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竹内良知君 私は、
昭和二十五年に
放送法が制定されましてから、その後の経過の中で
放送法をめぐって幾つかの点を考えなければならないという点は否定いたしません。三十九年の九月に出されました臨時
放送関係法制調査会の答申は必ずしも十分なものでないと私は考えますけれ
ども、この限りでなら、まだ一応承認できる点もあるわけですけれ
ども、この答申と、今度の
放送法並びに
電波法の
改正をめぐって、この
法律案の違いを考えてみますと、かなり懸念すべき点があると思います。
放送関係、これは新聞も含めて
マスコミニュケーションという言葉で
日本でも通用するようになってまいりましたけれ
ども、その
マスコミニュケーションに関する研究が、これはアメリカで一番進んでいることはご承知のとおりだと思います。アメリカの
マスコミ研究というものが常に重点をおいてきましたのは、
マスコミニュケーションといわれるものと、民主主義の運命と非常に密接な
関係があるということで、民主主役を擁護していくために
マスコミニュケーションがどういう問題を含んでいるかという、こういう比較での研究が主流になってきたと思います。その限りで
マスコミに対する批判もいろいろ行なわれてきたわけですし、そうした批判が
日本に入ってきて、
マスコミということばが
日本語で定着をしてきたわけですけれ
ども、その場合に
マスコミニュケーションの問題点と、民主主義の運命という問題は必ずしも一般に了解されているとは限らないと思う。
マスコミニュケーションといわれるものが、非常に大きな技術的な
可能性を持っていまして、
人間の生活に大変重要な
意味合いを持っているということは、これは申すまでもありません。そもそもコミニュケーションといわれるものは、
人間の生活にとって本質的なものであるわけですから、これは当然なことと思うわけでありますが、その場合に、やはりどうしても
マスコミニュケーションを、たとえば一億総白痴化という言葉が先ほど出てまいりましたけれ
ども、これはかなり誇張した言葉であって、その後
日本国民が白痴になった事実を私は知りませんけれ
ども、しかしそういう言葉が出るこの一面の背後には、こういう事情があろうかと思います。コミニュケーションの持っている
可能性というのは大変大きいわけで、しかもそれが人々の世論の形成なり、考え方なりというものにかなり大きな影響を与えていくと、そこで、たとえばこれはたしかラザースヘルドという名前のアメリカの学者だったと思いますが、
マスコミュケーションは原子爆弾に匹敵する威力を持っているということを言ったことがあります。これもかなり誇張だとは思いますけれ
ども、コミニュケーションというものは、それだけの大きな
意味を
マスコミニュケーションという形になれば持ってまいります。それだけに、
国民生活とそれから特に民主主義の運命にとって重要な
意味合いを持っているわけですから、この
放送法の
改正というのは、そういう
意味で
言論立法という非常にデリケートな問題を含んでいるだろうと思う。その点から申しますと、この臨時
放送関係法制調益会の答申よりも
言論に対する統制の側面がわりに強く出てきているのではないかと私には考えられます。先ほど来、この第一条の四から、第
三条の六に至るまでの問題点がたくさん出てまいりましたけれ
ども、特に
青少年問題ということになってまいりますと、これは
マスコミの
責任という形でよく理解されがらですけれ
ども、現在の
国民生活の全面的な把握の上でやはりつかまなければならないことであろうと思います。
それから
放送ということが、
教育的機能を持つことはたしかでありますし、これは重要な側面だと思いますけれ
ども、しかし、この場合にはやはり
放送というものは、そういう威力を持っているだけに受け取る受け手の側の自主性というものが保証されていなければならないわけですし、ですから
放送において
教育目的を強調するよりも、むしろ
放送によって、
報道の真実と、あるいは受け手がそれを自分の判断の材料にしていくという側面が強められなければならないのだと思います。その面から申しますと、私は
教育目的を特にうたう必要はないと思いますし、
放送世論調査委員会というものができることは一応けっこうのように見えますけれ
ども、しかし、
日本ではまだいろいろな形での
放送に対する批評の機能というものは確立していないわけであります。一番大事なことは、私は聴視者の間でと申しますか、
国民の間で
放送に対する批判、批評の機能というものが確立していなければ、
放送世論調査委員会というものがかなり一方的な形で
放送内容をチェックすることになるだろうと思います。
それから人命を大事にするとか、いろいろのことをうたうということ、これ自明なことであるわけで、そうしたことは特にうたわれなければならないという点は、先ほどの他の
公述人からもいろいろお話がございましたけれ
ども、とくに生命を大事にするとか、そうした問題という
人間の内面性にかかわってくる問題でありまして、人々がそれをどういうふうに受け取っていくのかということは、その人々のやはり生活経歴というようなものや、いろいろな点で受け取られていくわけで、これに対して、何らかの
意味で統制的であるよりも、批判の機能が強調されてしかるべきだと思います。今日の
マスコミが無
責任であるということもよくいわれますし、そう思える側面がないとは私は思いませんけれ
ども、しかし、自由があれば
責任があるというのは逆であって、自由のないところには
責任がないわけで、これは道徳の問題を考えていくときに当然であろうと思います。したがって
言論立法という
意味を持つ限りは、やはり第一条の四、第
三条の二、特に五、六、それから第
三条の四、それから第
三条の五、特にこの五、それから第
三条の六というのは、私は余分なものであるばかりでなしに、なんらかそこに特殊な考慮が働いていはしないかと考えられます。と申しますのは、
経営委員会が
NHKの
経営委員会における政府の権限が非常に
強化されてきていると、
国民の民主的なこの参加という側面よりも、そっちのほうが
強化されておりますし、それから
民放に対しては
免許制という形が出されてきております。この二つの点を考えてみますと、これは
教育目的の強調と結びついて、何らかの
意味でそこに
言論統制あるいは
言論の操縦という余地が働く、そういう面が強く感じられるわけであります。特にこの
経営委員会のこの問題というのは、さまざまな形でこの
放送法の問題につながってくると思います。たとえば三十二条で受信料の義務化が出されております。これは非常にデリケートな問題で、受信料は要らないんだという説もありますし、むしろ税金みたいにしたほうがいいという説もありますし、デリケートな問題で、その面からいきますと、私は現状が一番穏当ではないかと考えます。その際に、この問題は、
経営委員会が真に民主的でなければ集まった受信料というもの、これが
国民にどういう仕方で還元されていくのかと、つまり
放送の
内容が真に
国民のものになっていくのに、どういう形でなっていくのか、この点は
経営委員会の民主化ということ抜きには、私は受信料の問題というのは考えられないのではないかと思います。特に第九条の二の2には、
NHKの外部出資が問題になっておりますけれ
ども、外部に出資するだけの予算があるのならば、むしろ
放送料の値下げをやるべきではないのかということすらも考えられます。
NHKのさまざまの事業が、
放送の
強化のために必要であるということはわかりますけ
ども、外部出資がなぜ必要であるかということは、私には十分納得ができないわけです。
それから第四十条の監査の問題というものも、
経営委員会の民主性の度合いにかかわってくるわけで、この面から申しますと、
経営委員会が必ずしも、私は今度の法
改正によって、民主化されていくというふうには思えないわけです。むしろ民主化を逆行していく
方向を持つのではないかと思います。したがって、この面から、この
経営委員会の問題と
民放に対する
免許制、この問題、いずれもやはり
言論統制的な性格を非常に強く持ってくると思います、五十一条のこの
免許制の問題は、
電波法の第七条の二の二に連関をしてくる問題だと思いますが、この点から申しますと、
電波法のこの問題では臨時
放送関係法制調査会が答申いたしております中で、独立の電波行政
委員会の必要を強調されておられるわけですけれ
ども、この側面が取り入れられておりませんし、それから
免許をめぐる問題で再
免許のときなんかに業務の遂行の状態というものが調べられるという問題がありますが、これは場合によればそれぞれの
放送企業内における労務政策というものとも結びつき
かねない側面を持っていると思う。そういう面から考えまして、私には
教育機能の、
教育目的の
強化という側面、それから
経営委員会の政府の任免権の強大化という側面、それから
免許制、この三つの点から考えて、やはり
言論立法という側面からいって十分な考慮が払われているとは思えないわけで、やはり
日本の民主主義の運命にかかわる側面を持っているように思われます。
それから
教育放送の問題が出てまいります。
放送の持つ
教育機能が非常に強いということを考えますと、
教育放送が必要であることは確かでありますけれ
ども、この場合に先ほど一人の
公述人の方は、
文部省の干渉なしにどんどんやってほしいということを言われましたけれ
ども、これが
教育番組審議会という形で問題が出てきたときに、これは必ずや、私は何らかの
意味でやはり官僚統制的な側面が直接ではないにしても、たとえば文部官僚につながっていく
人たちの力が
放送内容に入ってくるという問題が出てきやしないか、その点をおそれます。
教育の問題ということになりますと、学校
教育の問題は、やはりあくまで学校が主体でなければならないわけで、
教育は補助的な教材の
放送はそれに対して、やはり補助的な
意味を占めるということは確かであろうと思います。したがって、その場合の
教育番組の
審議会というもののあり方もかなり懸念をされるわけで、それだけでは必ずしも懸念をしないわけでありますけれ
ども、
経営委員会の
強化、それから
教育目的の強調というふうな形で、何と申しますか、やはり
国民生活の深部で働いているさまざまな構造というものが十分に配慮されないままで、いくらか対症療法的に考えようとされている点があるのではないかと思います。現在の
日本の社会の諸条件から申しましたならば、さまざまな否定的な状況が多いわけですけれ
ども、その
責任を、やはり
マスコミの無
責任という形だけで済ますのは、私は大変安易な考え方であろうと思います。そういう面から考えまして、
言論立法の
意味を持つわけですから、そのデリケートさというものを十分に尊重すべきであるし、
マスコミニュケーションが原子力に匹敵する力を持っているということになれば、
言論操縦や、世論の操縦という性格を持つことは、
国民としては望ましくないと思います。そういう
意味でこの
法案の中に幾つかの点で必要な条項があることは私は認めますけれ
ども、原案に反対いたします。