○山本(勝)委員 もう時間もあまりございませんので、ごくかいつまんだ話になりますが、お尋ねします。
私は、先ほど来のお話を承っておって、非常に苦心しておられることはわかるのですけれども、三十五年の九月でしたか、
消費者物価対策について閣議決定をして、その後十数回もいろいろな
対策を発表しておられる。中には、三十九年になって、三十八年一月に決定した事項を強力に推進するとかいうようなことを繰り返しておるわけです。それで、三十五年以来今日まで
物価対策に重点を置いていろいろ
対策を立ててこられた結果を一ぺん反省して、そして、どの点は効果をあげた、しかしどの点は効果があがらなかった、それから、なぜ思うようにあがらなくて今日なおますます
消費者物価の問題が大きな問題になってきておるかということを、
関係の方で反省してみる必要があるのじゃないかと思う。実際にきめたけれども実行しなかったのがいけないという問題もあるだろうし、そうではなくて、全体の計画のどこかにしりが抜けたところがあって、一方ではしきりにやっておるが、一方ではどんどん水が漏れておるというような結果、物価にはね返ってきておるというような点もあるのじゃないか、これが第一点。これまでの五年間に同じことを繰り返して、先ほど来聞いたことは、これまで発表されておることからほとんど一歩も出ていないと言っても過言でないと思うくらいで、どこかに抜けておるところがある。特にそのことを注文を出しておきたいと思う。
それから、ここに公取が見えておられるかどうか知りませんが、この際、
価格カルテル及び再販売
価格維持制度の功罪について——これは必要があって再販売
価格維持制度を認めて指定をしてきた。そして取り消したのもありますけれども、取り消したのは、実際に
価格を無理に引き上げておったから取り消したというよりも、指定したけれども実行してない、あってもなくても同じことだというので取り消されたようであります。だから、それは弊害があるから取り消したというよりは、有名無実だから取り消した。あとに五
品目指定が残っておるわけです。これらの点について、悪い面といい面、このバランスシートをつくって出してほしいと思うのです。それから、新聞なども
価格カルテルを結んでおる。だから、
価格カルテルの中に任意
カルテルと強制
カルテルをはっきり分けて一これは私は機能が違うと思うのです。政府の力で、権力でもってアウトサイダーを禁止するというようなことをやっておる強制
カルテル、そうではなくて、
不況でどうにもならぬ、共倒れを防ぐためにやむを得ないということでやむを得ずあらわれてきたような任意
カルテル、そのかわり何も強制するわけじゃないというようなものとは、これははっきり分ける必要があると思いますが、そうして分けて、これは強制
カルテルになっているものもたくさんありますし、任意
カルテルのものもありますから、その両者についての功罪のバランスシートというものをつくって出してほしい。われわれが聞きたいだけではなしに、国民の前にそれを出していただけば、私は、国民がいたずらにその
カルテルはいかぬとかあるいは
カルテルが必要だというふうなむだな議論はなくなるだろうと思うのです。実はこういう弊害はあるが、しかしこういう効果があってこれは認めておるのだということですね。それでその
価格が下がるのを防いでおると言いますけれども、
不況カルテルによらず、
一般に、私は、任意
カルテルというものは——固定資本の設備の多くかかっているものは日本だけではない。日本は
過当競争が多いから云々と言いますが、日本だけの現象ではなくて、固定資本設備の多い
事業が
競争すれば、まあ固定資本の償却を無視して、直接費用をカバーできればその
範囲内で破滅的
競争をやる。これは、すでに投じた資本というものは、
生産制限をしてみましても、あるいは極端な場合はその仕事をやめてしまっても、投じた資本費というものは高いものですから、そこで、遊んでおるよりはフルに動かしたほうがいいというので、固定資本の償却を無視して
競争するようになるのは必然なんです。だから、そういう近代の固定資本の多い
事業が
競争をすれば破滅的
競争におちいる。それを、
カルテルを結ぶことによってようやく破滅しないで、共倒れにならないようにできるという
一つの機能があるわけであります。それが強制でなくて任意である限りは、その必要がなくなれば自然にくずれます。政府がてこ入れしなければ必ずくずれて、そういう独占は維持できなくなる。こういうことですから、まあ簡単に言いますと、そういう強制
カルテルと任意
カルテルとを分けて両者の功罪というものをわかりよく書いて、そうして国民にも国会にも示してもらえば、むだな議論がはぶけるんじゃないかと思いますので、それを第二点にお願いしたいと思います。
再販売
価格につきましても、先ほどもちょっと触れましたけれども、むしろ、再販売
価格の問題は、十四団体というものを指定からはずして、そうしてその制度の除外例を認めておるというようなところに秩序の混乱の大きな
原因があると思う。先ほど言った、せっかく指定しておきながら有名無実になって取り消さざるを得ないというようなことになるのは、大きな
原因は、そういう十四団体だけは除外だということで、そういうことを認めておるところに私は
原因があると思う。昭和二十八年でしたか、この制度をつくるときに、私は安定
委員会におりまして極力その点を言ったのですけれども、何しろ当時三党の妥協ででき上がったために、まことに不合理な制度だけれども、多くのいろんな団体に対しては除外例を認めた。たとえば、ある政府の機関のところなら、そこらは適用しちゃならないというか、そこらは幾らに売ってもいい。近所で安い値段で売るところをつくったら、それはもう一物一価の法則で、とてもその近所で
価格を維持できるものじゃないですよ。まあ、こういう点がありますから、やはり功と罪との両方を考えられないと、今日ただ物価という一面からだけ、安ければいい安ければいいということでやりますと、今度は破滅的現象が起こってきまして経済全体が非常な混乱におちいるおそれがありますから、お願いをしておきたいと思います。
それから、第三点でございますが、先ほど来、
生産性を
向上さすことによって業者
価格の値上がりを防ぐんだということが
中小企業のほうにも農林
関係にもしきりに出てきました。私はそのこと自体に反対するのではありません。
生産性向上は常に必要ですけれども、この提出資料にもありますように、「
生鮮食料品の
需給と
価格の
動向」というように表題がありますが、要するに、
価格というものは
需給の
関係できまってくるんだ。ですから、
需要量に対する
供給量の
関係で直接にはきまってくるのであって、
生産性とは直接
関係がないということを私ははっきり頭に置いていただきたいのです。よく、運賃が上がったからそれで
価格が上がるとか、あるいは労賃が上がったから必ず
価格が上がるとか、
生産性が上がれば安くなるんだとか、それがおくれれば高くなるとかいうようなことを言います。あるいは、物品税が下がったからそれだけ物価は下がるんだとか。それなら、物品税を上げたら必ず上がるかというと、そうはいかない。要するに、そういういろいろな現象は、
需要量に影響し
供給量に影響するということを通して
価格に影響してくるのであって、直接
価格を決定するものは市場における
需要量と
供給量の量の
関係であります。たとえば市場へ届いた
野菜が
需要量をオーバーするということになったら下がりますよ。しかし、市場に届いた
野菜が、四、五人の百姓がつくったものか、あるいは十人の百姓がつくったものかということは、これは
生産性には大きな
関係はありますけれども、それはそこの
野菜市場の相場には影響がないのです。三人でつくろうが、十人でつくろうが、
需要量以上に品物が多く届けば値は下がる。逆の場合は逆に動くにきまっているのですから、
生産性の
向上ということは非常に大切なことですけれども、
価格を考える場合に、そういう間接的に
需要または
供給を通して
価格に影響するものを、それが直接何か
価格を決定するがごとく考えて
施策を起こしますと、かえって逆効果を持ってくることがしばしばある。もし効果を奏した場合、たとえば、
野菜を下げようと思って
生産性を上げる、と同時に
生産量をふやしたために、急激な値段の
下落が来る。どこもここも百姓が全部
生産性が上がっておれば、少々急激な
下落が来ましても、これは
生産性が上がっておるのですから、たいした打撃は受けません。しかし、なかなか実際問題として、
生産性の上がった百姓でなければ
野菜をつくってはいかぬというふうにはきめられぬのですから、そうすると、従来のままで一生懸命になってつくった農家が市場に出して、そして急激な
下落が来ますと、自然にきまったならあきらめますけれども、政府がいろいろなてこを入れて、そうして急激に下がったということになりますと、これは必ず政府に文句が来ます。だから、逆効果のこともあるし、逆効果じゃなくてほんとうに効果を奏したら、効果を奏し過ぎて急激な
下落を来たすおそれがあります。だから、
生産性がほかの
部門に比べて立ちおくれていた、そこに労賃が上がってきたから上がったんだというふうに簡単にもし考えて、それが正しいとするならば、従来しばしば
生鮮食料品の値下がりというものに業者は苦しんだわけですが、その値下がりしたときは、逆に農ためにその値下がりが来たのだという逆のことが言えそうになってくる。しかし、そんなことはだれも考える者はありません。従来値下がりした理由は、何も農業の
生産性がほかの
部門より早かったから下がったと考えられないごとくに、今日の値上がりも、今度は
生産性がおくれたためにということではないのではなかろうかということを一応頭に置いて検討される必要がある。
それで、むしろ私は、こういう点が物価問題で大きく影響しておりはせぬかと思う。
一つ一つの商品の
価格は、
需要量と
供給量の
関係で、
供給がオーバーすれば下がる、
需要がオーバーして足らなければ上がるということになる。これは議論の余地はないのですから、そこで、この上がっておるというのは、
供給量の比率
関係がむしろ
需要量に比べて少なくなってきたからではないかということは間違いない見当だと思う。そこで、なぜそういう現象が起こったかという場合に、御
承知のとおり、戦後の日本の特異現象で、外国にはないことでありますが、商業手形の割引というものを、銀行がこれを非常に優遇する。そのために五カ月であろうが六カ月であろうが割り引く。元来、商業手形というものは、荷物を送り出してから向こうへ品物が渡るまでに事務的に一定の期間がかかるものですから、その着くまでの間に、マル通ならマル通に渡した証明書をマル通から取って、そしてそれをつけて銀行へ行って割り引いたものです。ところが、今日の商業手形の割引というのは、そうじゃなくて、借金証文のかわりになっている。そこで、売った人が銀行で割り引けるものですから、それで何だか売ったものが金になったような錯覚を持つわけでありますけれども、実は金になったのではなくて借金をしたわけです。手形の振り出し人と同じ連帯の借金を銀行からしていることになるわけですね。そこで、手形がどんどんサイトが長くなってきて、今日におきましては、もうたびたび野党の諸君からも言われますけれども、台風手形、二百十日というふうな手形すら出てくるという
状態で、
中小企業庁の話を聞きますと、このサイトはますます長くなっているということでありますが、その結果として、まじめな商人は、売ったら金になるのなら一生懸命に売ります。しかし、売って百五十日、百八十日先になってはたしてこれがほんとうの金になるかならぬかということは、今日、だれにもわかりません。金にならぬかもしれない。割り引いたのは自分が借金しただけの話で、これは自分が銀行から借金した。そこで、金になるかならぬかわからぬから、そんなあぶない橋を渡るよりも、むしろ商売を縮めても確実なところへ売ろうという、そういう
一つのビヘービアに商人がなっているのです。この商人というものの意識した態度が、実は、せっかく
生産設備をしたけれども、つくっても商人が引き受けない。そんなものを、長い先に金になるかならぬかわからぬようなものを、買うて売ったってしかたがないということで、受けないから、そこで、企業は設備はあるけれどもつくれない。
消費者のほうでもほしいけれども、つくれない。だから、設備は大きくなって、その過程において所得はふえておりますけれども、実際の
生産量というものは以外に少ないのではないか。したがって、
需要のほうは所得が
伸びてふえているにかかわらず、
生産量のほうが少ないために、そこで、
生産量と
消費量、つまり
需要と
供給のバランスが逆になってきて、軒並み物が上がってきておるようになってきておるのではないか。ですから、手形が割引制度によって長期の借金の
一つの道具になっておるというふうなことを直さなければならぬ。それにはいろいろ方法があると思います。また、かなりむずかしい点もありますけれども、私は、銀行の貸し出しのビヘービアというものを変えさして、そうしてまた、外国のように、金を貸すときには借りる人間がはたして返す力があるかどうか、つまり信用、担保力というものを見て単名手形で直接貸出しをするという傾向に変わらなければ、手形さえ持ってくれば、本人はどうあろうとも、相当の有名会社の手形さえ持ってくれば、ワク内ならばどんどん割り引く、それが百五十日先の手形であろうが、二百日であろうが割り引くというような銀行の態度を続けておれば、これはもうますますその点はひどくなってくる。企業間の信用というものは大きくなってくる。商人のほうもますます萎縮してしまう。こういうことですから、長い手形は、たとえば二カ月とか三カ月とか、手続上必要なある
程度の期間以上の手形を銀行は割り引いてはならない。発行してはならないということはかって法律をつくったことがあるようですけれども、発行することもとめるのはいいですけれども、これはむずかしい。それよりは、銀行は割り引いてはならないということをやって、これをそう急激な方法もとれないけれども、そういう態度で臨んでいけば、私は、健全な姿に返ってくるのではないかと思う。この点にメスを入れなければ、この物価問題の根本的な解決というものも、また
不況克服のほんとうの解決も困難ではないかというふうに考えておるのですが、これは
一つの問題をひとつ提起したという
意味で御検討願いたいと思います。