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花島参考人 伝統芸能に関しましては、
法案を拝見しましたところ、何も、
一言も文句をさしはさむことのできないようなりっぱな
法案だと思います。それにきょうのこの集まりも、はたして私
どもの、
参考人の言っておりますことが
国立劇場に反映するかどうか。何かもうすでにちょっと手おくれなんじゃないかというように思われるところもあるのですけれ
ども、私もここへ
出席を命ぜられました以上は、可能だと思われますことで発言をさせていただきます。
国立劇場は、
法案の第一条に、「
わが国古来の
伝統的な
芸能の公開、
伝承者の養成、
調査研究等を行ない、その
保存及び
振興を図り、もって
文化の向上に寄与することを
目的とする。」ということが書いてございます。つまり
伝統芸能という
ことばを使われておりますのですけれ
ども、この
伝統芸能の
伝統という
ことばが非常にあいまいにあるいは誤られていま使われているのではないか、
考えられているのではないか。どうして、今日ほど
伝統芸能というものが衰弱し、つまらないものになったか。これは何か
文部大臣の文章の中にも、
伝統の
保存のための諸
条件は近時急速に悪化し、この貴重な
文化遺産が、内容的にも次第に正しい姿を失いつつある。
——実際正しい姿を失いつつあります。日に日に色あせております。それはどういうわけかと思って
考えてみましたら、いろいろ
理由もございますけれ
ども、私はこの
伝統芸能の
伝統という
ことばを誤って
考えていることからだと思います。戦後
日本が
戦争に負けましたために、いままでの
日本のいろいろのことというものは全部何かだめみたいに言われてしまいましたけれ
ども、その中の大きな
一つに
伝統がございます。
伝統という
ことばを非常に悪く解釈いたしまして、意地悪く解釈いたしまして、悪い解釈をいたしまして、つまり何かいけないもの、古くさいもの、何かコケむしたもの、それから何かカビのはえているもの、それから何かもっとひどいものは、
戦争に負けた
理由なんかも
伝統に結びつけたりなんかまでされております。つまり
伝統ということは、非常に惨たんたる目に会った、これが大きな間違いじゃないかと思います。
実例を申し上げますと、たとえば
歌舞伎で申しますと、みえを切ります。みえというのは御承知のように何か劇の進行上に演技を一度中止いたしまして、つまり精神の一番高揚をしたときに演技を中断して、そこでいわゆるみえを切るみえですが、そこで非常に誇張的な動きを示します。それをみえというのですけれ
ども、こういうみえみたいなものでさえ、いまは私
ども見ておりますと、何か気持ちよくこういうみえを切っていいんだなという、そういうみえじゃなくて、何だか疑いを持ったみえになっています。つまり何かほんとうは十やらなければならないみえを七つでとめたり六つでとめたり五つ以下にまでしています。羽子板の例で私一番驚いたのですけれ
ども——妙な例をあげますけれ
ども、一番いい例なんで申し上げますけれ
ども、羽子板の押し絵というものが非常にやはりつまらなくなった。どうしてつまらなくなったかと思ってよく吟味してみますと、つまり誇張がなくなっているのです。押し絵の誇張が、つまり浮き世絵な誇張というものがなくなっている。
歌舞伎の持っている誇張というものがなくなっている。つまりあのみえの誇張がなくなっている。つまり
一つのかさならかさを持つ手つきも非常に誇張された手つきになっています。何か説明がしにくいのでこういうときですから非常にぐあいが悪いので手つきでごらん願いますと、われわれかさを持ちますときは普通こう持ちます。それでは
歌舞伎の持ち方にならない。少なくとも羽子板の押し絵の持ち方ではない。羽子板のわれわれのおもしろかったところというのは、こういう持ち方、こういう手つきをしています。三津五郎さんにやっていただくのが一番いいのですが、
——ああいう誇張した
——絵ですからもっと誇張しています。こういうところでも、こういう感じにこういうかっこうでかさを持っています。手つきがそれなんです。したがって、たとえば顔の表情というものもそれと同じような非常に誇張された表情をしております。それだからおもしろい。そこにこそ何か古いものの、少なくとも
歌舞伎の値打ちがあるのじゃないかと思うのですけれ
ども、そのみえを切る場合にも、このごろの
歌舞伎の役者さんというものは非常に、何か十やるものを十やってはいけないのじゃないかというような疑りを持っています。
歌舞伎のけいこがそうです。たまにけいこを見ますと、舞台げいこのときにはやや大きな声を出しますけれ
ども、普通のけいこの場合にほんとうの声を出している役者さんはおりません。ほんとうの動きをしておりません。段取りばかりつけているわけです。ここのところでおまえはこうなるからおれはこういくよ、ここのところでぼくはこういくからこうだよ、ただ普通の小さな声で、中音でやっています。舞台げいこではやや声を出しますけれ
ども、これもほんとうの声じゃない。そして幕のあいたときに、初日に初めてほんとうの声を出すわけです。それでは何のためにけいこになるか。やはりそのための役の発声のけいこというものも、初日のあく前にちゃんとその声ができていなければならないはずなのに、初日に初めて幕があいたときにほんとうの声を出したりほんとうの動きをするのです。それではわれわれを感動させるものはできない。たとえば、そのけいこを本物の声でもってやるということが、くさい役者だとか、何だ、いなか役者じゃないか、おれ
たち東京の役者はそんなことはしないんだぞという妙なものがあるのです。こういうものがまたじゃましております。
また、たとえば三味線で申しますと、三味線の音を五つ
——つまり手数といいますけれ
ども、ちんちんとかとんとんとかいうのですが、五つなら五つ三味線の音を鳴らす、そういう曲になっているものを、いま五つちゃんとひくとくさいと言われるのです。これが実におかしい。五つひいていると、何だ、昔のとおりやっているじゃないか。それは町のお師匠さんか何かだと、ほんとうにお師匠さんの昔から教わったとおりにやるのですけれ
ども、そういう芸というものはまことに何だか古くさい、つまらないものだという風潮が
芸能社会にあるのです。ですから手数をだんだん減らして、五つ、そこでちゃんとひくべきところを三つに手数を減らす。たとえば踊りもそうなんです。
日本の舞踊がそうなんです。これはやはり三津五郎さんに月なら月というものをさすときの手つきをどういうふうにやるのか、見せてもらったほうがわかりいいと思うのですが、ちょっと見せてください。(演技)それでいいのですか。(
守田参考人「こういう
ぐあいに持ってくる場合とか、役によってこっちから持ってくる場合とか、それは役の性格によってみんな違ってきます。」と呼ぶ)つまり月なら月というものがここにあるんだぞということを示すときに、この手を前に何か動かして、そして、なぜ動かしているのかということを見せておいて、こうやるから月になる。そういうことをいま踊りの世界ではとてもいやがる。そういうことを正しくやると、やはりくさいと言われる。つまり何でもなく(演技)私はうまくまねできないのですけれ
ども、あまりそうやらないでいて、何だか空気で、ムードで踊っている踊りが非常に
芸術的な踊りだといわれているのです。こういう誤まられた風潮が実に古い
伝統芸能の芸の世界にある。これはいろいろの
理由もありましょうけれ
ども、とにかく何かほんとうは
——つまりそういうちゃんとしたみえを切ったり、それからそういうちゃんとした動きをするということのほうが実はむずかしい。そのことのほうがむずかしいからだんだんやれなくなる。それには非常な修練が要るし、非常な、つまり腕が要るのです。うまくない、ぼくみたいな者がたとえばこういうことをやったら、実に異様なものになるわけです。しかし
考えてみると、
歌舞伎だの、あるいは能楽もそうですし、それから何か
国立劇場法案の中にいろいろ付記されております
伝統芸能といわれている
日本のそういう古い
芸能というものは、実に異様なものです。実に珍奇なものです。今日のわれわれとは
考え方も違いますし、何から何までが違っている。それだからこそつまり
伝統芸能が誇張なものだと私は思う。ところが、何か
伝統という
ことばはそういうふうに非常に誤まって、いけないものだというふうに
考えているところに、今日の
伝統芸能をやっている
人たちの何か劣等感といいますか、不安感といいますか、確信のない、自信のない何か
仕事になっているのではないかと思うのです。
これも私の曲なんですが、去年
芸術祭で常磐津と清元をつくれとNHKにいわれまして、私つくりました。古めかしいものをつくったのです。
明治時代の狂言作者というばかにされた
人たちが書けばこんなものを書くかと思うようなものをわざと書いたのです、
芸術祭というものが何か非常に新しい珍奇なものばかりをねらいますので。そうしたらNHKがその常磐津と清元をやってくれる
人たちに私を会わしてくれたのです。そうするとこんこちになっているのです。常磐津の太夫さんも清元の三味線ひきさんも非常にこんこちになっている。つまり
芸術祭で
自分たちがやるんだということのために非常にかたくなっている。それから私は、早速これをほぐさなければならないと思いましたので、私の書きましたものはたいへん古いものでございます、どうか常磐津さんはお師匠さんから習ったとおりの常磐津で語っていただきたい、それから清元の方もどうか師匠から習ったとおりの清元でやっていただきたい、そうして私のようなへたな者が新しく書いたものが、昔からある清元であり、常磐津であるかのように、つまりごまかしてそういう古めかしいものにつくっていただきたいということを申し上げたのです。そうしますと、その常磐津の師匠が
——これはぼくはほんとうに感動したのですけれ
ども、その常磐津の師匠のそういうかたくなっていた顔がみんなゆるみまして、そして私が特にその方に語ってもらいたいといって、その方を名指しで選んだのですけれ
ども、その一番古風ないわゆるお師匠さんといわれるような常磐津の太夫さんが、突然たいへんな喜びをあらわしまして、常磐津でやってよろしいんですかとぼくに言ったのです。私は常磐津と清元のかけ合いを書いているのです。それなのに、常磐津をやっていいのですかと言って、それを言われたためにその太夫さんが非常に喜んだ。ほんとうに感動したのです。それを見て私はちょっとひどいと思った。つまりそういう無邪気な常磐津のお師匠さん、常磐津をほんとうに師匠に教わったとおりに覚え、学んできた人が
自分の
仕事に疑いを持っている。ですから
芸術祭なんかに出てくるいろいろのわれわれの書く新作なんというものが、常磐津とか清元とか長うたとかいっておりますが、何が何だか実はわからない。ラジオで聞いておりまして、これが常磐津か清元かわからない。新作の踊りなんかもみなそうなんです。われわれの書くものはそうなんです。何だか異様な、わけのわからない
日本音楽、三味線音楽なんです。常磐津が常磐津でないのです。清元が清元でないのです。これはひどいことです。
国立劇場の
目的は私はここではないかと思うのです。常磐津は常磐津なんだ。
歌舞伎は
歌舞伎なんだ。
文楽は
文楽なんだ。それのほんとうの真骨頂をそこの
国立劇場の舞台で上演していただくことが一番大事なことだと思うのです。つまりそういう劣等感というか疑ぐり深いというか
——何かたいへん疑ぐり深くなっておずおずしていまして、それで笑い顔だけ浮かべているのが
伝統芸能の現状なんです。これではだめなんです。ですから、
国立劇場で上演されるものというのは、私はうまいということはもう望みません。芸の世界でうまいことを望まないのはまことにおかしいのですけれ
ども、いまは望みません。そうじゃなくて、正しい
歌舞伎が出ていかなければいけない。正しい
文楽が出ていかなければだめだと思うのです。
法案の面では私は
一言も申し上げることはございませんけれ
ども、
法律を動かすものは
人間でございます。この
国立劇場を動かす人が
伝統芸能というものに対してそういう正しい
考え方を持って臨んでいただきたいと思います。それぞれの国の
伝統のある古い
芸術というものが正しく伝承されなければ、新しいものは生まれてまいりません。これはもう鉄則みたいなものです。
伝統というものが何か遺跡のようにこり固まった古いもので、何だかばばっちいものと思われているかもしれませんけれ
ども、
伝統というものは決してそういうものではなかろうと思います。
伝統というものは動き、流れ、躍動しているものです。それはその
伝統を伝えなければならないとかなんとかいうのじゃなくて、それがいいためにおのずから伝わってきたものなんです。それを伝える人の、そのときに生さている
人間の精神というものがその中に加味される、加えられるからこそ、また
伝統がみがかれるのではなかろうかと思います。そしてその
伝統を古いままで渡すのじゃなくて、そのものに、今日の
人間がやるのですから、今日の精神が加わらないわけがないのですから、今日の正しい継承のしかたをして
——これにはたいへんな苦労が要りますけれ
ども、正しい、まともな継承をして、そうしてそれに新しい精神でみがきをかけて次の
時代へ渡すということが、
伝統芸能を継承する
人たちの責任ではなかろうかと思います。
たいへん口幅ったいことを申しましたけれ
ども、私のほんとうの実感でございますので、
国立劇場の
参考人として
一言申し上げます。(
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