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辻原委員 最近テレビの映画に、「姿三四郎」であるとかあるいは「柔」であるとか、いわゆる
柔道、柔術というものに対して伝統的な
一つのイメージというものは、これは長く明治から大正、昭和にかけて
日本の
国民が持ってきた夢である。依然としてそういう夢はわれわれのみならず子供
たちにも消えていないで、やはりテレビ番組としては非常に人気がある。ところが、一たびそれを実際の
柔道に見るときに、その間に——もちろんそれ自体が仕組まれたものでありますから、同一視するわけにはいきません。いきませんが、いわゆる
柔道あるいは
スポーツとしての
柔道というものにはあまりに大きな隔たりがあるのではなかろうか。こういう点にも何かを示唆する点があるのではないか。これは青江さんにお答えをいただきたい、
川村さんにお答えをいただきたいということではなくて、いわゆる
日本の
柔道が
世界柔連の中において指導的役割りを果たすということは、いろいろの役割りがあるであろうと思いますが、第一番になすべきものは、それは技術の指導であろうと思います。嘉納治五郎先生によって始められた
講道館柔道が、今日の
段階において一段の技術的進歩を遂げておるかということについて思いをいたしますと、もちろん優秀な
選手がいらっしゃる、優秀な指導者がいらっしゃることは間違いもない事実でありますけれ
ども、全体として考えてみたときには一考を要する点があるのじゃなかろうかということが、現在
日本柔道が当面しておる
一つの課題でもあろうかと思います。同時に、他面考えていただきたいことは、私が冒頭に申しました青は藍より出て藍より青しであって、これは森羅万象を通ずる
一つの事実である。したがっていつまでも
日本柔道が
日本柔道でなければならぬという理屈もなければ、
世界のある国の
柔道が
日本柔道よりひいでて悪いという卑屈もない。それが国際性であろうと思います。だから、ある
段階においてやはりそういうことがなければならぬ。イギリスにおいて発達をしたイギリスの
スポーツが、現在イギリスのものでない
スポーツもあります。そういうことから考えてみますと、よい伝統というものが広く
世界に形を変えて取り入れられて、そしていつまでもそれが進歩発展の状況の中に生きていくということがより大切であって、
スポーツ自体がその国、その
国民の健康を保持し、またその
国民に
スポーツ精神、スピリットというものを与えていく、それが国際協調をもたらし、
世界平和に寄与するということも、あの
オリンピックの景況を見てさらに痛感をした一人であります。これは私のみならずいずれの人も、
世界各国の若人が一堂に会し、同じ
スポーツのもとに武技を競って全心全霊を打ち込んでやるが、終わったならばその勝敗にこだわらず、たもとを分かち、喜々として次の再会を約束するということがすべての
国民にできたならば、これは
世界に戦争がなくなるのではなかろうか、そういう感懐を受けた者は私一人でなかったと思います。そういう点において
柔道界も
世界的役割りを果たしていただきたいというのが私の念願であり、したがって伝統の武道である。もちろん伝統の武道であることには間違いないが、それぞれの時代に即して新しい
スポーツとして、新しい国際
競技として生まれかわる必要がある。よい伝統を残しつつ生まれかわる必要がある。そういうことを私は強調したいのであります。そういった意味で、いま青江さんがお述べになりました点については、私は共通する点があろうと思います。しかし現実の問題としてわれわれが承っておるところによると、欧州社会人によって
理解された
柔道とわれわれ
日本人が伝統の中から
理解している
柔道との間にはギャップのあることも事実でありましょう。確かに話し合いによってなかなか解決のつかない問題もあると思います。具体的に私は申し上げませんけれ
どもあると思いますが、しかし、そこにはやはり本家としての雅量も必要である。同時にまた新しいものを受け入れるという度量も必要であろうと思いまするし、また技術の上において相手方を心服させるという力も必要であろう。そういうことについて、これは当事者であられる
川村さんなり、また直接文筆をもって大いにその面についての裨益をなすっておられる青江さん
たちの今後の御
努力を私は切に望みたいと思うのであります。
時間もございませんから逐一それについての御
意見を承ろうとも思いませんが、私も
意見を申し上げ、最後に特に
復活という問題については、きょうは政府に直接要請をしたかったのですが、文部大臣あるいは担当の河野大臣もどうしてもという御都合で来られないようでありますから、政府を代表して——松木さんはお見えですか。——実はきょう各界の
方々からの御
意見も徴し、
復活のめど、こういうものを私
どもとしてはっけたかったし、皆さんの御
努力にお礼も申し上げたかったしという意味もありましたが、同時に
オリンピックはそれぞれ都市の問題でありますから、直接政府の関与すべき問題ではないにしても、
スポーツを所管する政府はやはりそれなりの
努力が必要だ。こう思って文部大臣も
スポーツ担当大臣も積極的に出てくるだろうと期待していたのですが、このていたらく。これではわれわれの考えが半分も達せられないわけでありますが、ここに
毛利さんがおられて
ローザンヌにおける
会議のあと、各国大使を通じていろんな要請をなされた陰の力と申しますか、そういうものもかなりあずかって力がある。同時に政府は表座敷から堂々と国内世論も起こすし、また
世界各国にも要請するという行動がなければならぬ。
オリンピックが開かれたならば、政府代表閣僚として、ただのんべんだらりとすわっていてもらうだけでは困る。そういうことを実現をしていく
努力を政府は政府なりにする。文部省の
スポーツ誤長がみえているようでありますが、これははなはだ失礼な言い分だが、一事務課長をもってなせる問題ではないのです。われわれは政治的にこれをどうするかということを政府の所管大臣から承るつもりであったので、大臣が出られないならば私は質問をやめます。