○高野一夫君 最近やや風紀は改善されつつあるというような話だけれ
ども、従来からいろいろ深夜
営業をやったり、あるいは青年男女のデートの
場所に利用されたり、いろいろそういう週刊誌の材料に取り上げられたり、そういうことは
スポーツ自体ではあるのだけれ
ども、この
施設の運営の仕方、やり方、それが軌道から逸脱しておったために、そういう印象を強く与えたのではないか、こういうことも
考えられる。だから、ことにこの間、話を聞くところによると、
利用者側のほうから言えば、国際的なそういうルールもでき上がっている。それは
日本においては新しいから、
スケートとかスキーみたいなように普及していない。しかし、いずれは学校の
体育にも取り入れるようになる。しかし、これは、
ゲームの本質は純粋の
スポーツなんだけれ
ども、不幸にして、その
スポーツをやらせるという
施設がいままでどうもいかがかと思われた。その結果、一般の人に、
ボーリングというものは、どうもほんとうの純粋の
スポーツじゃなくて、単なる
娯楽施設、しかも
風俗営業で取り締まるべき性質のものじゃなかろうかという印象を強く与えたことは、これは私も認める。しかし、もしもこの際、ほんとうに純粋な
スポーツとしていくべきものであるというならば、そういうやり方を変えさせればいい、指導して。あるいは
先ほどお話の入場料をどうするとか、経営をどうするとか、時間をどうするとか、ほんとうの
スポーツ施設として運営されるようなふうに指導すればいい。それを指導もしないで現在のようにほうったらかしておいて、そうして
業者の
自粛ということだけにしておいて、それで
社会通念上、これは
娯楽、完全な
娯楽施設といって、ほっぽっておいてはいけないと思う、行政当局として。だから、これは
文部省の見解も
考えなければならんのだけれ
ども、こういうようなことはほかにもいろいろあっただろうと思うのです。だんだん純化していって、純粋の
スポーツの形態になってきたし
——確かにそれは誤られている。私もきらいだった、
ボーリングなんて。あんな夜明けまでやって、そうしていかがわしいいろいろな風説も立てられる、これじゃ
スポーツどころか全く
娯楽だ。ほんとうに
風俗営業で取り締まるべきものだ、こう思っておった。しかし、いろいろ聞いてみると、
スポーツだ、実はやり方が誤まられていた、やり方を誤ったならば、個々に
業者が改善しなければならぬというのだから、それは
警察庁なり
自治省なり
文部省なりが指導して、純粋の
スポーツとして純化していけばいい。それを受けていけばいい。それを受けていかないで、現在の
状態をほっておいて、そうして完全なる
娯楽施設、
社会通念上
スポーツとは
考えられない、
スポーツ施設とは
考えないということで、ほうりっぱなしすることは、私はこれは政府側としていけない。だから本質的にそういうことならば、それは
スケート・リンクでも何でも同じですよ。だから、やり方いかんにあるわけだから、その
施設そのものが完全に一〇〇%
娯楽施設ではなくして、やり方によってそういう印象を強くする、それがあなたの言ういわゆる
社会通念になっている、こう私は思う。それなら、その
社会通念は誤っておった、誤って与えられた
社会通念であるというならば、純化すべく指導すればいい、これから。私は
ボーリングをやっている青年男女のためにも、あの
施設が適正に利用されるよう指導すべきである。それをほったらかしといて、いままでの少なくともその
実態において、
社会通念上、健全な
娯楽施設、
スポーツとは
考えられないという
考え方には、私は同意できない。ことに、
娯楽と
スポーツの限界というならば、その限界点はいかん。非常にむずかしいでしょう。自分の好きな
スポーツをやる、体を鍛えるために、あるいは
競技のために、あるいは楽しみのために。わきから見たら、
競技のために、
体育のためにやるのだけれ
ども、本人自身にとっては、多分に
娯楽の気持ちがあってやりますよ、
スポーツなんというものは。だから、それを突きとめて、純理論でいけば、
娯楽であるか、
スポーツであるかの限界線なんて、はっきりきめられるものではない。ただ、やり方いかん、
施設いかんである。それなら、今後の問題として、
スポーツ施設であるべきだ、そういうふうに関係者はいうのだから、それなら、関係者をもっとリードしてやって、純粋の
スポーツ施設に純化していく方法を
考えなさい。
警察の、取り締まるほうもそう、
自治省の指導もそう、
文部省もそう。しかし、ほんとうの
スポーツで国際的ルールまであるというのなら、学校の中でも取り入れるといいですよ。いまは、そうでないが、そうなりますよ。なし得る。なせないということはない。今後の問題を
考えて、過去の誤った経営のしかた、それによって、誤った
社会通念が植えつけられた、それを材料にして、
スポーツとは
考えられないという
考え方には、われわれは賛成できない。ただ、それだけ私は申し上げておきます。答弁は要りません。