○岩間正男君 これも早急に調べてほしいですね。まるで切り捨てみたいなものですね。ちゃんと法の
規定があるでしょう。その法の
規定によってこういう条項の適用をしてほしい、こういう点を要請しているわけでしょう。ところが、いろいろ総合したけれどもだめなんだということで、理由はない、こういうことではおかしいと思うんですが、全然お聞きになっていらっしゃらないんですか。これはどうなんです。一体この法を適用して母親に会わせる
——網走から比布までは半日もかからない行程でしょう。私たちも昨年参りましたけれども、そこのところで刑の
執行停止をしても、だれか付き添ってくるわけでしょう。どうなんですか。いままでの慣例があるでしょう。付き添って母親の死に目に会わせる、それだけのことをやって、何か非常に行刑行政というのですかな、この面に非常に不利益というものが考えられますか。何か却下の理由の中に逃亡のおそれがあるとかなんとかいうことがいわれておるというふうにも聞いているんですが、もっとも正式に私は聞いておりませんし、これはこの次の
委員会にできるだけ早い機会にこういうことを
調査してここで答弁をしてほしいんですけれども、逃亡のおそれというのは、これはあなたたちの判断ではそうだろうけれども、これはまあないということをはっきり言えると思うのです。だから、私はそのとき言った。これはギリシャの昔の話にもありますけれども、もう死刑執行をされる。ところが、母親が危篤になった。それで、その執行される男が何とか母親に会いたい。ところが、友人がいて、かわりに自分を獄に入れてくれ、もしも間に合わない、逃亡したという場合には自分を処刑してくれ。それでそれが許可されて、母親に会いに行った。ところが、帰りに自然の嵐か洪水かにあって、刑執行の時間まで間に合わなくなった。そこのところをほんとうに無理をして、そうして刑執行のまぎわになってから、ほんとうに間一髪というときにかけつけた。抱き合った泣いた。それを王様が見て、あまりの友情の美しさというものに感動して、それで死刑の執行を中止して許した、こういう話があるわけです。むろんいまの場合に身がわりになるなんということはできないでしょう。しかし、気持ちからいえば、それほどこれは何十万の人たちが考えているんです。そんな逃亡のおそれがあるというのなら、身がわりになってもいい、そうして母親に会わせる、こういう
人道上の要求を果たして何が悪い。人間尊重というようなことを口に言っていながら、しかも
法律のちゃんと
規定がある。その法の適用を血も涙もある生きたものにして、ほんとうに血の通ったものにするなら、会わしたって何
一つ失うものがない。かえって得るところが多いんじゃないか。
法律そのものは生きているんだ、こういうことになる。ところが、かたく自分の
立場から、もしも逃亡した場合にはどうなんだ、責任はどうなんだ、そういうことが非常に大きな問題になっている。
それからこの前最高検の次席検事に会ったときも、そのときの話では、白鳥
事件のこの問題はほかの問題とやっぱり少し違うというようなことを言うんです。なぜ違うかというと、これはあくまでも無罪を主張している、無罪を主張しているのはどうもたてつくような形だ、そういうような形のものをこういう
一つのものに当てはめていくことはできないんだ、こういうことで非常に
一つの根拠のように話すのです。私は一時間ほどほかの
代表たちと行ってあすこで会ったときに話をしたところが、それをたてにしている。そういうことはあり得るのですか。それでいいんですか。そうじゃないでしょうか。ちゃんと服務しています。ちゃんとりっぱに規則を守って、しかも模範囚だといわれているような、ちゃんと義務を果たしているのです。その人についてのこれは適用
規定なんじゃないですか。当人がこの
事件についてあくまで主張を変えない、あくまで主張を変えないからけしからんというような形で追い込んでいくような形でこの法の適用というものを考えるというのは正しいでしょうか。この点は
刑事局長としてはどういうふうにお考えになりますか。
この二つの問題、逃亡のおそれがある、あるいはまたあくまでも無罪を言い張っておる、こういうような形では非常に望ましくない。こういう圧力が加えられてきた。この問題は私は切り離さなくちゃならない問題だというふうに思うのですがね。あくまでもこれは
人道上の問題として、しかも法の生きた運用の問題としてこの問題は取り上げていいのじゃないかと、こういうふうに思うのですけれどもこれはどういうふうにお考えになりますか、御意見を伺っておきます。