○小林武君 私は、
日本社会党を代表し、ただいま
趣旨説明のありました
国民の
祝日に関する
法律一の一部を
改正する
法律案に対し、
総理並びに
関係一大臣に対し、以下九点について質問をいたしま三
まず第一に、紀元節復活を主たる内容とするこの法案は、
昭和三十二年、第二十六
国会に
提出されて以来、今日に至るまで、すでに
提案されること七度に及んでいるのであります。このような
政府、自民党の異常な熱意にもかかわらず、ついに、いまに至るまで
成立を見るに至らなかったのであります。この事実は、言うまでもなく、
国民の総意がそれを許さなかったからであります。
総理は、このような経過をどう把握しているのか、また、何ら反省するものがないのか、この点、明らかにしていただきたいものであります。また、
総理は、「かねてから議員立法で
提案を考えていたが、事柄の性質上、
政府提案として今
国会に出すよう
政府方針をきめた」と述べられているようでありますが、
総理の言う「事柄の性質上」とは、具体的には何を言おうとしているのか明らかでありません。もともと現行の
国民の
祝日に関する
法律は、議員立法で制定されたものでありますから、察するところ、
総理の「事柄の性質上」という意味は、法案全体に関するものではなくて、かかって紀元節復活の強い意思表現と見るのが妥当でありましょう。過去七回の
提案がことごとく議員
提案であったから
成立できなかったとして、議員立法は手ぬるい、国家権力による紀元節強行という、いわば、たび重なる挫折に業を煮やした威嚇とも受け取れるのであります。
国民は、その
総理の言動を不可解としているのであります。所信を明らかにしていただきたいのであります。
第二に、このたびの
法律改正にあたって、建国記念の日に加えるに、九月十五日の敬老の日、十月十日の体育の日を設けることになっています。しかし、その真意はあくまでも、建国の日を設けること、すなわち紀元節復活を主眼とし、他の二つは、それを容易にするためのトリックにすぎないことは、
国民もよく
承知いたしております。とかく
政府に遠慮しがちな言論機関も、このことを端的に指摘いたしているのであります。衆目の見るところと言わなければなりません。
総理にお尋ねいたします。
主権者である
国民に対し、
政府がトリックをもって
祝日を強行しようというような思想は、いかがなものでありましょう。また、
国民の立場からは、その大それた必要性が何を目的としたものであるかなど、不満と不安にかられているのでありますが、
総理の釈明があるならば承りたいのであります。
第三に伺いたいのは、建国記念の日、すなわち紀元節の復活に対して
政府が固執してやまない
理由は、天皇制復活と憲法改悪を目的とする思想的役割りにあると考えられるが、いかがでありましょうか。単なる明治の世代の郷愁などという感傷論で片づけられる性格のものではなくて、その再現の切望は、
日本の支配層の政策的・政治的必要に基因するものでありましょう。紀元節復活を「てこ」として、天皇を中心とした愛国思想をつちかおうというねらいは、対米従属の外交政策の帰結として、政治の全般にわたる軍事化と、その政策の遂行のための思想的統制と、これに必然的に随伴する憲法
改正にあると見るべきでありましょう。このことは、改憲の論議の中に、あるいは
政府の政治的姿勢の中に、また、右翼的団体の言論、行動の中に、その政治的病患が随所にあらわれていることによって明らかであります。紀元節復活
賛成論者の中にある天皇制復活、天皇を自衛隊の中心に仰ぐという驚嘆すべき主張も、その一つであります。ある者は、派閥争いの結果生まれた
総理大臣に、軍隊に対する指揮命令の権利を持つ資格がないとして、「自衛隊の中心に天皇を」という結論を引き出す者があるのであります。
日本民主化の中に死滅した天皇神格化と、統帥の大権との結合という思想が、再生の奇蹟を
国民の前に示したのであります。もともと、
日本国憲法のもとで認められ得ない再軍備を、数にものを言わせて、なしくずしにそれを完了した
日本の保守党は、
日本国憲法のもとで、絶対制天皇制下に掌握されていた統帥権を議会に吸収し得たかに見えたが、平和憲法無視、紀元節復活等に見られる、
政府みずからの政治・教育等の反動化の持続の中に、この驚くべき反動の風潮を育て、今日、公然と主張される事態を招いたのであります。この種の思想、運動に対する
総理の見解と対策、また、このような憂慮すべき風潮のあらわれにも、なおかつ紀元節復活を強行しようとするのか、お答えをいただきたいのであります。
第四点として、こうした統帥権にかかわる問題として、あなたの足元で最も具体的にあらわれたのが、今
国会を騒然とさせた三矢計画だと思います。統幕
議長以下中堅幕僚は、最高責任者である
総理も知ることのできない仕組みの中で、中国、朝鮮を仮想敵国と想定する戦争計画を樹立し、
アジアの平和に暗影を投げかけ、しかも、これらを遂行するための国策要綱なる立案は、言論、経済統制の計画から、国内革命勢力の排除と称する
国民弾圧計画まで樹立し、さらに、戦時諸法案を臨時
国会に緊急上程し、全法案の
成立をはかるなど、議会政治破壊を直接の目的とした計画立案がなされたこの事実は、
わが国に文官優位の原則はもはや存在しないと危惧されるのであります。軍部独走のための錦の御旗、統帥権独立のねらいが、この思い上がった三矢計画の中にむき出しに示されていると思いますが、
総理は、これらの思想的動向、政治的現実に対し、いかなる見解を持っているのか、お尋ねをいたしたいのであります。
第五点として、文部大臣にお尋ねいたしたいのであります。さる一月十一日に、あなたの所管する中央教育審議会は、期待される人間像に関する中間草案を発表いたしました。その中に、当面する
日本人の課題として、「われわれは、
祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと一つであることを深く考えるべきである。」と述べ、つまり人間像の背骨をここに求めているのであります。表現が、現行憲法下のことでもあり、多少の配慮が示されているかに見えるのでありますが、これはまさしく忠君愛国の戦後版であります。忠君と愛国とを一体とする思想は、かつて国定教科書の冒頭を厳然と飾った神勅、すなわち、天孫降臨の神話を背景としたものであり、絶対主義的な天皇制からだけ導き出される思想であります。現人神としての天皇と、天地とともにきわまりない統治権を有する
日本国土との一体不離の
関係は、また、おのずから人民との
関係において画然とした君臣の別を
規定しているのであります。したがって、国を愛することはすなわち天皇に対する忠誠につながるという、忠君と愛国との一致を説いたものであります。
日本国憲法と教育基本法に基づく
日本の教育に、公然と忠君愛国の思想の導入を強調し、それが期待すべき人間像の課題として
要請されているのであります。
祝日法案に明記された、神話伝説としての神武天皇即位の日を建国記念の日として、国を愛する心を養うという発想は、当然の帰結として、教育の目標としての期待される人間像と相呼応して、
わが国の教育を戦前のそれに引き戻し、ひいては
日本国憲法の否定を直接教育目的とすることになると思うが、民主教育推進の立場から、文部大臣の見解を尋ねたいのであります。
第六点として、紀元節復活に象徴される、天皇制復活論を頂点とする復古的思想は、必然的結果として、天皇家の祖神としての伊勢神宮の国教化に傾斜するのであります。一部保守党議員によって提唱されている、伊勢神宮を重要文化財として指定し、国費支弁を導入する意見がありますが、これこそ、なしくずしの伊勢神宮国教化の第一歩でなくて何でありましょうか。さらに、このことは神社神道の復活に当然結びつくものであり、
日本国憲法の根本理念をゆるがすものとして、断じて評すべきものでないと考えるが、
総理の見解をお尋ねいたしたいのであります。また、文部大臣は、重要文化財指定という所論に対してどのような見解を持つか、明らかにしていただきたいのであります。
かつて「袞竜の袖に隠れる」ということばがありました。絶対的な神格としての天皇の威徳に隠れて、国の政治を壟断し、民民の利益を奪い、その自由を束縛し、これを弾圧するという多くの事実は、
日本の
歴史に数々の汚点を記録したのであります。第二次
世界大戦への無謀な突入も、むごたらしい
国民の
犠牲も、また、そこに基因するのであります。天皇制復活につながる紀元節復活等の時代錯誤的議論は、言うなれば「袞竜の袖に隠れる」という天皇制利用の底意につながるものと断定して誤りがありません。天皇が、みずから過去の誤った天皇観を否定されて、人間天皇を宣言された今日、再び神の座につき、高ねおろしに民草をなびかせるなどという、憲法無視のお考えはないものと考えるのであります。しかし、その意思の有無にかかわらず、結果的には、一部の人たちの天皇制利用の魂胆によって、天皇家を、
日本国憲法の改悪、明治憲法体制への遂行という、過熱的政治争点の渦中に巻き込むものと考えるのであります。
総理のこの点の見解を伺いたいのであります。これが第七点であります。
臼井
総理府総務長官は、去る三月二日の
衆議院予算
委員会において、「学校においてはほとんど
歴史を教えていないというところに、義務教育においても非常な欠点がございました。したがいまして、この建国
記念日をつくることによりまして、学校においても当然
歴史を教えざるを得なくなる。
日本書紀に書いてあるがままに教えることは、決して教育上マイナスにならぬ、」と述べているのであります。この
発言は、二月十一日を建国
記念日にすれば、
歴史教育はそれに従ってしなければならぬということであります。これは単なる休日ではなくて、
歴史教育そのものの規制であることを明らかにしているのであります。総務長官の答弁は、
佐藤内閣の教育に対する重大な公式
発言であると考えます。
総理並びに臼井長官に対してお尋ねしたい。二十世紀後半を迎えて、科学は飛躍的
発展を遂げ、いわゆる科学時代、民主主義時代の中に生きる
日本国民の
歴史教育の教材に、なぜ神話を持ち込まなければならないのか。そのために、科学的
歴史教育を規制し、否定しなければならないのか。その教育的根拠、政治的
理由を、
国民の前に明らかにしていただきたいのであります。これが第八点であります。
最後に、文部大臣に
歴史教育に対する方針を承りたいのであります。なお、科学技術庁長官も兼務されておりますので、その立場も含めてお答えを願いたいのであります。文部省はここ数年、
歴史教育は科学的であってはならないという立場をとっているのではないかと思うのでありますが、いかがでありましょう。一例を申しますと、文部省は、
日本史高等学校教科書の検定にあたって、「神代の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて、皇室が
日本を統一して後に、
日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語である」という一節を、文部省は無理やり削除させたという事実があります。このことは、学界の定説を否定し、若者の学問的良心を押えることを、検定という権力の行使によって行なったことになると思うのですが、文部省は、本気に、神武天皇即位を中心とする神話が
歴史的事実であると認めているのですか。それとも、
歴史的事実を曲げても、ある種の思想を教育しようとしてのことなのでありますか。また、中学校社会科教科書検定も同じであります。天皇は神である、万世一系の皇統を臣民に教えよ、神話は
歴史的事実であるといった方向に、方針が急角度に偏向を強めているのであります。
昭和二十一年、教育の指針として、あなたの所管する文部省は次のような反省を行ない、教師にもあやまちを再びおかすことのないよう協力を求めたのです。「国史の教科書に、神が国土や山川草木を生んだとか、大蛇の尾から剣が出たとか、神風が吹いて敵軍を滅ぼしたとかの神話や伝説が、あたかも
歴史的事実であるかのように記されていたのに、生徒はそれを疑うことなく、その真相やその意味をきわめようとしなかった。このように教育された
国民は、竹やりを持って近代兵器に立ち向かおうとしたり、神風による最後の勝利を信じたりしたのである。軍国主義や極端な国家主義は、
日本国民のこうした弱点につけ込んで行なわれたものである。このような教育を受けることによって、
日本国民は、批判的精神に欠け、権威に盲従しやすい
国民となり、したがって合理的精神が乏しく、科学的働きが弱いのである。」、文部大臣、これは文部省の自己批判であります。教育のざんげであります。非科学的な
歴史教育が、
日本の
国民にこのような害毒を流したということを、厳粛な事実の上に立って述べているのであります。その文部省が、学問、研究の自由を圧迫し、非科学的
歴史教育を横行させるための行政を、文部大臣であり科学技術庁長官であるあなたの責任のもとに、命令のもとに行なわれている、この事実をどう思われますか。文部大臣の責任ある答弁を要求いたします。