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小林委員 それは行政官庁といたしまして、
検察庁の独立の捜査に対してつとめて干渉をしないというあなたのその基本的な態度を、私は否定しようというものではない。しかし、私
ども国民の代表としてここで御
質問をするのでありますから、やはり指令、命令の系統がある限り、ある程度の内容は、あなたも報告を受けるなり、あるいはその真実を知って、できるだけのことはここで報告をしていただかなければならぬと私は思う。その
責任はあなた方にはある。
そこで私は申し上げるのですが、この問題に対して一点の疑点は何か。これは
検察庁も、最高検も高検も、とにかく授受はあったのだという。ただ、そのやった金の目的が、いわゆる事前
運動の資金としてやったのか、あるいは知事側が言っているように、四年間、正確に言えば三年単でございましょうが、いわゆる県
会議員として知事に協力を願った、その協力に対する感謝の
気持ちで金一封をやったのだということでありますが、もしそういうような感謝の
気持ちで選挙を目前にした事前にその金を渡すことが選挙違反でないということを、もしあなた方が明白におっしゃるならば、今後われわれはもはや事前
運動なんというものは、すべてにおいて私は成立しないと言わなければならない。特に、新しい事実ではないけれ
ども、これは私は感謝でないという明白な事実を、いま速記録にかけて、明白に申し上げます。いいですか、明白に申し上げますよ。これは新しい事実でも何でもないが、申し上げましたように、塚田さんが金を渡したのは、昨年の七月の二十日前後から八月にかけて渡したのです。ところが、そのときの県会における知事選の状況は一体どうであったか、これを私は申し上げます。
六月の下旬までは、新潟県においては塚田さんというものはほとんど独走体制、対抗馬としては、ただ共産党の候補者が一人立候補を宣言しているだけで、野党第一党で、いつも激しい知事選を戦う社会党の側には、まだ候補者というものがなかったのです。そのときには知事は非常に高い姿勢で、もはや独走体制をしいてゆうゆうとしておられた。ところが、七月の初めに入って様子がくるっと変わったのです。どういうふうに変わったかというと、
——私はあなたにそこまで申し上げるのですよ。私は、
検察庁に証人に来いといったら、いつでも証人に行って立証いたしますけれ
ども、そのときには内閣の改造が五月にありまして、河野一郎さんが閣僚から去られたのです。それから河野さんの動きも関連いたしまして、新潟県の中では河野派の直系であります、現在の自民党の代議士直四郎氏を新潟県知事に出そうではないかという動きが、与党、野党の間に出てきた。それは何かといえば、与党自民党の中でも、塚田さんがあまりにも汚職が過ぎる。知事の
権力をほしいままにして、あまりにも乱脈な県政をやり過ぎる。公的生活においても、私的生活においても、県民を土足にかけたやり方だ。これではもはや政党政派を超越して、県民の一員としてこれは見るにたえない。この際はひとつ、何とか新潟県を粛清するために、適当な候補者を選ばなければならない。そのためには河野さんにもこの問題をよく
考えていただいて、河野さんの直系である亘四郎氏に出てもらおうじゃないか、こういう話があって、この間非公式に河野さんに打診が行なわれた。そのときに
——私はなくなった人に対してうそを言っては、死者の霊魂を軽からしめることになりますから、うそは言いません。河野さんは、よろしい、それでは亘君にやらせようじゃないか。おれも、日魯漁業その他を通じて、亘君とは特別の関係があるんだ。その亘君の選挙資金はおれが出そうじゃないか、こういう話し合いになっていった。そこで問題が非常に具体化してきた。これは七月の初めの話ですよ。ところが、いま
一つ、この問題に関係する重大なポイントがあるのは七月の五日です。ちょうど参議院の選挙の投票が七月三日に終わりました。もはや地方区の開票は済んだ。ちょうど全国区の開票が行なわれている七月の五日の日です。見てごらんなさい。新潟日報という新潟県だけの、唯一の
新聞の朝の記事に、副知事であります吉浦浄真氏が副知事を首になって、そうして自治省に赴任をしていかれるという記事が載ったのです。われわれはその前にも、塚田さんと吉浦副知事の間には、参議院の立候補等もからんで、両者の間にみぞができた、非常に冷たい関係ができあがったという情報をキャッチいたしました。しかし、知事の選挙を前にして、まさか副知事を首にするようなことはなかろうとみんなが
考えたにもかかわらず、七月五日の朝の
新聞に、その吉浦氏が塚田さんから追い出されて、自治省へ参事官として帰るという記事を見た。そこで、心あるものは吉浦氏のところへ行った。事情は一体どうなんだ。詳しいことは言わぬが、この際君もひとつ長年、新潟県で七、八年めしを食った、新潟県が第二の君の故郷だ。この際知事選に立候補する意思は一体ないか、こういうことを打診をした。しかし、彼はそのときには黙して語らずであります。申し入れば非常に好意的に受けますけれ
ども、唐突にそのことを言われても、私はこの問題を受けるわけにはいかない、こういうことでありますけれ
ども、しかし、気は十分と判断する者は判断した。その問題を中央に持ち寄って、そうして自民党、社会党ともに、新潟県の腐敗堕落を憂うる諸君が集まって協議をしたときに、そのときのまとまりは、一応これならば河野さんのバックもあるから、亘君をひとつ知事に出して、そして吉浦君を何とか自治省からまたもってきて、これを副知事にして新潟県を再建しようじゃないかと、大かたの話がまとまりかけた。いいですか、
刑事局長、そういたしますと、その話がまとまりかけているときに、はからざりき、七月七日ですよ。河野さんが脳溢血で倒られるという問題がここに起きた。そうして七月八日に河野さんがなくなられたのです。これは
新聞を見てください。そうすると、河野さんのバックで出る亘君の立候補というものが非常に影が薄くなった。河野さんがいない亘君というものは、独立の知事というものは力がないのではないか。そこで、その空気がくるっと変わってこうなった。むしろ吉浦君を知事にしよう、彼を対抗馬にしようじゃないかという話になった。そうしていよいよ七月十日には、この
運動はもはや
——有力なる自民党の幹部、自民党のいわゆる反塚田、反主流の幹部と、社会党の有志の中にもその話が出てまいりまして、いよいよ七月十日には一切の段取りにがかった。それで吉浦君にもその問題を打診をして、吉浦氏のそのときの回答は、私は、まことに申し出感謝感激にたえぬけれ
ども、まだ副知事の地位にある、塚田さんに使われる身の上でございますから、ここでイエス・ノーの返事はできません。一応七月二十日には、新潟を去って自治省に赴任していきます。その赴任の
あとにその問題は再び慎重に考慮さしていただきまして、そして八月十日前後に私の回答を
皆さん方に寄せることにしていただきたい、こういう返事があったわけです。しかし、その返事に基づいて、それに関係している者は、
——私も関係者の一人です。関係している者は、もはや吉浦氏の気十分なり、こういうことで、この
運動は実に迅速に、その具体的な準備
運動を開始した。もちろんその話は塚田君の耳に筒抜けです。社会党だとか他党の者だけならいいです。自民党の諸君も入っているから筒抜けです。そこで塚田君が驚愕したわけです。驚いたわけです。これはたいへんだ。彼は非常に冷酷な男であります。
人間が非常に計数的であります。したがって、その前から、三年間も知事をつとめておりましたけれ
ども、県
会議員に対しては、
自分の好きな者ときらいな者を区別した。同じ自民党の議員の中でも区別をいたしまして、きらいな県
会議員にははなもひっかけない。しかもけちんぼうでありますから、好きな者でも、それまでは、盆暮れでも菓子折り
一つか、二千円税度の感謝のしるししか県
会議員にやっていなかったのでありますから、その副知事だ。したがって、県民の中で非常に人気がありました、自民党の議員諸君の中でも非常に人気がありました副知事が、いよいよ立候補するらしい、彼自身はまだ内諾を与えていないらしいけれ
ども、もはや既成事実ができ上がったということになると、
自分のほうの県
会議員も副知事のほうへ行ってしまって、
自分は孤立してしまう、これはたいへんだということで、そこで彼はあわ食って早急に、七月二十日ごろからばらんばらんと、まいたことのない、最低二十万円の金をまき出したのです。こういう事実、そういう時間の経過が織りなすごとくきちっときまって、二十万円
事件というものが発生しておる。これが一体県知事をやった感謝のしるしでございますか。御礼の金一封でございますなんというようなことが言われますか。しかも塚田さんは、私は知事に立候補いたしますというようなことは、もう六月中旬に意思を発表して、どんどん
新聞に書いているのです。こういうような明らかな事実があるのを、まだ検察陣が、これは謝礼金でございます。その性格は不明確であるというような理屈で、県民や私
どもを愚弄なさるなどということは、私は天をおそれず、人をおそれず、あまりにも
権力をほしいままにしているやり方ではないか、こんなことで一体
日本の民主政治の土台が築かれていきますか。選挙法が正しく行なわれていくようになりますか。私の言うことにうそがあるとおっしゃるなら、うそだと言ってください。
刑事局長、これに対して所見を述べてください。