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相澤重明君 これは私の調べたのですから、正確かどうかわかりませんから、あなたにちょっと聞いておきたいし、あとで会計検査院もこれは
質問を申し入れておきますから、お調べ願いたい。この共和精糖がそもそも誕生をいたしたのは、
昭和二十八年ころだと記憶をしておるわけです。当時は資本金が九百万、東京の江戸川区西小松川に誕生をしたと思うのであります。当時砂糖
業界等は、こういう
関係の
業界は百二十三社あった。しかし、そのうち番付からいけば、びりから一番目か二番目で、決していいところではなかった。ところが、その共和精糖は年間二千万円前後の小さい会社であったのが、今日九州の宮崎県細島甘味総合コンビナートができると、世界で四大工場の
一つになるのです。世界で一番大きいのは、西ドイツ、英国、アメリカ、それに次ぐのが
日本のこれなんですよ。この世界四大工場の
一つが
日本にもできるということは、これは非常にうれしい。税金をうんと納めてもらいましょう。いいことです。
そこで、この共和精糖は、たいへん多くの会社に
関係しておるわけです。子会社といいますか、お友だちの会社といいますか、資本が一緒になるといいますか、そういう会社がたいへん多いのでありますが、このいわゆる共和精糖は、私の見たところによりますと、三十三年にいわゆる民間の相互銀行から五千万、三十四年ころに一億一千万以上の
融資を受けております。しかし、この
融資を受けておるけれども、三十四年の暮れには全部返済をいたしております。これは私の調べたところですよ。同じように、この共和精糖の代表者は、これは菅貞人さんという社長なんですよ。この人は工
業界においては非常な成功者ですね。ちょっと履歴を申し上げますと、三十三年に全
日本製糖会の協同組合の理事長に就任をしております。三十四年には共和精糖の社長、三十五年には社団法人
日本ぶどう糖工業会の副会長、三十六年が共和糖化工業の社長、三十六年は
日本甘庶糖工業会の理事、三十七年が社団法人甘味資源振興
資金管理会の理事、同じく三十七年が全国澱粉糖工業会の振興会会長、同じく三十七年が新
日本シュガー協会の理事、同じく一二十七年が南栄糖業取締役副社長、三十七年が社団法人
日本農林規格協会副会長、三十八年が南島開発取締役会長、三十八年同じく東洋果糖の社長、三十九年が社団法人
日本ブドウ糖工業会会長、三十九年同じく甘味資源審議会
委員、これは
政府任命の
委員ですね。だから、これは
食糧庁長官の言うように、全く
日本の
ブドウ糖工業界には貢献をしておる人ですね。肩書きがずらっとこう並んでおります。この人の、いま申し上げたそれぞれの中で
関係して、おる会社です。
京浜糖業、これは三十三年にたしかできたと思うのです。で、そのときは、代表者は必ずしも菅さんではなかったと思うのですが、三十四年に菅さんが社長になっていると思う。
それから島藤澱粉化学、これはこの京浜糖業の前の会社の名前なんですね。これが三十三年です。三十三年に島藤澱粉化学ができて、同じく京浜糖業も三十三年にできたのだけれども、それが一緒になったのですね、後には。京浜糖業というのは、現在は資本金が一億くらいあるんですか、もう三十五年当時に。
それから、この島藤澱粉化学工業がいまの京浜糖業になって、そのときに金融をしたのはずいぶんたくさんありますね。千葉銀行二千万、
中小企業金融公庫一千万ですか、これはあとで答えてください。千葉銀行同じく一千万、農林中金四百万、全農販連五千万。三十四年に
農林漁業金融公庫が一億八千万ですか、三十六年には同じくこれは二億三千万ですか、だいぶ出ておりますね。
そういう
関係の会社、いま
一つ、京浜精糖、これは何しろ、私の
横浜にも
関係があるんですね。本社共和精糖は東京でつくって私のところの
横浜に来ているのです。磯子区丸山町に本拠を置いてあるんですからわかるんです。
地元ですからね。それで、また東京に帰っているのですね。広島へも行っておりますね。千葉へも行っておる、本社が。その間はずいぶん社長がかわっているのですね。
それから京浜精糖、これはやはり
横浜の、私のところの磯子に本社を置いたんですね。これは三十二年に、京浜精糖は
横浜に移ってきているわけです。その後、この京浜精糖は三十四年に社名を広島商事と変更して、もと、私どもの同僚の参議院副議長をやっておりました重政君、この前ピストル事件で秘書がだいぶやかましく言われましたが、あの御兄弟の重政さん、その秘書の田中さん、その人のところに置いたのじゃないですか、これは。そこへ行ったんじゃないかと思うのですがね。広島は広島県深安郡神辺町川南というのですか、そこに本社を一時置いたのですね。それが広島商事。で、今度は広島から本社を千葉に移して、それで、私のところに来て、今度は私と同じ名前になったのです。
相澤商事に。(笑声)全くこれはどうも弱っちゃうもんですね。
相澤商事と、こうなる。その後、
相澤商事も、間もなくこの名前が消えてしまった。それから、今度は内外機械となった。それで今度は、千葉から中央区に本社を移している。これがまあ京浜精糖というのですね。別に私の名前を使ったわけじゃない。これは国税庁長官、私の調べたところですから違うかもしれませんがね。
その次に、新和精糖、これはやはり資本金が九百万円、本社がやはり私のいる磯子区の丸山町、これも三十二年以来、中金であるとか相互銀行等でだいぶ
融資をしております。約八千万くらいですね。四回くらいに分けてある。
それから京浜商事、これも三十四年ごろにできたわけです。これはやはり相互銀行
——民間の相互銀行から五千万からの
融資が来ている。これは共和精糖と同じ建物ですね。しかも、共和精糖が担保を提供してこの金を借りておる。
それから高橋商事、これは京浜商事と名前を言っておったこともあるわけです。これもやはり三十四年当時は、一億六千万くらいの、これも共和精糖の
土地を担保に金を借りておる。こういうことです。
私は、三十八年の
自由化になる前のブドウ精工
業界の変転きわまりないことを
——これは
一つの歴史ですね、そのことから私は伺います。
このことを見ますと、この菅さんという人は、実に腕のいいりっぱな人で、
日本の糖
業界に非常に貢献をした人であるが、借金もじょうずだったということが言えるわけです。しかし、それだけに、本社を、こういう会社がそれぞれ転々としておったときに、金を借りることがじょうずだったが、一体、税金を納めておっただろうか。国税庁長官は、少なくとも先ほどの御
答弁では、会社はつくったけれども、赤字であって、繰り越し赤字がある、こういうことで、おそらく税金の対象にはならぬ。ところが、見てみると、これはこまかい資料ですから
——私もずっと調べてみたが、あとを追ってみると、実にじょうずに金を借りておる。しかも、先ほどの
清井総裁の
お話ではないけれども、
農林漁業金融公庫というのは国の出資である。国民の税金である。もし、一銭も税金を納めておらないような会社に、国の金が貸されておったら、一体、どういうことになるか。まあ、おそらく、そんなことはないと私は思うのです。ないと思うけれども、もし、いま国税庁長官が
——これは共和精糖の話だけを、
一つしたが、もし、そういうことになったら、私は、国民のたてまえとしてたいへんなことじゃないか。この
関係の会社が、それぞれが本社を転々として移り、
金融機関からは金を借りて仕事をしておるけれども、国には税金を納めていなかったというようなことになったらどうなるか。こういうところに法律の盲点、あるいはこういう金融界の盲点、これを巧みに利用したということになって、その人が頭がいいということになってしまえば、それは私はもう話は終わりだと思うのです、そうですね。
先日も、
通産省の伊藤軽工
業局長と
大蔵省の藤井
政務次官が、マルマンのいわゆる
融資について、私の肩書きを貸したが、そこだけを貸したのじゃない、もし、必要であれば、幾らでも貸します、書きます、こう言ったけれども、無制限に国の金というものはあるわけじゃない。
農林漁業金融公庫の金も無制限にあるわけではない。したがって、そういう国が出資をしておるところの、いわゆる国民の税金によるもの、そういうものが
融資をされた場合に、そこから上がってくるものは、やはり税として還元をされなければならぬと私は思う。そういう点について、私にはまだわからない。ほんとうのことはわからない。資料はたくさんありますよ、手元に。資料はありますが、わからないから、きょうは国税庁長官を呼んだわけです。調べてください。
それから、会計検査院もこのことについては、三十八年に輸入割り当てがなくなる、三十八年に
自由化になったわけです。その
自由化以前にこの各精糖
業界に貸し付けた金というものは相当たくさんある。それはどうなっているのか、それをひとつ会計検査院は調べてください。次の機会に報告をしてください。
そこで、現在の共和糖化工業あるいは共和精糖は、先ほどの国税庁長官の話も含んで、
清井総裁に
お尋ねしておきたいのは、債権は全部
確保してあるわけですね。あるいは、その返済というものはきちっと行なわれておる、あるいは
計画はどうなっておるか、こういうことを少し御
答弁いただきたい。