○
参考人(
松岡壽夫君) おはようございます。私は本日の肩書きは
テレビタレント兼作曲家ということになっておりますけれども、
考えてみますと、全く関係性を持たない、適任じゃない、不適任というそしりを受けることもやむを得ないと思います。その点ももう一度御一考を願う
意味で、本日は、世田谷区北沢五丁目に住む一国民として、特に商売の関係上、現在、国内において上演されておる、また
公演されているところの
芸能に関心を持っている一人として発言さしていただきたいと思いますので、よろしく御了承を
お願いしたいと思います。よろしく
お願いいたします。
思いますれば、
明治十九年、十二世守田勘弥が
中心になって
国立劇場の
設立の計画が立てられてから、
明治、大正、昭和と、御存じのとおり三代の夢でありまして、この四十一年の
国立劇場のこけら落しというものは、実に八十年目の快挙と言えるわけです。八十年と一口に申しますと一世紀に近いのでありまして、どうして今日このように重要な協議がされるような
国立劇場が一世紀近くにわたっておくれてきたかと申しますれば、
わが国のやはり
文化政策の弱点あるいは弱さ、そういうようなものを物語っているんじゃないか、こういうふうに感じられますし、実は私、えらそうに八十年と申し上げましたけれども、
国立劇場がこけら落しの運びになるので、一体いつごろから計画があったんだろうとあらためて調べたような現状で、現在の国民は、いま本日ここで協議されておりますこの
国立劇場の問題に対しても、あまりに関心がないというのが実情であると申し上げても決して過言ではないと思います。そういうような
文化対策に対する
日本の政策の弱体が、国際的な外交の友好の点においてどのような弊害がきているかということを、一がいにそれのみとは言えないと思いますけれども、つい二、三年前までは、ロンドンなどの学校の教科書の
日本の風俗を紹介する写真の中に、芸者が人力車に乗って引かれているところの写真が載っていたとか伺っておりますけれども、あまりにも
日本の風俗、あるいは
文化に対する諸
外国の無理解というのは、やはり八十年、
国立劇場の計画が立てられてから今日まで延びたような弱体が、そのような影響をもたらしているのではないか、このような
一つの
理由の判断に立ちまして、国連加盟諸
外国における有名なフランスのコメディ・フランセーズとか、オペラ座、イタリーのスカラ座、オーストリアのウイーン
国立劇場、ソ連のボリショイ
劇場などをはじめとして、加盟国では二十三カ国目に
日本も加わったわけであります。したがいまして、
国立劇場という舞台で上演された限りは、その国におけるところの
演劇の
古典、あるいは
現代の最高の権威と内容があるのだということが対外的に認められ、今後、
国立劇場で上演された演目が諸
外国とお互いに交流をはかれるようになっていますれば、
日本の
文化、あるいは思想を理解していただく上に大いに役に立つのではないか、このように判断をいたしましたたてまえから、国民の一人として、今回の
国立劇場のこけら落としは、
ほんとうに心から
喜び合いたいと思っておるわけでございます。
しかし、いずれにいたしましても、今回は初めてのことでございますので、その内容、あるいは運営方法については、さらにさらに詳しく、ただいままで
参考人の先生方からもお話がございましたけれども、さらにさらに詳しい研究を行なって運営をしていただきたいという切望は、もうひとつ立ち入ってその内容を申し上げますれば、先ほど
香取参考人がお話ししたように、主要な利益をあげているのは
歌舞伎座である、だがしかし、
歌舞伎というものは、大へんにいまやピンチに追い込まれている、しかし、二十七億の株主の面目を一新するような、主要なところだけは
歌舞伎座であげているのが現状であるというようなところへくるまでに、
松竹としていろいろ長い間なみなみならぬ苦労をしてきたことは推しはかることができるわけであります。さきに
文楽が泣きの涙で
松竹から離れて、大阪府、あるいは財界人、大阪市の財政の
保護のもとに今日あるという話も聞きました。思えば
歌舞伎もやがてはそういうような
状態になっていくのじゃないか。しかし、なぜ今日こうやって
伝統芸能として非常に重要視されております
日本の
歌舞伎が、このように
保存会だとか、先ほども
喜熨斗参考人から
無形文化財、ことばを変えれば
無形文化財と指定された
芸能はすでに衰退している、国民から離れているが故に
無形文化財と指定しなければならない、そういうふうにも読み取れるわけであります。
〔理事北畠
教真君退席、
委員長着席〕
なぜそうなったかといえば、もちろん
芸能の中にはすばらしい
芸術本位の
伝統もありましょうし、また、姿の点で申しますれば、正しくない姿の
伝統もあって、それが家族制度を主体とするところの
日本の
芸能愛好家の皆さんに好感が持てないような向きがたくさんあったがために、次第に一般
大衆から離れて、今日のような
歌舞伎のピンチを迎えたのではないかという見方もあるのだろうと思うのです。たとえば
日本の
芸能、
歌舞伎がきょう主体に話されておりますけれども、邦楽にいたしましても、
日本舞踊にいたしましても、どのマーケットを主体にして、その運営をなされているかといえば、三業を主体としてかろうじてそういう運営がなされているわけです。その三業を主体とされて運営されているがゆえに、そこにはやはりスポンサー制、どうしても費用がたくさんかかる関係上、発表するためにはたくさんな膨大な費用がかかるために、特定のスポンサーを設けて、そしてなみなみならない苦労をして
芸能を維持していかなければならないという言い分もあるでしょうけれども、そういうような底辺のつながりがだんだん積み重なって
歌舞伎というものに国民感情が結びついていく、しかし、いまは人口に膾炙されないような
芸能になって、今日五カ月間、複雑な
歌舞伎座の上演のスケジュールを見ておりましてもわかるとおり、そのほかの七カ月はどうであるかといえば、
映画俳優、あるいは歌謡曲の人気歌手、こういう
人たちを主体として人気を集める。またさらに、マーケットだとか、あるいは各団体に呼びかけまして、団体券を売って、かろうじてその客席のキャパシティーを埋めているというのが現状だと思うのです。それから見ますと、
歌舞伎の今度の上演のスケジュールを見ましても、七カ月が本
公演で、今度見ますとまた二カ月ふえております。五十日が
一つございます。小
劇場でまた二カ月がございますので、延べ三カ月がふえております。十カ月の
公演になります。近く帝国
劇場が開場になりますと、
歌舞伎上演の日というものは、東京都内において一、二、三、四、四カ所から五カ所、日生
劇場も含めてそういうことになるわけであります。そこへ持ってきて、さらにまたこの十カ月の上演、それもあくまで民衆が
喜び、あくまで
大衆の生活の中からわき出た感情のものを取り入れて、新しい
伝統芸能の何といいますか、バイタリティーと申しますか、そういうような精神のもとに新しい創造
芸能を
国立劇場で創造していくんだというたてまえならば、これはその日程も埋まる可能性もあるんじゃないかと思いますが、さらにもう
一つ、そのスケジュールが非常に、早くいえば安売りのようにたくさん東京都内に出ております。そこへ持ってまいりまして、
国立劇場の
歌舞伎の一等の入場料が千八百円でございますね。これも高いんではないか、
国立劇場という名のもとにおいては高いんじゃないか。しかし、
商業会社との共存共栄の立場からいって、その面目を保つ
意味で千八百円という額が出たならば、これもやむを得ない話ですが、当然、自主
公演のたてまえからこれは無税になるでしょうし、それならば千八百円の内容のある十分なものを見せていただけるかどうか、これも私どもの期待であり、また疑問でもございます。
さらに、いろいろとこまかい話がございますが、切に
お願いしたいことは、
文楽が大阪市、国立という名から見ればはるかにスケールの小さいものですが、その財政難の中にあって今日蘇生し、アメリカでも好評を博して、これからとにかくその
保存の、未来はあまり憂いがなくなっているような形になってきておりますけれども、この
歌舞伎という、何といっても
歌舞伎が主体になるのは、これはやむを得ないことで、慶長
年間の郢曲だとか、小唄だとか、あるいは当時の俗曲などの集成された、しかも、いままでの、それ以前の
伝統芸能の中から新しい時代の息吹きを感じて生まれてきた総合的な
芸能は、
日本の
国劇と言えるものは、その内容からいっても
歌舞伎以外にはあり得ないことですから、それを
伝統芸能として
保存していこうというたてまえで企画、運営されていくことは当然のことでございますけれども、
伝統芸能のここは何条でしたか、
国立劇場運営概要案の「自主
公演の方針」というところの(イ)の項でございますが、「
伝統芸能保存の見地からすぐれた作品を選び、これをできるだけ正しい姿でかつ高い水準で
公演する。」、私は「正しい姿」というのは手前みそな解釈をいたしまして、これはいままで
日本の家庭から離れておりました
伝統芸能、離れてというよりも忘れられておりました
伝統芸能が、今度はいままで三業だとか、そういうような反家庭的な線からのつながりを断って、国庫補助のある関係上から経済的な拘束を受けることなく、
芸術本位にいわゆる
演劇活動ができるというこの
国立劇場本来の利点からいく正しい姿勢ならば、たいへんに喜ばしいことであるし、また、すぐれた作品を選ぶということがありますけれども、いま
伝統芸能として
明治以前の作品が残っているものは、全部選ばれたすぐれた作品として残っているものであります。当然これは
明治以後の黙阿弥、それから岡本綺堂、坪内逍遙、真山青果、このような作品も選ばれるだろう、このように推測しております。もちろんこれも新
古典の中に入っております。何となれば、先ほども
郡司参考人からお話があったように、
一つの舞台に対して
一つの
芸能という原則の話がございます。これもむべなるかなと拝聴したわけですけれども、しからば、現在の
歌舞伎というものの形のあり方というものは
ほんとうの
伝統芸能であろうか、どうであろうか。今日の
歌舞伎座のあの間口の幅の広い舞台、あの照明効果の中に回り舞台を有し、あの客席の雰囲気の中で作り上げたものが
歌舞伎であるというならば、
歌舞伎こそは
明治以後のものである。それ以前の江戸時代の元禄ごろの舞台を見ますれば、能楽のあのかかり舞台に少なくとも雨落ち
——雨落ちと申しまして舞台の、いわゆるかぶりつきとも客席のほうから呼んでおりますけれども、
一ぱいのふちどりでございますけれども、それが能楽のようにぽんと前のほうへ、引き出しを引っ張ったように出ております。それから能楽と違う点は、名のり座、それから笛座、こういうような設計が非常に音響効果を、当時の
芸能の実態からいって、音響効果を
考えて改良されたものが
歌舞伎の舞台であります。しかも、これは変な表現ですが、目を引っくり返したり
——もちろんその中に
芸術はあるわけでありますが、そういうような表現をろうそくの火を頼りに、観客にその感情の移り変わりを伝えていくというものの中から考案された最も洗練された芸だと思うんです。今日のように、ライトが、いろいろの照明がりっぱにでき上がってまいりますと、それに応じて、建物に応じて、つまり、はこに応じて、舞台に応じて演技は非常に変わってきた。近松門左衛門の芝居が
歌舞伎座で上演されるときにおいては、近松当時の絶対芝居でないということは断言しても間違いないと思うわけです。近松当時の正しい姿でそのまま
伝統の
芸能を残すというのであるならば、今日の東京の
歌舞伎座においても絶対にこういうものは通じないし、意思も疎通されないわけです。したがって、
国立劇場の設計は、諸
外国の
国立劇場の設計内容を
参考にして、最高の費用で最高の設備ででき上がっているということでございますれば、当然、幾分かは東京のいままで上演された
歌舞伎座と違ってまいります。先ほどもこれは話はございましたが、
芸能とは生きたものである、生きた人間が上演する限りは、その疎通は、そのまま伝えていくためには多少の変化もそこに生じてくるわけですから、そのまま
国立劇場においていままでの
伝統の
芸能が、人間によって、そのままの姿で、正しい姿で上演されるということは
考えられないことでございます。してみれば、ヨーロッパにおいて、ドイツなどでも
国立劇場で上演されておりますものを見ますると、上演種目が三題あるとしますと、その中の一題は最も古くから伝わっておりますところの
古典芸能を取り上げ、二題の中の
一つは
現代好評を得たもの、さらに
一つは新らしい創意くふうをなされた創作であるということを見ておりましても、いかに
大衆というものを重点においてその運営でなされているかということがわかるような気がいたします。生活様式も変わってまいりまして、
古典を軽んずるわけではございません。その
古典の中にはぐくまれてきた
歌舞伎俳優あるいは役者というものの立場を非常に私は重要視しているわけでございますが、近来、
歌舞伎俳優のむすこさん
たちの間では、親のあとを継ぐのはいやだ、サラリーマンのほうがいいということが出ているのは、営業政策あるいは現在の
経営の不振からくるところのいろいろな不満というものが子供
たちに受け継がれているんじゃないか。そこに
国立劇場が国の財産を使用して、せっかく貴重な国民の税金を使うならば、この演技君
たちに
ほんとうに、中間に何も入らずに潤いが与えられるようにするならば、その子息
たちはやはり親の商売を受け継いでいくでしょう。これこそ
伝統芸能の
保存の最も内面的な正しい一面だと思います。それと同町に、先ほど
喜熨斗参考人が申しましたとおり、
保存とともに
発展——発展のない
保存、人口に膾炙のない
保存、国民に理解のない
保存はあり得ないわけだと思います。したがって、演目の点においても、先ほど申し上げましたように、ドイツの三本立てのような、
伝統芸能は
明治以前のものだということではなくして、
歌舞伎の芸風そのものが
伝統芸能であり、その芸風をもって新しい演題に対してどのような
発展をしていくかということが、やはり今日の
日本の国立のあり方の
一つであると国民は望んでいる一部を代表して申し上げさせていただいたわけでございます。
たいへんに長くなってしまいましたけれども、最後につけ加えて切に
お願いしたいことは、さらに先ほど私が申し上げましたとおり、非常に不合理な因襲によって継承されております
伝統芸能を、正しい
芸術本位の姿に返して、正しくそれを
保存していくという
国立劇場の運営方法であっていただきたい。また、きびしくその点を監視をしていただきたい。このようにたいへんてまえがってな
意見を述べさせていただきました。以上。