○滝井
委員 いま
辻原さんが非常に重要なところをついておるわけですが、
所得倍増
計画を修正した
中期経済計画で、
国民所得の七%を
振替所得に持ってきたわけです。当時三十九年からこれは実施することになっていたと思いますが、これが出ましたときに、私は衆議院(しゅうぎいん)の
予算委員会で
質問をしておるわけです。それは、三十七年の大内先生のほうから出ている
総合調整に関する
長期の構想とこれとは、片一方が
国民所得の七%
程度を
振替所得に持ってくる、片一方は、たぶん一四%くらいだったと思うのです。そこで、非常に
数字が違うが、これはどうしたんだ、
一体どっちがほんとうなんだ、こういうことになったのですよ、
予算委員会で。
政府は
答弁できなかった。
答弁ができずに、ちょっと待ってください、これは
検討の上その御
答弁をいたします、こういうことになった。その後、厚生事務当局が私のところに何と言って答えを持ってきたかというと、青刷りの紙を持ってきまして、大体これはまあ算定の基礎が幾ぶん違うんで、内容は同じでございます。いま企画室長の
加藤君が言ったと同じことを、
中期経済計画に書いているわけですね。しかし、その前の
総合調整においては、
加藤君の言った思想をきわめて具体的に書いているわけですね。だから、その
中期経済計画の中に
数字が出ていないのですよ。ただ、
国民所得の七%
程度とるということと、重点を厚生年金とか
児童手当とか家族の七割
給付、こういうところに置くということだけ書いて、それを
一体どういう形で年次的にやるということは書いてないのです。そして、四十年の一月一日から四カ年
計画で、
国民健康
保険の家族の七割
給付をするというのが具体的に出ただけで、何も出ていないのです。したがって、前のその三十七年の
総合調整に関する
勧告並びに
答申とあとのものと、非常に
関係があるがごとくないがごとく、はっきりしないままで終わってきているというのが
現実なんです。しかもそういうものも、
厚生省の企画室その他で、古井さんが
大臣のときその他、あるいは灘尾さんのときもいろいろアドバルーンを出しました。しかし、それらのものは省議で決定されたものでもないし、閣議の決定を経たものでもないのですよ。これはわれわれがここで何回か追及したけれ
ども、あなた方はそれを明白にしなかったわけです。そこでいまのように、これらの二つのものというのは、明白にならないままにきているわけです。これはいわば公認をされていない私生子なんです。ところが、いまの
鈴木さんのことばでは、
辻原さんの
質問で、
中期経済計画が今度新しく
経済計画に再
編成をされる場合には、自分のほうも、その
経済計画に見合って同時に
長期の
社会保障計画は必ず立てます、こういう
お話があった。歴代の
大臣はみなそう言うのです。みんなあなたと同じことを言ってきた。私もここで
大臣がかわるたびごとに言った。
そこで、
鈴木さん、あなたはきょうの新聞をお開きになって見たと思う。松野さんのほうの防衛庁は、第三次防衛
計画というものをお立てになっておるわけです。四十二年から四十六年までに二兆七千億円金を使います。これは
国民所得の二%です。いまは四十年度は一・三三ですよ。これを二%まで持っていこうと言って、陸海空三軍の飛行機の数から、戦鑑のトン数を十四万トンを十七万六千トンにするとか、きわめて具体的な
数字をあげてしまっておるわけです。そうして同時に、このことはどういうことを
意味するかというと、このことは国内における防衛生産とも
関係があるわけです。だから、三月二十八日には、松野さんは財界人を集めて何と言ったかというと、これから七千百億円の兵器の生産を国内でやるのですから、財界の皆さんもひとつしっかり態勢を整えてくれ、こういうことを言ったのですよ。そうすると、大砲かバターかということはいままでいつもいわれておるわけです。四十二年から防衛
計画があれほど具体的に、緻密に立つとするならば、
社会保障をいまから
経済計画が出たら立てますという、そんな——これだけ
医療問題が大問題になり、年金問題でも
調整年金をつくるかつくらぬかということがまだもめておるときに、暗中模索の型ではいかぬと思うのですよ。やはりこういういいチャンス、いい
機会を
辻原さんが与えてくれておるのだから、この
機会に、松野防衛庁長官に負けないようにバターの姿を打ち出すのが
厚生大臣の任務なんですよ。
それは、桂太郎が明治三十年に、村田式のあの小銃を口径の小さいものに変えたのです。これは単に小銃を変えるということだけではないのですよ。村田銃から三八式の銃に変えるためには、これは予備役のどの
程度のものを
一体準備するか、その予備役のための銃を用意しなければならぬと同時に、その修理をやる態勢を整えなければならぬ。同時に、その銃のたまをととのえなければならぬわけです。そういう非常に
長期の見通しと決断とを持って、桂太郎は明治三十年に村田式の小銃というものをやめておるわけです。やはり一国の防衛庁があれほどの大きなアドバルーンを上げておるときに、内閣の中では松野さんよりか実力のある
鈴木さんが、ぼやっと手をこまねいて、藤山
経済企画庁長官のほうから出さなければ私のほうでは出せませんなんということでは、とてもこの日本の
医療保障の狂瀾怒涛のごとき難局というものは乗り切ることはできないと思うのですよ。だから、やはりここで、こういう
機会にそれを明らかにする。四十三年度はこういう
方針でいくともうきまっておるのですから、年金は五年に一回変えなければならぬし、
国民年金はやがて変えなければならぬ時期にきている。そうすると
医療、
児童手当——
児童手当はどこかに吹っ飛んでしまったじゃないか。だから、こういう点は明らかにこういうことにする。少なくとも暫定措置をやる場合に、
長期の
方向がなかったら暫定措置なんかきまらないです。こんなものはきまらぬです。だから、その点をここで明らかにしてもらいたいと思うのです。もしそういうことがわからなければ、少し頭を冷やして勉強してきて、ここで明らかにしてもらわなければならぬと思うのです。こんなことは当然ですよ。