○
山本(勝)
委員 そうすると逆に、
公共料金によらず、ある
価格が下がった場合、実際にそれに応じて
消費者物価が下がったことはありますか。たとえば
物品税を下げた、あるいは関税を下げたときに、その
商品の
価格またはそれの
総合である全体の
消費者物価、そういうようなものは下がりましたか。一々ここでそういうことを調べた実績を聞くわけじゃないわけですけれども、そこに私は根本的に、つまり、ある物が上がったからみな上がるんだ、逆に、ある物が下がったら下がるんだ、そういうことに
考えておるところに、私は
診断の
誤りが起こってくると思う。もしそういうことならば、
個々の
価格というものは、これは
自由経済をわれわれはとっておって、やはり
統制経済、
計画経済はいかぬということになっておるので、
自由経済の場合には、
生産は自由であり、
消費も自由である。そうすると、
生産も動くし、
消費も動く。それはいろいろな
事情があって動くのですけれども、とにかく動くのです。そうすると、
生産と
消費の
関係で
価格がきまってくるのですから、そのときに、きまるファクターである
二つの要素が動いておれば、その
価格は動くのがあたりまえでしょう。じっと安定しておる場合があったら、これは例外なんです。そうすると、
個々の
価格が動くのはあたりまえだといえば、全体の
消費者物価も、あるいはもっと
総合した
物価も、これはリンクして動く、これが下がればリンクして下がる、これが動くのはあたりまえなら、これも動くのばあたりまえなんだ、これでは
物価の安定というふうなことはあり得ないことになってしまう。そういうことに論理的になるでしょう。そうではなくて、
局部の
変動というものは、他の
局部が反対の方向に動く
可能性は認めるんでしょうけれども、
局部の動く
——購買力を
一定と仮定します。あとで私は
追加購買力を出すことがいかぬという問題に触れていきますが、かりに
購買力が
一定としますと、ある
公共料金が上がりますと、そこへよけい払わなければならぬ。あるいはもうそこへ乗らないでやめるか、どうしてもやめられぬ場合は、そこへよけい払います。そうすると、どこかで
自分の
購買力を減らすほかないですよ。ということは、ほかのものに対する
需要を減らすほかない。だから、ここで上がったらここで下がる。
価格とその
総合したものとの
関係、つまり全体の
平均の
関係、かりに
物価とか
消費者物価というものを
価格のある
意味における
平均だと見ますと、
平均が安定しておるということをもし
前提とすれば、
物価が安定しておるときには、
局部の
変動、つまり、どこかで上がればどこかで下がらなければ、
平均が安定するわけはない。論理的にそうなる。ですから、
局部である
価格をいじくって、それを押えたりあるいはこれを下がらぬように支持したりすれば
物価が安定するのだという
考え方は、根本的に
考え直さなければならぬ問題です。だからある品物の
値段が、
一般にそこで売っておる
値段が、百円のものが二百円に上がったという場合、その二百円に上がった
部分の中に
二つの
部分が含まれておる。
一つは、底が上がって、
一般に
通貨価値が下がって
一般物価が上がったために上がった
部分と、そうでなしに、いま言う一ところ上がれば他は必ず下がらざるを得ない相対的な
価格の
部分と、両方入っている。だから、百円が二百円に上がったときに、
一般の
物価水準が二割上がっておるとしますと、二十円だけは、これはその物が上がったんじゃなくて、全体の
水準が上がっている。その物が特に上がったというのは、
残りの八十円だけなんですね。しかし、二十円の分はどこもここも上がっておるのですけれども、
残りの八十円の分だけは、どこかで上がっておればどこかで下がっておる。つまり、波の高いところがあれば低いところもある。波の山と谷とがあって相互に動いておる。その
個々の
価格——価格というか、
値段の中に、相対的に動く
部分、これが
市場経済において動くところに
価格の
機能がある。つまり、ある物が上がってきた、
豚肉が上がってきたということに
——いま
牛肉が上がっております。御
承知のとおり
耕うん機を使うことになって、馬や牛を使わぬようになりましたものですから、もう牛の数が二百何十万頭が百万頭以上も減っておる。減りますと、
牛肉が上がるのはあたりまえです。そうすると農家のほうでは、これはほかのものを飼うよりは牛を飼うほうが一番引き合うということで、これに対して
資本と労力を持っていく。持っていくというときに、そういう
牛肉が高いからといって押えますと、足らないのか余っておるのかわからなくなってしまう。ということは、
価格の
一つの
機能というか、働き、
資本の
必要度と効率を示す指標という
役割りですね。下がってきたから、こういうものは余っておるのだから、これ以上われわれがよけいつくっても、これはもう引き合わぬからやめよう、上がってもうかるからこのほうへ
資本を集中しようというので、要するに、
自由経済をわれわれがとっておる一番の根本は、全体の
生産資源が
需要に応じて適正に配分されていく、足らぬところへ、足らぬところへ流れていって、余るところから足らぬところへ変わっていくという、これが最もスムーズにいくのです。
計画経済はそれがうまくいかぬというところで、われわれは
自由経済をとっておるわけです。だから、
自由経済の一番肝心なところは、
価格が
需要供給の
関係で敏感に上がったり下がったりする。それは敏感といっても程度はありますけれども、とにかく
需要供給の
均衡点を目ざして、足らぬときは上がるのがいいし、余るときは下がるがいい。したがって、
公共料金でもあるいは
商品の
価格でも、安ければ安いほどいいというのは
消費者だけの
立場であって、高ければ高いほどいいというのは、それをつくっておる
生産者の
立場であって、全体として一番肝心なのは、足らぬときには上がるがいいし、余るときには下がるがいいのであって、それを、下がるほどいいのだという
価格問題の
考え方、どうもそれでいろいろな施策をとるために、もういたずらに混乱させる。せっかく豚を飼っておる者が急に水をかけられる。三十五年でしたか六年でしたか、
豚肉の
緊急輸入をやりましたときには、もうすでに値が下がってしまっておって、
輸入したものはみんなそこらの
ハム会社やソーセージの
会社に頼んで、そこで高い手数料を払って肉と骨とをはずしてもらって、それでそれを紙のこれくらいの箱に入れて、冷凍庫に高い
倉庫料を払って保管してもらう。その保管してもらうものは、結局、出したらいよいよ値下がりになるものですから、
輸入したものをそうやるのみならず、買い上げたものをどんどん
——最近またそういう
現象が起こっておりますが、そういうように
緊急輸入をやったり、あるいは
価格を押えたりということが、いかに
市場を混乱させて、
市場経済の
機能障害を起こしておるかということを私は痛感するわけであります。ですから、
価格については
公共料金といえども
——公共料金は
政府が関与いたしますから、これはそんなに
一般の
競争市場の
価格のように
動きませんけれども、しかし、ある時期がたちまして、実情に照らして
需要供給上、これは高過ぎるなら下げるがいいし、安過ぎるなら上げるべきものであって、やっぱりそれを安ければ安いほどいいというので
ストップ令をかけたりするのは、これはあまりに政治的な考慮から
経済法則を無視している。
経済法則を無視してやったようなことは、その次の年には、もう徐々に上がるやつを一ぺんに上げなければならぬようになって、かえって政治的にも大幅の値上げをやらざるを得ぬということになってくる。だから政治的に言っても、実は一時の安定をねらうために、長い目で見た非常な
不安定要因をつくっておる、こういうふうにぼくは思うのです。答弁を求めませんが、ぼくはそういうふうに思っておるということをひとつ……。
そこで、
政府が努力しなければならぬのは、われわれの
自由経済をとっておる
経済組織の中と、ソ連のような
計画経済をとっておる国とでは、
政府の
役割りが違うことは申し上げるまでもない。
自由経済の中における
政府の
役割りは何か、なすべきこととなすべからざること、それからなし得ることとなし得ざることとを、
政府も政治家もはっきり区別しないと、なし得ざることを約束する。たとえば、各
個々の
価格の安定を約束する。
生産も
消費も動くのに、
二つのファクターできまってくる
価格を安定させますなんと約束するのが、みんなはずれていって、国民をだましたような結果になっておりますが、これはなし得ざることを約束している。だから、できることは何か、できないことは何か、やるべきことは何か、やるべからざることは何かということをはっきりする必要があると思う。
政府がやること、民間にやってもらうことは何か。それを役人は、どうかすると
自分たちが民間だけを見て、
自分らがどうもこれはいかぬと思うと、
自分らの
考えでこうやってやろう、ああやってやろうと
考えますけれども、
自由経済においては、自由を与えるが、同時に責任は本人に負わせる、この大原則でありますから、これを干渉したら、一方でまずい結果が生じたときには、どうしても
政府でしりをぬぐってやらなければならぬということになって、保護
政策の裏は、自己責任の原則の崩壊ということになりますから、あくまでも自由に、
生産も自由、
消費も自由だが、そのかわり責任は
自分だ、だから、もうかったらよけいもうけていい、そのかわり損したら本人が負担しろ、こうでないと、これも話は余談のようになりますけれども、適正なる
価格ということを役人が
考える場合に、いつも利潤が多過ぎる、原価に比べて多過ぎるのは
——これは
北島さんにもよく聞いておいてもらいたい。利潤が多過ぎるのが不適正だといいますが、そうじゃなしに、
需要供給の
均衡点に落ちついておるかどうか、そうして
資本の
必要度と効率の指標たる
役割りをする
価格に落ちついておるかどうか、全体の資源の適正配分が、
価格を指標にしてやったときに、
役割りを果たすかどうかということに適正か不適正かがあるのであって、ある発明をやってもうけた、それはよその人よりも先んじてやったんだからもうかりますが、そのときに、それがもうかっておるから、これは不適正だから押えなければいかぬというような
考えを起こしますと、逆に言いますと、それなら損をしたときには、もうけ過ぎたから不当に
消費者を害しておるというのなら、損して売ったときには、不当に
消費者に利益を与えた、
消費者を害するのじゃなしに利益を与えたという解釈をせざるを得ぬようになってくる。そうではなく、損したときには本人が負うのだから、そのかわりもうけたときには本人にもうけさすということをもしやめたら、もうこれは
統制経済になってしまう。
自由経済はだめになってしまう。
だから、
政府のやるべきことは
物価の安定、それから
消費者物価の安定は、これは家計に影響しますから、ここまでは私も一歩譲歩しますけれども、
個々の
価格は、これは競争によって
需要供給の
関係で動くというところに
市場経済の生命があるのですから、その生命を断つようなことになるから、
価格の干渉というものはもうできる限り避ける。もし必要ありとしたら、大地震でもあって、天変地異があって緊急事態が生じたようなときは、これは別ですけれども、正常の姿においては干渉すべきものでない。そうすれば
政府の仕事はずっと減りますよ。
生産性向上だの何とかかんとかいろいろやっていますけれども、そういうことは、みんなが
価格を指標にして、そうして
自分の採算の上に損をしないように、損をしないようにと一生懸命やっておるのですから、そこへ持っていって、ある
消費者だけの
立場から下げたらいいとか、あるいは
生産者の
立場から上げたらいいのだとかいうので、そこへ何かの形で干渉しますと、その自己責任で動いておる原則はくずれますから、これは私は避けてもらいたい。適正なる
価格をきめるのに必要な
条件は公正な競争である。公正な競争によってやることが、これが適正なる
価格形成のためにも必要であるし、それから
生産能率を発揮するためにも競争が必要だ。能率
関係は必ずしも絶対的ではない。共産主義のような国でも、ある種の方法で能率を上げることもできますけれども、適正
価格の
決定ということについては、私は競争が絶対必要
条件だと思う。ですから、その競争組織というものをわれわれがとる理由は、
一つには、競争の組織のほうが
生産性が上がるということ、しかもその上がった
生産性が、その上がったところだけにとどまらないで、品質の改善、サービスの改善、その他の
価格の下落、こういったような
意味で
一般の利益に帰着するのも競争があるからですが、競争
機能を回復しなければ、公取はできましたけれども、無数の単独法ないしいろいろな勧告、行政官の行政指導というようなもので、いつの間にやら骨抜きになって、いま全然行政勧告も受けない、自由に
価格形成されておるところのほうがむしろ数が少ないような現状じゃないかと思います。この点は私は、競争
機能を回復することによって適正
価格を実現することを期すべきであって、行政官が直接関与して適正
価格を実現しようと
考えることには私は反対なんだが、これについて所見はいかがですか。これは
藤山大臣からひとつ……。