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1966-06-01 第51回国会 衆議院 物価問題等に関する特別委員会 第15号 公式Web版

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  1. 会議録情報

    昭和四十一年六月一日(水曜日)    午前十時五十三分開議  出席委員    委員長 小笠 公韶君    理事 砂田 重民君 理事 舘林三喜男君    理事 山本 勝市君 理事 井岡 大治君    理事 兒玉 末男君 理事 村山 喜一君       小渕 恵三君    海部 俊樹君       坂村 吉正君    竹内 黎一君       床次 徳二君    粟山  秀君  出席国務大臣         国 務 大 臣 藤山愛一郎君  出席政府委員         公正取引委員会         委員長     北島 武雄君         総理府事務官         (経済企画庁国         民生活局長)  中西 一郎君     ————————————— 本日の会議に付した案件  物価問題等に関する件      ————◇—————
  2. 小笠委員長(小笠公韶)

    小笠委員長 これより会議を開きます。  物価問題等に関する件について調査を進めます。  質疑の通告がありますので、これを許します。山本勝市君。
  3. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 この前の二月十六日の当委員会におきまして、藤山大臣が述べられたおことばの中に、「今日、不況下にありましても、消費者物価は依然根強い騰勢を続けております。消費者物価を早期に安定に導きますことは、不況の克服とともに、当面する最も緊要な政策課題でございます。」と述べておられますが、実は、この消費者物価の安定を緊急の政策課題といたしますのは今日に始まったものではなくて、すでに五年半前の昭和三十五年の九月三十日の閣議において、やはり同じように、消費者物価の安定がきわめて重要である、こういう閣議了解をして発表しておるのであります。それからその後、これは申し上げるまでもありませんけれども、三十七年の三月九日に、「物価安定総合対策について」というものを、やはり閣議了解で出しておる。それから三十九年の一月二十四日に、「当面行なうべき物価安定のための具体策について」というので、かなり詳しくやはり閣議了解をいたしております。それから四十年の一月二十二日に、「物価安定のための総合対策について」という題で、また四十年、昨年の八月三十日に、「消費者物価の安定について」という、同じように閣議口頭了解決定されておるわけであります。問題は、こういうふうにすでに六年近くも、消費者物価の上昇が続いておる、これを何とかしなければならぬということが、閣議でたびたび繰り返されておるところを見ますと、政府は、本気でこれを何とかしなければならぬというふうに考えてこられたものと思うのであります。しかし、六年近くたってもなお、当面する緊急の政治課題だということを、今日なお繰り返しておることについての反省であります。私は、関連して当委員会においても申し上げたことがあるのですけれども、なぜこういうふうに問題が解決しないのかという原因について、いろいろ御反省があると思いますが、どうも診断を誤っておるのでないか。つまり、病気診断を誤っておるのでないか。誤っておるために、たとえて申しますと、結局、誤った薬を飲ましておるという点があるために、かえって病気がよくならないで一そう悪くなる、ことばは適当でないかもしれませんけれども、そういう点があるように思うのであります。ただ決定しただけで本気で実行しなかった。ばらばらでどうも本腰でなかった。ようやく昨年の六月に企画庁の中に国民生活局ができて、そして陣容を整えてやっておるが、それまでのところはどうもばらばらで、閣議了解だけするけれども、実行がそれに伴わなかった。これがいかなんだというふうな反省もあると思いますが、ただそれだけでなしに、私はやはり診断を誤っておると思う。少なくとも、肝心のことと肝心でないことをはっきり区別しないで、肝心のことに力こぶを入れないで、肝心でないようなところにかえって力こぶを入れたことが問題をこんがらかしてきておるというふうに、大ざっぱに申しますと考えておるわけです。  私自身の考えは、実はもう藤山長官にも、昭和三十六年ごろからたびたび謄写版に刷ったり、活字にしたりして差し上げておりますから、大体私がどういう考え方をしておるかということは御了解くださっておることと思いますが、ことに、先般出しました「今日の物価問題」というのは、もうすでに五週間も前に差し上げて、それをひとつ前提にしてお尋ねしたいということを申し上げておりますから、実は今日はもうゆっくり、忌憚なくお尋ねもし、私の考えに対する御批判も仰ぎたい、そうして、ひとつほんとうにこの問題を解決するためにはどこにメスを入れなければならぬかという点をはっきりさせたいと思って、長官及び北島さんにも御出席を願ったわけであります。  しかし、昨晩あたりいろいろ考えてみますと、私の考えポイントは、何といいましても、通貨の膨張というものと、それから物価関係というものが基本的に大事だという考えを持っておることは御承知くださっておると思います。そうなりますと、その通貨物価関係について問題を突き詰めていくのには、やはり藤山さんは閣僚の中での物価問題の責任者でありますから、ポイントを握っておるのは大蔵省あるいは日本銀行だということになりますと、むしろほんとうに問題を明らかにするには、理財局長とか、銀行局長とか、あるいは主計局長とか、日本銀行当局者に尋ねるということで、問題を剔決していくべきものではないか、こういうふうに実は考え直したわけなんです。それで、きょうせっかく時間をとっていただきましたので、何といいましても藤山さんが責任者として統括しておられるのですから、私、一応申し上げますけれども、しかし、一問一答のような形でそのお答えに対してさらに追及していくというようなことは、これは、先ほど申しましたような関係から、むしろ大蔵省にやるべきものじゃないか。ということになりますと、どうやら自分の意見を大臣によくのみ込んでほしいということが主になってくると思います。北島君には、ちょっともう少しきつく当たるかもしれませんけれども、これは覚悟しておいてもらいたいと思いますが、そういうことですから、ひとつ御了承願いたいと思います。  実は、余談のようになりますけれども、私は、この物価問題にぶつかって思い出したのでありますけれども、大正十三年でありましたか、十四年でありましたか、大阪商科大学が中心になって岩波書店から、経済の大辞典といいますか、辞典を六冊くらい編集いたしました。そのときに、私がまだ大学を出てプロフェッサーになって間もないときでありますが、与えられた問題が価値価格ということであり、もう一つありましたのがキング法則というものです。それで、これを今日の物価問題あるいは価格問題を考える場合にいつも思い出すのですけれども、御承知のとおりキング法則というのは、十七世紀にイギリスのグレゴリー・キングという男が立てた法則です。それは、穀物の供給量増加がかりに一割であると価格が五割下がる、需要量がかりに倍になりますと今度は価格は五倍に上がる、つまり、供給量におけるわずかの動き価格の上ではこうなるという法則であります。それがなぜそうなるかという問題ですが、第一、このキング法則というものが、その後のヨーロッパ経済学教科書からもほとんどなくなってしまった。それから日本大学あたりの講義の中でも、キング法則というものがあまりいわれなくなったのは、十七世紀ころには確かに小麦についてそういう法則が働いておったけれども、マーケットが広くなったために、かりにヨーロッパ不作でありましても、アメリカが豊作であるとか、あるいはポーランドが豊作であるというために、国際市場関係供給量変動が全体としてあまりなくなったために、キング法則はもう必要がなくなったということで、教科書から抜けたようであります。ところが、日本の場合は、御承知のとおり米の問題——最近は少し事情が変わりましたけれども、米が豊作貧乏という現象が起こる。ちょっと不作でありますと値段がはね上がる。豊作であると値段が暴落をする。せっかく収穫量がふえたにかかわらず、価格がひどく下がったために、全体の収入は減ってしまって、豊作貧乏とか凶作飢饉とかいう現象が起こるから、日本の場合は、まさにキング法則が行なわれておる。野菜についても、今日なおキング法則が働いていると思いますが、そういうようなことで、価格問題を扱っていく場合に、食糧だけではなく、生活必需品需要価格弾力性というものが非常に弱い。つまり、価格がよほど下がらなければ需要がふえない。逆にまた、価格がよほど上がらなければ需要が減らない。つまり需要が、生活必需品の場合には比較的安定しているものですから、したがって、供給量におけるわずかの差が、価格の上では大きな幅の変動となってあらわれてくる。これは、経済学一般的な常識的として、生活必需品というものは、価格動きが相当大幅でないと需要変動がこない、つまり、弾力性が弱いということもいわれているわけであります。  こういうふうなことで、私は長い間価格問題あるいは物価問題というものに頭を悩ましてきた者として、先ほど口幅つたいことを言いましたけれども、政府政策が何度繰り返してみても効果を奏しないのは、診断誤りにあるのじゃないか、こういうふうに実は思っているわけであります。  それで、まず最初に、これは長官でなくてもけっこうです。中西君でもけっこうですけれども、一体、価格問題というのと、消費者物価問題というのと、それから一般物価問題というこの三つのものをはっきりと分けて、問題を解決しようとしておるのかどうかということに、私は一つ疑惑を持つわけであります。と申しますのは、政府閣議了解決定を見ましても、これまで五回の閣議了解決定をしておりますが、その中で、昭和三十五年九月三十日の閣議了解、それから昭和四十年八月三日の閣議口頭了解の場合は、「消費者物価対策について」とか、「消費者物価の安定について」とかいって、題目から消費者物価といっています。ところが、昭和三十九年一月二十四日、それから四十年一月二十二日の閣議了解の「物価安定のための総合対策」では、物価物価と言って、その場合は消費者物価とは言っておりません。しかし、これは解釈のしようによっては、物価と言っているけれども、それは消費者物価のことである、同じものなんだ、こうもとれるのです。そうかと思いますと、昭和三十七年の三月九日の閣議了解の中には、「経済安定的成長を確保するためには、物価、特に消費者物価を安定させることが是非とも必要であるが、」とある。どう読んで見ましても、この場合は物価消費者物価を分けております。物価を安定させなければならぬが、しかし、その中でも特に消費者物価を安定させなければならぬ。これは、消費者物価というものを物価の中の一部と見ておって、同じものとは解釈していない。そうなりますものですから、どうも消費者物価と言ってみたり、物価と言ってみたり、それを別に考えてみたり、同じものと考えてみたり、あいまいになっておるのじゃなかろうか。私は、それは別のものとはっきり区別しないと、対策効果を奏しないのはあたりまえだと思う。  そこで、価格というのはまた別なことばで使っておりますが、どうも価格は、生鮮食料品価格とか、あるいはいろいろな、まあコンニャク価格とか言って、全体の中のある部分をさした場合に価格と言っておるようです。そうして、それを総合した価格という場合に、消費者物価とかあるいは物価と言っておるようであります。しかし、疑問を生じますのは、その消費者物価を押えるために価格を押えようとする、あるいは物価を安定させようとするためにコンニャク値段なんか出しております。三十九年の閣議了解の中にはコンニャクまで出して、コンニャク価格を押えるというのは、それは物価を押えるためにコンニャク価格を押えるというので、コンニャク価格を押えれば物価は下がるように、誤解しておるではなかろうかというような面もあるのです。かいつまんで申しますと、価格と、消費者物価と、物価三つのものを区別して、しかも、その三者がどういう関係にあるというふうに理解しておられるのかということです。これは中西君からでもけっこうです。
  4. 中西政府委員(中西一郎)

    中西政府委員 いまのお話価格といいます場合、確かに具体的なそれぞれの商品についての価格というふうに観念してきておりますし、世間もそうじゃないかと思います。その場合に、 コンニャクの例もありましたが、コンニャクの値を下げるということと物価政策との関係でございますが、特定の品目について、たとえば、競争条件が制約されておるというようなことがありますと、やはりその品目については輸入をふやすとか、あるいは取引の経路での不当な制約をなくするというようなアプローチをする必要があるではなかろうか。そういう意味で、物価統制令的な価格の引き下げあるいは抑制というような意味でなしに、物価問題という観点から個々価格アプローチをしていくということが、いままでもありましたし、これからもあり得るのではないか。しかしそれは、総じて言いますと、競争条件をうまく整備していくという観点が多かろうと思います。それから、消費者物価と言います場合に、物価の一部と考えてきております。そのほかの物価ということになると、経済成長が過度であるとか、あるいは安定させる、過熱させてはいけないというようなときの一つの体温計の目盛りとしましては、現在のところ、卸売り物価消費者物価、その両者は絶えず問題なんですけれども、閣議決定あるいは閣議了解のそれぞれの時期で、その表現が、いままでの経過では、消費者物価のほうにウエートがかかってずっと来ておるというふうに考えます。しかし、消費者物価問題というものが卸売り物価と決して無縁なものではないということもありますので、ときによっては物価という表現も使っておるというふうに、いままでのところではなっておると思います。
  5. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 そうしますと、一般物価というものと消費者物価というものは概念は別だ、それで物価の中に、消費者物価消費者物価でない物価がある。それから価格というのは、物価または消費者物価を構成しておる。まあ物価というのはある種の平均でありましょうが、その平均される前提になる個々商品あるいは個々商品群価格だから、要するに三者の関係というものは、物価が一番広い、その中で消費者物価は、われわれの生活にとって重点を置かねばならぬ一つのきわめて大きな部分だ、それからさらに、それらを構成しておる部分価格だ、こういうふうに理解していいですか。
  6. 中西政府委員(中西一郎)

    中西政府委員 どういうふうに御返事申し上げたらいいのか、一応私の理解する限りでは、そういうふうに理解していただいてけっこうだと思います。
  7. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 そうしますと、ある物の価格が上がりましても、それは局部ですから、他の商品価格が下がる場合あるいは安定しておる場合もあるわけで、ある物の価格が上がっても、消費者物価が上がるとか一般物価が上がるとかいうようなことは必ずしも多くない。逆に、ある商品価格あるいは公共料金価格を下げましても、あるいは下がりましても、ほかの商品またはほかの公共料金が上がる場合があるとすれば、消費者物価あるいは物価という総合した平均的なものは、必ずしも下がるとはきまらない、こういうことはお認めになりますか。これは私のものにもよく書いております。
  8. 中西政府委員(中西一郎)

    中西政府委員 原則的にはそのとおりだと思います。ただその場合に、ある物が上がってほかの物が下がるという条件は、おそらく経済学者の言われる完全競争というものが前提の場合に考えられる得ることであって、現実の世の中では、競争条件が制限されているために高くなってしまう、他方、下がるものもまたなかなか下がらないというようなことで、お話のようにうまくなっていないところに、消費者物価問題なり物価問題のむずかしさがあると思いますけれども、原理的に考えれば、先生のおっしゃるとおりだと思います。
  9. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 そうすると逆に、公共料金によらず、ある価格が下がった場合、実際にそれに応じて消費者物価が下がったことはありますか。たとえば物品税を下げた、あるいは関税を下げたときに、その商品価格またはそれの総合である全体の消費者物価、そういうようなものは下がりましたか。一々ここでそういうことを調べた実績を聞くわけじゃないわけですけれども、そこに私は根本的に、つまり、ある物が上がったからみな上がるんだ、逆に、ある物が下がったら下がるんだ、そういうことに考えておるところに、私は診断誤りが起こってくると思う。もしそういうことならば、個々価格というものは、これは自由経済をわれわれはとっておって、やはり統制経済計画経済はいかぬということになっておるので、自由経済の場合には、生産は自由であり、消費も自由である。そうすると、生産も動くし、消費も動く。それはいろいろな事情があって動くのですけれども、とにかく動くのです。そうすると、生産消費関係価格がきまってくるのですから、そのときに、きまるファクターである二つの要素が動いておれば、その価格は動くのがあたりまえでしょう。じっと安定しておる場合があったら、これは例外なんです。そうすると、個々価格が動くのはあたりまえだといえば、全体の消費者物価も、あるいはもっと総合した物価も、これはリンクして動く、これが下がればリンクして下がる、これが動くのはあたりまえなら、これも動くのばあたりまえなんだ、これでは物価の安定というふうなことはあり得ないことになってしまう。そういうことに論理的になるでしょう。そうではなくて、局部変動というものは、他の局部が反対の方向に動く可能性は認めるんでしょうけれども、局部の動く——購買力一定と仮定します。あとで私は追加購買力を出すことがいかぬという問題に触れていきますが、かりに購買力一定としますと、ある公共料金が上がりますと、そこへよけい払わなければならぬ。あるいはもうそこへ乗らないでやめるか、どうしてもやめられぬ場合は、そこへよけい払います。そうすると、どこかで自分購買力を減らすほかないですよ。ということは、ほかのものに対する需要を減らすほかない。だから、ここで上がったらここで下がる。価格とその総合したものとの関係、つまり全体の平均関係、かりに物価とか消費者物価というものを価格のある意味における平均だと見ますと、平均が安定しておるということをもし前提とすれば、物価が安定しておるときには、局部変動、つまり、どこかで上がればどこかで下がらなければ、平均が安定するわけはない。論理的にそうなる。ですから、局部である価格をいじくって、それを押えたりあるいはこれを下がらぬように支持したりすれば物価が安定するのだという考え方は、根本的に考え直さなければならぬ問題です。だからある品物の値段が、一般にそこで売っておる値段が、百円のものが二百円に上がったという場合、その二百円に上がった部分の中に二つ部分が含まれておる。一つは、底が上がって、一般通貨価値が下がって一般物価が上がったために上がった部分と、そうでなしに、いま言う一ところ上がれば他は必ず下がらざるを得ない相対的な価格部分と、両方入っている。だから、百円が二百円に上がったときに、一般物価水準が二割上がっておるとしますと、二十円だけは、これはその物が上がったんじゃなくて、全体の水準が上がっている。その物が特に上がったというのは、残りの八十円だけなんですね。しかし、二十円の分はどこもここも上がっておるのですけれども、残りの八十円の分だけは、どこかで上がっておればどこかで下がっておる。つまり、波の高いところがあれば低いところもある。波の山と谷とがあって相互に動いておる。その個々価格——価格というか、値段の中に、相対的に動く部分、これが市場経済において動くところに価格機能がある。つまり、ある物が上がってきた、豚肉が上がってきたということに——いま牛肉が上がっております。御承知のとおり耕うん機を使うことになって、馬や牛を使わぬようになりましたものですから、もう牛の数が二百何十万頭が百万頭以上も減っておる。減りますと、牛肉が上がるのはあたりまえです。そうすると農家のほうでは、これはほかのものを飼うよりは牛を飼うほうが一番引き合うということで、これに対して資本と労力を持っていく。持っていくというときに、そういう牛肉が高いからといって押えますと、足らないのか余っておるのかわからなくなってしまう。ということは、価格一つ機能というか、働き、資本必要度と効率を示す指標という役割りですね。下がってきたから、こういうものは余っておるのだから、これ以上われわれがよけいつくっても、これはもう引き合わぬからやめよう、上がってもうかるからこのほうへ資本を集中しようというので、要するに、自由経済をわれわれがとっておる一番の根本は、全体の生産資源需要に応じて適正に配分されていく、足らぬところへ、足らぬところへ流れていって、余るところから足らぬところへ変わっていくという、これが最もスムーズにいくのです。計画経済はそれがうまくいかぬというところで、われわれは自由経済をとっておるわけです。だから、自由経済の一番肝心なところは、価格需要供給関係で敏感に上がったり下がったりする。それは敏感といっても程度はありますけれども、とにかく需要供給均衡点を目ざして、足らぬときは上がるのがいいし、余るときは下がるがいい。したがって、公共料金でもあるいは商品価格でも、安ければ安いほどいいというのは消費者だけの立場であって、高ければ高いほどいいというのは、それをつくっておる生産者立場であって、全体として一番肝心なのは、足らぬときには上がるがいいし、余るときには下がるがいいのであって、それを、下がるほどいいのだという価格問題の考え方、どうもそれでいろいろな施策をとるために、もういたずらに混乱させる。せっかく豚を飼っておる者が急に水をかけられる。三十五年でしたか六年でしたか、豚肉緊急輸入をやりましたときには、もうすでに値が下がってしまっておって、輸入したものはみんなそこらのハム会社やソーセージの会社に頼んで、そこで高い手数料を払って肉と骨とをはずしてもらって、それでそれを紙のこれくらいの箱に入れて、冷凍庫に高い倉庫料を払って保管してもらう。その保管してもらうものは、結局、出したらいよいよ値下がりになるものですから、輸入したものをそうやるのみならず、買い上げたものをどんどん——最近またそういう現象が起こっておりますが、そういうように緊急輸入をやったり、あるいは価格を押えたりということが、いかに市場を混乱させて、市場経済機能障害を起こしておるかということを私は痛感するわけであります。ですから、価格については公共料金といえども——公共料金政府が関与いたしますから、これはそんなに一般競争市場価格のように動きませんけれども、しかし、ある時期がたちまして、実情に照らして需要供給上、これは高過ぎるなら下げるがいいし、安過ぎるなら上げるべきものであって、やっぱりそれを安ければ安いほどいいというのでストップ令をかけたりするのは、これはあまりに政治的な考慮から経済法則を無視している。経済法則を無視してやったようなことは、その次の年には、もう徐々に上がるやつを一ぺんに上げなければならぬようになって、かえって政治的にも大幅の値上げをやらざるを得ぬということになってくる。だから政治的に言っても、実は一時の安定をねらうために、長い目で見た非常な不安定要因をつくっておる、こういうふうにぼくは思うのです。答弁を求めませんが、ぼくはそういうふうに思っておるということをひとつ……。  そこで、政府が努力しなければならぬのは、われわれの自由経済をとっておる経済組織の中と、ソ連のような計画経済をとっておる国とでは、政府役割りが違うことは申し上げるまでもない。自由経済の中における政府役割りは何か、なすべきこととなすべからざること、それからなし得ることとなし得ざることとを、政府も政治家もはっきり区別しないと、なし得ざることを約束する。たとえば、各個々価格の安定を約束する。生産消費も動くのに、二つのファクターできまってくる価格を安定させますなんと約束するのが、みんなはずれていって、国民をだましたような結果になっておりますが、これはなし得ざることを約束している。だから、できることは何か、できないことは何か、やるべきことは何か、やるべからざることは何かということをはっきりする必要があると思う。政府がやること、民間にやってもらうことは何か。それを役人は、どうかすると自分たちが民間だけを見て、自分らがどうもこれはいかぬと思うと、自分らの考えでこうやってやろう、ああやってやろうと考えますけれども、自由経済においては、自由を与えるが、同時に責任は本人に負わせる、この大原則でありますから、これを干渉したら、一方でまずい結果が生じたときには、どうしても政府でしりをぬぐってやらなければならぬということになって、保護政策の裏は、自己責任の原則の崩壊ということになりますから、あくまでも自由に、生産も自由、消費も自由だが、そのかわり責任は自分だ、だから、もうかったらよけいもうけていい、そのかわり損したら本人が負担しろ、こうでないと、これも話は余談のようになりますけれども、適正なる価格ということを役人が考える場合に、いつも利潤が多過ぎる、原価に比べて多過ぎるのは——これは北島さんにもよく聞いておいてもらいたい。利潤が多過ぎるのが不適正だといいますが、そうじゃなしに、需要供給均衡点に落ちついておるかどうか、そうして資本必要度と効率の指標たる役割りをする価格に落ちついておるかどうか、全体の資源の適正配分が、価格を指標にしてやったときに、役割りを果たすかどうかということに適正か不適正かがあるのであって、ある発明をやってもうけた、それはよその人よりも先んじてやったんだからもうかりますが、そのときに、それがもうかっておるから、これは不適正だから押えなければいかぬというような考えを起こしますと、逆に言いますと、それなら損をしたときには、もうけ過ぎたから不当に消費者を害しておるというのなら、損して売ったときには、不当に消費者に利益を与えた、消費者を害するのじゃなしに利益を与えたという解釈をせざるを得ぬようになってくる。そうではなく、損したときには本人が負うのだから、そのかわりもうけたときには本人にもうけさすということをもしやめたら、もうこれは統制経済になってしまう。自由経済はだめになってしまう。  だから、政府のやるべきことは物価の安定、それから消費者物価の安定は、これは家計に影響しますから、ここまでは私も一歩譲歩しますけれども、個々価格は、これは競争によって需要供給関係で動くというところに市場経済の生命があるのですから、その生命を断つようなことになるから、価格の干渉というものはもうできる限り避ける。もし必要ありとしたら、大地震でもあって、天変地異があって緊急事態が生じたようなときは、これは別ですけれども、正常の姿においては干渉すべきものでない。そうすれば政府の仕事はずっと減りますよ。生産性向上だの何とかかんとかいろいろやっていますけれども、そういうことは、みんなが価格を指標にして、そうして自分の採算の上に損をしないように、損をしないようにと一生懸命やっておるのですから、そこへ持っていって、ある消費者だけの立場から下げたらいいとか、あるいは生産者立場から上げたらいいのだとかいうので、そこへ何かの形で干渉しますと、その自己責任で動いておる原則はくずれますから、これは私は避けてもらいたい。適正なる価格をきめるのに必要な条件は公正な競争である。公正な競争によってやることが、これが適正なる価格形成のためにも必要であるし、それから生産能率を発揮するためにも競争が必要だ。能率関係は必ずしも絶対的ではない。共産主義のような国でも、ある種の方法で能率を上げることもできますけれども、適正価格決定ということについては、私は競争が絶対必要条件だと思う。ですから、その競争組織というものをわれわれがとる理由は、一つには、競争の組織のほうが生産性が上がるということ、しかもその上がった生産性が、その上がったところだけにとどまらないで、品質の改善、サービスの改善、その他の価格の下落、こういったような意味一般の利益に帰着するのも競争があるからですが、競争機能を回復しなければ、公取はできましたけれども、無数の単独法ないしいろいろな勧告、行政官の行政指導というようなもので、いつの間にやら骨抜きになって、いま全然行政勧告も受けない、自由に価格形成されておるところのほうがむしろ数が少ないような現状じゃないかと思います。この点は私は、競争機能を回復することによって適正価格を実現することを期すべきであって、行政官が直接関与して適正価格を実現しようと考えることには私は反対なんだが、これについて所見はいかがですか。これは藤山大臣からひとつ……。
  10. 藤山国務大臣(藤山愛一郎)

    藤山国務大臣 山本委員からるるいろいろお話がございました。山本委員は、理論的に自由主義経済の基盤に立ってやるならば、需要供給関係物価は一任したらいいじゃないかというのが終局の御議論だと思います。  私は、自由主義経済というものは、相当現在において変貌している、あるいは自由主義経済という考え方の上に立ちながら、問題が変わりつつある、したがって、過去のいわゆるレッセフェール時代のような、自由主義というものが一般的に経済の原則を全部左右しているのではないのじゃないか。それは、御承知のように、過去のあれから何が変わっているかといえば、私は、大きく言えば、やはり国際競争力というか、一国経済が国際経済に転移しつつある、あるいは今日の状況でいえば、十九世紀時代の一国経済の上に立った時代から離れまして、やはり国際経済というものの中における一国経済ということが一つの大きな変わり方だと思います。それから科学技術の進歩というものが、いろいろな面でやはり非常に大きな影響をしておると思います。それからもう一つは、やはり福祉国家という考え方が自由主義の中にも入ってきている。これが、単純な過去におけるような自由主義経済立場でなくて、経済そのものに対しても一つの大きな変貌を来たしておる。ですから原始的な自由主義経済で、かりに供給が少なくて物が上がれば、食べない人は食べないでいいじゃないか、また下がれば、食べるだけ食べたらいいじゃないか、あるいは供給が過剰で非常に多い生産であれば、それはもう生産者生活を切り詰めてやっていってもいいんじゃないかというようなことでなくて、現在の福祉国家を目ざしている自由主義国家というものは、やはりそういう面について過去よりも私は制約を持っておると思います。ですから、そういう面から来た考え方、しかも、それが日本においても過渡的な段階にありますので、したがって、問題が非常に複雑になってきているのじゃないか、私はこういうふうに思います。ですから、生産が大きくふえてくれば安く消費ができる、原則においてそういう機能が働いている部面があるのは当然でございますし、またそういう状態でございますから、生産はできるだけふやしていこう、あるいは科学技術を取り入れることによって生産をふやしてコストダウンをはかっていこうというような面からいっての調節が行なわれますが、そういう意味での原則的なものはむろん働いておると思いますけれども、しかし、それがやはり福祉国家という考え方の上に立って制約されてくるところに、今日の自由主義経済は前の経済よりは変貌をしている。ですから、物が高くなったら食わないでいろというわけには、福祉国家の思想からいえばいかない。消費を減らせというわけには必ずしもいかぬ。ある生活水準までは、できるだけ国家がめんどうを見ていかなければならない。あるいは、働いている人が団結をしてそれを維持していくということが公に認められ七おりますのは、そういう自由主義経済の中の運営でありましても、なおかつ福祉国家というものを目ざしての一つ動きだと思います。ですから、私の考え方とすれば、そういう意味において、価格構成というものが単純なそういうような需給関係だけでできないところに問題がある。できないが、しかしそれではそういう形で永久にできないかといえば、やはり今日のような過渡的な時代において、あるいは経済の発展段階がいろいろな段階を踏んでおりますから、日本のような国は、そういう面において構造上のいろいろな問題を解決することによって、そういう形において消費者物価の安定をはかっていくことができるのじゃないかということ。そして、それは生産者消費者もともに完全に満足するわけにはいかぬかもしれませんけれども、完全に両者が不満足ということでない、許されるべき範囲内の安定的な地位を目ざして私どもやらなければならぬ、こういうところにあると思います。  それからもう一つは、先生の「今日の物価問題」等を拝見いたしましても、むろん価格の底辺に、先ほどお話のありましたように、二〇%は全体の通貨の価値というようなものが個々物価の基点にある、これはまあ当然あろうと思います。しかし、それが今日の日本経済からいえば、国際経済とのつながりができておりますために、通貨の価値というものが、国際価値と国内的な価値とおのずから乖離しているところがあるように思います。ですから、国際的な通貨の価値が下落していけば、これは明らかにインフレーション的な現象が出てくる。しかし、今日の状況から申せば、卸売り物価が安定しているということ、そうして三百六十円の対米為替率が今日維持されているということは、国際経済の中ではまだ、日本通貨量の増発によって特別な問題を引き起こしているというのでなくて、成長通貨といってはどうかと思いますが、そういう意味での通貨量が、必ずしも妥当でないというところまでは来ておらぬのじゃないか。しかし、今日消費者物価その他の問題が出てまいりまして、いまのようにそれが要因となって非常な勢いでさらに——限界がどこにあるかということは非常にむずかしい問題ですけれども、限界以上の通貨の膨張が起これば、これは当然卸売り物価にも及ぼしてきますし、国際関係におきます日本通貨価値というものにも影響してくると思うので、そうなってはたいへんだと私は思うのです。  私は基本的にそういう考え方を持っておるわけですが、最後のお話の、それじゃ個々物価というか、価格について政府が関与しないほうがいいのじゃないか。これは、むろん自由主義経済を基点にいたしておりますから、われわれも、個々価格について一々これをストップするとか、これをどうするとかいうことを役所がやること自体できるだけ避けてまいりたいと思います。しかし、個々価格を形成しております基底に、そういう価格を形成せざるを得ないようなやむを得ざる構造上の問題がたくさんあるのでありまして、そういう問題を解決していかなければならぬ。今日のような緊急な場合には、そういう構造上の問題をやってまいります過程において若干年月がかかりますから、ある場合には個々物価についてもう少し自粛をしてもらえないか、ある程度押えてみたらどうだろうかということになりますけれども、そのこと自体が、政府のやるべき物価対策だとは私は思いません。やはり根本的には自由な経済活動によって、自由に低コストでもって生産し得るような基盤をつくることが政府自体の仕事であって、その結果において価格が騰貴していかない、あるいは価格が安定していくと言ってもいいと思います。個々物価そのものを政府の権力において押えてみましたとしても、私は山本先生のお話のようなことになると思います。この点は戦時中の物価統制令その他を見てみれば明らかなことでありまして、やはり生産をふやしてそうして価格の安定をはかるとすれば、その生産をどうしてふやしていくかという条件を、政府ができるだけつくっていくということであろうと思います。  ですから、そういう意味において政府が努力しますが、その過程において、今日のような緊急な事態に対しては、ある場合に自粛をしてもらって、波及効果が非常に起こらないように、便法として政府がそういう価格問題に干渉をしていかなければならぬところがあるように思います。それが今日やっておるところで、政府が全部その価格を指示して、そうして一定価格にすると、戦時中の物価統制令と同じように、これは必ずしも物価安定の効果を期待し得ないのではないか、私はこういうふうに考えておるのでございます。  若干私の考え方を率直に申し上げまして、ひとつ御了解をいただきたいと思います。
  11. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 自由主義経済が変貌しておるということは私も認めますが、好ましい方向に変貌しつつあるのか、好ましくない方向に変貌しつつあるのか。たとえばカルテルが、独禁法を犯して例外的なものをたくさんつくってきた、こういうようなことは好ましい方向の変貌と見ておられるのかどうか。それから福祉国家という考えが出ましたけれども、御承知のとおり、ドイツのエアハルト一派の福祉国家という考え方は、とにかく揺籃から墓場まで政府生活のめんどうを見る、病気になっても何しても困ったときには政府が見る、本人に力があるないにかかわらず、全国民を相手に政府が責任を持つという考え方が、実はインフレの大きな要因になる、こういうふうに言っておるわけですが、福祉国家という名において何もかも政府にすがって、みずから備えをするという考え方よりも、政府が責任を負うべきだという考え方が好ましい変貌なのかどうか。物価をいまここで問題にしておるのですが、少なくとも物価については、五年も六年もかかって好ましからざる方向に動いておるという事実を前にして、ただ変貌したのだからどうというようなことで——病気がなおっておるのならいいのですよ。だんだん悪くなっておるのをどうしようかという問題のときに、自由主義が変貌しておるのだからと言われるが、これは自由主義だけじゃいかないというか、むしろ自由主義経済機能障害を起こしておる。その一番大きいのが、いまの適正な競争が行なわれないようになっておるということ、もう一つは、政府通貨物価関係を、無視はしてないらしい、閣議了解の中にはたびたび出てきておりますが、それがいつの間にか消えてしまった。これはいまの不況対策として、もう通貨量をどんどん出す時代だというような認識かもしれませんが、物価との関連において——これは当面緊急事態としてはいいけれども、しかし、来年度の予算の編成などを考えまして、変貌がどの方向にいくのが好ましいかということを考えますと、これまでは、少なくとも予算編成期に全国からの陳情があり、圧力団体もあり、代議士諸君も一緒になって、まあ各省も一緒になって予算のぶんどりをやるのが実相でありますが、そのときに、最後に大蔵省は、出したいけれどもないそでは振れぬということが一つの切り札であったのです。ところが、今日公債政策で借金でやるということになりますと、ないそでは振れぬという一つの切り札がなくなってしまって、現にことしの予算編成には、ないそでは振れぬという声はあまり聞かなかった。そういう場合、今後の政策考えていく場合に、少なくとも物価担当の藤山さんとしては、従来のないそでは振れぬというその切り札にかわるべきものは私はインフレだと思うが、そのインフレは、少しぐらいのインフレはいいなんというようななまぬるいことでは、もう初めから堤防が切れておるようなものです。二%や三%は上がるのはあたりまえだとか、好ましいというような考え方は、藤山さんは持っておられないかもしれぬけれども、しかし、企画庁が出しておる本年の経済見通しというようなものを見ますと、いつも実質成長と名目成長との間に開きのあることを頭から承認しておる。ということは、一般に貨幣価値の低下というか、物価上昇を認めておる。これは消費者物価だけじゃないと思う。そういうふうに物価上昇を認めておいて、しかも、予算を編成するときの単価は何で見るのかといえば、そのときの時価以外にはないと思います。多少の予測は入りましょうけれども、価格動きというのは、これはもう市場関係で何人も予測できない。そうしますと、そのときの時価で組んでおいて、しかも、その間に物価は三%か四%は必ず上がるのだ、こういうことを一方では予想した場合に、一体その予算というものはまじめに実行できるかできないか。これは子供が考えてもわかることで、一方で物価の上昇を前提としながら、一方では時価で組んだ予算をそのままでは実行できないということは、もう説明するまでもないと思います。きついことばで申しますと、どうしてああいうふうな矛盾したものを平気で出すか、私は与党だから質問しませんけれども、野党ならば、そこに食いついたら、これは答弁できないと思うのですよ。少なくとも物価は安定するという努力目標を持って、絶対に安定させるという——それは実際は一般物価が安定するということはむずかしい。下がる場合、デフレになる場合もあるし、インフレ傾向を持つ場合もありますが、しかし、安定を前提にしなければまじめな予算は組めないわけです。それを、組んで平気で出してくるとか、あるいは二、三%は横ばいだというような、従来の歴代の長官の説明がそういうルーズな考え方では、とても今後の公債を出した場合の歯どめにはならぬと私は思う。これは、大臣の意見を聞くとだいぶ議論の余地はあると思いますが、しかし時間もないから、あまり議論にわたることは避けますが、北島さんどうですか、いまの競争の価格形成機能市場経済の真髄だということは、おそらくあなたは同意されると思うのですが……。
  12. 藤山国務大臣(藤山愛一郎)

    藤山国務大臣 私どもは基本的に自由主義経済に立っておりますから、あくまでも公正な、自由な競争が行なわれていかなければならぬ、こういうたてまえはくずしておりません。したがって、御指摘のありましたようなカルテル行為とかそういうものに対しては、やはり厳重な考え方を持っていかなければならぬと思います。これはむしろ、自由主義経済を立てている国は、そういう意味において公正取引というものを非常に強くしてきております。アメリカあたりがカルテル行為に対して非常にやかましいというのも、自由主義経済を堅持していこうというたてまえに立っていけば、私はそうならざるを得ない、公正な取引を奨励していくというたてまえにならざるを得ないと思います。ですから、そういう意味において、カルテル行為その他が乱用されることは望ましいことではないと思います。  ただ、日本の現状から申しまして、戦時統制が解除されたけれども、これが一気にすべてが解決されないで、国際経済関係からも、いろいろな面で統制がある時期残ってきたので、そういうものが完全に払拭されてなかった。払拭されることに努力はしてきましたけれども、それまでいってない。最後には、いわゆる貿易の自由化、為替の自由化ということで、従来の、たとえば貿易の割り当て制とか何とかいうものもだんだん解除されてきましたけれども、そういうことがあった。と同時に、そういう制限の中において、やはり緊急に生産を拡大しなければならぬということで奨励したこともありますから、あるいは非常な過大なる設備投資が任意に行なわれたこともあります。そういうものの調整をどうするかという段階になってまいりますと、これは先ほど山本先生おっしゃったように、自由競争でもってある程度つぶれるものはつぶれてもいいのだというような形に必ずしも考えないで、将来の日本経済拡大のために、せっかくつくった設備だからある程度維持していきたいという場合がありますから、やむを得ない場合に、緊急な不況乗り切りのためのカルテルというものは、ある程度これは認めざるを得ないと思いますけれども、原則として、自由主義経済をやっております場合には、カルテル行為その他は十分に反省していかなければならぬと思います。  それから、公債発行下における予算編成の問題でございますが、公債発行ということになりました以上、財政に対してよほど厳重な考え方を持っていかなければならぬということはお説のとおりでありまして、それが曲げられては相ならぬと私は思います。そうして、今度景気を財政でもって刺激してきたわけですが、これが、ある程度景気が直ってきて民間活動が出てくれば、財政は、当然民間活動に譲ってある程度収縮させていかなければならぬ、また、民間が不景気の状態のときにはそれを刺激する、相互補完の関係で運営されていかなければならぬと思います。そして政府が支出しますものが安易に支出されることは、結局、物価を上げていく、あるいは通貨量の増発ということに結びついていくわけでございます。ですから、税金でもって何らか企業を補てんしていくというようなことも、一面からいえば通貨量そのものの増発につながっていく。ましてや税金でなくて公債でやっていくというような場合には、そういう補てんが通貨の膨張につながっていくということでありまして、税金でもって、ある事業が困難だからそれを補てんしていくということ自体が、はたして物価の安定という問題につながり得るかというと、むしろつながらぬ。先ほどお話のように、たとえばそのものの料金だけは押えられるかもしれませんけれども、それを何らかの形で政府が補給することによって、その補給した通貨の増大というものが通貨量の増大に結びついてまいりますと、全体としての物価水準と申しますか、先ほどお話のような、終局的な物価というものの全体をつり上げていくような、インフレに導くような状況になってくる。ですから、税金の範囲内で還元していく場合にはまだよろしゅうございますけれども、公債の発行によって何らかの形でもって企業を援助していくというようなことになれば、たとえばその料金なりその他のものは上げなくて済むとしても、そのことは全体の物価に影響していく、そして通貨増量という形になっていくんじゃないかというふうに考えております。したがって、財政の今後の運用においては、公債発行に際会して、われわれは厳重な考え方を持ってやっていかなければならぬ。大蔵大臣は相当苦しい立場に立たれても、それはやはりやっていかなければならぬ、こういうふうに考えております。
  13. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 北島君に答えてもらう前にちょっと。藤山さんが国際競争力ということを言われましたけれども、これは、たとえて言うと、国際オリンピックに出場して一等をとろうというようなものです。そして国際オリンピックに出る選手は、国内競技における選手と同じなんですよ。ですから、同じ企業が国内で競争しており、国際的にも競争する。それが、国内のゲームのときに全力をあげて競争に勝ち抜くという猛練習をやったものでなければ、絶対に国際オリンピックに出て優勝できない。ですから、国際オリンピックで成功させるために、国内ではあまり競争させないで、ひとつ温室の中でやっていくといったような考え方は、実はこれは私の希望ですけれども、同じ選手が国内で競争し、国際的にも競争しているのだ、だから国際的に勝たすためには国内でも競争が必要だ、こういうことを私は考えなければならぬと思うのです。  それから、北島さんに答えてもらうときに、時間もありませんから、この点も一緒に答えてもらいたい。カルテルの中に、任意カルテルと強制カルテルとの区別をはっきりして、そして、その機能は違うのだから、これに対する対策を分けなければいかぬということを、私は数年前からたびたび言っておるわけです。これは、大企業がサービスや品質やいろいろな点では競争するが、価格面では競争をしないと言って非難しますけれども、しかしこれは、また理屈を言うようですけれども、ドイツのシュマーレンバッハという経営学者が言い出して、これが通説になって、学者ではだれも疑う者はないのですけれども、固定資本の割合が多い事業というものは、価格競争をもしやったら、すでに投じた固定資本というものは、これはもうすでに投じてしまっておるものですから、さしあたり償却を考える必要はない。だから当面の直接費、コスト計算における直接費、つまり、労賃であるとか、油代であるとか、電気代であるとかいう、動かすために必要とする原料代とか、そういうものは、仕事を休めばそれは要らないのです。しかし、固定資本に投じた費用だけは、もう投じてしまっておるのですから、仕事を休んでしまっておっても要るのですよ。借金の場合は、休んでおっても金利がかかる。たとえば船ですが、船を動かせば、船員の費用とか、油代とかかかりますが、港につないでおけば、そういうものは要りませんけれども、港につないでおいても、船に投じた固定資本というものは、もう同じように腐る。これはもうすでに投じてしまっておるのですから。そこで、固定資本の多い事業が価格で競争した場合に、そういう固定資本を無視して、当面の直接費だけまかなえばいいというところまでその価格が下がってくる。だから、四国行きの船会社二つで競争した場合どういう現象が起こるかというと、食べものも非常に安くした上に景品をつけたりいろいろして、固定資本の償却も全部無視してやれば、つぶれるということはないにしても、もう絶対に回収できないところまで下がってしまうのです。ですから、これはやはり政府がバックして、アウトサイダーに禁止命令を出すとかなんとかしなければならぬ。これは強制カルテルで、政府の権力でバックしておるから、非常な弊害を持ちますけれども、しかし、近代の経済の当然の要求から、価格競争をやった場合には、もうその直接費をカバーさえできれば、そこまで下がってしまう。そして共倒れなんということも起こってくるのですから。任意カルテルというものは、そのかわり必要がなくなればこれはつぶれます。政府がバックしていなければね。原則的に申しますとそういうことになる。だから、どうしても任意カルテルと強制カルテルとの機能の相違をはっきり分けてやってもらわないといけない。それはいま言ったように、固定資本の多い仕事に価格競争をしろというようなことは、これは非常な弊害を持ってくる、弊害のほうだけ見ますとね。だから、任意カルテルに対する対策と強制カルテルに対する対策とは違うから、そこを分けてということをたびたび言っておるのです。この委員会でも言いましたが、長官の耳にまで届いたかどうか知らぬが、そういう点を分けて、私はそういうものの功罪のバランスシートを出してくれと言っておるのだが、この点についての所見をひとつ承りたいと思います。
  14. 北島政府委員(北島武雄)

    北島政府委員 なかなかむずかしい問題ですが、非常に該博な、かつ、うんちくのあるお話をいろいろ承りましたけれども、ただいまお話になった最後のところは別といたしまして、その前の結論でございますが、公正かつ自由な競争が、生産性を向上させ、価格の安定、適正な価格形成をはかるのだから、だから公正かつ自由な競争が必要である。ところが現在、あるいはカルテルとか、それから競争機能の制限が行なわれており、独禁法は骨抜きになっておるので、こういう状態は思わしくないがどうかという最初のお尋ねでございます。この点につきましては全く同感でございまして、そもそも独禁法の精神というものは、公正かつ自由な競争を促進し、それによって事業者の創意を発揮させ、事業活動を盛んにし、究極において一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達をはかるというのが独禁法の目的でございますから、ただいまの最初のお話の点については、私は全く同感でございまして、たとえ苦しくともやはり競争はさせるべきである、自由競争でもって、国内と海外とを問わず自由な競争でやるべきだ、こういう考えをもって進んでおります。したがって、競争機能を制限するような行為については、できるだけ厳格に考えていく必要がある、こういう考えを持っております。  ところが、最後のお話になりますと、いわゆるカルテルにつきまして、任意カルテルと強制カルテルとは多少違いはしないか、任意カルテルのほうは、多少大目に見てやるほうがいいじゃないかというお話のように承ったのですが、私の受け取り方が間違っておったでありましょうか。こういう点につきましては、カルテルはカルテルで競争を制限するということにおいて同じだと思います。したがいまして、お話にありました大企業がとかく価格競争をきらうのを非難するけれども、非難しなくてもいいじゃないかというお話のようにもとれましたが、私は、この点については、大企業でも価格競争は自由にやっていただきたい、こう考えております。寡占状態にありまして、えてして大企業間の協調が行なわれやすくなりますと、いわゆる管理価格が行なわれてまいりまして、暗黙の間に協定というようなものが行なわれて、価格の下ざさえが行なわれる、こういうようなことは、自由競争原理から考えてもおもしろくないのじゃないか、こういうふうに考えておるわけでございます。ただ、原則として、とにかく自由競争原理によってやるべきだ、こういう点については全く独禁法の精神そのものでございますから、その点については全く同感でございます。
  15. 山本(勝)委員(山本勝市)

    山本(勝)委員 自由ということですけれども、自由競争というのは非常に大切なんだが、価格の場合に、安く売りたいのだけれども、これ以上乱売したら困る、共倒れになるからというので、自由意思で値段はお互いに話し合って下げない。しかし、たとえば新聞社なら新聞社がスピードで競争するとか、記事で競争するとか、サービスがよくなる、内容、品質がよくなるということは価格の一部なんです。ほんとう価格というものは、同じものについて品質がよくなれば、いいものは高いのがあたりまえなんです。ところが、よくしているのに価格はもとのままというのは、実は価格が下がっているのと一緒なんです。それで品質と価格の中に、実は品質がよくなったか悪くなったかということは含んでいるのだから、法律論として、いまの独禁法そのものはたいした検討の上でつくったとは思いません。だから、法律にどうあるかという問題を離れて、固定資本が多い仕事は、非常な好況時は別ですけれども、不況のときは、これは必然的に不況の子として任意カルテルができる。ところが、任意カルテルはなかなか守られない。競争は本能みたいなものです。そこで政府に泣きついてくる。どうぞ政府が仲に入って調整してくれと言って泣きついてくるのは何かというと、なかなか政府が関与しなければできないということなんです。ところが、政府が関与しなくてもなおできるような場合は、これはよくよくのことであって、ちょうど停戦協定、軍縮協定みたいなもので、これは背に腹はかえられぬからというのでできるのだから、これまでとめるということになりますと、政府がそういうものは競争が好ましいのだと言っておるのにかかわらず、なおかつ、価格だけはひとつ話し合いであまり下げぬようにしましょう、これは証文を取りかわさぬでも話し合いはできますわね。自由意思でやって、そのかわりサービスで競争しましょうというときに、サービスで競争すれば、事実価格が下がったので、価格競争をやったのと一緒だ、こういう点で考えてもらいたい。価格でやったら、これはいま言うように、必然的に直接費をカバーするところまで下がってしまって、間接費はカバーできなくなるということですよ。  まあしかし、これは時間をとりますし、きょうはだいぶおそうなりましたから、またあらためて私はお伺いします。再販売価格も検討しておるそうですから、これも、実は一年間検討の結果どういう方向にいっておるかということも聞きたいし、なお委員長にお願いしておくのですが、通貨問題とそれから物価との関係というものについてあらためて伺いたいから、そのときに、いま北島委員長の話でも、競争をやることが物価安定になるということを言いましたが、私は、物価安定じゃなしに適正なる価格ということであって、価格というものは、これは上がったり下がったりするし、安過ぎれば上がるのがいいのですから、そういう意味じゃなしに、私は適正な価格、つまり資源の配分の効率を示す指標たる役割りをする価格ができるかどうかということに問題があると思うのですから、これらのことを含めて、またあらためてお伺いしたいと思いますので、きょうはこれだけで……。
  16. 小笠委員長(小笠公韶)

    小笠委員長 本日はこの程度にとどめ、次会は公報をもってお知らせすることとし、散会いたします。    午後零時十七分散会