○
山崎参考人 東京学芸大学の
山崎でございます。私は
教員養成大学の教官の一人として、
教員養成の実際に携わっているという
立場から、この
法案に対する
意見を申し上げたいと存じます。
このたびの
改正法案につきまして、これを提出されました
政府は「
教育職員の
資質の
保持と
向上を図るため、
教育職員の
普通免許状の授与の
所要資格に係る
最低修得単位数等を改める」ということを
提案理由としておられますが、
一般論として、この文言の限りではこれに異論を唱える人はまずないであろうと私は思います。
教員資質の
保持と
向上ということは、この
教育職員免許法自体がその目的として第一条に掲げているところでありますし、かつ
免許法という
法律は戦後
教育改革において確立された
大学における
教員養成の
原則と、その必然的な要請としての
開放的免許制の
原則とに照応して、まさに
大学において
養成されるにふさわしい
教員の職務の
専門性を保障するための
法律として制定されたものでありますから、したがってそこでの
教育と
教職の
研究が発展すれば、つまり
教職の
専門性がより高まりさえすれば、それに応じて当然
大学における
教員免許基準を引き上げるための
改正が行なわれることは、本来予想されているところであるからであります。けれ
ども、問題はその引き上げ方であり、引き上げの中身であろうと思われるわけであります。言いかえるとこの引き上げということは
免許基準の水準についてのことであります。
基準の引き上げが
大学における
教育課程を質的に規制したりあるいはその編成の自主性を大幅に拘束したりするということが許されることではないということは申し上げるまでもございません。
このような観点から見ますとき、このたびの
改正法案ははたしてさきの
提案理由についての
一般論としての妥当性にふさわしいものとして受けとめてよいものだろうか。言いかえますと、
改正法案の
内容は、
免許法立法当初の理念、性格と同質的な発展線上にあるものと
考えてよいだろうかどうだろうか、問題は、この点にあると私は思うわけでございます。そしてこの点から見ますときに、
改正法案は、結論的に申しまして、
免許法立法当初の理念、性格と同質的な発展線上にあるとは私は言い得ないんじゃないか。より端的に申しますと、
改正法案の描く
教員の
資質とそれをささえております
教職観というものは、立法当初のそれを全く変質させており、後にも申し上げますように、
改正法案は、単に
教員免許のための
単位取得の
基準を上げるにとどまらず、
専門教育科目の分類あるいは構成を変えることによりまして、
改正提案者たる
文部省の
教職観が、
大学の
教員養成教育の性格と
内容を質的に規定する結果をもたらすことになるという点で、私は、少なからず批判の念を持たざるを得ないわけでございます。
改正法案を拝見しまして問題を感ずる点は幾つかあるのでございますけれ
ども、時間の関係もございますので、先ほど
玖村先生もおっしゃいましたように、
別表第一に関することが一番重要な論点になりますので、以下、
別表第一に関することに限りまして、若干申し上げることにいたしたいと思います。
最初に、
別表第一に関しての問題でございますけれ
ども、まず第一に、この
別表第一の
免許状取得のための
専門教育科目の修得必要
単位数に関する規定におきまして、
専門教育科目の
単位分類の
変更、つまり現行の「
教科に関するもの」が「
教科及び
教科教育に関するもの」というふうに改められたことでございますけれ
ども、これに基づいて
単位取得
基準の大幅引き上げの、その引き上げ方に関する問題でございます。この「
教科及び
教科教育に関するもの」という新たに分類の表面に出てまいりました「
教科教育に関するもの」というのは、御
承知のように、
現行法では「
教職に関するもの」の中の一部分として、
小学校課程のほうの教材
研究、それから
中学校課程のほうの
教科教育法という形でございましたのが、合体して独自の
専門科目とするという昨年六月の
教育職員養成審議会の
教員養成のための
教育課程の
基準についての建議に基づいてできた「
教科教育の
研究」であるわけでございます。これは申し上げるまでもございませんが、これを踏まえまして、実際の
免許基準の引き上げのほうを見ますと、
中学校及び
高等学校教員の
免許基準の場合には、引き上げの重点が
教科に関する
専門科目にあるのに対しまして、
小学校及び
幼稚園教員の
免許基準の中には、これが「
教科教育の
研究」のほうに重点がある。それでとりわけその引き上げによる
単位取得上の拘束は著しく大幅で、そこには、
大学の
教育課程編成における主体性ないしは独自性、あるいは
学生の学習の自由、
科目選択の自由、いわゆるレルン・フライハイトに対する
教育的配慮というものはきわめて希薄であるのじゃないかというふうに私は
考えざるを得ないわけでございます。たとえば
小学校教員の場合、現行四十八
単位に対しまして、
改正法案では六十八
単位、うち
教科教育の
研究は、最大の二十八
単位を占めております。また、
幼稚園教員の場合には、現行四十四
単位に対して、
改正法案では六十四
単位、これはいずれも一級
免許状取得の場合ですけれ
ども、そういうわけです。
大学設置基準の規定する卒業
資格要件の
専門教育科目の履修
基準が七十六
単位であることと比べますと、その拘束の度合いの大きさが御理解いただけるだろうと思うわけです。要するに
小学校及び
幼稚園教員養成の場合、
免許基準の
単位の拘束が著しく大幅であるということと、そのまま
基準引き上げの力点が圧倒的に
教科教育の
研究という実態から申しまして
教育技術関係
科目にかけられているということ、つまり法
改正のねらいがここでは教授法という技術的側面において
考えられている点でございます。
この点から、私はある
意味ではたいへん重大な
二つの点が指摘できるのではないかと思います。
その
一つは、実際に
単位の拘束の幅が大きいということでございますけれ
ども、これは今度の
改正法案の中にも、別のところでございますように、
別表第一の備考の中で、
単位計算の方法をそっくり削除しておる部分があるわけです。これは申し上げるまでもなく、
単位計算の方法を
別表から削除したということは、ただそれだけにとどまらず、これは
免許法の問題ではございませんが、別に
文部省のほうで現在お進めになっておられます
大学設置基準の改定、昨年の三月の末に
大学基準等
研究協議会から出されました答申に基づいて
大学設置基準の改定が進められたその中で、
単位計算方法については、たとえば
一般の授業、講義の場合に現行の一週一時間、十五週で一
単位というところから一週一・五時間ないし二時間で十五週で一
単位というふうに、
単位計算の
学校における講義の授業負担量を大幅にふやすということとからんでおります。これとからみ合わせて
考えますと、設置
基準による卒業
資格は相変わらず百二十四
単位というように押えられておりますけれ
ども、これは昨年六月の
教員養成審議会で、さきに申し上げました
教員養成のための
教育課程の
基準についてという建議の中ではっきりお書きになっておるように、大体
教員養成大学の場合には卒業
単位を百四十
単位前後にすることが望ましいということが書いてございます。現行の設置
基準のほうの
単位計算のしかたが大幅に一・五倍ないし二倍にふえて、それをもとにして百四十
単位ということが大体卒業
資格になるといたしますと、ほとんどが、たとえば私
ども東京学芸大学の場合を
考えましても、
大学の
教員の授業負担量、それから
学生の授業負担量ということが物理的にたいへん膨大になる。ざっと計算をいたしましても、
学生一人が授業
単位を四年間で満たすためには一日平均六時間の授業のうち三時間を使って、週六日ほとんどそれを埋めなければならない。
学生の場合にはかりにそれをある
程度がまんをするにいたしましても、教官がその授業をこなすということになりますと、これではとうてい
研究と
教育、つまりどちらも満足にはこなせないのではないか。大体
大学の教官の場合、
自分の
専門について
研究も一応こなしまして、その結果に基づいて絶えず新しい
研究の結果をしかるべく
学生に教授するということから
考えますと、大体は週五時間ないし六時間が精一ぱいで、それ以上ふえますと、どうしても
研究がおろそかにならざるを得ない、物理的に困難になるというのが大体
研究者の常識でございますので、そういう点が
一つ設置
基準の改定の問題とからみましてたいへん問題であると言わざるを得ない。これは
現場におります者としてたいへん苦痛な感じでございます。
もう
一つは一先ほど申しました拘束の幅が大きくふえる。その中には重点が
教科教育のほうにかかっておるということでございますけれ
ども、このことは、これ自体が
一つの
教職観と申しますか、
初等教育段階での
教職の
専門性は
教育技術、あるいは教授法にあるという
教職観を示すものではないだろうか、そしてこの側面において
基準を引き上げるということが
教職の
専門性を高めることになるという思想が、この
改正法案には示されておるというふうに見てよいのではなかろうかと私は思うわけでございます。むろん原理的には、その
教員養成という仕事において、
教科教育の
研究ということは本来私はたいへん重要な
研究課題であり、
教育上もたいへん重い意義を持つものだと思うわけです。けれ
どもこのことは、このたびの
改正法案の
教科教育の
研究のごときものとは
根本的に発想を異にするのではないか。
教科の
教育の
研究が独自の
専門科目として成り立つということは、その
教科の場合、言ってみれば背後にある科学を基盤とし、その科学の成果の中から基本的に重要なものを見きわめ、
子供の発達と成長とに照応させ、教材としてどのように編成していくかということが究明され、それが国有の方法や体系を持つ学問として成立せしめられることでありまして、今日の現状のごとく、一方で
教科に関する
専門教養が弱いという実態がございまして、他方でその教材
研究や
教科教育は、ほとんど独自の学問としての体系も方法もいまだ持たない。そういうままに、多く他学
科目の教官の兼任と申しますか兼担と申しますか、そういう実施の状態で済まされておるわけです。また
学生にも、これは
先生方も御
承知のとおり、実態としてきわめて不評でございます。そういう現実をそのままにして、かかる教材
研究や
教科教育法を単に合体、改称しても、これは本来的な
意味での
教科教育学になるものではなく、むしろ現状を固定する危険のほうが強いのじゃなかろうか。
御
承知のように、大体
教職の
専門性を申します場合には、単にどういう教材をいかに
子供に与えるかということではございませんで、少なくとも
教職の
専門性という場合には、
教師の教材の選択、これが
子供の学習嗜好に基づく
組織、教材の配列、構成、並びにその次にそれをどう
子供に教えるか、
最低これぐらいの条件が保障され、それが保障された上で、それに対する
教師の自主的な判断が保障されませんと、これはどう
考えましても、
教職の
専門性が保障されているとは言い得ない。これはおそらく
教育学上の定説であろうと思うわけでございますけれ
ども、そういう点から見ますと、少なくとも今度の
法案は、かりにその発想にくむべきものがあると思うのですけれ
ども、現実から
考えますと、そのまま軽々に肯定することは、私は若干抵抗を感じるわけでございます。
こういう問題に関しまして今日必要なことは、言ってみれば、
教科教育研究者——担当教官でございますけれ
ども、それが各
教科の関連する
専門諸科学の
研究者との緊密な共同
研究体制のもとに、十分な学問的基礎を築くべく努力することが大事だということでございまして、このたびの
改正法案のように、現状を単に学問的粉飾——粉飾と申しては、ことばがいけないかもわかりませんが、そういう形で固定化することは、あたかも
教員養成大学のレーゾンデートルは
教育技術の
研究にあるという認識を定着させるおそれがあるという点で、戦後
教員養成制度の
原則、先ほど申しました
大学における
教員養成ということでございますけれ
ども、それと
免許法立法当初の理念というものを否定するものといわなければならないのじゃないか、かように
考えます。この点実態につまびらかでない世上の論評が——たとえば新聞の社説などがそうでございますけれ
ども、いわば今度の
単位数修得
基準の大幅な引き上げは、
大学の
教育課程を拘束する度合いが大きいという点で問題はあるけれ
ども、しかし言ってみれば、
教職の
専門性の確立に通ずるというふうな受け取り方で、安易に肯定しかねないだけに、特にこの点は注意を要することではないかというふうに思われます。
御
承知のように、戦後制定当初の
免許法は、このたびの
改正法案のごとき
教職の
専門性をいわば教授法的側面でとらえるものではなかったわけであります。そうではなく、むしろ全く逆に——これは御
出席の
玖村敏雄先生が、ちょうど現行
免許法が成立しました
昭和二十四年当時、
文部省の
教職員養成課長というお
立場で、たいへん恐縮でございますけれ
ども、お書きになったものを私は見てまいりましたのですが、その中に、たとえば「教えんがために学問する、いわゆる教材
研究的
勉強は、ともすれば、
教育職員をひくくせまい実用主義者にし、その学問の態度に純ならざるものを蔵する。
大学の課程は教材
研究的な性質のものではなく、常に自らを
人間として高め、
専門家として深く学芸の中につぎこんで行こうとする。このような態度そのものが
人間としての
教育職員の生命を更新し、またその学び得た学芸の
内容がいつもより高く広い見地から
自分の教えている
教科を見させ、
教科内容をゆたかにさせる」そういうものなんだという
教職観に制定当初の
免許法は立っていたわけでございます。この当初の
免許法の
趣旨からもおわかりになりますように、
教職の
専門性というものは、決して
学生に課する履修
基準単位の授業
科目の分布によって把握されるものではございませんで、あくまでも憲法、
教育基本法の保障する
子供の全面的な成長、発達を、
専門職として十分に実現していくに必要なそういう学問的、
人間的教養と力量、そういうものをつちかうという観点からの、いわば
専門教育全体の
教育学的系統性と総合性というものによってはかられなければならないということが言えると思うのです。この点から見ますと、
改正法案は、
教員養成教育の性格を基本的には科学
研究にではなくて、技術
教育に置くことによって
教員養成大学の、いわゆる世上いわれております非
大学化という現象を一そう強め、また
免許法立法当初の
趣旨とは著しく異なる
文部省当局の
教職観を持ち込もうという——主観的にはそうではございませんけれ
ども、客観的にでございますが、持ち込もうとすることになるおそれがあるという点で、私は、たいへん危惧をしておるわけでございます。
その点が一番大きいわけでございますけれ
ども、そのほかにもう一点だけつけ加えますと、先ほどの
参考人の
先生の中ではあまり出ませんでしたが、
免許授与の
所要資格、これは
別表第一に関しまして、
免許資格を得させるために、
現行法の
文部大臣の
大学の課程の認定を、
大学の学科並びに課程等の認定に改めたこと。
別表第一の備考一の二でございまして、これも御
承知のように本年二月の
教育職員養成審議会の建議に基づいておるわけございます。この建議によりますと、いまの点につきましては、「認定される
免許状は、当該学部の学科または課程の目的・性格および
教育課程が
免許基準に示された要請に適合すると
考えられるような種類のものとする。」というふうに書いてございます。これは「当該学部の学科または課程の目的・性格」というふうにおっしゃっておることから
考えてみますと、おそらくはそれを担当する——これは特に
一般大学、とりわけ私立
大学のことが対象になるのだろうと思いますけれど一も、これを担当する学科もしくはしかるべき部局で現在の
教職員養成大学的な、いわば目的学部と通称いわれておりますが、目的学科的な性格を備え得るか得ないかということが
一つの認定の
基準になるのじゃないかということから——これは将来の実施の動向を見ませんで、こう申し上げるのは、あるいは取り越し苦労かもわかりませんが、事実上
一般大学、特に私立
大学が
教員免許状を
学生に出すということが事実上たいへん困難になることにつながりかねないのじゃないかという点で、これも気になる点の
一つでございます。
もう
一つは、先ほど
玖村先生もおっしゃいましたけれ
ども、
一般教育の規定が
別表から消えたということでございまして、これも
大学設置基準の改定のほうで、御
承知のように、
一般教育科目の修得
単位数は、現行の人文、
社会、自然おのおの十二、計三十六以上ということから、人文、
社会、自然合わせて二十四、基礎
教育科目十二というふうに変えられようとしておるわけでございますが、このこととからみ合わせて
考えますときに、
一般教育についての規定が
免許法に前に書かれたということは、単に設置
基準とダブるかダブらないかということではなくて、やはり
専門の
教育課程の中で学芸学部を中心に
教員養成を行なう、そういう新しい
大学における
教員養成というものが、それまでの師範
学校における
教員養成の批判に立って、真の
意味の
一般教育というものが中核にならなければいけない、そういうたいへん大きな悲願を込めていた
一つのあらわれではないかというふうに思うわけでございます。そういう点から、もちろん事実上は、設置
基準のほうとダブリますから、どうしてもここに載せなければいけないということじゃございませんけれ
ども、そこにあらわれた
意味において、私は、やはり考慮を払う必要があるのじゃないかと思うわけでございます。
以上、
別表第一を中心に若干私見を申し述べましたけれ
ども、最後にもう
一つ重大な問題があるのじゃないかと思います。それは、かりに国会でこの
改正法案が通過した場合のことでございますけれ
ども、これは
免許法だけではなくて、実際にそれの施行規則というものが直ちに変わるわけでございます。施行規則は御
承知のように省令でございますので、その限りでは、国会の立法権が直接には及ばないということになります。私
ども教員養成大学におります者の
立場から申し上げますと、たとえば一番典型的な例は、
昭和三十九年春に制定された、いわゆる講座学
科目省令といっておりますが、正確には国立
大学の学科及び課程並びに講座及び学
科目に関する省令というものが制定されますときに、これは省令制定ということで、
大学の自主性がいたく傷つけられたということがございます。これは
全国の
教員養成系の
大学学部の
先生方の非常に多数の方が苦い思い出としてその胸の中にあるわけでございます。こういうことは、おそらく国会における立法の府におられる
先生方は直接には御存じないことではないかと思いますが、実際にその省令がどのように制定されるか、その制定の中身と、その制定のされ方によりましては、たいへん日本の
大学における学問
研究あるいは
教育、さらに
大学における
教員養成というものをスポイルされかねないというおそれが年ごとに強くなってきているということが、
教員養成大学の
現場におります者に痛感されるところでございます。この点におきまして、かりにも省令制定段階で立法権の期待したところにあらざるものが出てくるようなことがないように、
先生方の御努力と申しますか、御配慮と申しますか、それを私は切に願いまして、公述を終わることにいたしたいと思います。