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勝澤委員 関連いたしまして……。
私は、さっきから調査官の話を聞いておると、少しごまかしがあると思うのです。用途指定というのは、このごろの
段階になって生まれてきたのです。ですから、国有財産法ができてから
昭和三十九年までは、用途指定はなかった。東洋プライウッドの例が一番よくわかるじゃないですか。東洋プライウッドの例からいって、最近になってようやく、これは問題点としてぎっちりしたものになってきたわけです。これをあなたは見ていただきたいと思うのですが、こういうことはあらかじめ予想されておった。予想されておったけれども、防ぐ
方法がなかった。こういう
結論になっているのです。私が申し上げますと、まず、明治以来お寺のものであった。それを国にとにかく取り上げられた。国に名義上は取り上げられたけれども、寺が使っているのだから問題はない。それが、今度は終戦後になって、お寺のものになった。正式に、なった。ですから、お寺のものだから、おれがかってに処分するのはあたりまえだ、こういうことで、この譲渡に際して何らの条件を付さなかったために、譲渡後間もなく宗教の目的外に使用し、さらにこれを売却する等の事件がたびたび生じていることは、はなはだ遺憾なことであります。
昭和二十五年の九月二十九日に、大蔵省の管財
局長の通達が出ているじゃありませんか。ですから、こういう事実は、
法律をつくって、この
法律に基づいて、お寺が申請をして、譲与をした
段階で、
昭和二十五年までずっと続いてきたということですよ。これは用途指定がしてないし、それから道義的責任を信頼して払い下げておったということなんです。ですから、宗教目的外に使用されておる、あるいは売却されておるという事実行為というのは、二十五年の、まだ仁和寺に払い下げる前には認めておったということになるのですよ。事実行為があったわけですから……。極端な言い方をすると、仁和寺に払い下げる前に、こういう寺社に払い下げた問題で、宗教目的以外に使用したり、売却した例があるかといえば、これはたくさんあるのではないだろうかと思うのです。それが、たまたま仁和寺というのは名勝地で、いま問題になっておる。ですから、国有財産というのは、当時のことを探れば探るほど、無法地帯のような
状態になっておった。それがここに書かれておると思うのです。それを、世間ていをごまかすためにつくったものが、この誓書にしか過ぎないと思うのです。もしこの誓書がほんとうにそれを予想しておって、他の用途に供した場合、譲与の処分を取り消しても異議は申しませんということを
法律的に裏づけてやるとするならば、これは二十三年の四月二十八日に申請をして、払い下げ時点は二十七年の八月十二日、最終的には二十七年十月ですよ。そしてその間の二十五年の九月の
段階で、この
管理がよくないということを、
会計検査院からも御指摘をされておるのですから、それだったら、この払い下げをストップするなり、あるいはまた
法律改正をするなり、あるいは
審議会でもっと
法律的に対抗できる要件で払い下げをするなり、ということをすべきであった。問題は、明治以来の経過があるので、こういったことにせぬと、何かしらぬけれども、誓約書は
法律と対抗できない、対抗できないことを予想してつくられた誓約書なんですよ。私はそう極論ぜざるを得ない。国有財産、あるいはその他の問題がたくさんあるわけです。これは
一つの例です。建設省が来ておられるから、
関係があるかないかわかりませんが、建設省の河川敷の問題でもそうです。一時占用の許可をとって、一年ごとに切りかえております。だけれども、それを取り上げるときには、財産権が生じたとして補償しなければなりません、そういう判決になっておると承知をしながら、一時占用の許可というものをいまもなおかつやっているじゃありませんか。一年ごとに一時占用を許可して、そこにゴルフ場をつくらせる、あるいはボート場をつくらせる。つくらせることによって財産権が生じるということを承知をして、坪三円あるいは五円で占用さしておる。取り上げるときには、それを補償しなければならない。建設省でもそういう例がある。
法律上そういうたてまえになっておるのは、実は悪い意味でいえば、黙認しておる。
法律はそこまで規制できないのだということになるかもしれません。ですから、私はその点を、この場合ははっきりしなければならないと思う。私はちょっとひまがないので、まだ議事録を読んでおりませんが、いまあなたが言っておる誓書の問題の解明をしながら聞いてみますと、まだ許可が出ない
段階における
管理についての通達とは一体何だ。初めから宗教目的外に使用されたり、宗教目的外に売却されたというときに、それを引き上げる救済
法律がないのだということを意識しておる。道義的に、道義的にということしか
考えていなかったのだということを明確にしないと、今度、次の
段階でまたひっかかりがくると思う。ですから、そういう点を
考えてみると、大蔵省も初めからこういうことが予想されるだろう、しかし
法律的には救済の
方法はない。救済の
方法がないというので救済の
方法を講じなかった、あるいはそれが怠慢か、それが故意か、あるいはまたそれが明治以来の問題かどうかという点にあるのだという点の解明をしてもらわないと、いまのあなたの話を聞いておると、われわれもそう思う。この誓書だけ見てみますと、これは譲与の処分を取り消されても異議は申しませんと誓約しておるのですから、この有効期間がどうとかこうとかは別問題として、訴訟を提起してやることができるような気が実はするわけでありますけれども、残念ながら、これを払い下げる事態の中では、これと同じ例が各所に起きていたという事実がここに書かれておる。それを承知し、なおかつ道義的にひとつこういうことはしないようにしてくれよということしか言っていないという経過です。その点、もうちょっと明確にしていただきたい。