○稻村(隆)
委員 これは私は、農林省が結末をつけなかったことは、根本的な間違いではなかろうかと思うのです。先ほど申しましたように、決して安い
価格でなかったということ、それから農林大臣が
地主であったときは、農林大臣のような方はそれはずいぶん農村のために尽くしたし、それから農村の
民主化のためにもずいぶん尽くされたと思うのですが、多くの
地主の業績を
調査いたしますと、私が先ほど例をあげて申しましたように、農村の
民主化などにたいした貢献をしておらないのですね。それをまだほかに
報償すべきもの、
補償すべきものがたくさんあるのに、戦災者であるとかそういう人がたくさんあるのに、
地主だけ特別に
民主化に貢献したと称して
報償するということは、これは私は不合理だと思うのです。なるほど、
地主は最初は土地所有は許されなかったけれども、
あとでは一町歩以内は所有することを許されました。それから山林を持たない
地主さんもおるけれども、山林は開放されなかった。ですから、いま
地主さんでそう困っている人は少ないだろうと思う。困っている人もあるけれども……。そこで時代の犠牲者として――むろん、これはすべての人が時代の犠牲者だから当然だ、やむを得ないのだ、こういうことではいけないので、これは何らかの社会保障的な
意味におきまして、他の人々と同じように救済する必要がある、そういうような
方法は講ずべきだと思うけれども、しかし、
地主だけ特別に
報償するというようなことは、どうしても納得がいかない。理論的にも間違っている、実際的にも間違っている、これは強弁にすぎない、こう私は
考えるのであって、それが単に
地主の
報償だけにとどまればいいけれども、ほかに波及するところが非常に大きい。それが日本の経済を破壊するような結果になりはせぬか、こういう観点から、今度
提案されましたこの
地主報償というものは、どうしても私は認めるわけにはいかない。
それから
農地開放の事情でありますが、これは当時の実情でありますけれども、
農地開放は、これは幣原
内閣のときに、マッカーサー命令で行なわれたことは事実です。それから農林大臣は松村派三氏、農政局長は和田博雄氏です。私がたまたまこの事情を詳細に知ることができましたのは、これは一九五六年ですが、インドの帰りに私は南ベトナムに寄ったのです。そのときに日本の
農地改革を実際上推進しておりましたラディジンスキーというのが、ゴ・ジンジェムの農業問題の顧問として
農地改革の仕事に従事しておった。それが日本の
農地改革の推進者であるというので、私は会ったことはないけれども訪問したのです。ところが、彼のいろいろの経歴を聞くことができた。私はこういう話を長くいたしまして申しわけございませんが、ここに私は世界の農業史の
一つの事実があらわれていると思うから申し上げるのでありますが、ラディジンスキーが言うには、自分は帝政時代に一九一七年のロシア革命に遭遇した。そして子供だった自分は、貴族的な大
地主のむすこだった。アメリカに命からがら両親に連れられて亡命した。そうしてその衝撃を受けたので、彼は大学に入って農業政策の研究をした。そうしてアジアの農業問題を研究し、日本の農政問題を研究した。そこで、これはどうしても自分はアジアの農村問題に対して
一つの役割りをしたい。つまりヨーロッパには、御存じのようにフランス革命で封建的な大
地主の土地はみな没収されまして、そして近代化をし、イギリスの大
地主なども、いわゆる純然たる農業資本家になったわけです。農業資本家は、これは資本家とそれから経営者で、
地主とは違うのです。
地主はただ封建的な
一つの存在でありまして、小作料を取るということ、農業生産力の発展には尽くした人もあるけれども、農業経費は一切小作人に持たしておった。これは非常に封建的な存在なんです。これはロシアにおいて残っておった。外国に残っておったのは、ロシアとそれから第一次大戦前のドイツとスペインだけでありまして、そういうふうな封建的な
地主制度の存在というものが、ついにケレンスキーが、農民に土地をやらなかったから、土地を没収して分割した。ボルシェビキがその農民革命を通じて政権をとった。この農民革命は何も社会主義革命ではないので、共産党がかりにやったとしても、これは経済的に見ればブルジョア民主革命だ。西欧ではもう十八世紀にしたブルジョア民主革命、その封建的な余勢がロシアに残っておったから、そこで農民が土地革命の過程からボルシェビキに味方をして、政権を共産党にとられた。だからして、彼の話はこれは歴史的事実です。そこで先手を打って――彼の
考えですが、日本においては、日本のいわゆる農民運動の歴史を見ると、小作制度を、残しておいたならば、これはたいへんなことになる。そこで、先手を打って
農地開放をしたことが――彼の言うところによれば、自分は純然たる自由主義者だ、純然たるリベラリズムの
立場で、資本主義を擁護する自由主義者の
立場から、社会主義者や共産党に先手を打って
農地開放をやったほうが、日本のためにもアメリカのためにも非常にいいのだ、こういう
考えから彼は
農地開放をマッカーサーに進言した。ところが、マッカーサーはこれをいれて、君の言うとおりやってみろというので、それをマッカーサー命令として時の幣原
内閣に
農地開放を指令した。ところが幣原
内閣は、初め非常にちゅうちょいたしまして、最初はこれに
抵抗したけれども、当時の農林大臣は松村謙三氏でありましたけれども、石黒さんに相談したら、しかたがない、やりなさいということで、当時企画院事件で出獄したばかりの和田博雄君を農政局長にしてやれというので、和田博雄君が農政局長になりまして、和田博雄君と一緒になって自分は
農地改革の仕事をやりました。ところが、日本の政治家も非常にものわかりがいいし、官僚も優秀だったので、日本の
農地改革の仕事は非常にうまくいった。ところが、ベトナムにおいては――自由主義者である私は、赤としていわゆるマッカーサー旋風で農商務省を追放されました。そして南ベトナムに来て、ある高官に連れられて
農地開放の仕事に従事した。ところが、
政府と
地主との妨害によってこれはだめです、私の
農地改革は失敗です、いつかはここから去らなければならない、こう彼は言っておりましたが、事実私はそのことを聞きまして、当時の
農地改革によって最も得をしたのは保守党の
諸君だ。
地主もある点救われておる。率直に言いますけれども、ベトナムなどは、
農地改革に失敗した関係上、ついにベトコンというものに徹底的に支配されるに至った、こういう実情になっておるわけであります。そういう
意味におきまして、この
農地改革というものは、いつかは日本の封建的な
地主制度というものは、何らかの機会において、これはマッカーサー命令ではない、上からの変革か下からの変革によって崩壊すべき運命にあった。これは歴史の必然です。資本主義経済の発展によって必然的にそういう方向にいった。だから、かりに上からこようとも、下からこようとも、何らかの機会に必然に
農地開放はなさるべき運命にあったのであって、こういう点に対してもう少し科学的な検討をいたしまして、こういうふうなものを高く正当に評価して、そして間違った農業政策、それによる
農地報償法案というようなものによって歴史の流れを食いとめようとすることは、大きな間違いではないか、こう思うのですがこの点につきまして農林大臣の御意見を聞きたい、こう思うのであります。