○小林武君 どうもあなたのおっしゃることも、本質的
理由はないといったら、
理由がないということと同じですよ。本質的
理由がなくてなじまないのだと、こういういいかげんな話だと私は言いたくなるのですね。なじまないと、あんまり俗っぽ過ぎる。そうでしょう。本質的にぐあいの悪いものがあれば、これはぼくはやっぱり十分究明して改めるものは改めなきゃならぬと思う。本質的にはないんだけれども、なじまないんだと、こういう言い方をするからあなたも
答弁に非常に苦労しているが、納得をさせることができない。結局まあ
文部省や何かと、私どもがこういうことの議論をするというのは、何もいやがらせを言ったり、お互いがあげ足をとったりすることでない。結局、日本のいまの
教員というものにりっぱな人材を持ってこようとする、そして
教員になろうとする人たち、そういう人たちにうんといい教育を与えてやろうという、そういうことを念願している。それがまた日本の将来にも大きな影響を与えるし、青少年のためにもけっこうだということから議論するわけですが、そうなると、あまり、まあ率直に言って筋の通らぬような話はしないほうがよろしいんですよ、ここでは。だから私は申し上げる、くどいようだけれども。本質的な
理由がないとあなたおっしゃるんだけれども、これは正直だ。そうおっしゃらなければならぬだろうと思う。そこで、何とかそういうふうに理屈をつけなければならぬものだから、今度はなじまないと、こう言うでしょう。旧帝大にはなじまないとは何と情けない言い方だと私は思う。
教員を
養成するのは旧帝大のような学識の高い、そこの総長さんはほかの総長より月給をよけいもらっておる特別待遇の人の、いわゆる総合
大学だから、
教員ふぜいとは言わなかったけれども、
教員ふぜいを
養成するのにはなじまないと、こういうふうに悪くとられてもしかたがないのではないかと、こう思うんです。私はそう言いたくなるんですよ。私は逆のことを考えている、ほんとうのことを言うと。私は
東北大学というもので
教員養成することを非常にいいと思った。なぜならば、あそこは
東北大学の
教育学部だということで、ひとり宮城県の人だけではなくて、
北海道の人間も
山形の人間も、あるいは遠く関東の方面からも、あの
学部にはやっぱり入りたいといって入るものが出てきている。私はそれだけまあ、いわゆる広く人材を集めるということで役割りを果たしていると思う。そして、そこを卒業すると、これは宮城県にも若干欠陥があるということはわかりますけれども、宮城県ばかりでなくて、やっぱり
東北大学の
教育学部を出た人をほしいという声は非常にこれは強いんですよ。
需要者が多い。だから宮城県にとどまらないという
現状も若干出てきた。傾向としてそういうこともぼくは数字の上から認めます、ある程度は。そういうふうに、ほしいという人があらわれるというのはどういうことか。校長さんにしてみれば、同じ
教員養成の
学校を出たものを雇うならば
東北大学を出たものをほしいと、こういうことは、そこで
養成されたものが最も適当な、いい
教員だからほしがるんでしょう。だから各県にほしいというものがあらわれた。なじまないんじゃなくてなじんだ。どうしてそういう変な理屈をつけるのか私にはわからないんですがね。たとえば、あなたは他の
学部にいって各教科の勉強をやることが適当でないと言う。これは私はおかしいと思うんですよ。そういうものの言い方をしたら、たとえば理科の教師、理工系の教師というようなものを一体どういう人をほしがっているか。たとえばここの教育
大学で
養成したものに理科系、そういうものの系統のところにはどういう
学校から申し込みがあるかと言ったら、これは
教員養成のほうじゃないですよ。これは一流
学校、名門といわれる
学校から殺到しているが、だれもなりたがらない。何でもあそこの
教授に聞いたら、一人もいないと言った。これはこの間聞いたばかりのほやほやだから、大体私は最近そうだと思う。だれもいかないという、ところがほしがる人間はもうたくさんいる。
北海道の端のほうからきても、ちょっとそれは手に入らない。しかるべき
学校からきて、どうだぼくのところにこないかというのは相当ある。引く手あまただけれどもだれもならぬと、こう言っておった。もし適当でないならば、大体
教員養成を
目的としないところにどうして頼みにくる。私はそういうあれは一体どこから出てくるのかわからぬ、あなたのような議論というのは。みんなむしろりっぱな施設を持った旧帝大のような学識というよりかも、旧帝大というものの持っている、総合
大学としての完備した、いわゆる
研究の上においても、教育の面でも、いい条件のあるところで
養成された者がほしいんだと、こういうことですよ。私は東京の学芸
大学をつくるよりかも、もっと東京の学芸
大学でなくて、あるいは教育
大学とか、あるいは東大とかの中に、自由にいろいろこれを利用できるところの
教育学部があったら、そこで
教員養成を主
目的にやったら一そうよかったのではないかと思うくらい、ある意味では日本の
教員養成の形では、
東北大学というのは一番恵まれた条件の中にある。これをどの場合にも残しておかなければならぬと私は思っておった。ところが、旧帝大ではなじまない、ほかの複合の
大学ぐらいならばけっこうですと、こういうことの理屈が成り立ちますか。どうですか。
大学学術
局長に風当たりむやみに強くするわけじゃないけれども、あなたこれを一体どうですか、冷静にしかも考えてみてそういうことが成り立ちますか。どうです。どこに不便があるんです。