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1966-05-31 第51回国会 参議院 文教委員会 第17号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十一年五月三十一日(火曜日)    午前十一時十五分開会   出席者は左のとおり。     委員長         二木 謙吾君     理 事                 北畠 教真君                 久保 勘一君                 鈴木  力君     委 員                 楠  正俊君                 近藤 鶴代君                 玉置 和郎君                 内藤誉三郎君                 中上川アキ君                 中村喜四郎君                 山下 春江君                 吉江 勝保君                 秋山 長造君                 小林  武君                 柏原 ヤス君                 辻  武寿君                 林   塩君    国務大臣        文 部 大 臣  中村 梅吉君    政府委員        文部政務次官   中野 文門君        文部大臣官房長  赤石 清悦君        文部省文化局長  蒲生 芳郎君        文化財保護委員        会事務局長    村山 松雄君    事務局側        常任委員会専門        員        渡辺  猛君     ————————————— 本日の会議に付した案件 ○理事補欠互選参考人出席要求に関する件 ○国立劇場法案内閣提出衆議院送付)     —————————————
  2. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ただいまから文教委員会を開会いたします。  理事補欠互選についておはかりいたします。  去る二十四日報告いたしました委員の異動とともに、理事に欠員が生じておりますので、その補欠互選を行ないたいと存じます。  互選は、投票の方法によらないで、委員長にその指名を御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 異議ないと認め、理事鈴木力君を指名いたします。     —————————————
  4. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 参考人出席要求に関する件についておはかりいたします。  国立劇場法案の審査のため参考人出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  5. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 御異議ないものと認めます。  なお、その日時及び人選等につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 異議ないと認め、さよう決定をいたします。     —————————————
  7. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 国立劇場法案を議題といたします。  前回に引き続き、これより質疑に入ります。質疑のあるお方は順次御発言を願います。  なお、政府側より中村文部大臣中野文部政務次官村山文化財保護委員会事務局長出席をいたしております。
  8. 小林武

    小林武君 最初に文部大臣お尋ねをいたします。  前回質疑で、小野委員から国立劇場の設置についての目的といいますか、そういうようなものについて質問がありました。そのことで初めにちょっとお尋ねをしておきたいのですが、その第一条にもありますが、伝統芸能の「保存及び振興を図り、もって文化向上に寄与する」というのがあるのです。その場合、この伝統芸能振興保存というものと、によって文化向上に寄与するという、そういうこのつながりが、これはどうもやや私の理解ではばく然としている。どういうことをここで言おうとしているのか、どういうふうに文化向上に寄与するというのか、これはやはり文部大臣から承ったほうが一番妥当だと思いますから、お答えを願います。
  9. 中村梅吉

    国務大臣中村梅吉君) この国立劇場の場合におきましては、先般もいろいろ質疑応答がございましたが、いろいろな経過をたどりまして、今回設立いたします国立劇場は、伝統芸能が、このまま放置いたしますとだんだん衰微し、伝承者もとだえてくる危険性がある。そこで、伝統芸能をできるだけ生かし、また、国民に鑑賞していただき、伝承者を育成しというような方法を講じまして、伝統芸能保存及び振興をはかっていく、「もつて文化向上に寄与する」ということは、結局、新しい文化も、古い文化保存振興して、その関連において新しい文化も止まれてくることと思うんであります。そういう意味において、将来の新しい文化育成にも大いに寄与できるものと、かように私ども考えておる次第でございます。
  10. 小林武

    小林武君 ただいまの答弁は、私としては満足ができないわけなんでございますが、伝統芸能保存振興というものと文化向上というものがどういうつながりがあるのかという、その具体性がないわけですね。ここは、この「文化」というのは何を意味しているのかということになるわけなんですけれども、それは大臣お尋ねしないで、村山政府委員お尋ねしますけれども、この「文化」というのは何ですか。
  11. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 「文化」という語句の人文科学的な意味につきましては、いろんな考え方があろうかと思います。しかし、国立劇場法案に限定して申しますと、そのうちの芸能文化という意味に解しております。したがいまして、国立劇場をつくることによって文化振興に寄与するというのは、伝統芸能それ自体の発展をはかることが、すなわち、ある意味におきましてわが国文化向上でございますし、伝統芸能保存振興によって新しいものが生まれてくるとすれば、すなわち、発展的形態におけるやはりわが国伝統芸能文化振興向上というぐあいに考えられる、かように解しております。
  12. 小林武

    小林武君 私もこの「文化」はそうではないかと思ったけれども、これは伝統芸能をさしての文化と、そういうことですか、いまの答弁は。「文化」ということばを広く使っては、なかなかこのつながりが出てこないんですよ。少なくともこれは、伝統芸能保存振興をはかって、そうして、さらに伝統芸能でない一般の——現代ですか——現代芸能向上に資すると、こういうつながりなんでしょう。そうでなければ、あまりにばくとして、しかし、それも、伝統芸能も広くいわれる文化の中に包含されるというととならば、これは法律の文章としてはどういうことか知りませんけれども、われわれが考えれば、いささかばくとしてどうもおかしくなると思うんですが、それはどうですか。
  13. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 文化というのを人間知的営みによる一切の生産物と解すれば、確かにあまりに広きに過ぎまして、国立劇場法案目的の条文に掲げる文化としては適当でないと思いますが、さればと申しまして、これを伝統芸能だけに限定することもいかがかと思います。私はこれを伝統文化を含みました芸能意味に解するのが妥当であろうと考えております。主たるねらいは伝統芸能にございますが、芸能文化という意味でとらえれば、単に伝統に限らず、新しいものも含めまして芸能文化という意味におきまして文化の字義を解しております。
  14. 小林武

    小林武君 いまぼくもそう言ったつもりだけれども、芸能文化ということであるならば、これはまともにいくのじゃないか。しかし、芸能文化という場合には、それは何を意味しているかということは、これからの議論でだんだんお話し申し上げますけれども、文化向上発達ということは、大臣のお話にちょっと出ましたけれども、やはり将来の発展というものと結びつけないことには、文化向上なんということはいわれないわけです。その場合は、過去のものが全部保存されなければ文化向上にならないかということになると、そういうわけにもならぬ。いろんなものを吸収して新しいものが生まれるということは、これは歴史的な経過を見れば明らかです。だから、そういうことを含めてこの目的というものは書かれてなかったらおかしいのじゃないかと私は考える。そういう議論が、あなたからもなされておらないし、それから速記録を見た限りにおいては、衆議院においてもあまりやられてないようです。そこでいまお尋ねをしたわけです。  それでは、そこを若干出ましてお尋ねいたしますが、第十九条第一項においていう「伝統芸能」ということに対するあなたの御答弁速記録によって見ました。これは落合寛茂君の質問に対する答弁で明らかになっておるのでわかりますから、その点についての重複的なお答えはなくてけっこうです。まず年代的に定義をなさっておる。その年代的な定義については若干疑問を感じないわけでもございませんけれども、それもひとつあとで何かやる機会があると思いますからのけまして、あなたのおあげになったものでひとつお尋ねをしておきたいのです。邦楽邦舞、ある種の民族芸能、こういうことでございましたけれども、この邦楽邦舞、ある穂の民族芸能というのは、法律第十九条第一項において「伝統芸能」ということになりますと、もっと内容的にやはり明らかにする必要があると、私はこう思うのです。この点について内容的に明らかにしてもらいたい。
  15. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 伝統芸能につきましては、それが保存に値する場合の行政的な確認方法といたしましては、現在、文化財保護法によりまして無形文化財指定という制度があります。そうして、指定された無形文化財に対しましては、その保持者である人を認定することになっております。で、現在、無形文化財として指定され、保持者が認定されておる伝統芸能分野といたしましては、歌舞伎能楽、それから邦楽邦舞等があるわけでありまして、その辺のところにつきましては、この代表的な演技者が認定されるようなものにつきましては、これを伝統芸能ということが一番はっきりわかるかと思います。民族芸能になりますと、これは全国各地にいろんな形で保存されておりまして、多種多様でありまして、これはいま申し上げましたような歌舞伎とか、文楽とか、能楽とか、そういうもののように客観性を持った御説明はやや困難でありますが、伝統芸能としてこれをはずすこともおかしいということで、将来、制度的な確認方法も進められることを含めまして、現段階ではややばくとしてはおりますけれども、伝統芸能の範囲内に入れておくことが妥当であるという意味合いにおきまして御説明申し上げた次第であります。
  16. 小林武

    小林武君 これはあなたそうおっしゃるけれども、法律ですから、法律で第十九条によって指定されたということになると、これは劇場運営そのものにも問題が起きてまいりますし、それから先ほどあなたのおっしゃったように、伝統芸能というようなものを保存振興させるという角度からいうと、何か特別の無形文化財ですか、というようなものがいなければ、そのもの伝統芸能にならないというようなことであってはたいへんなわけですね。こんなことはないはずだと思うのです。だから、あなたの答弁からいえば、邦楽邦舞というもの、これは第十九条のいわゆる伝統芸能だ、邦楽邦舞なんていったって、これはあなたはわかるかわからぬか知らないけれども、ぼくはよくわからない。邦楽とは何か、邦舞とは何か、それが明らかになってこそ、はじめて法に言うところの伝統芸能ということになるわけでありますから、そのことをちょっと明らかにしなければいかぬ。いまのような答えではそれは答えにならないですよ。
  17. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 説明が不足であったと思いますので、さらに補足して申し上げますと、邦楽といたしましては、琴とか、三味線とか、そういうわが国古来楽器を用いた音楽があるわけであります。これにつきましては、現在これらが伝統芸能に属するということは常識的に理解され得ると思いますが、さらに正確な確認方法といたしまして、先ほど申し上げました無形文化財指定制度があるわけでありまして、現在、お琴——箏曲はその指定がなされておりまして、保持者としていままで越野栄松さんが指定されておりましたが、おなくりになりまして、本年度、米川文子さんと、それから中能島欣一さんが指定されております。それからそのほかにうたを伴う邦楽といたしましては、長唄、常磐津清元等があるわけでありまして、これらにつきましても、たとえば常磐津につきましては、今回、常磐津菊三郎さんが指定されまして、これまた保存さるべき伝統芸能であるということがいよいよ明らかにされた次第であります。それから邦舞は、音楽ほど楽器の種類によってはっきり分けるというほど客観性がないようでありますが、これにつきましてもいろいろな流儀があります。たとえば花柳流でありますとか、あるいは水木流でありますとか、いろいろな流派がありまして、いずれも衆議院で御説明しましたように、明治初期以前に様式がある程度確立されて今日に伝えられておるわけでありまして、これが伝統芸能に属するということはほぼ客観的に認められておる、かように考えておるわけであります。蛇足でありますけれども、いま指定の問題を申し上げましたけれども、もちろんのことでありますが、指定されたものが、そういうものを含む分野だけが伝統芸能などで指定されて、文化財がない分野伝統芸能からはずれるというような窮屈な考えは持ち合わせておりません。無形文化財指定されるというのは、伝統芸能の中でもまあ代表的な分野ないし代表的な演技者がおるものにつきまして、より明らかにする意味でやっておるわけでありまして、無形文化財指定をされておるような分野を中心にして、わが国古来から伝わっておる芸能を称して伝統芸能といっておることは申すまでもないわけであります。
  18. 小林武

    小林武君 ちょっと、やっぱりあれですかね、私には理解ができないんだけれども、それはどこできめたんですか。そのいまのような解釈はこれは何とか委員会というものがあって、そこで偉い人たちが集まって、そして伝統芸能というのはそういうものに限定するというようなことをきめられたわけですか。そうでないとしたら、ちょっとあなたのおっしゃることは私はおかしいと思うのですよ。邦楽というものは一体どういうものなのかということは、これはちょっと辞典を開くと書いてありますよ。邦楽中身になるのは一体何なのか、邦舞というものの中身になるのはどういうものなのか、そういう場合は日本の、あなたのおっしゃる伝統芸能というようなものはわりあいに同じような傾向に入ってきているわけですね。雅楽というようなものを一体何に入れるのか、雅楽邦楽でないのか、雅楽というのは邦舞というものの中に含まれる場合もあるでしょう。歌舞伎だって同じですよ。だから法律用語として出されるからには、もう少しきちっとしたものがなければならぬし、それから運用の面からいって当然これは出てくる問題です。運用の面からいっていまのような御答弁——衆議院方々は皆それぞれ専門家でいらっしゃるから、あなたの御説明にすぐ納得して、ああそうか、ああそうかということで合点されたかもしれないけれども、私のようなしろうとならばなかなかそういう説明では納得がいかないんですよ。たとえば伝統芸能というものを法をもってやるとすれば、一体能楽というのはどちらなのか。邦楽邦舞というものと能楽というものと対比させるのはどういうことか、文楽一体対比させるのはどういうことか、雅楽はどうなんだ、歌舞伎はどうなるのか、こういうことになるわけですよ。これは自然科学のあれで言ったらそんないいかげんな分類というものはやらぬです。一体そういうあいまいなことを言っているというと、私は伝統芸能伝統芸能といっても、伝統芸能が何だかわからぬことになると思うんですよ。歌舞伎だけが伝統芸能か。ある新聞社の評論を見ると、結局、国立劇場歌舞伎だけのためにやっていることかと言っているんです。それならそれとはっきり言ってもらったほうがいい。伝統芸能というものが、いま文部大臣ことばでいえば滅びようとしている。滅びようとしているものを滅ぼさせないようにするためにはどうしたらよいかということなんですから、伝統芸能というものをもっとはっきりつかまなければいかぬと、私はしろうとなりに考えている。ですが、こういうあなたのおっしゃるような分類のしかたといいますか、法律第十九条第一項による伝統芸能というふうな、こういうばくとしたとらえ方をしていいのか。これはどういうところで相談されたのか、そうしてどういう一体根拠によってこういうやり方をやったのか、それを承りたいんです。
  19. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 伝統芸能の語義でございますが、これは法律によって定義ずけ、創造したものではございませんので、むしろ国立劇場設立準備協議会では、存在し、自明のものとして、これを前提として保存振興をはかるというふうに議論が進められてまいっております。しかし、私どもといたしましては、しろうとでありますので、必ずしも自明でない、ふに落ちぬ点もありましたので、国立劇場設立準備協議会方々にいろいろお伺いもし、そういう自明のものとして前提せられた伝統芸能につきましても、ある程度定義めいたものを考えまして御説明した次第でありますが、これは法律に書くまでもなく、客観的に存在するものを法律の上に拾い上げたという経過になっております。補足いたしまして、雅楽能楽に関する御指摘がございましたが、雅楽御存じのように、形といたしましては、音楽と舞を含む芸能でありまして、ある意味では、常識的にいえば邦楽邦舞とを合わせた古くからの芸能ということになるわけでありますが、雅楽保存形態は、御存じのように、今日では一部の地方社寺、たとえば四天王寺あたりでやっているようでありますが、大体は宮内庁楽部で統一的に保存されています。そこで無形文化財の取り扱いといたしましても、宮内庁楽部団体指定をして、他の邦楽邦舞とは違った扱いと申しますか、位置づけをしているわけでありまして、伝統芸能例示、並べ立てる場合におきましても、雅楽というのは別に抜き出して書く例にしているわけであります。能楽につきましても同様に、これも音楽と舞を合わせた芸能でありますが、これはわが国芸能のうちでも、かなり古く様式が確立し、一定の舞台形式上演形式、それから演技者によって、代々受け継がれて実施される例になっております。そこで、これまた邦楽邦舞という分類に入れずに、別に抜き出して、伝統芸能の一範疇として扱われる例になっております。そういう意味合いにおきまして、雅楽能楽邦楽邦舞というような例示の配置にした次第であります。
  20. 小林武

    小林武君 率直に言ってそれは答えにはならぬのですよ、あなたのおっしゃることは。いろいろおっしゃったけれども、能楽はどうであるとか、雅楽は、いま大阪の四天王寺にどうしたとか、そんなことは、それは大体のことはみなしろうとでも知っておりますよ。春日神社にどうしたとか、宮内庁にどうかということは大体知っておる。そういうことじゃないのです。大体、私は第一条にそう書いているから言うのですよ。第十一条に、法によって指定するとなっておる。その場合に一体あなたたち専門家の間では、専門家いろいろ話を聞いたというのなら、邦舞邦楽というのは、どういう解釈をしているのですか。邦楽といった場合には一体何を言っているのですか。三味線だけ言っているのですか、邦舞といった場合には何を言っているのですか。それは花柳流だとか、市川流だとか、そんなことを言っているのですか。そうでなくて、邦舞邦楽、ただし、この分類のしかたはむずかしいということはわかっておる。日本音楽舞踊の歴史といったようなものをまとめれば、とにかく二つ、はっきりわからないような発展のしかたをしておりますから、これを合わせたものなんておっしゃるのが正しいかどうか、私にはわからないのです。しろうと流に私たちはそういうものを合わせたものなんていうことをいうのが、一体正しい受け取り方かどうかということについては私はわからない。あなたのおっしゃることは、何かそういうものをごっちゃにしているのじゃないか、邦楽とか、邦舞という場合には一体どうなのか。邦舞というのは一体この場合には何を言っているのか、そういうあれでもいいんですよ。たとえば歌舞伎というものははっきりそこから抜かしました。雅楽というものは日本邦楽の中からは抜かしました。しかし、これは邦楽でも邦舞でもございませんというなら、だいぶこれは問題が違ってくる。それならもっと議論しなければいかぬ。そうでなくて、それはそういうものには含まれておりますけれども、これは特別として抜かしました。抜いて一つのものとして扱いました。その他の邦舞邦楽というものはかくかくのものを言っているのです。そう言わなければ答弁はきちんとした私の問いに対する答えにはならないのです。落合君に対するあなたの答弁というものを私はずっと読んでみた。読んでみますと、どうも落合君は理解したか知らぬが、私は理解しない、それをどういうことですか、そこを聞いているのです。
  21. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 御指摘のとおりでありまして、邦楽邦舞といったような言い方の場合と、歌舞伎雅楽能楽といった場合には、かなりとらえる次元が違うように思います。と申しますのは、邦楽邦舞というのは、かなりばく然とした表現でありますし、それから歌舞伎能楽雅楽といえば、何であるかということが、おそらく、だれも客観的に理解されるところだと思います。そこで、しからば邦楽邦舞とは何ぞやというお尋ねでありますが、御指摘のように、歌舞伎雅楽能楽、すべて邦楽邦舞的要素は含んでおりますが、歌舞伎能楽雅楽として確立されたものは、もはや邦楽とか、邦舞という範疇でとらえないで、それぞれの称呼で呼ばれるのが例になっておりまして、これらを除きまして、残りましたものを邦楽邦舞ということで、つまり一括しているわけであります。具体的にさらに例示すれば、邦楽のほうは琴、三味線、尺八、こういう日本古来楽器を使った演奏、これに人間の音声による歌を加えたものということになるかと思います。それから邦舞のほうは読んで字のごとし、わが国に伝わっておる、俗に言えば日本舞踊の総称ということになるかと思います。
  22. 小林武

    小林武君 どうも少し乱暴な定義だと思うのですね。法律上の定義ですから、この中に含まれておるか含まれてないかということは、保存の対象になるかならぬかということが問題になるし、後継者の養成をどうするかという問題も出てくるということになると、これはいいかげんなきめ方をされると大問題になるわけです。そのことからさらに深刻な問題が起こってくる。私は相当根拠があってやったと思うのは、八ページですね、これの。何ですか、この「国立劇場関係資料」のところにも、歌舞伎邦楽邦舞邦楽邦舞雅楽文楽伝統芸能指定芸能民俗芸能、狂言、こういうふうに分けてありますね。その場合に、これに当てはまるものが公演日にちが何日というのがきまっておる。そうでしょう。公演日にちは小劇場において回数とか日数とかいうものが一応計画として出ておる。そういうことになると、指定されたものがはっきりしないとだめですよ、それは。それからいまあなたのことばじりをとらえるわけじゃないけれども、歌舞伎であるとか、それから雅楽とか何とかというようなものは、邦楽とか何とかあの中に入らないとおっしゃるけれども、それはちょっとどうかと思うのだ。たとえば邦楽というようなもの、邦舞というようなものの中に入らないという断定をいまのところ下す具体的な根拠とか、専門的な根拠があると私はあまり思わない。しかし、権威のあるあなたからひとつお教えを受ければ、しろうとでございますから、直ちにそうですかということになる。ここではやはり国会でものをきめれば、そのもののきまった尺度でいくわけですから、いいかげんなことは言えないということになるわけですよ。そうすると、いまのようなことでは困るということになる。私はうんと譲歩しておる。歌舞伎だとか何とかということは抜いて考えてよろしい。それはそれとして認めてよろしいから、邦楽といったら尺八でしょうと言うが、尺八なんというのはどういうことになるのか、尺八を含むのは何でも伝統芸能になるのかどうか。そうでしょう、邦舞といったら、それは日本舞踊の何とかといったところで、そういうものはどういうことになる。そこらはやはりもう少し詳細なことを、あなたたち法律案が通れば具体的に仕事を進めるのですから、そうでしょう、進めるからこういうふうにちゃんとあれが出ておるのでしょう。こういうものがないから、また世間のあれがどうだとか、建物を建てるのが一体あれが国立劇場法律かと、こう言っておる。そういう誤った考え方に対して同等する意味においても、いろいろなあなたのほうで用意したのはよろしい。たいへんよろしいが、その内容がどうもはっきりしておらぬ。おらぬということになれば、またここで問題が起こる。それにあれが入っておるのかとか、入ってないのかとか、こういう問題が起こるのじゃないですか。だから、いろいろなことをおっしゃらないで、ないならないとおっしゃる。そういうことまではっきりしておきませんと、尺八ということだけです、琴ということだけです、そういうことならば、そういうふうにはっきりおっしゃればよろしい。そうなれば私のほうから注文を出しますよ。そんなことではだめだと。それはあなたのあれでなくて、文部大臣に私は要請しますよ。どうかそこらを聞かしてもらいたい。
  23. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) およそ芸能文化というような、動き得る要素のあるものにつきまして、法律上その範囲、中身を明瞭に定義づけること自体がかなり無理があるのじゃないかと思います。さればと申しまして、法律国立劇場を設立する以上は、その仕事の内容がばく然としておってよろしいという筋合いのものでもございません。そこで、私どもとしては、でき縛る限り国立劇場設立準備協議会専門家等を通じまして、わが国の関係者の間で確立しておる概念をさがし求めまして、それを取り上げたつもりであります。しかし、御指摘のように、さればといって、かかる種類のものにつきまして、自然科学の現象のように、とことんまで厳密な定義づけをすることは、これはきわめて困難であります。そこで、私どもとしては、るる御説明しましたような、一応の伝統芸能の範囲、内容を説明といたしまして、さらに、それがもう金科玉条であって、それに少しでもたがうものは受けつけないというようながんこな態度はとらないで、国立劇場発足後におきましても、識者の御意見は十分拝聴いたしまして、正しい伝統芸能、それの発展的形態、あわせて新しいものへと貢献するというような態度でもって国立劇場を運営してまいりたいと、かように思っておる次第であります。
  24. 小林武

    小林武君 あなたのは答えになっていませんよ。そういう、自然科学とかと違いましてとかいうようなことがどこから出てくるのですか、そんなことが。そんなこと、どこからそういうあれが出てくるのですか。自然科学と違いまして芸能などというようなものはそんなに簡単に申されませんなど、そんなことはないですよ。それは、われわれが読める範囲の辞書でも開いてごらんなさい。あるいはその種の小さい雑誌でもひとつ開いてごらんになればよくわかりますよ。分けることはちゃんと分けられる。しかし、それをただ邦楽とか、邦舞とかというような大きな項目にくくってしまって、しかしその中でやれば取り扱い上はなはだ不便であるから、それはともかく歌舞伎だとか、雅楽だとかというようなものを抜き出してやるということはよろしいとぼくは認めている。それでよろしいと言っている。しかし、衆議院においていろいろとあなたと質疑を取り交わされた中で、きわめて不明確だと思ったのは、邦舞だとか、邦楽とか言った場合には、それらを除いたあとのものだということになっている。そのあとのものだと言ったらいろいろある。そうでしょう。琴と言ってもいろいろあるでしょう。一弦琴もあれば二弦琴もある。そういうこともあるわけでしょう。われわれが平常、琴と称しているもの以外にもいろいろある。私はそういうことについてあなた方があいまいなことをおっしゃっているのがおかしいと思うのです。文部大臣がおっしゃるように、これが滅んでしまったらたいへんだということになったら、その実態をつかんでいなかったらおかしいのですよ。それはあなたのおっしゃるように、実態では文化財指定されておるとかどうとかということをおっしゃるけれども、それだけではやっぱり足らない。少なくともいままでの準備の段階において、専門家を集めて——まあこの人たちが全部よろしいかどうかということについては私は議論はありますけれども、ほんとうのことを言えば、その中にもうそういう厳密な、ぼくはほんとうのことを言うと、この委員会はこの委員会としてあってけっこうだけれども、その委員会のほかに、たとえば伝統芸能の各界の代表というものを集めて、一体何が将来の日本芸能発展の上において保護なり、振興なりをさせなければいかぬかということを検討させなければいかぬと思う。琴なら琴、尺八なら尺八でいいですよ。そういうようなものを、どこを保存しなければならないかということでしょう。そういうことがはっきりしないでおいて、この第一条をきめるということがおかしいのです。ぼくはどうしてもその点が納得がいかない。これがなくなったら困る。たとえば歌舞伎なら歌舞伎がなくなったら困ると。それはわかった。そういう点ではあなたのおっしゃることはあいまいで私は納得がいかない。それはあなたをいじめるために覆っているのじゃない。これはもう実際に実施する場合には非常な問題になるということですよ。それから、また、文化財保護委員会という立場から見ても、無形文化財なら無形文化財というものを保存しなければならないとか、この人を人間国宝にしなければならないというようなことになる場合に、これはもう大きな尺度になるわけですからね。それだけの見識がなくて、かってに無形文化財なんかきめられてたまるものではない。だから、その点をはっきりしなければいかぬですよ。事実、ないものなら邦舞とか邦楽とかいうことを言わないで、能楽文楽雅楽歌舞伎と、これだけなんだと、こう育ってしまうならそれでもいいですよ。伝統芸能のこれだけはつぶしてもらいたくないのだ、だからこれの後継者はつくるのだ、伝承者はつくるのだ。これはまた、伝承しても見る者がなければしようがないから、それに対して非常に興味を持つ人たちをふやしていくのだ、歌舞伎なら歌舞伎人口をふやしていくのだ、こういうことなんでしょう、あなた方のこの法律でうたって金々出していこうというのは。その点がはっきりしたいでおいて、どうして一体これらのあれをやるのですかと、それを申し上げている。だから、自然科学と違いますからどうも明らかでありませんいうのは、そんなのは逃げことばで、そんなのは答えにならないと私は思う。それで、あなたばかり責めてもあれですから、文部大臣、どうなんですか、私の言うことは無理ですか。一体保存したいのはこれとこれだと、そうしたら邦舞邦楽といった場合には、邦舞邦楽といったって一人だけじゃない。第一、邦楽のうちのどういうことなのか、邦舞はどういうことなのかということを明らかにしなければぐあいが悪いでしょう。その点はどうです。そのぐあいが悪いでしょうというところだけ答えてもらいたい。大臣に一々こまかいことをお尋ねしてもしようがないから。私の言うことは、ぐあいが悪いと言っている。おれは邦舞の仲間だと思っていたところが、締め出しを食らってしまったとか、さっぱり、足りないと思っていたけれども、手を伸べてくれないとかという問題が起こるでしょう。そうして、役人のやる仕事はなんということを、新聞などの論評を見ると書いてある。だから、私はそういうことを言っているのですが、大臣はどうですか、そうは思いませんか。
  25. 中村梅吉

    国務大臣中村梅吉君) 確かにこの法案の中の伝統芸能という用語、この範囲いかんということは、御指摘のとおり、非常に重要な問題点の一つだと思います。そこで、事務当局としては、いろいろないままでの設立準備協議会のメンバー等の意見を十分に聴取いたしまして今日に至っておるわけでありますが、補足説明の際に事務当局が申し上げました伝統芸能とは、大体、こういうことを言っておるのだということを申し上げたわけです。そこで、雅楽とか、能楽文楽歌舞伎、ここらは問題はないでしょうが、邦楽邦舞といえば一体その限界点はどこか、確かに問題点の一つだと思います。そこで、そういう点は、いかなる法律をつくる場合でも、例示をするものと、その他云々というのがよくあるわけですが、例示をこういうふうにいたしまして御説明を申し上げたわけでございますが、なお、そういうこまかい点につきましては、今後、私は運営上、この法律の上におきましても、運営に関する重要事項を審議する機関として、相当の人数の評議員会を置くことになっておりまして、評議員は、国立劇場の業務の適正な運営のために、適当な学識経験を有する者に御委嘱申し上げ、任命する、こういうことになっております。したがって、こまかい点で、これを一体国立劇場でやるべきか、やるべからざるかということは、やはり学識経験者のそろっておる評議員会で毎年度研究をされて、そうして進めていく、同時に、国立劇場の業務を始める際には、業務方法書というものを国立劇場としてはつくらなければならないわけです。したがって、こういう業務方法の方針をまず定めるときに、もちろん重要事項でございますから、この学識経験者がメンバーである評議員会の意見を聞く、この評議員会でそういう詳細な点につきましては御検討をいただいてきめていく以外には、この段階で、一体伝統芸能とは綿密に言ってどこかということになりますと、先ほど来申し上げておりまするように、歌舞伎とか、文楽とか、雅楽とか、能楽のように、限界点はもう議論の余地のないものと、邦楽邦舞と申しますように、若干、そこに一体どこまでが限界点なのか、こういう問題点のあるものもありますが、これらはそういったような法律の範囲内で運営の詳細な点はきめて運営をする、こういうこと以外にはないと思うのであります。したがって、その主管をいたしておりまする文部省といたしましても、そういう学識経験者の御意見を受けつつ国立劇場の管理にあたっていくべきものだと、かように心得ております。
  26. 小林武

    小林武君 まあ大臣答弁というのは、大臣のお考えとしてはそう言わざるを得ないと思うのですけれども、私はこの第一条の中の該当するものは何かというのは評議員会でやるなんということは、これはおかしいと思うのですよ。たとえば邦楽といった場合、歌舞伎をやった場合にはどうですか。歌舞伎の役者だけでやるわけにいかないでしょう。邦楽の中にあるものを借りませんか。一つの舞台を構成するには音楽というものがないことはないでしょう、歌舞伎でも。そういうものの後継者も、歌舞伎という場合にはあれでしょう、一つ入っているのでしょう。村山さん、どうですか、そう思いませんか。
  27. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 歌舞伎は御承知のように総合芸術でありますから、踊り、それから邦楽のかなりの部分が入っております。代表的なものは、伴奏音楽としまして、長唄、清元、常磐津といったものが入っております。したがいまして、歌舞伎保存というのは、とりもなおさず、ほとんどかなりの分野邦楽邦舞保存にもつながるわけでありますが、邦楽邦舞の立場から見ますと、これは単に歌舞伎の構成、要素だけでなくて、やはり独立的に演技が行なわれ、それから伝承者の養成も行なわなければならないわけでありまして、従来も文化財保護法では両建てで保存振興をやってまいったわけでございます。歌舞伎につきましては、歌舞伎の重要な演技者指定しておりますし、それから歌舞伎に含まれる音楽といたしまして、長唄と常磐津、清元などにつきましても指定の措置をとっております。それから舞踊につきましては、歌舞伎舞踊、あるいは京舞などを指定をしております。それから指定よりもう少し、何と申しますか、試験的な段階と申しますか、記録の選択という制度をとっておりまして、これでは主として、むしろ、邦楽邦舞等についてかなり広範囲な保存の措置をとっております。たとえば音楽につきましては、声明、平曲というような非常に古いものとか、地唄、一中節、河東節、宮薗、清元、新内、荻江、それから一弦琴、八雲琴、浄瑠璃、上方寄席、下座音楽というようなかなり広い分野にわたりまして、現在必ずしも大規模に行なわれないで、むしろどちらかといえば衰亡しつつあるけれども、保存の必要があると認められるものにつきましては、記録を選択いたしまして作製するというような措置をとっておりますし、これらの伝承者の養成につきましても、必要に応じて補助をはかっていくというような措置をとっております。要約して申しますと、歌舞伎邦楽邦舞の総合芸術でありますので、これはこれとして保存振興をはかりまして、それから歌舞伎に含まれる邦楽邦舞もあわせて保存振興いたしますし、必ずしも含まれない地方的な特殊な邦楽邦舞につきましても保存の措置はでき得る限りとっておるわけでありまして、これらは国立劇場ができましても、いままでの措置をやめるというようなことは全然考えておりませんで、国立劇場と並行的に、あるいは別途に保存振興の措置は従来以上にとっていきたいと、かように考えております。
  28. 小林武

    小林武君 いまのあなたの話を聞いているというと、ますます邦楽邦舞というものの内容がおかしくなるのですね。そこまで言ったら、たとえば平曲とか、声明とか、そういう話まで出てきたら、当然でしょう、常磐津とか、清元とか、長唄とかいうことはこれはいわずもがなです。しかし、そういうものは、舞台の中のそういう役目もやるけれども、自分で一派をなして、いわゆる邦楽としてやっていくという気持ちもあるでしょう。このことは当然なんです。邦舞といったってそうでしょう。振りつけ師というものも、独立したそういう段階では、舞踊は専門のものとして、舞台と切り離してやっていける一つの芸術だということになる。そうでしょう。歴史がそういうふうになっているじゃないですか。そういうことを考えたら、大体あなたのほうでそこまで言ったら、邦舞というのは一体どうだというぎりぎりの線はここに出さなければいかぬのです。なぜ私がしつこいほどそういうことを言うかというと、この運営の面で必ずそれにぶつかるからです。あなたのほうで出している資料を見たって、小劇場、大劇場を使う場合に、ただ、いまのようなばく然としたことをやっておったら、必ずこの世界にもめごとが起きると私は思う。なかなかこういう芸術の世界というものは、芸術なんかやっていればのんびりしているかというと、そういうもので片ないということは皆さんも御存じのとおり、なかなか容易なことじゃない。私はその範囲を広げろとか何とか言うのじゃない。法律できめるからには、きちんとやっておいて、そのきめるまでにいろいろ検討することについては、少なくともこれは文化的な仕事なんですから、がっちりと皆さんの、これは皆さん文部省にいらっしゃる方がそんなことの専門家ばかりいらっしゃるわけじゃないのだから、これはとにかくいろいろな方面の知識を集められて、ひとつりっぱな案をつくってもらいたいというところから申し上げておる。だから邦楽邦舞なんていうものを見たって、これは私から見ればさっぱりはっきりしておらない。納得がいかない。もう少し納得のいくような答弁ができるように、きょうで私の質問が終わるわけでもないのですから、この次にひとつそのことをやりましょう。  それから、ある種の民俗芸能、ある種というのはどういうことです。
  29. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) いま邦楽邦舞で範囲がはっきりしないという御指摘がありましたが、民俗芸能になりますとさらにその点がはなはだしくなるわけであります。そういうばく然たるものは、しからば伝統芸能の範囲から除外すべきかということになりますと、これまたちゅうちょされるわけであります。そこで御説明として、民俗芸能の中で保存すべきものは、伝統芸能として国立劇場でも上演していきたいという気持ちで、ある種のと申し上げたわけでありまして、その内容は遺憾ながら現段階では固まっておりません。おいおい民俗芸能に対する調査も進んでまいりまして、まず記録を残すべきものが取り上げられ、中には無形文化財として指定されていくものも出てまいろうかと思います。そういうぐあいに、おいおい明らかになろうかとは思いますが、現段階では明らかになっておりません。そこで、明らかでないので具体的に説明はできないが、除外するわけではないという意味合いにおきまして、ある種の民俗芸能という御説明を申し上げた次第でございます。
  30. 小林武

    小林武君 まあ、ある種の民俗芸能というようなものに対して、そういうばく然としたものをおっしゃったわけであります。能楽とか、文楽とかいうものも、ある種の民俗芸能ですね。そうでしょう。しかし、これほどたとえば様式的とか、あるいは全国的に一つの認められたというものではなくて、発掘できるもの、そういう意味でしょう。それならば、いまのようなことがある程度言える。それから、邦楽といった場合には、新しい傾向の新邦楽というようなものがありますね。これは新しいから入らないと思うのだが、そこで、ひとつあなたの年代設定のしかたについてちょっと聞いておきたいのだが、明治のごく初期にわが国で発生したものまでは伝統芸能の年代的な例示の中に入ると言っている。その明治のごく初期の段階というのでそういう年代的な切り方をやった。これは一体どういうものです。
  31. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 時代区分につきましても、先ほど来御説明申し上げました横の範囲と同様になかなか断定しがたいものがございますが、これも委員会等で決議をしてきめたわけではございませんが、大体の傾向といたしまして、日本が近代化する以前に発生したものという意味合いにおきまして、それを年代に当てはめると明治のごく初期、旧時代の延長線が明治初期までちょっと入り込んでおるんではないかというような感覚で、明治のごく初期ということを申し上げたわけであります。内容としましては、日本の近代化する明治期以前に発生したものという意味であります。
  32. 小林武

    小林武君 具体的にどういうものがあるんですか。これを時代区分をやるときに、明治のごく初期というようなものの時代にあったものを考えられたから入れたんだと思うんですがね、これは何ですか。
  33. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) いま具体的に言いますと、先ほど来御説明申し上げましたように各種の分野になります。明治のごく初期に、しからば発生して具体的に取り入れるものが何であるかというお尋ねでございますと、実はそのような具体的なものについてはございませんのですが、実は、御承知のように伝統芸能の中で量的に一番大きい歌舞伎劇というのが、幕末から明治の初期にかけて一つの展開をしております。で、明治の初期ごろまでにかなり確立したというようなことも含めまして、まあ幕末とあんまりはっきり切らないで、明治のごく初期というぐあいにひっかけて申し上げた次第でございます。
  34. 小林武

    小林武君 あなたの答弁速記録で読んでみると「発生し」と書いてあります。これは歌舞伎なら歌舞伎の内容ですよ。歌舞伎の、たとえば明治歌舞伎とか専門家は言うているんですが、これは明治歌舞伎というようなもの、そういうものもやっぱり伝統の一つのあれとして十分将来残すというようなこと、これならいいんですよ。「発生」というようなことになると、これは「発生」でないんですよ。歌舞伎をまさか明治に発生した歌舞伎なんというのは、ちょっとこれはわからない。これはあなたの言い違いですか、そうすると。
  35. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) あるいは言い違いがあったかも存じませんが、現段階でもう一度重複するかもしれませんが申し上げますと、明治のごく初期までにわが国において発生し、あるいは外国からわが国に渡来したというのも申し上げたような記憶がございます。日本で発生はしなくても、外国から渡来してわが国に定着して、その上演、演技様式なぞがほぼ確立したものというように御説明申し上げた記憶がございます。演劇でございますので、固定せずに時代とともに動いておりますが、その動きがある程度固まった明治の初期までの時代区分を一応区切って、伝統芸能という定義を御説明申し上げたように記憶しておりますし、もし違っておりましたら、そのように訂正さしていただきたいと思います。
  36. 小林武

    小林武君 外国から来たもので、あなたは例としてオペラとか何とかあげているがね。たとえば明治歌舞伎ということばがあるようですから使わしてもらうと、そういう明治になってから一つの様式化したものというのは、これはあるでしょう。それならいいですがね。しかし、発生したものといえば、明らかにこれはそのときから出たものですよ。そういうものがないとすれば、これはちょっと時代を区切る場合においては私はやはり間違いだと思う。「発生」ではない。明治の初期ごろまでのそういう一つの伝統なら伝統、そのころ様式化したものでもこれは認めますと、それを時代の区切りにもそう言うべきですよね、発生したことということになると、出たものというようになるから。もちろん出たと言ったって、何にもないところから、種のないところから出てくるわけはないわけですから、それには一つの発展の経路があるから、それが少なくとも日本の場合にも、古いところへさかのぼっていかなければならないでしょう。何の芸能でもそうでしょうから、その点はぼくは誤りなら誤りだということをお認めになれば、これはやはり直したほうがいいと思いますね。  それから明治から以後発生したものというあなたのあれですね、たとえばそういうものはあれですか、どういうものを言ってるのでしょう。
  37. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 演劇で申し上げますと、明治以後発生ないし渡来したものの代表的なものは、国劇関係で申しますと、新派、新国劇、それから洋劇関係で申しますと、オペラ、まあ、劇と言うのはどうかと思いますが、バレー、それからまあ演劇でありますが、西洋の様式を踏襲したいわゆる新劇、これらが明治以後に発生ないしは渡来あるいは新しい様式を生み出した、こういうようなものの代表的なものだと思います。
  38. 小林武

    小林武君 新派を一つ取り上げてみて、あの中にはやはりおやまというやつはまだ残っておりますね。英太郎ですか、たしかあまりおやまは使ってないはずだが、そういうおばあちゃん、あれはありますし、それからやはり端役なんかに出ていると思う。われわれやっているのを見ると、あれは男だなってわかりますが、そういうものがあって様式的はあれはあれですか、新派というものは、いまのところ、たとえば滅びるというようなあれは十分ないと、あれはちょっと年代的に言ったらば明治——いつごろを初めのころと言うのか知らぬけれども、急に新派というのはぱっと出てきたわけじゃなし、これは壮士芝居だとか何とか、前のあれがありますけれども、そういうことを考えると明治初期のころから出てきたのだと思うけれども、ああいうものに対してはどういう見解をとられるか、新派というものに対しては。
  39. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 新派は、発生的に申し上げますと、大体明治三十年代、それから発生の動機でありますが、これは旧歌舞伎を旧派というぐあいにとらえまして、旧派に対する新しい演劇活動として、川上音二郎らによって提唱、確立された演劇活動の一分派ということになろうかと思います。で、最初のうちは壮士芝居とか、書生芝居とかいわれているようでありますが、だんだん新派という称呼がわが国に定着したのであります。内容的にも古い脚本を使わないで、明治時代の作家の脚本を使いまして、新しい演技様式を使ったわけでありまして、代表的なものとしては、尾崎紅葉の「金色夜叉」ですとか、徳富蘆花の「不如婦」ですとか、泉鏡花の「高野聖」などがあげられようかと思います。しかし、内容的と申しますか、演技の様式としては御指摘のように女形も使っておりまして、そういう意味では歌舞伎の旧派に対して対抗的に打ち立てたとはいうものの、やはり明治中後期というような時代からいたしまして、歌舞伎の影響も、まあ、対抗意識は持ちながらも新派の体質の中には残っておったのじゃないか、かように思います。その後、花柳章太郎とか、そういう名優が出た関係で、一時はかなり盛況でありましたけれども、だんだんなくなられまして、現在では大矢市次郎とか、水谷八重子とか、残った人によってささえられておりまして、内容的にも旗あげ確立当時の様式も守れないで、さらに変化を来たしておるのじゃないかというぐあいにいわれております。今後の見通しいかんということでありますが、これは私の感じを申し上げれば、新派の将来というものは必ずしも楽観を許さぬのじゃないかという感じを持っております。国立劇場との関係でありますが、そういう次第でありますので、国立劇場としては、新派は自主公演をやって保存すべき第一種類の伝統芸能とは必ずしも考えておりませんが、施設の供与はいたしたい、そんなぐあいに考えております。なお、国立劇場はいまは準備室の段階でありまして、準備室におきましても演劇各関係者と接触を保っておりまして、その御要望があれば、いろいろそれに対応した受け入れ態勢も考えていきたいと思っておりますが、新派につきましても、関係者との話し合いによりましていろんなことを考えていきたいと思いますが、要約的に申し上げますと、第一義的な保存すべき伝統芸能とは考えていないのでございますが、便宜の供与はやりたい、なお将来の見通しを述べろといえば、私個人とすればやや悲観的な見通しを持っているということをつけ加えさしていただきます。
  40. 小林武

    小林武君 新派という劇団がどうなるとか、こうなるとかということは、これは浮き世の浮き沈みで、これはいろいろあると思う。しかし、あなたがおっしゃるように、新派というのも大矢市次郎とか、石井寛というような人たちの年齢的なことを考えると、それから一番の中心になる水谷さんにしても、健康的なこともあれば、後継者の問題がどうなるとか、まあいろいろありましょう。しかし、まあこれが伝統芸能といえるかどうかということになれば、あなたのおっしゃるように、ぼくもそれは必ずしも伝統芸能といえるかどうかということについてははっきり伝統芸能とは言い切れない。ただ、明治の初めごろなんという妙なところで言うものだから、あなた、川上音次郎と言ったが、角藤定憲という人もいたでしょう、その前に。そういうものをたぐっていけば、もっともっと以前からといえるかもしれない。そういうしかたをすれば明治の初めということはある程度いえると思う。しかし、まあ明治の初めというのはどこから出てきたのかわからぬけれども、そういうあれが別にあまり根拠がないということになれば、新派についてはいまのような考え方でけっこうだと思うんですが、ただ一つ、これは小野君の質問の中に繰り返し繰り返し述べられた。衆議院質問においても第一回目の質問の中でも非常に何か繰り返されたのはここだと思うんですよ。それはたいへん保存ということに力点を置かれているようだけれども、将来の一体日本芸能というものをどう発展させるかということについてのその展望がない、そのあらわれだということなんですよ。それはやはり第一条の規定そのものの中からくるんです。何か修正案を出して、主たるとか何とかつけたけれども、ぼくに言わせれば、主たるをつけたのでかえって悪くなったと思われるところもある。主たると入ったためにかえって悪くなった。悪くとれば、あの小屋貸しのほうのあれに理由づけたかもしれない。そんな法律解釈というものは、あとになってあっというようなことがあるんですから、主たるが入ったからたいへんよくなったと喜んだそうですけれども、なに、これから運営する人の腹一つで、へたすると小屋代をうんとかせごうというのでとんでもないのに貸したり、何々の演説会とか、総決起大会に使われるということになって、主たるが入ったからなお悪くなったということもありますよ。ぼくは大体法律というものはあまり信用したいようでしたくないようでという気持ちを持っている。四、五年たったらとんでもない解釈をやられる。教育法規だってずいぶんそういうものがありますよ。だから、信用しないで考えるというと、そういうことも言える。将来のそういう展望というものがないところに問題点がある。それは必ず伝統芸能というものと将来の芸能発展というものは切り離して考えるものじゃないですよ、これは。伝統芸能を重んずるということは何もうしろ向きになるということじゃない、将来があるから伝統芸能を重んずるんですから。そういう欠点があるのだから、本来ならば主たるなんということをいわないで、あの中に近代芸能もということを入れて修正すべきなんですよ。参議院でそれをやったらたいしたりっぱなことだと思うんですけれども、やる気があるかどうかわからないから、これからぼつぼつやろうと思いますけれどもね。大体そういうことを、まず、いままでの質問のことでちょっと締めくくりみたいに申し上げておきましょう。  そこで、文部大臣お尋ねするのですが、私はこのいままでのことからいうと、私はだんだん滅びてしまうのではないかということを先ほど来言っているのだが、これはなかなか短いことばですけれども含蓄あるのですよ。だんだん滅びるということ、だんだん滅びるというものを滅びさせないということが可能なのかどうか。滅びさせないということが可能かどうかということになると、清盛が太陽を西から東のほうに呼び戻してくるような話になったらたいへんだ。やはり私は将来の芸能の展望ということとのからみ合いで考えるということになると、それを考えないで、滅ぼさせないで残しておこうということになると、うしろ向きに馬力をかけるということで、そんなことは意味がない。だんだん滅びるということの内容が私は深められなければならないと思うのです。だんだん滅びるということ、なぜ滅びるのか、このごろどうも専門にやっている人たちの間にも若干誤解があるのじゃないかと思う。この間おいでになった人の参考人としての御意見の中に、いまのやつは心がけが悪いからだんだん滅びるととれるようなものの言い方もあるのですね。たとえば歌舞伎役者なら歌舞伎役者のいまの若い者はという言い方で考えている。しかし、私はそうは思わない。たとえば、いわゆる歌舞伎の御曹子といわれるような人たちが、それぞれ大学に入って、そうして西洋ものの中にもどんどん入っていったり、それからミュージカルをどんどんやったりするというようなことをやっている。それは歌舞伎俳優のむすこだ、そういうことが何か歌舞伎伝統をぶちこわすふらち者だというふうに見ているのですけれども、私はそうは見ておらない。あの人たちの見識がもっと広くなって、西洋の演劇の要素なり近代の演劇の、要素というものを吸収してこそ、歌舞伎というものが滅びないでいけるのだと思うのであります。そういう角度から私は質問するのでありますけれども、歌舞伎が滅びるということについて一体どういうふうなとらえ方をしているのか。村山政府委員一体どんなとらえ方をしておるのか。邦楽なり、邦舞なり、雅楽なり、あるいは文楽なり、能楽なり、どうとらえられているか。中にはもう全く、私はもうとにかくわずかに一本の木でもってささえているようなものもないとはいわない。そして、ものによっては無形文化財とか国宝とかいわれるような人たちが死んでしまえば絶えてしまうようなものもある。こういうものもあるわけですから、これはもう何としたって、どんな力をしたって、なかなかこれはある程度の保存しかできないと思う。そういうことを私は考えているものですから、これはあなたたちと意見がだいぶ違うだろうと思う。大体こういう法律案をつくる人たちとは、第一条をつくるような人たちとは考え方が違うだろうと思うが、そういう意味で、私は考え方が違うという角度からお尋ねするのですが、村山さんは一体歌舞伎邦楽それぞれの問題ですが、まず歌舞伎ですね、だんだん滅びる滅びるというのをどういうふうに見ておるのですか。
  41. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 演劇活動は、現在では料金を取って上演する。それで収入をもって運営をするというたてまえになっておるわけです。そうなりますと、お客がこなければ経営が立ちいかぬということになるわけであります。お客がくるかどうかは、一つには上演されるものの質にもよろうかと思いますし、それから、もう一つはお客の側における趣味嗜好に合うかどうか、趣味嗜好が変化をして、昔は好んで見に行ったものを最近では見に行かなくなる。こういう変化が起こってくるわけでありますが、したがいまして、演劇活動がふるうか、衰微するかは、やはり経済的条件とお客の趣味嗜好に一番大きく左右されるのではないかと思います。それで、歌舞伎についてみますと、歌舞伎は舞台装置につきましても、それから脚本、振りつけ、それから下座音楽等につきましてもかなり経費がかかる演劇様式であります。いわゆる仕込み費がかさむわけであります。この仕込み費をすべて入場料で回収しようとすれば、必然的に入場料は高くなる。そこで高くなる入場料に対して、それを払ってでも見に行こうというお客の側の趣味嗜好にささえられておれば、経済的な条件はある程度カバーされるわけでありますが、現在の情勢は、それがかなりあらゆる点において悲観的な傾向をたどっておるというので、歌舞伎が滅びるかもしれないということであろうかと思います。もう少し具体的に申し上げますと、入場料はかなり高くなっておりますし、それを払って見に行くお客は、従来の松竹、東宝の演劇活動からしますと、かなり動員力が減っておりまして、団体客をかなり無理に勧誘してやっとカバーしておるというような状態になっております。そういうことでありますので、脚本を厳密に考証したり、それからしっかりした振りつけをやる、けいとも十分やるという正しい形ですぐれた上演をやるという意欲にまで響いてきておる。それがまた相乗作用によってお客を減らすというようなことになっておるのが歌舞伎の現状でありまして、こういう状況を一挙にくつがえすということは非常にむずかしいわけでありますが、国立劇場をつくる意味は、設備の完備した劇場をまず提供する、そこにおいては、若干の政府の補助金を出すことによって、ある程度料金の値上がりをカバーしながら十分な仕込みをやる。それから、けいこの時間などもたっぷりとる。それから上演の形式も、できれば商業劇場のように、二部制で役者を疲れさせるというようなことを避けまして、一部制を主として、たっぷりけいこをしてコンディションのよい状態で芝居をして、そこで、一方において後継者の養成にも努力をし、それから、新しい観客層の開拓につきましても、これは団体をかき集めるというようなことでなしに、日本伝統理解のもとに、より遊んで見にくる観客を開拓する。こういう努力を、国立劇場の設備と相まって、総合的に重ねることによって歌舞伎の衰退を防止し、これを盛り返そうというのが国立劇場を設立するねらいでございます。
  42. 小林武

    小林武君 約束の時間がきましたので、これでやめますけれども、やめるというのは、質問を一応ここで中止をして次にやるということです。  いまの問題ですが、ひとつ考えておいてください。村山さんのいまのような答弁では、なかなか満足しませんが、ぼくは、歌舞伎保存、復興するということはあれですか、たとえば、ぼくは、あなたのおっしゃる話の中で、商業ベースに一体乗せるような歌舞伎にまでするつもりなのか、もうそこは全然見込みない、これからは国立劇場がとにかく歌舞伎をささえていくのだ。やがて、たとえばもう松竹とか、東宝歌舞伎とかいうようなものは手を切られてしまう。いわゆるまさに滅びようとしている、これは劇作家の中野実さんが朝日新聞か何かに書いた、投稿か何かで、とにかくそういう点については指摘している。だから、そこらあたり的確につかまにゃいかぬと思うのです。これは歌舞伎だけでなくて、その他指定されたいわゆる法第一条のあれについて、これからずっと御質問いたしますから、その点をひとつかみ合うように御用意いただきたいと思います。
  43. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) 午前中の委員会はこの程度にとどめ、午後は三時三十分から開会したいと思います。その間暫時休憩をいたします。    午後零時三十七分休憩      —————・—————    午後三時三十八分開会
  44. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ただいまから文教委員会を再開いたします。  午前に引き続き、国立劇場法案を議題とし質疑を続行いたします。  質疑のある方は順次御発言を願います。  なお、政府側より中村文部大臣中野文部政務次官村山文化財保護委員会事務局長出席いたしております。
  45. 小林武

    小林武君 歌舞伎が、文部大臣が言うようにだんだん滅びてしまうと、こういう。それはしかし、文部大臣だけではなくて、歌舞伎の危機というようなのはほかの人もやはり言っているわけですね。中野実さんだというとこういう表現をしているのですね。「年に一度か二度の俳優の大顔合わせか襲名披露以外には気息えんえんとしているのが実態だからだ。」と、こう言っている。「気息えんえんだ」と、こう言っておる。こういうような種類のことは、たとえば舟橋聖一さんの「演劇昨今」というような文章の中には、歌舞伎は全く停とんしているというようなことをいう。そこで文部大臣の感じ方ですね。これは文部大臣にあまりこまごましいことをお尋ねしても何ですが、歌舞伎がやはりこのままじゃ滅んでしまうというようなことを、一体どういう点から感じとられているのか、まず歌舞伎のことをひとつお伺いしたいわけです。
  46. 中村梅吉

    国務大臣中村梅吉君) 非常にこういう芸能伝統が古いだけにやはりその奥義を会得するということはたいへんむずかしい。したがって、よほどこれは公共的な努力が加わりませんと、その伝承者が乏しくなっていくのではないかというようなことが当然に考えられるわけであります。私どもすぐに滅びるとは思っておりませんが、このままの状態でおれば衰亡してだんだん伝承者が欠乏していく傾向にあるのじゃないかということを憂えておる次第でございまして、格別これが根拠ということもございませんが、まあしいて申し上げれば、現在の歌舞伎を上演しておる状況等も、逐次上演の回数が減ったり、観客数も減少の傾向にあったり、あるいは伝承者も昔のように押すな押すなの状況になってこないというような傾向がありますので、私どもはこうした伝統芸能については公共の力で特別の配慮をしていく必要がある、かように実は考えておる次第でございます。
  47. 小林武

    小林武君 村山政府委員お尋ねいたしますが、あなたのこの種の問題についての、的確な質問じゃなかったと思うのだけれども、あなたの答えておる中で、一つはいま文部大臣も言われたが、上演の数が逐年減少しているということが一つ、それからその答弁の中に乱れるとか、くずれるとかいうことばがありますね。くずれるということは、演技そのものがくずれるということだと思います。歌舞伎様式、そういうものがくずれる、こういう意味のことを言ったのではないかと思います。あなたの判断は、上演数の問題といわゆる伝承者が、文部大臣ことばで言えば、たいへんむずかしい約束事からできておる演劇であるからこれがくずれていっている、こういうふうに滅びるという現象をそういう点からえとらている、現象面からとらえている、私はそう理解したんですが、間違いございませんか。
  48. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 大体、大臣お答えのとおりでありまして、急激に滅びそうな気配があるわけでは必ずしもございませんが、上演回数から見ましても多少減りぎみの傾向がありますし、それから観客の数につきましても同じようなことが言えます。そういうことになりますので、従来はもっぱら歌舞伎を上演しておりました歌舞伎座のようなところでも、合い間に歌謡ショーをやってみたり、それから歌舞伎俳優でない俳優を交えた歌舞伎風の出しものを出してみたり、それから通し狂言ではとてももてないから、さわりのところだけに切って上演して人気俳優を顔見世せ的に並べる、すなわち正統的な歌舞伎の上演の形からいえば必ずしも適切でないような傾向が見られる。そういうことでありますので、脚本、振りつけの考証なども、これは必ずしも確証があるわけではございませんけれども、評論家によれば十分吟味されないような傾向も出てきておる。けいこも十分いかない点があるのではなかろうか。そういう反面、二部制による俳優の疲労が増しておる。一つの小屋における二部制によって疲労するだけではなくて、歌舞伎以外のいろいろな芸能にも顔を出すようなことになって、ますます歌舞伎そのものが乱れるおそれが出てきておる、こういう現象をとらえまして歌舞伎が衰えるおそれがある、かように判断いたしておる次第でございます。
  49. 小林武

    小林武君 ただいまのお話ですと私は若干考え方としては違うものもありますから、だんだん質問をいたしたいと思いますが、何といっても考えなければならぬのは、いまのところ興行というのは採算のとれない興行というものはできない制度です。これは資本主義社会の中においては当然そういうことが起こり得る。一体歌舞伎を上演しないというのは、興行上収益が少ないということじゃないですか。その点について、たとえば松竹とか、東宝とかいうものは一応歌舞伎俳優というようなものを自分の傘下に入れておる、そういうところが上演数を減らすというようなこと、あるいは興行をやる場合に、あなたのおっしゃるように歌舞伎だけじゃなしに、あなたの言うように純粋の明治初期以前の脚本に従って、そうしてそれを同じ型によってやれということだろうが、そういうものがやれなくなった。その興行上の損得といういわゆる興行上成り立つかどうか、こういう点についてどうお考えになりますか。興行上成り立たないというのは、やり方が悪いというのとかいろいろありますが、興行上成り立たないということで上演数を減らしている、小屋の数もだんだん減ってきた、そういうことに対してどういう見解を持っていらっしゃいますか。
  50. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 現在のところでは演劇は営業として行なわれておるわけでありますから、観客が多くて収益が上がれば行なわれるわけでありまして、そういう意味におきましては採算が全くとれなくなって上演回数が急激に減少しているというほどではないようでございます。しかし、何と申しましても歌舞伎は演劇の中では比較的仕込み費が高い、したがって、相当な観客が来て入場料が上がらなければこれは赤字になるわけでありますので、入場料のみに依存しておる商業的演劇活動としては、歌舞伎のほかにいろいろなものをまぜて、たとえば歌謡ショーなどやりますと、仕込み費のわりにお客がくれば比較的に収益が高いというようなことからしまして、歌舞伎以外に収益の上がる興行を加えまして、商業劇場においては年間の収支をとっていく、そういう傾向が出ておるわけであります。民間の演劇活動でやっておる限りにおいては、何らかの事情で観客層が増加しない限りにおいてはこういう傾向をたどるんじゃないかと思います。そこで、新しい観客層の開拓ということも、伝統芸能振興の上ではきわめて大切なことでありますが、そういうことをやる一つの中心的な拠点としての国立劇場というものが構想されたわけでありまして、国立劇場ができればすべての情勢が好転して上を向くというほど事態は決して甘いものでないということは、関係者は十分承知しております。国立劇場ができましても、非常な努力を払わなければ、こういう傾向を食いとめ、かつ情勢を逆転させることはできない、そういう認識のもとに非常な努力を傾注すべき仕事だというぐあいに認識しております。
  51. 小林武

    小林武君 観客は相当多いんだけれども収益がこれに伴わない、これはまだまだ開拓の余地があるというような御意見だけれども、なかなかそうはいかぬと思うんです。いまのところ、いかに仕込み費が高いにしても、観客がどんどんくるということになれば、やり方はやっぱりあると思う。問題は、観客の動員というのは容易じゃない。まあそれを一々調べたわけではないけれども、相当、各会社とか何とかの招待みたいなのが行って、歌舞伎の初めからおしまいまで、おみやげもらっていびきかいて寝ているというのが、そういう人がやっぱり相当出ているという実情もある。これはやはり一がいに、観客があっても仕込み費が高いからというふうに私は言われないと思うんだけれども、仕込み費があなたのおっしゃるように高くて、事実は採算のとれないという状況になっているというあれならば、仕込み費が問題なんで、この仕込み費が高いというのは、どういうところから高くなっておりますか、採算のとれないというのは。
  52. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 歌舞伎劇は、何と申しましても、衣装にしましても、床山にしましても、それから大道具、小道具にしましても、現在、日本で行なわれる演劇の中では一番複雑高度なものを使用いたします。そういう関係で経費がかさみますし、それから俳優の出演料、これもまあ、なかなか厳密な比較は困難でありますが、まあ一部歌手などでもっと高いのはあるというようなことは聞いておりますけれども、俳優の中では比較的高い部類に属するんじゃないかと思います。そういうぐあいに、装置費、それから出演料等が現在の演劇活動の中では比較的高いというのが、つまりそれらを合わせました仕込み費が高くなっているというゆえんだと思います。それから観客の問題でありますが、観客が多いということと、それから入場料の金額、これの掛け算によって収入がきまるわけでありまして、まあ入場料を大いに上げれば収入も上がるわけでありますけれども、入場料の金額というのはやはり観客の数と関係がありまして、むやみに上げると数が減る、したがって、絶対的な収入を確保するにはおのずから限度があるわけでありまして、それらとにらみ合わして収支のバランスをとりつつ運営しておるというのが、現在の民間における歌舞伎上演の形だろうと思います。
  53. 小林武

    小林武君 まあ商業的には成り立たない歌舞伎になっているというあなたのお話、それは一にかかって仕込み費の高いことにあると、こういうことになるわけですけれども、私はそうは思わないですね。大体、歌舞伎のあり方を見るというと、最盛期には、江戸時代といえども、とにかくその当時としては大きなりっぱな劇場を持っている。そして役者も相当ぜいたくをして暮らしておる。弾圧を再々くらっても、次から次へととにかく生きていけるほどの生活力、興行力を持っておった。それがいま商業的に成り立たないというのはどうかといったら、結局、国民大衆の芸術ではなくなっちゃって、ほんとうの一部の人たちの芸術になってきた。これは時代的にやはりそういう隔たりが出てきたので、あなたたちが、歌舞伎というものはこういうところによいところがあると強調してそれを保存しようというところにも、一体どのくらいの古さのものかということはよくわかるだろうと思う。そういうものであるから、だんだん観客が足りなくなったんじゃないですか。観客の動員というものができなくなった。しかし、もしその中に不合理というものがあるならば、私は、たとえば仕込み費の高いのをどう合理的に解決するのかということなんです。私は若干問題があると思うのは、歌舞伎の中のいろんな俳優の金の分け前の問題なんか、そういう俳優の社会における、何ですか、常磐津だとか、その他の浄瑠璃をやるような人たち全部、こういうものを入れて、そういう人たちのあがった金額の配分がどうなっているかということになれば、相当私は不合理があると思う。しかしながら、そのことだけで直ちに仕込みが高くなって商業的に成り立たないというようなところまでいっているのかどうかということになると、これはちょっと私はあなたのような結論にはならない。私の想像するところじゃ——想像ということばを使わなきゃならぬ、調べておりませんから——想像するところは、上演数が少なくなったというのは観客の動員ができないということです。襲名だとか、やれ顔合わせだとかというような場合には、猛烈に札の売りさばきをそれぞれの機関を通してやるというようなことでやっているんです。そういうときにはある程度のあれはできても、日常の観客の動員というものはできない。ほんとうに歌舞伎を楽しんで見るという人たちの数が少なくなったということになりませんか。そういうところが、歌舞伎の仕込みが一番高いという問題点を解決できないところの理由だと私は思う。そうは思いませんか。観客はある、しかし仕込み費が高いということのために、とにかく歌舞伎は滅びてしまうんだ、そういうふうにお考えになるのか。私は経済面からいったらそんな単純なものじゃないと思う。問題は過去のものになっているということです。こういうことになりませんか。この点の見解が食い違うとこれはえらいことになる。
  54. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 先ほども御説明申し上げましたように、演劇の振興するか衰微するかは、一つは演劇それ自体、当事者それ自体にありましょうし、もう一つの大きな要素は観客側にあると思います。観客が減るということは、これは一つの致命的な衰微の理由になろうかと思います。で、江戸時代には非常な観客があったということは、それは当然理解されるところでありまして、歌舞伎は江戸時代に様式化したものでありまして、当時はおそらく生活に密着しておったという親近感がこれをささえ、かつまた、当時はほかに芸能娯楽というものが必ずしも多くないので、歌舞伎がおそらく最高の娯楽という位置が占めておったのではなかろうかと思います。今日においては、そういう意味合いにおきましては歌舞伎はかなり過去のものになっていることは事実であります。そこで問題は、過去のものとなっておるが、これをそのまま放置するのか、これを保存振興の手を差し伸べて振興させるかというところで、これはもう議論の余地なく後者のほうをとることとしたのでありまして、観客層に趣味嗜好の変化、それから他に膨大な新しい趣味娯楽の開発によって、歌舞伎が占めるところの地位が相対的に低下しているのは、これは疑うべからざる事実であります。それだからこそ、あらゆる手を差し伸べて保存し、振興させるために、直接的に言えば、この法案によって国立劇場がつくられるもの、こういうぐあいに認識しておる次第でございます。
  55. 小林武

    小林武君 どうもあなたの議論というのは非常に私は単純だと思うのですよ。そういう議論でもって、これから国立劇場経営できるかどうかという問題が一つあるわけです。観客層がだんだん少なくなったということは認めている。そのなくなったのは、時代的なズレというものは歌舞伎にはついて回っているのですから、なかなかこれは容易じゃないということはあなたは認められた。しかし、国立劇場ができれば簡単にいくというようなお考えは、これはそうは簡単にいかないと思うのです。たとえばどうですか、あなたはこけら落としは歌舞伎では何をやる、菅原伝授手習鑑というのをやるのですか、新聞に出ておったね。これをやるのですか、俳優もきまっておったですね。
  56. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 国立劇場の発足以後の行事につきましては、現在、文化財保護委員会事務局におきまして、準備段階としていろいろなことを事実上進めております。しかし、これを決定して公表するのは国立劇場発足後にさしていただきたいというぐあいに考えております。
  57. 小林武

    小林武君 新聞に出たのはうそだということになれば、これは別ですが、私はあのやり方は悪いと思わぬのです。法律案ができるまでのんべんだらりとして準備もしないでいるというやり方よりも、やはり準備されたほうがいい。この法律案を、あそこにでき上がっている劇場をつぶしてしまわなければならぬという態度をどの政党だってとるはずがない。通してやりたいと思う。しかし、それには最善のとにかく検討をしないというと、少なくとも、私が全くのしろうとでも、ずぶのしろうとでも、あなたと話していてもあぶないあぶないという感じがする。その程度の理解でいいかということで問題がある。だから質問しているのです。たとえばいまこけら落としをやるということが事実であるとすれば、何といったって、このようないわゆる演題というものが、いまの人たちにぴったりくるかこないかということはあなたもおわかりでしょう。われわれ明治生まれの者だというと、あれを見てもけっこう涙を流しますけれども、不合理だということは心の中にはぬぐい切れないほど残りますね。学校の先生が預かった子供の首を切って、自分の主人の子供の首を切られるやつの代理をするなんていう、そんなばかなことをいまやったらどういうことになりますか。そういうことに涙を流せるような時代、江戸時代にそれはできたあれでしょうから、その時代のあれにはぴったりしたかもしれません。しかし、いまの学校の先生がそんなことをやったら文部大臣卒倒しちゃいますよ、びっくりして。そうでしょう。しかし、その時代、そういうひとつの時代の一体道徳の中において、女親の悲しみだとか、教師の悲しみだとか、そういうものがとにかく出てきておるから、忠とか孝という問題についての悲しみはわれわれはあったろうと思う。われわれが受けとめられるからとにかく涙を流す。われわれのような教師の経験のあるものがそれをやって、もしこれからいこうかといえば、それはとてもできるものではないし、そんなことをやろうと思ったら断固反対するにきまっている、そういう隔たりがあるということを考えなければならない。それをあなたたちはその次元で受けとめて、正確にあとに伝えていこうというのが国立劇場のねらいなんでしょう。だから観客の動員を、経済的に成り立たないということにはもっときびしいものを持っていかなければだめなんです。国立劇場ができてうまくやった。とにかく千客万来だと思ったら大間違いだと私は思う。  それから、いまの人間を昔に戻そうと思ってもだめだ。ちょうどわれわれがいまのビートルズだか何か、あれを見ておると、もうやめてくれと言いたくなるのと同じことなんです。しかし、いまの若い衆はそれを見て楽しくてしようがないでしょう。われわれはみなたまらない。そういう時代の隔たりというものをわれわれは乗り越えるために、さまざまな教育も必要だし、それから宣伝も必要だ。そうして過去の文化遺産というようなものが現在の中にどういうふうに生きていかなければならぬかという教育の面も必要でしょう。しかし、それには限界があるでしょう。そうあなたたちの立場に立てば言わなければならぬ。しかし、私は直ちに商業的に成り立たないというような判断はなかなか簡単には下されないと思う。これは参考人になって松竹の香取重役が出るそうでありますから、これは聞いてみなければわからぬ。商業的に成り立つということであれば、これは国立劇場との間でかなりトラブルの起こるようなことも考えられる。よけいなことをやられた、商売がたきが一つできたといいことになると、これは問題がやはりある。だから、その点では十分にひとつあなたたちのほうで検討する必要があるのではないかと思う。どうも認識のしかたが少し低いような、薄いような気がする。認識のしかたに誤りがあるような気がする。どうなんです。そこらあたりは、村山さんは一体そういうもののきびしさというものをお考えになっておられますか。観客はどんどん集まります、やり方によってはどんどん集まるものでありますと、こういうふうにお考えですか。仕込み費が高いということになれば、国立劇場がやったって仕込み費が高いのです。観客の料金というやつは、歌舞伎座や何かより高く取るわけにいかぬでしょう。そういうことで、ほんとうにこれを正しく明治の初めごろまでの、とにかくあたりまえのあれをきちんとやっていく、何かあなたがどこでおっしゃったか知らないが、黙阿弥もの以後のものはとらないのだと、こういうことを言われておる。それならば、それだけの時期においてのものをきちんとやるといい。どうです。きびしいものだとお考えになりませんか。だいじょうぶだとお考えですか。やり方によってはどうにでもなるとお考えですか、どうですか。
  58. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 伝統芸能保存振興につきましての認識は全く御指摘のとおりでありまして、だいじょうぶだというふうな考えは全然持っておりません。むしろ、よほど努力しなければとてもいかないのじゃないかという認識のもとに諸般の仕事を進めておるわけであります。それから国立劇場の出しものの問題でありますが、これは古来から、演劇の基本といたしまして、芸能が発生し確立した時点と、それから観客が見る時点とのズレの問題がございます。これはもういまに始まったことではなくて、明治初年に、すでに日本伝統演劇は健全なる道徳的見地から問題があるというようなことで演劇改良運動などが行なわれたことは御承知のとおりであります。しかし、その結果どうなったかと申しますと、改良というのはよほどの天才が慎重にやらないとむしろ破壊に通ずるのでありまして、古い演劇を現代において見せる場合、認識のズレに対する説明、解説、若干の教育はもちろん必要でありますけれども、上演する演劇それ自体は、むしろ古い姿を徹底的に再現して上演したほうが、見る人には理解せられ、かつまた新しいものを生み出すにも、古いものを徹底させることによって、その中から新しいものが創造されていくという教訓がくみ取られておるわけでありまして、国立劇場につきましても、劇場をつくって国がやれば観客がどんどん来てだいじょうぶだというような甘い認識とは全く逆の、よほど努力しなければだめだという認識のもとに、まあやるものは、できるだけ伝統を忠実に再現をして、その中からまあ天才的な演技者、それから健全なる評論家の指導のもとに新しいものが生み出されていくことをも期待をする、新しいものを生み出さんがために新しいものを追求するのではなくて、むしろ古いものを徹底的に追求することから新しいものが生まれてくることを期待する、まあこういう心がまえで運営してまいりたい、こういうぐあいに考えております。
  59. 小林武

    小林武君 あなたのおっしゃることは、 いままでの衆議院(しゅうぎいん)の段階における質疑の中から出てくるあれとは違うような気がするのですね。衆議院(しゅうぎいん)の段階であなたがおっしゃるのは、結局、保存振興でしょう。先ほど冒頭に私がお尋ねしたとき、いままであなたはあいまいだった。それと、一体これからの日本芸能というものをどうするのかという、その発展の結びつきについてあまりはっきりしたお考えがなかった。しかし、いまの考え方もぼくはなかなか納得いかないですよ。たとえば歌舞伎を追求して歌舞伎のくずれを直し、それから歌舞伎をとにかく昔のままに正確に保存するというようなやり方をやっていったときに何が生まれてくるのか。そこから新しい何が生まれてくるか。むしろわれわれはもっと前向きにだね。あなたからいえば、先ほど歌舞伎の役者がどうもよそのいろいろな、新派に顔を出したとか、それを事実ですからね。あるいは今度はその以外の、まるで外国もののあれに顔を出したとか、芝居に顔を出したとか、こういうようなことを盛んにやっているということを、何か悪いとまで言わないけれども、少し乱れの中に入れているようですね。私はそんなことも思わないですね。歌舞伎俳優は歌舞伎俳優としてのうんと修練を積むべきであって、同時にそういうものを、いずれの世界の中にも入って他流試合をやって、そして新しい演劇の面をひとつ開拓していくというやり方があってこそ歌舞伎というものは発展していく。だから、古いことだけ大いにやれということじゃない。古いことを正確に知るということでやがて新しいものをつくり出すという意味で、私は歌舞伎俳優のそういう行動というものは是認しなければならぬ。だから、自分の子供に対して、歌舞伎のいわゆる家柄のいいところの人たちがやはり大学教育はしなければならぬということで大学に入れることが相当このごろ多くなってきている。それはあなたも御存じでしょう。そういう新しいものを追求するのに、そういう知識も必要になってきたということは私はいいことだと思う。あなたのほうはそういうこともぐあいが悪いということで先ほど議論されているのでしょう。だから、ちょっとぼくは発展ということについても若干考えが違う。そういうあれがあるならば、国立劇場というようなものは現代芸能伝統芸能ということを分けないで、伝統芸能と現代芸能というものを振興させることによって、日本芸能文化を高めるのだというようにいかなければだめです。それがないから、小野君の質問の場合にも衆議院(しゅうぎいん)における落合君の質問のときにも、それが繰り返し言われている。それに対してあなたは頑強に、そういううしろ向きのような大体答弁をされている。それから、なおかつ過去のものを破壊してしまうというような考え方は一種の被害妄想だと思う。若干、歌舞伎俳優なんかの人たちの中にも、何か歌舞伎が今日くずれたのは、とにかく破壊者がいてくずしているというようなことを考える人たちがあるかもしれないけれども、これは私は間違いだと思っている。明治の、たとえばいまあなたがおっしゃった演劇改良運動というものは、演劇に対する単なる歌舞伎破壊という——それはもちろん女形を廃止するとか、花道を廃止するとか、いろいろそういうことを出していますよ。しかし、それは結局どうなんですか、役者中心の芝居というものから戯曲中心の芝居に移ろうという、新しいヨーロッパ風の芝居を興そうということじゃないですか。そういうことが歌舞伎の世界だって取り入れられて、少なくともあっていいんだ、それがないというと、いつまでたっても歌舞伎だって観客層をつかめないと私は思う。そう思うんだが、あなたは明治の初めの演劇改良運動に対して、あれははなはだ破壊的なものであって、日本の演劇の向上に一つも役立たなかったかということになると、これは今度新劇のだれか来たら聞いてみたらいいと思う。私の議論とあなたの議論とはそこで食い違う。あなたの意見をもう一ぺん確かめておきます。
  60. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 演劇改良運動の功罪については、もう語り尽くされておると思います。これが単なる破壊であったと断定することは不穏当だと思いますが、要約いたしますと、歌舞伎そのものを、脚本に手を入れたり、あるいは従来の上演様式を新しくしたりすることは、むしろ成功するよりは失敗のほうが多いということになったのでありまして、新しいものは別途新しくつくるべきであるということから、新派が興り、それから新劇運動が興り、歌舞伎はまたどちらかといえば従来の形に戻って、どちらかが栄えて他の方が滅びるというようなことではなくて、それぞれ発展して今日に至ったというのが私どもの認識でございます。それから、私は歌舞伎の俳優が歌舞伎以外の演劇の畑に出ることを悪だときめつけたつもりは全然ございません。それはそれなりに意味があることだと考えております。ただ、問題は事柄の順序、軽重の問題でありますが、歌舞伎俳優であるからには、歌舞伎をもっぱらやって、その余力をもって他の分野に貢献するということでなければならぬと思うので申し上げた次第であります。余力があって他の分野に貢献するのはたいへんけっこうだと思います。それによってわが国の演劇全体が発展し得るものと思います。ただ、その他の分野のほうに比重があまりかかって、本来専念すべき歌舞伎分野がお留守になっては困るという意味で申し上げたに過ぎないのでございます。
  61. 小林武

    小林武君 それは歌舞伎俳優にまかせることで、あなたがあまり文部省公認みたいなことをおっしゃらないほうがよろしい。文部省の教育課程みたいなことを、歌舞伎の世界の国立劇場ができたときにやってはいかぬですよ。余力ではないな、それは。そういうようなことをあなたがおっしゃるとしたらそれは大間違い。歌舞伎の俳優で大成しようというものは、歌舞伎の名優になるという一つのあれでしょう。そのためにはさまざまなものを手がける、そういうことになるのではありませんか。そういう気持ちは歌舞伎の俳優にまかしたらいい。歌舞伎にとにかく一生を捧げようというものです。特にあなたのほうで、今度は伝承者の養成をやるというようなことになればなおさらでしょう。だから、そういうところに問題を一つ大いに感じますね。くずれ、乱れなんていうことも、芸のことばかどうか知りませんけれども、何が乱れたのか、へっぽこ役者がたくさんいるとか何とかいう意味かしらぬ、なっとらぬというようなことかしらぬけれども、乱れが見えたとか、そういう見方だけでは、ちょっと国立劇場では私はお粗末ではないかと思うのですよ。もっとやはり本質的な、突っ込んだものの見方をしないというとまずいのではないか。これが将来に影響しますから。とにかくそういうことを一つ申し上げておきましょう。  それから二部制の問題なんかも、では一体二部制というものが役者の健康や、それからいろいろな演技の力を出す上においても非常に悪影響があるということをしばしばぼくは見たり聞いたりしておる。それも一つの商業制度の上に立ってやっている。それでもなおかつ商業的な運営ではやりきれないというようなことであるなら、これはあれですよ、国立劇場はよほど考慮してやらなければならない。一部制にするということは、一部制にしたらそれだけ収入が減るわけですから、その際には国立劇場というのは、よほど腹を据えてしっかりやらなければならない。それから出演料の問題でもそうですね。いまの一体出演料というのはどういうことにするつもりか知らぬけれども、その出演料の配分というのはこれはよほど大事業だろうと思いますね。一般の役者というものの生活がどうなのか。大部屋の連中というのはどんな状態なのか。しかし、きわめて豪華な生活をしているものもあるだろうし、これはまあひとり歌舞伎だけじゃないでしょう。新劇の世界にいる人たちはほとんどアルバイトで、まるでひょろひょろになっておるというような話も何か聞いたことがある。そういうきびしいあれをやっている。しかし、なかなかそれは今度はそう簡単には国立劇場の場合はいかないでしょう。そういう点、まだ質問もあることですから、後ほどやりますが、まずそれは歌舞伎はよろしい。ひとまず終わっておきます。  あなたの場合は、歌舞伎の場合の保存のことはよくわかったが、新しい歌舞伎というものが、何といいますか、寿命を長くするということになると、これはしかしよほど考えなきゃいかぬですね。いまのようなやる演題もみな同じだ。そして同じ昔のままのあれをやって、新しさというものは出てこない。 どれほど古いのを正確にやって見せるかという、それは江戸時代の人間の感情に訴えたやり方だ。脚本の解釈もそういう解釈。そうでなければ乱れ、くずれなんていうことを言われるから、それをやっていってどうやるか。伊藤熹朔さんだったか、どっちかの方だったか知りませんが、伊藤さんのどっちかが言っている。歌舞伎の博物館をつくるならまた別だというようなことを言っている。博物館ならいいんですよ。そのまま、古いままきちんと残しておく、そういうふうにやれる人を残しておくというのならいいけれども、少なくともわれわれが考えているように日本芸能文化というものを発展させるという意味からいえば、そういうことはどういう役割りになるのか。歌舞伎というものは大体ある限界まできたらぴたっとしんはとまってしまって、過去のものだけを正しくとにかくやって見せるというだけになる。それに膨大な金をかけて、そしてそれを取り巻く俳優だけじゃないのですから、それらのものを全部整備していくということが一体可能なのかどうなのか、これも考えなきゃいけないと思うのですよ。それはいまの若い人たちの好みが変わってきたということは皆さんの家庭の中に入ってみればよくおわかりになる。これは映画がテレビに食われましたなんていうものとは私はちょっと違うと思うのですよ。幾らりっぱな芸術を持っておっても、世の中の人が買わなければこれはしようがないですよ。音楽の勉強だって、正確な血の出るような修業をして、そしてある年齢に達して、りっぱな芸術家だなんて言われても、なかなか収入がそれに伴わない。きのう何かどこかのものまね歌合戦なんかに出たような人でも一夜にしてスターになれる場合がたくさんある。これはこのごろの歌謡曲なんかたくさんあるんじゃないですか。しかし、これもしかたがない。そういう世の中なんです。だから、そういう点をひとつ理解して、これからもまた別な項で質問をいたしますから、あとでまたお答えいただきたい。  たとえば、どうなんでしょう。雅楽というようなものは、これも聞くところによると、営内庁の中にある。それから先ほどあなたおっしゃったように、天王寺とか、春日神社とか、それから伊勢神宮とかいうようなところがありますけれども、これも宮内庁は何か二十人だと、こういう何か楽人というのですか、音楽のほうは。これもどうだというのだ、これらの一体保存はどういうふうにするのですか、この保存のしかた。
  62. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 雅楽の実情はただいま御指摘になり、かつ私が先ほど御説明したように、もう特定の組織にのみ存続しておりまして、極論すれば宮内庁楽部がこれの保存に当たっておる、こういうのが実情であります。現在、これの公演としましては、楽部において年に数回公開しまして演奏をいたしております。それから地方公演を若干やっております。国立劇場ができました場合には、国立劇場は、雅楽に対しましてはその公演の場所を提供するというような考えでおります。国立劇場が、現在、宮内庁でやっておる雅楽保存につきまして、何かさらに積極的に乗り出すという考え方は持っておりません。
  63. 小林武

    小林武君 そうすると、雅楽の場合はこの第一条に書かれている調査研究だとか、伝承者の問題だとか、それから普及する問題だとか、そういう問題は雅楽の場合はのけられているわけですか。
  64. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) さしあたりは、いままでやっておりました地方公演に対しまして実は補助金を出しているわけですが、その程度に加えまして、国立劇場のおそらく小劇場のほうになろうかと思いますが、そこで公演の機会を提供するということから始めたいと思いまして、雅楽後継者の養成、それから資料の収集、こういうようなことで、現段階では積極的な計画は持っておりません。
  65. 小林武

    小林武君 法律に偽りありですか。法にいう、法十九条ですか、十九条による伝統芸能というのはここで明示されているでしょう、法第一条で。その法第一条によって明示された伝統芸能というのは、一様にやるというのがこの本分じゃないですか。それはやり方はいろいろあると思いますよ。やり方はいろいろあると思いますけれども、それじゃおかしいのじゃないですか。私が聞いているのでは、雅楽というのは宮内庁の中で気息えんえんだと、こういっている。それから先ほど言った神社仏閣によって、たとえば東本願手、西本願寺にもあるそうですが、神社仏閣等にあるものもこれもなかなか容易じゃない、こういうこともいわれている。そういうことが事実ならば雅楽だってやはり手を加えるべきじゃないですか。それだからこそこの中に書いたのじゃないか。雅楽は特別扱い、そうすると、これは何ですか、歌舞伎だけということですか、大体法律に偽りがあるじゃないですか。文部大臣、どうなんですか、これは初めからそういうふうにあれですか、雅楽はとにかく特別扱いですか。
  66. 中村梅吉

    国務大臣中村梅吉君) これは第一条及び第十九条を、法律に偽りがあるものとは私ども考えておりません。大体、伝統芸能についてその公開及び保存、あるいは伝承者の養成、調査研究、こういうことはひとしくやってまいりたいのでありますが、さしあたりどこに重点を置いてやっていくか、いま雅楽等は宮内庁制度もありますしいたしますので、歌舞伎に次いで将来はそういう計画を法律の精神に従って持たなければならないと思いますが、さしあたりのことを村山局長は申し上げておることだと思います。
  67. 小林武

    小林武君 やはりこの第一条の問題が、ぼくは文部大臣のおっしゃることでもよく理解できないのですよ。雅楽なんというものは、歌舞伎と同じように、歌舞伎よりもぼくはもっと保存のしにくいものの一つに入るのじゃないかと思うのです。そうではありませんか。それは宮内庁というところで伝えられているかもしれないけれども、しかし、それが一体どうなる、これから先それをやっていこうという人たち一体十分にあるのかどうか、また雅楽というのが貴重な文化財だとしたならば、それを発展させるということも考えなければならぬでしょう。そういうことがここの場合は、雅楽は入っておりませんというようなことは私はちょっとあれだと思う。もしそういうならば、宮内庁の中においてこうこうこうなっております。この第一条に書かれておりますようなことはこうなっております。これといわゆる国立劇場とが手を握って、そうして十分対策を立てていくのです。こういうなら話はわかるけれども、何も言わずに、いまのようなことを答弁されたり、あなたのようなことを言われたんでは、雅楽は別ですと、こういうことになりますよ。法律に偽りありです。村山政府委員一体どういうことに雅楽はなるか、雅楽の現状、先ほど来、歌舞伎の問題についていろいろ議論したように、一体どうなっているのか、全部まる抱えでやっていくのか、それから春日神社とか、天王寺とか、そういうところではなかなかたいへんなことになっているという話だが、一体その実情はどうなのか、雅楽というものは正確に伝えられていくものなのかどうか、そういう点について、もっとはっきりひとつおっしゃっていただきたい。
  68. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 雅楽国立劇場保存の対象になっていることは、これは明らかでありますが、そのやり方につきまして、御説明申し上げましたように、現在は雅楽の正統的な伝承は宮内庁楽部においてなされております。これに従事する者はすべて宮内庁の職員ということになっておって、必要な道具類、それから後継者の養成というものも、もっぱら宮内庁でやられておるのが実情でございます。ですから、まあ極言いたしますと、これは上演料を取ってやっておるほかの演劇と違いまして、だれも見にこなくてもさしあたりは保存できることになっております。ところが、それでは発展性もないということで、現在、宮内庁自体でも、あれは春秋二回ですか、公演をやっております。それから地方公演もやっております。文化財保護委員会としては、雅楽に対しましてこれを総合指定という形で指定しております。そして無形文化財伝承者養成費という形で、地方公演に対しまして若干の補助金を出しております。で、雅楽に限らず、伝統芸能保存振興の方向につきましては、国立劇場発足と並行いたしまして、いろいろ当事者と協議しながら適切な方法を発見し、その方向で努力していきたいと思っております。雅楽については、特に国立劇場で養成までやってほしいという御意見は現在のところないわけでありまして、さしあたり要請があるのは、公開の機会を国立劇場においても持ちたい、それはけっこうであろうというようなことで、その程度の話しかなされておらないわけでありますが、これも発足後、関係者の話し合いや識者の御意見等を背景といたしまして、必要な手は打っていくべきものと考えております。
  69. 小林武

    小林武君 あなたのこの雅楽の話は、あなたがもっとものようだけれども、やはりそれには、何か雅楽というものを、宮内庁さんは何をおやりになっているか私はわかりませんというような話じゃだめなんです。宮内庁雅楽をやっている方方、それを所管するところの何というか、課ですか、そういうセクションはどういう状況にあるかということを、あなたやはりつかまなければだめですよ。われわれが何かどこかで見たものによると、雅楽はたいへんなやはり状況だという、だから、あなたのところでも、第一条の伝統芸能の中に雅楽というもの入れたでしょう。それから雅楽の価値というものも認められたからでしょう。われわれ雅楽なんというものは聞いたことがない。越天楽なんというのは、これは西洋のあれに直されたやつを聞いても、いや、ちょっとおもしろい曲だなということで、それは親しみを持つけれども、それは雅楽として聞いているのじゃないのです。西洋の楽器で演奏しているのを聞いている。だから、雅楽というのをあなたたち保存するのに、伝承者もこの計画の中にあるでしょう。それから、それを聞いて喜ぶ人たち、そういうもののあれもやるということになったら、一体そういうことで相談しないというのはおかしいじゃないですか。たとえば、文化財保護委員会で補助を出しておるというならば、補助を出すからには何らかの報償がなければだめですよ。地方公演に対しては金を出すというときに、一体どういう要求が向こうからあって、あなたたちどういう判定をして、要求がなくてもやったのか、それは雅楽というものをどう考えておるか、雅楽の将来をどう見ておるか、そういうことでないですか。それを一つも説明してないで、宮内庁やっていますということで済みますか。それをたとえば持っているところの天王寺であるとか、伊勢神宮であるとか、何かそういうところからそういう話を聞いたことはないですか。ないとしたら私は非常に不親切なやり方だと思う。机上プランであって、ほんとうの日本伝統芸能を大事にするなんという角度からはやってないということになりませんか。私が聞こうとするのはそれなんですよ。雅楽の現状はどうなんだ、しかし、その雅楽の現状については宮内庁雅楽のほうのあれを主にして、そうして側面的には国立劇場がそれを支持して、支援していく、そうしてこれを保存し宣伝するようなやり方をやる。それから、宮内庁雅楽でできないことはたくさんあるでしょう、第一条の中に記録調査とか、宣伝とかいろいろなことがあるのじゃないですか。これを私どものほうでやりますとかいうようなことをなぜやらないか、ふしぎでたまらない。向こうは入り込むことを拒否しているのですか、雅楽はおれらのほうが所管しているのだ、要らざることを言うなと、こう言うのですか、宮内庁雅楽部は。そうでは私はないと思う。この間、何か雅楽関係の方が新聞に出されておった記事を見ましたら、簫の製作者がいないということでずいぶん長い文章を書いておる。ほかの楽器はともかく、簫の製作者というものがもうほとんどいなくなってきて、将来とにかく困るというようなことを書かれた。そういう悩みだってあるのじゃないですか。楽器の問題だってあるのじゃないですか。われわれちょっと新聞見たって一カ月の間にそういう問題が出てくるじゃないですか。だめですよ、そんな話じゃ。もっと正確に、雅楽はどういうところにある、問題点はどうなって、簫の楽器の話が出たら、楽器の話もこうだということをあなたは言わなければならぬ、だからどうするのだということを。分担はどうなっておるのか、宮内庁との。そういう話を言わなければ親切味がないんです。そうして、あなたたち早く通せ早く通せというようなことを言っておる。衆議院でどんどんそういうことをあのときに正直に言えばいい。何だかもうさっぱり回りくどくて、聞いていることに答えてないものだから、いらだって、この文章見ればわかる。いらだっちゃって、聞いてないことをあなたおっしゃる、おっしゃるというようなことが何べんも出てくる。
  70. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 雅楽の現状はただいま御指摘のとおりでございます。現在は宮内庁ほか数カ所に残っておる、それに尽きるわけであります。で、その保存につきましては、したがって、宮内庁職員の補充という形に相なるわけであります。それから後継者の問題につきましても、志願者はきわめて少なくて憂慮されておることも事実であります。ただ、現段階の処置としては、宮内庁のほうで雅楽部、つまり宮内庁組織として、職員としておられるわけでありますから、それの保存方法につきましてはこれは協議はいたしておりますけれども、文化財保護委員会のほうで何か肩がわりをしてほしいとか、何かそういう積極的な御提言まではございませんので、私どもとしては求められる援助をやっていく、国立劇場ができたんだから当然その事業対象にも入れて、公開の場所を提供する、さしあたりはそれで関係者の話が一致しておるのが実情でありまして、将来の問題としてはさらに話し合いを続けまして、必要な措置をとっていくということを御説明申し上げた次第でございます。
  71. 鈴木力

    鈴木力君 ちょっと関連。いまの点だけあとでぼくは質問するつもりですから、このあいまいな点をはっきりしてもらいたいのですがね。この村山事務局長が提案理由の補足説明をしているところに、一ページの終わりの三行目から読んでみますと、「特に、雅楽能楽文楽歌舞伎邦楽邦舞及び民俗芸能等の伝統芸能につきましては、云々と、こうありますね。その点、雅楽は別のもので、官内庁が主としてやっているから、宮内庁から頼まれた分だけこっちがやるのだというような、あるいは便宜を与えてやるというような趣旨にはどうしてもここは読み取れぬのです、わざわざ補足説明書を出しているのに。そうすると、国立劇場の主たる事業の対象は、ここに書いてあるものが対象になると読まざるを得ない。いまのような説明をなさるとすれば、まだいろいろのたくさんのことがありますから、この次、機会を見てぼくも質問するつもりですけれども、補足説明をやり直してもらいたい、どうですか。
  72. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 事業の対象として取り上げる伝統芸能の種類を補足説明において例示したわけでございます。ただ、それらの伝統芸能保存振興方法は、それぞれの芸能の性質、それから現在置かれておる状態等によりまして必ずしも一様でないわけであります。歌舞伎のように若干問題はありますが、一般に行なわれているものもありますし、雅楽のように全く特殊な形態になっているものもございます。これらの保存振興方法は、そういう芸能の性質や現状に応じて、さらにまた国の事業でありますので、予算、それから世論の動向、その他とにらみ合わしまして弾力的にやっていきたいという考えであります。あらゆる芸能を一律に同じような方角でやることは、まあ極端に申しますと、不可能でもありますし、必ずしも適切でないと考えております。
  73. 鈴木力

    鈴木力君 ぼくは村山さんの書いた文章で聞いている。どの部門も同じようなことばかりだというようなことを言っていない。あなたの書いた文章をもう一度読んでみますと、ずっとこれを並べておいて、「文部大臣の提案理由にありましたように、社会的経済的諸事情の変遷により、これらが一般に興行的に成り立ちがたくなっていること等から、内容的にも次第に正しい姿を失いつつあるとともに、伝承者の不足と技術水準の低下もまぬがれがたい状況に立ち至りつつあったのであります。」、現状をこう同じように説明してあるわけです。「そこで、その公開を初めとして、伝承者の養成、調査研究、記録の作成、資料の収集、保存、展示等の事業を総合的に実施する施設としての国立劇場の設置につきまして、関係各界から強く要望が出てまいりました。」、こういう理由によってやっているのだという理由を説明してあるわけです。そうすると、同じ伝統芸能の中にこれこれこれのものがあって、これにはそれぞれやり方がみんな違うのだから、それはやり方は違うかもしれない、しかし、事業としての中に、「伝承者の養成、調査研究、記録の作成、資料の収集、保存、展示」、これらは同列でやると書いてある。だから、いまのようなあなたの説明とするとすれば、この理由書を提案理由の説明から書き変えてもらわないと、われわれは振り回されているだけであって、聞いてみれば、先に言った理由とは違ったことを説明する。それではとてもあとの結論を生むまでの審議というものはむずかしいわけです。初めからあなたの態度は、同じ立場に立てば歌舞伎はこうする、歌舞伎以外のものはこうするということをほんとうに説明しておいてもらわないと、文章どおりまじめに読んでいるものは、あとで、ああそうかということになると審議がぐらつくから、早くあげろと言われるけれども、これではあげにくいから、その点をはっきりしてくれ、こういうことです。
  74. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 詳細に御説明申し上げますと、ただいま申し上げたような順序、テンポになるかと思います。それをごく短い文章に要約して御説明申し上げましたので、補足説明の段階では舌足らずになりましたことをおわび申し上げます。
  75. 小林武

    小林武君 そのおわびは、その文章のことよりかも、文章は文章としていまのようなおわびができるかもしれない。しかしあなたは、先ほどからぼくはしつこいくらい言っている、それぞれみんな違うだろうということは、条件が違うだろうと思うんですよ。歌舞伎なんというのは、何といったって商業ベースでやれるような状況にまだあるわけですよ。それはあなたのほうでいろいろ御心配になるけれども、将来やっぱり問題はあるにしても、とにかく松竹とか、東宝とかでやっている、そして松竹と東宝の間で役者の取り合いをやったという事態もあったでしょう、そういうことをやるということはまだ商業的に成り立つということですよ。そういうものと、それからまたいま出ました雅楽というようなもの、これは条件が違うわけなんだ、これには宮内庁というところがある、しかし、宮内庁におんぶしておってできるのかどうか。ぼくの見たところでは、二十人ぐらいいるという話だが、一体二十人で雅楽というものがいいのかどうか、その中に、一体後継者、若い層というのがどのくらいあるのか、調べてみれば、ぼくは、後継者の不足というようなことをあなた替われたが、これはたいへんだと思うような事態があるんじゃないか、毎年、一体そういう新人の養成というのはどういうことになっているのか。それをもう家柄が、ずっと家でもって世襲制になっておって、家庭においてそういうこと々やっているというのか、いろいろ説明しなくちゃいかぬですよ。そういうことをやって、そうしてこの事情の上に立ってかくかくの方策というのがある、そこにいろいろな差が出てくるのはいい、差が出ても、この第一条に書かれたようなことは国立劇場はやらなければいかぬですよ。そうでしょう。そうでなかったら、法律にいつわりありですよ。ある人が端的に書いている、これは歌舞伎中心ということになったと。歌舞伎中心のことなら歌舞中心と書いたらいい。伝統芸能とはイコール歌舞伎である、歌舞伎保存であるというのなら、そう書いたほうがいいですよ。そうでないと、あなたのほうで言っているんだから、法律もそうじゃない、それならばそれらしいような説明のしかたというものをあなたなさるべきだ、国会でそれだけの労をあなた尽くさないというと、これからいろいろ何をやるについても不便ですよ。与党を問わず野党を問わず、あなた訴えなければだめですよ。そのためのこれは委員会じゃありませんか。大体、早く上げろなんということよりかも、いかに詳細に説明して、そして相手方に納得してもらうかということが大事なことじゃないですか。雅楽についての説明はとにかく納得いきませんから、これはひとつもう一ぺんあなたのほうで整理してやってもらいたい。  しかし、雅楽ばかりやっているわけにはいかぬから、次に邦楽というものをひとつ一括してお尋ねしたい。邦楽邦舞の中に、一体いまのような角度で保存を特に必要とするというような現状、そういう分析はどういうことなんですか。それに対してどのような手だてを講じようというのか、邦楽邦舞とは一体何を言うのか、雅楽をはずした、歌舞伎をはずした、文楽をはずした、そういった場合に、その残った邦楽は何なのか、そういうことをはっきり言ってください。
  76. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 邦舞といたしまして、現在、無形文化財指定をしておりますのは歌舞伎舞踊とそれから上方舞でございます。これが邦舞の代表的なものであろうかと思います。その範囲を正確にということでございますと、午前中にも申し上げましたように、これははっきりしておらないと、そのつど判定をするほかないと申し上げるほかはございません。それから邦楽のほうでございますが、これはまあいろいろあるわけでありますが、琴とか、三味線とか、尺八とか、そういう日本古来楽器を使ってやる音楽、それに歌が入るわけでありまして、名前を試みにあげますと、箏曲は生田流とか、山田流とか、そういう流派がございます。それから尺八は普化尺八とか、琴古流とかというような流派がございます。それから琴でありますが。これは一弦琴とか、八雲琴というのがございます。それから語りものとしては浄瑠璃、これはいろいろありまして、河東、一中、義太夫、それから新内、害薗、常磐津、富本、清元、これらは歌舞伎の中で下座音楽として取り上げられますし、場合によってはこれがまた独立で演奏される場合もございます。それから唄ものとしましては、地唄、長唄、荻江節等がございます。これらを総称いたしまして邦楽と称しております。これは保存の形態といたしまして、現在一部のものにつきまして無形文化財指定がなされて一おりますし、それからそれに至りませんものは、保存すべき記録を選択して作成しております。で、国立劇場ができました場合、これらにつきましても公開の計画を立てる。それから採譜とか、あるいは資料を収集して残すというようなことをやってまいろうかと思います。ただ、その公開の機会は、これらの現状や観客層から考えまして、そう一カ月も続けて上演するようなことは不可能でありますので、適当に一日あるいは二日というような区切りで年間の公開計画の中にはさんでいくことになろうかと思います。
  77. 小林武

    小林武君 まず邦楽のほうで、歌舞伎何というのですか、上方踊りと歌舞伎踊りですか、それは歌舞伎踊りというのは、いまはそういう歌舞伎踊りと何があるのですか、邦舞の中に。
  78. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 邦舞はいろいろなものがあるわけでありますが、現在、無形文化財指定をしておりますのは、歌舞伎舞踊と京舞と二つの分野でありまして、保持者としては歌舞伎舞踊が花柳寿応さんと藤間勘十郎さんでありまして、それから京舞は井上八千代さんが認定になっております。
  79. 小林武

    小林武君 それはそうすると、花柳寿応さんとか、井上さんという名前が出たからわかりましたけれども、それは流派としてですか。たとえば踊りの流派について文化財指定をしたわけですか。
  80. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 流派ということではなしに、歌舞伎舞踊の代表的な保存すべき文化財という意味指定がされたようでございます。
  81. 小林武

    小林武君 まあ大正以来から歌舞伎の振付師というのが独立した舞踊家として、その後、流派というのがどんどんたくさん出てきた。振付師から出た流派もあれば俳優の中の流派もある、いろいろあるのですが、その場合には流派というのは全く関係がないのですか、この場合に。たとえば井上さんなら井上さんの上方舞というのを入れた、寿応さんなら寿応さんという人のあれをやった場合には、寿応さんの立てている何々流というものとは関係ないですか。そうすると、たとえばあなたのおっしゃるあれだというと、そういう寿応さんの主宰している流派とは関係なくそういうもの全般を保存するということになりますか。どういうことですか。
  82. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 流派とは特に関係がないと聞いております。
  83. 小林武

    小林武君 そうすると、いわゆる歌舞伎、上方舞に関係するものはどの流派であってもそれは全部保存されるということになりますね。保存の対象になるわけですね。そう理解してよろしいですか。
  84. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 歌舞伎舞踊は総合指定ではなくて個人指定でありますので、要するに、花柳寿応さんと藤間勘十郎さんの技術が保存すべきものである、かように考えられておるわけであります。
  85. 小林武

    小林武君 それは個人の芸に対してですね、その人の身につけておるところの伝統芸能というものをいっておるのじゃないですね。伝統芸能を重んずるということからいえば、その個人というものを、いわゆる非常に上達した人を無形文化財なり何なりにしたということはわかっても、その人のやっておる伝統芸能全体をとにかく保存するということにはならないね。そうすると、あなたの答えはその点では食い違う。そうすると、邦舞邦楽というのは何と何があれですか、そうなると、歌舞伎ということにはならぬでしょう。
  86. 村山松雄

    政府委員村山松雄君) 無形文化財指定と、それから国立劇場の事業対象とがぴったり符合するものでは必ずしもないと思います。おそらく無形文化財指定のほうがより狭く、国立劇場はその指定芸能を中心にするといいますか、基礎にするといいますか、それに重点を貫きつつ、その周辺までも広げて保存振興をはかるということになろうかと思います。多少、先ほどの御説明をもう少し申し上げますと、無形文化財指定は、芸能指定しまして、その指定しました芸能保持者を認定する、二段がまえになっております。そこで、歌舞伎舞踊の場合ですと、無形文化財として指定されたのは、歌舞伎舞踊という舞踊分野、いわば全体が指定されておるわけでありまして、その中で、その指定芸能のわざを伝える保持者としては寿応さんと勘十郎さんが認定されておる、こういうとらえ方なのであります。
  87. 小林武

    小林武君 そうすると、先ほど私が言ったように、その歌舞伎舞踊と称せられるもの、あるいは上方舞というものは、その人のやっておる流派とは関係ないというからね、流派と関係があれば藤間勘十郎さんの主宰しておるその流派のあれになりますけれども、そうじゃなくて、広い意味歌舞伎舞踊だということになると、歌舞伎舞踊全般が伝統芸能として今度これは第一条のあれになりますね。そういうことになるでしょう。そうすると、さっきのあれと違いますけれども、そう確認してよろしいわけですね。  ちょうど時間がきましたからこれでやめますが、そのあと、この邦舞邦楽の場合について若干まだ質問がございますし、文楽があり、能楽があり、民俗芸能がありますから、大体いまのようなことでお尋ねするわけでありますから、この次、なるたけ早く終わるように、どうぞ御検討していただきたいと思います。その後なお私の質問することは、第一条に書かれている支持層の育成、普及、啓発事業、それから伝承者の養成、それから今度は運営の全般について。大体こういうわけですから、そのつもりでどうぞ。
  88. 二木謙吾

    委員長二木謙吾君) ほかに御発言がなければ、本法案に対する本日の質疑はこの程度にいたします。  本日はこれにて散会いたします。    午後五時一分散会      —————・—————