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1966-06-10 第51回国会 衆議院 文教委員会 第29号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十一年六月十日(金曜日)     午前十時四十三分開議  出席委員    委員長 八田 貞義君    理事 上村千一郎君 理事 小澤佐重喜君    理事 谷川 和穗君 理事 南  好雄君    理事 八木 徹雄君 理事 川崎 寛治君    理事 二宮 武夫君 理事 長谷川正三君       篠田 弘作君    床次 徳二君       中村庸一郎君    松山千惠子君       加藤 清二君    高橋 重信君       山中 吾郎君    鈴木  一君  出席国務大臣         文 部 大 臣 中村 梅吉君  出席政府委員         文部政務次官  中野 文門君         文部事務官         (大臣官房長) 赤石 清悦君         文部事務官         (大学学術局         長)      杉江  清君  委員外出席者         参  考  人         (国学院大学助         教授)     太田  卓君         参  考  人         (福岡教育大学         長)      玖村 敏雄君         参  考  人         (渋谷区立大向         小学校長)   近藤 修博君         参  考  人         (東京学芸大学         教育学部助手) 山崎 真秀君         専  門  員 田中  彰君     ————————————— 六月九日  委員原田憲君及び松山千惠子辞任につき、そ  の補欠として濱野清吾君及び佐伯宗義君が議長  の指名委員に選任された。 同日  委員佐伯宗義君及び濱野清吾辞任につき、そ  の補欠として松山千惠子君及び原田憲君が議長  の指名委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した案件  教育職員免許法等の一部を改正する法律案(内  閣提出第一四〇号)      ————◇—————
  2. 八田貞義

    八田委員長 これより会議を開きます。  教育職員免許法等の一部を改正する法律案を議題といたします。  本日は参考人として国学院大学助教授太田卓君、福岡教育大学長玖村敏雄君、渋谷区立大向小学校長近藤修博君、東京学芸大学教育学部山崎真秀君、以上四名の方々に御出席を願っております。  この際、委員会を代表して一言ごあいさつを申し上げます。  参考人方々には御多用中のところ御出席いただきましてまことにありがとうございました。  目下当委員会におきましては教育職員免許法等の一部を改正する法律案について審査を進めてまいりましたが、特に本日は参考人各位の御意見を承り、もって本案審査参考にいたしたいと存じますので、何とぞ忌憚のない御意見をお述べいただきますようお願いいたします。  なお議事の都合上まず御意見をお一人約十五分程度で順次お述べいただき、その後委員からの質疑にお答えをお願いいたしたいと思いますので、以上お含みの上よろしくお願いいたします。  それでは順次御意見をお述べいただきます。まず玖村敏雄君にお願いいたします。
  3. 玖村敏雄

    玖村参考人 教育内容充実教員資質資格向上ということは常にいずれの国でも問題になり、いつまでも同一の状態にとどまるべきものではなくて、時代とともに一そうよくなるように努力されるべきものであります。わが国の場合には教育職員免許法というのは昭和二十四年にできまして、それからときどき改正を加えられておりますが、どうもいろんな点で問題が多いというので、中央教育審議会教員養成審議会で国としては検討してもらってこられたようであります。これについてはもちろんこの審議会が簡単に自分たち考えだけでしたのではなくて、各方面意見を徴して、その中で判断をしていろいろな答申なり建議なりをなすったことだと私は信じておるのであります。  ところで、どういうふうに教員資格を付与するかというやり方につきましては、中央教育審議会なり教育職員養成審議会なりで、時点を異にするに従って見解が変わっていくというところに注目すべきことがあるように思うのであります。同じ教育職員養成審議会にいたしましても時点が変われば考え方が変わる。つまりその時点その時点でこうしたらいいだろうと考えても、現場意見を徴すればそれが簡単に実現しにくいと判断されるならば、そのことは取りやめにして次善の策を考えるというふうにして、ずいぶん苦心の結果、ある結論を今日の一部改正法案に盛られたことだと信じているのであります。  そこで、教職員免許法というのはわが国法律の中で最も複雑にして難解だということは、昭和二十四年以来これは有名なことでありますので、簡単にわかりにくいわけであります。私はこれをまとめるために、第一に法文を一そう正解に表現するための改正というのが若干あるように思うのであります。これは今度直されたほうが正確であると私も思います。したがって、このことには触れないでおきたいと思うのです。それから第二には削除された事項というものがあります。第三には新設されたものがあります。それから第四に内容変更というべきものがあるようでございます。そこで第二、第三、第四の三点の中で特に重要と思われる点だけを指摘して私の意見を申し上げたいと思います。  第一の削除の部でありますが、これは養護学校高等部というものが省略されるのであります。養護学校は御承知のように小学校中学校もあるわけでありますが、高等部だけには理療なんかがありまして、そのために特殊の教科というのができてきたのでありますが、今度はその高等部だけでなくて、中小の部も特殊な科目というものがあり得る。たとえて申せば技能訓練というふうなことはもう小学校中学校時代からやらなくちゃならない。しかし、その技能訓練は、小中の場合は高等部と違うというふうには考えられませんので、これは一連のものと考えるのだから、高等部を除くということは一向差しつかえないと思います。  それからその次に、附則の第八項の臨時免許状有効期間当分の間六年というのを、普通の他の場合と同様に三年にされた、これも当然だと思います。初め当分の間と書いてありますので、それを明確にして、今回削除して、ほかの先生方と一緒にするというのであります。  それから別表第一の一般教育の欄というのが今度は消えておりますが、これは大学設置基準に従うべきでありまして、何も、教員養成するからといって、一般教育を特殊なものにする必要はない、大学一般同じにするという考え方でございますので、これももちろん差しつかえないと思います。  それから注目すべき一点は、別表第三の備考の六のところに、十五年間教員をつとめた者は、現職教育単位をとられないでも上級免許状が得られるという優遇規定があるわけであります。これが今度落ちたわけであります。このことはかなり重要な変更だと思います。既得権とは申せないでしょうが、いわば期待権というものがここでなくなってしまうというところで、かなり重要だと思います。  それから高等学校看護看護実習というのを新たに入れるというのでありますが、そういう衛生に関する教科高等学校にある限り、そこに看護看護実習というのを設けることは適当だと思います。  第五条第三項の中で、文部大臣がこれと同等以上のものと認める者云々に資格を与えるという、これと同等以上というのは、国立の養護教員養成所とかあるいは工業教員養成所なんかをさすのだと思いますが、これはいままでも免状を出していたのですから、ここに新たにはっきりさせることは当然だと思います。  それから附則の第八項に、水産大学校の、つまり農林省所管大学の卒業の者に、水産に関する二級普通免許状を与えるというのがありますが、これはまことにけっこうでありまして、従来文部省文部省以外の学校は十分取り上げなかったといえばいえるところがあるのでございまして、まことにけっこうで、こういうふうにありたいと思います。  それから、新しく内容変更をされたものというのが実は今度の改正法の一番の中心であろうと思います。別表第一以下の所要単位数というのを上げてきたわけであります。従来よりも基準を上げたということであります。このことについては、従来容易に免許状がとれたという意味では、従来の免許法は非常にルーズであった。今回は、たとえば農学部の学生が農業の免状をとる、国文科学生国語免状をとるというような、自分の正規の研究したものがその方面中学校高等学校教員になるという本筋を立てたように思うのであります。従来のように単位を少なくしておきますと、自分専門でないところ、多少横道にそれて、単位を無理に集めれば教員になれる。そういうことは本来教育専門の職であるというたてまえから申しまして、決して望ましいことでない。できるだけ高い程度教育を受けた人たちに、その方面教師として資格を認めるというのでありたいと私どもはかねがね念願をいたしておりましたので、この点について他の各方面からいろんな御批判があると思いますけれども、私は、趣旨としてはよろしい、そういうふうに考えるのであります。  大体のあれはそうですか、今度は全般にわたりまして、以上申し上げたことをまとめてみますと、改正はおおむね教育専門職というものを打ち立てようという根本の方針に従ってなされているように思われるということであります。  ところで、いわゆる教員養成大学の場合と、そうでない一般大学との場合に、差別をつけるかっけないかということは非常にむずかしい問題であったのでありますが、今度は専門教科及び教科に関する教科教育という二本立てにいたしまして、そのいずれをもってもけっこうだというふうにいうことによって、その両者の間を調節した形は一応承認していいのではないか。私どもからいえば、教科教育というものをあまり軽べつし、教科教育というものをあまり軽んじるということは、教員養成の上で決して望ましいとは思いませんけれども、しかし、この段階で両者の調節をはかるというのであれば、これはそのまま認めていいように思うわけであります。ただ高等学校教員免許でありますが、これは理科とか社会というふうな大まかな免許がよろしいか、あるいは物理、化学とか、生物、地学というふうにもっと分けて免許を出したがいいかということは考えていいと思うのです。私は、高等学校においてはむしろもう少し専門のあれをはっきりすることが望ましいのではないかと思います。  それから二つ免許状を得るということが、先ほどの専門職という制度を徹底しようとすれば、今度は逆に困難になるという事態が起こります。ところが現場の、特にいなかの学校においては、一免許制度では不十分である、二つ免許状はぜひほしいという要望があるようでありますし、また現にあるのでありますが、これについては、百二十四単位という大学単位では無理であるけれども、ある程度ダブるといいますか、ある程度重複して両方に単位が数えられるという便宜もありますので、くふうすれば、多少の無理がありますけれども、成り立つ。また二つ免状をとるのでありますから、多少の無理はやむを得ないかもしれない。元来一つであるべきだと私ども考えているのですけれども、現実からはそういう問題が起こり得ると思います。  それからもう一つ、ここで考えてほしいと思うのは、小学校教員養成の場合には、御承知のように、小学校には八つ教科がありますが、それを六つ以上と今度はきめてあります。音楽とかあるいは特定教科が特別にまずい人は、それをやらなくてもいいという、これはもっともだと思いますが、そのかわり小学校教育の場合にも相当程度専門教育の高さというものを、ある選ばれた教科については行ない得るようになっておりますので、小学校教育におけるピークにとった者を、必要な場合に中学校の二級免許状相当待遇をしてもよいのではないか。これは教員の非常に不足の場合、教員の配置上の問題が起こった場合の考慮でありますけれども、そういうことは今度の改正には出ていないわけであります。  時間がまいりましたから、ちょっと急ぎますが、経過措置についてはおおむねよろしいと思いますが、先ほど申し上げた、十五年つとめたら、別に単位をとらなくても上級免状が得られるということ、このやめたことについては、現職教育制度をもう少しはっきりとさせて、組織的にして、そして先生方において希望するならばそれができることを保障してやるということがないと、既得権を奪っただけではまずいと思うのです。  それから、今度の改正におきまして、短大大学と、大学の上の大学院もしくは専攻科、これを一連組織のように考えるという考え方は中途はんぱだと思う。もう少し徹底して、そういう考えから、現職教育組織教員免許組織というものを一貫させると非常にりっぱじゃないか、こういうふうに感じた次第であります。  なお申し残しましたことは、あとで御質問のときにお答えすることといたしまして、一応これで終わります。
  4. 八田貞義

    八田委員長 次に、近藤修博君よりお願いいたします。
  5. 近藤修博

    近藤参考人 私は、現在渋谷大向小学校校長をしておりますし、また大向幼稚園の園長も兼ねておりますので、そういう立場から、初等教育に携わっている者といたしまして、平常私が考えております教員養成並びにそれに関連したことについて申し上げたいと思うわけであります。  第一に申し上げたいと思いますことは、教育界、特に初等教育にすぐれた人材を誘致したり確保をすることがきわめて大切であるということであります。きのうも関東甲信越地区研究協議会が浦和でございまして、千人以上の校長が集まりまして、この人材誘致の問題につきまして研究協議したのでございますが、私たち校長は、年来この問題につきまして、その重要さを考えているのでございます。  私が申し上げるまでもなく、教育は人であり、教育振興根本策教育社会人材を得ることであろうと思うのであります。ことに人間形成の基礎をつくるところの初等教育の六カ年の適否というものは、人間の一生に大きなあり方を規定するものと私は思うわけでございます。したがいまして、初等教育人格識見ともにすぐれた人材を要請するわけでございますが、現在教育というものは、非常にその重要性一般に認められておりながら、教育界には人材が集まらない。その原因にはいろいろあると思うのでございますが、私はその一つは、まだ教育社会的に真に尊重されておらないで、いたずらに学歴偏重の気風が根強くあるということにあるんじゃないかと思うわけでございます。この風潮はなかなかぬぐい去ることができないと存じますが、最初から教員になろうとして教員養成大学を志望する者ももちろんございますが、中には、他の大学を受験したが、うまくいかなかったのでこの大学に入ったという者も相当いるようであります。このような者はどうしても教員になろうというような意欲に多少欠けているのではないかと思うのでございます。  次に、私たち教育者教職に対する誇りを持ったり、あるいは教育者としての自覚とか使命感に欠けている者があるということは否定できないのであります。申し上げるまでもなく教育は、子供の一人一人を見つめ、愛して、たんねんにつちかっていかなければならぬのじゃないかと考えているのであります。単にその時間だけ教えればそれでよいというものではないと思うわけでございます。最近大学を卒業して教員になられた者を見ましても、教職誇りを持ち、教育者としての使命感を持っている者がわりに少ないんじゃないかと私は思うわけであります。私は現在全国連合小学校長会のほうにも関係しておりますが、全国の各都道府県の校長を対象にしまして、教育職員養成計画に対する意見を調査したことがございます。これによりますと、教師使命感の確立を目ざした養成制度考えてほしい。つまり大学ではもっと人格的教養を重視することが必要である。教育精神を啓培することも必要である。教職教養を重視することが必要だという回答をした県が二十県もあります。これを見ましても、全国のそれぞれの学校校長が、教員としての自覚を求めていることがよくわかるわけであります。  このように考えましたときに、このたびの教育職員免許法改正して、大学において修得する教育に関する専門教育課目単位数を増加するようにしたことは、私としましては、教員としての自覚を持ち、教員としての特に資質向上させる上にきわめてよいことであろうと思うわけでございます。  なお、ちょっとここでつけ加えますが、しかしながら、初等教育人材を誘致するには、以上のほかに、教育者勤務条件を改善したり、待遇の改善をはかることが大切であることは、私が申すまでもございません。私どもはこれにつきましても年来主張しているところでございまして、詳しくは申し上げませんけれども初任給を引き上げたり、最高給教員給与を引き上げるようなことが必要であろうと思います。旅費であるとか管理職手当などというものの増額なども要請しているところでございます。  以上申し上げましたようなことによりまして、教育者になることが誇りと魅力あるものになるということが大切であろうと思うわけであります。  次に、大きく二番目に申し上げたいことは、われわれは教育公務員特例法を待つまでもなく、常に日常研修に励んでいるということでございます。研究修養の機会というものは、国や教育委員会の主催によるものだけではございませんで、自分たち自体研究団体組織して研究したり、また学校ごとや、個人でも研修に励んでいるわけでございます。そしてその内容としては、学習指導の方法や、それぞれ自分が興味を持ち、専門とする教科指導内容や教材の研究などをしているのでございます。小学校でございますから、ある特定教科だけではなくて、他の教科につきましても研究する必要があるわけでございます。私の学校の例をとりますと、私の学校は現在二十学級ございまして、教員が二十六名おります。今月つまり六月の研究計画を申し上げますと、国語では第五週に授業研究をやる。社会課ではスライドの写し方を研究する。算数では図型のつくり方について研究する。それぞれの八つ、あるいは道徳等の部に分かれて研究するのでございまして、特に生活指導の面では全職員集まって生活指導道徳の関連について全体的な研究をするというふうに、それぞれの教科に分かれてはおりながら、また全体の者が集まってそれぞれの分野にわたって研究しているわけでございます。そういう中で、われわれはもっと大学の広い教科に関する勉強教科教育に関するものをやっておったならば、教員としての自信がもっと持てたのではないかというように話し合っているわけでございます。現在私の幼稚園にはことし短大を卒業した先生がおります。この者の話を聞きますと、やはり大学時代教科に関する勉強をしてくればよかった、つくづく申しております。もっと日常指導に即するところの具体的な勉強をしてきたかった。その者の話によるのですが、大学先生にもよるが、具体的、実際的なものがほしかったと申しておるのでございます。小学校幼稚園は全教科担当をたてまえとしているのでございまして、それに合わせて、先ほど玖村先生お話もございましたが、特定専攻領域について特に専修させるということが必要であろうと思われるわけでございます。このような実情から見まして、専門教育科目教科教科教育に関するものを大学で相当単位履修させるということが、教員となるために必要ではないかと思うわけでございます。今回の免許法改正はそういった線に沿っているものと私は思うわけでございます。  以上、申し上げたようなごとく、私たち免許資格向上というようなことを考えることなく日々研究を重ねているわけでございますが、このたびの免許法改正では、経験年数だけでは上級免許状の取得は困難である条項も先ほどお話のようにあるわけでございます。これにつきましてはそれぞれの機関において認定講習等が持たれ、その講習等をわれわれ教員が受けるならば一段と質の高い教職員ができるものと私は思うわけでございます。  第三に申し上げたいことは、現在は最低単位の履修によって小学校中学校高等学校種別免許状を一時に取得できるように現行法ではなっているのでございますが、やはりこれでは各学校種別教員としての資質に欠けるのではないか、また教育効果は期待されない面も現在あるのでございます。でございますので、小学校中学校高等学校別に十分にそれぞれの性格にふさわしい単位を履修するように仕組まれることが望ましいのじゃないか、と私は思うわけでございます。  第四に申し上げたいことは、教育実習のことでございます。これにつきましてはこのたびの改正免許法には触れておりませんが、従来と同じく四単位ということのようでございますが、しかし私どもはもっとその実習期間を長くするように要望いたしているのでございます。教員としての自覚を持ち、教育重要性を認識し、また教育に対する自信を持つ、特に子供を愛するというようなことは実習期間に植えつけられるようでございます。私の幼稚園にただいま教育実習生が四名来ております。日々励んでいるのでございます。私も実はけさその子たちにもいろいろ話をしてきたわけでございますが、わずか三週間の実習で幼児の観察とかなお進んで実際の指導までするのでございまして、実習期間がきわめて少ないのであります。ようやくわかりかけたところで終わってしまうというのが現状でございます。このような意味から、もっと実習期間を長くするとともに、やはり教育実習のための大学付属小学校であるとか、その他の一般学校の整備をすることはもちろん必要であろうと思うわけでございます。  第五に申し上げたいことは、教員志望者に対して育英制度をいままでより以上に大幅に拡充していただきたいということでございます。教員を志望しながら経済的理由のためにその望みを断たれ、人材を埋もれさせる例も少なくございませんので、この育英制度を充実拡張しまして、すぐれた教員志望者が得られるように配慮すべきであろうと存じます。  以上、私は教育職員免許制度にからんで教員養成につきましての幾つかの意見を申し上げたのでございますが、最後に申し上げたいことは、このたびの免許法改正が出されましてから、現場には不安になっている者があるのでございます。これは免許法内容等がわからないためであろうと思うわけでございますので、この施行される場合にあたりましては、十分にその趣旨を徹底させていただきまして、不安を与えないようにすべきである、かように考えるわけでございます。以上申し上げまして終わります。
  6. 八田貞義

    八田委員長 次に山崎真秀君。
  7. 山崎真秀

    山崎参考人 東京学芸大学山崎でございます。私は教員養成大学の教官の一人として、教員養成の実際に携わっているという立場から、この法案に対する意見を申し上げたいと存じます。  このたびの改正法案につきまして、これを提出されました政府は「教育職員資質保持向上を図るため、教育職員普通免許状の授与の所要資格に係る最低修得単位数等を改める」ということを提案理由としておられますが、一般論として、この文言の限りではこれに異論を唱える人はまずないであろうと私は思います。教員資質保持向上ということは、この教育職員免許法自体がその目的として第一条に掲げているところでありますし、かつ免許法という法律は戦後教育改革において確立された大学における教員養成原則と、その必然的な要請としての開放的免許制原則とに照応して、まさに大学において養成されるにふさわしい教員の職務の専門性を保障するための法律として制定されたものでありますから、したがってそこでの教育教職研究が発展すれば、つまり教職専門性がより高まりさえすれば、それに応じて当然大学における教員免許基準を引き上げるための改正が行なわれることは、本来予想されているところであるからであります。けれども、問題はその引き上げ方であり、引き上げの中身であろうと思われるわけであります。言いかえるとこの引き上げということは免許基準の水準についてのことであります。基準の引き上げが大学における教育課程を質的に規制したりあるいはその編成の自主性を大幅に拘束したりするということが許されることではないということは申し上げるまでもございません。  このような観点から見ますとき、このたびの改正法案ははたしてさきの提案理由についての一般論としての妥当性にふさわしいものとして受けとめてよいものだろうか。言いかえますと、改正法案内容は、免許法立法当初の理念、性格と同質的な発展線上にあるものと考えてよいだろうかどうだろうか、問題は、この点にあると私は思うわけでございます。そしてこの点から見ますときに、改正法案は、結論的に申しまして、免許法立法当初の理念、性格と同質的な発展線上にあるとは私は言い得ないんじゃないか。より端的に申しますと、改正法案の描く教員資質とそれをささえております教職観というものは、立法当初のそれを全く変質させており、後にも申し上げますように、改正法案は、単に教員免許のための単位取得の基準を上げるにとどまらず、専門教育科目の分類あるいは構成を変えることによりまして、改正提案者たる文部省教職観が、大学教員養成教育の性格と内容を質的に規定する結果をもたらすことになるという点で、私は、少なからず批判の念を持たざるを得ないわけでございます。  改正法案を拝見しまして問題を感ずる点は幾つかあるのでございますけれども、時間の関係もございますので、先ほど玖村先生もおっしゃいましたように、別表第一に関することが一番重要な論点になりますので、以下、別表第一に関することに限りまして、若干申し上げることにいたしたいと思います。  最初に、別表第一に関しての問題でございますけれども、まず第一に、この別表第一の免許状取得のための専門教育科目の修得必要単位数に関する規定におきまして、専門教育科目単位分類の変更、つまり現行の「教科に関するもの」が「教科及び教科教育に関するもの」というふうに改められたことでございますけれども、これに基づいて単位取得基準の大幅引き上げの、その引き上げ方に関する問題でございます。この「教科及び教科教育に関するもの」という新たに分類の表面に出てまいりました「教科教育に関するもの」というのは、御承知のように、現行法では「教職に関するもの」の中の一部分として、小学校課程のほうの教材研究、それから中学校課程のほうの教科教育法という形でございましたのが、合体して独自の専門科目とするという昨年六月の教育職員養成審議会教員養成のための教育課程の基準についての建議に基づいてできた「教科教育研究」であるわけでございます。これは申し上げるまでもございませんが、これを踏まえまして、実際の免許基準の引き上げのほうを見ますと、中学校及び高等学校教員免許基準の場合には、引き上げの重点が教科に関する専門科目にあるのに対しまして、小学校及び幼稚園教員免許基準の中には、これが「教科教育研究」のほうに重点がある。それでとりわけその引き上げによる単位取得上の拘束は著しく大幅で、そこには、大学教育課程編成における主体性ないしは独自性、あるいは学生の学習の自由、科目選択の自由、いわゆるレルン・フライハイトに対する教育的配慮というものはきわめて希薄であるのじゃないかというふうに私は考えざるを得ないわけでございます。たとえば小学校教員の場合、現行四十八単位に対しまして、改正法案では六十八単位、うち教科教育研究は、最大の二十八単位を占めております。また、幼稚園教員の場合には、現行四十四単位に対して、改正法案では六十四単位、これはいずれも一級免許状取得の場合ですけれども、そういうわけです。大学設置基準の規定する卒業資格要件の専門教育科目の履修基準が七十六単位であることと比べますと、その拘束の度合いの大きさが御理解いただけるだろうと思うわけです。要するに小学校及び幼稚園教員養成の場合、免許基準単位の拘束が著しく大幅であるということと、そのまま基準引き上げの力点が圧倒的に教科教育研究という実態から申しまして教育技術関係科目にかけられているということ、つまり法改正のねらいがここでは教授法という技術的側面において考えられている点でございます。  この点から、私はある意味ではたいへん重大な二つの点が指摘できるのではないかと思います。  その一つは、実際に単位の拘束の幅が大きいということでございますけれども、これは今度の改正法案の中にも、別のところでございますように、別表第一の備考の中で、単位計算の方法をそっくり削除しておる部分があるわけです。これは申し上げるまでもなく、単位計算の方法を別表から削除したということは、ただそれだけにとどまらず、これは免許法の問題ではございませんが、別に文部省のほうで現在お進めになっておられます大学設置基準の改定、昨年の三月の末に大学基準研究協議会から出されました答申に基づいて大学設置基準の改定が進められたその中で、単位計算方法については、たとえば一般の授業、講義の場合に現行の一週一時間、十五週で一単位というところから一週一・五時間ないし二時間で十五週で一単位というふうに、単位計算の学校における講義の授業負担量を大幅にふやすということとからんでおります。これとからみ合わせて考えますと、設置基準による卒業資格は相変わらず百二十四単位というように押えられておりますけれども、これは昨年六月の教員養成審議会で、さきに申し上げました教員養成のための教育課程の基準についてという建議の中ではっきりお書きになっておるように、大体教員養成大学の場合には卒業単位を百四十単位前後にすることが望ましいということが書いてございます。現行の設置基準のほうの単位計算のしかたが大幅に一・五倍ないし二倍にふえて、それをもとにして百四十単位ということが大体卒業資格になるといたしますと、ほとんどが、たとえば私ども東京学芸大学の場合を考えましても、大学教員の授業負担量、それから学生の授業負担量ということが物理的にたいへん膨大になる。ざっと計算をいたしましても、学生一人が授業単位を四年間で満たすためには一日平均六時間の授業のうち三時間を使って、週六日ほとんどそれを埋めなければならない。学生の場合にはかりにそれをある程度がまんをするにいたしましても、教官がその授業をこなすということになりますと、これではとうてい研究教育、つまりどちらも満足にはこなせないのではないか。大体大学の教官の場合、自分専門について研究も一応こなしまして、その結果に基づいて絶えず新しい研究の結果をしかるべく学生に教授するということから考えますと、大体は週五時間ないし六時間が精一ぱいで、それ以上ふえますと、どうしても研究がおろそかにならざるを得ない、物理的に困難になるというのが大体研究者の常識でございますので、そういう点が一つ設置基準の改定の問題とからみましてたいへん問題であると言わざるを得ない。これは現場におります者としてたいへん苦痛な感じでございます。  もう一つは一先ほど申しました拘束の幅が大きくふえる。その中には重点が教科教育のほうにかかっておるということでございますけれども、このことは、これ自体が一つ教職観と申しますか、初等教育段階での教職専門性教育技術、あるいは教授法にあるという教職観を示すものではないだろうか、そしてこの側面において基準を引き上げるということが教職専門性を高めることになるという思想が、この改正法案には示されておるというふうに見てよいのではなかろうかと私は思うわけでございます。むろん原理的には、その教員養成という仕事において、教科教育研究ということは本来私はたいへん重要な研究課題であり、教育上もたいへん重い意義を持つものだと思うわけです。けれどもこのことは、このたびの改正法案教科教育研究のごときものとは根本的に発想を異にするのではないか。教科教育研究が独自の専門科目として成り立つということは、その教科の場合、言ってみれば背後にある科学を基盤とし、その科学の成果の中から基本的に重要なものを見きわめ、子供の発達と成長とに照応させ、教材としてどのように編成していくかということが究明され、それが国有の方法や体系を持つ学問として成立せしめられることでありまして、今日の現状のごとく、一方で教科に関する専門教養が弱いという実態がございまして、他方でその教材研究教科教育は、ほとんど独自の学問としての体系も方法もいまだ持たない。そういうままに、多く他学科目の教官の兼任と申しますか兼担と申しますか、そういう実施の状態で済まされておるわけです。また学生にも、これは先生方も御承知のとおり、実態としてきわめて不評でございます。そういう現実をそのままにして、かかる教材研究教科教育法を単に合体、改称しても、これは本来的な意味での教科教育学になるものではなく、むしろ現状を固定する危険のほうが強いのじゃなかろうか。  御承知のように、大体教職専門性を申します場合には、単にどういう教材をいかに子供に与えるかということではございませんで、少なくとも教職専門性という場合には、教師の教材の選択、これが子供の学習嗜好に基づく組織、教材の配列、構成、並びにその次にそれをどう子供に教えるか、最低これぐらいの条件が保障され、それが保障された上で、それに対する教師の自主的な判断が保障されませんと、これはどう考えましても、教職専門性が保障されているとは言い得ない。これはおそらく教育学上の定説であろうと思うわけでございますけれども、そういう点から見ますと、少なくとも今度の法案は、かりにその発想にくむべきものがあると思うのですけれども、現実から考えますと、そのまま軽々に肯定することは、私は若干抵抗を感じるわけでございます。  こういう問題に関しまして今日必要なことは、言ってみれば、教科教育研究者——担当教官でございますけれども、それが各教科の関連する専門諸科学の研究者との緊密な共同研究体制のもとに、十分な学問的基礎を築くべく努力することが大事だということでございまして、このたびの改正法案のように、現状を単に学問的粉飾——粉飾と申しては、ことばがいけないかもわかりませんが、そういう形で固定化することは、あたかも教員養成大学のレーゾンデートルは教育技術の研究にあるという認識を定着させるおそれがあるという点で、戦後教員養成制度原則、先ほど申しました大学における教員養成ということでございますけれども、それと免許法立法当初の理念というものを否定するものといわなければならないのじゃないか、かように考えます。この点実態につまびらかでない世上の論評が——たとえば新聞の社説などがそうでございますけれども、いわば今度の単位数修得基準の大幅な引き上げは、大学教育課程を拘束する度合いが大きいという点で問題はあるけれども、しかし言ってみれば、教職専門性の確立に通ずるというふうな受け取り方で、安易に肯定しかねないだけに、特にこの点は注意を要することではないかというふうに思われます。  御承知のように、戦後制定当初の免許法は、このたびの改正法案のごとき教職専門性をいわば教授法的側面でとらえるものではなかったわけであります。そうではなく、むしろ全く逆に——これは御出席玖村敏雄先生が、ちょうど現行免許法が成立しました昭和二十四年当時、文部省教職員養成課長というお立場で、たいへん恐縮でございますけれども、お書きになったものを私は見てまいりましたのですが、その中に、たとえば「教えんがために学問する、いわゆる教材研究勉強は、ともすれば、教育職員をひくくせまい実用主義者にし、その学問の態度に純ならざるものを蔵する。大学の課程は教材研究的な性質のものではなく、常に自らを人間として高め、専門家として深く学芸の中につぎこんで行こうとする。このような態度そのものが人間としての教育職員の生命を更新し、またその学び得た学芸の内容がいつもより高く広い見地から自分の教えている教科を見させ、教科内容をゆたかにさせる」そういうものなんだという教職観に制定当初の免許法は立っていたわけでございます。この当初の免許法趣旨からもおわかりになりますように、教職専門性というものは、決して学生に課する履修基準単位の授業科目の分布によって把握されるものではございませんで、あくまでも憲法、教育基本法の保障する子供の全面的な成長、発達を、専門職として十分に実現していくに必要なそういう学問的、人間的教養と力量、そういうものをつちかうという観点からの、いわば専門教育全体の教育学的系統性と総合性というものによってはかられなければならないということが言えると思うのです。この点から見ますと、改正法案は、教員養成教育の性格を基本的には科学研究にではなくて、技術教育に置くことによって教員養成大学の、いわゆる世上いわれております非大学化という現象を一そう強め、また免許法立法当初の趣旨とは著しく異なる文部省当局の教職観を持ち込もうという——主観的にはそうではございませんけれども、客観的にでございますが、持ち込もうとすることになるおそれがあるという点で、私は、たいへん危惧をしておるわけでございます。  その点が一番大きいわけでございますけれども、そのほかにもう一点だけつけ加えますと、先ほどの参考人先生の中ではあまり出ませんでしたが、免許授与の所要資格、これは別表第一に関しまして、免許資格を得させるために、現行法文部大臣大学の課程の認定を、大学の学科並びに課程等の認定に改めたこと。別表第一の備考一の二でございまして、これも御承知のように本年二月の教育職員養成審議会の建議に基づいておるわけございます。この建議によりますと、いまの点につきましては、「認定される免許状は、当該学部の学科または課程の目的・性格および教育課程が免許基準に示された要請に適合すると考えられるような種類のものとする。」というふうに書いてございます。これは「当該学部の学科または課程の目的・性格」というふうにおっしゃっておることから考えてみますと、おそらくはそれを担当する——これは特に一般大学、とりわけ私立大学のことが対象になるのだろうと思いますけれど一も、これを担当する学科もしくはしかるべき部局で現在の教職員養成大学的な、いわば目的学部と通称いわれておりますが、目的学科的な性格を備え得るか得ないかということが一つの認定の基準になるのじゃないかということから——これは将来の実施の動向を見ませんで、こう申し上げるのは、あるいは取り越し苦労かもわかりませんが、事実上一般大学、特に私立大学教員免許状を学生に出すということが事実上たいへん困難になることにつながりかねないのじゃないかという点で、これも気になる点の一つでございます。  もう一つは、先ほど玖村先生もおっしゃいましたけれども一般教育の規定が別表から消えたということでございまして、これも大学設置基準の改定のほうで、御承知のように、一般教育科目の修得単位数は、現行の人文、社会、自然おのおの十二、計三十六以上ということから、人文、社会、自然合わせて二十四、基礎教育科目十二というふうに変えられようとしておるわけでございますが、このこととからみ合わせて考えますときに、一般教育についての規定が免許法に前に書かれたということは、単に設置基準とダブるかダブらないかということではなくて、やはり専門教育課程の中で学芸学部を中心に教員養成を行なう、そういう新しい大学における教員養成というものが、それまでの師範学校における教員養成の批判に立って、真の意味一般教育というものが中核にならなければいけない、そういうたいへん大きな悲願を込めていた一つのあらわれではないかというふうに思うわけでございます。そういう点から、もちろん事実上は、設置基準のほうとダブリますから、どうしてもここに載せなければいけないということじゃございませんけれども、そこにあらわれた意味において、私は、やはり考慮を払う必要があるのじゃないかと思うわけでございます。  以上、別表第一を中心に若干私見を申し述べましたけれども、最後にもう一つ重大な問題があるのじゃないかと思います。それは、かりに国会でこの改正法案が通過した場合のことでございますけれども、これは免許法だけではなくて、実際にそれの施行規則というものが直ちに変わるわけでございます。施行規則は御承知のように省令でございますので、その限りでは、国会の立法権が直接には及ばないということになります。私ども教員養成大学におります者の立場から申し上げますと、たとえば一番典型的な例は、昭和三十九年春に制定された、いわゆる講座学科目省令といっておりますが、正確には国立大学の学科及び課程並びに講座及び学科目に関する省令というものが制定されますときに、これは省令制定ということで、大学の自主性がいたく傷つけられたということがございます。これは全国教員養成系の大学学部の先生方の非常に多数の方が苦い思い出としてその胸の中にあるわけでございます。こういうことは、おそらく国会における立法の府におられる先生方は直接には御存じないことではないかと思いますが、実際にその省令がどのように制定されるか、その制定の中身と、その制定のされ方によりましては、たいへん日本の大学における学問研究あるいは教育、さらに大学における教員養成というものをスポイルされかねないというおそれが年ごとに強くなってきているということが、教員養成大学現場におります者に痛感されるところでございます。この点におきまして、かりにも省令制定段階で立法権の期待したところにあらざるものが出てくるようなことがないように、先生方の御努力と申しますか、御配慮と申しますか、それを私は切に願いまして、公述を終わることにいたしたいと思います。
  8. 八田貞義

    八田委員長 次に、太田卓君にお願いします。
  9. 太田卓

    太田参考人 国学院大学太田でございます。  私は、いままでの先生方の理論的な御意見につけ加えまして、私、ずっと昭和二十六年からただいままで主として教員養成のための課程で教師をしておりますので、その経験を申し上げて、現在の問題点を皆さん方に考えていただきたいと思います。  私の経験は、実は初めに公立大学、都立大学でいたしました。そのあと学芸大学、それから最後に私立大学である国学院大学、この三つの条件がございまして、それぞれ教員養成について問題を持っておりますので、この点について申し上げてみたいと思います。  まず教員養成の基本的問題でございますが、玖村先生が基本的に申されましたように、やはり教員養成についてはほんとうに教員の質の向上を目ざす条件をつくらなければならない、これは当然でございます。その線に沿って、山崎さんもおっしゃったように、どういう教職観に立ってどのような人間をつくるか、これが教職免許法の一番基本になる問題だろうと思いますが、その点は私はいままでの、つまり昭和二十四年の教職免許法ができる前の教職観、教員養成の課程と、それからその以後のわれわれの教員養成の条件というものを厳密に区別し、そうして昭和二十四年以降の教員養成の方向においてものを考えなければならない、こう考えるわけでございます。  その点について考えてみますと、山崎さんがおっしゃいましたように、実はそういう考え方が今度の免許法においては、ある意味においては、意図的かどうかはわかりませんけれども、結果として変えられてくるのではないだろうか、これが一番私の問題とするところでございます。つまり、昭和二十四年に考えられた教員免許法の考え方は、いままでのような、教員というのを狭い条件の中で徒弟技術者としてつくるのじゃなくて、基本的に十分な人間的教養と申しましょうか、こういうものをつけられる、そうしてその上に立って専門教育技術を獲得する、そういう教師としての全体の資質を予定しているわけであります。その条件は大学によって可能である。こういうふうになっております。ところが今度の問題になりますと、実はそういうふうな大学教育というものの基本の条件が事柄においてゆがめられていく、私はそれを感ずるわけであります。と申しますのは、教科専門科目とかそういうことと、さらに教育技術的な単位数をふやしたりして、そして教員の本質的素質というのは、ただそういう教育技術を獲得すればよろしい、こういう教職観が出てくる。したがってそういう条件は、これは将来の問題になると思いますが、閉鎖された教員養成大学、昔の師範学校のような形態でのみしかできないというような問題が起こってくるかもしれない。その意味において、私はそういうふうな、これは私どもの常識のことでございますけれども教員養成については大学で開放的な条件で養成されなければならないという目的が戦後二十四年の免許法でございましたけれども、今度の問題はすぐには出てまいりませんけれども、だんだんに、こういう条件で、ある条件を持った目的大学でしか、閉鎖的にしか教員養成ができないという方向になってくるのじゃないか。そうしますと、私ども教員の能力と素質を獲得するために非常に問題を感ずるわけでございます。  実は皆さま方も御存じだと思いますけれども、私は過去の師範学校出身の先生方をとやかく申し上げませんが、やはり非常に教育技術的にはすぐれていたかもしれません。しかし人間教師として、あるいは幅広い教育者としての十分な条件を獲得していたかどうか非常に問題だ、そういう一つの問題が出てくる。そうしてそういう条件であったからこそ、教員を自給する場合、ことに小学校教員の場合でございますけれども、もっと幅広い、つまり社会のさまざまな能力を獲得して、喜んでその教育の場に来るという人が少なかったわけでございます。今回の免許法を改定していきますと、そういうふうな問題が起こってくるのではないだろうか。実は具体的な事実がございます。たとえば私は都立大学昭和二十六年からつとめましたけれども、そこでは新しい免許法に基づいて、いままでの師範学校養成形態とは違った教員養成を始めた。私はそれに非常に感激を持って従事したわけであります。そこには理学部の学生も人文学部の学生も工学部の学生も、それぞれ専門の学問をした、同時に教師としての専門的技術を学ぼうとした。したがって、そこには、ある条件の教職科目が許されるならば、あとは自分の自由な専門的な学問教養、そういうものを非常に自信を持って、そしてそのあとで教育実習単位なら三単位をやる、十分にそれができていきます。そしてそういう学生諸君は、昭和二十八年に卒業した。そのあとは私は、二、三年そこの先生をしましたが、その学生は東京都の教員においても非常に優秀な教師として出ていることを確信いたしました。ところがそのあと私は学芸大学へ参りました。学芸大学は、原則としては一般大学として教員養成するということでございましたが、しかし実際には学芸大学というものは、戦前と形態、組織は変わったといっても、メンタリティーと申しますか、心がまえにおいてやはり師範学校という一つの事柄を温存している条件にあるわけです。そこでは、要するに免許法をただ忠実に実行し、そして教材研究をすることを数多くさせる。それから実習という条件をただ機械的に与えていくということで、十分に学問的勉強という条件を与えない雰囲気でございました。したがってその学生諸君を見ますと、確かによく私の講義も聞きますけれども、ほんとうに人間的な魅力あるいは人間的能力、それを持ってほんとうに教師になろうとしているかどうか、わからないわけでございます。むしろそういう条件の中では、私がかつて教えた都立大学学生のほうが、教師としては能力がすぐれているんじゃないだろうか、こういう感じを持ちました。つまり、そこには依然として、教職観の問題で、ただある教育技術的な条件の単位をちゃんと与えて、その技術を通してのみしか教師をつくれないという一つ教職観があったからだと思います。そういう考え方においては、現在の青年諸君というものは、そういうふうに自分が単なる技術者としての教師になるということは好みません。そうでなくて、やはりほんとうに十分な能力を持ち、そこから十分な専門的なことをやって、教師にもなることができる、それからまたほかの会社に行っても仕事ができる、あるいはどこへ行っても十分な条件を持っている人間として、それで教師にならなければならないと思いますけれども、学芸大学のような養成課程を続けますと、人間というのはこれは非常に狭められた、非常に技術的な教師にしかなれない、そういう人間の条件をもって資質向上があったと考えたならば、非常にこれは教育の誤算だろうと思います。その意味において、私は、むしろ教員免許法というのは、戦後の一番基本的な精神に基づいて大学教育という事柄の重大さをもっと位置づけるような方向に持っていかなければならないというふうに思います。その意味において単なる技術の教科をふやすとかそういうことだけで事柄をきめていくような方法はかえってとらないほうがよろしい、こういう問題を感じます。  最後に申し上げますけれども、実は私の経験しました私立大学教員養成の問題でございますが、私立大学においては、幅広く教員養成をしているというけれども、実はそこの私立大学教員養成がまずいから、つまりいいかげんに免状を出す、いいかげんな条件で教員養成をしているから、そういう条件を改善するためにも教育職員免許法を変えなければならないという発想があるわけであります。そのことについて私は反論をしたいと思います。つまりそういう考え方は、教員養成というのはある一定の計画と何かに基づいて、国公立大学でしか、一定の監督と行政をもってしなければできないものであるという考え方があると思います。これは、私は私立大学につとめる者としても非常に憤りを感ずるわけでございますが、こういう条件が出てくるのだろうと思います。つまりいまいろいろ山崎さんからも申されましたけれども、こういう免許法を変えていく過程で、大学の課程、認定だとかそういうものをしまして、これ以上に大学の学問の条件というものをいろいろ教員養成という形で拘束していく。したがってそこにつとめる教員としては、われわれの学問研究の自由がなくなるだろうということも感じます。  ある教師は申しております。私はほんとうに教員養成を大事に考えている。——これは私の大学先生でございます。その先生はただ単に師範学校を出た先生なんです。そしてまた勉強をして最後に私の大学教師になって、いろいろ苦しい教員生活と、さらに研究生活を続けている。そして最後に教員になって、いまは有名な先生です。皆さん方も御存じだと思いますが、今泉忠義先生です。この方は文法の権威であります。その先生がおっしゃるのには、私どもほんとうに教員という資質考えたときに、ほんとうに学問ができなければだめだというわけでございます。ところで、私にはけちをつける面がある、教育先生方は何だか知らないけれども免許法にばかり忠実になって、教科とかなんとかいって、おれの二番せんじのやつしか学生に教えられないじゃないか、こういうわけです。こういう教育という形を考えますと、ほんとうに学問の精髄を教えるよりも、それを焼き直して簡単に教える。おれはそんな学者じゃない。ほんとうの教員養成する。——先生の講座はたいへんですけれども、おれは、教員免許法にはないかもしれないけれども、この単位をとらないやつは教師にさせないぞ、こう言っているわけです。つまり教科教育の中には入ってこないわけです。そして文法の学者としての勉強をやる。卒業免状を取らなければ免許状を取れませんから、先生のところはばたばた落ちる生徒が多い。これは私の宣伝になりますけれども、少なくとも今泉先生の講義を取って教師になった者は十分な先生だろう、こう私は思うのです。そういう条件が私学にはあるわけです。つまりほんとうに学問を教える。そして学問の成果を一つの土台にし、そこに今度は教育技術とか何かある一つの条件をつくらなければいけない。そういう条件はむしろ私立大学において可能ではないだろうか、こう思うわけであります。もう一つは、確かに私立大学の中にはある部分の学校をさすのだと思いますけれども、確かに実習をごまかしているとか、いろいろの事柄も教えていないじゃないか。確かにマスプロの条件もある、それはわれわれ反省しなければならないと思いますけれども、少なくとも責任を持って教育をやっている大学ではそういうことはないだろうと思います。私としてはそのほかに教育実習のことや何かで、いろいろ都の学校実習生を送り込みました。そして私は私立の大学、私の大学学生、早稲田大学学生、中央大学学生と見て回りましたが、いずれにしてもむしろ学芸大学学生よりも生き生きとした顔色をもって教育実習に参加している。こう言うと学芸大学の方にしかられるかもしれないけれども、学芸大学学生諸君は三年生のときに教育実習をやっております。またその次の年に四年生になって、今度は普通の公立学校教育実習をします。そうしますと彼らは初めから、三年生のときから、私はもう教師になるのだ、ちゃんとやったからわかるのだ。そして四年生で公立学校に出たときには、すでにそういうふうな教育技術の魅力というものを失って、ちょっと聞いたことがあるかなといって、先輩の教師たちに対しても、おれたち専門のことだという形で、ほんとうに教師として一番持つべきフレッシュな感覚、そういうものを失っている学生が多い。むしろほんとうに自分たち勉強して、その成果を四年生なら四年生のところで精一ぱい実習でやろうとする学生のほうが、実は魅力的な行動をしている、こういう実態もございます。そう考えてみますと、ただ形式的な教員養成、ただ教科全体をふやすとか単位数をふやすとか、こういうことをきめただけではほんとうに望ましい教師というものは出てこないのではないか、こう感ずるわけでございます。  時間がまいりましたので、私の経験的な話を終わりますけれども、最後に申し上げます。私はできれば皆さん方とともに、二十四年に制定された教員免許法の精神そのものを実現できるような事柄をさらに進めていただきたい、これを申し上げます。その限りにおいて、こまかい技術的な、単位数を変えたりなにかすれば角をためて牛を殺す結果になりはしないだろうか。私どもは皆さん方とともにやはりいい教師を得たいと思っております。その意味におきまして、角をためて牛を殺すことの結果にならないようなこの法案の正しい発展——私は今時点においてはこういうさまざまなこまかいことを変えるよりは、ほんとうに法案の精神そのものを生かすような方向をさらに考えていただきたい、こうお願いいたしまして陳述を終わります。
  10. 八田貞義

    八田委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     —————————————
  11. 八田貞義

    八田委員長 次に質疑を行ないます。質疑の通告がありますのでこれを許します。谷川和穗君。
  12. 谷川和穗

    ○谷川委員 本日は参考人の皆様方にはお忙しいところを恐縮しております。  何人かの先生にそれぞれお聞きいたしましてお教えをいただきたいわけでございますが、時間の都合もありますので、私は特に東京学芸大学山崎先生に一点教えていただきたいと思います。  先ほど山崎先生の御陳述の中に、教職専門制について非常に示唆のある幾点かの御指摘がございましたが、この教員養成については全くしろうとであります私ども立場からいたしまして、特にこの問題は非常に大きな問題であると思うのでお伺いをさせていただきたいと思っておるわけでございます。  私がお伺いをいたしたいと思う点は、先ほど山崎先生お話の中に、一般の世論、特に新聞論調などを取り上げられたように記憶いたしますが、一般の世論の中で、この教育専門性というものを取り違えて、今日の免許法改正を議論すると非常に大きな問題になるという意味のことがあったように記憶いたすのでありますが、どうもその辺が私はっきりつかみ得なかったものでございますから、まことにおそれ入りますが、もう一ぺん、非常に高遠な教育学の問題等からもお説きになったようでございますので、繰り返してお聞かせをまず最初にしていただきたいと思います。
  13. 山崎真秀

    山崎参考人 お答えをいたします。  先ほど私、たいへん時間のほうを気にいたしまして早口になりましたので、谷川先生にも、そのほかの先生にもよく御理解いただけなかったのは私の責任だと思いまして、その点は初めにおわびをしておきます。  ただいま谷川先生の御指摘の点につきまして、先ほど私が申しましたのはこういうことでございます。一般免許法改正、特に免許基準の引き上げということが問題になっておりますところで、教職専門性を高めるために改正をするということについては、これはおそらくいかなる立場の方であろうとも、私は異論のないところであろうと思います。問題はそこからすぐ、そうなりますと、改正法案専門性を高めることになるのかということで、若干議論が深められないままに一般には終わりがちであるということでございます。と申しますのは、先ほど私は新聞の社説を代表みたいにあげていけなかったのですけれども一般教職専門性ということにつきましては、何と申しましょうか、たとえば増加された単位がどういう科目に割り振られたか、今度の場合には、たとえば小学校の場合には、一番ふやされた単位の中の一番多い部分が教科教育研究という部分に振り当てられた。そのふやされた単位がどこに振り当てられたかで、それがイコール教職専門性になるというふうに、一般には思われがちだと思うのです。そういうふうになる場合ももちろんあるわけですが、そうならない場合もある。それは、それじゃ単位が振り当てられた教科教育なら教科教育、そのほかの科目なら科目が、実際に教育教職というものの科学的な発展ということの現状と突き合わしてみまして、どういうふうな中身のものなのかということでもって議論をしなければいけないのではないか。したがいまして、たとえば私は原理的に教科教育研究重要性ということを再三申しましたけれども、必ずしも増加された単位教科教育という学科目に割り当てられたから、それでイコール専門性が高まるのだということでは、そこでものごとを判断するのは、たいへん——問題は教育という国民の将来にかかることでございますので、できるだけその点については真摯な、これは専門家の意見としても、それから一般意見としても、十分そこでわかったような気になって問題を落着させないで、やはり相当中身に即して議論をする必要があるということを申し上げたわけでございます。それから先は私の私見になりまして、教科教育というものの現状やら、少なくとも教職専門性ということが言われるためには、最低どれだけのことが条件として確認されなければならないかということは、先ほど申し上げましたけれども、そういうことでございます。  一つだけつけ加えさせていただきたいことは、谷川先生、いましろうとだから云々と、たいへん謙遜なさった言い方をなさいましたけれども、むしろ教員養成専門家というものがあるのは、本来はおかしいんじゃないか。教員養成、いわば次代の国民をどう育成するかという問題については、もっともっと、いわゆる教育学の専門家も含めまして、十分にやっぱり議論というか、論議が起こされなければいけないのじゃないか。その点では、多少口幅ったい言い方になって失礼でございますけれども、日本の親たち教育関心、あるいは教育熱心と申しましてもよろしゅうございますが、これはおそらく世界でも有数なものだと思うのです。しかし、それが教育制度についての関心でございますとか、教育内容についての関心でございますとか、レベルをもう一段深めますと、必ずしも一般的な親たち教育関心の強さあるいは熱心さというものが、内容に即しているとは限らない。それが証拠に、この教員養成の問題でも、私はもっともっと早い時期から、一般の国民の中で、自分たち子供をどういうふうに養成されるのかという制度内容についての御関心が、あってしかるべきではないか、と言うと、それがそうでないのは、そういうものを研究している研究者の責任が大きいのだと言われると、それはそのとおりというほかはないわけでございますけれども、そういう点ではもっともっと議論が広範にされる、かりにも急いで、不明確な内容があるままで改正なら改正ということが処理されるのではなくて、まさにこれは、どういう政党、党派にいらっしゃる方であろうと、その点については変わりはないと思うのです。子供は石炭や木材と違いますから、一つ間違ったらやり直しがきかないわけです。そういう点で、ほんとうにやっぱり教員養成の現状とそれについてのさまざまな意見というものが、もっともっと出されることの中で、時間をかけて考えたいというふうに思うわけでございます。
  14. 谷川和穗

    ○谷川委員 免許法改正というのは、やはり何といっても教員養成の中では非常に大きな、一番大きな柱といってもいい大きな柱だと思うのですが、私の記憶に間違いなければ、過去にも少なくとも二回、戦後大きな免許法改正があったように記憶をいたしております。しかし、今回の免許法改正は、特に教職専門性ということに非常に大きな力点が置かれておる。そういう意味で、重ねてお伺いをいたしたいのでありますが、先ほどから教職専門性という、いわば非常にかたいことばで、私もお伺いいたしておりますし、先生もお答えをいただいておると思うのでありますが、そもそも教職専門性ということは、一つには教えるという、これはほかの職業と違うという意味専門性と、それからもう一つは、やはり教える内容において言うならば、専門科目を持つという、専門教育をするという——小中学校ではあまりこの意味専門性というのは問題にならぬかもしれませんが、そういう二つがあるのじゃないかと、私はおぼろげながらそう考えております。今回のこの免許法改正においては、教職としての専門性という問題については、過去二十年近くやってきた経験を踏んまえて、やっぱりある程度教科教育研究というような、教える技術においてもある程度いわゆる教育職として、ほかの職業と違うのだという専門性としての制度を確立しなければならないだろうという点が一点と、それから教えることの内容についての技術的な専門性については、これまた、中学校は別ですが、小学校の場合は全教科教育から六教科目ぐらいにする、ただし余った力、能力を、同じ小学校でもそれぞれ自分の守備範囲をおきめいただいて、その方面にいささかなりとも深くやっていただいたらどうかという、そういう面から言うと、むしろ二つとも、今回のこの改正によって、いままでなかった専門性というものが、むしろ積極的に確立され始めてきておるのじゃないかというような気持ちが  一部にあるからこそ、今回の免許法改正に対して、いろいろこまかい点はあったかもしれぬが、大筋からいえば、日本の過去の教員養成の上からいうと、この程度の方向づけは望ましいのではないかというような意見もあるのではないかと思うのですが、この点についてどうお考えになるか、お伺いいたしたいと思います。
  15. 山崎真秀

    山崎参考人 お答えいたします。  谷川先生おっしゃいます第一点のほうは、私はそのとおりだと思うのです。ただ私の申しましたのは、それだけではなくて、公述の中ではそれにあと一つ二つつけ加えたわけでございます。つまり教材の——先生教員養成大学におけることでおっしゃいましたけれども、特に義務教育学校教職専門性ということでは、少なくとも教材選択ということ、あるいはそれを子供の学習志向に即してどう構成し、配置するかというようなこと、それらに関しての、いわばそれこそ専門家としての自主的な判断が保障されるということ、そういうことが専門性の中身にはどうしても伴なわなければならないというふうに申しましたので、先生のおっしゃることは、私もその限りではそのとおりだと思います。  それから二番目のほうは、その点もおっしゃることはよくわかるのですけれども、私は先ほど口述の中では、一つには現状——私は教員養成大学の、もちろんそれも限られた現状しかわかりませんが、実際に行なわれている教材研究なり教科教育法なりというものの現状を一つは踏まえまして、それがむしろこのままで固定されるおそれがありはしないかという点を申し上げたわけでございます。むしろ、これはもっと学問的に、もちろん先生のおっしゃるような意味で練り上げられなければいけない。それをそうしないで、そのまま教えられたのでは、現状を固定されるので、それはむしろ学生に対して無責任になりはしないかという危惧がございますのと、もう一つは、そういう改正にそういうねらいの込められるということ自体は、私も否定はいたしません。  同時に、私も先ほども申し上げましたように、これがそのまま通りますと、この免許法改正だけではなくて、設置基準改正による授業の積算と申しますか、単位計算のしかたが変わりまして、大学教育課程全体の教官の講義の負担量、それから学生の学習の負担量というものが、これは結びついて分けられないと思うのです。そうしますと、先ほど私は簡単な例を申し上げましたけれども、いわば学生はむろんのこと、教官もほとんど自主的な研究を遂行する、それに基づいて授業をするということが、物理的に不可能に近いというような状態になります。そういうことで現状が固定されるのは、たいへん危険ではないか。むしろもっと教育教科そのものを、原則的にそれが重要だということは再三申し上げましたが、一定のところに練り上げて、その上でやはり再考慮するのが妥当なのではないかというふうに考えております。
  16. 谷川和穗

    ○谷川委員 最後に一点だけお伺いいたします。  修得単位の問題でございますが、いま先生の御指摘のような意味で、教員養成する機関、今日は主として大学と見るべきであると思いますが、大学教員養成する側から見ますと、今回の免許法改正によって、特に小中学校の一級免許に関する限り非常に大きな修得単位の引き上げがあったから、現場としてはそういう問題に集中していこうとすると、養成する側の問題からいって非常に大きな問題点が起こってくる、私はそう思います。  ただ私はここでちょっとお伺いいたしたいと思うのでありまするが、教員養成大学においてすらそういう問題が起こるとすれば、今日の教員養成は先ほどのどなたかのおことばにもございましたが、開放制が叫ばれておりまするし、確立しておりますから、その他の一般大学からたくさんの教員養成されて出てくるわけでございますけれども、逆にいいますると、いままでそういうような一般大学教員養成されてきておったのだけれども、それは教員養成というような意味合いからいうと、必ずしも教職に適した人ばかりでなく、ただ免許さえ取れるならば教員になれるというような形で出てきたのが積み上がってきて、今日の改正の世論が起こってきたのではないか、私はそう判断しております。したがってこの修得単位の問題については、先生は何か格別に修得単位の数を引き上げることなしに、教員資質向上専門性を確立するようなほかの便法があり得るか、あるいは修得単位の中の同じ単位においても、そういう議論はございませんでしたが、単位の数はそのままにしておいても、中の質の問題を解決しさえすれば、こういうような問題は解決し得るような代案のようなものをお持ちかどうか。その点をお答えいただければ、私の質問は終わりといたします。
  17. 山崎真秀

    山崎参考人 ただいまたいへん貴重な御指摘を受けたわけでございますけれども、結論から申しまして、私は特に代案というものは持ち合わせておりません。  それから単位数の引き上げを私は全面的に否定するものでは、先ほど申しましたように、ございません。  ただ、特に谷川先生のいまの御指摘は、たとえば使命感というような問題も含めまして、教員資質向上を保障するのにほかにどういう考えがあるだろうかということでございますが、特に使命感の問題につきましては、近藤先生もおっしゃったので、私も申したいことがございますが、それは少々はずれるので、ひとまずおきまして、いわゆる教員養成を目的とする大学教育課程におきましては、ほとんど現状のようになっておりますけれども、そのほかの一般大学の場合に、おそらくそういうことを谷川先生は想定されて御指摘になったのだろうと思いますけれども、そういうことについては免許法そのものにも問題はあろうけれども、これまでそれ以上に世上指摘され、批判をされてきた点につきましては、むしろ免許法内容よりも、その運用のレベルで少なからず問題があったのではないか。たとえば教育実習教員養成大学よりも少なくて、与えられてしまうとか、率直に申しますと、たとえばいわゆる一流会社あるいは中央官庁というようなところに行けなかった場合に、失業救済的な意味免許状をとっておこうというような事態は、私はよくないことだと思います。そういう点では、私は開放制の免許制ということを原則的に厳守した上で、その点についての運用がもし適正を欠いた場合には、これは国立大学であろうと私立大学であろうと、かりにも教職の課程を終えて免許状を出すという限りは、免許法に忠実でなければいけない。その運用のレベルで妥当を欠いた場合には、これはそのレベルで問題が処理されなければいけない。ただ極端に申し上げまして、やることはやらないけれども免許状だけ出したい、そういうことはございませんでしょうが、かりにそういうケースがもし出ました場合には、それはやはり免許法の認める趣旨ではないということは申すまでもないことではないかと私は思います。  運用のレベルでの問題と法改正の問題と必ずしもイコールでないということを、さっき申し落としましたので、その点つけ加えておきます。
  18. 太田卓

    太田参考人 谷川先生お話は私のところについてもつながると思いますので、補足させていただきます。  いま山崎参考人から、免許法の問題は、ただ単に法の条件を変えるだけでなく、現行の免許法においても、運用をよくすれば、当然優秀な教員養成はあり得るという結論でございましたけれども、私もそれを申し上げたいと思います。ことにその問題は、私立大学教員養成の問題として一番重要な問題になると思いますので、申し上げておきたいと思います。  確かにいまおっしゃるように、ただ免許法の規定だけをたてにしてそれをやるという条件の大学もあるわけでございます。そういうものは、教育的良心とは何かという問題だと思います。それは当然その内部において、大学内の組織、教授をするわれわれ教授団組織の中で解決をしていく問題だろうと思います。私どもはそういうことを実はしておりまして、私立大学の、何度も事情を申し上げますけれども、すべての私立大学そのものが免許法をごまかして与えるということのないように、むしろ現況においてはだんだんそういう自覚が出てまいりまして、私の大学でも、それから中央大学でも、早稲田大学でも、教育実習に参りますときは、単位の規定がございますから、その教員になり得る人間であるかどうかちゃんと面接を  いたしまして、そしていろいろの単位の取得の条件あるいはいろいろの条件を勘案し、この人間実習に参加できる、そういうふうな具体的な操作もいたします。実はそういうふうなことが徐々に行なわれつつありますので、これは運用の問題である。そういう運用をしてまいりますれば、現行の免許法においても十分教員養成というのは、開放された私立大学においてもまた可能である、こう確信する次第でありますので、申し上げます。
  19. 八田貞義

    八田委員長 山中吾郎君。
  20. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 四人の先生からいろいろ御意見を伺いまして、その点お礼を申し上げたいと思います。私たち、この免許法改正法案については、日本の教育制度の基本にかかわるものですから、軽率に審議すべきものでない、慎重に審議をして、将来禍根を残さないようにしていきたいというふうに考えて、与野党真剣に質疑をいたしておるのであります。そういう立場で、私の悩みを含んでお聞きしたいと思うのです。  私は、免許制度というものの終着駅はどこかということを見きわめておかないと、部分的にこういう改正をしていくということは非常に危険である。まずそれが第一に頭にある。ところが、免許制度を決定するのには、先ほど先生方みな言われましたが、教職観、教師資格条件というものが明確に確定されておることがまず第一条件である。そのあとに教員養成のあり方はどうかということが次に流れてくることであり、その次に免許制度というものが生まれてくるんじゃないか、こういうふうに私は思っておるのです。ところがこの法案は、教職観について十分日本の識者が確信を持ったイメージもまだ十分に論議をされていない。大学教員養成についても、一般大学におけるものについて、現在うまくいかないから、制度的に欠陥があるのか運営上の欠陥であるのか、あるいは学生がいけないのか、現在の教授、助教授の質か悪いからそうなるのか——先生方おられるのに申しわけないが、そういうふうなことも見きわめられていないと思うのです。そういうことが未定のままにこの免許法が出ておる。しかし時間的には審議に審議を重ねたといわれますが、これは形式的な時間の経過で、結論は出ていないのですよ。中教審の答申、この建議案についても大事なことは検討中と残したまま文部大臣に答申があり、建議があり、そうして部分的なものが出ておる。ところが、その改正する小部分は、現象面においてはまあこれでいいんじゃないかと思うが、方向は何だか未確定のままの教職観並びに教員養成のあり方について、何か逆のほうから決定するような法案になっていることを実は心配しておるわけです。  そこで、まず四人の先生方教職観についてお聞きしておきたいと思うのです。  私は、日本の専門的職業として考えるときに、お医者さんがある。お医者さんの場合には医学を学問として実感を持った、いわゆる医学士といった十分の学位を持った人が開業したときに、医師という専門職業が出ておるし、弁護士という日本の専門的職業、専門性というものは、いわばみな完全なものです。それは法学というものをきわめた人が最高の学習をして鍛えられて弁護士という職業についておる。日本の先生の場合も一つの学問を持っておる。専門職というものは技術的のものではないと思うのです。小学校の場合にも、教育学とか心理学というものについて、学問として実感を持っていなければ、職人になると思うのです。教科の場合についても、国文学についてもその他についてもそうだと思う。ところが、そういうものについて十分に確定しておるかどうか。玖村先生が課長のときに発表された御意見が、いま山崎先生のほうからお話しになったが、それが動揺しておる中でこの免許法改正は非常に危険であると思います。  教育大学改正の場合にも、学問的称号が与えられてくるかと思うと、数学を研究した者も理学を研究した者も教育学士という名前がつけられておるので、学問の称号はどこかにいってしまったのではないかという心配をしておる。私は免許制度、これには非常な疑問がございます。日本の昔の寺子屋のお師匠さんというものは、その村の学者であって、学者というイメージの中に尊敬が払われておって、伝統的には日本の社会における教師のイメージは、ヨーロッパから輸入された教師観ではなくて、学問で鍛えられた人というのが長い江戸時代の寺小屋のお師匠さん、そういう中にもあったと思う。戦後の方向は、学者としての教師のイメージによって養成されてきたので、昔、自然に生まれた学者教師としてのイメージが意識するとしないにかかわらず出ておると思って、いい方向であると喜びを感じておったわけでありますが、しかし、そういうような教職観が出ていないと思います。  そこで小学校を経営されておる校長さんから教職関係、それから私立大学その他教育行政を担当された多彩な参考人先生でありますから、教師観について、確信のあるところを一人ずつお聞かせいただきたいと思います。
  21. 玖村敏雄

    玖村参考人 いま終着駅がきまらないのにとおっしゃるけれども、私は、終着駅というのは当分きまらない、これは人生、だれが終局はここだというようなところを見通し——お互いに有限の人間ですから、やはり試みためしにやりてみて、一そうよきものへという努力を積み重ねるほかないのではないか、そういうことを一つ考えるのであります。  専門職教師というのは何かと言えば、何よりも、いまおっしゃいましたように、小学校中学校高等学校のそれぞれの時代子供なり青年を理解する。その子供なり青年なりを理解して、その持っておる可能性を展開するということに必要な基礎的な学問があるわけであります。心理学、教育学とおっしゃいましたが、その類のことがあると思う。そういうことをやらないで教育専門職にはなれない。しかし、それはもっと根本的には何を持って教育するかという、その持って、何をというときになると、おっしゃいますように、私は学問というものはきわめて重要な立場にあると思うわけであります。そういう意味で今度の免許法改正は、そこの単位の要求を非常に高くしたという点に特徴がある。その高くしたものをどう使うかということが心配だ。われわれの参考人の中からも意見が出ました。その点は私もそう思うのですけれども、しかし一番中心に立つものは、やはり学問それ自体でなければならないと思うわけであります。  ところで第三に、しかし教育者人間像として最も要望されることは、その人が人間としてできるだけ十分であり、愛とか信頼とか、そういうことをかちうるだけの魅力あるお人柄である、これは非常にむずかしいことでありまして、これを教育界にのみ求めることはずいぶん片寄った議論なのであります。いかなる職業に従事する人であってもそうでありたいわけでありますが、なかんずく教育の場合には、何といっても子供が好きだ、青年が好きだ、その人の持っておる可能性を引き伸ばすことに自分は人生の意義を感ずるという、そういうものの見方、考え方の人があることが望ましいと思うのであります。しかしそういうことはどうしてできるか。お説教でできっこはありませんので、やはり学問を誠実にやるとか、あるいは教職に関する専門教育科目を深く研究するということから、だんだん自分自覚してくるものであろう、そういうふうに考えます。
  22. 近藤修博

    近藤参考人 私も望ましい教師とはひたむきに子供を愛する、子供の一人一人を見つめて、その一人一人を十分に伸ばしていく、そういう教師が望ましい教師ではないかと考えているわけであります。そのためには、子供たちにどういう先生が好きかという調査を前にしたことがございます。それを見ますと、やはり公平でえこひいきのない先生だ。これは小学校中学校も同様でありますが、公平でえこひいきのない先生だ。それから明るくて一緒に遊んでくれる先生、そして三つ目には、教え方がよくてよくわかってくれる先生、そういうことを小学校中学校の生徒などは言っているわけであります。ひたむきに子供を愛する教師であることが私は第一条件じゃないかと考えておるわけであります。  それから二番目は、そのためにもっと広い視野に立って、自分自身研さんにつとめることが望ましい教師一つ資格じゃないかと考えておるわけであります。先ほど私が申し上げましたとおり、毎日自分の教える教室であるいは職員室でみんなと研究し合い、討議し合って自分を高めていく、そういう先生であればりっぱな先生になるのじゃないかと思います。  三番目には、先生お話しのように、そういう中で自分の好きなもの、自分研究しようというようなものをなお深めていく。東京あたりですと、そのために夜間の大学等に通って勉強している先生も相当おるわけであります。そういうところでより深めていくというようなことは必要じゃないかと思います。私の学校の例ではございませんが、学芸大学を卒業した社会科の先生に、小学校で、君は何をやったと言いましたら、社会科で鎌倉時代の何とかを何年間かやった、そのことはよく知っているんだけれども社会科についての指導についてはどうも自信がないというので困ったという、よその学校校長先生お話を聞いたことがございますが、鎌倉時代の深い何かを研究することも必要でございますが、やはりそれとともに、もっと小学校教員としての他の面についも十分にわきまえておって、身につけた人が望ましい教師としてのあり方じゃないかと思うわけであります。
  23. 山崎真秀

    山崎参考人 私も山中先生の御質問に対して、どういう教師像がいい教師なのかということについては、玖村近藤先生と変わることはございません。おそらくどなたも変わることはないだろうと思います。たとえば、子供に対する愛情でございますとか、あるいは責任でございますとか、そういうことは全く私も同意見でございます。さらにそれに対して、いわば類型的にはっきりさせるためにつけ加えろというふうにおっしゃいますならば、たとえば、子供にしっかり基礎学力をつけることでございますとか、あるいは子供の心とからだ——これは非常に変化の段階にあるわけですから、子供の心とからだの正常な発達について常にきびしい注意だけではなくて、それに対して変化の起こった場合に適切に対処し得る能力というものが要求されるだろうと思います。ただ、そういうものの中身はどういうもので貫かれているかということを考えますと、私の言い方で言わしていただくならば、それはやはり憲法二十六条の子供教育を受ける権利の保障ということに基づいて、具体的には教育基本法に掲げられている教育内容理念ということだろうと思うのです。教師子供に対して、ほんとうに私が先ほど申しましたような、そういう能力や態度というものが養われるためには、むろん教員養成する大学における教育内容の問題がありましょう。それとともに、やはり憲法に保障する子供教育を受ける権利ということが、単に文面上のことでなくて、ほんとうに痛いほどに子供の権利と未来をどう守ってやるかということについてのきびしい自覚がなければ、それが養われなければ、どれだけ説教してもいい教師は生まれてこないと思うのです。  先ほど谷川先生が御指摘になりましたお話の中に、免許法は過去二回大きな改正があったということがございましたが、私もそれを承知しておるわけでございます。二十九年の改正の中でも、文部省のほうで改正についての解説の本をお出しになっております。この二十九年の改正によって文部省がお出しになった解説の本の中でも、少なくとも免許法というものは、未熟な発達段階にある子供の生命と将来を守るために、いわば、児童保護立法として免許法はあるのだということがちゃんと書いてございます。そういうものを押しつけではなくて、ほんとうに学問の教授を通じて、教員になる学生の中につちかうことが成功するかしないかということだろうと思います。  そういうことから、先ほど近藤先生のおっしゃった、たとえば使命観というような問題が出てくると思いますが、一つだけその点についていわゆる教員養成大学について申しますと、いわゆる教員養成を主とする大学学部ということから、三十九年以来、制度的にも、教員養成のみを明確な目的として掲げることになったわけでありますけれども、世上いわゆる目的大学といわれております傾向が顕著なのでありまして、それに比例して学芸大学を卒業していく学生教育に対する魅力を失ってきた。それの解釈のしかたはさまざまございますけれども、いわゆる目的大学というものを制度的にそういうふうにしようというお考えは、むろん学生をスポイルするということではございませんで、その逆をお考えになっていることだと思いますけれども、現実には、自分たちの将来は教職にだけしか開かれていないというふうに一定の方向づけをした上で、それに使命観なり愛情なりというものを理屈で教え込んでも、それは決していい教員養成にはつながらないのだということについて御注意願いたいと思うのです。私はそのように考えるのです。
  24. 太田卓

    太田参考人 この件については、理念的には玖村先生近藤先生のおっしゃったことが正しいと思います。基本的にいま御質問になりました教師専門性という立場に立ってこれを考えなければならないと思いますので、その点について申し上げてみたいと思います。  実は専門性という場合には、そこに技術性と申しましょうか、ただ専門的な技術をもって仕事をする人間というように考えられるわけでございますけれども、この事柄は非常にむずかしい解釈を要するわけであります。つまり専門的な技術をもってやる昔の職人、徒弟は専門技術者であるかもしれませんが、いままで教師に求められたものは、どうも医者や法律家などの専門性と違った職人、徒弟のような技術を身につけている人間というふうに考えられたのであります。職人、徒弟はかつて技術だけで生きていったとは言いませんが、道具として使われたのであります。教師も同じように、道具として使われて、技術しか身につけない人間だというのが教師の姿だろうと思いますが、そういうような技術者ではなくて、実は教師には、法律家や医者と同じように正しい意味専門性が与えられなければなりません。医者や法律家は専門の知識や技術を通して、その社会に人格的責任というものを与えられているのです。つまり人格が認められているわけです。したがって、はたして現在の教師にそういうような人格が基本的に認められ、そうしてこの社会に人格の責任を負って、目的を持って仕事をしているかということを考えますと、どうもそうじゃなくて、ただ技術的な責任だけ負わされている。つまり免許法においても、そもそも技術的の質を高めるという状態に、つまり教師を人格として認めた専門性というものはここには感じられないわけであります、そのことを申し上げたわけです。したがって、私はそういう意味において教師に求められるものはそういうふうな単なる技術的なものではなくて、技術も必要ですが、同時に技術がその教師の人格的責任につながるような内容にならなければならない、つまり教師が人格に認められるようにしなければならない、そのためには教師自身のそういうふうな内容をつくる、人格をつくる内容というものを考えなければいけない。ちゃんと医者や法律家においてはさまざまな幅広い知識、学問というものを持っている、そしてさまざまな条件がある、そして社会的な責任として、そういう人格的内容を持っているから専門家として認められているわけでありますけれども、今日の教師においてそれがほんとうに認められているかどうか、私は教師はそうなければならないと思います、またそうなっている先生は多くあると思いますけれども制度的にそういう事柄を認めなければならないと思います。教育免許法においてそういうふうな事柄をきめられるように、教師の人格的責任というものをちゃんとして、そしてその上に立って技術的事柄をどうするかということをきめるような内容にしなければならない、と私たちは思います。
  25. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 四人の先生から教師についての根本的なお考えを聞きまして、学問というものできたえられる中で教職についての子供に対する愛情、あるいは広くいえば使命観、大体そういうことについて共通したお考えでありますので、私たちはほとんどみな同じ意見だと思います。教師資格はそういう学力と、それから教授技術と先生としての態度、この三つがあって教師であるということは、大体識者の方々あるいは教師の実践をされておる方々も同じ意見であるとするならば、ここからまた論議が発展できると思うのです。  その次に、私たちはこの免許制度で特にいろいろ考えることは、しっかり学力を身につけるためには専心大学で学力を身につけるべきであるから、教授技術等の学問以外の雑念を考えることによってかえって目的を失うのではないか。私は東京の高等師範の卒業生です。私は卒業するまで一生懸命学問をしました、遊びもしましたが、そのときにいまおっしゃった使命観なんというのは、学問をしておるという中で自分というものをつくっていったという実感があるし、あとで教え方とか教師に対する、何かおれは教員として生きていこうというようなのは、卒業年次の一月から三月の三カ月の小学校中学校のいわゆる実習の中で私はつくられたのであります。ところがこの改正案は大学の一年からそういう態度とか何か技術を身につけさすのがいいのだという、何か雑念というかそういうのがあって、その教科のつくり方というものが入っているので、これは間違いじゃないか。ほんとうにいい教師をつくる、この三つの条件をつくるならば、大学においてほんとうの学問をしていく、そして教師になるときはたった四週間じゃなくて三カ月、三カ月の実習の中で教授の方法も身につけ、自信もつける。そして一つの狭い学問をやっておっても、その教材の教案をつくったり何かする中で、全体の小学校中学校を教える程度のものは自信がつくと思うのです。大体われわれは小学校の卒業生であり中学の卒業生であり高等学校の卒業生であり、優等生であればそんなことをやれるのはさまっているじゃないですか、大学でそういう教材を全部やらなければ教えられないなんというのはうそなんです。われわれ優秀なる——小学校中学校高等学校を卒業して大学へ行っている。そしてまた近藤先生のおっしゃったように、できない者を大学に連れて行って教師にしようといっても、これは幾ら金を使ってもだめなんで、少なくとも小、中、高の優秀なる者を入れるということが前提だと思います。これは先生のおっしゃるとおりだと思います。それがいまは少しもないのですから、私は文部省の責任を問わなければならぬほど実は心配しているのです。そこでこの免許制度では、何か教員養成するときに学問で鍛える以外に技術というものを大学の一年生から加えなければならぬというのは事実に合わない、私は体験でそう思っている。卒業の三カ月、教師になるときにお鍛えになればいいのです。そこに私は免許法改正の方向に誤りがあるのではないかというふうに思うのですが、その点は玖村先生いかがでしょう。
  26. 玖村敏雄

    玖村参考人 一年生のときから教え方をやるとおっしゃられるのは、たぶん大学四年間の最初の一年半くらいは一般教育でございますから、そこはやらない、それから三年ころまでに教育心理学その他の条件を整えなければわかりませんから、したがいまして、いまここで例をあげてみますと、中学校の一級免許状をとるために四十九単位を要望されていますが、その四十九単位のうちの三単位教科教育法で、残りの四十六はおそらく学問ですね。もちろんこれは卒業のための百二十四とれませんから、まだかなり多くの、十五単位か十七、八単位くらいはおっしゃる学問をしなければならない。それも教科教育法というふうに申しますといかにも先生くさい、寝てもさめても教えることばかり考えるというようなことにちょっと響きがあるのは、やはり今度の改正が誤解を招く一つではないか。少なくとも私ども大学では教科教育法というのは、おしまいころに、教育実習に出る前に教えるというふうに配慮しておりますので、御心配の点はそうないのではないか。  ただここで参考人の中に学芸大学をぼろくそに言って、その他の大学がいいというふうにおっしゃることについては、私は多少異議を申し立てたいと思うのです。と申しますのは、おあげになりました例は、みんな特殊の例でありまして、何も客観的な統計によるものでもないし、それから事情も違いますし、どこの学校にもいいのも出るし、あまりよくないのも出るというのがほんとうであって、そういうふうにおっしゃるということは、私は現存のわれわれ大学に対してたいへんどうもよくないことじゃないか、お互いにそういうことはよしたほうがいいのだということを、これは参考人に言わなければならぬことで、誤解していただきたくないと思います。
  27. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 参考人同士であまり……。  私の実感から言いますと、全部学問だと思うのです。いろいろの教科を入れましても、しかし人類の到達した学問の分類というものは半永久的にまず五十年も変わらない、そして新しい領域が出ると一つの学問の領域が出ると思うのです。ところが教科の分類の仕事は、政治的に動きまして、一年でも動くと思うのです。だからその教科に引きずられて大学教育のあり方を規制されるということは、これは何としても拒否しなければならぬ。ところが免許法から規定して、大学の学長がそれに従わなければならぬような法律をつくらすことは、私は反対、大体文部省は権力主義になり過ぎると思うのです。局長もそこで聞いておるわけだけれども、そうでしょう。大体大学の学長というのは、見識を持っている人は、学問で鍛えて、その中で教師をつくるくらいの確信を持たなければ、一々文部大臣あたりの鼻いきをうかがうような学長は、私は学問の真理を探求する者ではないと思っております。免許法を先へ持ってくるものだから——学問の分類というものは五十年くらい変わらない、ぼくの時代から、経済学なら経済学、法学なら法学と変わっていない、これをモザイクのように持ってきて、こうするといえば、間接的に大学学長の教育の方針そのものに規制を加えますから、あと回しに検討すべきじゃないかということを、私は言うのです。  そこで私自身の体験を言いますと、私は昔の高等師範の文科一部、学問分類じゃないのです、文科一部公民科という免状をくれた、ところが私は一生そのために、あなたの専門は何ですか、公民科、公民科という学問はないのですね、まだ劣等感を感じているのです。いまは社会科です。あなたの専門は何です、私は社会科です、そういうイメージをつくらないほうがいいんじゃないか、学問ですから。ところが、公民科という免状を与えるために実際は学問による講座をしておるわけです。経済学、法学というのは、たとえば民法は東京大学の末広厳太郎先生が、刑法は小野清一郎先生が講義をされていた。その人は自分の学問分類の中で教えてくれるわけです。ところが公民科という分類に仕分けをされるものだから、学問を散文的にずっと教えられたものだから、何が専門なんだということがなくなって、あと自分研究して会得して、苦心惨たん自分でつくっているだけなんだ。だから大学においては、とにかく研究方法をつかまえて、学問に実感を持った教師を出してもらう。それを徹底して三カ年なら三カ年、あと半年教育研究なら、教授法その他を実習をしているときに同時に授業を持ってやりなさい、ぴんと入りますよ。最初の一年、二年からそれを持ってこられたって居眠りしています。それは事実間違いなし。だから卒業まぎわに半年なら半年、そのときに必要なら教授法その他技術に関する——これも学問です。そしてその実習をしている中に私は精神体得ができると思うので、そこにいまお聞きしました先生方教師観というものから自然的に流れていって、大学における教え方というものは私と同じ意見になるはずだと思うのです。ところがそれが免許法によって間接的に曲げられてくる。それを私は心配するわけであります。その点について実際に、私学というのは一番教師をつくらないとよくいわれるから、その点一番憤慨しておられるようでありますが、太田先生から実際の実感の中からひとつ御意見をお聞きしておきたいと思います。
  28. 太田卓

    太田参考人 ただいま先生のほうからいろいろお話しいただきましたけれども、やはりほんとうに教師の体験を積んでこれだけのお話を出していただきまして、非常にありがたいと思うのです。私は、いまの御意見について、これは教育学のほうの一つのあれでございますけれども、すぐに学問の勉強をして、その技術を身につけるそのやり方については、いまのとおりいっていいとは申しませんけれども、いまの基本的なお考え方でございますね、やはり教師というものをやる場合、学問も中途はんぱにしておいて、そして部分部分で技術を詰め込む、こういうふうなやり方をしますと、結局教師という人間専門的な条件が非常にあいまいなものになってしまうと存じます。その意味において大学におけるそういうふうな教職に関するいろいろな専門科目の与え方について、さらに検討されなければならないと存じます。それから考えてみまして、私は、おっしゃるように、玖村先生もおっしゃっておりました、現行の免許法においてもそういうふうに初めから技術を詰め込むというようなことはいたしておりません。一番はじめにおいて、一年生、二年生のときにおいて一般教養を身につける、それから三年以降になって専門的な教育原理あるいは教育心理、こういうものを勉強します。そしてそれから教科教育法というものを勉強いたします。私はそれはいま全部妥当とは申し上げませんけれども、現行においても、そういうことをすれば一応大学において専門的な勉強もできるし、そしてさらにそれに基づく技術も身につくだろう、こう感じております。むしろ私はこれがいま限界じゃないだろうかと思うのです。これ以上、より多く教授法だとか研究法だとか、こういうものを極端に加えていきますと、専門勉強というものの条件が少なくなるんじゃないか、山崎参考人もおっしゃっておりましたけれども単位数の増大というものは非常に学生には負担でございまして、その意味においてほんとうに学問をしようとする学生諸君たちは、そういうふうな課程をとらないというような条件になりかねない。私立大学においても一番、こういうと残念でございますけれども、さっき申し上げましたような山崎先生のお弟子なんか、非常に学問をぎゅうぎゅうやられます。そうすると、その条件で単位が非常に——単位というのはただ単位数だけじゃなくて、時間と労力、夜中でも勉強しなければならない場合がある、そういう学問の勉強をして、なおかつ勉強する学生には、より多く教職の技術的なものの単位数をふやしてくると、かえって負担になってしまう。それじゃどっちをとるかというと、学問をとるだけに終わり、学問をして教師になるという条件が少なくなるんじゃないかと思いますので、さらにこれは検討いたしたいと思います。
  29. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 次に免許制度そのものについて御意見をお聞きいたしたいと思いますが、私は、先ほど先生方が学力それから教育技術それから態度、使命観という、そこまで高まっておる人もあるしそうでない人もあるでしょうが、免許制度というのは三つの条件を証明する制度には絶対ならないのだ、学力の証明だと思います。免許制度そのものの性格からいって、これだけの学力を持っておる、そこで教壇に立つ、あるいはその免許状の中にきっかけはつくっておる、四週間の実習だとか技術を会得する、しかしほんとうに教師として生きがいを感じ、この子供を捨てない、あらゆる社会的地位その他野心を持たないで、子供のためにというのは、教壇に立った中でできたんじゃないか、近藤先生教育実践家として長く校長をしておられるが、おそらく先生が使命観を持ったのは教壇に立ったあとだと思うんですね。十七、八歳の青年諸君は、生活経験もないのに教育は大事であるという、そんな高い認識は持つはずはない。私は生まれつき低級だったからそうかもしれないけれども、そうじゃなくて、教壇に立ったあとに出てくると思うんですよ。そして日本でもヨーロッパでもどこを見ても、免許制度というのは学力に対する面、しかしその学力は、教育に必要な教育学、心理学という学問を含んでおるでしょうが、それは学問だ、道徳だって倫理学という学問だと私は見ておるのです。ところでこの免許制度は全部の資格を含んだ免許制度であって、だれかが錯覚を起こして、そうして教員養成のところまで間違いを起こした免許制度というものが、教師観というものがここにある、免許制度というのはこの部分だけの証明だ、あとは実践の中でつくっていくんだ、きっかけは卒業前の半ヵ年でやるというならわかるんですが、その辺に混乱があるのではないか、そこのところの整理がないものですから、国会で提案されてきた免許法改正についても、明快にわれわれが日本の教育制度の将来に向かって責任を持ってオーケーと言うことは言えないというのが私はあると思うのです。だから教養審の建議案の中でも、その矛盾をどこで解決しようという悩みに悩んでおるのが、教師の試補制度だと思うんですよ。一年間やらなければ免状をやらない、大体あの思想は三つの条件が備わったときにやろうという制度から、試補制度が出てきたんだろうと思うんです。そういう点について考えてみますと、この免許法の中で大学のことを文部省のほうであまりいじくることをおやめになって、純粋に学問——学問の責任はやはり学長さん以下なんだから、間接的に統制するというような、学問のやり方の単位まで統制するという制度は、免許法改正の中からいじくるということは間違いじゃないか、それを私は思うのです。その点について、玖村先生の御意見をちょっとお聞きしておきたいと思います。
  30. 玖村敏雄

    玖村参考人 お答えいたします。いまのお説に非常に私どももなるほどとうなずきますし、免許法の中に出てきますものは、おっしゃるようにそれぞれ大学のレベルにおける知識の水準というものが一定であることを要望しておるわけであります。ただし四十何単位——八単位とか九単位を要求されたからといって、文部省がこのことには何時間、このことには何単位ということを指定するとは私どもは思っておりません。大学をそこまで侵されたら、われわれも黙っちゃいません。そんなことは絶対ないと思うのです。ただ、たとえば社会科で申しますと、法律、経済が何単位なんとかいって、最低のものだけ求めて、あとピークをどう立ててどういう専門教育をやるかということが、大学のほうの自由として許されなかったらたまらない。おっしゃるように、大学の中身に免許法が飛び込んでくることはとんでもないと思います。もう一ぺん裏返して申しますと、私ども、これでいい教師ができると信じてやったものは、必ず免許法では是認されるようにならなければおかしい、そういうふうに考えておるのでありまして、私ども文部省のほうにも、内容に対してとやかく言ってもらっちゃ困るということはかねがね申しております。いまもそう信じておりますし、もしそうでなかったらこれは大ごとになるということであります。
  31. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 どうもありがとうございました。  それから近藤先生は、先ほど、先生方が教材研究研究団体をつくったり、個人としても非常に一生懸命やっておると言われた。これはそのとおりで、教師の職業というのは、会社の社員とは違って、教えているのだから、自信を持って教壇に立たなければ人生が暗くてやっていけないから、法律とか外からかれこれ強制されなくても研究せざるを得ない職業なんだ。だから、研究意味がある。外部から、そんなこと言って影響されるよりも、自分の職業の中で研究せざるを得ないものだと私は教職について考えているわけです。その中で、いろいろな資格とかなんとかを考えないで、自分の必要のために勉強しているんだということを言われる。実態はそうだと思うのですよ。そこで、十五年という制度にも疑義が出るのは、一級にしてやらないというようなイメージの中から、二級の者から一級にするのに十五年間とらなければやらないのだというふうな制度は、教師の職業には合わないのじゃないか。しかももう一つ疑問に思うのは、教科についての免状を持った中学校の学科担任の先生、これは、卒業したあとでもやむを得ずでも私は勉強すると思うのですよ。そんな外から変なえさを出さなくても、しなければ初めからそんな者は先生資格はないのだ。ところが、小学校の場合、学級担任の先生ですね。この人たちは、心理学や教育学という学問については根性を持っておる。それは必要だが、各教科については、十五年の教育体験は絶対的な価値があると私は思うが、評価のしかたに間違いがあるのじゃないか。十五年小学校先生をしておる人に、認定講習を取らなければ一級にしてやらないと言うことは、教師への侮辱だと私は思うのです。校長先生、どう思いますか。
  32. 近藤修博

    近藤参考人 先ほど私が申し上げましたとおり、私どもは、毎日、子供をどうやって伸ばそうかということでいろいろな研究をしたりあるいは研修をしたり、あるいはよそに出て講師の先生の話など伺って日々研究を積み重ねておって、自分教育というものを反省しているわけでございます。しかしながら、それが単に自分の好みやあるいは狭い研修であったような場合にはいけないことでございまして、そういう意味におきまして、だんだんに、他の機関等で、そういう教職的な教養についてあるいは専門科目について足らない点をもっと補うような講習が開かれるならば、われわれの資質というものはより一そう向上するのではないかというふうに考えておるわけでございます。
  33. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 研修をしたいというのは、教師の職業上の本能です。だから一番大事な教育行政の立場からは、これだけやると資格が取れる取れるというようなえさつり政策ではなくて、研修する制度をもっと強化するということが私は本筋だと思うので、近藤先生、そういう御意見とお聞き取ってよろしいですね。  そこで、私は、この免許制度そのものを考えていったときに、戦前と違って、小学校中学校は義務教育学校だ。前は小学校中学校はそうでなかった。そして小学校の第六年ごろになると、学科で教えなければ及ばないところの内容になってきているというのですから、学問というものに鍛えられて、その中に出てきたところの先生というものも、理想像として考えるならば、小学校免状中学校免状、分けているところに間違いがあるのじゃないか。地方の教育行政でも、小学校教師中学校教師の人事交流ができなければ、行政ストップです。教育行政はできないのです。小、中一本の免許状であれば、一つの学問を持ち、そして学級担任を持った場合については、一般の教養についても、研究法を持っておれば、小、中、高等学校の各段階でできないはずがないのです。研究法を持っておれば、勉強しなければならぬ職業なのだから、するなと言ってもすると思う。研究法を知らないから先生はうろちょろうろちょろしていると思う。ずっと三分の一ずつ学問の端くれだけを教わって出てくるから。社会科といったって、社会科なんという学問は中身を見るとたいへんだ。そういうのは始末が悪い。だから、研究法を知らないから、だんだん、しかたがない、そういうものだと思うのです。そして僻地の先生は一生懸命子供を守っているうちに十五年たってしまいます。そういうふうなことだから、先生方の大体の御意向はわかりましたが、免許制度の大体の見通しというのをもっと研究すべきじゃないか。玖村先生、終着駅は人生の終着駅のように解釈されて言われるが、そうじゃない。免許制度の大体どのような方向ということについては、いままでの中教審や教養審の答申の中にもない。一番柱になるものについては、検討中と書いてある。その中にあわてふためいて書いてある免許制度改正についてはわれわれは非常に疑義があるので申し上げたわけであります。  最後に、山崎先生に一言もお聞きしてないのでお聞きして、私の御質問を終わりたいと思います。  玖村先生から異議が出たようでありますが、学芸大学を出ているからみなできない者が出るという考えで言われたことでないと私は確信しておるわけです。ただ、教育大学ということになったときに、そこで文学や理学という学問を持った人が教師になる、どんな学問をやっても全部教育学士にするというあのイメージは、職人をつくるイメージにだんだんいくのではないかと私は心配している。学問は違うのです。教育学士というのは、学問に対する称号であった日本の制度が、技術を表明する一つの称号になってしまっている。そうではなく、学芸大学の中でほんとうに学問を鍛えるということと、それから実習に充実した組織制度をつくるということならば、私はそういうことはないと思うのですが、その辺山崎先生何か一言言わなければならぬことがあると思いますからここで言っていただきたい。  ただ、私は学芸大学でも一般大学でも質のよくない先生が多いので心配しているというのは、最初に優秀な者を吸収する政策がないということ、それが一つあると思うが、近藤先生が言われた優秀な者——昔の旧制師範学校は、われわれから想像がつかない非合理的な徴兵延期を認めて農村の小学校の一番、二番の者を引っぱってきた。親は、戦争にやらしたくないから、できる子供を師範に入れたでしょう。こういう非合理的な、われわれ最も困ることをしてまで吸収した。だから、昔の小学校先生は優秀で、同級生のうちではトップの人ばかり入っておった。そこでまた軍国主義に入って、今度はレジスタンスを抱いて戦後その反省からいろいろの抵抗運動が出ているけれども、明治以後の日本の発展は人材を集めたから、近藤先生もきっと小学校時代優秀で、そこで師範に行かれたと私は確信をしている。ところがいまはスポーツをしたい者ばかり集めておるのじゃないか。その制度をやらないで免許制度を幾ら改正してもだめだ。これが一つ。もし学芸大学をやるならば、教員養成の総合大学というイメージを持って、全部大工さんのように教育学士にだけするのじゃなくて、文学士、理学士にして、教師免許を与えて、あくまでも青年に学問を探求せしめるような学問の府にすべきだ。そして優秀な者を入れるべきだ。学費は全部免除、月二万円くらい出す。そういうものを戦前の政治家はみなやっている。戦後は何もしないでこういうものをいじくっている。入ったあと、学芸大学からなかなかいい先生が出ないというのは、教授、助教授の質が悪いと思う。もっと教授、助教授というものは優秀な者を集めるという政策が前提だ。教科を変えたって何したってだめでしょう。ここに文部省の次官も局長もおりますけれども、それならばなぜ大学院をもっと拡大して国がうんと金を出して教授、助教授を養成して質を高めるということをお考えにならないのか。こういう一片の改正案だけでは何か先生いじめ、学生いじめで、希望を持たせないということになってくると思うので、山崎先生から率直に伺って私の質問を終わりたいと思います。
  34. 山崎真秀

    山崎参考人 何か一言ということですが、私も先ほどまでの発言の中で申し残したことを言わせていただくことにいたします。  そのことは若干立法論にかかわる問題でございますが、その前にいま山中先生が私をとお名ざしになりましたときに、若干これはお取り違いかと思うのですが、学芸大学を出た者はだめだなんということは私は少なくとも一言も言っておりません。むしろ先ほど最初の公述の中で近藤先生がおっしゃった、教師にはほんとうに使命観——その使命観の中身が人によって違いますが、使命観というものはほんとうに大事である。にもかかわらず、最近とみに現場に出てくる教員養成大学——教員養成大学の卒業生だけかどうかわかりませんが、最近とみに現場に出てくる卒業生がそういうものがなくなっている。私もその点については近藤先生お話は、事実認識としてはそのとおりだと思うのです。それが、私がおります職場で言えば、少なくとも学生の受けとめ方、それはいわゆる目的大学といわれるような制度的なことが加わることともほぼ並行しているというふうに私は思いますので、その点を先ほどは指摘をしたわけでございます。こういうことはよけいなことかもわかりませんが、私は実は東京学芸大学の卒業生でございます。その前に早稲田大学におりましたけれども、若干機会があって教職に、助教でございますけれども、静岡県の山の中にしばらくおりまして、いわば教師になりたくて、早稲田大学を中退いたしまして学芸大学に入ってまいりました。私は学芸大学が私にとってはたいへんいい学校だったと思います。それは制度的な意味とかなんとかいうことじゃございませんで、ただそれは私は今後目的大学——結局目的大学論になるわけですけれども、さっきどなたかもおっしゃいましたように、ほんとうに教職あるいは子供というものについて生きがいを感じる教師の卵を養成したいと思うならば、卒業後の進路がたとえば公務員にもなれる、あるいは会社員にもなれる、実業界にも行ける、どういう方面に進むことも保障されておって、その中でどうしても教師になりたいのだという考えを持つような人がたくさん出てこなければ私は期待できないのじゃないか。むろん現在でも制度的には別に教職員を指定されているわけじゃございませんので、師範学校とは違いますから、それは制度的には開けております。しかし、大体四年間の大学教育の中身が、具体的にはカリキュラムが教職につくのにふさわしいような組み方がだんだん強められてきますということは、先ほど山中先生も学問ということについてるるお述べになりましたけれども、そのような意味で望ましくないというふうに思います。もちろん山中先生もそうだろうと思いますが、学問とおっしゃった中には、先ほど谷川先生も御指摘になった技術ということの重要性も含まれておると思います。これは両方とも大事だと思います。そうなると、おまえのさっき言ったことと矛盾するじゃないか、四年間のカリキュラムが非常に大幅に拘束されるだろうけれども、これも大事じゃないかというならば矛盾するじゃないかという反論が出るかもしれませんが、そこから先は私はこれは若干立法論になるかもしれないけれども、本来たとえば法律家でございますとか、医者でございますとか、それと並べてよく言われますが、そういうふうな意味での専門職としての教師養成ということを考えますならば、私もそのメンバーの一人として属しております日本教育学会、その中に大学制度委員会というものがございますが、かねてから主張しておりますけれども、たとえば修学年限を一年延ばすイギリスのような方式でございますが、四年間の学部の上に教職課程として一年間つける。そうなると普通の学部よりも一年長くなるわけです。そうしますと、ではそれでどれだけ志願者が大ぜい来るか、一年よけいになれば当然学費もかかるということも出てきますが、もしもほんとうに教職というものがまともな仕事で、魅力があるというものになるためには、これは近藤先生が先ほどるるおっしゃいましたように卒業後の待遇ということがたいへん重要な問題になってまいります。私は極言いたしまして、教職が魅力のあるものかどうかということは、卒業後の教師そのものの待遇の問題と、もう一つはどれだけその中で四年間教育というもの、あるいは子供というものに対して勉強し、燃やし続けてきた自分の情熱が生かせるか、というのが今日の義務教育現場、少なくとも義務教育現場の職場では——私の妻も小学校教員でございますけれども、たいへんに管理体制の締めつけということが強うございまして、その点では学生教職に対する生きがいを少しずつ軽くしている要因の一つになっております。そういうことから考えまして、卒業後の待遇の問題、教師が十分に教育についての創造性や自主性が生かせるような、そういう保障ということをあわせて考えますならば、できることならば、今後の教員養成制度ないし免許制度というものの改定の方向としましては、先ほど申しました学会の言っております一年延ばすということこそ、真剣に考えるべきではないのか、かように思っております。
  35. 山中吾郎

    ○山中(吾)委員 これで私の先生方への質問を終わりたいと思います。  われわれ国会はこういう問題を真剣に実は論議いたしております。思惑で論議いたしておりませんから、こういうことについては、日本の未来に対する大きな影響のある教育制度根本でありますので、今後ともいろいろと先生方の御協力をお願いして、そしてこの法案をつくるのにあまりあせることのない方向でやらないことには、間違いを起こしますので、そういう意味においていろいろ御意見を今後ともお教えいただきたいと思います。  四人の先生にお礼を申し上げて、私の質問を終わります。
  36. 八田貞義

    八田委員長 参考人方々には、たいへんお忙しいところ、長時間にわたりまして御出席の上、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。  次会は来たる六月十五日水曜日、午前十時より理事会、十時三十分より委員会を開会することとし、本日はこれにて散会いたします。    午後一時十九分散会