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小林武君 これね、
後期中等教育の問題から出てきたとおっしゃいますけれども、これ
後期中等教育として期待される
人間像があって、それでは今度は
後期中等教育以外の
大学のところへいったらまた
人間像が違ってきて、その前段の段階の初等
教育ではどうだということをそういうふうにおっしゃるのは、これはやはり
人間をあまりにも人形
扱いしたような話だと思うのです。当然これは一貫した
人間像の問題ですよ。これはもう小
学校から死ぬまでの間の
日本人の
人間像をあなたはさしているものでないとおっしゃるなら、これはとんでもない間違いだと私は思うのです。それから時代のこととか、いろいろな配慮をしなければならぬと言いますけれども、いろいろな
条件とか、
資質とか、
能力とかいろいろな点についていろいろな議論が出たということはそれはけっこうです。それらのものができ上がればこれは
一つの型ができるんじゃないですか。私は何ぼ権力を、力をもってしたところで、顔つきの変わっているところや、持って生まれた
能力とかいろいろなものを変更することはできないですよ。整形外科がどれくらい進歩したか、するか知らないけれども、同じからだつきを持った、同じ顔つきをした
人間なんてできるものじゃない、そんなことは。するべきものでもないと思う。あなたの結局内容としているのは何かということ、この期待される
人間像の内容に盛られたこういうものが同一であるかどうか、こういう内容を
日本の
国民が一体どのくらい目標に向かって、どのくらい似通った
人間ができるかということでしょう。ねらいがそうでなかったら、そんなことを発表するわけはないと思うのです。だから、私はこの
人間像ということについてもしも
答申を求めるというのであれば、
人間像とはどういうものかということについてあなたたちが検討しないわけはないと思うのですよ。これは
文部大臣はそのときに思いつきで言ったか知らないけれども、
文部省の皆さんが、優秀な
文部省の皆さんがとにかく集まって、
人間像ということを考えた場合にそんなぐらいのことを想定しないでやったらおかしい。その点は昔の軍隊のほうがずっとすっきりしておった。からだつきでも、とにかく服にからだを合わせろとこう言う。帽子に頭を合わせろとこう言う。もちろんその頭の内容の問題になるというと、こいつはもうこれでいけというようなことをちゃんと一分一毛も違わないようなそういう強要をしたものです。それに大体似通ったようなことを戦前の
教育においてはやられた。
教育勅語と、それと最も望ましいのはいわゆる軍人に賜わりたる勅諭を並用して、そして
日本の
国民を養成しなければいかぬというようなことをわれわれ要求されてきた。この点は徹底している。そういうことと一体どこに遠いがあるのか、今度の期待される
人間像は。どこに違いがあるかということをあなた方が発表する責任がありますよ、これは。それをいまのようななまくら
答弁みたような話では私はこれは理解できない。
鋳型でありませんなんて、これは何かことわり書きを前に言っているけれども、それじゃ何を要求しているのか、型じゃなかったら。型じゃありませんか。
人間の型ですよ。まあこれについてひとつここであなた時間をとってもしょうがありませんから、もう少しわかるように
説明してください。文書をもって
説明してくださってもけっこうです。わかるようにしてもらいたい。
人間像とは何か。少なくとも
納得のいくように、常識を持っている
人間なら大体理解できるような形でひとつはっきりしてもらいたいと思うのです。
もう
一つ、これはあなたの所管ではないと私は思います、
文部省というものは所管がはっきりしているから。たとえば、こういう期待される
人間像という問題と
道徳教育という問題とは切り離して考えることはできないと思う。重要な
一つの要素だと私は思う。その中でたくさんとにかく内容がありますけれども、今度は
人間のこの模範的
人間というのをずいぶん上げている。これは一体どういうことなんですか。伊藤博文がけっこうな
人間だというのは、伊藤博文と同じ
人間になれということですか。伊藤博文がたいへん遊び好きなのはまねしては困るから別なところをまねせいということなのか。そういうことについても
人間の
取り扱いについてどうなのか。私は非常に戦前疑問を持ったのはそれなんです。いわゆる例話の中に取り扱われる
人間というものは生きた
人間じゃないですよ。その
人間の限られた一部分だけをとれと、こういうことなんです。そうでしょう。だれだって完全な
人間ないのですから。二宮尊徳一人持ってきて、生まれたときから死ぬときのことまで考えたら、二宮尊徳だってわれわれがあっというようなことだってやっている、われわれがいまやったら直ちに問題になるようなことだってある。しかし、そのことによって二宮尊徳という
人間の価値は私は変わらないと思う。
人間らしいところにいいところがあると、私は逆にまたそう思っている。しかし、教えるときはそうじゃない。二宮尊徳の一部分、ほんの限られた期間の中のこの業績というもの、だからこれを全部集めてきたら、まるで妙な神さまみたいな
人間というか、ここに
教育としてあらわし出すことのできないような
人間の像ができちゃう。私はそういう疑問を持っておったのだが、一体、
文部省として今度取り上げられた、少なくとも今度出された資料だけでもけっこうですよ、あのたくさんの
人間について期待される
人間を
教育するためにどういうことを一体やろうというのか、ひとつここではっきりしてもらいたい。