要素がいわゆるすぐれておらなければならぬわけでありますが、それらをどうやって判定し、いかなる基準でやるかということでありますが、これはなかなか字句で書き示すことはむずかしかろと思います。高い水準であるかいなかは、結果的には劇評家の批評によってもある程度判明いたしますし、それから事前においては、できるだけ、先日来申し上げておりますように、評議員、専門委員の協力を得て高水準の維持につとめたいと、かように考えております。
  138. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 そのあとに、「一般の理解と普及、特に広く新しい支持層の開拓を図る。」とございますが、何か「正しい姿」とか、「高い水準」とかという、そのことばと矛盾するのではないかと、こういうふうに考えますが、いかがでしょうか。
  139. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 伝統芸能はいかにりっぱなものであり、これを保存いたしましても、だれも見にこないという状態では、振興という状態にはほど遠いわけでございまして、振興とは、少なくともそういう正しい姿で上演された伝統芸能を多くの人が喜んで鑑賞し、生活その他のかてにされる状態を示すわけであります。そういう意味合にいおきまして、国立劇場をつくりまして正しい姿での伝統芸能を上演する場合、従来、歌舞伎なら歌舞伎の観客層を従来の劇場と奪い合うというような状態では趣旨に反するわけでありまして、そういう意味で、国立劇場はみずからつとめると同時に、新しい観客層を開拓することも大きな使命の一つだと思うわけであります。国立劇場で上演する芸能は国民にできるだけ多く鑑賞していただきたいし、また、その価値もあると信じておるわけでありまして、ただ、るる審議の結果明らかなように、生活様式その他の変化から、そのままでは直ちに喜んで鑑賞されるような状態になっていないというのが根本的な問題でありますので、国立劇場自体においても、これは会社等に呼びかけて団体客を募集するということではなしに、歌舞伎教室というような形、あるいは先ほど小林委員の御指摘にもありましたように、国立劇場施設を、単に上演の場だけじゃなしに、青年男女に見学の機会を供与したり、そこにおいて解説を試みたりして理解を持った新しい観客層を開拓しようと、そういうことをねらっておるわけであります。
  140. 辻武寿

    ○辻武寿君 関連。いま局長のほうからの「正しい姿」ということがどうも私もちょっと気になるのですが、たとえば歌舞伎なんかの「正しい姿」というのはどういうものがあるか。女形というのがあるが、女形というのは、私は男の人が女のことをやるのが女形と、こういうふうに思っておったのですが、ほんとう歌舞伎のその以前の正しい姿はやっぱり女は女性がやった、それが本来の歌舞伎の姿だということを聞いて、そうなるとどれが正しい姿なのか。山田五十鈴が飛び出してきたり、山本富士子が飛び出してきて一緒にやるのが、現代的にやらしてみれば、これが「正しい姿」になるのか、そういった「正しい姿」であるということをもう一ぺん——明治時代ですか、あるいは江戸時代ですか、それに合わしてやるのが正しい姿と、こういうふうに思っておるのか、もう一ぺん局長の話を聞きたい。
  141. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) この点はいろいろ御議論があるところでありますが、現段階では、先ほど小林委員の御質疑に対して御説明申し上げましたかと思いますが、「正しい姿」の一応の基準を明治時代に置いたらどうかというのが多数説であります。と申しますのは、歌舞伎もいろんな経過をたどって形成発達してきた芸能であります。いわゆる阿国歌舞伎のころには確かに女が女を演じておったわけでございますが、その後、女形というのが発達して、そういう様式美が明治時代に確立した。それから先は、これはいろいろ議論があるわけでありますが、なまじっか手を加える余地がないほど様式が確立しておるというのが現段階の通説であります。そういう通説に一応従いまして、正しい姿の基準は明治時代の時点に求めようと思っております。
  142. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 明治時代のものにする、こういうふうに伺いましたが、演劇というものは民衆の中から生まれたものであり、また育っていくものである。そうすれば、時代が変わればその演劇というものも発展していく、そうなりますと、正しい姿が明治時代のものであるときめきっているのも、おかしいのじゃないか、こういうふうに思いますが。
  143. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 細部の点を見れば、生活様式の変化に応じた修正はあろうかと思います。たとえば、ガス灯が電灯になり、電灯が螢光灯になる。それから装置にしても、木でつくっていたものがプラスチックになるとか、そういう変化はあろうかと思いますが、歌舞伎に関していえば、総合的な芸術としての様式が確立したのは明治時代であるという通説だと承知しております。一応その通説に従って、これを基準とし、修正の必要は、これは演劇は生きものでありますから、必然的な要請が内在的に起こってくれば、それを無理やりにとどめるつもりはない、こういう態度であるわけであります。
  144. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 国立劇場が発足して、そこにいろいろな演技が公演される。一番問題は観客層の動員だと思うのです。それを思いますので、「一般の理解と普及、特に広く新しい支持層の開拓を図る。」という点が問題だと思いますので、先ほどのお話のように、正しい姿勢だとか、高い水準だとか、そうしたむずかしいことを言っていればやはりわからない。見る者にとってわからない、こういうふうになっていくと思うのですね。それで、私は正しい姿とか、高い水準で公演するとかということと新しい支持層を開拓する、この二つの考え方に矛盾がないんですかと、こうお聞きしたわけなんですけれども、その点矛盾があるとかないとか、ないならば、こういうわけだからと、こういうふうに示していただきたいのです。
  145. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) まあ古いものと現在のものとの間には、何と申しましても時代の変遷でズレが出てまいります。そのズレをそのままにしておけば、確かに観客層も減る一方ということになります。そこで、そのズレを修正するかけ橋が必要であるわけでありまして、そのズレを埋めるためには、参考人も述べられておるように、積極的に理解を求め、まあ僭越なことばを使えば、観客を教育する必要があるわけであります。それを努力しながら高い水準を維持していきたい。観客のほうを高い水準の演劇も鑑賞し得るような状態に持っていきながら、保存振興をはかっていきたい、こういうことでございます。
  146. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 続けて政府委員にお尋ねしますが、「広く新しい支持層の開拓を図る。」とございますが、具体的に、こういうふうにやるのだというような案でもございますか。
  147. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 具体案はございませんが、考え方といたしまして、年配の人はある程度わかるわけでありますが、若いところに問題がある。したがって、このまま放置すれば、年配の人はだんだん減りますし、若い人がどんどんふえてくれば、総体的に観客は減ってくるわけでありますので、観客層開拓の重点は若い層に置きたい。これが第一点であります。次に、開拓の方法論でありますが、これは国立劇場の広報普及活動、たとえば見学者を入れるというようなことも一つの方法であります。簡単な解説講座などをやるというのも一つの方法であります。それから、さらに余力が出てまいりますれば、積極的に大学とか、職場とか、そういうところに出かけていって、その協力のもとに理解普及に努めるというような方法もあろうかと思います。なお、大学ないし高等学校程度の教育にそういう拠点を求めるというような気持ちも、文化財保護委員会としては気持ちとしては持っております。それから、社会教育というような手段についても応用できる面もあろうかと思います。そういう気持ちを持っている次第でありますが、具体的な計画は、国立劇場において大体そんなことを考えながらおきめになると思います。
  148. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 いま伺いまして、私も青少年に対して積極的に観劇の機会を与えるということが大切だと思います。その点から、一年のうちに一カ月くらいは低料金で若い世代に見せる。一年間のうちの一カ月というふうに、通してはできないとすれば、一カ月のうちの週一回ぐらいはこれに充てるというようなことが考えられていいと思うのです。また、若手俳優の育成のためにも、そうした公演の際には青年歌舞伎などをやらせてはどうか、こういうふうにも考えますが、いかがでしょうか。
  149. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 細部の点は別といたしまして、方角としては全く同感であります。それからなお、歌舞伎俳優の方々におかれましても、そういう措置には賛同される向きが多うございまして、通常公演にはいけなくても、そういう機会はくふうして設けるようにしたらどうかという御意見もあります。そういう点で具体的な計画が練られることと思います。
  150. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 次の資料のところに、「観劇会員組織を育成し、」とございますが、この観劇会員組織というのはどういう内容を言っておりますのでしょうか。
  151. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) これも新観客層開拓の一つの方法論を試案的に書いたものでございます。この種の組織としては、現在、種類が違いますが、他の分野でもあるわけであります。そういう前例なども参考としながら会員組織をつくりたいという意図を書いたまででありまして、具体的な計画は、こういう線でこれから練られることと思います。
  152. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 次に、入場料のことについてお尋ねいたしますが、聞くところによりますと、入場料は、一等席千八百円、二等席が千二百円、三等席が四百円となるようですけれども、この基準はどういうふうにして定めたものでしょうか。
  153. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 一口に申しますれば、民間の同種の演劇を上演している劇場よりは安くしたい。しかし、民間との関連もありまして、著しく安くすることは困るという意見もあり、それから、財政計画として国立劇場は必ずしも独立採算という考え方はとってないわけでありますけれども、やはり一応収入をはかって、足らないものを国が補助する、こういうたてまえで運営することになりまして、そういう考え方のにらみ合わせによりまして、予算の積算基礎として御指摘のような料金案を現在持っておるわけであります。
  154. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 この資料の中に、特に入場料のところには、「できる限り低料金として、」と、こういうふうに書いてあります。何といっても新らしい支持層を開拓するということは見せることに尽きると思うのです。その見せるためには、まず入場料を安くするということが一番大事だと思うのです。明治座などは一等席が千七百円、新橋演舞場は千四百円と、商業主義のためにやっている劇場でも国立劇場の一等席より安い、こういう点から見ても、ずいぶん高いじゃないか、こういうふうに感ずるわけですが、いかがですか。
  155. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 私ども準備に当たっておる者といたしましては、気持ちとしてはできるだけ安くしたい。現在、予算で考えております料金は、そういう意味では必ずしも安くないという感じを持っておりますが、先ほど来御説明しましたような事情で、現段階では一応このようにきまっております。確定的には国立劇場が料金規定を設けまして、それによって実施することになります。今後の課題としては、できるだけ国庫補助をふやして入場料は総体的に下げたいという気持ちは持っておりますが、そう飛躍的に変化をきたすということは遺憾ながら期待できませんので、できるだけ努力するということをお答え申し上げて、今後の課題として研究さしていただきたいと思います。
  156. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 私たち国立劇場ができた、それに対して期待しているものは、よいものを安く見せるところだと、こういうところに期待があると思うのです。そういう立場から見てもほんとうに高い。入場料は千円ぐらいではどうかしらと、こういうふうに思いますが、千円ぐらいなどと、こっちではっきり申し上げて、それをどう思いますかという話で、返事をなさるのにちょっと困られるかもしれませんけれども、同感だぐらいに思いませんですか。
  157. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 気持ちとしては全くそうしたいという気持ちを持っておりますが、種々折衝の結果、現段階では一応このようになっております。
  158. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 入場税についてお尋ねしますが、入場税が高過ぎるという声はいままでずっといわれてまいりましたが、演劇振興の立場から、文部省として入場税というものに対してどういうお考えを持っていらっしゃるか、大臣にお聞きしたいと思います。
  159. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 先ほども参考人の御意見で、附帯決議でございましたか、入場税をなくするというのに対して、全般の入場税をなくするように受け取っていらっしゃる方があったようであります。それほどに一般社会としては演劇映画等の入場税の撤廃を望んでおる社会情勢にあることはよく承知いたしておりますが、これはいろいろ国税、地方税等の税の体系、組織との関係もありますから、一般社会の希望するところではありますが、具体的に私どもどうこれを将来解決していったらいいか、具体案を今日持ちあわせておりません。将来の問題として、一般の入場税の問題は他の税一般の体系とあわせて研究をされるべきものであると、かように考えております。
  160. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 政府委員にお伺いいたしますけれども、国立劇場の全席の約七四%が一等席になっておりますが、伝統芸能を将来にわたって保存していくためには、安い料金で若い世代の観客層をつかまなければならないと、こういうふうにいっておりますが、この席を、二等、三等をふやすというようなことはお考えになっておりますでしょうか。
  161. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 国立劇場は構造の面では菅原参考人もお述べくださいましたように、まあわが国ではまだ試みたことのないような理想的な、理想に近いと申しますか、そういう構造で計画が進んでおりまして、席につきましても、どの席からでもまあ同じように鑑賞ができるということを担当の技術者は言っております。そういう関係で実は一等席が非常に多くなったわけでありますが、料金の問題とも関連いたしまして、席の区分などにつきましては、発足後においてあらためて検討する必要があろうかと、かように考えております。
  162. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 続いてお尋ねしますが、貸し劇場の場合に使用料は幾らになっておりますでしょうか。
  163. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) これは貸与のやり方によっていろいろな段階で料金を考えております。大別いたしますと、有料で公演する場合とそれから非公開で設備を使用する場合と、それから演劇以外の行事等に使う場合と三段階に分けまして、それぞれ全日、それから午前、午後と、こういう区分で料金案を考えております。有料で演劇を公開する場合、平日の午後というような例を大劇場においてとりますと、二十万円ということになります。それから同じように小劇場でございますと、平日の午後、平日の夜間有料で公開する場合十二万円というようなことになります。それから一番安いのは演劇以外の行事に使う場合でありますが、たとえば大劇場を平日午前中使うというような場合は、二万五千円というような料金になっております。それから、同じく小劇場演劇以外の行事に午前中使うというような場合は一万円というような料金になっております。それが一例でありますが、貸与のやり方によって、それぞれ現在市中の劇場型あるいはホール型の施設参考として料金の案をきめております。
  164. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 現代芸能の関係者の話によりますと、劇場を借りる場合の相場は大体五万円程度でなければ赤字公演になると、こう言っておりますが、ここで、国立劇場現代芸能公演をする場合に、入場税も取る、高い劇場料も払わなければならない。これでは現代芸能に対する振興はないと思うのです。国立劇場においては自主公演の場合には入場税を課さないというふうに聞いておりましたが、せめて入場税は課さないようにするというふうにはできないのでしょうか。
  165. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) なお、申し落としましたが、演劇活動、演劇公演は、単に一日じゃなくて、何日か連続して使用する場合が多いわけでありますが、十日以上使う場合には、ただいま申し上げた金額の七割にしたいと思っております。なお、さらにもう少しそのこまかい割引ができるかどうか、現在検討をいたしております。  それから入場税の問題でありますが、これは国立劇場設立するに際しまして、所管は、国税でありますので大蔵省になるわけでありますが、種々折衝の結果、原案のように、伝統芸能を自主公開する場合のみ入場税非課税の扱いになったわけでありまして、国立劇場で行なうのは貸与の場合も含めて入場税を非課税にしたいというのが私どもの強い希望でありましたけれども、折衝の結果、原案のようになった次第でありまして、現段階では直ちに修正することは困難でございます。
  166. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 養成の問題についてお聞きいたしますが、先ほど他の委員の方からいろいろ御質問がありましたので大体わかりましたが、ただ一つだけ、この人数を三十名というふうに計画されているようですけれども、三十名というのは、どういうわけで三十名というふうに出しているのでしょうか。
  167. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 養成の問題は、計画としては四十二年度以降に置いておりますので、実はあまりまだ具体的なものがないわけであります。試みの案として、義務教育終了の程度の者を三十名くらい、こういっておるわけでありますが、気持ちは、なかなかむずかしい問題であるから小規模のものから始めてみたいという気持ちで、数字にあらわせば、かりに、学校の一クラスではありませんが、三十人ぐらいということで、大した根拠はございません。これに対しましては、三十人ぐらいでは気勢が上がらないからもっとたくさんやれという御意見もありますし、それから、たくさんの者を集めて密度の薄い訓練をするよりは、少数で、適性をよく調べて少数精鋭主義でやったほうがよいという、両極端の御意見いろいろあるわけでありまして、今後さらによく練りたいと思っております。
  168. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 選び方については一般から選ぶようなふうに受け取りましたが、どんなふうにして選びますのでしょうか。
  169. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 養成の問題は万事がまだ未確定でありまして、選考の方法もその例を出ません。気持ちといたしましては、これは一般から公募する。何もその俳優の子弟だけを預かるというようなことではないというような気持ちを持っております。蛇足でありますが、養成の形式にしても、毎日こさせるのがいいか、いわゆる定時制的なものがいいのか、昼間やるのがいいのか、夜やるのがいいのか、いろいろむずかしい問題がありまして、まだ確実な計画というにはほど遠い状態でございます。
  170. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 国庫補助についてお聞きしておきたいところがございます。資料によりますと、入場料の収入予算が三億六百三十一万二千円と計算してございますが、これは毎日満員の入場の計算なんでしょうか。
  171. 村山松雄

    政府委員(村山松雄君) 入場料の算定方式といたしましては、入場の見込み数は、ちょっと正確な率は忘れましたが、たしか八五%ぐらいの入場率を見込んでおるはずであります。
  172. 柏原ヤス

    ○柏原ヤス君 最後に、この法案についていろいろお聞きしまして、今後この国立劇場がりっぱに運営されて、伝統芸能保存も、またさらに現代芸能も、この国立劇場ができたことによってさらに発展していくようにしていかなければならないと思いますが、今後の問題としては、運営ということによってすべてがきまるように思います。結局は人の問題だ、幹部のスタッフによって理想的にもいくし、大ぜいの人たちが心配しているようなことにとどまってしまうようにもなると思いますが、この幹部のスタッフに対しては、理想を持って進んでいこうとする人、建設的な人、こういう意欲的な人を選ぶべきだと思います。それには民間から、また芸能関係からも入れるべきであると痛切に感ずるわけでございますが、大臣はいかがでしょうか。
  173. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) ただいま御指摘のような専門家は、この評議員にはそういう方々に極力入っていただきたいと思うのでありますが、なかなか、たとえば芸能としますと、その間にはまあ派閥というものもないでしょうが、あれが入ったんではどうとかというようなこともあり得るかと思います。したがいまして、私どもの考え方としましては、学識経験のあるそういう専門家は、一つの協議体に集結をしていただいて、運営をする担当者としましては、その意見を十分にそしゃくして、運営のできるような能力のある人を選任をいたしたい、こういうように目下のところ考えておる次第でございますが、法案が成立しました暁に、日時をそう急がずに、十分にそういう点を検討いたしまして、遺憾のないようにつとめてまいりたいと思います。
  174. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 他に御発言がなければ、本法案に対する本日の質疑はこの程度にいたします。     —————————————
  175. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 教育文化及び学術に関する調査中、私立大学に関する件を議願といたします。  質疑のある方は順次御発言を願います。  なお、政府側より中村文部大臣、中野文部政務次官、天城管理局長が出席いたしております。
  176. 鈴木力

    ○鈴木力君 私立大学のあり方についての文部省の監督、指導の限界等について、あるいはその任務について主として伺いたいと思います。  私立大学については、これは国立大学と違って非常にむずかしい点があると承知しております。そしてまた私どもの考えとしても、主務官庁といいますか、監督官庁といいますか、文部省がみだりに大学の運営なり経営なりに容喙するということについては、これは私どもするべきではないという考え方を持っております。しかし、やはりそうは言っても、私立大学といえども教育における治外法権ではないはずでありますから、どういう教育をやっており、どういう行動をやっておっても、野放しでいいということにもならないと思うのです。その辺に対する文部省の基本的な態度をまず承りたいと思います。
  177. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 御質問の点はたいへんむずかしい問題だと思っております。率直に言って、文部省の仕事の中で私立学校に対します態度というものは、基本的にはいま御指摘のようなことを早急にやりたいと考えておるわけでございまして、御存じのとおり、学校といたしましては、国、公、私立を問わず、学校教育法の基準ないし規制を受ける学校としてあるわけでございますけれども、特に私立学校につきましては私立学校法が制定されておりまして、ここの第一条にも、私学の特殊性ということについて、自主性を尊重し、公共性を高めるというために幾つかの特殊な規定が私立学校法に規定されておるわけでございます。したがいまして、われわれは、学校としては同じ性格の学校であると同時に、設置者として学校法人によって運営されているこの私立学校の特殊性というものを中心考えまして、与えられた職務を果たしていこう、こう考えておるわけでございます。ただ、基本的には、御指摘のように私学というものは自主的に十分その特色を発揮して教育が行なわれるようにということで、法律にありますもろもろの規定につきましても、私立学校がこれらの根拠に基づいてみずから努力してやっていただくということを大前提にいたしながら仕事をいたしておるような次第でございます。
  178. 鈴木力

    ○鈴木力君 その話はわかるのでありますが、時間もだいぶたっているし、時間の節約もかねて、あまり回りくどく伺っているつもりはありませんが、ただ、やはりいまの原則に立っても、私立学校といえども自主性なり主体性なり尊重すると言いながらも、しかし、それにはやっぱり限度があると思うのですね。そこで、そのある一定の限度を越えた場合には、やはり文部省としても何とかしなければいかぬじゃないか。たとえば私立学校法の第六条ですか、第六条にも、「所轄庁は、私立学校に対して、教育調査、統計その他に関し必要な報告書の提出を求めることができる。」、一つはそれが権利がありますね。と同時に、第五条の第一項第二号に、「私立学校が、法令の規定に違反したとき、法令の規定に基づく所轄庁の命令に違反したとき、又は六月以上授業を行わなかったとき、その閉鎖を命ずること。」ができる、こうあるわけなんです。そういたしますと、「法令の規定に違反したとき、」、あるいは「法令の規定に基く所轄庁の命令に違反したとき、」——命令のほうはまだ命令を出した例がないと思うから、現在のこの法令に違反したときというこの解釈をどの程度まで考えていらっしゃるのか、この法律の趣旨。どう聞けばいいのか、その辺妥当な考え方をまずお答えいただきたいと思います。
  179. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 御指摘の私立学校法第五条第一項第二号の点でございますが、いわば閉鎖命令の根拠でございます。要するに、私立学校を閉鎖してしまうということでございますので、法令の規定に違反、あるいは命令違反、六カ月以上授業を行なわないという根拠に対しまして、いわば学校に対する死刑の宣告のような非常に重い規定でございますので、私たちといたしましては、この規定に基づく権限発動というのはきわめて慎重にしなければならぬ問題だと思っております。したがいまして、まあ六条にもございますように、私立学校がどういう形で法令の規定に違反をしているかというようなことにつきましては、十分調査をした上でなければ、なかなか一がいに申しかねますので、現在第六条の調査権というものが——調査権と申しますか、調査報告を求めることができるということでございますので、個々の事例に即して十分調査をした上で措置を考えていくという態度をとっております。
  180. 鈴木力

    ○鈴木力君 私の聞いている意図を誤解してもらっちゃ困るのですが。というのは、あとで当然申し上げていくのだけれども、いま問題になっている国士館大学の問題を、具体的にお伺いする前に伺っておるわけですが、ただその前に伺っておるということが、何か文部省に指導なり監督なりを厳格にすべきだというふうに受け取ってもらうと、これは私の聞こうとするものとは反対でありまして、できるだけ、これは文部省は干渉はもちろんすべきじゃないし、それからみだりに指導もするべきじゃない。だから、そういう点から言いますと、私はむしろこの法律を越えた場合はやむを得ないけれども、越えない場合にはあまり口出しをすべきじゃないというような気持ちから、そういう限界があるのかということを聞いているわけなんですが、まあいまの説明ですと、限界がまだそこのところはっきりしていない、個々の事例に即してと、こうおっしゃる。ただ、基本的には個々の事例に即してということが、やはりいろいろな時の流れで解釈が違ってくるとぐあいが悪いと思って聞いたものですから、いまのような質問を先にしたわけでありますが、この点はいま申し上げたように、無理に調査権をやたらに発動してくれというのでなしに、反対のことを言っているわけですから、それはその点だけにしてとどめておきます。  そこで、直接、国士館大学の問題について伺いたいのですけれども、この問題については、実は衆議院でもずっと質問をしておることであり、文部省のほうでもその要請に基づいて調査もされていることでありますから、大体の中身は御存じのはずであります。したがって、その問題に同じことを蒸し返して触れようとは思いません。ただ、最近の国士館大学のあり方が、いろんな形で派生をしているというふうにも言われているのです。たとえば最近起こった事例ですと、これは学校が直接指導してという証拠はないのでありますから、直ちにそうだとは結びつけかねますけれども、両国の駅あたりで国士館大学の学生と、それから国士館の高校の生徒と朝鮮人学校の生徒に対しての暴力事件というものがある。これも警察ざたになっておるわけでありますが、具体的なこの問題についての処理については、いま警察も調査中ということでありますけれども、こういう問題は実はいま発生したことじゃなしに、前にも起こっておるわけですね。新宿事件というのもあります。そういう外国人学校の生徒に対しての暴力事件というのは、きまって国士館の学生なり生徒がやる。こういうようなことになってきますと、どうも根はやはり国士館の教育にもいろいろ問題があるのじゃないか、こういう見方がずいぶんされておるわけです。そういうような問題が表面化してきますと、これはやはり私は単なる教育の問題ということじゃなしに、別の問題に発展する可能性もあるような気もいたしますので、したがって、そういう面からも国士館の教育というものに対して、やはり見てもらいたいという気がするんであります。それで、私が聞こうとする意図は、衆議院でも問題にしており、調査もしておる。だがしかし、そうおもてにあらわれる現象がどうもなくならない。これではやはり何らかの手を打たなければならないのじゃないか、こういうことなんであります。そこで、具体的に、簡単に伺いますけれども、まず文部大臣に伺いたいのでありますが、国士館はともかくとして、現在の私立大学教育について、あるいは内容なり方法なりについて何か特別に文部省としてチェックしなければならないというようなものがございますか。まあ私はないということを期待しての質問なんですけれども、それをまずひとつ伺いたいと思います。
  181. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) いろいろ学校にはそれぞれの行き方があると思うのでありますが、大体、学校教育法及び私立学校法等、学校というものは良識に従って教育機関として運営されるものと、こういうふうな前提に立って制度が組まれておりますので、私どももできるだけ正常ないい姿で学校は運営されていただき、また、教育日本現代の時勢に沿うた教育が施されることを期待しておるわけでありますが、いま国士館以外に、何かさしあたり学校の教育内容で是正を期待するようなものがあるか、こういう趣旨のように伺いましたが、目下私どもは実はまだ不敏にしてそういう点、気がついておらないわけであります。
  182. 鈴木力

    ○鈴木力君 もう一つ先に伺ったほうがいいのですが、これは局長に伺ったほうがいいと思うのですが、衆議院の質問、あるいはその要請で調査をなさっているはずでありますが、そのうちの一つに、いまの国士館大学の学長の言動なり、学生に対するものの言い方なり、そういうことについては大体文部省としてはどういうふうに把握なさっていらっしゃいますか。これは局長に伺ったほうがいいと思うのですが。
  183. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 率直に言って、どういうふうにお答えしていいのか私も迷うのでございますけれども、柴田学長の何と申しますか、いままでの国士館をずっと経営してき、また教育をやってこられた長い経歴あるいは実績の中で、素直に言っていろいろな評価のある方だということは私も伺っておりますし、直接お目にかかっていろいろお話したこともないのでわかりませんけれども、まあそういうふうに伺っておるわけであります。ただ、長い教育の経験の中で、国士館は特に塾的な教育をするという考え方を持っておられますために、また本人の性格もあるのじゃないかと思いますけれども、かなり学生に対しましてきびしいしつけをされておるように聞いておりますし、また、そのことがいろいろな何と申しますか、事件のもとにるようなに言われているケースもあるようでございますけれども、基本的にはきわめて教育に熱心な方だ、しかも、それが主として塾的な立場で教育をしたいというような考え方でやっておられる方だ、こういうふうにわれわれも伺っておるわけであります。具体的の個人の評価ということは私たちもなかなかしにくい問題でございますし、まあわからないこともたくさんございますので、私、率直に感じておることだけを申し上げたわけであります。
  184. 鈴木力

    ○鈴木力君 どうも聞き方がへたなんで、具体的に伺います。たとえば、この国士館大学の「新入学生諸君に告ぐ」という学長の文章がありますね。これは国士館大学新聞でありますから正確なはずです。いま大臣は、その他の大学で何かそれほどチェックすべきものは聞いてもいない。私もその大臣のお考えに賛成なんでありますが、そういう問題があろうと、少しぐらいの問題は学内で解決すべき問題でありますから、そのお答えに私も敬意を表するわけなんですが、ところが、まずこの柴田学長の学生に対する訓示の中にこういう文句がある。これは、少しおそくなったからおもしろいから聞いていただいたほうがいいぐらいなことじゃないと思うのですが、国士館大学がずっとこうりっぱだということを言ったあとに、「これに反して、他の大学は、二十年前敵軍が占領時代に日本の善い教育制度を全部打ちこわして、学長はロボット、飾り者にして学生に親しく訓話をすることを禁止し、教授は専門学科だけの講義に止め、学生を指導、監督する学生課を廃止させて、学生は名称だけ自治会という実質は自殺会を作らせ、それをソ連が支配する日本共産党に牛耳らせたから、名前は大学であるが実質は教育のない、学問のない気違い病院と化した。そのはっきりした標本が早稲田大学である。」というふうな形で、ずっとこう大学を評価をしておるのであります。新入学生の入学式の訓示に、大体こういう角度で学生に指導するというこの行き方が、ほんとうにそれでいいのかどうか、まずこれからひとつ伺いたいと思います。  ついでだから、この学長の言行についてもう少し申し上げますと、「私は新入生を入学させた時に、親の大事な宝を預かった、定期貯金を預かったように、四年後には元金にうんと利息をつけて立派に元利合計耳を揃えて親に返還せねばならぬと心に誓っている。」、この辺はまあ教育が利息でしょうからりっぱだと思う。ところがそれに続いて、「殊に新入生は親の宝であると同時に日本国の宝である。天皇陛下からお預かりした大事な祖国の柱石と考えている。一人残らず世界相手に日本国を守り抜く真の国士に仕上げたいと祈っている。」、これも学長の訓示の中にあることばなのであります。大体もうこの辺にきますと、いまの憲法で、学校が憲法と教育基本法で学校教育が行なわれているのに、こういう思想で新入生に訓示をするということなると、これはちょっと行き過ぎるというのが、憲法の精神から言っても逸脱するのじゃないかという感じがするのですけれども、いま読んだことだけではおわかりにならないかもしれませんが、こういう調子で行かれるとすれば、学長として一体ふさわしいとお考えになられますのか、それでは少し困るとお考えになりますのか、ちょっと伺いたいのであります。
  185. 天城勲

    政府委員(天城勲君) たいへん率直に、たいへんむずかしい問題を、私、御質問受けたんで、私この場でいま伺ったことについて御答弁する能力もないと思います。それから、おそらくいろいろな前後の文章もあるのじゃないかと思いますので、いまその点を中心にして私の批判を、意見を述べろと申しましても、立場上非常にむずかしいことを御了解していただきたいと思います。
  186. 鈴木力

    ○鈴木力君 それではもう一つだけ先に伺います。同じ学長の生徒に対する訓示の中にこういうことばがあるのです。「今の憲法は、憲法ではない。″犬″法である。」、憲法の憲という字を犬という字を書いてある。「今の憲法は、憲法ではない。″犬″法である。」「また、第九条がわるい。戦争放棄といって、他から戦争しかけられても戦争してはいかんという。これは自分の国が亡んでも護らないということ。自衛もせずに他人まかせというばかなことがありますか。そんな国は国ではない。それを軍備はいかん、平和だと議論を呼んでいる。こういうことは国民の承服できないことなのに、主権在民で、その主権者である国の総意でこの憲法を定めたというが、国民はそんな考えを持っていない。まったくの詐欺文書である。」、これも学長の訓示のことばであります。国士館大学の新聞に出ております。憲法が詐欺文書であるという教え方を学長がすることに局長は批判をする資格がないのですか。
  187. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 大学の教育のあり方というものにつきまして、現在それぞれの学風があったり、あるいは教授の方々がいろいろな学説を持ったり、あるいは思想を持ったりしておやりになっておることは一般でございます。また、特に学生が大学生であるという前提を考えますと、学生側にもいろいろ批判力があるわけでございまして、そういうところに思想や見解の自由が大学において強く保障されていることであろうと私は了解いたしております。いま柴田学長の意見の一端につきまして言われたことに対する私の批判も、私の意見ということも、そういう前提の中で考えていくべきことじゃないかと基本的には思っておりまして、これもたいへん立場上、そういう御意見に対していますぐ意見を述べろということに対して、私も申し上げにくい立場にあることを御了承いただきたいと思います。
  188. 鈴木力

    ○鈴木力君 私が申し上げるのは、大学の学問の研究の中で、今日の憲法をいろいろ分析をして批判をしていく立場と、それから今日の憲法がいいという立場と、そういう学問の研究という立場でのいろいろな批判なり分析なりということを、それをいけないという考え方は毛頭持っていないわけです。たとえば第九条がけしからぬということも、学問として分析をしていって、法律なら法律の研究の中での指導ということならあり得ると思うのですね。したがって、教授がいろいろ学説を持っておるわけでありますから、そういう学説の中で進めていくということはいい。だけれども、学長が学生を一堂に集めた訓示の中に、憲法は犬法である、詐欺文書である、こういうことばできめつけられるということになりますと、憲法を守るというと、守らないという人もあるから、これはどうもぐあいが悪いのでありますけれども、少なくとも今日の憲法に従っての学校なり社会秩序なりというものが、こういう形で進められるということから非常に危険を感ずるわけなんです。そういう意味で伺っているわけなんです。非常に局長さんも慎重で御批判をなさらない、そのお気持ちもわかるのだけれども、こういう基本的なものの言い方がずっと貫いているわけです。私はきょう新聞二枚しか持ってきませんから、これ以外の例はないわけですが、しかし、これをよく読むと、とてもおもしろいというか、ひどいというか、そういうものが貫いているわけです。それが国士館大学の一つの学風になっているような気もいたします。そういう点で大学のあり方というようなことについても、あるいは学長なら学長のあり方というような点についても、やはり一つの論議の対象になるのじゃないか、こういう意味で申し上げたわけでありますが その点はしかし学問の自由という問題とのかかわりになりますから、あまり軽率に、どこからどこまでいっちゃいかぬということもありませんけれども、そういうことはいけないこともありますから、しかし、傾向としてこういうことが日常に言われておるということは、これはどうも私はいかぬと思うのであります。  その次に、もう一つ伺いたいのは、この教育の中に、教育の方法に、さっき局長からも、どうも事件のもとになりそうな節もあるというようなことを申されたのでありますけれども、このしつけの教育の方法について、これもまあ世間からいろいろと批判を受けておることのようであります。そのうちの一つに大学の教授の殴打事件という暴力事件というのがあったはずであります。これも文部省ではお調べになっておると思います。私はこの暴力事件というものを、学長が教授をステッキをもってなぐる、こういうようなことが行なわれるということと、それからさっきの学長の学生に対する訓示と、それから聞きますと、この学校の中における学生に対するそういう処罰の方法ということも日常行なわれているという話にもなっておるわけです。それがあとで告訴ざたになったりいろんな事件を起こしているわけなんであります。具体的な問題を、どっちが正しくてどっちが悪いというようなことまでは、これまた文部省の限界もありましょうから、そういうことをお伺いしないまでも、白昼堂々と暴力事件が行なわれておる、こういうことに対しても文部省は調査をなさったのか、あるいはこういうことに対しての何らかのサゼッションなり注意なりというのを与えておったのか、その辺の関係についても伺いたいと思います。
  189. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 個々のケースの問題は別といたしまして、たとえば、いま御指摘の学長が教授を殴打したという事件、これにつきましては告訴問題にもなりまして、検察庁の審査も進められて、これは現在のところ結論が出ておるわけでございます。一般に学校のそれぞれのしつけの方法がございますけれども、やはり体罰ということが学校教育法でも禁止されておりますし、学校にいろいろ調査の関係で連絡をとっているときにも、やはりこういう法律上明らかに体罰を禁止しているという規定があるのだから、そういう点については十分気をつけてくれということは私たち申しております。
  190. 鈴木力

    ○鈴木力君 そこでもう一つ、暴力ざた事件について伺いたいのは、何か衆議院で局長の答弁ですかに、大学のほうに調べてみたら暴力事件、暴力をふるったという事実はないという答弁があったように聞いておるのですけれども、やはりその暴力が、学長が暴力をふるったという事実を学長は認めているのですか。
  191. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 私たち衆議院の審議の過程でその問題出まして、学校に調査をするようにということで学校に聞きましたのですけれども、そのときには学校側としては、そういう事実がないという報告が当時あったわけです。そのことを御報告した記憶がございます。
  192. 鈴木力

    ○鈴木力君 それで、それと関係するんですが、実はこれは検察庁が調べたわけでありますから、これは管理局長の範囲だと思いますが、検察庁のほうの起訴猶予にした理由の中に、暴行の事実は認める、しかし年齢、地位等を考慮して起訴猶予にした、これも明らかになっているわけですね。そうすると、暴力行為をやったという事実があったわけです。文部省の問い合わせに対する公の答えには暴力行為はなかった。口論はしたけれども暴力行為はなかったという答えを出しておるわけです。私はこれに類することがまだまだだいぶあるようですけれども、きょうはあまりそっちもこっちも同じようなことは申し上げませんが、まとめてみますと、少なくとも文部省という役所からこのことに対しての問い合わせがあった場合には、適当に答えているということに対しては、これは文部省は干渉すべきじゃないという事柄には入らないと思うんです。これに対してはどうお感じになりますか。
  193. 天城勲

    政府委員(天城勲君) ちょっと私も勘違いいたしておったかもしれませんが、いま告訴事件になっている佐藤教授への殴打問題、これにつきましては、当時、学校からは正式に返事がなかったわけでございます。というのは、すでに告訴になっておりましたいきさつもあるんだろうと思いますし、それぞれの意見が食い違ったような立場で進んでおったために、学校からも、この問題については検察側に回っているということもあって、この問題につきまして、私、返事がなかったということを申し上げたんで、先ほどの学生の殴打事件に関しては、学長が学生をまあ殴ったという幾つかの事例のお話があって、学校に聞きましたところが、学校側としては、学長がいつ幾日学生を殴ったということについては、そういうことはないんだという御返事をいただいたわけです。
  194. 鈴木力

    ○鈴木力君 これは去年のことになりますが、四十年の四月七日と四月二十三日の、これは天城さんがまだ局長になる前のお話だと思うんですが、やっぱり衆議院の答弁では、文部省で問い合わせた結果、口論したという事実はあるけれども、暴力という事実はなかった。こういう答えを出しているんですね。で、そのほか時間がないのであまり具体的な問題言いませんけれども、たとえば大学申請のときの、設置認可申請のときの書類の中にも、何ですか、校舎として申請をしておって寮として使っておったというようなこともある、こういう形での何か虚偽の申請あるいは虚偽の報告、こういうことも都合によっては日常に行なわれておる。こういうことは、これはもう文部省としてははっきりとした態度を取れると思いますから、もしはっきりしていないとすれば、やはりこの点についてはもう一ぺん調査してもらいたいと思うんです。
  195. 天城勲

    政府委員(天城勲君) あるいはこれは関連でおっしゃったのかもしれませんが、認可申請のときの施設の利用状況その他につきましては、私たち文部省といたしましては、当時も慎重に審査をいたしましたし、実地調査もいたしたわけでございますが、まあ学校が寮に使われているとか、あるいは建物が虚偽の申請であったとかいうことも衆議院の御質問の中にも出たと思いますが、これらにつきましては当時も慎重に審査したわけでございますが、その後の事情につきましても調べ直しておりまして、これは虚偽の申請ということでなくして、当時の認可に必要な必要坪数の建物は具備されておりますし、それから経過的に建物の改築と申しますか、増築の関係で寮をこわさなければならぬという経過的なために、当時、学校の施設として申請した建物の一部に、しかも余裕のある建て方をしたために一部を寮に使っていたとかいうような事情も明らかになっておりまして、これを一がいに虚偽の申請とは私たち今日も考えておりませんです。
  196. 小林武

    ○小林武君 関連して。文部大臣にお尋ねいたしますが、私立学校法によって国士館大学はこれは公教育であることは間違いないでしょうね。
  197. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 私立学校法に基づく学校であると思っております。
  198. 小林武

    ○小林武君 これはそうすると、教育基本法の中には前文に、「憲法の精神に則り、」ということがあるわけです。そうすると、憲法を犬の法の犬法ですね、そうして詐欺文書、こういうふうに言うことは教育基本法違反でありませんか。これはあんまり皆さんを困らせる質問ではないでしょう。
  199. 中村梅吉

    ○国務大臣(中村梅吉君) 教育基本法の前文には、いまあなたの御指摘のとおり、「日本国憲法の精神に則り、教育目的を明示して、新しい日本教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」、これは法律制定の精神であると思います。そこで、こういう教育基本法あるいは学校教育法、私立学校法等の適用のもとに存在する学校でありますから、やはりこの法律の精神に従って各私立学校においても行なわれることをわれわれは期待しておるわけであります。そこで、先ほど鈴木さんが御指摘になってお読みになりましたのを私も聞きまして、どうも私の常識からいえばかなり行き過ぎた言辞のように思います。鈴木さんのおっしゃるとおり、学問研究の自由の範囲とどうも場所が違うのじゃないか、こういう気がするのでありますが、まあそういう御指摘を伺えば、われわれとしては何か措置を講じなければならないような心理的な責任も感じますが、日本の学校制度が、大体御承知のような制度になっておりますので、私どもが直接その学校の教育方針なり指導方針というものに対して指示のできない現状にありますので、これができないことが不便な点もありますが、また、全体としてはいい場合もあるんじゃないかと思いますから、まあそこらの特質を考えつつ、われわれは現行の制度を運用してまいるほかいたし方ないと、かように思っております。
  200. 小林武

    ○小林武君 たいへん大臣は答弁がじょうずで、そらさられるが、そういうことを言っているんじゃないんですよ。私の聞いているのは、私立学校法によって私立大学はりっぱな公教育だから、やはり政府の手当をしなければならぬということをいつも言っている、公教育であると。私立大学というのは、私が申し上げるまでもなく、大学教育の少なくとも三分の二くらいを占める大きな影響力がある学校制度です。その中の一つである。だから、当然公教育として日本の国で私立学校法によってやったら、これは教育基本法を守らなければならない。これは教育基本法というのは憲法の精神にのっとってやることである。しかも、憲法にのっとってしっかりやって、日本の国を創造するのは結局教育に持つべきであるということを言っている。そういう精神にこれは違反しているということになりませんか。それからもう一つ、これはどうですか、天城さんにちょっと私は言いにくいことを聞くのですが、法律的なあれを聞くというと、毎日毎日この要領でやっていると思うのです。先ほど聞いていると、一年生を入れたならば出るときには利子をつけてやる、その利子をつけてやる徹底的な教育というのは何か、憲法は犬法で詐欺文書だ、これを継続的、計画的にやる、これは憲法を破壊することではないか。これは破防法とのかかわり合いにおいてどういうことになりますか。これはひとつ、あなただれのことを遠慮するのでもない憲法を計画的、継続的に四年間も、この憲法はけしからぬ、犬の法みたいなものだ、大体犬と言われたら最大の侮蔑だ、憲法を犬の法だと、こう言う、これは詐欺文書だと、こう言って四年間計画的、継続的にやるということは、憲法破壊のうちできわめて——普通の個人が何かわめき立てるというのとは違った意味があります。これはどうですか、破防法のあれになりませんか。
  201. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 私、破防法に該当するかという御質問でございますけれども、破防法の内容につきましてはいま正確に存じておりませんので、直ちにそのことから破防法にどういうふうに結びつくのか正確にお答えしかねる次第です。
  202. 小林武

    ○小林武君 いま破防法について、そこに六法を持っておらないでしょうが、しかし、あなたが破防法をご存じないというようなことは私は申さないだろうと思うのです。破防法がどういうものであるか、一体、破防法とのかかわり合いにおいて、いまのようなもし計画的、継続的、組織的にやられたということになったらどういうことになるか、これは検討の余地があると思うのです。私は学校の中で教育とか、学問とかいうものの自由は尊重すべきだという立場にある。しかし、公然とそういうことをやるということになった場合はどうなるか、これは破防法というのは特別の何か人たちだけに適用する法律ではない、この法律がいいか悪いかということについては、われわれの態度はすでに御存じのとおり、法律をつくっているものなら、そういうあれに対して一体どういう態度をとるかということが大事である、政府の態度として。破防法の適用団体というような疑いの目をもって見られている団体なんというのもあるのです。あなたたちも聞いたことだと思うのです。これはいま返事できなかったら、天城さんはそういうことは慎重な方だから、私もいまここにしゃにむに聞いて言え、言えというようなことは申しません。ここにあるから言え、いますぐここで言えということは申しませんが、これは検討してみていただきたい。この二つの点、もちろん教育基本法違反ということになると、これは簡単な問題ではない。破防法とのかかわりあいにおいてどういうふうになるか。これは学長の権威というようなことについて、この新聞にも書いておりますけれども、学長が学内においてどういう一を占めるかということも、私は新聞を読んだのを聞いただけですからわかりませんが、この次のときにはひとつお聞かせいただきたい。きょうは、あなたお調べになってくるのを待ちますから。
  203. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 破防法の問題につきましては、法律の解釈あるいは運用上のいろいろな問題点があろうかと思っておりますが、何といってもきわめて特殊な法律でございますし、所管庁の公安調査庁もございますから、公安調査庁の意見も聞いてみなければならぬと考えておりますし、宿題にしていただきたいと思います。
  204. 小林武

    ○小林武君 聞いてみてください。  それからもうちょっと文部省大臣にあれしますが、このときはいつでしたか、日韓のときでしたか、総理大臣にもお尋ねしたのですが、朝鮮人に傷をつけるとか、私は一々事実を見ているわけでもありませんから、こういったことがあってこうなったということを、ここでそれをどうしたということを確実に申し上げることはできませんが、この訴えはものすごいものです。ごく最近もまた起こったというのです。かれらはやはりいろいろの過去のあれからいって、いろいろ傷つきやすい心境にある。それ以外にも非常に残念だということを言っておったのは、日本人としてすでに帰化しておって、朝鮮人であるけれども日本人になっているわけだけれども、就職先で、かれらは元来は朝鮮の人間だということがわかって就職先がだめになって、自殺行為までしたということ、こういうのはどうだろうかという訴えも聞いた。そういうことも非常に問題ですけれども、何かもう計画的に暴力をふるって、こういうようなことをする、これは非常に問題だと思います。これはこの間、ある大学で自民党、社会党とか、四党で私立学校の問題で討論会をやったときに、学生の一人が暴力に脅かされ云々という質問をやって、とにかく具体的に何のことかよくわからないし、私がこう言っても、なお危険が身に迫っているということを言い出して、自民党からは衆議院の八木さんが行っていた、われわれもちょっと返答に困って、ぼくは国士館のことではないかと思ったが、国士館ではないですかね、その大学は。そういうような種類のことについては、やがて質問することにもなっておりますからということで、いいかげんなことを言って帰って来たのですが、私はやはりそういう問題についてはちょっと気を配ってもらいたいと思いますね。危険でとにかく命があぶなくてどうにもならないというようなことは、これはだれでもたいへんなことだと私はよくわかるのですが、そういうときに人間の神経はなかなか容易じゃないということは、これは平気なような顔をしているけれども、なかなか神経がすり減るものです。これはもしそういうことであれば重大なことだと思います。いつやられるかわからぬというようなことを両校の生徒あたりが思っているということは、かわいそうだと思うのです。それが同じ大学のやつによけいやられるということになると、これはちょっとたいへんですね。そういう点もひとつもっと真剣にお調べをいただきたいという気がするわけです。関連終わりです。
  205. 鈴木力

    ○鈴木力君 いまの小林委員から話がありました憲法違反の問題ですね、事例、——事例というか、どうも時間を急げと言われるので、あまり事例という話になってくるとぐあいが悪いと思うのですが、いろいろな問題があるわけです。たとえば、ここに写真も持っていますけれども、ある学生が掃除をサボった、掃除をサボったために処罰される、処罰をされますと、それが写真入りで校内に何か張って、そして左記の者をこういう理由により何々の処分をしたという広告をする、これは人権問題として人権擁護委員会で取り上げているということですけれども、そういうような問題やら、あるいは学内での教授の親睦会さえ学長が認めないでみなつぶしてしまう。親睦会に参加した者は何らかの形で処分を受ける、こういうこともいま行なわれているといわれている。これもやかましくいえば、憲法の二十一条ですか、集会の自由とか、あるいは結社の自由とか、いろいろそういう自由を学内ですでに侵しておる、こういう問題もあって、だいぶこの学内でも問題が沸騰している状態でありますが、いずれにしても憲法を軽視する、あるいは憲法を無視するという基本的な態度がいろいろな形で派生していると思いますから、ちょうど小林さんから言われましたように、この問題についてはやはり相当きつく検討を願いたいと思う。  少し急ぎますけれども、もう一つ、政治活動の問題があると思う。これも教育基本法の八条ですかに、これは特定の政党を支持したり、反対したり、あるいは特定の候補者をどうこうするという、そういう教育をやっちゃいけない、こういうことにたぶんなっているはずですが、ところが、この国士館大学で、御存じと思いますからあまり説明は長くはいたしませんけれども、選挙権銀行倶楽部というのがあるのですね、これ、局長は御存じでしょう。この選挙権銀行倶楽部というのは、これは読んでみますと、文章では、学内の希望者を募るというかっこうでありますから、その限りにおいては学生が自由意思によって同士を相募ってやる、その行動については文句はない。ところが、実際はこの選挙権銀行倶楽部というのが、学長の訓示にあって、お前たちはこれに入れということが、あらゆる機会に学長から直接学生に訓示がされておるらしいのです。これはやはり一つ教育だ、それで、その選挙権銀行倶楽部というものの趣旨については、このシステムについてはもう御存じだと思いますが、大体にしていえば、いまの憲法をひっくり返して、神武天皇の何々に戻ってという、それから始まっていく、こういう政党——政党といいますか、こういう政治団体をつくっていくことによって、そして自分たちの主張する議員を出していこう、こういうことが趣意書にきちっと書いてあります。会費は二百円、そして大学で発行している会計書類の中に、選挙権銀行倶楽部の会費ということが入っておる、領収書にはそれまで入れてあります。ここまでくるとやはり私は政治教育が過ぎると思う。あるいは特定の政治活動を教育の中でやっているというふうに見なければならないと思う。こういう事実がありますと、これもやはり教育基本法の第八条違反ということが明らかじゃないか、こう思いますけれども、これに対する見解はどうなんですか。
  206. 天城勲

    政府委員(天城勲君) いわゆる選銀倶楽部の問題につきましては、教育基本法のたてまえもございますし、当時——当時と申しますか、昨年だったと思いますが、学内に選銀倶楽部の本部を設置しているということから、国会でも取り上げられたケースでございまして、私たちとして基本法のたてまえもございますので、これは大学にその事情をきわめまして、選銀倶楽部の本部が学内にあるというようなことは、政教分離のたてまえからいっていけないからということも話しまして、学校はその後、選銀倶楽部というものを学外にこれは本部を移したわけでございます。また、学生にこれを強制して、選銀倶楽部に全員強制加入しているということも、やはり特定の政党支持ということになるということで、これについても大学側に事情をただしておきましたところが、これは強制してないのだ、現に学生の中で選銀倶楽部に入ってない者もある。この前の報告では約二〇%くらいは入っていないのだ、自由意思でやらしているのだということを言っておりまして、たとえば政教——政治と教育との混淆を来たさないということは大学側にもその趣旨は伝えてあるわけでございます。一応、大学側もその趣旨を了解して、先ほど申しましたような選銀倶楽部の東京支部でしたか、ちょっといま忘れましたが、本部というものはそれを学外に出すような措置は済んだわけでございます。
  207. 鈴木力

    ○鈴木力君 あの本部がどこにあるかということは、本部がよそに移ればいいということじゃないと思うのです。学長なり学校の教育機関を通じて、学生にこの政治団体に入るべきだということを半ば強制するということが、これが私は重大だと思うのですね。それで、いま局長は二〇%入っていないから学生の自由意思だ、こうおっしゃるわけです。二〇%入っていなければ自由意思だという判断もちょっとぼくはおかしいと思いますが、こういうのがあるのですね、国士館大学に張られておる掲示の中に、「受験許可証之件、一、授業料後期分二五、五〇〇円、二、政経学会費他八五〇円、三、暖房費五〇〇円、四、就職資料費二〇〇円、五、「革命は如何にして起こるか」五〇〇円」、これは学長の著書です。それから「六、「日本はこうすれば立直る」五〇〇円」、これも学長の著書です。そうして最後に、「七、選銀会費(二年度分)二〇〇円、合計二八、二五〇円(二月二十日完了のこと)以上を完納し、出席日数三分ノ二以上の者に二月七日より受験許可証を渡す、本証の無い学生は後期の受験はできない、」、こういう掲示をしておるわけですね。そうすると、二割の学生は入らない、二割の学生は後期の試験も受けない、それも学生の自由意思でありますから強制しているのではございません。こういう言い方が学校教育の中で成り立つかどうかということですね、局長のお話はそういうふうにうかがえる。二割入っていないから自由意思でございます。落第する学生もこれも自由意思でございます。こういう形になった中での自由意思ということでこれを許されるということは、これはもうたいへんな話だと思うのですが、これをやっぱり政治教育の本部を学外に移せば、そこでもう政治教育——政治教育といいますか、教育基本法の八条で言っておる「特定の政党を支持し、又はこれに反対」し、そうしてそれに、同時に特定の個人をというあの条項にひっかからないとおっしゃるのかどうか、それも伺いたいわけです。  急げといいますから、ついでに申し上げますと、同時に、こういう選銀倶楽部を一方につくっておって、これも学長訓示の中にあります。皆さんはなるほど得たりと賛成なさる方もいらっしゃるかもしれませんが、「社会党は、アメリカを日中共同の敵などといった浅沼稻次郎が死んでよくなるかと思ったら、佐々木という、政治なんかわかりもしない委員長が出てきた。あの秋田なまりだけはごあいきょうでちょっと可愛いところがある。この社会党も占領軍の後押しで成長した」、こうやって社会党が国賊だと言わぬばかりの、もっとひどいこともありますけれども、あまり、言うとあとで選挙に利用されちゃぐあいが悪いからこれは言いませんが、そういう形で、日常に、いま私もたたいておるのだが、そうして選銀倶楽部には学長訓示によると、「私たち選銀会員は、天皇を元首にお迎えし、いまの詐欺憲法を焼いてしまおう。」、こう言っておる。これを天城局長、いまの御答弁で、本部を学外に移したから万全の手を打ったということばはお使いになりませんでしたけれども、それでいいという形にはぼくはならないと思う、そういう感じがするのです。
  208. 天城勲

    政府委員(天城勲君) 私いま鈴木先生の御質問のような趣旨の答弁を申し上げたつもりではございませんで、本部ないし支部でしたか忘れましたけれども、そういうものが学内にあるということは少なくともいけないのじゃないかと言って、学校もそれを認めた。それから強制加入しているという御質問があったものですから、その事情を聞きましたけれども、強制加入はしていない、現に二割くらい入っていない学生があるという回答を得た事実を衆議院でもお答え申し上げましたし、いまそのことをお答え申し上げたわけであります。それで、いま御指摘ございましたように、学内のまあ掲示によって強制しているじゃないかということも衆議院で出たわけでございまして、それにつきましても、学校に、これはたいへん余談のようでございますけれども、その写真を、これを写した写真を衆議院委員会でいただきまして、こういう証拠があるのだからというお話もございましたので、これを、この事実があるから大学をよく調べるという話がございまして、その写真をお借りしまして、こういうことで質問が出ているから事実は明らかにしてくれと言われているからと言って報告を求めたわけでございますけれども、これに対しましては、大学側はそういう掲示をした覚えはない、学校としてはした覚えはない、その写真も、自分たちとしてはこの写真から見た掲示板については、大学としてそういうものは出した事実はないのだと、こういう御返事をいただいておるものでございますので、私たちもその事実は、学校からの報告として一応衆議院のときにもお答えしてございます。ただ、私たちいわゆる強制的な調査権というものはございませんし、学校のいろいろな御指摘に対して、学校に立ち入っていろいろなことをつぶさに調べるという権限もございませんし、先ほど御指摘の私立学校法第六条の、調査に関し報告を求めるということにつきましても、できるだけ相手方と話をしながら、協力を求めながらいろいろな事情を調べるというのが現在の限度でございますので、一応それらの事実につきましては、御指摘になった点につきましては学校側に報告を求め、一応、事実は事実として学校から報告のあった点につきましては、いままで衆議院におきまして御報告は申し上げたわけでございます。私が選銀倶楽部の本部を移し、二〇%入っていないのだから、もうこれでいいのだという判断をここで申し上げたわけではございませんで、一応、学校からのいままでの報告の事実を御報告申し上げておるわけでございます。その点は御了承いただきたいと思います。
  209. 鈴木力

    ○鈴木力君 いまのたとえば、この写真は、学校で張った覚えはない、それは学校の答えは張った覚えはないということも成り立つわけですね。だれかの小説あたりにすると、意図的に自分でつくって張ったのじゃないかという言い方も、あるいは言い方としては成り立つかもしれません。しかし、学校の会計課が、選銀倶楽部の会費の取り扱いをやっておるわけです。これは写真とは関係がないわけです。しかも、写真にも学校の背景のある写真もいろいろあるようでございますけれども、それはほんとうかうそかといってもしようがない話で、少なくとも私は、いまのような学校自体がその会費の納入までも扱っておるのでありますが、学校が発行したそういうセットになった書類が出ておる。そうしていまのような学長訓辞がある。それが学内に八〇%も組織をされ、その内容は完全に憲法を否定した内容のことが方針に出ているということですから、こういう教育の方針についてもこれは非常に大きな問題だと思う。これは前に、ことしの三月十三日の朝日新聞に、杉江大学学術局長の談話が出ている。「文部省としてもいま調査しているが、あまりにも問題が多すぎるようだ。率直に反省してもう少し学内をうまくおさめてほしい。場合によっては学長と話合うことも考えている。」、私は先ほど申されました局長の、強制的に立ち入り検査をするということの意思がない、そのことについては私も同感なんです。だれかが何か告げ口したとか、あるいはだれかがものを言ったからすぐに立ち入り検査をするというようなことが横行するようなことになったらたいへんですから、簡単に強制的に立ち入り検査をするということは私も望ましいと思っておりません。しかし、いまのような、こういうことがおよそ事実として白昼堂々と行なわれているわけですから、特にこの憲法違反の疑いもある、あるいは教育基本法違反ということになりますと、学校で学則違反にもなるようなものがあります。設置認可申請には、憲法にのっとり、あるいは教育基本法に従い、そういうことで学校が認可されているわけです。そうすると、認可の条件ともだいぶ違ってきているのです。こういうことは文部省として限界があるわけですが、限界の中で、たとえば杉江局長が言っているように、学校とももう少し話し合って、そうして反省を求めるとか、いろいろなやり方はあると思います。そういういろいろなやり方の、可能な範囲内でのやり方でも学校の行き方等については相当のサゼスチョンを与え、あるいはいま申し上げましたいろいろな問題についてはやはり調査もしていただきたいと思います。特になお申し上げますと、非常にこの外国を誹謗しているようなことがたくさん出てまいります。国益に反するということは、日本と国交を開いている国を誹謗することだ、たれかが反対の立場でおっしゃったことを聞いたことがありますけれども、いわゆるそれを裏返しにしたようなことがこれも行なわれておる。こういう事例がもう非常に多いのですが、きょうは時間がないということなのでこれでやめますけれども、なお慎重に御調査も願い、そして話し合いもしていただき、御指導もいただきたい。くれぐれも文部省と学校との関係で、文部省のやるべき範囲を越えない中での善導のしかたというものがあろうかと思いますから、それをきょうはお願いをして私の質問を終わることにいたします。
  210. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 他に御発言がなければ、本件に対する本日の質疑はこの程度にいたします。  本日は、これにて散会いたします。    午後七時九分散会