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鈴木強君 で、これは、
有線放送電話を
公社線と
接続することについては非常に問題がありまして、しばしばわれわれも
意見を出しておったわけでありますが、ひるがえって、戦後の
有線放送の歴史を調べてみると、
最初は、法的にはあまり
関係なく、自然発生的に、
全国にどんどんどんどん
有線放送という
施設が始まってきたわけですね。それで、こいつを何とか規制しなきゃいかぬという声が出てまいりました。いわゆる商業広告などをやってみたり、それから、いろいろと講演だとか講談だとか、慰安娯楽等もやったのでありますが、選挙運動にまでこれが使われるということになりまして、問題になって、当時、
国会のほうから実は提案をして、
有線放送の規制に関する
法律というのをつくって、
有線放送に規制を加えたといういきさつがあるわけですね。ですから、街頭放送なども、戦争後、よくわあわあとやっておりましたが、ああいったようなものが、いうならば
全国に、どんどんどんどんでき上がってしまった。それで、そのまま放置ができないものですから、
国会のほうが心配して、これを規制した。そういういきさつになっていると思うわけです。
そこで、その後、だんだんと放送の
設備が改良されていくに従って、相互の
電話が便利だというので、今度は放送よりも
電話を主にして、
電話を始めてしまったのですね。ひどいのになると、
公社から入っている市外線、
——放送所がありますから、その放送所の中に交換があって、その交換を通じて幾つものラインの人たちが相互に話をしておったのですが、ひどいところになると、
電電公社の市外線の受話器と送話器を逆に
電話のほうの交換のほうに組み合わせて、それで
電話をやったりしておったのですよ。私は、神奈川県のあるところを
昭和三十一年ごろだったと思いますが、視察に行って見ました、
国会から。そうして交換室に入って一番初めに聞いたら、放送よりも
電話のほうがよほど多いというのです。扱っているのは、八割が
電話で、二割ないし三割が放送だということを聞きました、交換手さんから。これはえらいことをやっていると、それは
公衆電気通信法からいうと違反ですよ。その違反なことを平気でやっておるのです。それで、これは黙っておれぬというので、
昭和三十二年に、私どもが
国会に出た翌年ですが、例の
有線放送電話というものをどうするかということで
論議しましたが、当時、
電話がなかなか農村のほうにまで行きわたらない、資金的な面もありまして。そこで、内部だけはしようがないじゃないか、実際やっているものをやめろというわけにもいかぬから、つぶすわけにもいかぬからということで、内部だけのそういう
電話だけを、相互の
有線放送電話法というものをつくった、それが
昭和三十二年です。それで、そのときもわれわれはそれが精一ぱいで、それ以上
公社の線と
接続するなどというようなことは、これはどこを押しても出てこぬ。この点については、
公社が積極的に農村に対する
電話を開発して、その面から農村の方々の
電話需要の御要求に応ずるように緩和をしていく、改善をしていく、そうして、もうその程度のこと以上やってもらいたくないというのがわれわれの
意見だった。ところが、三十六年、三十七年と
電話が
公社線と
接続できるようなことをやってしまったのですね、これは。しかも、県外までいったのでしょう。一体、どうして三十六年、七年にそんなことを始めたのでしょうか。これはおそらく
試行でやったと思うのでありますが、私にはそのところがいまでもまだわからない。そうして、いまになってからあわてて、三十三年に七カ所をどうかとかと言っているけれども、それならなぜもっと、三十六年に五カ所、三十七年に二十八カ所市外通話をやるということを
試行したときに、なぜもっと真剣に考えなかったろうかという気が私はする。現に、三十三カ所の
施設については、その後、当該交換局が自動交換方式になって、たとえば札幌の地方
電話局のほうに入っている豊平の東部の農協の
電話を見ますと、東京ほか外部三百六十カ所に
電話ができるわけです。まあ近いところで千葉市の有放協会を見ますと、東京ほか二百九十五カ所、こういうふうに相当に県外の配置数というものがふえておるわけです。実際にこういう経路をやって、しかも、十分に
電話の用が足せることになりますと、これをやめさせるということについては、これは大問題ですよ、やっぱり。これは
技術的に
皆さんのほうでどうしても不可能だということが事実として明らかになれば、これはまたやむを得ませんけれども、実際にこれだけの県外配置で十分に
電話が通ずるということになっているのに、やめろということはこれは酷ですよ、
国民に言わせれば。だから、そんなことをいまになってあわてるというのはおかしいので、なぜ、三十六年のときに
電信電話事業というものはどうあるべきかということをもっと真剣に研究してもらわなかったか。われわれも
国会におったのですが、たまたま私は社会労働
委員長のほうへいっておったものだから、当時この審議に加わらなかったので、ここで私は言うのですけれども、われわれの
責任でもあるから、
皆さんを追及するのは申しわけないのですが、私を含めて自己批判をしているのです。だから
試行ということが、非常に何か安易にやれるんじゃないかということ、さっき申し上げたように、私は、
試行ということで三カ月なら三カ月、一カ所なら一カ所やってみて、何もこんな三十何カ所もやらなくてもいいのです。磁石式なら磁石式、共電式なら共電式、自動式なら自動式を三カ所ぐらい選定して、一カ所ずつやってみて、それがうまくいくかいかないかをためすのが
試行制度じゃないですか。それを三十三カ所やってしまえば、その人たちがそのままうまくいけば、やってくれと言って要求するのはあたりまえのことですよ。そんな行き当たりばったりの電通行政というものが今日の私は災いを起こしていると思うし、特にこの
試行についてはもっと真剣に考えなければならぬのじゃないかと痛切に感ずるのです。これはどうして三十六年、七年にそんなことをやったんですか。一応ひとつ
経過をこれを
郵政大臣から聞かしてください。