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小川参考人 お呼び出しを受けました
小川栄一でございます。ちょっと
経過を申し上げます。
国際観光会館の
設立は、
昭和二十六年三月でございます。
資本金は一億円。当時の
観光立国という
日本の
要請に応じまして、かつて
次官でありし
平山孝氏が
中心となりまして、
国鉄の
委員を兼ねていた
佐藤喜一郎さんなどの
協力を得て、
開銀融資を受け得るということで、立案されたものであります。
開銀融資はわずか一億五千万円でございます。ところが、当時の
八重洲口方面に対する
世間の認識は、きわめて悲観的でございまして、終戦後十
年間と十年後とは非常に大きな違いで、
昭和二十六年ごろにおきましては、御
承知の、
切符売り場もバラックでございましたし、
東京都が外堀を埋め立てまして、そしてその
土地の一部を、
観光立国のために使うならば
無償で
国鉄に寄付するというような
経過があって、この
観光会館の
設立になったものと思いますが、きわめて悲観的で、
株式払い込みに応じたものは、
全国の
交通業者、
観光業者の義理上の
参加にすぎません。過半の
株式引き受け手がなかったために、やむなく
高野建設株式会社という
建設会社が
残りの株を引き受けまして、
工事も同年六月着手をいたしましたが、当社の
資金不足と
高野建設の
経営逼迫によりまして、
昭和二十七年六月地下掘進のみで
工事を中止せざるを得ないやむなきに至ったのでございます。その後わかったことでありますが、当時の
調達資金は
払い込み金合わせて一億四千五百万円ほどであったと思います。
借り入れ金、
資本金も全部加えまして、そういうことになっておりましたが、それに対して、でき上がった
工事量はわずか四千万円でございまして、
残りの一億円は、
創立費用として消費されておったのでございます。さようなわけで、ほとんどこの
建設に
協力する人が皆無であった。やむなく、あの
場所をそのままにしておくことはできないというので、当時の
日銀総裁一
萬田尚登氏及び一億五千万円を出すという
小林開銀総裁等が、各
方面の
資本家の
参加を求めましたが、これもまた実現不可能でございました。よって、ついに、当時は
藤田興業の
社長でありました私に、これを何とか実現するようにという
要請が強くありましたが、私は
五島慶太さんにこれを相談したところが、とても
国鉄の中に入ってそういうことをやるのは、たとえ頼まれても、将来むずかしくなるから、やめたまえ。ところが、
小林一三さんに話をしたところが、これはどうしてもやらなければいかぬよ、おれ
たちは
応援するから、ひとつ君、立案したまえというので、私は
日興証券の
社長遠山元一氏のところに参りまして、
増資をしても二割も
払い込みがないということであるが、あなたと私が主になって
払い込みを完了しようではないかと願いましたところが、よろしい、できるだけ
応援をしましようということで、
東京財界の大方の
方々を歴訪いたしまして、
資本金を三億円にすることができたのでございます。
そういたしまして
高野建設と縁を切り、清水
建設に、あらためてこの
工事を委託したのでございます。幸いに、二十億円をもちまして、私は、こういうきずはあるけれども、
ホテルでないところは
冷暖房装置とも坪二十万円、それから
ホテル部分については三十万円もいたしかたない。総額二十億円、実際で言えば、十九億円で二十億円の
建物を建ててもらいたいということで、
清水組に私の実弟がおりまして、
重役をしておりますが、奔走いたしまして、これを
清水組が
完成することを約束いたしましたが、何ぶんにも、三分の一は初めからそろばんが合わない
ホテルでございますので、これは
権利金をもらうことはできない。
残りの三分の二の
部分につきましては、これを
観光立国に適した
借家人をさがさなければならないということで、当時の
社長平山孝氏とともに、
知事会館に
知事さん全部のお集まり願ったところへ参りまして、何とか、
銀座にある
物産館をごっそりとこの
国際観光会館の中に入れてくれないかということをお願いしたのでありますが、当時はきわめて悲観的であって、
銀座のほうがいいのだ、われわれはそんなむずかしいところへ行って
協力金を出すのはかなわぬというので、四十県の中の十三県のみがこれにお
入りになることを得ました。その他、
金融業者側から十億円以上、つまり
権利金がなかなか入らないのだから、十億円以上
貸し付け金をしなければならない。ついては
小川個人も保証しなければならない。同時に
藤田興業も保証しなければいけない。同時に
借家人名簿というものを早くつくってもらわないと、今日のような
時世と違いまして、はたして、戦後初めてできるような八千坪に対して、
借家人があるかどうかわからない。ぜひともこの
借家人名簿をつくってもらいたい。私は
開銀の
総裁に会いまして、将来よくなるという見込みのもとにここにつくるのであって、
借家人が入ってしまえばむずかしくなるのだ、むしろ
時世を待つほうが、無理な
借家人を入れないほうがいいのだということを主張いたしましたが、
貸し付け係のほうはそうは参りません。やむなく
払い込みをしてくれました。
日興証券はじめ、東急とかあるいは近鉄とかあるいは藤田観光とかいうものを網羅いたしまして、ようやく
貸し付け金に相当するような
借家人をさがすことができましたが、何と申しましても、三分の一
ホテルの
権利金を得られずに、十億以上の金を借りるということのむずかしさの中で、やむなくこの
関係者には当時の
ペナント協会の予想しなかったような高い
協力金、
権利金をもって入れていただかざるを得なかったのであります。当時、
地下室などは、坪二十五万円というような
権利金の
相場はございません。また一階が五十万円というような
相場もございません。そういうようなときに、
関係者であり、
応援をしていただくというたてまえで、これをお願いして、ようやくここに
完成を見ましたのが、二十九年でございます。私は二十八年から引き受けまして、二十九年に
完成を見ました。
その当時の
状態を一例で申し上げますと、
羽田の有名なる
空港ビルといえども、
政府は
一つも金を出さぬ、民間で建てろ。ところが、
社長になられました秋山君が私のところに参って、みごとに
八重洲口に
国際観光会館を建てたのであるから、あなたはサクラになってでも、この
空港ビルの大
株主になってもらいたいということを頼まれたのですが、
配当ができるか。御
承知のように、
空港ビルは全部待合室でございます。当時九つの海外の
飛行機会社だけが
家賃を払うので、十億円の
空港ビルを建てることは不可能でございます。そこで、私は、あまりにも熱心に頼まれたので、
飛行機を見る
建物をお建てになったらどうですか。つまり、
大衆に
飛行機を見てもらって、その
入場料で利息を払うということで、
運輸省及び
日本航空からも、前例のないこととして非難を受けましたが、それ以外に
方法はないということで、建てたような
時世でございました。幸いに、そのような
大衆の力によって、
空港ビルは、今日百億円の
増資をいたしまして、百億円のりっぱな
建物を建てることができました。しかるに、それは幸いに初めから
配当できましたが、この
会社は初めにやったにかかわらず、
配当ができない。二十六年に
契約を結んだ
賃料は、私はっきりしておりませんが、
年間たしか坪当たり三千円であったと思いますが、それを、三十六年までの十
年間に十一倍半に、毎年毎年上げてまいったのであります。その上げてまいった根拠というのは、われわれが
建物を建てると同時に、
構内営業規則というものをつくったのであります。それは、私は
国鉄としても無理からぬことだと思います。当時この
国際観光会館ができ、
鉄道会館が着手されるに及びまして、ようやく
大衆の目は
八重洲口に向いてまいったのであります。そこで、
権利をあさる者も出てまいります。
国鉄としては、
国有財産を預かっておられるたてまえ上、これを保護し、そうして
大衆の便利のために守らなければならぬというたてまえで、私はこの
構内営業規則というものは生まれたものであると思い、同時に、その相手がお役所であるから、あまり無理なことはなさらぬだろうという
考えもあり、また、
社長は
国鉄の
次官をしておった
平山孝氏であるから、おそらく十分に話し合いができるものと思って、
社長平山氏の調印を、私はやむを得なかったものであると存じました。当時の
国鉄の空気は、今日と違いまして、あの困難な中でよく建ててくれたという感謝の念を持って、われわれに対して非常に同情的でありました。そこで、私は再三この
値上げの問題に対して、何とかならぬかということをお願いしましたが、
社外理事である
久留島秀三郎氏を通しまして、私に、一たび有識者を集めてつくった
国鉄の
構内営業規則というものを、なあなあで変えることはできない。これは必ず疑問を生ずる。よって、
法廷において適当なるところの妥協ができるのじゃないだろうか。私のお願いしていることは、
構内営業規則をやめてくれと言っておるのじゃないのです。調印した以上はこれを認めるけれども、
目的は
最初から、その
規則のない時分から、
土地を対象に貸していただいた、そしていわゆる法律で認められたところの六十年の
借地権の上に
建物を建てたという記憶はあるのであります。これは厳然たる事実でありますが、しかし
構内営業規則に判を押してしまった以上は、この
構内営業規則に基づく
地代の査定に対して、この運営に対して、これから先どうぞ
世間一般並みに五年に一度、一割、そういういわゆる
商慣習に従うような
緩和方法をとっていただきたいということに対する、向こうさんの
吾孫子副
総裁の
回答であったのであります。両者は会いまして、
和気あいあいのうちに話をいたしまして、
訴訟を
提起した結果、これは一たび
法廷に立ちますと、組織というものがございます。われわれのような商人にはわからない。つまり戦うために戦うようなかっこうになってくる。しかし私は従来きまったものを払わないというのじゃありませんから、これは全部
供託をいたしまして、今日までその妥当的な解決を願ってきたわけであります。しかるに
新聞紙上においては、
小川栄一は、
家賃を払うべきものを払わずして、
不法に占拠しておるということを流布されたのであります。私は
経済人として、これほど恥ずかしいことはないのであります。
経済人というものは、手形の期日が来た場合には、必ずそれは死をもってでも払わなければいけないのであります。不渡りを出してはいけない。私は今日まで大ぜいの
応援を得て、柄にもない事業に多少でも芽が出ましたのは、お金を借りた場合には、三日前には必ず持って行くよということだからであります。したがって、私はこの争いの中で、
賃料を払わずに争った覚えは
一つもありません。ただ最終的に、私の
目的に反しまして、希望に反しまして、これは
構内営業規則にのっとっておまえらは判を押したのであるから、
構内営業規則を守らなければいけない、もちろん私は守らなければならぬと思っておりますが、しかし私の
弁護士団に抗議を申された。あなたは
借地権を根本的に争うことはやめろ、あくまでも
営業規則を緩和していただくということだけを陳情しろといっても、私
たちにはできないのです。これは
土地使用目的を主にしたものであって、このきめ方に対しては、もし
構内営業規則であったならば、
収入に応じて上げなければいけない。
創立以来無理をして、
収入が、
ホテルを入れて四億円、
家賃の
値上げを一回お願いしまして、五億円になっただけなんです。その間において、三千円が三万何千円になってしまったのでは、これはアンバランスです。そこで、私はいまでも過去のものを一切払おうという
意思は持っております。しかし、今後行なう場合においては、あくまでも、基本は
土地の
使用目的である。この
使用目的には
構内営業規則により
制限を受けておる。
看板を立てる場合には、
収入の半ばは
国鉄に持っていけ、
許可がなければ
看板は立ててはいけない、という
制限がある。ほんとうの
借地権の場合と違って、
制限があるのだから、
地代よりも安くなければならぬ。もしも
地代のほうよりも高かった場合には、
構内営業をしておった場合に、先ほどの
空港ビルと同じように、
大衆に転嫁されるのであります。